■掲示板に戻る■ ■過去ログ倉庫一覧■
阿含宗と桐山氏について 第五十七章
- 1 :天照
◆MO30b8Jwoo:2012/01/02(月) 22:54:07
- サブタイトル:【 信者の猛追!訴訟に欺瞞解明。老いる教祖。どうなる阿含宗!?】
このスレッドは阿含宗考察と検証や意見交換が目的です。
なるべく規制はかけないつもりですが、悪質な悪戯や荒らし行為、卑猥AA、無駄AA、連続コピペ、
広告・宣伝張り、意見にならない投稿、その他閲覧にふさわしくない迷惑行為・投稿はご遠慮ください。
記事削除の対象となります。また、その他微妙な判断は管理人である”天照”が行うこととします。
阿含宗を批判し続けて10数年!大御所2chの「阿含宗という宗教」はこちら。
http://toki.2ch.net/psy/
各種サイトを掲載したリンクHP「agama考察室」
(ここでほとんどのサイトをまとめているので探しやすい)
http://agama.zouri.jp/index.htm
このしたらば自体の過去ログを見たい場合は、この掲示板内の「過去ログ倉庫」をクリックしてください。
2chでの過去ログ、ザビビでの過去ログを見たい場合は、「agama考察室」へどうぞ。
★2ch「阿含宗という宗教」の過去ログを見やすく編集したサイトも登場★
「agama galage」(アーガマ ガレージ) http://agon.konjiki.jp/
◆阿含経の分析や研究に◆
「agama 研究室」(アーガマ 研究室) http://agon.genin.jp/
■退会について考えたり相談できるサイト
「agon
secession club」 略称ASC http://agama.22web.net/
- 2 :天照
◆MO30b8Jwoo:2012/01/04(水) 15:47:32
- 前章五十六章の「997」ユビさんへ。
恐れ入ります。ユビさんの提案のように中巻が発刊されてからの作成は大正解でした。
また、ユビさんとMさんのご尽力により下巻データが得られているわけですから本当に
貴重なPとして掲載できました。心より御礼申し上げます。
とりあえず原文の掲示ではありますが、比較するには足りているかと思います。
htmlもロックをして無いので印刷も行おうと思えばできるわけですから、下巻を
示す方には最適なサイト(P)であるといえるでしょう。
携帯やスマホでは見るのはきついでしょうが、そこは容赦を。
やはりネットの力というのは恐ろしく凄いですね。
我々が在籍していた頃が今の時代ほど整備されていたら、早く退会できたかもしれません。
それだけ詐欺師の手口や内容が明らかにされてきている。非常に喜ばしいことです。
今年はさらに暴露が進んでゆくことを楽しみにしている次第です。
- 3 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/04(水) 21:16:05
- 前スレ
>999:準シュダオン12/01/04(水) 10:41:03
>いや説いてますよ。修行の第一歩は我見をなくすことだ、と説いてるのですから、
>欲貪や瞋恚は、当然、第二歩以降になるでしょう。
>それに欲貪は我執から生じるのですから、我見を断たない限り、欲貪を断てる
>道理がないのです。
したらば初お笑いですね。
私は完全に欲貪や瞋恚を断った阿那含の話なんかしてません。
それはやはりシュダオンより後でしょう。
しかし欲貪や瞋恚は百%断てなくても、5%でも10%でも減らすような努力なら
今この瞬間からできるではないか?
それを言っているのです。
在家の五戒に不殺生戒がありますね。
あれ成仏法の第一歩ですよ。
なぜなら瞋恚があるから殺したいんでしょう。
それを殺すなと戒めて殺したい瞋恚の心をセーブするのです。
それをあなたは「俺はまだシュダオンにもなってないから三結を断つだけで精一杯で
瞋恚をセーブする修行だの戒律なんてできまへんな。準シュダオン、未シュダオン
なんだから瞋恚のままに殺しますわ。シュダオンになったら今度は瞋恚のままに
殺すようなことはせずに戒めの修行に入りましょう。今は殺す。
瞋恚を抑える気なんか今は毛頭ありません」と言うのか?
「盗むな」という戒律(五戒)に対して「盗んででも欲しい貪りがあるんだよ。
でも欲貪を減らすなんてシュダオンになってから初めて開始すればよいのだから
シュダオンになるまでは盗んでもよいのか?
また桐山ゲイカが「因縁切りの修行をしてるのにガンの因縁が出てガンと診断されました。
どうしましょう?」と指導を乞うた信者に対して「心解脱行はやっているか?
悪い心癖を出さないようにしているか?」とたしなめた時、「そんな修行はシュダオンになってから始めようと思ってる。
何をたわけたことを言ってるか」と反論するのですか?
だいたいあなた何で瞑想なんかやってるんですか?
修行の第一歩は我見を断ち三結断ってシュダオンになることでしょ?
どうして言われた第一歩だけに励まないで、パール瞑想なんて我見を断つ目的でもない
第二歩、第三歩の瞑想ゴッコなんかしてるんですか?
矛盾してますよ。
我見を解決せずに瞑想しても妄想になるだけでしょ?
- 4 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/04(水) 21:48:50
- >999:準シュダオン12/01/04(水) 10:41:03
>我見は自分で気づかねばどうにもなるものではありません。自覚できてこそ断つことが
>可能なのであって、人に教えて貰うようでは見込みがないですね。
だから桐山さんは独断を禁じて指導を受けよと昔からはっきり説いているのですよ。
あなた独りいくら叫んでも、ここはアゴン宗なんだから仕方がない。
指導に従う気がないのならアゴン宗をやめなさい。
だいたいあなた自信があるんでしょ?
だったら桐山さんに質問しても「準シュダオン君の言うことに間違いない」とお墨付きが
得られるはずではないか?
>内面を伴わない、外見的・形式的な護摩の効果を否定してるだけです。
>別に焚火したからとて、害があろうはずもないし、心が汚れるはずもない。
>釈尊当時だって、炊事には火を焚いたであろうし、かといって心が汚れる
>はずもない。
ただの焚き火を禁じたなんて誰が示した?
「木片を焼いたからといって浄らかさが得られると考えるな」と焚き火を限定してるのです。
当然暖をとるため、炊事をする為の焚き火では浄らかさを得るなんて考えない。
つまり内面性を追求する宗教上の護摩です。
これを根本から否定したのです。
どんなに内面性を追求しても焚き火で浄らかさが得られるなんて考えている人は
煩悩が増します。慢心の煩悩、依存の煩悩です。
仏教では煩悩が増すことを心が汚れると言います。
汚れた心とは煩悩のある心です。
浄らかさを得たいと思ったら護摩に頼ろうとするその汚れた煩悩を捨てないと
成し遂げられません。
我見ではなく経典でそう説いているのは誰の目にもわかる。
周囲の人に聞いてご覧なさい。
- 5 :準シュダオン:2012/01/05(木)
10:17:06
- >ただの焚き火を禁じたなんて誰が示した?
>「木片を焼いたからといって浄らかさが得られると考えるな」と焚き火を限定してるのです。
>当然暖をとるため、炊事をする為の焚き火では浄らかさを得るなんて考えない。
だからぁ、「木片を焼いたからといって、浄らかさが得られると考えるな」と、
いう意味は、木片を焼くのは外面的なことだから、内面には関係ない、という
意味でしょう。私(釈尊)は、外的に木片を焼くことをやめて、内面的に光輝を
燃焼させる。永遠の火をともし、常に心を・・・云々。と、続けています。
そしてこの火を焚くバラモンは慢心に満ちていることを釈尊に指摘されていま
すね。ユビさんと違い、私は、このバラモンは慢心に満ちて木片を焚いていた
から釈尊に注意されたと、解釈しますよ。
「内面的に光輝を燃焼させる」瞑想の手助けとして木片を焚いたら良いでしょう?
- 6 :準シュダオン:2012/01/05(木)
10:52:26
- 3日前、NHKBS1で、「これが日本の武道」という番組で弓道を視た。
興味深くて、密教の修行に似ている、同じと言っても良いと思った。
弓道の修行過程が、密教の現世利益から成仏に移る過程に似ていると思った。
弓道八段ともなれば、暗闇の中で、無心で矢を射て、28メートル離れた、
直径36センチメートルの的の真ん中に命中させることが出来るのだ。
神技といえよう。その実演を、テレビで視たね。
弓道八段審査の合格率は、1%未満だという。審査対象は人間性が第一で、
2回の矢の射の実技をさせる。「的に当てようという卑しさ」があると、
減点されるという。面白いのは、的に当てようという思いは卑しさ、とさ
れてしまうということだ。勿論、これは八段という高段者だから、そのよう
に評価されるのであって、初心者の頃は的に当たらないので、当てようと
する思いは必須なのである。その思いが、足や腕や手の姿勢を、心構えを
向上させて、だんだん的に当たるようになるわけです。
しかし、その段階を至ると、当てようとする意識は卑しいものとされ、無心を
目指さなくてはいけないという。高段者の審査員は、その受験者の心を見通す
ことが出来ると言う。審査員には、他心通があるのかも知れない。
わたしが、修行の最初は現世利益追求で良い、と前にレスしたのは弓道と同じ
です。的に当てようという思いが現世利益です。でも、何時までもその状態で
はいけないわけです。弓道が上達するにつれて、的に当てる思いを捨てて、
無心を求めるように、密教修行も修行が進めば、現世利益を捨てて次の段階に
自然に移るのです。管長の教えを聞いていれば、自然にそうなるはずです。
私は、修行が全く進んでいないので、まだ現世利益も欲しいですけどねw。
- 7 :名無しさん:2012/01/05(木)
12:05:23
- >釈尊当時だって、炊事には火を焚いたであろうし、
初笑い!
釈迦がご飯を炊いた??? 出家とは托鉢することだと思うけど?
- 8 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/05(木) 22:35:32
- >>5:準シュダオン12/01/05(木) 10:17:06
>だからあ、「木片を焼いたからといって、浄らかさが得られると考えるな」と、
>いう意味は、木片を焼くのは外面的なことだから、内面には関係ない、という
>意味でしょう。私(釈尊)は、外的に木片を焼くことをやめて、内面的に光輝を
>燃焼させる。永遠の火をともし、常に心を・・・云々。と、続けています。
やはり国語力に著しく欠けますね。
それならばどうして外的に木片を焼くのを「やめて」と表現するのか。
護摩を焚いて浄らかさを得たい人に二種あり。
1人は外的に木片を焼くことばかりに囚われて内面を輝かせることに重きをおかない人、
もう1人は護摩を焚いても内面を輝かせることに重きを置いてバランスのとれてる人、
前者は浄らかさが得られない、後者は浄らかさが得られると区別をつけたいならば
木片を焼くことを「やめて」なんて言うはずがない。
外的に木片を焼くことばかりに気を囚われずにと表現すれば済むことです。
やめさせてどうする?
>そしてこの火を焚くバラモンは慢心に満ちていることを釈尊に指摘されていま
>すね。ユビさんと違い、私は、このバラモンは慢心に満ちて木片を焚いていた
>から釈尊に注意されたと、解釈しますよ。
いいえ、たまたまあるバラモンが慢心があったのではない。
経典は「浄らかさが得られると考える人はそれゆえに浄らかさが得られない。
そなたの慢心は重荷である」と説きます。
つまり護摩を焚くことによってなんらかの浄らかさが得られると考えたから
その考えが重荷となる慢心であり、これによって浄らかさが得られないのです。
ちゃんと慢心の条件が明記されているのです。
- 9 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/05(木) 23:30:51
- >>6:準シュダオン12/01/05(木) 10:52:26
>弓道の修行過程が、密教の現世利益から成仏に移る過程に似ていると思った。
>審査対象は人間性が第一で、
>2回の矢の射の実技をさせる。「的に当てようという卑しさ」があると、
>減点されるという。面白いのは、的に当てようという思いは卑しさ、とさ
>れてしまうということだ。勿論、これは八段という高段者だから、そのよう
>に評価されるのであって、初心者の頃は的に当たらないので、当てようと
>する思いは必須なのである。その思いが、足や腕や手の姿勢を、心構えを
>向上させて、だんだん的に当たるようになるわけです。
この弓道の話とあなたの変な利益追求肯定の話とは実は噛み合いません。
弓道の達人、高段者は実は邪念、雑念がなく一連の動作を行っているが
ちゃんと経験と訓練により的に照準を合わせているのです。
ゴルフのパターと同じですね。このパターを決めて、ホールアウトしたら何百万
とか雑念があったらそれは無駄な力みとなりパターも外します。
それよりもパター三昧で普段の練習と同じように集中するがその集中はホールに
パットインする技術です。
達人になればなるほど邪念、雑念がなくなり会→離れの一連の所作のみに集中し
的を狙って的を射るのです。
密教の初心者が現世利益を追求してよいなんてあるが、初心者こそ求められるのは
金よ儲かれなんて祈りではなく、正しく印を結び真言を唱え、観想に耽ることに
集中することであり、金よ、儲かれなんて祈ったり邪念をこめたりしません。
そんな邪念を送っているのは、実は修法者ではなく外陣で必死にナモナモしている
信者、祈願主です。
行者は自分の為に祈らない。やはり無心に所作に集中するだけだ。
祈願主がナモナモと邪念に覆われることを修行と言うか?
密教の祈祷とは坊さん自らの現世利益など祈らない。
信者の祈願に応じるのです。
その信者が最初はガツガツ祈願していたが後に祈願を必要とせず転機が訪れる
なんて説いていない。
祈願主そいつ次第で密教の坊主は祈祷の所作に励むだけです。
そしてその護摩祈祷とはなくなることなく坊さんの一生として焚き続けられます。
転機もクソもない。
アゴン宗の爺教祖も俺は一生護摩を焚くなんて所作を間違えカンペを見ながら焚いて
卒業がありません。
勿論最初は自分の現世利益の為に護摩を焚いていたなんて言いません。
護摩と別に愛人求めたが
- 10 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/06(金) 00:31:45
- >>6:準シュダオン12/01/05(木) 10:52:26
>無心を求めるように、密教修行も修行が進めば、現世利益を捨てて次の段階に
>自然に移るのです。管長の教えを聞いていれば、自然にそうなるはずです。
初護摩、星まつりと続くが、あの夥しい種類と金額の護摩木、護摩札をどう思うか?
あれって本来はそこまで多くなかった欲望を煽ったのですよ。
前にも質問をしたことがあると思います。
アゴン宗に入信する前からこんなに神仏ごとに金かけて祈願してるのか?
多くの人は年に1回初詣で小銭を賽銭箱に投げ入れ、千円もするかしないか程度の
お守りを買うくらいのささやかな祈願に過ぎなかったのが、アゴン宗に入信してから
護摩木を呆れるほど購入して書き、また教団もその呆れるほどの購入成績に
応じてプレゼントを用意する。
我々はアゴン宗に入って明らかに本来必要ともしなかった不当な欲望が増えたのです。
我々は凡人だから最初から欲望も煩悩もなかなかなくし減らすこともできない。
だから最初は現世利益を追求してしまうのはなかなかやめられないことかも知れない。
しかし終極的には煩悩をなくす道を歩んでこそ仏道と言える。
ならばどうしてそのスタートにおいて今まで抱えてもいなかった欲望の重荷を
密教の護摩祈祷は抱えさせて、そこから遠退くことをより困難にさせて妨げるのか?
- 11 :名無しさん:2012/01/06(金)
08:11:15
- >>10
>多くの人は年に1回初詣で小銭を賽銭箱に投げ入れ、千円もするかしないか程度の
>お守りを買うくらいのささやかな祈願に過ぎなかったのが、アゴン宗に入信してから
>護摩木を呆れるほど購入して書き、また教団もその呆れるほどの購入成績に
>応じてプレゼントを用意する。
>我々はアゴン宗に入って明らかに本来必要ともしなかった不当な欲望が増えたのです。
大正解。
- 12 :準シュダオン:2012/01/06(金)
10:24:33
- >初護摩、星まつりと続くが、あの夥しい種類と金額の護摩木、護摩札をどう思うか?
>あれって本来はそこまで多くなかった欲望を煽ったのですよ。
欲望を煽られたとしても、信徒の財力には個人差があるのですから、懐具合に
合わせて申し込んだら良いのです。護摩木祈願も同じこと。弓道が、的に当てる
ことを目標にして習練し、的に当たるように上達したら、今度は的に当てようと
する雑念を捨てる習練に入るわけです。そして無心を獲得する。そこまでいくと
暗闇で矢を射ても的に命中するという、離れ業をも出来るのですね。
最初から無心を求めるのは無理な話です。
「阿含密教いま」本のP290〜291を読めば良く解かるでしょう。
まず自分の生活を安定させないと、修行もなにもないでしょうw。
不当な欲望を増やしたのは、個人的な問題です。私は増えていない。
「世俗的な欲を捨てよ」と、釈尊が説いたにしても、それは出家者に対する
ことであって、在家者は、それでは生きていけませんよ。
釈尊が、在家者に、健全な欲まで捨てよとは説くはずがないのです。
現に、在家には勤勉に働いて財を増やせ、と説いています。
裕福に暮らすからといって、欲貪とは限らないし、
質素に暮らしているからといっても、欲貪がないとは限りません。
- 13 :準シュダオン:2012/01/06(金)
10:52:34
- 弓道のテレビ番組では矢を放つ時の脳の活動を機械で調べていたね。脳の各
部分の血流などを調べるわけです。はじめは格闘家のニコラスさんの脳を調
べたね。ニコラスさんは矢を放つ瞬間が一番血流が多く、気持ちが高揚して
いたことがわかった。弓道家はどうであったか?
弓道家の脳は、冷静そのもの、変化なしであった。
脳科学者は、禅をしている時の禅僧の脳と、弓道家の脳と、データーからは
区別が出来ないと話していた。弓道家の脳を調べたことは今回が初めてとの
ことであった。禅僧の場合は、前に調べたことがあったのだね。
無心状態の禅僧には煩悩は無く、安定した心であろう。
無心状態の弓道家にも煩悩はなく、安定した心であろう。
前期大乗仏教の「さとり」は、↑のことだと考えられるね。
そして、ユビさんなどがいう涅槃、さとりもそれを言ってるように思われる。
しかし、釈尊の言う「涅槃」は、上記のそれとは違うと思われる。
釈尊は、二人の仙人に師事した時点で、「無心」は獲得していた。
しかし、それに満足せずに、師を離れ、一人修行を続けた。
で、三明智を得て、これを完全なる涅槃と定義した。
- 14 :深山:2012/01/06(金)
12:35:21
- >>12 :準シュダオン:2012/01/06(金)
10:24:33
>「世俗的な欲を捨てよ」と、釈尊が説いたにしても、それは出家者に対する
>ことであって、在家者は、それでは生きていけませんよ。
>釈尊が、在家者に、健全な欲まで捨てよとは説くはずがないのです。
>現に、在家には勤勉に働いて財を増やせ、と説いています。
また、準シュダオンさんのインチキ説教が始まった。
釈尊は「世俗的な欲を捨てよ」と在家にも出家にも説いたのです。
「それでは生きていけませんよ」などということはありません。
準シュダオンさんがどんなゴマカシをしているか、信者さんたちはお気づきですか。
欲望を持つか、捨てるか、1か0しかないかのようにすり替えて、
自分の欲張りを正当化しようといているのです。
だが、釈尊は、欲望は有るか無いか、という両の極端ではなく、
「減らす」「最小限にする」ということを説いたのです。
- 15 :深山:2012/01/06(金)
12:37:47
- >>12 :準シュダオン:2012/01/06(金)
10:24:33
>「世俗的な欲を捨てよ」と、釈尊が説いたにしても、それは出家者に対する
>ことであって、在家者は、それでは生きていけませんよ。
欲望を「減らす」「最小限にする」を釈尊は説いた。
だから、出家の食事は肉体を維持するのに最小限の一日一食です。
所有しているのは、必要最小限の衣類と托鉢用の鉢だけです。
食欲や睡眠欲すらもなくせと説いているのではなく、
それらを最小限にして、囚われないようにするのが彼らの修行です。
食欲や睡眠欲は肉体を維持する上で不可欠で、
これすらもなくせと説いたのは仏教ではなくジャイナ教です。
解脱しても、肉体を維持する最小限の食欲や睡眠欲が残っているからこそ、
彼らは有余依涅槃であり、同時に、常にこれらの欲望に囚われないように、
必死に修行を続けた。
解脱しても、欲望に囚われないように努力しないと、滑り落ちるのです。
信者さんたちの中には一度阿羅漢になると、元には戻らないと
信じている人がいるが、そんなことはない。
生きている間は肉体を持っているのだから、つねに煩悩がささやきかけ続ける。
だから、釈尊も常に悪魔(煩悩)のささやきを聞いていた。
俗人の我々は悪魔の言葉に乗るが、解脱者は乗らないだけです。
- 16 :深山:2012/01/06(金)
12:40:00
- 欲望を最小限にして、それに囚われないようにしている解脱者が、
次のようなことを言うなどありえるだろうか。
「食いしん坊だから大食いするけれども、食べた食物が
脂肪になったときにその脂肪を燃やしてしまうようにしているのです。」
(ダルマチャクラ、175号、2004年、31頁)
2004年はすでに桐山さんは有余依涅槃の聖者だと宣言していた。
有余依涅槃とは普通は阿羅漢を指します。
信者さんたちによおく理解してほしいのは、
「食いしん坊の阿羅漢など存在しない」
ありえないのです。
食欲を制御している者こそが阿羅漢なのです。
これは阿羅漢だけではなく、出家なら食いしん坊などありえない。
初心の比丘ですら、これはありえないというよりも、してはならないのです。
自分の食欲を最小限にして、囚われないように自分を監視している者が、
京都から毎日、高級弁当を職員に届けさせるなんてするはずがない。
上記の一文だけでも、桐山さんは阿羅漢どころか、仏教の出家ですらない。
在家としても失格です。
- 17 :深山:2012/01/06(金)
12:42:58
- >>12 :準シュダオン:2012/01/06(金)
10:24:33
>「世俗的な欲を捨てよ」と、釈尊が説いたにしても、それは出家者に対する
>ことであって、在家者は、それでは生きていけませんよ。
食欲や睡眠欲は生きていく上で最小限は必要です。
しかし、性欲は満たなくても生きていけます。
だから、出家は性的な関係は全面禁止であり、在家すらも慎むことが求められる。
在家の戒律は不邪淫戒であり、出家は不淫戒です。
不邪淫戒というと、在家のセックスを容認しているかのように
誤解している人がいるが、そうではありません。
それが『仏陀の真実の教えを説く[上]』の出家経に出てきます。
「梵行を修行することで阿那含になった」という文章があります。
信者さんたちにまず着目してほしいのは、出家と在家の両方について、
梵行をなして阿那含になっているという点です。
桐山さんは出家と在家で梵行の中身が違うなどと、経典に
書いていない勝手な解釈をしている。
だが、阿含経では出家と在家で梵行の違いなど説いていません。
また、仏教の梵行とは、信者さんたちが信じているような
労働奉仕、積徳行、霊的浄化などではありません。
そんな解釈が阿含経にあるなら引用してみてください。
あるはずがない。
アゴン宗のいう梵行など桐山さんのオカルト解釈です。
信者さんたちは釈尊が説いた正しい梵行の意味を理解してほしい。
- 18 :深山:2012/01/06(金)
12:48:10
- >>12 :準シュダオン:2012/01/06(金)
10:24:33
>「世俗的な欲を捨てよ」と、釈尊が説いたにしても、それは出家者に対する
>ことであって、在家者は、それでは生きていけませんよ。
「清らかな行い.すなわち出家者が戒律を守って禁欲の生活を送ること.
