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(終了済)阿含宗と桐山氏について―第三十四章― そろそろネタ切れだね!?−

   ※このPは記事600〜699です。

[600]ユビキタス 08/03/09 11:51 *lPm7zuA9Viz*E-AelMq
>>595
法次が法に近づく、法向が法を追求する、と教えているね。
昨年の12月に発売された「仏陀の真実の教えを説く・上」は、昭和50年代に
例祭法話で阿含経講義があった。八法十六法の一切事経もまたそうだ。
私も当時その法話を一般参拝で聴聞した。
この阿含経講義は後にダルマチャクラに編集される。
その中から一部を著書に引用したのが「社会科学としての阿含仏教」さ。
今回の新著もまたそのダルマチャクラからそのまま引用しただけで、桐山さんは
何も書き下ろしてない。
平河出版が編集をしただけです。
法次法向について「最近」どう「具体的」な解釈を示したかなんてこちらには
興味もない。大体想像がつきそうなものだが。
法次がサンプクドー、法向がサンジューシチドーホンのジョーブツホーなんてとこかな?
違ってるかもしれないが。
言えることは、あの新著に書いてあることは昭和50年代の法話そのまんまで
新しくはない。
子孫さんの情報は新著には書いてないことでなければ新しくないということさ。

話変わるが、この新著で、ダルマチャクラにもどの旧著にもない改変がなされて
いる経典がある。
仙尼経です。あの異陰という名の霊魂と桐山さんが力説していた経典です。
ところが今回、異陰という単語を引っ込めた。
与陰として、訳は「陰とともに」とした。
異をなくしたわけです。
「社会科学としての阿含仏教」では上段の漢文が与陰なのに
下の和文書き下し文では愚かにも異陰などとしていた。
しかし今回はそこを改めて漢文原典に忠実に訳した。
桐山解釈は霊魂のままだったが、語句の捏造だけは改良されたことになる。
しかしそれを単純に喜んでなどいてはならない。
桐山さんはこれまで他の著書でさんざん異陰、異陰と異なる陰である異陰こそが
一番大切なのだと力説してきた。
これを訂正するからにはそれなりの弁明が必要です。
読み違いで、異陰と読んだが、本当は與陰であり与陰であり、「〜とともに」と
訳さねばならない。異という語句はない。だから異陰を訂正すると。
新著でいかにも昔から与陰と説いているかのようにごまかしてはダメです。
情報通の子孫さん。このへんの桐山さんの弁明解説は最近の法話などでありましたか?
[601]ユビキタス 08/03/09 13:08 *lPm7zuA9Viz*E-AelMq
>>595
「弟子」「信者」「会員」の3分類の法話を知りませんでしたか?
これはあなたのいう因縁切りに関わりがあるのですよ。
会員や信者では因縁が切れないのです。
子孫さんは修行して因縁が切れたと自覚したと言う。
ではその修行とは何なのか?
修行とは勤行+梵行でなければならないのです。
会員はともかく信者とは、勤行や例祭参拝などを欠かさない。
しかしそれだけではダメなんです。
やはり昭和50年代の古い法話ですが、桐山さんは千座行の勤行だけで因縁が
3割まで切れると話していた。
つまり勤行と例祭参拝だけでは因縁は7割切れない。
そこで梵行をしなければならない。
これは千座行時代の話で仏舎利尊解脱宝生行になると毎日の勤行が簡素化される分
梵行が主体となる。
身体奉仕の場にまみえなければならない。
梵行をするのが弟子なんです。
だから弟子でなければ因縁は切れない。
3分類を聞いたら子孫さんは我こそは弟子であると手を上げて、その証拠として
これだけ梵行に励んだ、勤行や例祭を欠かさないのは当たり前の上でその梵行を
示す必要がある。
しかしそれが見えない。会員のそれしか見えない。
会員や信者でも因縁が切れたなんて言うと、これは桐山さんを否定したことになる。
しかし私は因縁なんてわかりもしない話でなく、子孫さんの主張もある意味
支援しましょう。
これは子孫さん以外の信者に向けてのメッセージです。
弟子でなくても信者でなくても会員どころか非会員であっても子孫さん並みに
現在ラクができる生活ができます。
それは修行の成果などではなく、修行などに関係ない生活努力です。
修行してないとわかる子孫さんの証言でそう悟るべきです。
彼の現在の安定は普通人の生活努力で得たものです。
皆さんも普通人の現世利益を望むのなら普通人の生活努力をしましょう。
弟子をやめ信者をやめ会員もやめ非会員で普通人の現世利益たる
インネンゲダツを目指しなさい。
子孫さんはその為に存在する会員の見本です。
[602]ユビキタス 08/03/09 13:47 *lPm7zuA9Viz*E-AelMq
>>596
イスラエルがパレスチナを攻撃したという批判をイスラエルが認めるとか認めない
の話ではない。
国際的な評価のある中で、桐山さんがイスラエルの暴力も含めた施策を支持する
と表明したのです。
理由がどうあれイスラエルがパレスチナ人に対して殺人をしたことは否定できない。
イスラムに対する報復だとするならば、その報復の暴力の殺人を認めて支持する
とまで表明したのが桐山さんです。
[603]ユビキタス 08/03/09 14:50 *lPm7zuA9Viz*E-AelMq
>>597
釈尊が自分の信念を曲げてまでモーゼと握手する必要などないのです。
貫くべき信念は貫くべきです。
モーゼと握手をしても無益な殺生には関わらない。
無益な殺生とは人が生きていく為に肉食もすることではなく神に祈るために
動物を贄として殺すことです。
これは仏教では悪業に相当する。
悪業を犯してまで卑屈な妥協の握手なんかする必要がない。
それをしたのは桐山さんくらいです。
では、あちらのユダヤ教は仏教に敬意を払って何をしたのか?
土下座したのは桐山さんだけです。
釈尊はバラモン教のご機嫌を窺って妥協などしたことがない。
握手をしないのです。
実は当時のインドで内容的には痛烈なバラモン教批判をしているのですよ。
カースト制を批判した。たとえその人がシュードラという奴隷であってもその人の
行いが清らかならばその人をバラモンと呼ぼうとしている。
これはバラモン教にとってはとんでもない話です。
どうしてシュードラがバラモンになるのだ?
バラモン教の教義などにヨイショすることなく、挑戦状を叩きつけた。
バラモン教の火祭りを否定した。
バラモン教の火祭りを否定して、どうしてユダヤ教の火祭りを肯定する?
こんな握手は釈尊の堕落です。
桐山さんが堕落させた。桐山さん一人が堕落したのであり、釈尊は何の関係もない。
[604]ユビキタス 08/03/09 16:44 *lPm7zuA9Viz*E-AelMq
>>596
イスラエルが武力放棄したらイスラム原理教に滅ぼされると言うのなら、
事態はそれだけ複雑なんだからコメントを差し控えればよい。
ニューヨークでテロがあり、その後アメリカがアルカイダに報復攻撃をした時、
桐山さんは国内のアゴン宗道場の中の例祭法話で、「暴力は暴力により制覇する
しかないのか?」と疑問視を述べた。
暴力、武力によらない解決をこそ提唱したはずだ。
もちろんアメリカに抗議などはしない。
安全な自分の家の中でポーズを作っただけです。
武力による武力弾圧を否定するのが本来の彼の一応の宗教信念であったはずだ。
しかし今回あっさりと武力による平和を提唱するイスラエルに共感と支持を表明した。
たとえ武力対抗の武力であろうとも。
ややこしい話で信念に背く話ならば共感や支持など与えない方がよい。
そこまでヨイショは必要ないのだ。
ヨイショしたのは焚き火を許可してもらいたいからです。
だから信念もプライドもなく芸者のごとく安易な迎合をしてご機嫌をとった。
それで焚き火をしてどうなると言うのだ?
イスラム原理教もイスラエルも武力弾圧やテロをやめると言うのか?
御伽噺みたいに幼稚ですよね。
[605]ユビキタス 08/03/09 16:59 *lPm7zuA9Viz*E-AelMq
>>598
ユダヤ教に自分流の解釈をしてよい欄があることとアゴン宗と何の関係があるのか?
アゴン宗はユダヤ教ではない。
誰がアゴン宗は自分流に解釈してよいなどと認めた?
我見を排せ、我のはからいを捨てよと説くのがアゴン宗なのです。
アゴン宗もユダヤ教並みに自分流の解釈の自由と発言、行動の自由が保証されたら
いいなというあなたの空しい希望に過ぎない。
そういう要望があれば道場に足を運んで管長にそう嘆願しなさい。
ましてや今回のイスラエル護摩と何の関係もない。
イスラエルと交渉して許可を得て着々と実現に向けて進めているのはあなたではなく
桐山さんと教団幹部なのです。
またイスラエルが許可を与えたのもあちらの思惑であり、ここで子孫さんがユダヤ教の解釈の自由
を勝手に想像しても何の意味もないのです。
あなたが書いていることは、全ての現実は自分の空想の理屈の通りであったら
よいのだがというものに過ぎない。
外側の現実をありのままに観察しているのではなく、それを無視して自分の
殻の中に閉じこめて、自分だけ納得する空しい営みです。
[606]如来の子孫 08/03/09 17:22 oNmU9AvgUe
ダメ元会員くん、もうチョイで正解。
法次とは、解脱宝生行勤行。
法向とは、三十七道品。
というように、今は具体的に示してるのです。
あなたは、100点満点のうち、50点です。

ね、時代は変わってるでしょ?あなたはもう、遅れてるのね。
私はサボりながらでも、あなたの前にいる。
[607]如来の子孫 08/03/09 17:28 oNmU9AvgUe
そうか、会員と信者と弟子に、別れてんのか!
おいらは知らんかったよ。
知っていたら今頃は、悪因縁を5つとも切れていたかも知れない。
だが、私は、ほとんど、会員と信者だけで、3つの因縁を切ったか、
薄れさせた自覚が、明確にあるよ。
私は例外なのか?
ならば、普通の信徒さんは、おいらの言うことは例外的に聞いと
くれね。
[608]ユビキタス 08/03/09 17:34 *lPm7zuA9Viz*E-AelMq
>>606
あっそ。進歩と言うよりアゴン宗流のままごと解釈ね。
阿含経の一切事経には法次とは勤行なりなんて書いてもないからね。
だから興味ないって書いたの。

勤行なら私もしていたよ。

>>607
つまり梵行はしない、したことがないと素直に認めたわけだ。
[609]如来の子孫 08/03/09 17:38 oNmU9AvgUe
やっぱ、ダメ元信者くんとは、見解が違いすぎる。
あんたは時代認識がないし、本質をとらえてない。

エホバに捧げる動物は、無益な殺生と違うよ?
大切な、人の食用なのよ。
それと、今の時代は平和を優先しないと、ダメな時代だよ。
牛を食べるキリスト教徒、食べないヒンズー教徒。
信念曲げずにいるのはいいけど、相手の信念も認めないと争いが
起きるだろう。お互いに相手の信念を認めることが重要なのね、今の
時代は。ダメ元くんは、イスラム原理主義にちかいね。
釈迦もモーゼも握手しないといけない時代でしょうよ。
[610]如来の子孫 08/03/09 17:42 oNmU9AvgUe
ダメ元さん(今度はさんづけ)、また自己流解釈してる。
わたしは、ほとんど、会員・信者、と書いたのよ。
100パーセントではないの。
だから、少しだけはボンギョーもしたのです。
ほんの少し。
[611]ユビキタス 08/03/09 19:39 *lPm7zuA9Viz*E-AelMq
>>609
お下がりを人間様がいただくというわけね。
あるいは最初から食肉用に狩った中から供儀用のそれを分けておくとか。
ところが釈尊は殺生もさることながら神に何かを捧げて祈るということ自体を
否定している。
モーゼと釈尊が対面対話して、モーゼさんがこの供儀に招待しても、釈尊は自分の
信念を曲げてまで神に祈ったりしません。
そこまでする必要がどこにある?
依存を捨てよというのが釈尊の教えです。
だから神々を認めても神への依存信仰を否定する。
そんな仏教を布教するが為に中東に遙々やって来たとする。
地元でモーゼさんは釈尊にヤギの肉でもてなした。
釈尊はこれを受けた。
しかしモーゼさんに「どうです?今晩我々の神にヤギを捧げて祈る儀式がある。そのヤギは明日の食肉用
なんだが、あなたも参加して祈らないか?」と誘った。
釈尊はヤギ肉の供養は受けても神へのヤギ供儀には参加を断るでしょう。
こいつら中東人に取り入る為に妥協してこれまで頑なに神に祈ることを否定した
のを覆す騙し演技などはしないということです。
はっきりと拒否する。
だから教えに説得力があるのですよ。
ひょっとするとモーゼさんも感心して感化されるかもしれない。
いや、そんな期待をする必要もない。
妥協なんかすることはない。釈尊は言葉で教えを説く。
その言葉がいつでも受け入れられるなんて甘い話ではない。
受け入れられる為に信念、教義を曲げてまで相手に取り繕ってご機嫌を窺う必要はない。
桐山さんみたいに嘆きの壁に頭をつけてユダヤの神に誓う儀式まで真似することはない。
その後どうやって教義を説くのか?
「実はさあ、最初神に祈ったじゃん。僕もさあ。でもアレ君たちへのお近づきの
印の演技で本当は僕の真意じゃないんだよ。騙してごめんね。はは・・。
でさあ、やっぱ神に祈るのはやめようじゃん」なんて誰が言えるのか?
桐山さんがかつて比叡山の宗教サミットを腐してましたね。
宗教の垣根を超えて平和を考える会合と称して。
最後に会場主催者の比叡山が提案した。どうです?これから根本中堂で皆で世界平和を祈りませんか?と。
キリスト教とイスラム教が断った。根本中堂の薬師如来の前で祈るなんて教義に反すると。
桐山さんはこれを比叡山に対してざまあみろと腐していたが、宗教交流といえど
安易に自分の教義に反することはしないのですよ。
[612]ユビキタス 08/03/09 19:55 *lPm7zuA9Viz*E-AelMq
>>610の比叡山世界宗教サミットの話の続きだが、桐山さんはキリスト教とイスラム教が
比叡山根本中堂の本堂内で祈ることを拒否した理由として、薬師如来という
偶像を祀ってあるからとしていた。
我々は偶像神には祈れませんということで。
そこで桐山さんはアゴン宗の道場内で吠えた。
アゴン宗ならば違っていたはずだ!我々は真正仏舎利を祀っている。
実在したシャカのホネだ!偶像崇拝とは言わせない!
だからアゴン宗があの場にいてアゴン宗の道場ならば、ちょっと待てと言えたはずだとか。
アゴン宗の真正仏舎利が仮に本物の釈尊の遺骨だったとしても、しかしそういう
ものではないでしょう。
やはり彼らは真正仏舎利に祈ることを拒否しますよ。
[613]ユビキタス 08/03/09 20:03 *lPm7zuA9Viz*E-AelMq
>>610
20年以上の長い会員歴でほんの少ししかボンギョーをしなかったという供述だけで
十分ですよ。
あとは信者ですらなく会員でしかなかった時期もあると認める供述も含めて。
5つの因縁のうちの3つが切れたなんて戯言はどうでもよい。
これらの供述情報を各自が考えて判断してくれればよい。
[614]ユビキタス 08/03/09 23:27 *lPm7zuA9Viz*E-AelMq
面白いのでコピペ。
桐山新解釈など興味がないとは言え、俺もこの矛盾に気がつかなかった。

591:神も仏も名無しさん :2008/03/09(日) 23:00:15 ID:VujraDBM
>[606]如来の子孫 08/03/09 17:22 oNmU9AvgUe
>ダメ元会員くん、もうチョイで正解。
>法次とは、解脱宝生行勤行。
>法向とは、三十七道品。

これはおもしろい。
いずれ一切事経の桐山さんのインチキ解説の批判をするつもりでいたが、
さらなるお笑いネタが増えた。
信者さんたちは桐山さんのこの解説を聞いて、おかしいと思わないか。
子孫さんは気が付かないらしい。
一切事経は、桐山さんによれば、在家成仏を説いた経典です。
ところで、桐山さんによれば、七科三十七道品とは在家では
できない高度な修行法で出家用だという。
では、どうして在家用の十六法に出家用の修行法が説かれているのだ?