特にあらゆる性的な行為を慎むこと」(岩波仏教辞典)
仏教の梵行とは広くは八正道を指し、狭くは「性的な行為を慎むこと」です。
在家でも、性欲を慎むことによって性欲という欲貪を抑えたから、
阿那含に到達したのです。
桐山さんの解説では、ボン行で徳を積むと阿那含になるとという、
訳のわからない説明です。
しかし、釈尊はそんな荒唐無稽な話をしているのではありません。
欲貪とは欲望であり、在家にあっても性欲を慎み、これを捨ててしまったから、
阿那含にまで到達できたのです。
徳を積むとオシャカが悪因縁を切ってくれるなんて荒唐無稽な話ではなく、
在家でも食欲や性欲を慎み、これらに囚われなくなったから阿那含になった、
という当たり前の話です。
積徳行も霊的浄化もなんにも関係ありません。
- 19 :深山:2012/01/06(金)
12:51:28
- >>12 :準シュダオン:2012/01/06(金)
10:24:33
>釈尊が、在家者に、健全な欲まで捨てよとは説くはずがないのです。
>現に、在家には勤勉に働いて財を増やせ、と説いています。
信者さんたちは、こういう経典の一部を切り貼りしたインチキ説に
惑わされないことです。
健全な欲も減らせ、と説いたのが釈尊です。
釈尊は在家に、最初に何と説いたか。
出家しろと説いたのです。
世俗を捨て、妻子を捨てる、これが最良の道であると説いた。
世俗の生活のあり方を釈尊は基本的には否定している。
在家にあってさえも、できるだけその生活のあり方を
出家に近づけるように説いた。
だから、在家でも阿那含まで到達した人がいたのです。
世俗の生活そのままで、むしろ、「健全な欲望」と称して欲望や執着を
増長させていたら、斯陀含にすらなれない。
斯陀含とは欲貪と瞋恚、つまり欲望や怒りや慢心を
減らす努力している人たちを指すのです。
健全な欲望はかまわないとか、財産をどんどん殖やそうなどと
欲望と執着を増やして、どうやって欲貪が薄らぐはずがあるのだ?
その駄目な例がまさに桐山さんと準シュダオンさんです。
- 20 :深山:2012/01/06(金)
13:04:05
- >>12 :準シュダオン:2012/01/06(金)
10:24:33
>釈尊が、在家者に、健全な欲まで捨てよとは説くはずがないのです。
>現に、在家には勤勉に働いて財を増やせ、と説いています。
食欲も性欲も健全な欲望です。
しかし、これを減らす努力をしないとどうなるか、
それが桐山さんであり、準シュダオンさんです。
二人とも食欲すら抑えようとせず、桐山さんは高級レストランを
食べ歩きして、美食飽食をしたから、おそらく糖尿病から脳梗塞を発症した。
準シュダオンさんは公務員という立場を利用して、業者のタダ飯、タダ酒を
飲み歩き、糖尿病から脳梗塞を発症した。
これだけひどい目にあっても、桐山さんはまだ食いしん坊が止められず、
準シュダオンさんはタダ酒となれば出かけて、夜中まで飲み食いをする。
二人とも、脳梗塞で脳を病み、知性や理性は失われ、その隙間に
慢心と妄想が増長している。
これが彼のいう健全な欲望の結果です。
信者さんたちは健全な欲望と称して、準シュダオンさんみたいな
羞恥心が皆無の年寄りになりたいのですか。
- 21 :深山:2012/01/06(金)
13:06:00
- >>12 :準シュダオン:2012/01/06(金)
10:24:33
>釈尊が、在家者に、健全な欲まで捨てよとは説くはずがないのです。
>現に、在家には勤勉に働いて財を増やせ、と説いています。
桐山さんに至っては、有余依涅槃の聖者を宣言した後も愛人がいた。
その愛人に食いつかれ、88歳にして愛人から裁判に訴えられ、
裁判とは別に、高額なマンションと慰謝料を裏で払ったという。
しかも、それで終わりではなく、元愛人は未だに別院にも出入りして、
アゴン宗の支配権を得ようと画策しているという。
E川事件を信者さんたちは終わったものとみなしているようだが、
どっこい、第二次戦争が始まっているようです。
これらの結果はすべて、健全な欲望から出たものです。
八十歳代の桐山さんに性欲が残っているのは別に不思議ではない。
桐山さんが孫のような年齢の色っぽい女性を愛人にしていたことは、
健全な性欲の結果です。
だが、問題は、桐山さんは性欲を断ち切った聖者だと自称している点と、
もう一つは、その健全な性欲によって、もたらされた現実です。
信者さんたちは気にならないのだろうが、アゴン宗は桐山さんの性欲が
道場内にこびりついている。
昨年4月、愛染明王のお祭りがあったが、あれは桐山さんと
E川さんのはいいたパンツを拝んでいるようなものです。
ヤフー知恵袋にアゴン宗の愛染明王についての質問と、
おもしろい回答が載っています。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1178670011
- 22 :深山:2012/01/06(金)
13:12:18
- >>12 :準シュダオン:2012/01/06(金)
10:24:33
>釈尊が、在家者に、健全な欲まで捨てよとは説くはずがないのです。
>現に、在家には勤勉に働いて財を増やせ、と説いています。
健全な欲望を放置したら、桐山さんや準シュダオンさんみたいになる。
信者さんたちは桐山さんはともかく、準シュダオンさんのような
みっともない老人にだけはなりたくないでしょう。
健全な欲望どころか、信者さんたちは必要のない欲望を持っている。
護摩木祈願、冥徳供養、解脱供養、霊的浄化など、
すべては必要のない欲望です。
アゴン宗でしていることのほぼすべてが必要のない欲望です。
しかも、それを信者さんたちはギラギラしながら、増長させている。
欲望を減らし、囚われないようにしろと釈尊は説いたのに、
信者さんたちは生きるのに必要もない欲望を増やし、
護摩木でお願い事かなえてもらおうとか、法施を手に入れて、
もっと御利益を得ようとしている。
釈尊の説いてあり方と正反対のことをしているのです。
欲望を減らすことで解脱への近づけるなら、欲望を増やしている信者さんたちは
解脱への道からますます遠ざかっている。
欲望を減らそうとするなら、護摩木祈願や護摩を拝むなんて、
禁止されなくてもできなくなるのです。
柴燈護摩なんてやれるのは、十歳の子供でも理解できる釈尊の教法の
初歩すら理解していないからです。
- 23 :名無しさん:2012/01/06(金)
15:18:41
- >>19 名前:深山 投稿日: 2012/01/06(金) 12:51:28
>健全な欲も減らせ、と説いたのが釈尊です。
>釈尊は在家に、最初に何と説いたか。
>出家しろと説いたのです。
>世俗を捨て、妻子を捨てる、これが最良の道であると説いた。
>世俗の生活のあり方を釈尊は基本的には否定している。
「世俗を捨て、妻子を捨る」これが最良の道である。ということは最終的に人間種が地球上に
存続しなくなるが、釈尊は人類は地球にとって最悪の存在物として位置付けておられたのかね?
勿論、煩悩を完全に消滅して輪廻が止むのであれば
それを人類全員が成せばこの世から人間は消滅してしまう理屈になるが...。
と言うことは煩悩を持つ生存形態を否定したのか?...つまり「苦」を誘発してしまうから。
釈尊から見れば煩悩を持つ有情は不完全な生き物なのか?
宇宙は不完全な生き物「人間」を作ってしまったのか????
- 24 :深山:2012/01/06(金)
17:59:42
- >>23 :名無しさん:2012/01/06(金)
15:18:41
>勿論、煩悩を完全に消滅して輪廻が止むのであれば
>それを人類全員が成せばこの世から人間は消滅してしまう理屈になるが...。
これは何のための質問なのですか。
仏教一般について議論したければ、他のスレで、私よりも詳しい人たちが
あなたの使い古された机上の質問に答えてくれるでしょうね。
私は、準シュダオンさんの主張が1か0の極端な説だと指摘した。
あなたの指摘も同じです。
あなたと同じような質問に「全員が出家したら、誰が食事を供給するのか」というのがあります。
一見、もっともらしい指摘だが、この質問もあなたの質問も現実にはありえない。
経典には、五百人あるいは千二百人の阿羅漢という数字が残されています。
あの時代に地球にどのくらいの人類がいたのか知らないが、
千人くらいが解脱して輪廻から脱出したとしても、何の影響もないことは、
今日、人類が消滅どころか、70億人いることを見れば十分です。
だが、あなたの目には70億人が輪廻している現実が見えないらしい。
- 25 :深山:2012/01/06(金)
18:03:35
- >>23 :名無しさん:2012/01/06(金)
15:18:41
>勿論、煩悩を完全に消滅して輪廻が止むのであれば
>それを人類全員が成せばこの世から人間は消滅してしまう理屈になるが...。
あなたは現実にありえない極端な事例を持ってきて、他人の論点の矛盾を
指摘したつもりか、それとも純粋に疑問に思ったのですか。
もし後者なら、他人に質問する時はまず自分で考えて、
その考えを示しながら、相手に質問することです。
「出家が増えたら、社会は停滞し、活力を失うのではないか」
「親や妻子を捨てろと説いた釈尊は反社会的ではないか」
「輪廻するならどうして人口が増えているのか」
「人類がいなかった時代は動物として輪廻していたのか」
「輪廻の最初は何か」
「解脱して六道から逃れたら、この世界とは別な世界に行くのか」
あなたはきっとこういう疑問が好きなのではありませんか。
好きなだけ考えてかまわないが、これらはこのスレのテーマではないし、
いくつかは釈尊が修行に役立たない議論として禁止している内容です。
- 26 :名無しさん:2012/01/06(金)
18:48:18
- >>24-25
これは失礼しました。別段他意はございません。
ふと、疑問に思い色々書いてしまいました。
釈尊は煩悩を持ち、それによって苦しむ人間に一つの道を示されたのでしょう。
- 27 :準シュダオン:2012/01/07(土)
12:15:50
- 名無しさんの疑問はもっともですね。管長も本に、「皆が一念発起して出家
したら社会が成り立たない」と書いています。そのとおりですよ。
釈尊は、健全な欲までは否定していません。そこを深山さん等は読みとれて
いないのです。
例えば経典に、「生欲方便」とかありますが、これはいろいろ工夫する欲を
起こして、という意味です。良い欲は起こせ、と説いているのです。
岩波仏教辞典で、「修行」を引いて勉強して御覧なさい。長い解説なので、
一部引用しか出来ませんが、「初期仏教以来、修行の目的は苦滅の境地に
達することで」と、解説しています。また、「釈尊の出家目的が聖なるも
のの探求であり」と解説しています。で、釈尊は羅摩経に於いて、「聖な
る求めとは、人生の四苦八苦から出離しようと思うこと」であると、比丘
達に説いています。
つまり、仏教の目的は四苦八苦からの出離であり、苦滅、なのです。その
手段として煩悩を断つのであり、その逆ではないのです。深山さんなどは、
我見が強いので、仏教を体系的に捉えることが出来ないでいるのです。
「煩悩」も辞典で引いて勉強して御覧なさい。説一切有部では根本煩悩を
貪、瞋、痴、慢、疑、見。の六種とした、と解説しています。
見とは我見のことです。
- 28 :準シュダオン:2012/01/07(土)
12:55:09
- 辞典の「煩悩」の項には、「煩悩は自己中心の考えにもとづく事物への執着
から生ずる」とも、解説しています。自己中心=我見です。
我見から煩悩は起こるのです。仏教辞典で「我見」を引くと、解説のお終い
に、「我見を根本にして貪瞋痴の三毒を起こすなり」と、あります。
つまり、貪瞋痴慢疑見、の六大根本煩悩を断とうとする場合、貪瞋痴から
取り組んではダメなのです。それでは断てません。見(我見)から取り組ま
ないと無駄骨になるのです。だから釈尊は五下分結の我見から断つように
説いているのです。管長も修行の第一歩は我見をなくすこと、と説いている
のです。たぶん、深山さんなどはそれに気づかず、修行の順番を間違えてい
たね。だから、我見に満ちた大量のレスをしています。
深山さんのレス、スルーしてたんだけど、500人の阿羅漢、とかがチラリ
と目に入った。もしもと考え、阿羅漢の三明神通について、触れておこう。
釈尊は、阿羅漢の神通力だけに執着する外道の輩対策のために、「阿羅漢の
1割程度にしか神通力はなく、他の阿羅漢には神通力はない」などと、説いた
可能性もあると思うね。だが、ある時点では、それも嘘ではないだろう。
解脱知見、つまり三明智は最後に生じるのですからね。解脱ホヤホヤ、つまり
阿羅漢ホヤホヤにはまだ三明智は生じていない。どのくらいの時間で生じるの
かは、個人差もあるであろう。だから、神通力のない阿羅漢も居る、と釈尊が
言ったとしても、それは何時までも神通力が生じない、という意味ではないと
思うね。
だいたい、私程度でも霊視の体験がありますからね、神通力の一つもない阿羅漢
など、私には想像もできない。辞典にも解脱知見は阿羅漢の必須条件、と書かれ
ていますし。カルトは神通とは関係ないよ。オカルトとカルトは違うのです。
わたしは、オカルトを肯定するけど、カルトではない。深山さんは、そのことを
よく理解することだね、無理かもしんないけど。
私は霊能者ではないよ。霊示を受けたことはあるけど、霊能力などは皆無に近いね。
- 29 :準シュダオン:2012/01/07(土)
13:02:37
- 名無しさんに一言申し上げたい。
全員出家して解脱してしまえば、人類は居なくなるけれども、
人生に苦を感じる人が出家するわけで、健康で人生に苦を感じない人も
多く居ると思うね。
だから、全員出家する、なんてことはあり得ないと思う。
- 31 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/07(土) 18:36:55
- >>12:準シュダオン12/01/06(金) 10:24:33
>欲望を煽られたとしても、信徒の財力には個人差があるのですから、懐具合に
>合わせて申し込んだら良いのです。護摩木祈願も同じこと。
とは言うもののあなたのような道場にて活動もしない末端信者には情報すら届かないだろうが
宗務局や地域の先達リーダーたちには各々の地区のノルマが課せられて、大変な
思いをしている現実があるわけですよ。
欲望を煽られたってそうそう欲も沸きませんよねえ。
しかしなぜか護摩木だけは買う。
最近はどうだか知らんがあなたも護摩木は千本以上買ったクチでしょう。
それはあなたのかつての書き込みでわかります。
あなたはある年5千円か1万円相当の大黒護摩木だかが「余っていた」ので金運如意の
と書いたが、その年は金運が悪くなってしまった。そもそもその余り護摩木に
金運如意と書いた時は決してお金に困っていたわけでもなくまずまず裕福だったそうだ。
それなのに書いたら今度は金運悪くなったのは不当な欲張りを書いた罰だろうと
書き込みしてましたね。
ここでわかるのは、後の反省なんかより、どうして書いても書かなくてもいいような5千円も1万円も
する護摩木を購入したのかということです。
つまりあなたはその年、千本も二千本も購入したものと思われます。
その本数をクリアする為に必要もないのに無理して500本相当も買った。
つまり法施グッズが欲しかったのです。
初詣に参拝する程度の一般人が護摩木に10万円も掛ける奴はいませんよ。
>不当な欲望を増やしたのは、個人的な問題です。私は増えていない。
だからあなたも間違いなく不当な不必要な欲望を煽られたのですよ。
そもそも仏舎利尊宝塔を手にして宝の雨の降るごとしと言われる解脱宝生行を
日夜行じているのだからそれで十分のはずではないですか?
因縁から来る病気災難も解脱により防げ、さらなる御利益も宝生が実現させてくれるはずだ。
だのにどうしてその上でこんなに護摩木を買うのか?
まんまと乗せられてますね。
あなたが最近は大量に買わなくなったとしても他の信者は大量に買って必要もない
グッズを手にしている。
これを見てあなたは嘆かわしいことだ、本来護摩木の本数は年々減っていくことの
方が、皆欲張りを卒業した証明と言えないか?
だのにどうして教団は誓願というノルマを課すのか?
- 32 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/07(土) 18:42:04
- ×500本相当も買った。
↓
○50本相当も買った。
- 33 :深山:2012/01/07(土)
19:03:45
- >>27 :準シュダオン:2012/01/07(土)
12:15:50
>例えば経典に、「生欲方便」とかありますが、これはいろいろ工夫する欲を
>起こして、という意味です。
釈尊が健全な欲を否定していない根拠が「生欲方便」だそうです。
いつもながら、準シュダオンさんて本当にコスカラク、狡い人ですね。
普通、経典を引用するなら、全体を引用するか、引用した元の本の頁数を示します。
だが、準シュダオンさんは卑怯者だから、絶対にしない。
何度このことを指摘されてもしない。
なぜだと思いますか。
探し出されて、彼のインチキがばれて反論されては困るからです。
そのインチキぶりとズルサは桐山さん顔負けです。
「工夫する欲を起こして」などと、いかにも釈尊がアゴン宗の欲望を
肯定したかのような書き方です。
「生欲方便」は「欲を生じ方便して」と読みますから、
釈尊も欲望を否定しなかったのだ!
よかった、よかった、信者さんたちは安心して護摩木祈願ができるし、
愛人を持つのも、食欲に任せて糖尿病になるのも、かまわないらしい
・・・ンな訳ないよなあ。
準シュダオンさんの新春のゴマカシをご紹介しましょう。
- 34 :深山:2012/01/07(土)
19:06:39
- >>27 :準シュダオン:2012/01/07(土)
12:15:50
>例えば経典に、「生欲方便」とかありますが、これはいろいろ工夫する欲を
「生欲方便」という言葉が出てくる阿含経はいくつかありますから、
その中の一つを引用して、準シュダオンさんのゴマカシを示しましょう。
「已に生ぜし悪不善の法を断ぜしめ、欲を生じ方便して心を摂し増進して、
未だ生ぜざる悪不善の法を起こさず、欲を生じ方便して心を摂し増進して、
未だ生ぜざる善法は起こらしめ、欲を生じ方便して心を摂し増進して、
已に生ぜし善法は住して忘れず、修習し増広し、欲を生じ方便して心を摂し増進しせば、
是を精進根と名づく。」(『國訳一切経 阿含部 2』192頁)
これは三十七道品の一つである五根の精進根を説明した一文です。
お気づきと思うが、内容は四正勤です。
四正勤
「1)すでに起こっている悪を断つ努力.
2)いまだ生じていない悪は,これを起こさない努力.
3)いまだ生じていない善を起こす努力.
4)すでに起こっている善は,これを大きくする努力.」
(岩波仏教辞典)
つまり「已に生ぜし悪不善の法を断ぜしめ、欲を生じ方便して心を摂し増進して、」
とは、健全な世俗的な欲望を持ちなさいと言っているのではなく、
「すでに起こっている悪を断つ努力をする意欲を持ちなさい」
と言っているのです。
- 35 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/07(土) 19:08:51
- >>12:準シュダオン12/01/06(金) 10:24:33
>現に、在家には勤勉に働いて財を増やせ、と説いています。
はい、だから「勤勉に働いて」ですよね。
護摩を焚いて神仏に祈ってではありませんよね。
こんなあなたのゴマカシに騙される奴はいません。
勤勉に働いて努力して財を増やせばよいではないですか?
それを超えて都合よく何かを得ようなんて不当な欲望ですよね。
しかしそうは言っても我々は凡人凡夫ですからついつい神仏にも御利益を祈ります。
しかしそれってせいぜい初詣に行ってお守りまで買ってしまうことくらいですよね。
その場限りの祈願で普段は当たり前の勤勉努力で生きているのです。何事に対しても。
それで十分ではないか?
どうして勤勉努力を超えた祈りなどに頼る?
- 36 :深山:2012/01/07(土)
19:09:05
- 「すでに起こっている悪を断つ努力をする意欲を持ちなさい」
これのどこが健全な欲望の肯定になるのですか。
解脱するための修行をしなさい、と言っているだけです。
前にも書いたように、釈尊は解脱しようとする欲望など否定していない。
当たり前ではないか。
五力や四正断、八正道といった修行を熱心にしようという意欲を起こしなさいと
言っているだけで、どこにも健全な世俗的欲望はかまわないなんて言っていない。
そればかりか、四正勤の内容は、世俗の欲望を捨てろと説いているのです。
「悪」とは煩悩と煩悩によって起こされる行為のことです。
欲望はかまわないと言っているのではなく、欲望を捨てる意欲を持てと説いているのです。
三十七道品の内容はすべて、世俗の欲望を捨てろ、です。
健全であろうがなかろうか、世俗の欲望を捨てろと説いている。
この経典は「世俗の欲望を捨てよう、という意欲を持て」と言っているのです。
これを準シュダオンさんはまるで、世俗の欲望でも健全な
ものであればかまわないと釈尊が説いたかのようにねじ曲げた。
新春早々から、準シュダオンさんはよほど悪業を積み重ねたいらしい。
- 37 :深山:2012/01/07(土)
19:12:53
- >>27 :準シュダオン:2012/01/07(土)
12:15:50
>「煩悩」も辞典で引いて勉強して御覧なさい。説一切有部では根本煩悩を
>貪、瞋、痴、慢、疑、見。の六種とした、と解説しています。
準シュダオンさんは「預流向=聖者」をアビダルマ説だとしてゆずらない。
だが、これは釈尊の説であり、学者の説であり、アビダルマなど関係ない。
こんなふうに他人にはさんざんアビダルマ仏教だと非難しながら、
自分の主張をする時は説一切有部、つまりアビダルマです。
すさまじい図々しさです。
どういう人生を歩むとここまで厚かましくなれるのだろう。
- 38 :深山:2012/01/07(土)
19:14:32
- >>28 :準シュダオン:2012/01/07(土)
12:55:09
>辞典の「煩悩」の項には、「煩悩は自己中心の考えにもとづく事物への執着
>から生ずる」とも、解説しています。自己中心=我見です。
「自己中心=我見」??!!