592:神も仏も名無しさん :2008/03/09(日) 23:02:58 ID:VujraDBM
>[606]如来の子孫 08/03/09 17:22 oNmU9AvgUe
>法向とは、三十七道品。

在家用に説かれたはずの修行法に、なんで出家用が入るのだ?
当然、ここでは法次、法向とは在家用の三福道なはずだ。
桐山さんが説いて来たこととすら矛盾する。
さあ、どうしてこんな矛盾したことを桐山ゲイカが
「新しい解説」として付け加えたのか、考えてみてください。
と言っても、無駄な努力です。
桐山さんに深い意図などない。
その場しのぎにアゴン宗が阿含経と合致しているかのように
信者に錯覚させたつもりで珍説を付け加えた。
桐山さんは今回の珍説を「なんてヲレ様は賢いんだ」と
また自分の仏陀の智慧に自惚れているでしょう。
頭が老化しているから、経典全体と矛盾することにすら気が付かないのです。
[615]孫 青柿 (あおがき) 08/03/10 00:50 anUZQ2Kjvz
>>601 なるほど。ボンギョーも解脱供養も全然しないニョライの子孫さんが"因縁"が切れたのは重要なことですね!
"因縁"に苦しんでいない干柿さん、よさん、○○屋さん 皆 最近はアゴンの活動をサボっているからでしょうし。
自分はボンギョー大嫌いだが、地区で爺いと婆あがケンカふっかけてくるから仕方なくボンギョーを(退会寸前までなんだかんだ)やってたから、
ありもしない"因縁"に苦しみ努力の方向が間違いオカシナ方向に進んでいたんでしょうね。
私も最近 "因縁"が薄れてきました。
[616]孫 青柿 (あおがき) 08/03/10 01:28 anUZQ2Kjvz
>>579 >いつまでも、一から十まで管長の言うことを聞くだけでは、修行は
進まないと思うね。その中から自分に有効なものを選んでいくこと
だよ。それが択法覚でないの?

如来の子孫さん、択法覚じゃないですね。
http://blog.goo.ne.jp/n-ishii/e/6f8d116b3c86be5b1a8044e8f6ed25de

2)択法(ちゃくほう)覚支dhammavicaya-sambojjhanga

中略

☆スマナサーラ長老の『ついに悟りを開く・七覚支瞑想法』での記述と比べて見よう。サティが充分に出来るようになると、
いきなり「なるほど、こういうことなのか」と見えてくるものがある。たとえば聞こうとする意識、音、音に伴う感情、
それらが分離してはっきりと認識できるようになる。それが択法の意味だ。

たとえば「痛み」と観察をして、頭で分析するのではなく、「気づき」だけをしていると、
自動的に瞬間的に「分析的に」に純粋な痛みと心による付加との違いが見えてくるのだという。

いわゆる「行住坐臥」の四つをきちんとサティしていくと、やがて「身体という物質の働き」と「心という精神的な働き」の波は、
しっかりと区別して認識できるようになる。心と身体の働きが別々にきれいに見えてくる。つまりナーマ・ルーパの区別である。

私も経験ありますね。自動車学校に行きました。東京だと不要だけどここらは自動車ないと不便ですからね。
自動車学校で叱られて落ち込んだときのことです。下にそのときの心の状態を書いてみます。

@ 運転がダメだとあの教官怒ったけど、もっとちゃんと教えろよな、むかつく〜
A 自動車の運転さえ出来ない私はあらゆる面で落ちこぼれだ。
B なんだか生きるってつらいよ〜
C いや・・言語で拡大するな!今何を感じてるのか?観察、観察、観察・・(@でむかついたことを味わう、むかつくむかつくむかつく)

D なんだ。生きるのがつらいんじゃなくて教官にむかついていたのね〜
むかつきつくしたからスッキリしたね。

人間は言語で思考して感情をさらに高めて苦しむが、最初に感じた第1念は拡大
された後と比較したら小さいと言えましょう。

ある宗派のヴィパサナーは第1念をすぐ味わうようにします。

またある宗派のヴィパサナーは第1念から第2念に発展しないように第1念に"ラベリング"と呼ぶ最低限の言葉で第1念を表します。
上記の例だと「むかついてる」とラベリングします。そしてラベリングと共に第1念を味わいます。
[617]孫 青柿 (あおがき) 08/03/10 01:33 anUZQ2Kjvz
これが釈迦の成仏法なのです。

ヴィパサナーを座って呼吸と共に下記を観察するのをアーナパーナサティといいます。
安那般那念経に説かれた釈迦の呼吸観察法です

ヴィパサナーは感情だけじゃなく身体の観察もします。まず呼吸と共に身体の観察から始めるのです。
例えばかゆいとき人はすぐかゆみを掻いてしまうが、かゆみを味わってみる。
そして、かゆみといえども味わうと今まで知らなかったことを感じ取ったりします。

身体に起きる感覚を受け身で味わう。やがては全ての身体感覚は生起して消滅することを発見。

そうこうするうちに身体がリラックスし、楽な気分を味わう

感情を受け身で味わう。やがては全ての感情は生起して消滅することを発見。

そして欲求は、味わいつくすことで消えていく(本ではそう書いてるが、本当か?それ)

上記を続けることで、欲求は消えそして輪廻から解脱する。
[618]壱条 08/03/10 02:52 MEtbvv0pqy
成るほど2の矢を受けないということだね。
以前の青柿さんとは比較にならないくらい
飛躍進歩している。
[619]ユビキタス 08/03/10 08:54 *lPm7zuA9Viz*E-AelMq
>>616
そうですね。子孫さんが択法覚支の意味を取り違えるのは全部桐山さんが原因です。
桐山さんは七覚支の択法覚支を「数ある宗教の中から阿含宗を選び取る」ことと
解釈を示しています。
これでは入門入信入行以前の話ではないか?
出家の修行法だと桐山さんが限定した七科三十七道品の七覚支にどうして今更
入門以前の選択の話が出て来るのだ?
これは青柿さんが書いているように、身体や心や事象の観察をしているうちに
気づきでその分別が正しくできてしまう作用を説いているのです。
七覚支は念覚支から始まって択法→精進→喜→軽安→定→捨と進むシステマティックな
観察の法なのです。
そもそも桐山解釈では念覚支から間違っている。
桐山さんはこれを「念力を強くしてバランスを保つ」なんてしている。
ところが仏教でいう念には念力なんて意味はない。
念とは「思い」ということで、気づき(サティ)という意味が的確です。
心を観察して気づきを得る。
また念には記憶の意味もあるから、教えを留めて忘れないという意味もある。
いずれにせよ本来の択法覚支など七覚支の意味の方が瞑想観察(瞑想とは座って
やるだけでなく、日常座臥全てが対象です)のシステムとして機能的ではないか。
対して桐山解釈はこれは修行法ではなく前提の徳目に過ぎないのではないか?
と「輪廻する葦」を読んだ当初そう思った。
事実桐山さんも七科三十七道品が修行法などと言いながら、四念処が瞑想で
四神足が特殊な練行でそれ以外は教えだなんてことを書いた著書もある。
しかし七覚支などはきちんとした修道のシステムなのです。
学者により示された七覚支の科目から漢字の字面だけで我流の解釈をしただけで
経典を読んできちんと修行していないとばれてしまったのです。
[620]孫 青柿 (あおがき) 08/03/10 10:18 anUZQ2Kjvz
>>618 壱条さん いえいえ>>242のとおりの批判用の知識です。私には釈迦の成仏法は向いてないから滅多に修しません。
対してユビキタスさんは>>244でスマタが好きだと、念覚支により気づいているから本物の優婆塞です。

>>619 ユビキタスさんすみません。  何故?すみません、 かというと、
ここ数日、ニョライの子孫さんを完全にやっつけるのではなく、そう、例えると猫がネズミを噛んでトドメをさすのではなく、
前足でちょんと叩いて楽しむような、手加減をしてそれでも対処しきれなくなった子孫さんがじゃんじゃん変なことを書き込むのを楽しんでいるとお見受けしました。

しかしながら>>606「今は具体的に示してるのです」>>584「あんたは阿含経の基本も知らない。」などと書かれると、
たまにはガツンとやらないとな、と思ったのです。
[621]如来の子孫 08/03/10 10:42 oNmU9AvgUe
アホ神もダメ仏も間抜け名無しくんのコピペは、程度低いからいら
ない、とレスしてたでしょう。
案の上、馬鹿のひとつ覚えみたいに、ものごとを考えて、進歩が
ない。落ちこぼれるわけだ。

法次→勤行、はいいかな。桐山如来が在家用に編成したのだからね。
法向→37道品、とはね、高度な修行法なので、在家がいきなり
        取り組むのは無理なわけよ。

だが、阿含信徒は、般若心経瞑想法、パール瞑想法とか、他、かなり
高度の瞑想法を実践している。そろそろ、37道品の修行を打ち出し
てもよいな、と管長が考えて、37道品修行を命じたわけですよ。
そんなこともわからんとは、ホントにアホやなあ。
私も修行の成果で、ようやくアホな者にアホと言えるようになった。
それまでは気が弱くて、アホな者にも遠慮して、アホと言えんかった。
[622]如来の子孫 08/03/10 10:55 oNmU9AvgUe
念覚を、管長は念を強くする修行と教えた。念を強くとは、ものごと
を明確にイメージ出来る力でもある。思考などについても明確に気づ
くようになる、のは当たり前だ。

択法覚の解説は、いくつかあるようだ。
管長は正しい教法を選ぶ修行だ、と教えた。
私は、管長の教えの他に、自分に合う修行法を選ぶこと、と解釈し
ている。だから梵行も選んでいる、選り好みはいかん、を承知の
上だ。悪い思考、悪い感情を出さないように、思考・感情を選ぶ
という解釈も承知の上だよ。
そんなことは、心癖を直せ、煩悩を断て、という教えと重複する
からね。
[623]如来の子孫 08/03/10 11:04 oNmU9AvgUe
今や、宇宙船地球号といわれる時代だよ、ダメ元くん。
アラブとイスラエルの争いは、世界各地に影響するよ、勿論、日本
にも。この際、とりあえず、まずテロ合戦を止めろ!というのが先決
でしょう。動物を食べるとか、神に捧げるのはイカン、とか、
そういう違いで握手しないのは遺憾だよ。

そんなの、私にはチャチな違いにしか思えないね。
[624]孫 青柿 (あおがき) 08/03/10 11:32 anUZQ2Kjvz
>>622 子孫さんは釈迦の成仏法について全く分ってないね。
>悪い思考、悪い感情を出さないように、思考・感情を選ぶという解釈も承知の上だよ。
そういうことじゃないんだよ。
悪い思考が出ないように監視して良い思考だけ出るようにするわけじゃないの。
悪い思考が出たらそれに気づいて認めるのです。その悪い思考を見つめて拡大しないようにそのままの悪い思考を味わうのです。
反対に良い思考なら?これも気づいていないとダメなのです。良い思考なら気づきを入れずじゃんじゃん良い考えをすればというものではない。
とにかく思考の善悪に関わらず最初に起きた第一念と拡大された第二念とを区別するのです。
例えば>>616に引用した「痛い」と感じたとするでしょう?これが第一念なの。
これに気づきを入れるのです。「痛い」と。
そしたら痛いだけでしょう?そこに第二念の「不自由だ」「ツイてない」とか仮に起きても第一念の「痛い」とは別物だと気づくでしょう?

いいかい?「悪い思考、悪い感情を出さないように、思考・感情を選ぶ」 のじゃないよ。選んでたら道徳修養じゃないか。

ユビ氏の619に「瞑想とは座ってやるだけでなく、日常座臥全てが対象です」とあるじゃないか。
日常座臥全てに気づきを入れるから成仏法の錬行(あえてアゴン宗の表現を使用)なの。分る?

[625]孫 青柿 (あおがき) 08/03/10 12:36 anUZQ2Kjvz
>>621 >法次→勤行、はいいかな。桐山如来が在家用に編成したのだからね。

>>595
ぎゃはは 桐山如来が在家用に編成することを予言して釈迦如来が説いたんですか?
[626]ユビキタス 08/03/10 13:25 *lPm7zuA9Viz*E-AelMq
法次=解脱宝生行勤行に対する反論も用意してるよ。
また晩にね。
[627]如来の子孫 08/03/10 18:40 oNmU9AvgUe
ダメ元信者くんは、法向を三十七道品か?と推測して50点を
取った。だがすぐにアホ神仏名無しくんの愚説に惑わされて
しまう。その信念のなさで、修行に挫折したわけだね。
アホ神仏名無しくんは、法次、法向は、0点だからね。

出家経に、在家の信徒が、「法と律と梵行」の修行をしてアナゴン果
を得た、という釈迦のお話があったはずだ。
それ読んだら在家にも37道品を修行する者がいたことがわかろう。
アホ神仏くんは、そんなこともわからんで、偉そうに論じてる。
そんなことも知らんで、ホントに元信者かい。

[628]ユビキタス 08/03/10 19:53 *lPm7zuA9Viz*E-AelMq
>>627
いや、私が法次がサンプクドーで法向がシチカサンジューシチドーホンと書いた
のは私の解釈ではないのです。
私が想像するに桐山さんはこんなことを言い出すんではないかと示したのです。
私の法次法向解釈はまた全然違います。
それは後で示します。
それからその法次法向に私も一部三十七道品を入れてよいと思う。
なぜならあなたの言うように、もとい、あなたの言うのとは別の理由で煩悩を除去する
修道に本来出家も在家も区別はないほど、その原理は共通なんです。
ただし生活環境により出家ほど厳しい修道はできないものも多いです。
四六時中自己観察ばかりというわけにもいかない。生業に支障も出よう。
しかし自己観察というもの自体は在家の生業ある人でも全くやれない話ではなく
創意工夫で時間を捻出したり、常に思い出して実行もできる。

だからそういうものはやれる範囲でやる。
しかし四正断なんてのは出家しなければできないなんて話ではない。
「今起きている悪を起こらないようにする」なんてことは在家でも今この瞬間から
実行できます。後は継続は力なりですね。
そういう意味で私は法次と法向を分けることなく三十七道品を含んでよいと考える。
法次と法向を分けない理由も後で書きます。
ではどうして名無しさんが法向=三十七道品の成仏法と桐山さんが説いたのは
矛盾だと指摘したのかと言うと、これは仏教の矛盾ではなく
桐山さん個人の矛盾だからです。
桐山さんは七科三十七道品の成仏法は現代人の我々ですらダイレクトにこれを学び
修行するのは難しいとしたプロの修行法と解説してしまったのですから。
だからそれば本当かどうかというのは別の論として、桐山自己矛盾を笑ったのです。
それは面白いから私もこちらに転載した。
まだ他にも名無しさんはあなたの書き込みを利用してレスを書いてますよ。
それを貼らないのは、スレ主さんに迷惑だからだけではなく、名無しさんも私も
決してあなたにレスして伝えるのが目的ではないからです。
まあ興味あったら自分で覗きに行ってごらんなさい。
[629]ユビキタス 08/03/10 21:13 *lPm7zuA9Viz*E-AelMq
>>621
パール瞑想法に般若心経瞑想法?何それ?
七科三十七道品の前段階的修行メニュー?三十七道品の初歩?
あのね、それでは釈尊の説いた阿含経の解説になってないのですよ。
お釈迦様は2500年前のインドで在家の為の八法、十六法を説いた。
その中に法向というのがある。
さあ、その法向とは具体的にどんな在家の道だったのだろうという考察がある。
それを示してから、さてわがアゴン宗でも釈尊の説いた在家の法向を実践しよう。
しかし時代も違うのだし、わが教団の法向はこういう技法を使おうと思う。
当時のインドのお釈迦様はパール瞑想だの般若心経瞑想なんて教えてもなかった。
これは私の独創なんだから。
しかし私はお釈迦様が示した法向がこれこれこういうものであるわけだから
現代のパール瞑想や般若心経瞑想は現代の法向と言えるのである。
と順序立てねばなりません。
いきなりパール瞑想だの般若心経瞑想なんて出てきたら、それってお釈迦様が
阿含経の一切事経で説いたの?ってな話になる。
桐山法向以前に釈尊法向を経典から示さねばならないのです。
全てはそれからでありましょう。
だからパール瞑想だの般若心経瞑想だのってはあなたの勝手な想像に過ぎないが、
それでは答えになってないのです。
[630]ユビキタス 08/03/10 21:41 *lPm7zuA9Viz*E-AelMq
>>622
択法覚支は正しい教法を選び取るのでも修行法を選び取るのでもありません。
桐山さんにしても子孫さんにしてもそんなふうに捉えてしまうのは「法」の意味を
履き違えているからです。
神秘の法だのあるいは特殊な修行法なんてのが頭にある。
これを選択することだ!とやる。
違うのです。法とは真理のことです。
四念住も身念住→受念住→心念住→法念住と進むでしょ?
自分の身体を観察する、感受作用を観察する、自分に起こる心を観察する、そして
あらゆる事象を動かす真理を観察する。
この法(=真理)です。
だから七覚支においては念覚支で始まりわが心を観察して気づきの行をする。
そうしているうちに真理、真実を選び取ることができるようになる。
真実とは何か?それは事象をきちんと分析しなければわかりません。
青柿さんが示した例もわかりやすいですね。
青柿さんが人生が嫌になった。
しかしよく念覚支すると、教習所の教官にボロクソに言われて凹んだだけだと
気づく。教官の指摘が正しいかどうかはわからないが青柿さんは教官こんにゃろめ
と思う。まずそこに気づく。そこから青柿さんは凹んで妄想世界を広げた。
俺って何をやってもダメ人間なんだろうか?
しかしこれは教官に教習所で叱られた、それが辛かった、嫌だったという
第一の感覚から青柿さんが勝手に発展させた二の苦の妄想だと
気づくわけです。
最初に受けた純粋な苦痛と自分の感情や愛憎の念が作り上げた憎悪感やら厭世感、
虚脱感といったものが自然と区別できるようになる。
正しく認識できるようになる。
真理、真実なるものとそうでない仮構のものが区別できるようになる。
それを選び取ることができるようになる。
事象の観察がきちんと分析分類することができるようになるわけです。
だから修行法を選ぶなんてお話でもないし、宗教を選ぶなんて話でもない。
[631]ユビキタス 08/03/10 22:07 *lPm7zuA9Viz*E-AelMq
成仏法の法を選択すると捉えている。
成仏法なんてのが桐山さんの造語なんだが、修行法であれ神秘の法であれ
成仏する「方法」だと言いたいのでしょう。
方法を選択するのだー。
しかし仏教の法は方法の法ではない。
真理です。
真理、真実とは何か?
それは「ありのまま」です。
ありのままを観察し、ありのままを選び取る。
余計な情報を分離して。
[632]ユビキタス 08/03/10 22:44 *lPm7zuA9Viz*E-AelMq
>>621
法次→勤行を否定する前に、私の一切事経の法次法向観を示しましょう。
実はこれもまた「法が桐山さんらには曲者になっている。
法を真理と見ないで特別素敵な成仏方法だの修行方法だのと捉えるから
勤行だの三十七道品特殊メニューだのって発想になるのです。
私に言わせりゃ、三十七道品よりも勤行の方こそたわけた話ですよ。
私の法次法向観とは釈尊の説いた真理の法、教えを自分の生活に根付くように
生活努力するということです。
法に近づき法に向かう、追求努力する。
私は法次と法向を殊更別のものに分けません。
だから八法は信、戒、施、聞、持、観、法次、法向の8分類ではなく、
信、戒、施、見、聞、持、観、法次法向の8分類です。
どうしてかと言うと、普通そう分類されるからです。
よく経典を読んでごらんなさい。そう読めるから。
どうでもよいことのようだが、法次と法向の違いは?などと詮索するのは不要
なのです。法にちかづくも向かうも同じでよい。
それは何かと言うと、真理の法に沿った生活をする、教えを守り教えを生活に
活かすということに他ならない。
そうではないか?
塔寺に見えて、真理の法を聴聞する。
聞いて聞きっぱなしではなく、よく記憶に留めるように持する。
単に丸暗記ではなくよくその真理の教えを観察してよく理解する。
さあ、その次になすことは?
もちろん教えを実践するということです。
生活の中で。
嘘をつかないという教えを聞きます。それを忘れない。理解を十分にする。
そしたら日常生活においても絶対に嘘をつかないという教えを実践して守りぬく。
これが法に近づき法に向かうです。
真理の教えを体現するのです。
極めて当たり前のことではないか?
これがわかると法次→勤行なんてのがいかに戯けた話かよくわかる。
[633]ユビキタス 08/03/10 23:09 *lPm7zuA9Viz*E-AelMq
>>621
ではいよいよ法次≠勤行です。
ところで勤行とは何でしょうか?
経典を声に出して読むことです。
どうして声に出して読むのか?
実は前スレになるが、子孫さんの引っ込んでいる間、今年のお正月にその話が
出たことがある。
青柿さんや干柿さん、あと〇〇屋さんはいたかな?私も含めて
考察がされた。私は茨城の一言主神社と干柿さんお勧めの平将門の国王神社に
観光ドライブ初詣に行った時でしたね。
青柿さんは勤行は呪術ではないかと切り出した。
私は一部否定、一部肯定した。
勤行、お経を読むという営みは上座仏教の国でも行われています。
彼らは決して呪術をしているわけではない。
何の為に経典を読むか?
それ以前に経典って何か?
経典とは仏の説いた教えを人間にわかるように人間の言葉で書いたものです。
だから経典を読めば普通その意味は理解できます。
日本が殊更特殊で漢訳経典を和訳せずそのままナモナモ読む。
だから一般人は意味がわからない。
でも本来は読めばわかるのがお経なんです。
だからお経を声に出して毎日読むということは、繰り返し読むことにより、
その言葉で説かれた教えを頭の中にたたっこみ忘れないと
いうことなんです。
だからこの勤行=お経を読むという営みは八法の中では
何に当たるかというと「持」に当たるわけです。
まだ日常生活の中で実践しているわけではない。
日常生活で実践するだけの下地としてよく記憶に留めて反芻しているだけだから
これは法次法向にはならないのです。
これが反論の第一。
[634]ユビキタス 08/03/10 23:54 *lPm7zuA9Viz*E-AelMq
>>621
法次≠勤行の第二です。
むしろこちらを第一とすべきか。
なぜなら桐山さんの示したのは当時のインドの勤行ではなく解脱宝生行という
アゴン宗勤行だからです。旧千座行でもよいがいずれも桐山勤行です。
この勤行は青柿さんが指摘批判した呪術を私も肯定する面です。
経典だけならばたとえ漢訳でもその内容の解説を受け、理解したのだから
声に出して読むたびにその理屈を思い出す原理になっており、まあ八法の持の
役割だけは果たしていることになり、経典解釈の内容の問題はさておき決して
仏教的に間違いなスタイルでもない。
しかし真言があるのです。
簡略化された解脱宝生行は準胝真言と仏舎利尊の三種真言を唱える。
一番簡略化された勤行は護身法とそれだけでよいのです。
真言とはいかに仏の真理の教えを百千万言こめたものなんて屁理屈を言ったところで
理解不能な呪文に過ぎない。
今は意味はわからなくても唱えているだけで仏の悟りをわがものにできるだの
入我我入で仏と同体化してその力が加わり持する加持だの言ったところで
それは呪術の説明に過ぎない。
釈迦仏教の一番堕落した形態の密教の屁理屈御都合主義です。
釈尊はこんな呪術を説かない。
あくまでも言葉でわかる教えを言葉で徹底的に説いて相手に理解させた。
あとは相手がその教えを実行するか否かです。
法次法向するか否かです。
すべて教えを聞いた人の自己努力にかかっており、釈尊はなんら力を貸してくれない。
だから解脱宝生行のような仏を礼拝供養することで力が加わるなんて勤行は
釈尊の仏教に背くものであり、こんなものが法次のわけがない。
[635]ユビキタス 08/03/11 00:25 *lPm7zuA9Viz*E-AelMq
602:神も仏も名無しさん :2008/03/10(月) 22:44:12 ID:ZQIIflHB
>[622]如来の子孫 08/03/10 10:55 oNmU9AvgUe
>念覚を、管長は念を強くする修行と教えた。念を強くとは、ものごと
>を明確にイメージ出来る力でもある。思考などについても明確に気づ
>くようになる、のは当たり前だ。

オカルト教説の典型です。
仏教の「念」が念力の意味だと桐山さんは言っている。
無知な子孫さんはそのまま受け売りをしている。
怪獣映画が大好きな子供みたいな解釈です。
信者さんたちもせめて仏教を勉強したほうがいい。
念を念力だなんて解釈するのは、相当に恥ずかしい。
桐山さんは功徳を御利益と解釈して、応供を「供養に応える」なんて、
無知な読み方をして、止息を呼吸法だと書いたように、
字面そのままの素人解釈です。
だが、仏教用語では意味が違う。
仏教の念には念力なんて意味はありません。

603:神も仏も名無しさん :2008/03/10(月) 22:47:46 ID:ZQIIflHB
「正念・・正しい気づかい、注意、思慮(身・受・心をよく観察し、熱心で、
気を付け、さらに気づかい、世間における貪り、憂いを制御すること)」
(『バウッダ・佛教』中村元、三枝 充悳194頁)
「念・・心に思うこと、いつも心に思うこと」(岩波仏教辞典)