またインチキ説教です。
信者さんたちは我見を正しく理解してくださいね。
準シュダオンさんみたいに頭が逝ってしまった人は辞書を引いても意味がわからない。
こうなってからでは遅い。
まだ頭が老化しないうちに仏教を正しく理解することです。
我見を準シュダオンさんは普通に使われているような
「自分だけの偏った見方や狭い考え」(ネット上の辞典)
という意味にとっている。
我々が日常で使う言葉でも仏教用語として使う時は意味が違うことがあります。
我見も同様で、仏教の我見とは準シュダオンさんが思いこんでいるような意味でありません。
準シュダオンさんみたいに、ガケンガケンとナントカの一つ覚えみたいに
意味もわからずに唱えていないので、脳細胞が生きている信者さんたちは
正しく意味を理解しましょう。
- 39 :深山:2012/01/07(土)
19:25:09
- 我見「自我(tman)の存在を是認する誤った見解(邪見)のこと.」
(岩波仏教辞典)
これが仏教の我見の意味です。
少々、わかりにくい説明だが、具体的に言えば、
「自分の本当の姿は霊魂である」と信じることです。
アゴン宗では、肉体は仮の姿であり、その中にある霊魂こそが本体であるという。
霊魂は魂魄でできており、死んで肉体が滅ぶと、
魄がニョロっと出てきて、これが死後の存在となる。
普通の人は不成仏霊になり、信者さんたちのようにシッポの如来に
供養した人たちは無事、あの世に行った後で、輪廻する。
「霊魂は魂魄とも言うように、魂と魄から成り立ちます。
魄はアーラヤ識でできており、ここにその人の記憶がすべて納められています。
(『密教誕生』平河出版社刊参照)
人が死ぬと魂は消えてしまいますが、魄は残って、それが冥界や霊界を経て転生します。」
(『阿含宗報』283号、3頁、2009年)
これがアゴン宗の霊魂観であり、こういうのを我見と言います。
つまり、桐山さんや信者さんたちのように信じるのを仏教では我見というのです。
簡単に言うなら、外道の思想です。
- 40 :深山:2012/01/07(土)
19:27:26
- 「霊魂は魂魄とも言うように、魂と魄から成り立ちます。」
ご覧のように、桐山さんは我々の中に霊魂があり、
輪廻する主体があるのだと説いています。
主体を中心として、生きている時も、死んだ後も、輪廻する時も、
この主体が連綿と核のようになっているという説です。
つまり、「自分とは霊魂である」という思想です。
魂魄など仏教の思想ではないし、これは中国の思想で、インド思想ですらありません。
輪廻を含めた霊魂についての説は、桐山さんのような稚拙な説はいらない。
インドには釈尊が現れる百年ほど前のバラモンの思想家がいて、
ほぼ完璧とも言える霊魂思想を作り上げた。
非常に良くできていて、現代に至るまでこの思想以上のものは出ていません。
そして、釈尊はこの思想を否定したのです。
桐山さんも信者さんたちも、釈尊の否定した内容を信じているのです。
だから、信者さんたちは不成仏霊を成仏させるなどと始まる。
これは上記の桐山さんの、人間とは霊魂なのだという思想が背景にあるからです。
だが、これを仏教では我見というのです。
釈尊は自己とは何かをきちんと説明しています。
信者さんたちも霊魂などというオカルト説を信じていないで、
釈尊の説いた自己をきちんと理解してください。
でないと、準シュダオンさんみたいにおかしな人間になってしまいます。
あそこまでおかしくなりたくないでしょう?
- 41 :深山:2012/01/07(土)
19:29:13
- 五蘊「人間の5つの構成要素.色(しき)蘊・受(じゅ)蘊・想(そう)蘊・
行(ぎょう)蘊・識(しき)蘊をいう」(岩波仏教辞典)
仏教の自己とは霊魂などではなく、桐山さんも実は説明したように、五蘊(五陰)です。
五蘊とは、肉体や感覚、記憶、認識、意識を含めた我々の活動のことです。
詳しい説明は抜きにしますが、着目してほしいのは、五蘊の中に、
どこにも霊魂や魂魄などないことです。
「識」は認識や判断という意味で、霊魂などという意味ではありません。
釈尊は自己とはこの五つの要素から作り上げられたものだと述べている。
桐山さんのいう霊魂などどこにもありません。
おかしくありませんか。
桐山さんは生きている人間には霊魂があり、これが輪廻の主体であると
説いている。
だが、釈尊の説いた五つの要素には霊魂に相当する物はなく、
輪廻の主体を説くことを我見としてはっきり否定している。
両者は主張内容が正反対と言ってもいいくらい違う。
気をつけてほしいのは、ここには私個人の見解は入っていないことです。
- 42 :深山:2012/01/07(土)
19:31:02
- 「霊魂は魂魄とも言うように、魂と魄から成り立ちます。」
五蘊「人間の5つの構成要素.色(しき)蘊・受(じゅ)蘊・想(そう)蘊・
行(ぎょう)蘊・識(しき)蘊をいう」(岩波仏教辞典)
信者さんたちは、「桐山ゲイカは大霊能で事物を明快に認識されているのだ」と
信じているから、霊能力もない私の話など信じるつもりはないでしょう。
信じなくてもいい。
私が引用しているのは、準シュダオンさんみたいな個人の勝手な見解ではなく、
阿含経の釈尊の言葉であり、それに基づいて説明している学者の説です。
私の知る限り、学者の間で五蘊についての明瞭な異説はありません。
五蘊の中に霊魂があるというような説を唱える学者はいないという意味です。
自己とは五蘊で出来ているというのは私の個人的な見解ではなく、
学者の説であるだけではなく、釈尊の説なのです。
仏教と名乗るなら、釈尊の説と矛盾するような、あるいは正反対の
内容を説くのはおかしい。
仏教で「霊魂がある」などと言うのは、無知丸出しなのです。
信者さんたちが釈尊と桐山さんのどちらの霊能力を信じるかは自由です。
アゴン宗でも釈尊は大霊能者ということになっている。
その釈尊が霊魂の存在をはっきりと否定している。
信者さんたちはどちらを信じるのですか。
念のために言うが、決して両立はしません。
- 43 :深山:2012/01/07(土)
19:34:36
- >>28 :準シュダオン:2012/01/07(土)
12:55:09
>解脱ホヤホヤ、つまり
>阿羅漢ホヤホヤにはまだ三明智は生じていない。
ほら、また準シュダオン教、いや、準シュダオン狂が始まった。
何の根拠もない話をこうやってクドクドと書き続ける。
三明などない阿羅漢が存在したことは、スシーマ経、自恣経で示した。
しかし、ご覧のように、頭に脳味噌ではなく、無知と無恥と慢心しか
入っていない準シュダオンさんには釈尊の説法すら通用しない。
頑迷に我見を唱え続ける。
矛盾を指摘されると、こうやって訳のわからない説をさらに唱えはじめる。
アゴン宗の話ですらなく、ただの準シュダオン教です。
信者さんたちに気がついてほしいのは、準シュダオンさんは桐山アゴン宗を
擁護しているうちに、こういう何の根拠もない珍説を次々と作るしか
なくなってしまっている点です。
なぜかわかりますか。
桐山アゴン宗の教義がインチキでデタラメの嘘だから、
それを擁護しようとすると、こんなふうにさらに嘘を重ねるしかなくなる。
嘘をつくと次の嘘をつくしかなくなるという普通に良く見られる現象です。
信者さんたちに勧めるのは、準シュダオンさんみたいにこの袋小路に入り、
詭弁と嘘を吐き散らすよりも、嘘はさっさと嘘として認めてしまうことです。
- 44 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/07(土) 19:36:14
- >>13:準シュダオン12/01/06(金) 10:52:34
>無心状態の禅僧には煩悩は無く、安定した心であろう。
>無心状態の弓道家にも煩悩はなく、安定した心であろう。
>前期大乗仏教の「さとり」は、↑のことだと考えられるね。
>そして、ユビさんなどがいう涅槃、さとりもそれを言ってるように思われる。
>しかし、釈尊の言う「涅槃」は、上記のそれとは違うと思われる。
>釈尊は、二人の仙人に師事した時点で、「無心」は獲得していた。
>しかし、それに満足せずに、師を離れ、一人修行を続けた。
他人のことを勝手に決め付けるのはよしなさい。
私は無心状態の安定が涅槃であり、さとりだなんて言っていない。
あなたが書いているようにアーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタの
定を完全に体得してもさとりは得られなかったのです。
どうしてかわかりますか?
二人の仙人の定はそれこそ感官を一時的に滅してしまうすごい瞑想だが、
瞑想のあいだ中はたしかに煩悩は入り込む余地はありません。
なにしろ感官も思考も滅しているのだから煩悩が沸き起こるはずがない。
しかし定から覚めたらまた元通りです。
では年中定に入っていればよいかと言うとそんなことは不可能です。
死んでまうがな。
仮に可能であっても感官も思考も滅して生きていくなんて死人も同然ではないですか?
だから釈尊は常日頃からの自己観察によって煩悩を自覚してなくす道を追求して
さとりを得たのです。煩悩を捨てたのです。
あなたは弓道の達人の話を出したが、私は柔道の達人の話を出しましょう。
強い柔道の達人がいましたね。
彼を生んだ熊本県は県民栄誉賞まで出した。
その柔道の実力は本物です。
しかし彼が私生活で何をしたか?
後輩の若い女性に酒を飲ませホテルに連れ込み暴行した。
彼は合意の上だとしたが、当時の証言ではホテルの客室から助けを求める悲鳴も
聞こえたらしい。イヤハヤ・・・。
しかしだからと言って彼の柔道にみせる集中心は本物には変わりない。
つまり達人の武芸に対する集中心と日常の煩悩とは違った修養をせねばならないと
わかりますよね。
- 45 :深山:2012/01/07(土)
19:41:36
- >>28 :準シュダオン:2012/01/07(土)
12:55:09
>だいたい、私程度でも霊視の体験がありますからね、神通力の一つもない阿羅漢
>など、私には想像もできない。
だれが神通力が一つもないと言いましたか。
解脱者は漏尽通を持っているに決まっている。
自分がすでに煩悩に囚われることがないと自覚することを仏教では
漏尽智を得たというのです。
三明や六神通という神通力を持った者が阿羅漢だなんて説が嘘だと指摘しているのです。
信者さんたちは準シュダオンさんが何を誤解しているかわかりますか。
この人は、三明や六通を釈尊のオリジナルだと思っているのです。
三明は当時のバラモンたちが説いたのを拝借したものだし、
六通という分類をしたのはアビダルマです。
つまり、釈尊は三明そのものを教法として説いたのではなく、バラモンに対抗して、
本当の三明とはこのようなものだと、彼らの間違いを指摘するために示したのです。
だから、厳密には三明にはそれほどの意味はない。
バラモンが三明ではなく、二明を説いていれば、仏教も二明になっていたでしょう。
また、釈尊が解脱する過程で得られる神通について述べたのを
後世のアビダルマがまとめて六通という概念を作り上げたのです。
こういう成立過程を、桐山さんも準シュダオンさんも何も知らず、
アビダルマをそのまんま釈尊が体系的に説いたと思いこんでいる。
だから、釈尊が七科三十七道品を説いたなんて無知なことを平気で書いている。
こういう連中が中途半端な知識と悪い頭で、オレ様はエライなどと
慢心を混ぜながら仏教を説いたら、オカルト仏教になるのは当たり前です。
信者さんたちは頭から桐山仏教を信じるのではなく、学者の解説を小馬鹿にしてないで、
まずは彼らの客観的な解説を読んでみてはどうですか。
今のままでは準シュダオンさんと五十歩百歩ですよ。
それだけは絶対に避けたいでしょう・・・気持ちは良くわかります。
- 46 :名無しさん:2012/01/07(土)
21:22:46
- 準シュダオンさんは、酔っ払っているんですかね?
おっと失礼。年中、泥酔状態でしたね。
しかし悪い酒を飲み続けているんでしょう。
キリンビールの偽物ではありませんか?
私の手元に資料がありますので、製造について見ると、
埼玉県北足立郡大和村白子千八百五十五番地広沢菊次方醤油工場に於て、酒精分約三度五分位の日本ビール約三十箱(約二石五斗)、酒精分約三十度の雑酒約一石、炭酸瓦斯(ガス)を水にて溶解したるもの約四石八斗、味の素、若塩酸、酒石酸、乳酸、砂糖、食塩、カルメラ及センブリ液各若干等を原料とし琺瑯(ホウロウ)タンク、混合機及壜詰機等を使用し、ビール壜に仕込み酒精分約一、五度乃至四度の雑酒約八石四斗(二打入約百箱)をビール名下に製造
ふむふむ。
これでは悪酔いもしますね。
年がら年中、泥酔しっぱなしなのもよくわかります。
- 47 :天照
◆MO30b8Jwoo:2012/01/08(日) 08:27:54
- 天台宗の僧侶たちがゲイカの法話を聞きたくて講義を待っている、といって早4年。
一向にそういう様子のかけらも見えないが、まあゲイカのハッタリか妄想だったようで。
ああ、泥酔なら仕方ありませんか。酔っ払いながらキーを打つ。困ったもんだwww
- 48 :準シュダオン:2012/01/08(日)
09:32:52
- 今日の読売朝刊に、天台宗・高野山真言宗のトップ対談が出ています。
深山さんなどは、必ず読んで勉強したらよいと思う。
高野山真言宗座主の松永さんが、理趣経の「大欲清浄」つまり「欲を大きく
持て」と、説明しています。「人のために生かす清らかな大欲を育て上げろ」
と言う意味だと説明しています。これが私の言うところの、健全な欲、です。
釈尊が「健全な欲」を否定するはずがないのです。否定したら在家は大変な
ことになります。電車の運転手が、「定時に発着するなんて、欲は捨てる、
そういう欲は否定するのだ」と考えたらどうなりますか?原発の従業員が、
「定期安全点検を忘れずに確実に、なんて欲は捨てる、どうでもよい」と、
考えたらどうなりますか?農家が、「放射能検査をして安全なコメを市場に
出そう、そういう欲は捨てるのだ」と考えて良いのですか?
釈尊がそういう健全な欲まで否定するはずがないよw。
深山さんの解釈にはあきれ果てるねw、どういう頭構造してるんだろ?
- 49 :準シュダオン:2012/01/08(日)
09:41:07
- >しかし悪い酒を飲み続けているんでしょう。
>キリンビールの偽物ではありませんか?
>私の手元に資料がありますので、製造について見ると、
>埼玉県北足立郡大和村白子千八百五十五番地広沢菊次方醤油工場に於て、
そんな昔のビールじゃ、飲みたくたって飲めませんぜw。
そういう過去に生きてはいけません。現在を生きるのです。
更生したら過去の人とは別人なのです。何時までも過去に拘る、それを我見
の有身見というのです。それをすてることが仏道修行の第一歩なのです。
- 50 :準シュダオン:2012/01/08(日)
10:08:07
- >強い柔道の達人がいましたね。
彼を生んだ熊本県は県民栄誉賞まで出した。
>その柔道の実力は本物です。
しかし彼が私生活で何をしたか?
>後輩の若い女性に酒を飲ませホテルに連れ込み暴行した。
内柴くんの場合は、柔道が強いだけで、煩悩の塊よ。無心なんてあり得ない。
NHKBSの「これが日本の武道!」シリーズは面白かったよ。
80歳で剣道八段の人と、40歳で剣道六段の人の練習試合も面白かったよ。
40歳と80歳では、体力差があるはずなのに、40歳の六段は、80歳の
人に全く歯が立たないのよ、コテンパンにやられるの。
一瞬の技で目に見えないのだけど、ビデオのスローで視ると良く解かるのよ。
六段の人が相手の面を打とうとして竹刀を少し振り上げるでしょ、すると、
八段の人は自分の竹刀の先で相手の拳部分を抑えて、相手の打つ妨害をして
から、すかさず相手の胴を打って一本を取ったのよ。相手は面を打とうとして
少し腕を振り上げているから胴が空くのよ。でも、それは一瞬の技で目に見え
ない。
たぶん、八段の人は無心を達成してると思う。剣の奥義、無念無想というやつね。
剣豪小説によく出てくるね。無心だから相手の心がよく読めて、相手の攻撃が手
にとるようにわかる訳ね。だから六段の人も無心にならないと、八段には勝てない
でしょう。無心の心は相手にも読めないので、若い方が勝つでしょう。
だから、弓でも剣でも、修行して雑念を無くす手段に利用出来るのよね。
焚火だけがなんで、雑念を無くす手段に利用できないというのかね?
- 51 :準シュダオン:2012/01/08(日)
10:28:09
- >仮に可能であっても感官も思考も滅して生きていくなんて死人も同然ではないですか?
>だから釈尊は常日頃からの自己観察によって煩悩を自覚してなくす道を追求して
>さとりを得たのです。煩悩を捨てたのです。
だから、煩悩を捨てるには順序というのがあるのです。その順序は阿含経に説いて
あるけど、大乗には説いていないでしょ。我見(身見)から取り組まないない
と成果は上がらないのです。何しろ我見が煩悩を生む根なのですからね。
雑草の葉っぱだけいくらとっても、葉はまた生えてきます。
葉っぱが煩悩で、葉っぱの根が我見です。
どうも、ユビキタスさん方は、信者時代に、我見から断つ修行をしてこなかった
ように思われますね。あまりにも当たり前のことだから、今まで取り上げなかった
けどね。
我見の五見がすぐ浮かびますか?暗記してますか?
1有身見2辺執見3邪見4見取見5戒禁取見、の五つですよ。これは誰でも
持ってるわけですから、常に意識して、自分の中にそれを発見してこそ、切れて
いくということですよ。
私は社会人になるまで、「袖触れ合うも、たしょうの縁」の「たしょう」を
「多少」だと勘違いしててね。多生、他生、のことだと知った時には感動してね。
自分はもっと多くの勘違いがあるはずだから、気をつけていこうと思ったものです。
- 52 :天照
◆MO30b8Jwoo:2012/01/08(日) 11:16:48
- 我見、我見、と偉そうに相変わらずの上から目線でなんか言ってますよ。
自分のうがった我見はよろしくて反骨と変な例えだけは100人前。
しかも物を知ったようにいうが、内実知らないし。
普段釈尊を省みないくせに今回は釈尊を出しているし。
どこまで都合のいいお方だろうか。釈尊を基準で考察すれば阿含の教学など
欺瞞だらけで通用しないのだから出すのはやめた方が良いのにね。
どこまでもおめでたい人だこと。
- 53 :名無しさん:2012/01/08(日)
13:23:34
- 2ちゃんねる次スレ立てました
阿含宗という宗教205
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1325996544/
- 54 :天照
◆MO30b8Jwoo:2012/01/08(日) 13:50:56
- >>53
名無しさん、いつもありがとうございます。丁度204が終わったばかりで
タイムリーで助かります。(@chs−1の方にもありがとうございます)
- 55 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/08(日) 17:26:15
- >>28:準シュダオン12/01/07(土) 12:55:09
>つまり、貪瞋痴慢疑見、の六大根本煩悩を断とうとする場合、貪瞋痴から
>取り組んではダメなのです。それでは断てません。見(我見)から取り組ま
>ないと無駄骨になるのです。だから釈尊は五下分結の我見から断つように
>説いているのです。管長も修行の第一歩は我見をなくすこと、と説いている
>>51:準シュダオン12/01/08(日) 10:28:09
>だから、煩悩を捨てるには順序というのがあるのです。その順序は阿含経に説いて
順序についてはとうの昔に反論済みです。
あなたには何を書いても聞く耳持たぬでしょうから、ここでは質問を一つに
絞りましょう。
この質問には逃げないで必ず答えてください。
あなたによると我見を断つことから始まって三結断ったシュダオンになることが
先決ですよね。
そして欲貪や瞋恚などはシュダオンになってから断つことを考えればよいと書いてました。
そこで質問です。
アゴン宗に入信して30年くらいになる行歴の準シュダオンさんですが、
そのあなたは貪瞋痴を減らす修行に「着手」されてますでしょうか?
貪瞋痴を「断つ」ことなどは問うてません。そんなことができた人はこのスレに
1人もいません。
ですからまだ貪瞋痴の煩悩は切れずに残っていてもかまわないが、少しでも減らす
ような修行に「着手」しているのでしょうか?
それをお聞かせ下さい。
行歴30年のあなたがです。
仏教とは貪瞋痴の煩悩を断って解脱を得ることを目指す道ですよね。
桐山さんによるとそれも小解脱に過ぎないのだそうですが。
小解脱の修行にも着手されているのでしょうか?
未着手なんでしょうか?
アゴン宗という教団は我見を断つためだけに30年以上を要しなければ貪瞋恚を減らす
努力をする道にすら着手できない教団なんでしょうか?
- 56 :Boo:2012/01/08(日)
18:29:09
- >>55
準シュダオン教祖・・・ピーンチ!!
- 57 :深山:2012/01/08(日)
19:19:06
- >>48 :準シュダオン:2012/01/08(日)
09:32:52
>高野山真言宗座主の松永さんが、理趣経の「大欲清浄」つまり「欲を大きく
理趣経ってなんだかあなたは知っているのか。
男女の愛欲を解脱の境地としている愚にも付かない経典です。
釈迦仏教から見たら、汚物のような経典です。
後期密教であるタントラ密教はまさにセックスを拝んでいる。
チベット密教やブータン仏教の寺院を見てごらんなさい。
仏像も仏画も、仏や神々が女神を抱いた姿で表されている。
あれはセックスをしている姿です。
だから、仏像や仏画の中には露骨に結合部分まで描写しているものもある。
要するに、今で言うポルノです。
神仏の姿をした者たちがセックスしている絵や像を寺院に大量に飾り、拝んでいる。
どんな高尚な屁理屈をつけても、このような宗教は仏教ではない。
私が、密教を仏教の皮をかぶったヒンドゥー教だと指摘する理由の一つがこれです。
日本のマントラ密教はタントラ密教ほどには露骨にセックスを取り入れていないのは、
マントラ密教が前期で、その段階で輸出されたからです。
しかし、すでに兆候が見られる。
それが理趣経や抱き合う聖天などの秘仏です。
後に日本で独自にタントラ密教として発達させたのが立川流です。
インドのタントラ密教と同じ道を歩んだのは偶然ではなく、
性欲が人間の「健全な欲望」だからです。
- 58 :深山:2012/01/08(日)
19:23:16
- >>48 :準シュダオン:2012/01/08(日)
09:32:52
>高野山真言宗座主の松永さんが、理趣経の「大欲清浄」つまり「欲を大きく
大欲などと言葉でごまかしても無駄です。
セックスを肯定し、取り入れたら、もはや仏教ではない。
堕落というよりも、腐敗している。
もっとも、アゴン宗にはふさわしい。
なにせ、桐山さんは大欲を実践して、80歳代でも愛人がいた。
桐山さんの「大欲」のせいで、裁判でも元愛人を追い払えず、
彼女は未だにアゴン宗に食いついて、道場に出入りしている。
しかも、元幹部職員と徒党を組んでいるという噂まである。
どうやら、桐山さんの死後を視野に入れて、権力と金を得ようという作戦らしい。
これが準シュダオンさんのいう大欲を桐山ゲイカが実践した結果です。
- 59 :深山:2012/01/08(日)
19:27:55
- >>48 :準シュダオン:2012/01/08(日)
09:32:52
>高野山真言宗座主の松永さんが、理趣経の「大欲清浄」つまり「欲を大きく
理趣経を本当に知っていたら、私が書いた反論程度のことは予想できるから、
こんな所に出しません。
だが、準シュダオンさんは何も知らないから、ちょっと知識を入れると、
すぐに他人に自慢しないではいられない。
あなたはテレビで見たり、本を読んだりすると、すっかり自分は理解したかのような
態度で、ここにお説教を書き始める。
知識も考察もなく、浅薄な知性でさも何かわかったかのようにお説教をする。
そこだけは桐山さんとそっくりですね。
桐山さんもすぐに名人、達人になったかのように他人に教えはじめる。
密教占星術奥伝など発売された翌年あたりに伝法会で、まるで
自分が長年かけて体得したかのように教えていた。
「底の浅い川はチャラチャラと音を立てて流れる」とは良く言ったものだ。
- 60 :深山:2012/01/08(日)
19:29:48
- >>48 :準シュダオン:2012/01/08(日)
09:32:52
>電車の運転手が、「定時に発着するなんて、欲は捨てる、
>そういう欲は否定するのだ」と考えたらどうなりますか?