これが阿含経を徹底的に研究した学者の説明です。
信者さんたちは「学者は学者。ゲイカは霊感で体得した」などと
脳味噌ご供養の発言をするだろうが、
それでは大乗経典を作りだした人たちと同じになってしまう。
釈尊は言葉で説明をした方なのです。
阿含経で釈尊が説明している文言をそのまま理解することです。
釈尊の説明での念とは念力などではありません。
身体と感覚作用と心をつねに観察するのを
熱心に続け保とうとすることを念というのです。
なんのためかというと、貪りなどの煩悩を断ち切るためです。
気を許した瞬間に煩悩が漏れ出てくるからもしれないから、
一瞬も気を許さないで持続することを念というのです。
念力とか、イメージする力などではありません。
[636]ユビキタス 08/03/11 00:39 *lPm7zuA9Viz*E-AelMq
>>635でどうしてまた転載をしたかと言うとその心はですね、
私が手抜きしたいからです。(笑)
本当は私も>>622の念覚支の念力について反レスをする予定だったのですよ。
しかし向こうでも出たから私が楽する為に転載しただけです。
子孫さんが明澄な観察の為に念力、念の強さが必要だなんて弁解してもダメです。
明澄な観察に念力は要りません。変な力を加えずに静かにありのままに観察すれば
よいのです。
桐山さんは「輪廻する葦」で意志の力、知能の力なんてことを書いているが
そんな意志の力など関係ない。
精神力なんて関係ない。
ありのままの観察なんですから。
桐山さんは調子に乗って火を発するほどの力を出すクンダリニー・ヨーガの
修行までする念力なんて書いてますぞ。
[637]ユビキタス 08/03/11 01:14 *lPm7zuA9Viz*E-AelMq
>>623
イスラエルとアラブの話ね。
そうなんですよ。動物の話なんかよりも「テロを中止せよ」と説得するのが
先でしょう。
しかしイスラエルにテロをやめなさいなんて桐山さんは言ったのか?
テロの国であるイスラエルに「共鳴し支持する」と述べたのですよ。
共鳴も支持も必要ないではありませんか?
テロをやめさせたいなら、私はイスラエルもパレスチナもアラブ諸国にも
どこにも支持しない中立の立場だ。
ただどちらもテロも迫害も戦争もやめて平和を願う日本人に過ぎない。
だから私はアラブ諸国にも忠言するし、あなた方イスラエルにも忠言する。
テロはやめなさいと。
どうしてそう言えずにイスラエルに共鳴支持なんてことを言うのか?
「へへへへ…実はさあ、共鳴支持するなんて言ったけどさあ、テロには共鳴支持
できないから、パレスチナ迫害には共鳴支持できないからやめなさいよ」なんて
いつ言うのですか?
イスラエルを支持しないことはアラブやパレスチナを支持するということには
ならない。中立でいいのだ。
中立で握手できないのか?
そんな話持ちかけても握手してもらえそうにないと踏んで、支持しますよ〜と
へつらって握手を求めたのです。
テロやめなさいなんて言わない。
テロも戦争もなくなる平和な世界になればいいねと他人事のように話す。
君たちイスラエルにも罪の一端はあるなんて言わない。
悪いのはあいつらアラブ諸国の奴らでしょと、イスラエルを支持表明すること
により、相手に桐山アゴン宗も反アラブの立場と思わせ握手した。
これじゃテロも戦争もなくならないし平和も訪れませんよ。
片方に加担して中立になれないんだもん。
[638]ユビキタス 08/03/11 01:20 *lPm7zuA9Viz*E-AelMq
>>637で明澄な観察と書いたが、子孫さんはそうは書いてなかったですね。
明確なイメージです。
イメージなんてそんなものを強く念じて押し付けることはかえっていけないのですよ。
ありのままに受け入れ観察するのみです。
だから念力不要と書いたのです。
[639]ユビキタス 08/03/11 01:26 *lPm7zuA9Viz*E-AelMq
>>637ではなく>>636でした。
もう寝よ。
信者の皆さんに宿題。
再度新著で一切事経を読みなさい。
漢訳原文と書き下し和文。それに現代語訳。
どこに法次と法向を分ける構成になっているか?
塔寺に見える文は独立してあるのに。
法次法向。
[640]ユビキタス 08/03/11 01:42 *lPm7zuA9Viz*E-AelMq
>>621
桐山ニョライが在家用に作った解脱宝生行の勤行が法次ならば、釈迦如来が
一切事経で説いた法次の在家用勤行って何よ?
ノウマクサンマンダボダナンバアクと唱えればワシは在家の君たちに解脱と宝生
の御利益をプレゼントするぞ!ってな勤行?
勤行にはならないだろうが簡単な詩句を教えてそれを唱えるようには教えた
ろうけどね。
ただしそれが勤行のルーツにはなってもそれは聞持の世界でさあ。
[641]ユビキタス 08/03/11 08:23 *lPm7zuA9Viz*E-AelMq
一切事経の桐山解釈における疑問点をもう一つあげましょう。
それは出家を超える在家集団の根拠です。
それは沙門衆において威徳顕曜ならんという表現です。
十六法まで成し遂げた在家信者にはいろいろな衆が参詣して教えを乞いに来るだろう。
その衆とはバラモン衆とかクシャトリヤ衆とかある中で沙門衆もいる。
沙門衆とは出家修行者です。
ナント!十六法を成し遂げた在家信者は出家をも超えてしまう!
出家が在家に参詣して教えを乞いに来るというのだ。まさに逆転であり
出家至上主義ではなくなったというのが桐山さんの主張です。
しかしあわてないで考えると、この沙門衆というのは果たして仏教の沙門、仏弟子たち
だろうかという疑問です。
というのは沙門というのは仏教の出家修行者だけをいうのではないのです。
当時のインドでバラモンでない出家者たちがいた。
彼らは自由思想家にもなったりした。
釈尊もまたその一人です。釈尊一人ではなくジャイナ教の教祖も他の外道の思想家
も沙門衆だったのです。
いずれも解脱を求めた。釈尊は煩悩から離れることを解脱としたが、それぞれ
別の定義、テーマを解脱と捉え、求めて出家した。
この当時のインド社会の常識から考えると、十六法の仏教在家信者にそういう
バラモン教ではないしかし仏教でもない外道の出家たちが教えを乞いに参詣
してもおかしくないではないか?
そう見るのが自然であり、逆に仏教の出家修行者が在家の信者に教えを乞いに
集まるという方が不自然でどうかしている。
在家は出家から教えを聞いてそれを生活に実践し、他人にもそれを実行させたのです。
どうして先生が生徒のもとに教えを乞いに行く?
先生だって出家の弟弟子や在家たちに教えているのだ。
利他の行をしていることになる。
釈尊の仏教が在家も重視したというのはそのとおりです。
自利だけを求めず利他を説いたのだから決して小乗なんかではないという主張も
同意です。
しかし在家仏教信者のもとに出家仏教修行者が参詣するというのはかなりあわて者の
解釈ではないか?
仏教以外の出家もその威徳を顕曜するならば十分に意味が通る。
[642]ユビキタス 08/03/11 08:44 *lPm7zuA9Viz*E-AelMq
さてそこで釈尊も当時から説いていた十六法にも見られる利他の行について
考えましょう。
考えるって、現代のイスラエルに対する利他の対処です。
利他は利他でも焚き火をして平和を祈り霊障を解いてあげるなんてサービスではない。
テロや戦争を起こすような悪念、悪業をなくせという法(=真理の教え)を聞かせて
受持させ観察させ、法次法向(実行)させるのです。
十六法でやるのです。
それが釈迦仏教流の利他です。
救いではなく、自らが自らの自己努力で自らを救うことを教えてあげるのです。
相手の悪を承知もさせず説得もしないで逆におべんちゃらを言って心を改めさせず
護摩でいつのまにか何か効果を期待しようなんてのが十六法にも利他にもならない
ことが理解されましょう。


いや〜。今朝書きながら閃いたのだが、我ながら上手い関連付け。
と自画自賛の慢を現してみる。
[643]孫 青柿 (あおがき) 08/03/11 21:23 anUZQ2Kjvz
もう完全に子孫さんはユビキタスさんに論破されましたね。
法次=解脱宝生行勤行 も今となってはお笑いなのですが、数年前はこういうこと言われてもなるほどそうか、と思ってましたでしょうね。
アゴン宗を基準に釈迦仏教を考えてたから、在家は釈尊の髪の毛をいただいて、又は阿羅漢の托鉢用の鉢をいただいて、またそれさえない場合菩提樹の葉を取ってきて、
釈尊や師事してる阿羅漢の姿を想像しマントラを唱え勤行をするのかと思ってましたね。
聖者の持ち物に祈りを捧げると、聖者が生きていようが故人だろうがお魂に祈りが通じてご利益がいただけるのかと思ってました。
仏髪がよみうりランドに祀られていますが、仏舎利じゃなく仏髪てところが生前から上記のような供養や勤行が行われてた証しだと思ってました。
まさか釈尊が剃髪してたなんて思いもよらなかったです。
アゴン宗の法務部は剃髪してるけどゲイカは有髪のように釈尊も有髪かと思ってたし。
子孫さんていまだ私の数年前の段階にあるようです。
[644]孫 青柿 (あおがき) 08/03/11 21:40 anUZQ2Kjvz
応説経はちゃんとした阿含経だからこれを読むことは「持」なのですね。
また和賛にも「7科37道品成仏法の尊きを広く世間に伝うべし」とありますが、
批判派が行っていることがまさにこれに当たるのですね。

子孫さんは突き詰めるということが出来ないようですから、桐山管長ゲイカがお説きになった理想をどこまでも追いかけていくとアゴン宗を否定せざるを得ないということ分りませんよね。
[645]如来の子孫 08/03/12 11:18 Bj.cdF2kp6
肝心なのは自身の体験。
入行前の私の体験を書いたでしょう、ホントは書きたくもないさ。
いろんな問題で進退に窮して、真冬の深夜、冷水を頭からかぶった
こともある。もうチョイで凍りそうな水だよ。今なら心臓まひだ。

冷静に今考えても、入行時には5つの悪因縁が現出していた。
今は3つの因縁は薄れて楽に暮せてる。だが、頑固な因縁が2つほど
まだ残ってるね。
気づきの行、なんて、おしゃれそうな瞑想で因縁が切れるか、私は
疑問だ。それでいい人はそれでよいさ。文句ないよ。
私の場合は、管長如来の教法で、確かに悪因縁が薄れたよ。

途中で修行を放棄した、負け犬の遠吠えなんか、亀田じゃないが、
ゴキブリの親玉だろ。
ブドウを採れない狐が、「あのブドウは酸っぱいのさ」と、自分を
慰めてるにすぎん。馬鹿ボン神仏名無しくん、もその代表例さ。
[646]如来の子孫 08/03/12 13:10 Bj.cdF2kp6
トイレ掃除くんは阿含宗を早めに辞めた方がいいよ。
半信半疑で勤行しても、効果ないからね。ひねくれていって、
最後はダメ元くんや馬鹿モン神仏くんみたいになるよ。
私が論破されてるように見えるのでは、あんたも見込みがない。
早めにやめて、氾濫している他の解説本に従うことだね。
私の見解では、念覚や択法覚など、いくら詳しく分析しても、
悪因縁を切ることはできないよ!

[647]孫 青柿 (あおがき) 08/03/12 13:35 ZdNFhOauWK
子孫さんのいうには釈迦仏教はダメだとさ
[648]如来の子孫 08/03/12 13:37 Bj.cdF2kp6
負け犬の遠吠えくん達と、念覚の論議をしても無駄だね。
私の言葉を狭くしか捉えられない人たちだもん。
管長は著書で37道品について、
「いきなり在家が修行するのは無理だ」と、書いてるし、
違う本には、「どんなに難しい法も基本から段階をふんで学べば、
       誰でもできる。」と書いてます。

それを、ダメ信者くん達は、37道品は在家では修行は無理だと
思いこんでしまう。矛盾じゃないか?なんて言う。
涙が出そうになるくらい、憐れです。

「念」の意味もそうだね。ボンヤリしている現代人には、意識を明確
にする必要がある。思考を明確に、思念をクリアーに、明確にする
ことだ。集中力を高めるのだよ。止観の止!ですよ。
月輪観で明確に月をイメージ出来たら、覚醒は近いよ。
だからブッダを目覚めた人と言うのでしょう?覚醒者。
とはいえ、潜在意識や深層意識があるので、難しい。
私はまだ途中だが。

それを勝手に、ダメ元くんなどは、超能力を得るための念力を強める
ことなどを連想するのでしょう。
私の見解では、超能力を得ようとして修行しても、成就するのは難し
いと思うね。
[649]如来の子孫 08/03/12 17:47 Bj.cdF2kp6
出家経で釈迦は「此の法と律と梵行」で在家信者がアナゴン果を得た
話をしているね。たぶん、四念処法など修行した在家もいたので
しょう、それが法だ。律は在家の戒律等でしょう。元信者くん達は
ちゃんと戒を修していたのかな?
それと、梵行です。自分を清め高める修行。在家だから、当然、
釈迦教団への布施供養も含まれるでしょう。
これが、私が解釈する「法と律と梵行」ですよ。

私の3つの悪因縁が薄れたのは、この法と律と梵行の修行がうまく
展開したからでしょう。私とて、ただ勤行してただけでは、因縁が
切れたり薄れたりするはずもない。ダメ元信者くんよりは、正しく
修行した証拠といえるでしょ?

高橋尚子選手が失速した原因を、練習のしすぎだ、と言ったスポーツ
ドクターがいた。とてもハードな練習らしい。
ボンギョーで廃人になった、それが本当なら、明らかにやり過ぎで
しょう。
[650]ユビキタス 08/03/12 21:29 E-AelMq
>>645
入行前の体験談ったって、それじゃ何の苦しみだったかわかりませんよ。
何の因縁だったのかもね。
自分だけの世界に浸らないで下さい。

真冬に冷水を頭からかぶりたいような追い詰められた苦しみとか、死にたい苦しみ
なんて、私でも誰でも皆経験しているのですよ。
そして皆それを乗り越えて現在の安定を得ている。
別にアゴン宗の信仰を持たない人もです。
何を甘ったれている?
気づきの行を未だに瞑想だなんて笑えますね。
24時間366日気づきなんですよ。
しかもそれをおしゃれだなんて思っている。
ありのままに観察することのどこがおしゃれなんだか?
あなたの言うパール瞑想だの月輪観だの方がよほどおしゃれさを前面に出した
だけの妄想ですね。
因縁を不幸な運命の星とするのならば、最初からそんなものを変えようと考えたり
することなど眼中にないのですよ。釈尊の仏教は。
運命転換なんか目的としない。
状況がどうあろうと、それが人生というものなんだからそのまま受け入れるしかない。
生きていくことが苦しいのは当たり前です。
現実をあるがままに受け入れるより他どうしようもないではないか?
変な夢を見ないことです。
今日一日だけを懸命に生きていけばよい。
あなたにお勧めしたい本がある。
アメリカではもはや古典の扱いだが、大統領などは必ず読むという人生学の本です。
D・カーネギーの書いた「道は開ける」です。
古今東西の哲学や思想や宗教や心理学などを集めて説いた問題解決法の本です。
それを読むとやはり釈尊のように現実をそのまま受け入れて覚悟を決める道を説いている。
あくせくしても悩みは増すばかりです。
[651]孫 青柿 (あおがき) 08/03/12 23:36 ZdNFhOauWK
>>648 7科37道品が出家の修行法だと言ったのはゲイカだが?

>「念」の意味もそうだね。

>それを勝手に、ダメ元くんなどは、超能力を得るための念力を強める
ことなどを連想するのでしょう。

それってご著書に書いてるよ。素晴らしい ついにゲイカに牙をむくようになったかw
[652]ユビキタス 08/03/13 00:07 *lPm7zuA9Viz*E-AelMq
>>648
在家がいきなり七科三十七道品なんて無理だなんてことはありません。
また基本から始めれば云々なんて話でもありません。
在家と出家の違いはどれだけ徹底してやれるかです。
在家は生活を支えるという営みがあるからどうしても時間の制約がある。
出家のように全ての所有を捨てて托鉢乞食をしながら、自己との対話を四六時中
やってるというわけにはいかない。
どうしてもやれる範囲でしかやれない。
しかしやれない話ではない。
在家の信者にもアナゴンにまでなった人もいるわけです。
布施供養によってではない。
七科三十七道品とも八正道とも言われる修道をした結果です。
四正断の話も出したでしょう。
まだ生じてない悪を生じないようにするなんてのは出家の必要がなく在家のまま
今この瞬間からいきなりできる。
たとえばイスラエル護摩に対して護摩木などを書くことをしないということです。
誰でもいきなり簡単にできる。
基本もクソもない。
徹底してやるかどうかの違いです。
たとえば私は>>650であなたの>>645にレスを付けた。
それ以前の時間にあなたの書き込みがあることを知りつつ呼ばれてもない
2ちゃんねるに書いた。あなたは私と同時間に書き込むとよりムキになるのがよく見えるから
敢えて時間帯をずらしたわけです。
私は>>645にレスを書いたら次に>>648>>649にレスをつける予定でいた。
で、今そのレスをしたためている。
どうしてこんなに時間が空いたのか?
反レス内容に窮して必死に考えていたのか?
そうではありません。
あなたの書き込みなど脊髄反射ですぐに撃ち落とせます。
ただ仕事や仕事以外の生活時間に追われて書き込みに時間を費やせないわけです。
私は在家ですから。
これがいっそ出家になって(笑)プロのカキコミニスト(?)になって掲示板に一日中
張り付いていたら徹底してあなたの書き込みなど連続して撃ち落とします。
つまりそれができるかどうか生活環境の違い、どれだけ徹底して鬼になるかの
違いだけです。
在家と出家とは。
だから在家もその気になって条件が許せればいきなり七科三十七道品の修道ができます。
[653]ユビキタス 08/03/13 00:38 *lPm7zuA9Viz*E-AelMq
>>648
念覚支を念力を強くするなんて桐山説をまだ鵜呑みにしている。
念をよりクリアにするなんて書いている。
そりゃ寝ぼけた頭では明澄な自己観察などできんでしょう。
しかしそれははっきり目覚めてさえいればよいのです。
潜在意識だの深層意識だのと関係なく表面意識がクリアでさえあればよい。
フロイトの言うような無意識の意識があってもそれが表面の行動に現れる瞬間を
見逃さなければよい。
自分が観察できていればよい。
あ!女だ!それまでの私の悟りはここで壊されます。
しかし女を見て心がかき乱されたという現実が観察されていればよい。
それが念覚支です。
アビダルマでは煩悩は随眠として眠っていると言いますね。
意識の深層に根付いているわけです。
そして煩悩が随眠から覚めて表面に出る時これを纏(てん)という。
この纏が出たことが観察できればそれでよいのです。
特殊な念力など要りません。
それは邪魔ですらあります。
ありのままの観察には先入観とか一切排して意味付けをしてはいけないのです。
たとえばあなたは月輪観など出した。
桐山さんの般若心経瞑想法にもありますね。
白浄の満月を想い浮かべる。
そこにアだのジャだの種字が現れる。
それは菩薩に変身して光り輝く。
こういうのはありのままの観察などではない。
なんか強引に意味付けしようとしてるだけです。
私の父は小学校の頃夏休みの図画の宿題に赤富士を描いて提出したが先生に
怒られた。評価は低かった。
見た物をありのままに描いたからではないからです。
父は山形県米沢市だから富士山が見えるわけがない。
御殿場あたりから早朝日の出の時燃えるような朝焼けに染まる富士山を描いたのなら
よいが、実際に見た物を描写したのではなく適当に描いた。
それが想像力と言うものではないか?と屁理屈を言ってもダメです。
なぜなら赤富士なんて浮世絵の模倣に過ぎない物真似なんだから
オリジナル性もゼロなわけでして、先生としてはこういう半端な宿題出す奴が
一番評価を下げるしかない。
だから赤富士を描くおかしな念力など不要で、見たもの聴いたものがはっきり
そのままありのまま観察できればよいのです。
満月の白浄心をかき立てる月輪観など要らぬ。ボサツさんも。
実際に見てもない赤富士は要らないのです。
[654]ユビキタス 08/03/13 00:55 *lPm7zuA9Viz*E-AelMq
>>649
法と律と梵行によりアナゴンになった在家信者はその真理の法である四念処という
自己観察もできていたでしょう。
戒律も守ったでしょう。
梵行という性交を断ったり慎んだりという清らかな行いもしたでしょう。
この中であなたがわかっていないのは梵行です。
アゴン宗のように何か労力奉仕を捧げて見返りに解脱を我が物とする徳をもらう
なんて話とは全然異なります。
性欲などの欲望から離れて禁欲の節制をすることです。
その結果煩悩解脱を得てアナゴンになります。
因縁解脱なんて説いてもいないことはできません。
[655]ユビキタスさんは素晴らしい 08/03/13 00:57 FyrbWYO0cC
素晴らしい桐山解脱者です!

南無ユビキタス。
[656]ユビキタス 08/03/13 08:16 *lPm7zuA9Viz*E-AelMq
>>646
トイレ掃除くんってのは青柿さんのことか?
道場のトイレ掃除の奉仕すらやったことのない口先信者がよくもまあ、そう馬鹿に
できるものだ。
青柿さんならとっくに阿含宗を正式退会してますよ。
念覚支や択法覚支などの七覚支をいくら修行しても煩悩は切れても因縁なんか切れませんよ。
因縁切りなんか仏教にないからです。
そんなに因縁が切れたなんて喜んでいるのなら、桐山さんに教えてあげなさい。
因縁切りの大将自ら因縁切れてないから。
煩悩に至ってはもはやどうしようもないくらい腫れ上がっています。
七覚支してないからね。
[657]如来の子孫 08/03/13 11:31 Bj.cdF2kp6
やはりダメ元信者くんは、根本から間違えて解釈している。
念覚を管長は、自身の修行体験から、
「念を強くして空観を体得する修行」と教えている。
例えば、念を弱くしてご覧。
ボンヤリして、意識を弱めて、気づくどころか、眠ってしまう。
念を強めるとは、その逆をいう。

思考を明確に意識する、受、想、行、識、を明確に意識する。
そのように明確に意識して、無常観・空観を学んでいく。
それが念を強くする、という意味ですよ。
しだいに、マナ識、アラヤ識も意識できるかも知れない。
[658]如来の子孫 08/03/13 11:40 Bj.cdF2kp6
梵行とは、「自分を清め、高める修行」のことです。
とは、管長の最新刊「仏陀の真実の教え」にも書いてありますよ。
ダメ元くんは、勝手に解釈してたから間違うのね。
「自分を清め高める」の基本の上で、考えないとイケんのです。

在家の既婚者が性交を断つことではない。
そんなの梵行にならんよ、家庭不和の元だろが。
ほんとに救いようのない発想をするね。
それを言うなら、邪淫のことさ。不貞、わかるでしょ?
辞書で調べなさい。
[659]如来の子孫 08/03/13 11:57 Bj.cdF2kp6
ダメ元くん、アナゴンの意味を知ってるかい?
別名を不還とも言う。
人間界にもう戻らない、という意味で不環だよ。
あなたの言うように五下分結煩悩を解脱したから、人間界に戻らない
という意味ですね。

五下分結煩悩には、人間界に結びつける因縁(法則)があるので
すね。だから、それ(煩悩)を断つと後有を受けなくなるのね。
つまり、人間界に生まれる因縁(法則)を解脱することです。
[660]如来の子孫 08/03/13 12:05 Bj.cdF2kp6
ダメ元信者くんへ。
「仏陀の真実の教え」のP175に梵行の「浄め高め」の説明、
また、同本P176には、煩悩解脱だけでは、不備な理由が説明
してあるよ。また、同本P144には、法次法向の説明があるよ。
どうせ間違えて独善解釈するんでしょうが、読んでご覧なさい。
[661]ユビキタス 08/03/13 13:11 *lPm7zuA9Viz*E-AelMq
>>657
念力を強くして空観、無常観を強くイメージするなんて書いているところが
大乗仏教ではなく釈尊の仏教を理解してないのですよ。
「これは空なんだ!クーなんだーー!!クーーー!!!」「無常なんだ!ムジョーー!!」
っと心に強い念でそのイメージを叩き込むものと思ってませんか?
違うのです。自分の身体や感受作用、心から諸相に至るまでありのままに観察して
悉く空であり無常であることを知り悟るのです。
力の問題ではない。自ずとわかるようになるのです。
そりゃ何事も居眠りしとってはダメですよ。
しかしそんな低レベルな克服にわざわざ念力ですか?
念を強める為に何をするんですか?
真冬に頭から冷水かぶるのか?
桐山さんは青柿さんも>>651で示したように「輪廻する葦に火をつけるような
超能力念力を説いているのですよ」
マナ識だのアーラヤ識なんてのは後世の大乗が考えた唯識思想です。
我々が気をつけなければならないのは、煩悩が表面に現れて行動に影響を及ぼす
ことです。
だから四六時中監視して、煩悩が湧き出たことに気づきを入れ、しまいには
悪い煩悩が出ないようにするのです。
表面意識に見張り番を立てるのです。
[662]ユビキタス 08/03/13 13:23 *lPm7zuA9Viz*E-AelMq
>>658
辞書を調べるのはあなたの方です。
但し仏教辞典です。
仏教用語でいう梵行は禁欲、節制の清浄行です。
とりわけ性欲の問題が大きい。
これを節制するのです。
出家修行者ならば不淫戒で一切セックスをしない。
在家ならば夫婦間のセックス以外のみだらな不倫を禁じる不邪淫戒です。
欲望を最小限にすることで、アゴン宗みたいに奉仕行などではない。
奉仕行を課すのはアゴン宗の自由ですが、勝手に仏教用語を歪めて使わないで下さい。
しかもこの奉仕行は励むと褒美に徳がプレゼントされるという見返り目的の取引であり、
不当な欲望を煽っており、少しも清浄ではない。
[663]ユビキタス 08/03/13 13:35 *lPm7zuA9Viz*E-AelMq
>>659
そんな屁理屈の用語の使い方は一般仏教でもしませんし、桐山さんもそんな説を
認めてません。
シュダオンなどはどうなるのか?
また生まれ変わる法則に従う。
桐山さんのいう因縁とはあくまでもガンの因縁とか横変死の因縁とか現世に
おける運命軌道の不幸な条件です。
これを現世においてなくしてしまい運命軌道を変えることを因縁解脱という。
しかし用語どころかそんな概念さえ仏教にはない。
[664]ユビキタス 08/03/13 13:43 *lPm7zuA9Viz*E-AelMq
>>660
著書を示す時はページを示すのはよいが、それだけではなくその内容も書きなさい。
概略でもよいから。
いずれはそのページを読んでもあげますが。
しかし桐山説の正しいことを示すのに桐山本なんか示してどうする?
他の人の書いた文などを紹介したり引用したりして、ほら、間違っていないよ
と示すものです。
桐山さんがこんな説を書いていると示すことなど何の意味もない。
法次法向などはそのセットで一単語みたいに考えればよいのですよ。
法にちかづき法に向かう、同じことです。
切磋琢磨という用語を切磋と琢磨に敢えて分けてその違いを指摘して物事に
当てはめる人がいるだろうか?
これは切磋状態、これは琢磨状態と。
それと同じようなものと考えればよい。
[665]如来の子孫 08/03/13 13:58 Bj.cdF2kp6
ダメ元信者くんへ。
あ〜ら、やっぱりあなた、基本的なことを知らないでいたのね!
アナゴンを別名、不還というのよ。
辞典で引いてご覧なさい。
不還→ふげん、と発音するのよ!
[666]如来の子孫 08/03/13 14:13 GoRGEoUS
念を強める修行とは、知・情・意の働きを強化する。そして空観を
体得する。と輪廻する葦に書いてます。それでいいじゃありませ
んか。そして神秘的まで集中すれば、火をも発することが出来る、と
いうわけでしょう。そこまで行ける人は稀でしょうが、それでいい
でしょ?なにが問題なの?
東南アジアなどの、上座仏教の「気づきの瞑想」と違うから問題だ、
とでも言うのかい?違って当然でしょう。
阿含宗はスリランカ仏教何々派とは違うのですから。

37道品の解釈は、多少、違ってて当然なのですよ。
「気づきの瞑想」にしても、過去2千年来、どのような変化をしてき
たか、誰にも真相はわからないわけですからね。

[667]如来の子孫 08/03/13 16:18 Bj.cdF2kp6
ガンの因縁とか横変死の因縁とか、約20くらいに分類してますね。
それらは偶然なのか、因縁による必然なのか、の問題です。
入行時、私には5つの自覚できる悪因縁が現出していたよ。
入行前は、真冬の深夜、もうチョイで凍りそうな冷水も頭から浴び
たよ。今思うと危険なことでした。準備運動も全く無しで、水浴び
ですからね。
この間、岐阜の元衆院議員の木内さんが、早朝に風呂場で冷水を浴び
ている場面をテレビで見た。彼は利口だから、冷水を頭にはかけず、
背中・肩にかけていた。おいらは馬鹿だから、頭からかけた。
水に慣れると体は平気だが、頭が冷え過ぎて痛くなるのには参り
ました。何日かして中止した。

その後、しばらくして阿含宗に縁を得た。そして今現在、自分の
3つの悪因縁は薄れたと自覚できる。「法と律と梵行」が、行われた
からでしょう。冷水を浴びるほどの過酷な修行はしなかったのにね。
だから、管長の説く「何々の因縁」も実感を持って肯定できますよ。
私自身の体験からね。