あなたは自分の煩悩を見ようともしないから、こういう馬鹿な質問をするのです。
釈尊の基本的な教法を無視して、言葉尻をつかまえて、
自分の煩悩に従っても良いような屁理屈をつける。
定時に発車したくないというのは、欲の否定ではなく、怠惰という煩悩です。
仕事をしたくないという怠け心に、欲を捨てるという屁理屈をつけているにすぎない。
あなたが現役時代にそれをやってさんざん他人に迷惑をかけた煩悩です。
- 61 :深山:2012/01/08(日)
19:34:59
- >>49 :準シュダオン:2012/01/08(日)
09:41:07
>そういう過去に生きてはいけません。現在を生きるのです。
それなら、過去に作った悪因縁を切ろうなんとしなければいい。
過去に死んだ死者の霊障を解こうなんてしなければいい。
因縁切りだとの霊障解脱だの、すべて過去の話を持ち出して、
これをなんとかしろというのがアゴン宗の教義です。
あなたの言うとおりで、悪因縁など気にするのはおかしい。
死者の成仏なんてできもしないことを言うのはおかしい。
信者さんたちは準シュダオンさんが何をごまかしたかわかりますか。
取り返しのつかない過去にこだわるのはいけない、という話と、
自分の過去を反省して直すように努力する、ということをすり替えた。
- 62 :深山:2012/01/08(日)
19:37:40
- >>49 :準シュダオン:2012/01/08(日)
09:41:07
>そういう過去に生きてはいけません。現在を生きるのです。
桐山さんは偽ビール造りは過去の話ではありません。
桐山ゲイカの偽ビールは、霊障武士の崇りによるものだというのがアゴン宗の教義です。
過去などではない。
桐山さんは偽ビール事件を反省などしていない。
全部、霊障のホトケや、祖父のせいだとはっきりと書いている。
祖父の罪を孫が背負ったというのですよ。
よくまあ、責任転嫁もここまで来ると立派なものです。
しかも、反省していないどころか、これを逆手にとり、霊障話を作り、
さらに人々を脅かし、騙し続けた。
この宗教的犯罪行為を見過ごしてはならない。
徹底的に追求するべきです。
- 63 :深山:2012/01/08(日)
19:42:04
- >>50 :準シュダオン:2012/01/08(日)
10:08:07
>だから、弓でも剣でも、修行して雑念を無くす手段に利用出来るのよね。
>焚火だけがなんで、雑念を無くす手段に利用できないというのかね?
信者さんたちは、準シュダオンさんの机上の屁理屈を読んだ後で、現実を見ましょう。
彼に言わせると 焚き火で雑念や煩悩を減らすことが出来るという。
それを四十年にわたり実践したお方がいらっしゃる。
桐山ゲイカです。
それで彼の煩悩がなくなりましたか。
信者さんたちはよおくあるがままの桐山さんを見ることです。
ついこの間まで愛人がいたのですよ。
因縁切りを宣言した1991年には愛人がいた。
2000年頃には有余依涅槃の聖者、つまり仏陀を自称していたのに、
しっかりと愛人がいて、去ろうとする愛人に「千景がいないとさびしい」と言っていた。
これが焚き火で煩悩を消そうとした男の結末です。
オシャカの成仏ホーを体得した桐山ゲイカですらできなかったのに、
ただの凡夫の信者さんたちは焚き火で自分の煩悩が消えると思うのですか。
- 64 :深山:2012/01/08(日)
19:44:25
- >>51 :準シュダオン:2012/01/08(日)
10:28:09
>我見の五見がすぐ浮かびますか?暗記してますか?
>1有身見2辺執見3邪見4見取見5戒禁取見、の五つですよ。これは誰でも
読者の皆さんごらんください。
準シュダオンさんはいかにも自分はこれを暗記しているかのような書き方です。
しかし、実際は、つい先ほど調べて、それを必死に書き写している。
なんとかユビキタスさんにお説教しようと必死の形相です。
だが、彼はそれぞれの言葉も意味も理解していないばかりか、これらの説は
またしてもアビダルマです。
どうしてこうも厚かましい男なんでしょうね。
自分はアビダルマを垂れ流しにしながら、批判側が経典から「預流向=聖者」を
引用すると、これをアビダルマだと言い続ける。
「預流向≠聖者」という阿含経も学者の説も出せないくせに、
他人にはアビダルマだと因縁を付ける。
- 65 :深山:2012/01/08(日)
19:46:10
- >>51 :準シュダオン:2012/01/08(日)
10:28:09
>我見(身見)から取り組まないない
>と成果は上がらないのです。
すでにユビキタスさんが反論しているが、これも真っ赤な嘘、準シュダオン狂です。
信者さんたちは、十結煩悩を断ちきるのに身見、疑惑、戒取という三つの
煩悩が冒頭から来ているから、これを切ってからでないと、
欲貪や瞋恚が薄らぐこともないと、まさか思っているのではないでしょうね。
準シュダオンさんくらい頭が固くなると、十結を順序通りに切っていくなんて
愚かな説を唱えはじめる。
アビダルマを文字通りに信じているのだから、本当に愚かです。
内容を知るなら、そんなことはあるはずがない。
欲貪や瞋恚とは、簡単に言えば欲望や怒りです。
これを減らすというだけなら、何も仏教でなくても、様々な宗教である程度まで可能です。
これが当たり前であることは、実は、準シュダオンさんが阿含経から実例を示した。
前に引用した、釈尊に七日間供養して、その後まもなく亡くなったのに、
阿那含にまで達したというバラモンの話です。
- 66 :深山:2012/01/08(日)
19:50:20
- >>51 :準シュダオン:2012/01/08(日)
10:28:09
>我見(身見)から取り組まないない
>と成果は上がらないのです。
信者さんたちの多くは、もはや供養の功徳で阿那含まで行けるなどという
桐山三福道など信じていないと私は期待している。
阿含経のどこにもそんな話はありません。
バラモンは供養した見返りに阿那含まで達したのではありません。
自分で五下分結を断ち切ったから、阿那含になった。
だが、ここで信者さんたちも疑問を持つはずです。
どうしてそんなに短期間に五下分結を切ることができたのか、
不思議に思いませんか。
これを準シュダオンさんみたいに、供養の功徳で、
三結を断じてからでないと欲貪と瞋恚を減らすこともできない
などという脳梗塞思考では、意味がわからない。
だが、順序など関係ないことを知れば、理由は簡単です。
バラモンは、釈尊が教法を聞く前から、欲貪や瞋恚を減らす努力していたのです。
これは特別不思議なことではなく、六師外道やバラモンの思想の中にも、
欲望を抑えるなどの禁欲や、怒りなどの感情に囚われないなどはありました。
そういう思想の一つに四住期です。
「学生期」「家住期」「林棲期」「遊行期」と四つに分けて、
遊行期とは、まさに出家して托鉢によって暮らす時期です。
著名なバラモンで、しかも間もなく亡くなったことを見れば老人だったのでしょう。
当然、彼も林棲期や遊行期のような修行の生活をしていた。
どこかの教祖様のように80歳すぎても食いしん坊で、愛人がいるのとは違う。
禁欲や感情に囚われないように気をつけていたのでしょう。
つまり、釈尊から言われる前から、欲貪と瞋恚を押さえる努力をしていたのです。
- 67 :深山:2012/01/08(日)
19:53:19
- >>51 :準シュダオン:2012/01/08(日)
10:28:09
>我見(身見)から取り組まないない
>と成果は上がらないのです。
バラモンの欲貪と瞋恚が薄らいでいたのなら、釈尊に会う前から、
斯陀含だったのか、という疑問が出て来るが、もちろん違います。
斯陀含になるためには預流にならないといけない。
しかし、バラモンは今の信者さんたちと同じように、自分の主体は
霊魂であり、それが輪廻転生するのだという、仏教でいう我見を信じていた。
前回も書いたが、釈尊よりも百年くらい前のヤージュニャヴァルキヤという
思想家が作り上げた霊魂説はものすごくよく出来ていた。
これに比べたら、桐山さんの霊魂説など他人の説のパクリであり、
深い考察もされていない子供じみた内容です。
バラモンは聖典に通暁していたから、ヤージュニャヴァルキヤの
説を知っており、これを信じていたはずです。
これこそ我見であり、三結の身見に相当します。
そこに釈尊の教法を聞き、バラモンは霊魂があるという我見を捨てた。
護摩を焚くなどのマジナイを捨て、釈尊の教法を信じて、実践したから、預流になった。
そこに元々、欲貪や瞋恚を減らす努力していたから、
三結を切ってしまえば、一気に斯陀含に到達した。
釈尊の教法をきちんと実践しないと、欲貪や瞋恚から完全に
離れることはできない。
バラモンは釈尊から教えられて、自分の煩悩に常に目を向けて、それを観察して、
囚われないようにするという八正道を実践することで、
すべての欲貪や瞋恚に囚われることがなく、阿那含になったのです。
ここまで理解すれば、準シュダオンさんが何を勘違いしているか、
信者さんたちもおわかりでしょう。
- 68 :深山:2012/01/08(日)
19:57:57
- >>51 :準シュダオン:2012/01/08(日)
10:28:09
>我見(身見)から取り組まないない
>と成果は上がらないのです。
四向四果は、たしかに預流→斯陀含→阿那含→阿羅漢という順序で進みます。
準シュダオンさんは、こういう聖者の位階の進み方と、
煩悩を切ることとを一緒しているのです。
位階の順序通りに煩悩も切っていくなどと考えているから、
我見を切らない限り、欲貪も瞋恚も切れないなどタワケを言う。
いや、実はもっと露骨な本音があって、準シュダオンさんは欲貪と瞋恚を
切りたくないのです。
タダ酒を飲み、タダ飯を食うのが彼の大いなる喜びなのに、
これを節制するなんてやりたくない。
だから、健全な欲望はいいのだ、などと、もっともらしい屁理屈を
並べて、自分の欲望を正当化しようと必死なのです。
だが、バラモンと同じように、信者さんたちは三結をすぐになくすことを
したくなくても、欲貪と瞋恚を減らすことはできます。
護摩木でお願い事をするなんて欲貪を捨てることです。
批判側は悪口を言っているなどという瞋恚を捨てることです。
そして、準シュダオンさんとは正反対に、もっと嘘に敏感になり、
不浄を捨て去る努力をすることです。
霊的不浄なんて意味不明なことを唱えて、無意味な焚き火をするのではなく、
現実に愛人を作り聖者を名乗る不浄な人間を捨て去ることです。
もし、信者さんたちが少しでも己の欲望を減らそうとするなら、
アゴン宗にはいられません。
逆に言うなら、アゴン宗にいるということは、欲張りだということです。
自分の姿が見えないなら、ここにいる準シュダオンさんを見なさい。
欲の皮をつっぱらせて、御利益と自惚れをなんとか得ようと必死です。
- 69 :名無しさん:2012/01/08(日)
20:14:19
- >>49
準シュダオンさんには難しかったかな
これは、桐山さんの偽ビール事件に対して、東京地裁での第一審判決文です。
昭和二十九年三月十五日
<第一、被告人白砂籐三、同丸山茂、同堤真寿雄は共謀の上、昭和二十八年四月二十七日頃から同年五月二日頃迄の間、埼玉県北足立郡大和村白子千八百五十五番地広沢菊次方醤油工場に於て、酒精分約三度五分位の日本ビール約三十箱(約二石五斗)、酒精分約三十度の雑酒約一石、炭酸瓦斯(ガス)を水にて溶解したるもの約四石八斗、味の素、若塩酸、酒石酸、乳酸、砂糖、食塩、カルメラ及センブリ液各若干等を原料とし琺瑯(ホウロウ)タンク、混合機及壜詰機等を使用し、ビール壜に仕込み酒精分約一、五度乃至四度の雑酒約八石四斗(二打入約百箱)をビール名下に製造し>
<第四、被告人堤真寿雄は、昭和二十六年九月十五日頃、千葉県東葛飾郡流山町三百二十八番地の自宅に於て、事情を知らないタイプライター印書屋をして印書せしめて置いた、千葉県販売農業共同組合は被告人の主宰する北日本物産商会を青森県岩手県等に於ける甘藷一手販売店として指定し、甘藷五十車以上百車迄を昭和二十六年十二月末までに販売せしむる旨及その販売代金決済方法等を記載した契約書と題する書面一通の末尾の契約書署名欄に擅(ほしいまま)に、偽造の右連合会代表者たる会長堀越英次の記名ゴム印をその下に偽造の同人丸印を、更に同欄上部に偽造の右連合会角印を夫々押印し、以て千葉県販売農業協同組合連合会長堀越英次名義の権利義務に関する文書一通を偽造したものである>
事件のあらましは判決文の通りで、密造酒よりも私文書偽造のほうが生々しさがあります。
事情を知らないタイプライターを自宅に招き、桐山さんの会社(北日本物産商会)で
農作物の販売等ができるように勝手に契約書を作った「私文書偽造」の犯罪です。
農協役員の氏名と印鑑までも偽造した手の込んだものですが、
阿含宗を建ててから行った三福道偽造に通じるものがあります。
大胆不敵な点は昔と変わりありません。善悪の観念が欠如している点も同じです。
およそ仏教という清らかな世界において、経典を偽造する、しかも信者が毎日読誦する経典を捏造。
その上、内容もまったく変えてしまったなど言語道断です。
桐山さんの過去の犯罪をあえて暴くことは感心しないこととしても、
三福道捏造問題に通じる事件ですので、考察資料として掲載させていただきました。
- 70 :名無しさん:2012/01/08(日)
21:13:30
- >>69
興味深いリアルな資料ありがとうございました!
- 71 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/08(日) 21:29:57
- 準シュダオンさんにアドバイスすると、早く「仏陀の真実の教えを説く(中)」を
買った方がいいですよ。
欲貪と瞋恚とシュダオンの関係も書かれている。
まああなたにとっては学者によって書かれた平河出版の現代語訳阿含経典の方が
大切で桐山さんの幼稚な解説本なんてどうでもいいかもしれませんが。
地震の時も現代語訳の本の方をこそ心配してましたしね。
- 72 :干柿:2012/01/08(日)
22:28:31
- ついでに「欲ばらないこと(役立つ初期仏教法話13)サンガ新書」定価700円
ごぞんじスマ長老の新書本、貪について説かれております。欲について仏教では
どのように説いてきたのか分かりやすく説かれてます。
ゲイカの本とあわせて読んでみてください。準シュダオンさん
- 73 :Boo:2012/01/09(月)
13:02:23
- 深山さんのレスを読むと、アゴン宗ではブッダの沙門四果の聖者にはなれないことが
よくわかります。輪廻の主体と考えられる「我(アートマン)」が死後「霊魂」と
なり再生するという考え方がそもそも「我見」であり、その「我見」を捨てられない
限りは輪廻を止められないということでしょう。
アゴン宗ではそもそも生者も死者も輪廻する前提で「霊魂」を供養して「解脱成仏」
させて死者の境界を高めてそれが自身の境界も高めて、最終的に大解脱に至るという、
そのスタート地点で「我見」を捨てていないわけです。
「我見」を捨てるということがいかに難解なことかは準シュダオンさんを見ていると
よくわかる。
アゴン宗を退会する時、感覚的にとても抵抗があった。あの感覚的な抵抗が「我見」で
あったのでしょう。凝り固まった考えを捨てるというのは、抵抗があり、その抵抗を
通り過ぎた先に聖者の四果があるというのは、アゴン宗信者にとって皮肉というか・・・
なんともやるせないですね。
- 74 :準シュダオン:2012/01/10(火)
10:02:48
- >「我見」を捨てるということがいかに難解なことかは準シュダオンさんを見ていると
>よくわかる。
そのとおりですよ。私は「輪廻する葦」本で、我見を無くすことが修行の第一歩
であることを知り、以来約30年も我見を無くすことに専念しているのですよ。
我見を無くしたら預流果なのです。まぁ、三結を断じたら預流果ということ
なのですが、我見を断じたら三結断じたに、ほぼ等しいのです。
このことは↑、何十年も我見を断じる修行をしていたら解かることです。
我見(身見)とは、有身見、辺執見、邪見、見取見、戒禁取見、の五見です。
これらは常に意識していて、自分の中にそれを発見するたびに、薄れていく
わけです。つまり、真発見をする度に、それまでの自分の見解が我見であった
と気づくわけです。つまり、成長を続けていない限り、我見は切れないのです。
どうも、批判派は、こういう基本的な修行を、信者時代にしていなかったの
ではないかと思われますね。深山さんのレスなどたまに目にすると我見の塊
で、ああいうのをカルト信者というのです。オカルトを信じるからカルトなの
ではないよ。オカルトを信じるにしても否定するにしても、狂信的なのを
カルトというのです。私のように、しばしば勤行さえサボル信徒(管長には内緒だが)に、
カルトなんてのはあり得ないね。
なんてあり得ない。
- 75 :準シュダオン:2012/01/10(火)
10:40:45
- >ゲイカの本とあわせて読んでみてください。準シュダオンさん
そんなスマ
さんの意見などは必要ないよ。自分で経典読んで判断したら良い。
欲(辞典には、ほしいと思う、願い求める)には、善なる欲と悪なる欲と
があるわけですよ。釈尊が出家した目的も、善なる欲を求めてのことです。
それは、「聖なる求め」と訳されていますけどね。
病気や貧困の人が、安定した生活=現世利益、を求めるのは善なる欲です。
しかし、すでに安定した生活を得ている人が、さらなる現世利益を仏教に
求めるのは、貪欲であり、悪なる欲ですね。
同じ現世利益でも、人の境界によって、価値が違ってくるのです。
このあたり↑の、批判派の考え方が単純すぎるのです。
- 76 :Boo:2012/01/10(火)
10:42:16
- >そのとおりですよ。
何がその通りなんでしょう?
>私は「輪廻する葦」本で、我見を無くすことが修行の第一歩
であることを知り、以来約30年も我見を無くすことに専念しているのですよ。
我見を無くしたら預流果なのです。まぁ、三結を断じたら預流果ということ
なのですが、我見を断じたら三結断じたに、ほぼ等しいのです。
このことは↑、何十年も我見を断じる修行をしていたら解かることです。
相変わらず読解力のない人ですね。
私が言ったのは、アゴン宗教義の「不成仏霊」だの「霊障」だの「因縁解脱」
だのの考えを捨てることができない、そのことが「身見」ですよ。
準シュダオンさんは、アゴン教義だから「我見」ではないと言いたいのですか?
釈尊の見解を受け入れられず、自他を含めてそれ以外の見解に凝り固まっている
「我見」を「身見」と言うんじゃないですか?
あなたが珍しく読んでいるゲイカ本の輪廻する葦に書いているでしょ。
「断見」「常見」と。これどちらも「身見」でしょう。
>深山さんのレスなどたまに目にすると我見の塊で、ああいうのをカルト信者というのです。
準シュダオンさんは「カルト」の定義がわかっていないようですね。
- 77 :ラシン:2012/01/10(火)
10:51:06
- >73 :Boo:2012/01/09(月) 13:02:23
深山さんのレスを読むと、アゴン宗ではブッダの沙門四果の聖者にはなれないことが
よくわかります。輪廻の主体と考えられる「我(アートマン)」が死後「霊魂」と
なり再生するという考え方がそもそも「我見」であり、
その通りです、これを何度指摘されても記憶に入らない方がいます。
>2011/08/16(火) 我見とは仏教の教説であって、アゴン宗の教説ではない。
と深山さんから指摘され続け、ここ最近でも延々と我見我見と吼えまくっていると、
非難されていても本人には、暖簾に腕押しのような有様です。
>我見を断じたら三結断じたに、ほぼ等しいのです。
我見と三結の身見とはほぼ同じなのですが、頑迷に拒むのは準シュダオンさんの言う、
我見のことだと身を以って教えてくれているようです。
- 78 :準シュダオン:2012/01/10(火)
11:16:38
- >よくわかります。輪廻の主体と考えられる「我(アートマン)」が死後「霊魂」と
>なり再生するという考え方がそもそも「我見」であり、その「我見」を捨てられない
>限りは輪廻を止められないということでしょう。
あのね、我(アートマン)が死後「霊魂」になる訳ではないのよ。
出だしからして、考え方を間違えてるね。
釈尊は、我(アートマン)の存在を否定しているわけだから、霊魂と
アートマンとは別の存在だということになるでしょう。
そのあたり、「有身見」の勉強が不足しているようですね。
薪が尽きれば火は消える、というように、釈尊は煩悩と生存の関係を説明
しています。火は薪に依存します。火は薪に宿る、と表現してもいい。
では、火であるところの煩悩は、何に依存するのか?何に宿るのか?
ということです。このあたりの表現は難解になります。
煩悩が輪廻する、という言い方も変でしょうし。
火が薪に依存するように、煩悩は五陰に依存していますね。
薪が尽きれば火は消えるのですが、死んで五陰が分解すれば煩悩が消えるの
かというと、そうではない、といいます。煩悩があると、異陰なり与陰なり
が生じて新たな五陰を形成するのだという。
この異陰なり与陰のことを、仮に霊魂と呼んだだけで、それはアートマンではない。
煩悩は単独では存在できないから、異陰・与陰を煩悩と呼ぶのも間違いですし。
いわば、火が薪を生じさせる、というような理屈になってきますね。
このあたりは、瞑想で解決するしかないようです。
- 79 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/10(火) 12:16:54
- 準シュダオンさん、>>55の質問にもご明答ください。
再度貼ります。
あなたによると我見を断つことから始まって三結断ったシュダオンになることが
先決ですよね。
そして欲貪や瞋恚などはシュダオンになってから断つことを考えればよいと書いてました。
そこで質問です。
アゴン宗に入信して30年くらいになる行歴の準シュダオンさんですが、
そのあなたは貪瞋痴を減らす修行に「着手」されてますでしょうか?
貪瞋痴を「断つ」ことなどは問うてません。そんなことができた人はこのスレに
1人もいません。
ですからまだ貪瞋痴の煩悩は切れずに残っていてもかまわないが、少しでも減らす
ような修行に「着手」しているのでしょうか?
それをお聞かせ下さい。
行歴30年のあなたがです。
仏教とは貪瞋痴の煩悩を断って解脱を得ることを目指す道ですよね。
桐山さんによるとそれも小解脱に過ぎないのだそうですが。
小解脱の修行にも着手されているのでしょうか?
未着手なんでしょうか?
アゴン宗という教団は我見を断つためだけに30年以上を要しなければ貪瞋恚を減らす
努力をする道にすら着手できない教団なんでしょうか?
- 80 :ラシン:2012/01/10(火)
12:19:00
- >78 :準シュダオン:2012/01/10(火) 11:16:38
>そのあたり、「有身見」の勉強が不足しているようですね。
呪いと超能力ばかりを信じてきた信者が少しだけ批判論で勉強したらしい。
最近は因縁より煩悩を考慮した主張に変遷している。
しかし桐山眼鏡を鼻にかけて焦点が合っていないから爆笑モノばかりです。
「煩悩が輪廻する」??、煩悩があるからその生存欲が次の生を生じるのです。
誰が、「煩悩が輪廻する」なんて言ったのでしょう。
桐山さんですらそんな無茶なことは ↓述べていません。
422頁、「また新た陰が慢とともに(慢によって)再び集り現われて、
人間として生まれ変わって輪廻を続ける、」
>煩悩があると、異陰なり与陰なり
その「異陰、与陰」とは何でしょうか?
やっぱり桐山眼鏡が鼻にかかってズレまくっているようです。
こういう一知半解にも届かず偉そうにお説教をしたがる性格は年を越しても、
延々と続くようです。
桐山さんは「与陰」については、この度の著書421頁で、「陰と与(とも)に」と
説明し直したのです。
桐山さんは「異陰」という言葉は否定せず、与陰を異陰と誤ったと言っている。
あなたの言う「与陰」なんて、桐山語録からもまるで的外れです。
- 81 :準シュダオン:2012/01/10(火)
12:45:23
- >アゴン宗に入信して30年くらいになる行歴の準シュダオンさんですが、
>そのあなたは貪瞋痴を減らす修行に「着手」されてますでしょうか?