そのような、悪因縁を切りながら、合わせて十結煩悩をも断つ修行
をしていく。するとシュダオン→シダゴン、というように進んでいく
のですね。
[668]ユビキタス 08/03/13 20:44 *lPm7zuA9Viz*E-AelMq
>>665
あわてないで落ち着いて他人の書いた書き込みをよく読んでレスをつけなさい。
私の>>663を読みなさい。
私はアナゴンではなくシュダオンを書いたのです。
アナゴンは不還でもう生まれ変わらないなんて当然知ってます。
私が書いたのは「七来」のシュダオンです。
七たび生まれ変わるという意味だが、桐山さんは実際には2〜3回の輪廻転生で済むと言ってますね。
そんなことはどうでもよいが、また生まれ変わるのです。
輪廻の法則から脱していない。
そこを指摘したのです。
桐山成仏(このはっきりしない定義については後でまた取り上げます)にも段階がある。
シュダオン、シダゴン、アナゴン、アルハット。
このうち輪廻がやむのはアナゴンとアルハットだけです。
だからシュダオンとシダゴンは価値がないとあなたは言いますか?
因縁解脱もこの辺から実はぼやけてくる。
ところで前にも書いたことがあるが、この件で面白い話があります。
桐山さんは「霊障を解く」で法華経を批判した。
法華経の方便品には「かくの如き人、来世に仏道を成ぜん」と書いてあるのを発見して
こう悟った。
なんだ?結局来世成仏ではないか?現世に成仏はできないんだ!
それで法華経を捨てたのだそうです。
この話をよせばいいのに創価学会との論戦に持っていった信者がおったのです。
法華経は来世成仏ではないか?と。
そしたらその創価学会信者もよく相手のことを研究していたもんで、こう言った。
「しかし、阿含経だってシュダオンとシダゴンは来世成仏ではないか?」
アゴン宗信者「うっ!・・・」
で、このアゴン宗信者道場に帰って桐山ゲイカに指導を乞いました。
さあ、桐山さんはこれに対して何と答えたでしょうか?
つまりこういうことなんです。
法華経は現世だけの信仰でアナゴンにはなれず来世がある。
しかしその来世には成仏を果たす。
これは現世の信仰でシダゴンになれるというなかなか喜ばしい話ではないか?
どうせオイラなんてアゴン宗で修行してもシュダオンになれたらオンの字なんだが
法華経はシダゴンにまでなれる!
桐山さんは法華経をそう批判することもないではないか?
阿含経の優等生にはかなわないとして。
さあ、子孫さん!
桐山さんがどう答えたかはさておき、あなたはどう思うか?
創価学会の反撃にあなたも反撃してこの信者の質問に答えてやりなさい!
[669]ユビキタス 08/03/13 21:28 *lPm7zuA9Viz*E-AelMq
>>667でガンの因縁だの横変死の因縁だのごちょごちょ書いているので666は飛ばして
>>665と合わせてレスと言うよりも問題提起してみましょう。
桐山成仏、桐山因縁解脱とはいったい何なのかというそれは遠大なテーマでございます。
アゴン宗を開いてから桐山さんは阿含経を基に四沙門果の成仏の境界を示しました。
七来のシュダオン、一来のシダゴン、不還のアナゴン、そして究極のアルハット。
これに観音慈恵会時代の以前より変わらず引き続きやっているガンの因縁や
横変死の因縁を今生の修行で切ってしまい、ガンになるはずの運命がガンにならず
横変死するはずの運命が横変死せず運命を全うする。
さて、この人はシュダオンなんでしょうか?シダゴンなんでしょうか?
アナゴンなんでしょうか?アルハットなんでしょうか?
あるいはシュダオン未満なんでしょうか?
子孫さんは5つの因縁のうちの3つが薄らいだのですか?よかったですね。
そんな子孫さんはシュダオン?シダゴン?アナゴン?アルハット?シュダオン未満?
来世はどうなりますか?来世はありますか?山は死にますか?海は死にますか?
現世でどこまで切ったらシュダオンでどこまで切れなかったらシュダオン未満なんですか?
現世でガンの因縁が切れずにガンのまま今生をおさらばしたら
それはシュダオン未満なんですか?
どこまで運命転換が果たせないとシュダオンになれないのですか?
桐山成仏って何なんですか?
現世の悪い運命が転換することなんですか?
現世の運命は転換かなわなくても来世にはもう少し因縁が薄らいでいて今度こそ
ニルヴァーナに近いのが桐山因縁解脱成仏なんですか?
現世が不幸でなく幸運であることと来世には生じないかあるいはもっと高い境界
にいるのとどちらが尊いのですか?どちらを目指すのですか?
どちらが成仏であり因縁解脱なんですか?
どちらもなんてそんな最高至極な例はダメですよ。
いろんな例が想定されるのです。
副管長みたいにガンで亡くなったけど、ボサツとなって龍神とともに昇天していった人やら。
現世の運命が転換するということと、輪廻がやんで来世に生じない、あるいは
輪廻がやむのも時間の問題で来世はもっとよい因縁を持って生まれるというのは
またそれぞれに別の問題ではありませんか?
いったいどれが成仏なんだ?
あなたはどれを目指すのか?
[670]ユビキタス 08/03/13 21:45 *lPm7zuA9Viz*E-AelMq
私にはどうして桐山さんが法華経の方便品に来世成仏が記されてあったからと
いうそれだけの根拠で法華経を見限ったのか理由がわかりますよ。
それだけが根拠ではないと反論するかもしれないが、桐山供述によると法華経を
離れる引導の役目を果たしたのが来世成仏なんです。
現世に成仏できなきゃ意味がないとしたのです。
そのくせ阿含経ではシュダオン成仏もシダゴン成仏も認めるのです。
ならば法華経は現世では間に合わなくても来世には成仏すると宣言しているのだから
シダゴン成仏を提唱したことになる。
それができるできないの話ではなく、目標がこんな低いレベル
ではダメでないかと捨てるようか話ではなく、それはそれで追求する価値はあったはずだ。
それをどうして目標の違いだけで捨てたのか?
私にはその理由がよくわかる。
因縁解脱の定義、成仏の定義が曖昧になったのです。

ところで>>667の最後に突っ込んでおいてあげるが、十結煩悩をなくしたらアルハットですよ。
三結なくなりシュダオンで五結薄らいでシダゴン、五結なくなればアナゴンです。
さらに残り5つの結なくなり十結断ってアルハットですから
今更シュダオンやシダゴンなんて追う話はない。
アゴン宗の信者は絶対にシュダオンにはなれません。
[671]ユビキタス 08/03/13 22:54 *lPm7zuA9Viz*E-AelMq
>>666に対する反レスと>>660の桐山本の紹介ページに対するレスを残しているが。
なるほど。144ページに
法次…仏舎利宝珠尊解脱宝生行
法向…七科三十七道品
と桐山さん解説してますね。
申恕林経のところで一切事経を振り返りながら。
また別にレスしますが子孫さんに教えてあげましょう。
これも新しい法話ではないのですよ。
やはり昭和50年代の例祭法話での阿含経講義です。
干柿さんが昔から述べているじゃんかよと指摘した理由がわかった。
当時は法次を千座行と述べていたはずですよ。
それがダルマチャクラ掲載の段階ではもう古いので当時の出版局が千座行を
解脱宝生行に入れ替えただけなんです。
[672]孫 青柿 (あおがき) 08/03/13 23:33 ZdNFhOauWK
>>671 そうだったのですか!千座行。なるほど〜さすがアゴン博士だけありますね。干柿さんやユビキタスさんに比べニョライの子孫さん>>595で「時代遅れのダメ元信者くん」
などと言ってたが一番知らないのがこの人。

>>666 >東南アジアなどの、上座仏教の「気づきの瞑想」と違うから問題だ、とでも言うのかい?違って当然でしょう。

キリンビールの製法も色々あって当然だね、とでも言いたいのか?
[673]ユビキタス 08/03/14 00:31 *lPm7zuA9Viz*E-AelMq
>>666
それでいいじゃありませんかなんてことはありません。
桐山さんが念を強くして知・情・意のバランスをよくすることが大切であると
一般論的にも考えて示すことは自由であり、いいじゃありませんか、はい、そうですね、
になるが、しかしここで桐山さんがやろうとしているのは阿含経に基づく七覚支法の
解釈と解説なんです。
人に解説するからには根拠を示してなるべく間違わないように注意を払うことが
必要です。
阿含経は桐山さんが発明したのではない。お釈迦様が説いたのだ。
だからここは自分の好みとかはやる気持ちは抑えてなるべく経典とか南伝諸国に
伝わる実践なども参考に、なるべく釈尊に近いものをと示す努力をすべきです。
桐山さんのやったことは念覚支の念という漢字から自分の嗜好の偏りもあり念力
をイメージしてしまったから、それを強引に当てはめて、知情意のバランスだの
根拠なくこじつけただけです。
こんな乱暴な経典解釈なんてあるか?
南伝諸国の実践だってスリランカ、ミャンマー、タイなど比較しながらも参考にする価値がある。
なぜなら長年を経てどこも少しは変容もあろうが、インドなどと事情が違うからです。
インドではまず大乗の台頭で分裂して本来の精神がおかしくなってきたことに
加えて、ヒンズー教の台頭とともに仏教は廃れ、イスラム教の侵攻で仏教は壊滅的に
やられた。だからインドにおいてはどれが正しい仏教かなんていっても甚だ怪しい。
しかるに南伝諸国は連綿と受け継がれてきた実績があるのです。
変容はあろうが、しかしそう極端には変わらないはずです。
ゴエンカ氏などミャンマーのヴィパッサナー瞑想がインドに逆輸入するくらいですから。
だからスリランカ、ミャンマー、タイとそれぞれ違いはあれどほぼ共通した実践です。
どこも気づきの瞑想、実践をやっている。
そして桐山仏教だけがこれらの南伝の手法と著しく違うのはなぜか?
あまりにも違い過ぎる。
南伝同士では大差ないのが桐山さんとは極端に異なる。
この現実をどう見るのか?
やはり字面だけで勝手に別の物を作ってしまい、それをシャカが説いたと
勝手に説明するだけだとわかるではないか?
[674]ユビキタス 08/03/14 08:43 *lPm7zuA9Viz*E-AelMq
>>660
「仏陀の真実の教えを説く」の175ページ、梵行の浄め高めるですね。
桐山さんは解脱供養などの先祖供養で先祖の不徳を浄め、仏の事業拡大販売促進の
お手伝いをすることで自分の前世になしてきた不徳を浄め高めることを梵行と
解説してますね。
梵行は清浄行なんだがこの浄めの言葉だけをとって勝手な解釈を押し付けている。
仏教のいう清浄は欲望を取り払ったことによって生まれるのです。
とめどなく沸き起こる欲望は汚れであり、現在の自分から節制努力によりこれらを
減らしていくのです。これが桐山さんの梵行には一つも示されていない。
自分以外の先祖の不徳などが出て来るのもおかしい。
自分は自分、先祖は先祖です。
各々が自分でその欲望を浄めるしかないのです。
自分の汚れた欲望や汚れた行いに先祖は関係ない。
如来の子孫さんというネーミングは桐山ニョライの子孫とも言うべき継承者という
意味をこめたものであろうが、遺伝子的にあなたの血のつながった先祖に如来の
ような立派な人格で立派な行いをした人がいてもおかしくはありません。
しかしあなたがその如来のような人の子孫であっても、あなたはあなたであり、
ご先祖様に恥じない行いをしているかはあなたにかかっている。
如来の子孫に地獄に堕ちる罪人だっていておかしくはないし、常に各自が問われるのです。
お手伝いによる浄めは浄めになりません。
それはその根底に不当な欲望があるからです。
徳が授かるとあるがこの徳は人格の徳ではありません。
悪い運命を受けずに済んで、よい御利益が貰えるという免罪符とサービスチケット
と交換できるというものです。
だから皆これを目当てに霊感商法の手伝いに励む。
ちっとも浄められてはおらず、あなた方の魂は汚れている。
不当な欲望と煩悩に汚染されている。
こんなものが清浄行の梵行であるはずがない。
[675]ユビキタス 08/03/14 12:55 *lPm7zuA9Viz*E-AelMq
>>660
「仏陀の真実の教えを説く」176ページ。
煩悩解脱だけではダメだという桐山説ですね。
桐山さんは煩悩解脱を心解脱として、これだけではまだ「小解脱」としています。
その上に「大解脱」があると説きます。
これが因縁解脱で運命の束縛から離れることだとしています。
心解脱でいくら煩悩をほどいてもそれだけでは徳の問題はどうなるのか?と疑問を
呈している。過去の悪業を清算解消せずに徳は生じないとしています。
悪業を清算解消するから運命が転換するのだというわけで、煩悩解脱だけでは足りず、
大解脱をしなければならないと説いています。
しかしこんなものは仏陀の真実の教えではない。
仏陀が説いたのは桐山さんが小解脱と貶した煩悩解脱だけです。
ダイ解脱なんて説いてもいないのです。
徳の問題ですが、自分がなした過去の悪業は後から解消など不可能です。
覆水盆に還らずという諺が全てを物語っている。
コーヒーをこぼしてお客さんの大切な衣装にかけて台無しにしてしまった。
この人はどうすればよいか?丁重に謝罪をし、損害弁償を払う。
そして今後はコーヒーをこぼさないように注意をする。
弁償するのが悪業の報いで、今後気をつけるのが煩悩解脱です。
相手が寛大で許してくれて弁償せずに済んだなんて話はないものとして、
結局それしかないではありませんか?
過去は消せないのだから報いは受けるしかないではないか?
これを回避したいというのが不当な欲望で道理に反するのです。
だから受けるものは受ける。
しかしそれで反省を十分したのならばあとはくよくよしない。
そして今とこれからをコーヒーをこぼさないような正しい道を歩めばよいでは
ありませんか?
釈尊もまた悪因苦果、善因楽果を説きます。
これには善業をなすことで悪業を相殺できるなんて説いていない。
清算はできないのです。
受けるものは受けて仕方ないにしても、これから悪業を作らないから心は平安です。
これが仏陀の真実の教えです。
[676]如来の子孫 08/03/14 13:45 Bj.cdF2kp6
ダメ元信者くんへ。
落ちこぼれ負け犬の遠吠えくんの言うことは、なるほど、知恵がな
いね。
アナゴンの別名を不還ということを知ったのかい?
5下分結煩悩が人間界に結びつける因縁だということも理解できた
かな?
その5下分結煩悩を断つことが、人間界に生まれる因縁(法則)を
解脱することなのね。

だからね、因縁解脱を否定することは、阿含経を知らない証拠でも
あるのです。大乗経典しか知らない人が言うことです。
時代遅れなのです。

[677]如来の子孫 08/03/14 13:55 Bj.cdF2kp6
シュダオンやシダゴンは来世成仏ではないか?
との質問には三分の理屈があるね。
だが、法華経の信者は100パーセント、来世成仏です。

阿含経の場合は、アラハンとアナゴンは100パーセントの現世成仏
シダゴンは、4割の現世成仏といえる。シュダオンは3結を断じる
から3割の現世成仏です。法華経とは大違いですね。
相当出来の悪い信者でも、阿含宗ならシュダオンまで行けるのです。