失礼。こういう重要な質問、いま目にしました。あちこちしか読んでいない
のが私の実態です。痴とは、仏教辞典の「煩悩」の説明にあるように、無明と
ほぼ同様の意味ですね。無明煩悩を無くすのは、縁起の法、四諦の法門を学ぶ
ことが必須です。で、無明解脱のことを智恵解脱、と称しますね。
で、当然、貪瞋痴を減らす修行をもしますが、重点はやはり「我見」です。
というのは、痴・無明を無くそうとして四諦や縁起の法を学ぶにしても、
我見があると、勝手な解釈になっているからです。管長の本を読んでも、十人
十色の解釈になっているわけです。だから、管長本のことを議論すると、
そういうことは言ってない、とか、いや言ってるとか、食い違います。
お互いに、我見で解釈して議論してるからですね。
- 82 :準シュダオン:2012/01/10(火)
13:09:44
- >仏教とは貪瞋痴の煩悩を断って解脱を得ることを目指す道ですよね。
>桐山さんによるとそれも小解脱に過ぎないのだそうですが。
>小解脱の修行にも着手されているのでしょうか?
「阿含密教いま」本のP290に、大乗仏教の涅槃論を批判した後で、
阿含宗の涅槃を解説していますね。それは「完全なる解脱」のことだ、
と説明しています。そして解脱には段階があるとね。
私が思いつくままに、「完全なる解脱」の解脱用語を挙げてみましょう。
心解脱、慧解脱、倶解脱、八解脱、五喜解脱、慈解脱、悲解脱、喜解脱、
色解脱、受解脱、想解脱、行解脱、識解脱、漏尽解脱、苦悩解脱、とまぁ、
経典に出ている解脱から、今思いつく解脱はこのくらいあります。
そして管長の説く、煩悩解脱は小解脱で、因縁解脱が大解脱なり、という
解説がありますね。
そして、管長の説く「完全なる解脱」とは、上記の解脱をすべて備えて
いることだと解釈します。当然、三明等の解脱知見も具えています。
深山さんなどは、神通力を具えている阿羅漢は、阿羅漢の一割程度、などとの
経を見つけるとそのまま信じ込んでしまう。だが、阿羅漢になっても修行は
続くのです。今、神通のない阿羅漢も、そのうちに解脱知見も生じてくる、
と考えるのが自然でしょう。そうでなければ、煩悩を無くしたつもりの修行者
と、本物の阿羅漢の区別のつけようがありません。
というわけで、我見を断つ修行は、すでに小解脱の修行に入っているのです。
- 83 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/10(火) 13:19:54
- >>81:準シュダオン12/01/10(火) 12:45:23
>で、当然、貪瞋痴を減らす修行をもしますが、重点はやはり「我見」です。
これはあなたが現在我見を断つ修行をメインにしながらも、しかし貪瞋痴の煩悩も
減らす努力をする修行にも着手していると捉えてよいのですね?
しかしあなたはかつて欲貪や瞋恚なんてのはシュダオンになってから切ることを
考えればよいと書いてました。
シュダオンになってから切ればよいではなく、考えればよいです。
つまりシュダオンになる前は欲貪や瞋恚のアプローチなど考える必要はなく
もっぱら護摩木祈願をして現世利益を追求していればよいとしていました。
これは言葉のアヤなんですか?
ちなみに私は千里の道も一歩からで、なるほど欲貪や瞋恚が完全になくなるのは
シュダオンより先のアナゴンの話だが、減らす努力は未シュダオンの入門時から
行うのが当たり前だとしました。
どうして当時、貪瞋痴を減らすことに着手努力が必要だと書かなかったのでしょうか?
それからあなたへのアドバイスとして、今回の新著の中巻を読むようにお勧めしました。
それは今回の議論の件と関係あり、欲貪や瞋恚がまだ残っており、三結しか断ててない
シュダオンがどうして聖者なのかという疑問に答えるもので、欲貪、瞋恚の範囲を
限定してシュダオンとの関係を示しています。
シュダオンでもある程度の貪や瞋もなくせていることを説いている。
同時にそれはそれ相応の努力の道も示唆したことになりますが。
まずはそれを読んで
から、桐山説、アゴン宗説に沿って答えるのが信者の義務では
ないでしょうか?
- 84 :ラシン:2012/01/10(火)
13:20:46
- >心解脱、慧解脱、倶解脱、八解脱、五喜解脱、慈解脱、悲解脱、喜解脱、
色解脱、受解脱、想解脱、行解脱、識解脱、漏尽解脱、苦悩解脱、とまぁ、
経典に出ている解脱から、今思いつく解脱はこのくらいあります。
>そして管長の説く、煩悩解脱は小解脱で、因縁解脱が大解脱なり、という
解説がありますね。
それで、その因縁解脱はどこにあるの?
- 85 :ラシン:2012/01/10(火)
14:38:41
- >心解脱、慧解脱、倶解脱、八解脱、五喜解脱、慈解脱、悲解脱、喜解脱、
色解脱、受解脱、想解脱、行解脱、識解脱、漏尽解脱、苦悩解脱、とまぁ、
経典に出ている解脱から、今思いつく解脱はこのくらいあります。
>そして管長の説く、煩悩解脱は小解脱で、因縁解脱が大解脱なり、という
解説がありますね。
それで、その因縁解脱はあなたの出した解脱群のどこにも該当しない。
桐山さんの解釈をどこにねじ込もうと、入る隙間もありません。
あなたの○○解脱とは、雑阿含経や長阿含經などに八解脱として
出てきますが、その多くは各種禅定の別名です。
それらが瑣末になり部派仏教などの分類するところになった。
衆集經第五ー抜粋ー
謂八解脱。色觀色一解脱。内無色想觀外色二解脱。
淨解脱三解脱。度色想滅瞋恚想住空處解脱四解脱。
度空處住識處五解脱。度識處住不用處六解脱。
度不用處住有想無想處七解脱。
度有想無想處住想知滅八解脱。
ところで桐山さんは有余涅槃者と申告しているのだから、
あなたの弁では三明を体得しているらしい。
その過去世を見られる宿明通で、存在しない信州十八人の霊障武士を
どうして確認できたのでしょう?
- 86 :Boo:2012/01/10(火)
17:10:46
- >78 :準シュダオン:2012/01/10(火) 11:16:38
>>よくわかります。輪廻の主体と考えられる「我(アートマン)」が死後「霊魂」と
>>なり再生するという考え方がそもそも「我見」であり、その「我見」を捨てられない
>>限りは輪廻を止められないということでしょう。
>
>あのね、我(アートマン)が死後「霊魂」になる訳ではないのよ。
>出だしからして、考え方を間違えてるね。
>釈尊は、我(アートマン)の存在を否定しているわけだから、霊魂と
>アートマンとは別の存在だということになるでしょう。
>そのあたり、「有身見」の勉強が不足しているようですね
何をえらそーにほざくのでしょうか。そもそもアゴン宗の教義では最近
「蘊とともに相続して生じる」に変わったのをご存じないか?これは
五蘊の感覚器官とともに(生きている状態のまま)引き継いで霊魂として
生じた「不成仏霊」を解脱供養する、という教義でないの?
釈尊は準シュダオンさんの言うように「我(アートマン)」を否定しています。
釈尊のいう「アートマン」は生死にかかわらず否定していますね。
ところが桐山アゴン教義は生きているうちに「因縁」という「我」を切り、それが
叶わず死んだ場合、霊魂を供養し死後の「我」を成仏させるという、釈尊の仏教から
全くかけ離れたものである。その教義に凝り固まった「身見」を持つ準シュダオン
さんなどは「準シュダオン」と名乗るのもおこがましい「外道凡夫」であることに
気が付いてくださいよ、そろそろ。
- 87 :ラシン:2012/01/10(火)
17:29:21
- >81 :準シュダオン:2012/01/10(火) 12:45:23
>で、当然、貪瞋痴を減らす修行をもしますが、重点はやはり「我見」です。
>というのは、痴・無明を無くそうとして四諦や縁起の法を学ぶにしても、
我見があると、勝手な解釈になっているからです。
仏教の「我見」は、
そういう意味の我見(自分だけの狭くかたよった意見や見方)では用いません。
桐山教の言う我見とは、自我の実体は霊魂だと断ずる誤りを犯しているのです。
それを釈尊は、身見として切る相手だと説いたのです。
桐山さんの言う修業時の我見は、桐山さんの指導に服従せよとの意味です。
また、あなたは簡単に三つを減らせばよいと考えているようだが、
貪・瞋・痴の三毒と言ってもただの三つではないのですよ。
辞典にあるように様々の煩悩の大別総称の三種です。
そして預流を目指すなら、身見(≒我見)・疑惑・戒取の三結断から始める。
因みに有部による有身見とは誤った五見の一つと整理されており、
意味の一つは我我所として執着することですが、批判側は参考としていない。
あなたのような見当違いの我見をぶら下げていたら、いつまで経っても執着して
進まない。
あなたの修業など進もうがどうでもよいが、
あなたの仏教無知で議論が進展しないとの意味です。
ー岩波仏教辞典ー
我見
自我(tman)の存在を是認する誤った見解(邪見)のこと.
ときとして自我の所有(tmya),わがものに執着する邪見(我所見)を
含めていうこともある.ー後略ー
煩悩
身心を乱し悩ませる汚れた心的活動の総称. 輪廻転生をもたらす業を
引き起こすことによって,業とともに,衆生を苦しみに満ちた迷いの世界に
繋ぎ止めておく原因となるものである.−後略ー
【初期仏教】阿含経典では,髄眠・漏・取・縛・結・使などさまざまな呼称の
もとに,煩悩に相当する種々の要素が挙げられているが,それらの中で代表的な
ものは〈貪〉〈貪.むさぼり〉,〈瞋〉〈瞋恚.にくしみ〉,〈痴〉〈愚痴.無知〉の
いわゆる三毒である.四諦説の枠組みのなかでは,飽くことを知らない欲望(渇愛),
即ち貪が人生苦をもたらす根源であるとされる.十二支縁起(十二因縁)説においても,
渇愛は生死の苦しみをもたらす原因として重視されるが,そのさらに根源は,
仏教の道理に対する無知(無明),即ち痴があるとされるのである.
- 88 :干柿:2012/01/10(火)
21:34:59
- >>75
スマさんの意見ですとw、意見じゃありません、まっとうな仏教の解説書です。
桐山ゲイカのとち狂った仏陀直説といいながら自分で勝手に変えてしまったインチキ
経典の解説こそこの世に不要のものなのですよ!
まだわからないのでしょうか?
まったく洗脳されたおつむはどうしようもありません
いくら解脱についての文字の上での分類をあげへつらっても何にもなりますまい
そんなもの鶏の糞のようなものですw(実際そう言ったタイの高僧がおりますがw)
だからアナタは現実がみられない洗脳が解けないのですよ。
なにがスマさんの意見はいらないですかよく言えたものだ、でたらめ桐山意見を
かかえたまんまで仏教の話などするな!といっておきましょうw
- 89 :Boo:2012/01/10(火)
22:17:27
- 準シュダオンさんはラシンさんのレス↑を最低10回は読みなさい。
- 90 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/10(火) 23:36:22
- >>74:準シュダオン12/01/10(火) 10:02:48
>であることを知り、以来約30年も我見を無くすことに専念しているのですよ。
>我見を無くしたら預流果なのです。まぁ、三結を断じたら預流果ということ
>なのですが、我見を断じたら三結断じたに、ほぼ等しいのです。
>このことは↑、何十年も我見を断じる修行をしていたら解かることです。
なんで我見を断つのに30年も何十年もかかるのですか?
ここに70歳の人がいて遅まきながら解脱の道に励もうとする人がいる。
70歳なんてまだまだ若くて元気です。
しかし30年以上掛けないと初歩の我見すら切れないよ、三結断ってシュダオンに
ならないと悪趣に堕ちないという保障もないよとあなたはお導きするのですか?
百歳以上まで生きないとシュダオンすら無理だから今生は諦めなさいと説くのか?
アゴン宗では因縁解脱を説きます。因縁解脱とは小解脱たる煩悩解脱に対して
大解脱としてますから、小解脱よりも後に成就するものです。
貪瞋痴の煩悩解脱(小解脱)の前提条件である我見をなくすのに30年経って
まだできてないと言うのです。
桐山さんは因縁解脱を説いて衆生の苦を救おうとしている。
病気したら苦しいよなあ。事故に遭ったら苦しいよなあ。
こういう苦しみは因縁という運命の星から来るのだから現世においてこの苦しみの
もととなる因縁を切って苦から離れようと説いた。
だからあなたも入信したんでしょ?
因縁解脱がなけりゃ信仰する意味がないとした。
ところが心解脱(煩悩解脱=小解脱)より先の身解脱(肉体の改善)、命解脱(不幸な運命の転換)
が因縁解脱なんだから先の先まで行くのにどれだけ掛かるのか?
これは因縁解脱なんて若者でなければ時間的にも望めないと言っているような
ものではないか?
我見を断つ前に運命は扉を叩き、病気で苦しめ、事故死で今生を終わらせるでないか?
もっともあなたと同じく桐山さんも無責任なこと説きますよね。
千座行で千日で因縁が切れてしまうとした。
千日で切れなくても何回か繰り返せば切れるようなことを説いた。
初の行座で先祖の因縁を解き、中の行座で我が身の因縁を切り、満の行座では
余力あまって我が子の因縁まで切れると説いていた。
しかしあんなの全く嘘ではないか?
しかも古来から伝わる話を紹介したのではなく、自分で創作した話ですよ。
あの和讃は。
- 91 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/11(水) 00:07:40
- >>75:準シュダオン12/01/10(火) 10:40:45
>病気や貧困の人が、安定した生活=現世利益、を求めるのは善なる欲です。
いいえ、違います。現実努力だけで叶わないことまでもなんとかしようと願うのは
不当な欲です。
だから四苦八苦を説いた。四苦八苦とは生きている限りどうにもならない。
死ななくなるなんてあり得ないし、老いなくなるなんてあり得ない。
別離のない人生なんてない。求めて得られないことなど山ほどある。
だから祈って病気が治る現世利益など求めません。
病気でも貧困でもそれに負けない清らかで強い心を獲得するしかないのです。
>しかし、すでに安定した生活を得ている人が、さらなる現世利益を仏教に
>求めるのは、貪欲であり、悪なる欲ですね。
じゃあアゴン宗の護摩木祈願なんて悪なる欲を煽っていることになりますよね。
実は病人しか護摩木木を書かないわけではない。
それなりに安定しているくせに皆あさましく護摩木を書いて教団も護摩木の祈願文
のスタンプまでズラリ並べて待っているじゃないですか。
学業優等、商売繁盛、金運如意、縁むすび、受験合格。
これらは悪なる欲のスタンプですよね。
- 92 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/11(水) 00:36:05
- >>78:準シュダオン12/01/10(火) 11:16:38
>薪が尽きれば火は消えるのですが、死んで五陰が分解すれば煩悩が消えるの
>かというと、そうではない、といいます。煩悩があると、異陰なり与陰なり
が生じて新たな五陰を形成するのだという。
>この異陰なり与陰のことを、仮に霊魂と呼んだだけで、それはアートマンではない。
その考えが常住の我を想定する常見なんですよ。
異陰、(与)陰とは次の五陰を生じる媒体ではなく次の五陰そのものを言います。
つまり色、受、想、行、色なんだが簡単に言うと肉体と精神活動です。
前世が山田さんで現世が高橋さんで来世が加藤さんならば、その肉体等はそれぞれ
異なるから異陰と言うのです。
つまり前世の五陰→現世の五陰→来世の五陰を説いているに過ぎません。
現世の五陰→異陰(与陰)→来世の五陰ではなく、現世の五陰→来世の五陰(異陰)
なのです。
現世から来世の橋渡しみたいのは仏教では考えてはならないのです。
- 93 :Boo:2012/01/11(水)
00:38:03
- >81 名前:準シュダオン 投稿日: 2012/01/10(火) 12:45:23
>>アゴン宗に入信して30年くらいになる行歴の準シュダオンさんですが、
>>そのあなたは貪瞋痴を減らす修行に「着手」されてますでしょうか?
>
>失礼。こういう重要な質問、いま目にしました。あちこちしか読んでいない
>のが私の実態です。痴とは、仏教辞典の「煩悩」の説明にあるように、無明と
>ほぼ同様の意味ですね。無明煩悩を無くすのは、縁起の法、四諦の法門を学ぶ
>ことが必須です。で、無明解脱のことを智恵解脱、と称しますね。
>で、当然、貪瞋痴を減らす修行をもしますが、重点はやはり「我見」です。
>というのは、痴・無明を無くそうとして四諦や縁起の法を学ぶにしても、
>我見があると、勝手な解釈になっているからです。管長の本を読んでも、十人
>十色の解釈になっているわけです。だから、管長本のことを議論すると、
>そういうことは言ってない、とか、いや言ってるとか、食い違います。
>お互いに、我見で解釈して議論してるからですね。
おいおい、能書きはいいからユビキタスさんの
「そのあなたは貪瞋痴を減らす修行に「着手」されてますでしょうか?」
に答えなさい。着手してないからわけわかんないこと言ってごまかしてるんでないの
- 94 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/11(水) 00:57:40
- >>78:準シュダオン12/01/10(火) 11:16:38
>このあたりは、瞑想で解決するしかないようです。
また迷走に逃げますか?
瞑想とは思索に他なりません。
だから徹底的に考えるのだから、あなたのように難しい問題に直面すると
言葉では説明できないとか自分をごまかして空想の世界に逃げ込むことではない。
あなたは単に上司に叱られて、叱られる原因はどこにあるのか考えなさいという命題に、
現実を直視するのが厭だから、音楽を聴いて気が紛れて、それで問題が解決したかの
ように思っているだけです。
- 95 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/11(水) 08:28:42
- >>82:準シュダオン12/01/10(火) 13:09:44
>そして、管長の説く「完全なる解脱」とは、上記の解脱をすべて備えて
>いることだと解釈します。当然、三明等の解脱知見も具えています。
解脱のつく用語を全部並べて足し算しても不運な現世の運命転換の因縁解脱には
なりません。
>深山さんなどは、神通力を具えている阿羅漢は、阿羅漢の一割程度、などとの
>経を見つけるとそのまま信じ込んでしまう。だが、阿羅漢になっても修行は
>続くのです。今、神通のない阿羅漢も、そのうちに解脱知見も生じてくる、
>と考えるのが自然でしょう。そうでなければ、煩悩を無くしたつもりの修行者
>と、本物の阿羅漢の区別のつけようがありません。
経典に説かれる阿羅漢は既に亡くなった人です。
その神通力を持たなかった阿羅漢の中には釈尊十大弟子もいます。
彼らを本物の阿羅漢ではないとは大した侮辱ですね。
それならば神通力を体得せずに今生を終えた阿羅漢は阿羅漢果ではなく阿羅漢向
と表現すべきではないですか。
そして阿羅漢ならば死後もう輪廻をすることがないのだから、あの人生で全てが
終わっているのです。
>というわけで、我見を断つ修行は、すでに小解脱の修行に入っているのです。
なるほど、この表現でわかりました。
私は「小解脱の修行にも着手しているのか」というものですから、それに対する
このレスは小解脱の中で我見を解くことだけに着手しているだけで貪や瞋に対しては
未着手なわけで、やはりシュダオンになってから仕方ないから重い腰を上げて
取り組めばいいやと考えているだけで、今は野放図垂れ流しを許容して貪って
いるわけですね。
- 96 :準シュダオン:2012/01/11(水)
09:57:30
- >経典に説かれる阿羅漢は既に亡くなった人です。
すでに亡くなった阿羅漢だと、経に書いてあるのですか?
>その神通力を持たなかった阿羅漢の中には釈尊十大弟子もいます。
>彼らを本物の阿羅漢ではないとは大した侮辱ですね。
>それならば神通力を体得せずに今生を終えた阿羅漢は阿羅漢果ではなく阿羅漢向
>と表現すべきではないですか。
では、岩波仏教辞典の「解脱」の項に、「戒定慧解脱解脱知見の五分法身を
備えることが阿羅漢の必須条件であった」という説明を、どう思うかね?
学者先生の間違いだとでもいうのかね?
そうじゃ、ないのよ。
阿含経を大局的に観ると、阿羅漢は、神通を具えているのが原則なのであって、
神通力がない阿羅漢を説く経は例外と捉えるべきなのです。
堅固経などにもあるように、「阿羅漢の神通力を見せて、仏教を広めたほうが
良い」と、釈尊にせまる人が居たようです。神通があると聞けば、見たいと
思うのが人情でしょう。しかし、釈尊は拒否します。
- 97 :準シュダオン:2012/01/11(水)
10:15:04
- >私は「小解脱の修行にも着手しているのか」というものですから、それに対する
>このレスは小解脱の中で我見を解くことだけに着手しているだけで貪や瞋に対しては
>未着手なわけで、やはりシュダオンになってから仕方ないから重い腰を上げて
>取り組めばいいやと考えているだけで、今は野放図垂れ流しを許容して貪って
>いるわけですね。
私のレスをも、ユビさんなどは己の我見で解釈しています。だから私の意図も
伝わらないw。我見を断つ修行も幅広いし、困難です。簡単に断てるものでは
ありません。現に、わたしは約30年間も取り組んでいるのに、まだ断てたと
いう実感がないのですからね。取り組んでいない人は、尚更でしょう。
深山さんなどは、「健全な欲」まで否定しています。
ユビさんも、そうなの↑ですか?
なぜ三毒が、「欲・瞋恚・痴」ではなくて、「貪・瞋恚・痴」なのか、
考えてみたら良いでしょう。欲にも、聖なる欲と、俗なる欲があって、
釈尊が否定するのは、解脱を邪魔する、解脱に役立たない俗悪欲のことね。
我見に取り組んでいれば、自然に貪・瞋・痴の意味も理解してきますよ。
しかし、我見をそのままにして貪・瞋・痴に取り組んだとしても、ザルで
水を汲んでるようなものです。
- 98 :ラシン:2012/01/11(水)
11:14:11
- >96 :準シュダオン:2012/01/11(水) 09:57:30
>では、岩波仏教辞典の「解脱」の項に、「戒定慧解脱解脱知見の五分法身を
備えることが阿羅漢の必須条件であった」という説明を、どう思うかね?
学者先生の間違いだとでもいうのかね?
新年から暴走しまくっていますね。
この準シュダオンさんは「解脱知見」をなにやらもの凄い超能力だ、
と錯覚しているようです。
「解脱知見」とはすべての漏が尽きたこと、解脱したと知ることです。
貪愛からの解脱(心解脱)、無明からの解脱(慧解脱)、智慧と禅定の
両面で得る解脱(倶解脱)を知見することが解脱知見です。
漏尽通でエイヤッーと解脱するような”漫画”と勘違いしているのが、
準シュダオンさんだ。
>現に、わたしは約30年間も取り組んでいるのに、まだ断てたと
いう実感がないのですからね。
あなたは、>93
:Booさんの反論を読んだら、恥ずかしくてこんなことは言えないはず。
- 99 :ラシン:2012/01/11(水)
11:19:45
- >97 名前:準シュダオン 投稿日: 2012/01/11(水) 10:15:04
>深山さんなどは、「健全な欲」まで否定しています。
ユビさんも、そうなの↑ですか?
なぜ三毒が、「欲・瞋恚・痴」ではなくて、「貪・瞋恚・痴」なのか、
考えてみたら良いでしょう。欲にも、聖なる欲と、俗なる欲があって、
臆病と怠慢で例示した辞典すら見ることが出来ないのが、準シュダオンさんです。
深山さんのレスをまともに見れないのも、あなたが臆病者だからです。
あなたの内面を見透かされるから、たまたまレスが見えたなんて自分にまでウソをつく。
自己観察とは、そのあなたの内面を他人から指摘される前に、よ〜く見ることだ。
>>87に煩悩の頁を示したが、薄らボケて見る事が出来ないようなので再掲しましょう。
煩悩(ー岩波仏教辞典ー)
身心を乱し悩ませる汚れた心的活動の総称. 輪廻転生をもたらす業を
引き起こすことによって,業とともに,衆生を苦しみに満ちた迷いの世界に
繋ぎ止めておく原因となるものである.−後略ー
【初期仏教】阿含経典では,髄眠・漏・取・縛・結・使などさまざまな呼称の
もとに,煩悩に相当する種々の要素が挙げられているが,それらの中で代表的な
ものは〈貪〉〈貪.むさぼり〉,〈瞋〉〈瞋恚.にくしみ〉,〈痴〉〈愚痴.無知〉の
いわゆる三毒である.四諦説の枠組みのなかでは,飽くことを知らない欲望(渇愛),
即ち貪が人生苦をもたらす根源であるとされる.
あなたの「「欲・瞋恚・痴」ではなくて」などと解釈する”脳みそ”がおかしいのです。
ー飽くことを知らない欲望(渇愛),即ち貪が人生苦をもたらす根源であるとされる.ー
このように、欲望(渇愛)=貪 ということです。
欲はすべて煩悩ですから貪欲などと表現される。
あなたの”脳みそ”が健全ではないのです。
仏教知らずで臆病者の準シュダオンさんらしい。
- 100 :深山:2012/01/11(水)
12:53:13
- >>97 :準シュダオン:2012/01/11(水)
10:15:04
>私のレスをも、ユビさんなどは己の我見で解釈しています。
何を言われも「我見だ!」「我見だ!」「我見だ!」
準シュダオンさんの主張に反論したり、違うことを書くと「我見だ!」「我見だ!」
準シュダオン教の真言はガケンガケンと唱えるらしい。
信者さんたちも周囲にこういう老人を知っているでしょう。
年を取ると、頭が固くなり、新しいことが吸収できなくなり、自分の古い知識に頼ろうとする。
そこまでは老化だから仕方ない。
ところが、準シュダオンさんのような老人は、自分の脳の老化の自覚はなく、
逆に自分の知性が進歩していると自惚れる。
元々、慢心の強い人が老化すると、知性は衰えるのに、
慢心はむしろ増大するから、知性が優れたと逆に錯覚するのです。
こういう老人は、総じて周囲に偉そうにお説教を垂れる。
「オレ様の素晴らしい主張を有り難く受け取れ」と威張る。
反対意見など述べようものなら、大変です。
自分の無知や無能を棚に上げて、相手を、若造で何もわからない連中だと罵り、あざける。
準シュダオンさんがその典型です。
- 101 :深山:2012/01/11(水)
12:57:34
- >>97 :準シュダオン:2012/01/11(水)
10:15:04
>私のレスをも、ユビさんなどは己の我見で解釈しています。
老人脳で、反論を読んでも理解できないから、「読まない」と始まる。
脳が老化して、新しい考え、自分と違う考えが理解できないし、
意味がわからないから、受け取れないのです。
そこで、「つまらない考えだ」と無視し、自分の従来の考えを持ち出し、
これを受け取れ、と頑迷に主張する。
どんなに否定され、証拠を示されても、老人脳は理解できないから、受け取らない。
準シュダオンさんに、仏教の我見とは何かを辞典まで引用して
示してあげても受け付けない点を見てください。
批判側の主張を受け付けないどころか、仏教辞典に書いてあることも、
自分に都合の悪い内容は受け付けない。
仏教の我見とは、人間には霊魂がある、と信じることです。
釈尊は自己とは五蘊によって出来ていると説明し、その中には霊魂などない。
だが、古来から、人間には霊魂があるのだと主張する宗教家が圧倒的に多い。
釈尊はそれを我見として否定した。
我見を主張しているのは桐山アゴン宗であり準シュダオンさんです。
- 102 :深山:2012/01/11(水)
13:01:45
- >>97 :準シュダオン:2012/01/11(水)
10:15:04
>私のレスをも、ユビさんなどは己の我見で解釈しています。
「健全な欲」の話も同様です。
私から具体的な経典の事例をいくら出されも、辞書から意味を引用されても、
準シュダオンさんの老人脳には何の影響も与えない。
私の主張を受け入れないのではなく、経典にある釈尊の言葉を受け入れないのです。
釈尊は、解脱しようとする欲以外の欲望にすべて否定的です。
釈尊の言う梵行とは、簡単に言えば禁欲です。
在家にさえも、阿那含まで行きたいなら、性欲に囚われないという
梵行をするように説いたのが出家経です。
煩悩である欲望を肯定したら、釈迦仏教は成り立たない。
たちまち腐敗が始まり、その末路がドロドロのインド密教です。
アゴン宗は教祖からして最初から腐っている。
- 103 :名無しさん:2012/01/11(水)
13:04:02
- >>97 :準シュダオン:2012/01/11(水)
10:15:04
>私のレスをも、ユビさんなどは己の我見で解釈しています。
準シュダオンさんはどうでもいい。
もはや、彼はこのままで一生を終えるから、次の人生でも、
外道思想に染まり、周囲からは侮蔑されながらも我一人尊しの人生を送るでしょう。
その愚昧さに彼自身が気がつくまで、何度でも輪廻する。
信者さんたちに気がついてほしいのは、この頑迷で何一つ受けない老人脳の
準シュダオンさんのあり方は、信者さんたちの姿でもあることです。
人間には霊魂などないと釈尊が述べていることをいくら示しても、
信者さんたちはまだ霊魂を信じていますよね?
桐山さんの霊能力を信じているからです。
桐山さんは「霊魂を否定するのは犬猫並だ」と侮蔑した。
これは、釈尊を犬猫並だと言っているのと同じです。
信者さんたちは釈尊を小馬鹿にしたり、罵倒するつもりなどないのはわかる。
だが、現実にそれをしているのです。
- 104 :深山:2012/01/11(水)
13:07:19
- >>97 :準シュダオン:2012/01/11(水)
10:15:04
>私のレスをも、ユビさんなどは己の我見で解釈しています。
こういう信者さんたちの姿を映す鏡が準シュダオンさんなのです。
彼の言動を見て、いくら何でもおかしいと思うでしょう。
他人の反論は一切無視して、ガケン、ガケンと念仏のように繰り返す。
信者さんたちも、釈尊がはっきりと否定しているのに相変わらず
人間には霊魂があると信じている。
釈尊ははっきりと死者の成仏を否定しているのに、
信者さんたちは桐山さんを信じて、解脱供養や冥徳解脱に10万円を出す。
護摩を禁止しているといくら言われても、信者さんたちは
星まつりに向けて護摩木を買い、そこに祈願を書いて、欲望を増やす。
釈尊が護摩を禁止し、死者成仏も否定している阿含経は何度も引用しました。
批判側ではなく、釈尊自らが信者さんたちに語っているのです。
だが、相変わらず、釈尊の言葉を無視して、禁止されたこと、
否定されたことを、オシャカの成仏ホーと称して行う。
その姿は、何を言われても、ガケンガケンを繰り返すしか
能がない老人と同じではありませんか。
- 105 :深山:2012/01/11(水)
13:09:52
- >>97 :準シュダオン:2012/01/11(水)
10:15:04
>私のレスをも、ユビさんなどは己の我見で解釈しています。
信者さんたちは、意図しなくても、釈尊の足を踏んづけている。
気がつかずに足を踏んづけたらどうしますか。
自分の足をどかし、意図的にしたのではないと言い訳をして、失礼をわびるでしょう。
今がそのチャンスであることに気がついてください。
私は信者さんたちに、釈尊の足を踏んづけていることを教えた。
かつての私も、今の信者さんたちも釈尊の足を踏んづけてしまった。
禁止事項を破り、否定された内容を信じていた。
気がつかないまでは、人間なのだから、過ちとして許される。
だが、信者さんたちはその間違いをくり返しここで指摘されている。
あなた方は読んで、釈尊の足を踏んづけていることを知った。
それでもまだ、護摩木を書き、星まつりで焚き火を拝み、
死者成仏で世界平和を祈るのですか。
それでは、すっかりヴォケてしまいガケンガケンの念仏を
唱えるしか能のない準シュダオンさんと同類ではないか。
いや、準シュダオンさんはケチだから、護摩木なんてろくに買わないし、
解脱供養や冥徳解脱なんて今は出さない。
彼は口先でペラペラ言うだけで、金は出さない。
お金をたくさん出している信者さんたちのほうが釈尊の足を
力任せに踏んづけていることになるのですよ。
準シュダオンさんのように脳が崩壊する前に、まだ正常な判断ができる今の内に、
釈尊の足を踏んづけるのをやめて、素直に謝罪し、信仰の軌道修正をするべきです。
準シュダオンさんのように、喜んで釈尊の足を踏むようになってからでは遅い。
彼を反面教師にして、まずは、信者さんたちは足をどかしてはどうか。
- 106 :準シュダオン:2012/01/11(水)
13:53:05
- 裁判云々とかのレスをチラと目にしたことがあったが、もし阿含宗を霊感
商法とか訴えて、解脱供養の金を返せ、なんて訴訟なら勝てはしないから
止めた方がいいよ。儲かるのは弁護士だけで、敗訴すれば阿含宗に裁判費
用を弁償する義務まで生まれるんだからね。
色川さんの場合は、信者として例祭に参加する権利を認めよ、等の訴えで、
教法がインチキだとか言ってる訳ではない。だから和解する要素が生じた
のであって、霊感商法と訴えたのでは勝ち目はないし、和解も無理だね。
例えば、80歳や90歳のモウロクした爺さんや婆さんをしつこく勧誘し
て、解脱供養など、何体も申し込ませた場合なら、世間の同情もあろう。
が、しかし、一人前の大人の場合は、世間の同情もないであろうね。
世間はそんなに甘くはない。口に出さなくても、(欲を張るからそうなる
のだろw自業自得だろうが)と、世間に思われるだけだろうね。
競馬に大金突っ込んで、負けて、金を返せと、競馬新聞を訴えたらどう
なるだろ?
世間は、その程度にしか思わないだろうね。
(阿含宗の法を競馬に例えて、誠に申し訳ありません。)
- 107 :名無しさん:2012/01/11(水)
16:57:26
- >>106
阿含宗の信仰はギャンブルと同じかい?
- 108 :干柿:2012/01/11(水)
21:19:43
- >>106
裁判だとか世間の同情だとかそい話とちゃうやろ
お金で騙されて損だとか特だとか、ここではそんな話をしているのではない
釈迦の教えとはまったく違うのに、釈迦と阿含経を利用して、真実の釈迦
の教えだとかいうインチキを問題にしているんでしょ。よく考えろ!
裁判とかの詐欺行為で問題おこしている云々はまた別の話でしょが
仏教の教学じゃなく法律とかの問題のことごちゃ混ぜにするな!
だいたい色川裁判はそれ自体は色川と阿含宗の裁判であって我々には関係がない
ただ、そういう裁判沙汰になったという事件が阿含宗の根源をゆるがす大事件
なんだよ!そういう理屈があなたにはわからないらしい
どこまでも我見を押し通すことしかできないようですねアホくさい!
- 109 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/11(水) 23:00:55
- >>96:準シュダオン12/01/11(水) 09:57:30
>すでに亡くなった阿羅漢だと、経に書いてあるのですか?
はい、その神通力を持たずして阿羅漢となって結局そのまま涅槃に入った、
要するに死んだのはサーリプッタ、舎利弗です。
彼は人の過去世を見透す神通力はなかったとされます。
しかし彼は釈尊の十大弟子どころか二大弟子です。
いや、ナンバーワンの弟子と言っても過言はないかもしれない。
なぜなら釈尊は彼に全幅の信頼を置き、代理で法を説くことを認めたからです。
だからサーリプッタの方が前面に立つのだから仏教教団の長はサーリプッタと
間違われたとも言われたそうです。
そんなサーリプッタはあなたによると神通具足しない本物ではないのだそうだ。
そんな弟子になんで代理で法を説かせるナンバーワンにするのか?
単なる十大弟子なら十人の中にそんな本物ではない奴がいてもご愛嬌かもしれない。
しかし智慧第一と言われたサーリプッタの場合は愛嬌では済まされない。
そしてそのサーリプッタですが、ご存知だろうが、釈尊の入滅前に病没してます。
先に涅槃に入ることをお許しくださいと釈尊に言って亡くなって涅槃に入ったのです。
そして経典が編纂されたのは釈尊が入滅した後です。その前にサーリプッタが
入滅してます。
つまり経典の中でサーリプッタは神通力を持たずに阿羅漢として涅槃に入った
ことが記述されているわけで、
彼はまだ未熟にして本物の阿羅漢ではないが、今後の舎利弗くんに期待しよう
なんてアホな話はないのです。
>では、岩波仏教辞典の「解脱」の項に、「戒定慧解脱解脱知見の五分法身を
>備えることが阿羅漢の必須条件であった」という説明を、どう思うかね?
何の矛盾もありません。
解脱知見とは漏尽智のことであり、宿命智や天眼智を指さないからです。
解脱とは漏(煩悩)が尽きてなくなったことだし、解脱知見とはそれを知ること
だから漏尽智しかないのです。
- 110 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/11(水) 23:07:02
- >>96:準シュダオン12/01/11(水) 09:57:30
>堅固経などにもあるように、「阿羅漢の神通力を見せて、仏教を広めたほうが
>良い」と、釈尊にせまる人が居たようです。神通があると聞けば、見たいと
>思うのが人情でしょう。しかし、釈尊は拒否します。
あれ?尻切れとんぼだな?
拒否した釈尊についてのあなたの評価が書いてない。
- 111 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/12(木) 00:02:55
- >>97:準シュダオン12/01/11(水) 10:15:04
>我見に取り組んでいれば、自然に貪・瞋・痴の意味も理解してきますよ。
>しかし、我見をそのままにして貪・瞋・痴に取り組んだとしても、ザルで
>水を汲んでるようなものです。
だからどうして30年かけて未だに我見から卒業できず、貪瞋痴退治に着手の
進級ができないでいるのさ?
英語塾に行って何年経ってもアルファベットを覚える学習だけで、その先に
進めないでいることが自慢になるのか?
そんなこと言ってもアルファベットは必須で大切なんだぜ。
LとRの違いを正しく発音できるかい?
何?過去形、主語、動詞?
そんなものはアルファベットをマスターしないうちは勉強しても頭に入らん。
だから30年間アルファベットだけを勉強してるんだ。
でもこれでも英語はなんとなく理解できているぜ。
どんな英語でもこのアルファベット26文字から構成されているのだから。
さあ、今日もアルファベットを唄おう。
エービーシーデーイーエフジー♪
これがあなたです。
そんなことよりあなたに耳寄りのニュースを教えてあげたでしょう?
「仏陀の真実の教え(中)」を買って読みなさい。
あなたと似たことを書いている。
三供養品の解説のところです。
三結断っただけのシュダオンでも実は表面意識の欲貪や瞋恚は消滅しており、
アナゴンになる時断つ欲貪と瞋恚は潜在意識の奥底や深層意識における貪りと瞋り
としています。
だからこういう桐山説をよく読んで、それを正しく引用して主張しなさい。
- 112 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/12(木) 00:41:14
- >>106:準シュダオン12/01/11(水) 13:53:05
>例えば、80歳や90歳のモウロクした爺さんや婆さんをしつこく勧誘し
>て、解脱供養など、何体も申し込ませた場合なら、世間の同情もあろう。
いや、ところが、これも裁判の重要な論点、審議点になり得るのだが、
解脱供養を何体も何十体も申し込ませる脅しがあるのですよ。
それが2ちゃんねるでもレッドカードと言われている冥徳解脱供養システムです。
あれは一応分別のつく大人に対して選択の自由を与えています。
家系ごとに霊視の霊示が下りますよね。そして1家系10万円の冥徳解脱供養が
申し込み家系全て済むと次の霊示が下りることを止める自由があります。
当初はいちいち次の霊視を希望するかの確認があった。
しかし途中からそれがなくなり、黙っていれば次の霊視が下付されるようになった。
その代わりその霊視が下りる前に、冥徳解脱供養の何順目か終わったタイミングで
霊視下付はストップしたい、止めたいと申し出ることにより霊視は下付されない
システムとなりました。
だからあくまでも自己責任の申し込みで拒否する自由も保障されているのだから
問題はないと、一見思われがちです。
実は巧妙に脅しの機能を発揮させて信者に止めさせないのです。
ある日の例祭で桐山さんは「私の出す霊視の霊示は非常に重要なもので、絶対に供養して
解脱成仏させる必要があり、それをせずして例えばガンになるとか取り返しの
きかない状況に陥ってもその時は手遅れで私は救うこともできない、だから自己判断で決して止めては
ならないと指導したのです。この法話は宗報にも掲載されました。
だから桐山信者ならばこれを信じるから勝手に霊視システムを止めるなんてことは
しません。事実継続するとたしかに延々と霊視が下りてきます。やはり致命的な悪影響を
及ぼす、供養必須の先祖がいた証明で、それを桐山さんに出してもらった。
止めるわけにはいかない。止めるなという桐山指導がそこにあり機能しています。
単なる指導ではない。脅迫です。
勝手に止めて供養をやめて致命的な悪い出来事が起きても責任持てないよと示すのは
悪質な脅しです。
また自分の身の心配だけではありません。
現に苦しんでいる先祖が示されるのです。
これを苦しみのままに放置するか金出して救ってやるかは施主次第です。
人の心を持った人は払って供養します。
つまり先祖を人質にとられている。
- 113 :準シュダオン:2012/01/12(木)
11:26:46
- >勝手に止めて供養をやめて致命的な悪い出来事が起きても責任持てないよと示すのは
>悪質な脅しです。
だって、管長がそう信じてたら、そう指導するしかないでしょう。
それを信じるのが信徒なのでしょうけど、無い袖は振れないのだから問題ないと思いますけどね。
>また自分の身の心配だけではありません。
>現に苦しんでいる先祖が示されるのです。
>これを苦しみのままに放置するか金出して救ってやるかは施主次第です。
>人の心を持った人は払って供養します。
>つまり先祖を人質にとられている。
それだとて、無い袖は振れないのだし、先祖供養すれば、世間でも良いことだ
との認識がありますし、世間の感覚とすれば、「供養するお金があったら
良い生活でしょう。それを、信者を止めたから、信者時代に献金したお金を返せ、
と言っても、それは通らないね。」と、思われるでしょうね。
現に、わたしは、経済事情が許す分しか、解脱供養をしていませんよ。
- 114 :準シュダオン:2012/01/12(木)
11:41:59
- >だからどうして30年かけて未だに我見から卒業できず、貪瞋痴退治に着手の
>進級ができないでいるのさ?
卒業できないまでも、我見が薄れていることは実感してますよ。だいたい、
私は自分の意見を捨てたいと、常に思っていますからね。
>あなたと似たことを書いている。
>三供養品の解説のところです。
>三結断っただけのシュダオンでも実は表面意識の欲貪や瞋恚は消滅しており、
>アナゴンになる時断つ欲貪と瞋恚は潜在意識の奥底や深層意識における貪りと瞋り
>としています。
>だからこういう桐山説をよく読んで、それを正しく引用して主張しなさい。
成る程ね。そうですか。
まぁ、読みたくなったら、それも読みますよ。
- 115 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/12(木) 13:39:19
- >>113:準シュダオン12/01/12(木) 11:26:46
>それを信じるのが信徒なのでしょうけど、無い袖は振れないのだから問題ないと思いますけどね。
>現に、わたしは、経済事情が許す分しか、解脱供養をしていませんよ。
無い袖を振れないのは誰でもそうです。
だからお金が出せない時はストップします。
しかし永久にストップするわけではない。
なぜなら一千万円の壺ならお手上げだが、一体十万円ならば仕事をして報酬を得ている
社会人ならば時期をずらすことにより支払い不能ではありません。
自動車だって百万円以上するものを何回か乗り換えられるのだから。
だから支払いはそれだけでなく、これは当初は予期すらしていなかったのだが、
それから延々とこのパターンが続くのです。
お金を貯めては支払い、足りなくなっては滞納させ、また貯まってきたら
支払いを再開するパターンです。
これで健全で計画的な生活設計ができるわけがない。
よその教団のように1千万円とか何百万円とか一度に請求したら、そこに宗教的脅しが
あったらアウトですよね。訴訟が起きて検挙される。
しかしあなたの理屈では1千万円の壺も無い袖は振れないのだから問題はないと
言いますか?
現実の判例は問題ありとしてますね。
アゴン宗の冥徳供養システムも冥徳解脱供養1体だけだったら10万円の買い物
で済んだら、問題にもなかなかできないのです。
しかしある程度の期間長い目で見て、連続的に考えると、やはりトータル何百万から
1千万円の買い物をしなければ脅しが入ることになる。
ここのところをどう判定するかが焦点ですね。
ましてや最初から1千万提示して無い袖は振れない人に諦めてもらうとせず
じわじわ攻めるわけですから、こちらの方がある面悪質です。
- 116 :準シュダオン:2012/01/12(木)
15:40:16
- >しかしあなたの理屈では1千万円の壺も無い袖は振れないのだから問題はないと
>言いますか?
>現実の判例は問題ありとしてますね。
1千万円の壺の場合は、常識的に考えて、問題がありでしょう。
裁判長だとて、問題ありと考えるでしょう。
しかし、成仏供養1体十万円の場合、それが継続的に続いたとして、裁判長が
どう判断するかでしょ。成人が、信義に基づいて、契約し、教団では契約どおり
に法要・宗教行事を済ませているわけですからね。
先ず、常識的には、裁判長は教団教義の是非には触れないと思われます。
問題は、退会したからといって、信者時代の契約を取り消せるかどうか、
の問題になりますね。そこに強制があったかどうかなどね。
管長は、しばしば、阿含信徒は金銭貸借の因縁を作ってはいけない、と
指導していますから、借金してまでの供養は認めない、でしょう。
現役信者の証人は、当然、「任意の供養です」と証言するでしょうし。
わたしが第三者的に考えても、例えばキリスト教徒の場合、信者時代に多額の
献金をしてたとしても、宗旨替えをしたから献金を返せ、といっても通用する
はずがないよね。信義を重んじる社会では、公序良俗に反する行為、とされ
訴えは無効、とされる公算が大きいと思いますよ。
かといって、弁護士費用はたたでは済まないでしょう。
信仰経験のない一般人は、解脱供養なんてインチキだ、と思うでしょうけど、
それでも、契約した以上は契約は有効、退会したからといって返金せよ、という
のは筋違い、と考えるでしょうね。
- 117 :天照
◆MO30b8Jwoo:2012/01/12(木) 16:49:41
- >>116
退会したから返金、ではなくて在籍しても返金は可能でしょう?
訴えたら在籍してても訴訟は出来る。ただ、返金をする多くは欺瞞に気が付いて
退会した人が大半ではあるけどね。
2chなんかを見たら在籍してても欺瞞に気が付いて返金して欲しいという人はいた。
今後訴訟の結果次第ですね。もしも阿含宗が返金に応じれば在籍・退会を厭わず
返金訴訟が増えるでしょう。
阿含宗側としたら返金に応じたら大変なことになるので訴訟に勝たねばやばい。
どうなるか、今後の行方は注目の1つではあります。
- 118 :準シュダオン:2012/01/12(木)
17:22:30
- >だからどうして30年かけて未だに我見から卒業できず、貪瞋痴退治に着手の
>進級ができないでいるのさ?
英語塾に行って何年経ってもアルファベットを覚える学習だけで、その先に
>進めないでいることが自慢になるのか?