ダメ元くんみたいに、極度に出来が悪いとシュダオンにもいけないが
ね。
[678]如来の子孫 08/03/14 14:14 Bj.cdF2kp6
私の観察だが、東南アジア・上座仏教の瞑想法は、「気づき}を強調
するあまり、何時しか念を強める修行を忘れたと、推測する。
例えば、四念処法では、
身体を観察する。頭、胴体、骨、肉、血、大小便、その他諸々の
思いを巡らす、これも念です。

眼、耳、鼻、舌、身体、意識、明るい暗い、煩い、臭い、不味い、
辛い、熱い、寒い、気味悪い、苦しい、など、思いを巡らすのも、
これも念です。
心がころころ動いて活動する。それらの無常を観察するのも念です。
世界に存在する諸々の諸法が無常であり、常住の実体のないことを
観察するのも念です。

つまり、念とは、気づきの作用だけを言うのではない。
受、想、行、識、すべての働きを含んだ思念思考を、「念」と
表現しています。だから、修行体験をとおして管長の説く、
知・情・意の働きを強めること、の方が、正しいと思える。
少なくとも、その方が高度の瞑想に入れますね。
[679]如来の子孫 08/03/14 14:28 Bj.cdF2kp6
ダメ元くんは、梵行を勝手に解釈してはいけない。

釈迦が示した、在家の8法16法を見なさい。
そこに在家の修行すべき「法と律と梵行」が示されています。
信、戒、施、聞、持、観、法次、法向、布教、です。

法とは、「信、持、観、法次、法向、」などと言えるでしょう。
律とは、「戒、聞、法次、」などでしょう。
梵行とは、「施、布教」といえます。

釈迦も在家の8法16法で、施行と布教を命じています。
だから、施と布教を梵行と位置づけている阿含宗は、釈迦と同じく
正しいのです。
[680]ユビキタス 08/03/14 15:55 *lPm7zuA9Viz*E-AelMq
>>677
せっかく答えてくれたので、こちらに先にレスしましょう。
シダゴンが4割現世成仏、シュダオンが3割現世成仏って何ですか?
そのわけのわからん数字?
シダゴンは一来だから現世成仏は0割、その代わり来世になれば10割ではないですか?
シュダオンは現世は0割、来世もまだ0割、来々世以降人によって分かれるわけです。
おかしな数字を駆使しないでください。
数理的思考が国語力とともに苦手そうですね。
寧ろ出さねばならないのはここに阿含経修行集団としてのアゴン宗集団が100人
いるとする。
対してあちらに法華経信仰集団としての創価学会集団が100人いるとする。
実際にできるできないは別として、お互いの宣伝看板を比較する。
創価100人衆は方便品の説くところによると来世に成仏するのだから、
100人全員ともアナゴン成仏(現世成仏)は無理で、0割ですが、
逆に100人全員来世成仏は保証されるのだから来世は強い。来世の成仏率10割です。
つまりシダゴンが10割です。
一方アゴン宗は4種類の成仏を説くが、100人いるうちのその比率はどうなっているのか?
うまく行くと全員アナゴンかアルハットで現世成仏10割です。
しかし悪くすると全員シュダオンです。こうなると創価さんにも負ける。
勝ち負けうんぬんよりもアゴン宗でも一部の人しか現世成仏は果たせないのだから
来世成仏組は創価さんと同じレベルという理屈になる。
ならば桐山さんはどうして来世成仏というだけで法華経を否定するのか?
来世成仏がどうして悪いのか?
アゴン宗の信者だって現世成仏組は一部に過ぎず、シュダオンやシダゴンの来世成仏組
もいるはずなのに。
そこを質問しているのです。
だからこの論戦を挑んだ信者は創価に対する反論に窮したのです。
[681]如来の子孫 08/03/14 16:26 Bj.cdF2kp6
バッカだなあ!
落ちこぼれるわけだ。
馬鹿にはバカと、厳しく指摘した方が気がつくんだよね。
私の慈悲から馬鹿!というのですからね。
愛情を感じてね。

十結煩悩すべて切れたら完全成仏。
三結煩悩切れてシュダオンだから、3割現世成仏出来たと考えても
当然だろが!
法華経は現世成仏0パーセントでしょ、大違いジャン。
自分でも少しは考えてよ。

千座行と解脱宝生行では、名称も内容も違うの。
違いのわからないバッカが、トンチンカンなこと言うの。
因縁解脱を知らず、否定する人は仏教の時代遅れなの。
宗久さんという僧侶作家が、テレビで「阿弥陀も観音も、その他、
釈迦如来以外の仏は、つくり話です」という時代なのよ。
それ聞いて仰天した一般の信徒も多いかもね。

その驚いた人々と、ダメ元信者くんは同レベルなのです。
[682]如来の子孫 08/03/14 17:27 Bj.cdF2kp6
すみません。間違えました。
昨日書いた、前衆院議員の木内さんは、木内→城内です。
岐阜と書いたのも間違いで、静岡7区でした。

城内みのるさんが、毎朝4時に冷水を浴びる姿をテレビで見たの
です。議員復帰を目指して期するものがあるのでしょう。
肩と背中に洗面器で冷水をかけてました。
私は、馬鹿なので、いきなり頭から、ザバー、ザバーと冷水を浴び
ました。城内さんを見て、その頃を思い出しましたよ。
[683]如来の子孫 08/03/14 18:53 Bj.cdF2kp6
バッカだなあ、なんて言葉は相手を尊重していない、失礼とは認識
している。だが、辞めてからまで阿含宗を批難するのは、元阿含信徒
にしては情けなさすぎる。むしろ、アサハラ某や、ジョウユウなどの
方が、潔いではないか?誤りとは言え、ちゃんと自分の道を歩んで
いる。悪口だけ言う、負け犬の遠吠えくん達とは違う。私はそれを、
それなりに評価する。

阿含宗を辞めても、内心では応援している、元信者もいる。

ブドウを採れない狐みたいに、あのブドウは酸っぱいのだ、
と負け惜しみを言う狐もいる。
修行が成就しないのは、桐山宗の教義が酸っぱいからだ、と自分を
慰めるのだ。
 だが、そのブドウを採れて、甘いブドウだ!
手にしたら、確かに甘いブドウだ!、と自身の体験から言う私には
どういうつもりかね?
催眠術にかかった、とでも(大笑)。
[684]如来の子孫 08/03/14 19:21 Bj.cdF2kp6
他人と比較して、自分には出来ないと、意気消沈されても困るから、
なるべく、私の梵行は書かないで来た。また、実際、たいした梵行も
していないからね。
だが、トイレ掃除くんに誤解されても困るから、一例だけ、あげて
おくね。一例だからね、実践はこれだけではないよ。

釈迦は、在家に8法16法で、他人に教えを知らせることを梵行と
して命じているだろう。施行も命じている。
私は、管長の著書を、50冊以上は、他人に施本している。
購入した本を部屋に積んではいない。

本を受け取ってくれる友人等がいたわけです。私が下手な話をする
よりは、管長自身の言葉を直接、届けることができたわけです。
釈迦の言う、在家の8・16法の、施と布教を、実践したのですね。
だから、私の5つの悪因縁に変化が起きたのでしょう。

私も、怠けてるとはいえ、ただ寝てたわけではない。
例祭日のトイレ掃除と、どちらの功徳が大きいのか、私は知らない。

他人の梵行と自分を比較すること自体が、なぜか卑しいような感覚
が、私にあるね。だからあまり書きたくない。
人の、優劣なんて、人に図れるもんか!という思いもある。
他人なんて、好き嫌いだけで判定せい!
な〜んてね。
[685]ユビキタス 08/03/14 21:43 *lPm7zuA9Viz*8uBN6rSY
>>681 如来の子孫 08/03/14 16:26 Bj.cdF2kp6
>バッカだなあ!
>落ちこぼれるわけだ。
>馬鹿にはバカと、厳しく指摘した方が気がつくんだよね。
>私の慈悲から馬鹿!というのですからね。
>愛情を感じてね。

いや、どちらが馬鹿みたいに見えるかは、我々がどうこう言うのではなく
ギャラリーの皆さんにおまかせしましょう。

>十結煩悩すべて切れたら完全成仏。
>三結煩悩切れてシュダオンだから、3割現世成仏出来たと考えても
>当然だろが!
>法華経は現世成仏0パーセントでしょ、大違いジャン。
>自分でも少しは考えてよ。

人数の比率配分の話をしてるのですよ。
結(煩悩)が10個あって3つ切れたから3割切れたとかそんな話を
しているのではない。
ハードルは現世で成仏できるか来世に持ち越すか、そこだけを今仮に
問題視しているのです。
10個の煩悩が均等配分に切れやすくなっていると思いますか?
割と切りやすい煩悩、なかなか切りにくい煩悩とかあるでしょう。
100人の人間がいて、五下分結を断ったから不還で現世成仏に至った
人が何人いるかという話です。5/10だから5割なんて話ではありませんよね。
三結断ってシュダオンになれば、あなたの理屈だと3割の成仏達成率
なんだが、100人の修行者全員が現世でシュダオン止まりだったら
この集団の「現世成仏」率は0割という話をしているのです。
だからまずその設定、構図を理解してから考察してください。
[686]ユビキタス 08/03/14 22:11 *lPm7zuA9Viz*8uBN6rSY
>>681]如来の子孫 08/03/14 16:26 Bj.cdF2kp6
>法華経は現世成仏0パーセントでしょ、大違いジャン。

桐山さんの理屈によると、方便品で来世に仏道を成ぜんと書いてある
のだから、現世成仏率は0割です。
その点阿含経はアナゴンやアルハットを設定しているのだから、
実際にどれだけの人数比率で現世成仏者が誕生するかは未知数だが、
可能性だけはあり、法華経よりも優れているという理屈になる。
一人でもアナゴンが誕生すれば、アゴン宗は法華経のソウカに勝った
とも言える理屈もできるが、私は勝ち負けの問題ではないとしている。
それがアゴン宗で阿含経を修行したけど、機根が十分でなかったのか
アナゴンに至れず、シュダオンやシダゴンに終わり、完全成仏は来世
以降に持ち越しになった人たちの話をしている。
こういう人たちは法華経の来世成仏者と同じ条件、同じ境遇ではないか
と言っているのです。
これが桐山さんが法華経を修行しても来世も来々世も永久に成仏できない
と悟ったから法華経から離れたというのならばわかる。
しかしそうは言わず、来世成仏しかできないと知り、法華経から離れた
のだという。
来世成仏ってのは桐山さんにとっては面白くない境涯だったのでしょうね。
だったら阿含経のシュダオン、シダゴンも現世で一発成仏は無理で来世
持ち越しなんだから、桐山さんにとってもくだらん境涯という理屈になる。
子孫さんはどう思うか?
あなたにとってアナゴン、アルハットの現世一発成仏だけが価値があり、
シュダオン、シダゴンは価値がないと思いますか?
で、子孫さんはどうなんですか?
5つの悪因縁のうち3つが薄らいだ自覚のあるあなたは、もはや来世に
生まれ変わらないアナゴンになれると思いますか?
来世でもう少し修行の続きができるシュダオンになれると思いますか?
アナゴンでなく、シュダオン、シダゴンだったら、教団同士の員数比較
の話ではなく、個人対個人の比較から考えても、法華経のソウカさんの
信者と同じ結果を得て同じ経過をたどっていることになる。
そうなると法華経も馬鹿にできなくなる。来世には成仏できると謳って
いるのだから。
来世成仏ってそんなにつまらない話か?と問うているのです。


[687]ユビキタス 08/03/14 22:34 *lPm7zuA9Viz*8uBN6rSY
私は>>670で桐山さんが現世成仏にこだわり、来世成仏なんて認めなかった
から法華経も攻撃したその理由がよくわかると書いた。
その理由を明かしましょう。
桐山さんはアゴン宗を立てる前は密教を標榜していた。
空海の即身成仏を説く立場にいた。
アゴン宗以前の密教時代からの信者歴を持つ私は、当時の桐山さんの
法話でこんなことを言っていたと紹介しましょう。
「空海は一つだけ間違ったことを説いた。それは即身成仏という表現です。
実は仏教の成仏とは即身成仏しかないのです。来世成仏なんてないのです。
成仏と言ったら即身成仏だけで殊更即身なんて冠する必要がないのです。
単に成仏だけでいいのです」こう言っていた。
この立場があったから来世成仏なんて認めてもなかった。
その立場を阿含経に転じてからも離れられなかった。
おそらく阿含経にシュダオン、シダゴンなんて来世成仏があることなど
「霊障を解く」で方便品を使って法華経批判を考え出した時点では
知らなかったのでしょう。何しろ阿含経の看板だけ先に出して立宗宣言
をしたわけですから。阿含経をろくに読んでない。
しかし私はこんな立場よりももっと奥深い問題があると思う。
いや、実は底の浅い人生観という視点だが。
[688]ユビキタス 08/03/14 22:46 *lPm7zuA9Viz*8uBN6rSY
それは成仏とは何かという彼の成仏観です。
それは現世のいやな運命を回避するという因縁解脱という観点です。
昔から成仏とは因縁解脱の運命転換しかないと思っていた。
死後だの来世なんてどうでもいい。この現世だけが大切なんだ。
来世に期待するなんて逃避であり、現世が面白くなければ意味がない
ではないか?つまらない人生など犬に食われろ。(チャンネルをまわせ序文)
これが彼の昔からの人生観です。まだ若かったから老後だの死後だの
考えてもいなかった。徹底した現世主義です。
だから来世に因縁を切るなんて彼の論理では成り立たなかった。
ガンの因縁が来世には切れる?ふざけるな!現世でガンになったら
意味がないではないか?
横変死の因縁が来世に切れる?馬鹿も休み休み言え!現世で横変死したら
それで終わりで何もならないではないか?
こういうことです。だから法華経の来世成仏も否定した。
実際には敵である法華経教団にギャフンと言わせようと思って
発見した方便品の来世に仏道を成ぜんだが。
[689]ユビキタス 08/03/14 23:11 *lPm7zuA9Viz*8uBN6rSY
ところがアゴン宗を開いてから、事情が変わってきた。
阿含経を依経とはしたものの桐山さんの考えを裏付ける記載がどこにも
ない。それは経典の語句を捏造しなければ示せないほどに。
道徳修養みたいな耳にうるさい教えばかりである阿含経に桐山さんも
困った。
そんな中でオカルト好きな桐山さんは輪廻から脱する四沙門果を
発見した。これは人生修養なんて大嫌いな話でなく、なかなか霊的(?)だ。
これを示そう。俺様はこんなことも知っているのだぞ。
おい?シュダオンを知ってるか?アナゴンを知ってるか?と自慢できる。
しかしこれを示した時点で、では桐山成仏とはいったい何なのだ?という
ふうに成仏観が曖昧になった。
それが私が>>669で問うた山は死にますか?海は死にますか?です。
現世でガンの因縁などが切れることと、死後生まれ変わらなくなること
とか、生まれ変わっても高い境遇に生まれるという問題とどう関係するのか?
それはそれぞれ別の問題ではないかと。
どこまで現世の運命を転換できると、成仏に近づけるのか?
目的は現世の運命転換なのか?三世にわたり輪廻の止まることなのか?
どっちなんだ?これが曖昧になった。
強いて言うのなら「どっちも」ということになる。
しかし残念ながら現実はそうもいかなくなっている。
副管長はガン死したが、ボサツになったことにしたし。
「守護神を持て」では死後の安楽なんか信者向けに説いている。
アナゴンになればもはや縁のない阿鼻野街道の行く末を説いている。
いつのまにか来世成仏も認めるようになった。
だから子孫さんに問うたのです。現世の悪因縁薄らいだあなたは
シュダオンなのか?アナゴンなのか?シュダオン未満なのか?と。
その基準、指標とは実ははっきりしない。
ただ完璧に全部現世の悪因縁を切ってしまえば、もう生まれ変わらない
のかな?と想像するくらいで。
実はもはやそんな望みを託す信者もなかなかいない。
長年の信者○○屋さんももはや死後のニルバーナに期待してるだけで
現世の因縁切りも諦めているようだし。
逆に生まれ変わってもいいから、現世の不幸だけは御免真っ平だという
人もいたり。
[690]ユビキタス 08/03/14 23:33 *lPm7zuA9Viz*8uBN6rSY
>>681 如来の子孫 08/03/14 16:26 Bj.cdF2kp6
>千座行と解脱宝生行では、名称も内容も違うの。
>違いのわからないバッカが、トンチンカンなこと言うの。