それと違う意味で、我見は奥深いものですよ。
我執から我見が起こると説かれていますが、我執は慢を起こして異陰を生じ、
輪廻するわけでしょ。だとしたら、我見は最後まで残る煩悩かもしれない、
その我見が一番切れやすい煩悩とされているわけですから、わけわかんないね。
で、今一番関心があるのが、異陰・与陰のことですよ。管長は仮に霊魂とか、
不成仏霊、とか呼んでますが、意生身という意識だけの生命体なんて、どういう
ことなんだろうと、関心が強いのです。管長は、異陰・与陰を火種に例えてい
ますね。薪は尽きても火種は残る、それが新たな五陰を形成するのだとね。
釈尊は、慢と異陰と、言葉を使い分けていますので、慢=異陰ではありません。
つまり、異陰とは煩悩(慢)だけのことではありません。
このあたり、表現が難しいですが、意生身=異陰・与陰と考えて良いものか、否か
と興味があるわけですよ。
ね、我見は奥深いでしょう?
- 119 :準シュダオン:2012/01/12(木)
18:04:49
- >今後訴訟の結果次第ですね。もしも阿含宗が返金に応じれば在籍・退会を厭わず
>返金訴訟が増えるでしょう。
>阿含宗側としたら返金に応じたら大変なことになるので訴訟に勝たねばやばい。
>どうなるか、今後の行方は注目の1つではあります。
それはそのとおりだと思うけど、仮に私が裁判官で原告と被告に公平な判決を
下そうとした場合、教団が返金した場合、元信者は管長から得た仏教知識を、
どのくらい返せるのであろうか?管長の阿含経の知識は、すべてインチキだと
は、裁判官でも考えまい。教団も信徒を育てるために、費用は掛けているわけ
です。この場合、裁判長は、教義の正当性とかには立ち入らないだろう。
成仏に必要な戒名料が、ン百万円という宗派もまかりとおる現在、
解脱供養料、1体十万円を裁判長がどう判断するかが、カギでしょうね。
管長は、霊を真正面から肯定している、宗教家です。
それは一貫して変わっていません。だから、解脱供養も本気でしょう。
それを信じるか信じないかは、人の自由です。
指導を脅しと感じるのは、カルト的信者です。私などは脅しとは思わない。
深山さんや、ユビさんなどは、理性を失った、カルト的元信者だったわけです。
某神社の「お札」は、2千円と安いけども、カルト的信仰をすると、大金分を
購入するでしょう。だから、訴訟しても、難しいでしょうね。
私としては、週刊誌などで、解脱供養や根本仏教について大騒ぎをして、
霊を真正面から肯定する管長の教えが、もっと世に知れてほしいね。
オウムのせいで、根本仏教への誤解が広がったからね。
皆で正法を広げる必要がありますね。
- 120 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/12(木) 22:10:12
- >>116:準シュダオン12/01/12(木) 15:40:16
>1千万円の壺の場合は、常識的に考えて、問題がありでしょう。
>裁判長だとて、問題ありと考えるでしょう。
単に金額が巨額だからと思いますか?
世の中には1千万円の買い物をする人はざらにいますよ。
住居だけでなく、時には壺一つに1千万円を投じる人がいる。
古代中国の骨董品とかね。もちろん偽物だったらそれはそれで訴えることもできる。
しかし世の中にはそんなリスク覚悟で巨額な買い物ができる裕福な人もいる。
そうでない人は最初からそんなものは求めず、つつましく身の丈にあった生活をします。
霊感商法が問題なのはこの巨額な買い物の背後に宗教的な脅しがあることです。
巨額な骨董品を買う好事家とは次元の違う話です。
この壺を買わないと不幸になるかのように脅されるから、人は生活にある程度
支障をきたしてでも購入せねばと恐怖心を煽られる。
つまり弱者の立場につけこむことはジジババを騙すこととも同根共通なんですよ。
>しかし、成仏供養1体十万円の場合、それが継続的に続いたとして、裁判長が
>どう判断するかでしょ。成人が、信義に基づいて、契約し、教団では契約どおり
>に法要・宗教行事を済ませているわけですからね。
信義に基づいて契約?ほう、それなら教団は冥徳講に入講を募り冥徳供養を実施
させる上において、今日の現実に見るように実は10万円の冥徳解脱供養を
複数家系において10順以上際限なく続けないと不幸な運命を避けることはできない
と最初から説明したのでしょうか?
「守護霊が持てる冥徳供養」が出版された時には、先祖のかげのお力がいただけるとか
美味しそうなことを書くばかりで、肝心な冥徳解脱供養をしなければならないことが
すこぶる曖昧です。
冥徳講費は1家系が当初千円だったのが500円に下げてその安さを強調していた。
しかしそれは意味のないこととわかった。結局冥徳講員になっているだけで仕方なく
冥徳解脱供養を毎回10万円掛けてしなければ効果がない、効果の前提となる因に
ならないとわかったからです。
しかも安くした理由は申し込み家系を増やせです。
今まで2家系申し込んで20万円分の霊視が示されていたのが4家系に増やして
40万円セットの脅しが下付されるようになった。
しかも当初この際限なさを誰が想像したか?
これでも信義ある契約条項の説明ですか?
契約に承諾してない。
- 121 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/12(木) 22:38:03
- >>116:準シュダオン12/01/12(木) 15:40:16
>先ず、常識的には、裁判長は教団教義の是非には触れないと思われます。
それは私もそう思います。
宗教の教義については触れず、あくまでも霊感商法システムについての追及と
なりましょう。
>問題は、退会したからといって、信者時代の契約を取り消せるかどうか、
>の問題になりますね。そこに強制があったかどうかなどね。
強制、強要がなくても、一応自主選択の前提を保証するかのように見えて
法話などで、勝手に止めて不幸になっても責任が持てないなんて言い方をして
脅すのは問題がありましょう。
裁判はどうなるかわかりませんよ。
アゴン宗側としては天照さんが書いているように、必死に敗訴に追い込むでしょうね。
うるさい奴らは金で解決してしまえは通用しないからです。
払ってしまったら我も我もとなる。
昔とはだいぶ状況が異なりましたね。
しかし全面敗訴とはならずアゴン宗も何らかのダメージは受けるはずです。
指導により冥徳供養は中止にだってなりかねませんよ。
そしたらあなたも願ったりでしょうね。
今は昔とだいぶ時代が変わりました。
法律は弱者の味方になりつつあります。
だから医療訴訟なんか起こすと、昔は被害を受けた患者は泣き寝入りだったが
今は大抵病院側が損失を受けます。
残業を認める認めないも基準監督省庁に訴えればいちころで事業者の方が指導を受けます。
だから今回の宗教上の訴訟も決して昔と同じと甘く見ない方がいいですよ。
立場は違えど一緒に見守りましょう。
- 122 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/12(木) 23:40:15
- >>116:準シュダオン12/01/12(木) 15:40:16
>しかし、成仏供養1体十万円の場合、それが継続的に続いたとして、裁判長が
>どう判断するかでしょ。成人が、信義に基づいて、契約し、教団では契約どおり
>に法要・宗教行事を済ませているわけですからね。
そもそも解脱供養が1体10万円であることには実は何の根拠もありません。
昔からやってる護摩儀式に組み込むだけです。
教団としては解脱供養をやってなかった観音慈恵会の頃からやってた護摩儀式を
やるだけの話です。
関西と東京で各々土、日、月の月合計6回も焚いていた護摩が、今は全国で
月に2回しか護摩を焚かないのだから準備費用の負担などは減っているくらいです。
まるで根拠はないが、サービス料10万円と設定するのは教団の自由裁量なのかもしれない。
しかし冥徳解脱供養システムというのができて、際限なく供養が続き、累積すると
何十にも三桁にも達する供養となり、それは不幸を回避するためには行う必要があり
勝手に止めてはならないなどと指導するくらいなら、信者の無事を保証するサービス
としては生涯に支払う金額負担を考えて、いかがなものかと、そういう話にだって
展開し得ます。
- 123 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/13(金) 00:18:33
- >>119:準シュダオン12/01/12(木) 18:04:49
>それはそのとおりだと思うけど、仮に私が裁判官で原告と被告に公平な判決を
>下そうとした場合、教団が返金した場合、元信者は管長から得た仏教知識を、
>どのくらい返せるのであろうか?管長の阿含経の知識は、すべてインチキだと
>は、裁判官でも考えまい。教団も信徒を育てるために、費用は掛けているわけ
>です。この場合、裁判長は、教義の正当性とかには立ち入らないだろう。
言いたいことが全くわかりません。
裁判は公正でなければなりませんが、公平である必要はなく、喧嘩両成敗の裁定など
必要ありません。
判決により片方が悪い、返金せよで十分です。
桐山さんから間違ったアゴン経知識など教わって、迷惑を受けたのだから
なんで何かを返す必要があるのか?
先に述べたようにアゴン宗の教義上の正邪の判決は法廷では出ません。
だからあり得ない話であるが、たとえば桐山さん自ら法廷に出て、私もまた
法廷に出てお互いの主張を教義を含めて主張する機会があったら、私はまず
桐山さんが示した正統アゴン宗教義を、準シュダオンさんとは違って、正確に
示してみせる自信があり、その上でそれを阿含経や一般仏教の基本知識を踏まえて
そのアゴン宗教義を否定して、経典解釈の間違いを指摘して、議論をした場合、
完勝、楽勝を確信しています。
- 124 :名無しさん:2012/01/13(金)
07:54:39
- 返金訴訟は、アゴン宗教義の虚偽に対する怒りなどの感情が根底にありますね。
宗教教義では争えないので、今まで支払った莫大な金銭を取り戻そうという気持ちが読み取れます。
これは当然であり自然なことでもありますね。
「嘘のアゴン宗であったとしても、良いことがあったのだから黙っていなさい」といった
ことを言う人が出てきたとしても、アゴン宗は嘘が多すぎます。
これだけの嘘が盛り込まれた宗教も珍しいでしょう。
しかも仏陀直説の根本仏教として嘘を付いていたので言葉を失います。
もしも桐山さんが最初から本当に正しい仏教を説いていたのなら、
ここまで批判はされないでしょうし、返金訴訟も起きなかったかもしれません。
全ての原因は桐山さんでしょう。
教義のほぼ全てを嘘で塗り固め、それを根本仏教と言い続けてきた桐山さんは、
恐れを知らないのか、脳天気なのか、知性と脳に欠陥があるのかわかりませんが、
歴史的に見ても珍しいカルト宗教の最終章の一つが始まった感を抱いて見ています。
- 125 :名無しさん:2012/01/13(金)
08:14:01
- 冥徳解脱供養がレッドカードというのはその通りだと思います。
冥徳解脱供養を続けて守護神を拝受するまでには1千万は超えてます。
ご存じの通り、一人4家系供養するのが普通で、平均して10順目あたりで
守護神拝受となるケースが多いとも聞いたことがあります。
しかしこれには裏があり、「霊的浄化が早く進むから」という理由で
家族4人いるなら家族全員が申込むことになります。
家族4人が4家系の冥徳解脱供養を行えば、10順目では160体。1千600万円です。
熱心な人はもっと供養しますので、累積の供養金額は相当なものです。
因縁解脱修行宝鑑には悪因縁を断ち切るための行として、
守護霊成就供養「冥徳供養をせよ」との記載があります。
冥徳供養をして守護霊拝受が成就するためには、冥徳解脱供養が必要になります。
因縁解脱修行宝鑑は冥徳解脱供養をすることを指示しています。
2ちゃんねるで「因縁解脱修行宝鑑はアゴンの一番の弱点」とありましたが
これもその通りでしょう。
- 126 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/13(金) 08:25:30
- >>119:準シュダオン12/01/12(木) 18:04:49
>成仏に必要な戒名料が、ン百万円という宗派もまかりとおる現在、
>解脱供養料、1体十万円を裁判長がどう判断するかが、カギでしょうね。
既に述べたように単価ではなく、累積費用の問題を評価してほしいですね。
他寺院では新たに死者が出たわけでもないのに戒名を何十回も発行するような
ことがあるのか?
>管長は、霊を真正面から肯定している、宗教家です。
>それは一貫して変わっていません。だから、解脱供養も本気でしょう。
霊を肯定していること、信じていることと、本気で真剣に正直であることとは別です。
桐山さんの霊視には悪意の嘘があり正直ではないではありませんか。
桐山さんは嘘をつくことが本気なんですか?
>私などは脅しとは思わない。
それは霊視の霊示を勝手にストップしているから鈍感にもなるのでしょうね。
他の人もそうだろうが、何も示されない、それの受け取りを拒否することで
自分に憑いている不成仏霊だの霊障なんていないものとして生活できるからです。
しかし、ではいないのかと言うと、アゴン宗では確実にあなたに憑いている
早急に供養しておかないと手遅れの不幸にも陥る不成仏霊を霊視してくれます。
申し込みさえすれば、霊視の交付を解禁手続きしさえすれば、100%その脅しに
相当する霊視はあなたの手元に届きます。
>私としては、週刊誌などで、解脱供養や根本仏教について大騒ぎをして、
>霊を真正面から肯定する管長の教えが、もっと世に知れてほしいね。
これは私もそう思いますね。
週刊誌などはぜひとも愛人スキャンダルだけでなく、こういう問題もとりあげて
一般社会に桐山さんのしている事実を知らしめてほしい。
どちらを支持するかは読者にまかせて。
- 127 :名無しさん:2012/01/13(金)
08:27:56
- この先アゴン宗は、退会者が多くなり弱体化し、桐山さんが亡くなれば
さらに末細りになり、分裂化が起きたり、あるいは統一協会系の教団や右翼の
乗っ取りも起きてくるかもしれません。
近年では統一協会は、仏教や神社の財産目当て乗っ取ってしまうことが出てきているといいます。
邪推になりますが、最近では施設建立という名目で高額な基金勧進が行われていようなので、
アゴン宗も既に乗っ取りが始まっているのかもしれません。
内部に潜入し、職員などの要職に就いてW田さんの寵愛を受け、霊感商品を開発するなどをして
手柄を立てて係長や課長という要職に就けば、乗っ取ることもできるでしょう。
いろんな意味で今後のアゴン宗は注目です。
- 128 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/13(金) 08:47:08
- >>114:準シュダオン12/01/12(木) 11:41:59
>私は自分の意見を捨てたいと、常に思っていますからね。
心にもないことを書きなさんな。
それならばあなたが書いた他の信者が説きもしないような考えを宗務局を通じて
桐山さんにお伺いを立てて、自説ではないことを証明して滅私をはかりなさい。
- 129 :準シュダオン:2012/01/13(金)
09:26:49
- >既に述べたように単価ではなく、累積費用の問題を評価してほしいですね。
>他寺院では新たに死者が出たわけでもないのに戒名を何十回も発行するような
>ことがあるのか?
頭冷やして冷静に考えてほしいのだけどね、戒名が、信士・信女・居士・大姉・
とかが、一般的だと思うけど、あと院号とかあるね、一体数十万円が広く行われ
ている日本社会ですよ。阿含宗も一体十万円でしょ。累積といっても、先祖の
人が違うわけです。同じ死者を供養しているのではなく、それぞれの個人を
探し出して、個別に戒名を付けて、供養してるわけです。
常識ある裁判長ならは、成仏供養を霊感商法とは認定しないでしょう。
壺を本尊として有り難がるのはおかしいけど、成仏供養は釈尊を本尊にして
拝んでるのですからね、それを詐欺とか、霊感商法とは認定しないでしょう。
たとえば、キリスト教では、「天国に行くためには年収の1割を神に献金せよ」
と、教えています。敬虔な信者は、毎年、それを守ります。
「献金しない者には、天国を保証しない」と、言ったらそれは脅しですか?
カルト信者がそれを信じて、せっせと年収の1割2割を献金していたとする。
あるとき、馬鹿馬鹿しくなって信仰を捨て、天国なんてインチキだ、過去の
献金を返還せよと、裁判を起こす。
さて、判決はどう出るであろうか。それと似てるケースですよ。
- 130 :無関係な人間です:2012/01/13(金) 09:35:49
- >>127
統一教会が、他の宗教にスパイを潜入させている、という噂は聞いた事があります。
実際、ある大宗教の幹部の人に質問をしたら、その人の所属する教団に潜入していた
スパイが「洗脳」が解けてしまい、自分がスパイである事を自白したケースがあった
みたいです。また、統一教会の被害者団体の人も、統一教会が他の宗教団体にスパイ
を潜入させていた話をされていました。有名なのは、北海道にあった天地正教という
宗教団体が乗っ取られたケースです。
ですから、実際にありえる話だと思っています。
- 131 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/13(金) 10:32:05
ユビさんから何度も指摘や質問され、
その数多の弁明に窮している準シュダオンさんに”吉報”があります。
今まで預流向≠聖者という、あなたの狂説を桐山さんが認めました。
このたびの新著の142頁に、三結を断じた「預流が聖者」と書かれています。
これで晴れて準シュダオンさんの自分教という批判がひとつ改善されました。
桐山さんは今までそれらの判別を曖昧模糊として、どちらにも取れる言い方を
して来ました。
ところが今回、なんとお、準シュダオンさんの説が認められたのです。
準シュダオンさんは、大師桐山さんから預流向は凡夫だという説が認められた。
142頁 以上の身見・疑惑・戒取の三つを完全に切った人が須陀?です。
須陀?は別名を預流といいます。流れに預かる(入る)と書くわけですが、
どのような流れに入るのでしょうか?
これは聖者の流れに入るという意味です。須陀?になった人は聖者で、
須陀?になっていない人は凡夫です。それで須陀?を聖者の分かれ目とします。
これは、釈尊の四双八輩=聖者集 に正式に大違背するミシュランいやミス欄の
五つ星にも匹敵するような星屑、いや星キズがまた一つ増えたような快挙です。
桐山さんはこの度の阿含経講義中巻で、預流=聖者、預流未満(預流向)≠聖者だと、
明言しました。
ここにダメポ信者準シュダオンさんの積年の努力が報われた。
堂々と釈尊に違背する逆賊の徒として正式な一員になれたのです。
- 132 :名無しさん:2012/01/13(金)
12:37:30
- >>130
>北海道にあった天地正教
天地正教については詳しく知りませんが、統一協会が乗っ取り、貪欲に
仏教系まで吸収したケースですね。現在は「海命寺・富士の会」という団体名に変わり
統一協会から離れたようですが、http://kmcc.sakura.ne.jp/clt/tenchi.html
やってきたことはアゴン宗と大変よく似ています。
「120代の先祖供養、七代先祖解怨式とやらで多額の供養料を巻き上げている」とあり
アゴン宗の冥徳供養とよく似ています。
統一協会ではアゴン宗の悪因縁22個をそのままパクっていたり、
同じように先祖の因縁と霊障をうたっているので、侵入もしやすいでしょう。
キリスト教と仏教との違いがあって、一見すると別ものに見えても、信者の指導に使っているのは
悪因縁と霊障という同じ手法であるため、最もスムースに乗っ取ることができるのがアゴン宗な気がします。
ズボラな桐山さんとアゴン宗なので、知らないうちに侵蝕されているかもしれません。
あと桐山さんの最期の御霊祠として
「私はこれから仏界へ参ります。私は仏界から諸君らを見守っています。
ところで諸君に大切なメッセージがあります。今後のアゴン宗は文鮮明氏のご加護によって
成仏力が授かるようになります。娑婆世界でのメシアは文鮮明氏です。
これは今まで諸君には内緒にしていたことですが、仏様からそのようにうかがっています。
諸君は今後、文鮮明氏を導師と仰いで修行に精進してください」
と遺言を残したかのように見せかければ、不満を抱きながらでもアゴン宗に居残る信者も
出てくるでしょう。
脅し、依存、教祖絶対というカルト必須条件を満たしたアゴン宗で長年信仰を続けていれば
退会できない信者も出てくるはずです。仮にアゴン宗が解散しても財産は統一協会のものになります。
どっちに転んでも、乗っ取りは旨みのある話しになると思います。
憶測になってしまいますが、こういったストーリーも考えられます。
- 133 :名無しさん:2012/01/13(金)
19:08:20
- >>127
>アゴン宗も既に乗っ取りが始まっているのかもしれません。
>>132
>統一協会ではアゴン宗の悪因縁22個をそのままパクっていたり、
>同じように先祖の因縁と霊障をうたっているので、侵入もしやすいでしょう。
凄い話ですね。
すでに退会している我々にとってはあまり注意を向けてこなかった内容ですが
実際は裏側で密かに進められている事なのかもしれません。
食うか食われるか、仏の世界も現実は畜生界みたいですね。
確実に言えることは今のような体制では間違いなく食われる方になるでしょう。
- 134 :天照
◆MO30b8Jwoo:2012/01/13(金) 20:36:36
- 私も乗っかって見ましょうか。
私は和田さんが健在で権力を振るえるうちは乗っ取りは大丈夫かな?と見ています。
ただ、推測としてはかなり恐ろしいプランですね。統一教会侮れませんね。
また、阿含宗の信者さんも「ゲイカ派」があって、ゲイカが亡くなったら阿含を
やめるという人は多いと思います。
>>132にあります、ゲイカの最期の御霊祠がこのとおりだとしても、ゲイカ派は
おそらく嫌って統一教会が混じったものは信仰しない人が出ると思われます。
- 135 :天照
◆MO30b8Jwoo:2012/01/13(金) 20:53:58
- ただ、そうは言いながらも実際的に考えれば、ゲイカが生きていて和田さんがサポート
する形だからまだ保てるのかも。
これがゲイカが亡くなったら、如何に和田さんが生前のゲイカの様々なものを立てて
指導しても信者はゲイカあってのもの、ですから和田さんを崇拝や信仰するわけではない。
まして深田さんが仮に重要な跡継ぎ体制を保持させても、深田さんについてゆく人は
ゲイカほど多くはありません。和田さんについてゆく人はおそらく深田さん以下であろうと思います。
これも推測ですが和田さんがどこまで阿含宗を保とうとするか、も懐疑です。
ゲイカが亡くなって教壇が持たない、となれば、あとはどうとなれ、と捨てるかもしれません。
そういうような事態になれば、別の教団に阿含宗を売る?ということも有るかもです。
見事に乗っ取られたなら和田さんは権力を振るえないので居なくなる可能性もあります。
推測の域を出ませんが色々考えてみた次第です。
- 136 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/13(金) 21:56:45
- >>129:準シュダオン12/01/13(金) 09:26:49
>頭冷やして冷静に考えてほしいのだけどね、戒名が、信士・信女・居士・大姉・
>とかが、一般的だと思うけど、あと院号とかあるね、一体数十万円が広く行われ
>ている日本社会ですよ。阿含宗も一体十万円でしょ。累積といっても、先祖の
>人が違うわけです。同じ死者を供養しているのではなく、それぞれの個人を
>探し出して、個別に戒名を付けて、供養してるわけです。
頭を冷やして冷静に考えねばならないのはあなたの方です。
あなたが比較に出している数十万もする戒名料とは葬式の時に付けるものではないですか?
ちなみにアゴン宗では一般信者に対して葬式は行わない。
副管長と関東のM本先達が亡くなった時に宗葬を行ったぐらいです。
アゴン宗の信者の親や親族が亡くなったならその葬式は自分で檀那寺にでも
戒名料含めて依頼するしかない。
お葬式しないのも気持ち悪いのも人情だしね。
しかしその数は両親の葬儀として、せいぜい1家族2回程度の出費ではないですか?