いや、私が千座行と解脱宝生行を混同したのではなく、たしかに
桐山さんが法次は千座行のことであると説いたはずなのです。
私は一切事経の後の申恕林経もまた昭和50年代に平河町の道場で
直に聴いているのですよ。でもそんな細かい話は失念していた。
でも潜在意識の隅に残っていたのでしょうね。だから私は>>634
解脱宝生行は旧千座行でもよいが、と書いたのでしょうね。
そういう構図が頭に残っていたから桐山さんならこう言いかねない
と思ったのです。
当時法次→千座行、法向→七科三十七道品と説いたのを、ダルマチャクラ
掲載の際、編集で桐山さんの許可を得て最新の解脱宝生行に直したのです。
あの著書を見なさい。十六法で法次法向とあるのはこれは分けて考える
必要はないのではないか?との疑問にそうではないぞと答えたのです。
だからその法話は昭和57年あたりの話です。その時代には解脱宝生行
などはまだなくて、千座行しかない。
これを否定するのなら「最近の」桐山さんのこう語った法話を出して
みなさい。あなたは例祭をさぼるから最近の法話なんて宗報掲載分しか
知らないだろうが。
[691]ユビキタス 08/03/14 23:37 *lPm7zuA9Viz*8uBN6rSY
>>681 如来の子孫 08/03/14 16:26 Bj.cdF2kp6
>因縁解脱を知らず、否定する人は仏教の時代遅れなの。
>宗久さんという僧侶作家が、テレビで「阿弥陀も観音も、その他、
>釈迦如来以外の仏は、つくり話です」という時代なのよ。
>それ聞いて仰天した一般の信徒も多いかもね。

今日の一番のお笑いがこれです。
あんまし他人のこと馬鹿とか言わない方がいいんでね?
玄侑宗九さんが阿弥陀如来も観音様も作り話であると桐山さんとも
同じことを言うと、因縁解脱まで認めたことになるのかい?
全然別の話ではないか?
[692]ユビキタス 08/03/14 23:44 *lPm7zuA9Viz*8uBN6rSY
>>676 如来の子孫 08/03/14 13:45 Bj.cdF2kp6
>その5下分結煩悩を断つことが、人間界に生まれる因縁(法則)を
>解脱することなのね。

これこそ苦しい屁理屈というもので、因縁、縁起とは存在の法則であり
本来白も黒もない。
「これあるによりてこれ生ず。これなきによりてこれ滅す」が
縁起の法則、因縁の法則です。縁起の法則を悟り活用したから
苦の原因が煩悩にあるとわかり、煩悩を滅するから苦も脱すると
解脱の道を明示できたのです。
だから縁起の法則から解脱するなんてありえない。
縁起の法則が成立しないと煩悩解脱、苦からの超己もありえないのです。
[693]ユビキタス 08/03/14 23:55 *lPm7zuA9Viz*8uBN6rSY
>>678 如来の子孫 08/03/14 14:14 Bj.cdF2kp6
>私の観察だが、東南アジア・上座仏教の瞑想法は、「気づき}を強調
>するあまり、何時しか念を強める修行を忘れたと、推測する。
>例えば、四念処法では、
>身体を観察する。頭、胴体、骨、肉、血、大小便、その他諸々の
>思いを巡らす、これも念です。
>眼、耳、鼻、舌、身体、意識、明るい暗い、煩い、臭い、不味い、
>辛い、熱い、寒い、気味悪い、苦しい、など、思いを巡らすのも、
>これも念です。
>心がころころ動いて活動する。それらの無常を観察するのも念です。
>世界に存在する諸々の諸法が無常であり、常住の実体のないことを
>観察するのも念です。

だからそういうことに思いをめぐらしていくのに特別な念力なんて
不要なんです。子孫さんが書いた上記のことは念力の強い人でないと
思索できない話ではない。
普通の観察力、洞察力があればよい。
寝とってはいかんけれども起きてしゃんとしていればよい。
眠いと気づくのもまた気づきだけどね。
普通の思考力があればよいだけです。ましてやチャクラだクンダリニー
なんて関係ない。

>知・情・意の働きを強めること、の方が、正しいと思える。

輪廻する葦から鵜呑みに引用しているが、意味わかりますか?
念力を強めると知・情・意のどのような機能が拡大増幅されてバランスが
とれるのですか?どこをどういじくるのですか?
強めるのは知?情?意?
[694]ユビキタス 08/03/15 00:37 *lPm7zuA9Viz*E-AelMq
どこかからの部分転載です。

桐山さんは1982年5月の申恕林経の講義で、法次法向とは、
・法次 千座行
・法向 三十七菩提分法
と位置づけた。
これが十年後に、『ダルマチャクラ』に次のように掲載された。

「というような質問でしたが、そうではない。これは同じものではない。
法次と法向というのを阿含宗の修行に当てはめてみるなら、
法次というのは千座六度の行あるいは仏舎利宝珠尊解脱宝生行を修行することで、
法向というのは七科三十七道品の解脱成仏法を修することなのです。」
(『ダルマチャクラ』1992年、36号)

これが今回の本の144頁の後半の元となった文章です。
干柿さんが指摘したように、今から16年も前に、
・法次 仏舎利宝珠尊解脱宝生行
・法向 七科三十七道品
と、桐山さんは指摘している。
今回初めて講義したのではありません。

注目すべきは千座行も解脱宝生行も同じ扱いで法次にしていることですね。
私の記憶という頼りにならないものでなくダルマチャクラという印刷された雑誌
が文証です。
子孫さん。たまには道場に行きなさい。
道場では阿含経のビデオ勉強会というのを昔からやっているのですよ。
主催は必ずしも宗務局ではなく地区なりファミリーだが。
原則参加は自由です。
私のいたファミリーで見たビデオは如是我聞の説明だけで毎回1時間くらい食うから
そこを早送りにして見ましたが。
昭和50年代の法話もビデオで勉強できる体制が整っているのですよ。
現役信者が元信者にそんなことを教えてもらって恥ずかしくないか?
[695]孫 青柿 (あおがき) 08/03/15 00:42 ZdNFhOauWK
>>678 >私の観察だが、東南アジア・上座仏教の瞑想法は、「気づき}を強調するあまり、何時しか念を強める修行を忘れたと、推測する。

間違いですね。漢訳で念と訳されてますが、アーナパーナサティもsatiとは「気づき」ですからね。

>例えば、四念処法では、身体を観察する。頭、胴体、骨、肉、血、大小便、その他諸々の思いを巡らす、これも念です。
眼、耳、鼻、舌、身体、意識、明るい暗い、煩い、臭い、不味い、辛い、熱い、寒い、気味悪い、苦しい、など、思いを巡らすのも、
これも念です。
心がころころ動いて活動する。それらの無常を観察するのも念です。
世界に存在する諸々の諸法が無常であり、常住の実体のないことを
観察するのも念です。

思いを巡らすではなく、思いに気づくことですが、ま、あとは大体正しいですよ。
ところで
「四念住法(しねんじゅうほう)
旧訳では四念処(しねんじょ)といいます。四念処観ともいいます。さとりを得るための四種の内観・瞑想法です。身念住(しんねんじゅう)・受念住(じゅねんじゅう)・心念住(しんねんじゅう)・法念住(ほうねんじゅう)の四つです。
この身は不浄なり。
受は苦なり。
心は無常なり。
法は無我なり。
と観念し瞑想します。すなわち、この身体は不浄である。(すべての)感受は苦である。心は無常である。すべての事物は無我である、と観念し瞑想します。」

と書いたある宗教者がいますが、ニョライの子孫さんと比べてどうだろうか?
子孫さんのほうが正しく理解していますよね。

安那般那念経はご存知のとおり四念処観の具体的な実践の仕方を説いた経典のひとつですが、
ある宗教者が経典の中に出てくる単語を「行=チャクラにプラナをめぐらす、止=チャクラにプラナをとどめる」「身=胴体のチャクラ 心=脳のチャクラ」と間違ったことを言い、
しかもこの宗教者は安那般那念経が四念処観の解説であることも分ってないのですが、
どう思われますか?
子孫さんのほうが正しく理解していますよね。

>>684 どうして運を運ばないのですか?
ゲイカは道場に来て礼拝しそして10分でもトイレ掃除をして大大運気を運びなさいとおっしゃてますよ。え、知らないてか?
[696]ユビキタス 08/03/15 08:46 *lPm7zuA9Viz*E-AelMq
>>660
「仏陀の真実の教えを説く」の144ページです。
法次→解脱宝生行
法向→七科三十七道品
の桐山文証ですね。
桐山文証なんて出したって何の意味もない。
桐山さんがそう言っているだけのことで、裏付けるものがない。
桐山説を証明する経典の中の釈尊の言葉や、学者の説などを出さねば
意味がない。
元は千座行だったわけです。
しかし桐山さん曰わく千座行より簡素化されたとはいえ、より
ストレートに仏舎利尊の力をいただける解脱宝生行に替えたのだから
これを充当するのに何の支障もなくスムースだったわけです。
しかし桐山文証を出そうが千座行だろうが解脱宝生行だろうが、
こちらの批判は前に示したのと変わりない。
真言などを唱えて仏の加護をいただくなんてのは青柿さんの言葉を
借りるのなら呪術であり、このような依存は釈尊が否定している。
桐山さんは法次と法向の2段階に分けた。
七科三十七道品の修行にいきなり飛びつくのは難しいから法に近づく
為に仏を供養して仏の加護をいただく因縁切りの法の必要性を示した。
しかし釈尊は自分以外のなにものにも頼ることを否定するのだから、
こんな呪術勤行を釈尊が説くわけがない。
このように桐山さんは阿含経を出しながら、釈尊も説いていない
どころか釈尊の否定するものをどんどん当てはめていく。
この解説は桐山さんが八正道を否定していることに始まっている。
釈尊は申恕林経で私が説くものはこの広い森林の葉っぱ全てを自分の
知識とするならば、おまえたちに教える必要があるものはこの手の中の
葉っぱと同じであり限られている。
そこで四諦の法門を例の桐山調で説くのだが、道諦の道は八正道なんて
ものではないと説く。
それは三十七道品の一部に過ぎず、学者などは単に道の言葉がつくから
当てはめただけで、それは間違いであるなどと無知を示している。
学者が解釈したのではなく釈尊が経典でそのように述べているのに。
それに八正道を七科三十七道品の一科目などと見るのは間違いです。
そもそも七科三十七道品は七科目37のシステムがあるのではなく、
経典で別角度から示された同じ修道法を表現方法により分類したものに
過ぎない。重複がいくつもある。
それを一つにまとめるとするならば八正道しかないのです。
桐山さんは八正道を道徳みたいな教えとして毛嫌いして忌避しただけです。
[697]如来の子孫 08/03/15 10:01 Bj.cdF2kp6
アナパーナ・サチのSATIは、パーリ語辞典で、念、正念、念行、
念住、とあるから、「気づき」一辺倒に解釈してては間違いを
起こすね。
[698]如来の子孫 08/03/15 10:12 Bj.cdF2kp6
ダメ元信者くんの、来世成仏のとらえ方が不十分です。
来世とは、何時まで経っても来世なの。
例えば、前前世に生まれ法華経に出会い、来世成仏を知る。
で、死んで前世に生まれて法華経に出会うと来世成仏なのね。
で、前世で死んで現世に生まれて法華経に出会うとまた来世成仏ね。
で、来世に生まれて法華経に出会うと、又次の世成仏なのよ。
これが来世成仏の仕組み。
永遠に現世成仏が来ないのよ。

これじゃ、7回目に成仏するシュダオンより哀れでしょ。
ダメ元くんは、上文を3回以上読んで、内容を理解しなさいよ。
[699]如来の子孫 08/03/15 10:27 Bj.cdF2kp6
阿含経は因縁解脱=成仏を説く経です。
元阿含信者が因縁解脱を否定するのは恥ずかしい限りですね。
今や、他宗の僧侶であっても、阿含経=因縁解脱ということを、
知識としては持っておく必要があるでしょう。
そういう時代です。

管長が、阿弥陀如来を偽の仏と言いながら、阿含宗でお祭りする
阿弥陀如来には力があるという。なぜなら、阿含宗には釈迦の成仏
法があるから、それが阿弥陀如来に力を与える、というわけです。

このことは、阿弥陀如来を本尊とする宗派でも、秘仏として釈迦如来
お祭りし、阿含経を修行すれば問題ない、ということですね。
一般信者にまでそれを知らせるかどうか別として、僧侶はそうすべき
だと思えますね。成仏を本当に望むならね。

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