いかに単価がアゴン宗より高かろうとね。
アゴン宗の信者も教団で葬式やってくれないのだから、数十万の戒名の葬式は
自分で負担する他、それとは全く別の遠い先祖の冥徳解脱供養をしなければならない。
で、そのそれぞれ別の先祖を供養する数が一施主に対して数十体なんですよ。
戒名料単価の高い葬式をするお寺とはいえ、それを1人あたり10回も葬式を
しなければならないことがありますか?
- 137 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/13(金) 22:03:18
- >>129:準シュダオン12/01/13(金) 09:26:49
>壺を本尊として有り難がるのはおかしいけど、成仏供養は釈尊を本尊にして
>拝んでるのですからね、それを詐欺とか、霊感商法とは認定しないでしょう。
お釈迦様を出したからと言って霊感商法に認定されないなんてきまりはありませんよ。
麻原彰晃だって福永法源だって仏陀を出していた。
誰だってお釈迦様やイエス様を掲げることはできます。
掲げた対象ではなく、掲げたその人の行為のみが問われ裁かれるのです。
- 138 :干柿:2012/01/13(金)
22:34:55
- >>132
天地正教って阿含宗と似ているじゃなくて、阿含宗のやりかたをそっくり
踏襲していたんですよw星まつりに似た火祭りをおこなっていたはずです。
護摩木なども(まあ護摩木とは言わなかったようですが密教だか神道の火祭り
だかわかんない護摩でした。)もう20年前くらいまえ、統一教会の問題
が社会化したとき宗教ジャーナリストで統一に詳しい(名前わすれた)
かの人が、「ここは統一教会のダミー団体です。」とやってました。
でも阿含宗のように巧妙な運営ができず火祭りはいつのまにかきえました
まあ統一教会の信者しか集まんなかったようです。一般人を騙して
統一教会に入信させるのが目的のようでした。
たしか阿含宗にも古くから統一教会潜入してましたよオウムもそうでしたが
教団の乗っ取りというより、信者の一本釣りですね。不満や疑問を持った
信者をたくみに取り込もうとしてました。知り合いでもっといい宗教があると
ついていったらマンションの一室のようなとこで統一教会のビデオみせられた
ってのがいましたw
とにかく法の華にせよオウムにせよ、幸福の科学でさえ、阿含宗のやりかた
をまねて・・・というような形です。
全部でないにせよ各教団のやりかたは桐山流ですよ。(法の華なんかまんま偽仏舎利商法やってた)
ただ阿含宗のように巧みじゃなかったら犯罪としてパクられた
元幹部の桐止さんが前いっておりました「サジかげんがうまいから阿含宗はパクられないんだよ」と
まあ昔はそのような感じでしたね
いまどうなんですかね?文鮮明も歳でしょ?池田大作氏も植物人間状態だといううわさも
ちらほら、もうなんていうか旧態以前としたカルトも変換期に入っているん
じゃないでしょうか?乗っ取りより自教団の強化が優先され暴走する恐れも
阿含宗もそんな感じでしょ?
- 139 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/14(土) 00:31:18
- >>136:ユビキタス ◆18iA.mwnDU12/01/13(金) 21:56:45
>戒名料単価の高い葬式をするお寺とはいえ、それを1人あたり10回も葬式を
>しなければならないことがありますか?
誤解を与えないように書き直そう。
戒名料単価の高いお葬式をするお寺があるとはいえ、1人で10人分の葬式を
負担しなければならないとこってありますか?
それにお葬式と言うのは金がかかったとしても親族が本当に死んでしまったのだから
10人死んでも仕方がない。
お寺が殺したわけではないからね。
1人で10人の葬式を負担する喪主になろうともそれはお寺の責任ではない。
ところがアゴン宗の冥徳解脱供養は霊視の下付を止めないと、次々に先祖を
殺して、気がついてみると数十人殺されているわけです。
もちろん現実の死と比べて何の根拠もない。
- 140 :ラシン:2012/01/14(土)
09:15:31
- >75:準シュダオン
>欲(辞典には、ほしいと思う、願い求める)には、善なる欲と悪なる欲と
があるわけですよ。釈尊が出家した目的も、善なる欲を求めてのことです。
それは、「聖なる求め」と訳されていますけどね。
釈尊も大般涅槃経において「善を求めて出家した」ことが記述されています。
漢訳経典などの○○を欲するならとの表現は、「望む」ならとか、
準シュダオンさんの言うように「求める」の語義と解釈する方が誤解しません。
もし、向上的欲の否定ではなく、そこにまつわる執着を否定すると言うのなら、
さすがは準シュダオン説(預流向≠聖者)を桐山さんに認めさせた実力者と評価します。
しかしそこで「欲」を「善なる欲」などと言う下心を出したら説得力を失う。
桐山さんは、釈尊も一切衆生を救済する「大欲」を持っていたと著書や例祭で
語っていまし
だから信者さんも「欲」に鈍感となり理由をつけては「欲」を肯定したがる。
準シュダオンさんを、上げたり下げたりの恣意はないが、
信者さんたちも、似たようなことを桐山さんから言われ続けています。
自分たちはお釈迦さまの尊い聖行に加わっていると思い込んで、
ゴマ木勧進や焚き火イベントに精を出しているのなら大きな間違いです。
そこには績徳への見返りの欲心という下心が潜んでいる。
釈尊は涅槃を得ることを「聖欲」などとして扇動するような説法はしていない。
また辞典の「欲」の頁に補記される”少欲知足”は儒教に影響を受けた大乗的理解です。
釈尊は、ひたすら煩悩の滅尽を目指すことだけを説いたのです。
出家し世俗を離れることが尊いとしたのだから、解脱を「聖」「欲」とする考え方など、
後期原子経典以降でしかありません。
阿含経典にあるのは、「賢聖に法を問うを欲する」とのくだりです。
経典に涅槃を求める「聖欲」という記述は、前述したとおり本縁部佛本行集経や
大乗経典などほかは、阿毘達磨倶舍論法義に表出される四阿含経以外のものです。
- 141 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/14(土) 09:17:23
- また、
比丘とは元来、乞食する者が原義で、釈尊の時代は出家し具足戒を受けた男子です。
具足戒を受け、サンガにて修業することで煩悩を減らし、やがて滅尽を得る。
それは正道を歩めば解脱を「欲」さなくても涅槃を得る。
桐山さんもそれを「伏鶏の譬え」や「大舶譬え」として解説しています。
準シュダオンさんなど毎日の勤行で応説経を読誦しているはずが、
意味も理解しようとせずただオマジナイのように暗誦しているだけなのか。
アゴン宗セイ典には省略されているのが、下記に示す「伏鶏の譬え」の経文です。
ただし桐山さんも著書においては、その部分は省略していません。
「伏鶏の譬え」抜粋
如彼伏鶏善養其子。隨時蔭餾。冷暖得所。正復不欲令子方便自啄卵出。
然其諸子自能方便安隱出。所以者何。以彼伏鶏隨時蔭餾冷暖得所故。
ここで、桐山さんも煩悩滅の正しい道を歩んで習修していれば、
解脱を望まなくても解脱してしまうと解説しているのです。
「正しく復た子をして方便して自ら卵を啄きて出でしめんと欲せざるも、
然も其の諸の子自ら能く方便して安隠に殻を出づるが如し。」
次はセイ典にもある経文です。
「大舶譬え」抜粋
然彼比丘。知有漏盡。所以者何。以修習故。何所修習。
謂修習念處正勤如意足根力覺道。譬如大舶在於海邊。
經夏六月風飄日暴。藤綴漸斷。
「警えば大船の海辺に在り夏六月を経て風朝日に暴れなば藤綴漸く断ずるが如く、」
「漏尽解脱せしめんと欲せずと躍も而も彼の比正、自然に漏尽し心解脱を得ん。」
涅槃を得ようという「欲」が無くても解脱するのですから、
ことさらその「欲」という言葉を使用して喧伝するのは道から外れる考えです。
釈尊の説いた煩悩滅の修業を励めば、それは自然と涅槃に至る道となります。
- 142 :準シュダオン:2012/01/14(土)
09:21:36
- >誤解を与えないように書き直そう。
>戒名料単価の高いお葬式をするお寺があるとはいえ、1人で10人分の葬式を
>負担しなければならないとこってありますか?
真面目な檀家は、一人の死者に、葬式時の戒名料、49日法要、100ケ日、
1周忌、3回忌、7回忌、13回忌、17回忌、23回忌、27回忌、33回忌
法要を営みますよ。その場合、お寺さんにただというわけにはいかないでしょう。
1人の場合でも上記のようになります。
まして、歴史ある家の世帯主ともなれば、大金かかる訳ですね。
裁判しても勝てないでしょうね。霊感商法の壺の場合でも、1個1千万円なら
問題ですが、1個10万円なら問題にはならないでしょう。で、100個を
1千万円で買った場合は、買った方が悪いでしょうね。買った人には、「あんた、
その壺を売る商売をしなさいな」と言いたいね。唯一、勝てるのはモウロクした
爺さんや婆さんの場合です。弱者の場合は救済しなければいけない。
厳格な共産党国家ならいざ知らず、普通の国の裁判官は、死者の霊を否定する
判決は出せないでしょうね。靖国神社をつぶそうとしたマッカーサーでさえ、
最後は死者の霊を否定できずに、神社をつぶせなかったわけですからね。
裁判官に常識があれば、まず、解脱供養をインチキとする判決は出せない。
裁判起こしても、弁護料が無駄になるだけだと思いますね。
- 143 :準シュダオン:2012/01/14(土)
09:33:38
- A級戦犯を合祀した靖国神社は、一度合祀した以上、A級戦犯だけ分祀する
ことは出来ない、と言っていますね。それが普通でしょう。
解脱供養料を返せというのは、教団側に立てば、成仏させた霊を、元の不成仏霊
に戻せというのと一緒ですからね。そういう芸当は出来ないでしょうね。
ユビさんも、原告と被告、両者の立場にたって考えたら良いですね。
- 144 :準シュダオン:2012/01/14(土)
09:39:24
- >ちなみにアゴン宗では一般信者に対して葬式は行わない。
ユビさん、勉強不足。今は頼めば、葬式をしてくれるそうです。
- 145 :準シュダオン:2012/01/14(土)
09:58:31
- >しかし智慧第一と言われたサーリプッタの場合は愛嬌では済まされない。
>そしてそのサーリプッタですが、ご存知だろうが、釈尊の入滅前に病没してます。
>先に涅槃に入ることをお許しくださいと釈尊に言って亡くなって涅槃に入ったのです。
三明を具えた阿羅漢をも超えて、智慧第一と称されたこと自体、神通に値するね。
先に涅槃に入ることを自覚してたこと自体が、サーリブッタに神通力があった
ことを示しています。普通の人は、死後に涅槃に入るか、輪廻するか、そういう
ことは解からない。
- 146 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/14(土) 10:37:50
- >>142:準シュダオン
12/01/14(土) 09:21:36
>真面目な檀家は、一人の死者に、葬式時の戒名料、49日法要、100ケ日、
>1周忌、3回忌、7回忌、13回忌、17回忌、23回忌、27回忌、33回忌
>法要を営みますよ。その場合、お寺さんにただというわけにはいかないでしょう。
その法事はアゴン宗の信者でもよそで課せられていることであり、それ以外に
おかしな冥徳供養などをしているわけですが、そういう私の話の進め方は
純粋な比較にはならないから、あくまでもその1人の実在した故人の法事システム
との比較で考えてみましょう。
たしかに現行どこの寺院でも行っている法事システムが裁判沙汰になることは
ありません。仮に訴えても敗訴するでしょう。
それは明確な脅迫になってないからです。
しかし死んだ故人をなんでこうも法事をしなければならない慣習になっているかを
考えると、脅迫的な面もないこともない。
つまり死者が迷わず成仏するかしないかには法事も関わっているという考え方ですね。
しかし実はこのことはあからさまに説かないで、もはや通過儀礼になっています。
13回忌だの17回忌などに参列してお金を払うわけだが、この時点で
おじいちゃんまだ成仏してないのかななんていう親族は1人もいないでしょう。
少し民俗仏教のわかる人なら追善供養という先祖に対する畏敬をこめたみささげ
ということになる。
しかしここでそのお寺の和尚さんが、おまえら法事をやめようものならば祟りがあるでと
明言したらどうなるでしょう?
これは脅迫として裁判にも訴えられますよ。
これは全国の総寺院の法事システムの否定ではなく、その寺院の悪徳坊主だけに
対する訴えですよ。
で、アゴン宗の冥徳解脱供養はまさに1回ごとに明確な脅迫をしています。
それが一体一体に付けられた霊示文です。
つよい怨念を残して亡くなった5代前の女性とか。
毎回毎回成仏してない苦しんでいると示します。
それに法話における「勝手に中断しても責任持てない」という脅迫もよく効いている。
ましてやアゴン宗の場合はおまえに祟るぞ、この先祖を供養しないとおまえが
不幸な運命から逃れられないのだぞと脅す。
毎回毎回ご丁寧に明確に。
脅迫を継続してるのですよ。
法事システムにこんな脅迫ありますか?
- 147 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/14(土) 11:00:52
- >>142:準シュダオン12/01/14(土) 09:21:36
>裁判しても勝てないでしょうね。霊感商法の壺の場合でも、1個1千万円なら
>問題ですが、1個10万円なら問題にはならないでしょう。で、100個を
>1千万円で買った場合は、買った方が悪いでしょうね。買った人には、「あんた、
>その壺を売る商売をしなさいな」と言いたいね。唯一、勝てるのはモウロクした
>爺さんや婆さんの場合です。弱者の場合は救済しなければいけない。
私は裁判に勝てるなんて書いたことはなく、これはわからないとしています。
裁判は勝つか負けるしかないが、しかし負けるにしても全面敗訴、教団には一切
間違いはなく、全面的に訴えを起こしたおまえらがトンチンカンなのである
という結論にはならず、なんらかの教団の問題性を浮き彫りにするのではないかと思います。
単価10万円の買い物を百個買ったわけですが、その1個1個に毎回脅迫霊示文
があるのですよ。これは裁判でも物証になる。
そこで、モウロクした爺さん婆さんでなくても、これだけ脅迫を続けられた人は
信者ゆえの弱者的立場にいると言えます。
そこをどう考慮されるかということです。
- 148 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/14(土) 11:42:40
- >>145:準シュダオン12/01/14(土) 09:58:31
>三明を具えた阿羅漢をも超えて、智慧第一と称されたこと自体、神通に値するね。
>先に涅槃に入ることを自覚してたこと自体が、サーリブッタに神通力があった
>ことを示しています。普通の人は、死後に涅槃に入るか、輪廻するか、そういう
>ことは解からない。
サーリブッタではなくサーリプッタですが(BではなくP)ですが、
(シャーリプトラとも言いますね)彼は三明全て備えてなくても阿羅漢となっています。
漏尽明を備えていたからでそれだけで必要十分だったからです。
三明とは三つの智慧ではないですか。
それなのに智慧第一と言われたサーリプッタが実は三明全て備えてなかったとは
何を意味しますか?
宿命明なんて智慧は解脱に涅槃に必要ないということです。
しかし漏尽明だけは備えていた。
だから死んだ後涅槃に入り、もう輪廻しないことがわかった。
それは未来透視の神通力とは違います。
自分の心に煩悩がないことが観察できたから、このまま死ぬと輪廻しないことが
明白なんです。
先に涅槃に入ることをお許しくださいとは先に死ぬことをお許しくださいと
いうことです。
- 149 :準シュダオン:2012/01/14(土)
11:48:16
- >単価10万円の買い物を百個買ったわけですが、その1個1個に毎回脅迫霊示文
>があるのですよ。これは裁判でも物証になる。
単価十万円を、百個以上買えて、守護神を貰えたら、目出度いでしょう。
それだけ経済的に恵まれていたのですよ。それこそと冥徳でしょう。
生活苦ならとても解脱供養は続けられない。借金は厳禁ですからね。
十体も二十体も解脱供養を続けたのに、経済的生活苦に陥った、という
のであれば、供養は続けられないし、「こりゃ、インチキだ」と、なるでしょう。
けど、何十体も解脱供養を続けられたのなら、それだけ恵まれていたのですから
それでいいではないですか。
- 150 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/14(土) 12:31:09
- >>149:準シュダオン12/01/14(土) 11:48:16
>単価十万円を、百個以上買えて、守護神を貰えたら、目出度いでしょう。
>それだけ経済的に恵まれていたのですよ。それこそと冥徳でしょう。
>生活苦ならとても解脱供養は続けられない。借金は厳禁ですからね。
>十体も二十体も解脱供養を続けたのに、経済的生活苦に陥った、という
>のであれば、供養は続けられないし、「こりゃ、インチキだ」と、なるでしょう。
>けど、何十体も解脱供養を続けられたのなら、それだけ恵まれていたのですから
>それでいいではないですか。
守護神を貰えたか貰えないかは知らないが、貰えたとしてそんな原価いくらもしない
神棚になんの有り難みがありますか?
それこそ壺と変わりない。
神棚あってもいろいろと病気したり生活苦続きだと意味ないでしょ?
本当に求めたものは神棚なんて物体ではなく、それこそ幸福な生活です。
1000万円の買い物が継続できていようが200万円でギブアップであろうが
人の裕福度により異なるが、巨額を投じた人がそれだけ余裕のある暮らしを
しているのかは別なんです。
やはり巨額を投じた人は別のものを犠牲にしてきたのですよ。
こんな脅迫に惑わされずに別のことに投じていれば得られた安定というものがある。
気がついた時には脅迫で無駄な投資をしていたわけです。
だから守護神の神棚だって粗大ゴミに捨てますよ。
20体供養して生活苦に陥る人なんてざらにいます。
私も不眠症で仕事ができなくなった時、収入がないから大変な生活苦だった。
その時点で20体まで届かぬが近い冥徳解脱供養をしてました。
功徳、効果なんかありませんよ。
ただ私は生活苦に陥ったのをアゴン宗のせいにはせず、自己責任としたのです。
だから辞めなかった。
しかし効果がないことは事実です。
あなただったら20体も供養したのに生活が向上しないどころか生活苦に陥った時
騙されたとするわけなんですか?
- 151 :準シュダオン:2012/01/14(土)
13:16:04
- >やはり巨額を投じた人は別のものを犠牲にしてきたのですよ。
ここが↑私の解釈と食い違うね。わたしは、巨額を投じられた人は、それだけ
恵まれた人だと解釈しますね。別のものを犠牲にしたとは考えられない。
別のものを犠牲にした、と考える人は、かなり無理して解脱供養を続けた人
でしょう。そういう無理は続かないでしょう。そういう無理は、我欲を満たす、
見返りを、期待するから無理するわけでしょう?私は、そう思う。
>20体供養して生活苦に陥る人なんてざらにいます。
>私も不眠症で仕事ができなくなった時、収入がないから大変な生活苦だった。
私が思うに、ユビさんの場合は、我見を断つ修行から始めてはいない。
あなたは、修行の順序を間違えていましたね。
なぜそう言えるかというと、ユビさんのレスには、増上慢が目立つからです。
これは、我見を断つ修行が不十分な証拠です。だから、我執、自分の意見が
かわいくて、他人より上、にしたくなる。で、我執、頑固に自分の意見を通
そうとしがみつく。例えば、預流向を聖者だとする文献を何時までも探す等。
わたしは、自分の意見を捨てたい、とレスした。本当ですよ。
新しい真実を知れば、過去の自分の意見は捨てざるを得ない。
それは古い我見をすてること、つまり修行が進むのです。
- 152 :名無しさん:2012/01/14(土)
13:28:37
- みなさん気が長いね。偉い!関心します。私は短気なので尊敬すらします。
短気は損気といいますから良くない気であるのは重々分かっていますが、修行がたりません。
とくに準さんの返答にはいつもイライラして「アホか!」と画面に向かって怒鳴りたい気持ちになりますが
みなさんの真摯返答を見ていると、バカな内容でもこの様に返すのだと教えられている様で頭が下がります。
- 153 :準シュダオン:2012/01/14(土)
13:40:03
- 阿羅漢の必須条件の解脱知見とは漏尽智のことだ、というユビさんのレスを
今日、目にした。
漏尽智に限定される訳ではないが、まぁ、それでも良いでしょう。
但し、阿含経に説かれる漏尽智は、大乗のいう「煩悩が尽きた安らかな境地」
なんてものではないですよ。そういう曖昧なものではありません。
阿含経にいう漏尽智とは、常套句の「・・自身作証 生死巳尽 梵行巳立
所作巳弁 不受後有・・」ということで、生死が尽きて涅槃に入る、という
ことが自覚出来ないといけないのですよ。
大乗のいう、「安らかな境地」だけでは、煩悩が尽きたとの思い込み、だけ
だと思いますね。
また、500人の阿羅漢のうち、神通力がある阿羅漢は60人、という場合、
残りの440人の阿羅漢は、神通力がゼロという意味ではないでしょうね。
神通力が揃っていない、不十分だ、という意味での440人でしょう。
因縁の洗い出し現象があって、聖なるバイブレーション(不十分ながら)を
受けた私には、そうしか思えないね。
- 154 :名無しさん:2012/01/14(土)
14:30:57
今まさに、その時正念場じゃ!100万200万返せなどと、世俗的な、意見に、まどはされては、いかん!
もとより、法をもとめて、阿含に、入った我々じゃ!金など、眼中にないはず、かりに
今師を裏切り100万帰ってきたところで、あなたにどんな未来が、まっているのじゃ!
学歴もない、才能もない、わしらが、成仏という、希望をあたえてくれたのは、他でもない
聖師桐山靖雄猊下じゃないかね!
その夢と希望のおかげで今まで生きてきた、そして、その夢は、必らず実現できる!
しかし、条件が、ある。信仰を、捨てないという、条件じゃ!
30年ついて来たんだ、これからじゃないか!金も地位も名誉もいらない、純粋に法を、もとめて来た君達
振るい落とされぬ様にしっかりと、猊下に、ついていくのじゃ、
今まさに、猊下が、法を、継承する時、その時はなれては、あまりにも、もったいない!
ワシとともに、法を、継承し、正法の素晴らしさを世に広め
共に苦しい人の杖と、なろう!その価値が、阿含には、必らずある!
ワシが、保証する。
今まさに、あなたが、師を超え仏陀を目指す時
時は、熟した、迷うで無い、法は、阿含に、ある!
- 155 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/14(土) 14:56:12
- >>151:準シュダオン12/01/14(土) 13:16:04
>ここが↑私の解釈と食い違うね。わたしは、巨額を投じられた人は、それだけ
>恵まれた人だと解釈しますね。別のものを犠牲にしたとは考えられない。
>別のものを犠牲にした、と考える人は、かなり無理して解脱供養を続けた人
>でしょう。そういう無理は続かないでしょう。そういう無理は、我欲を満たす、
>見返りを、期待するから無理するわけでしょう?私は、そう思う。
いいえ、収入、所得により他人が見たら羨ましいくらいの個人差が生じたとて
その人はその人なりの苦労の現在を抱えています。
高い買い物をした人はそれで人生おしまいではなく、まだ先があるのですよ。
退職金を受け取り年金を受け取る生活をしていなければやはり生活の為に働かねばならない。
働けること自体は恵まれていることだから生活苦とは言えないが、生活の絶対保障
というものは誰にもないのだから、いろいろと生活設計で倹約だって必要です。
それが普通の人はしない冥徳解脱供養なんてところに何百万も投資していたら
人生設計も狂ってくること必至です。
ここに新車を買った人がいる。
いいなあ。新車を買えて。俺なんか中古車すら買えないよ。
しかしこの新車を買えた彼氏、決して現在苦しくないわけではない。
多額の出費とローンの支払いで昼食はコンビニのおにぎり1個だけでがまんしている。
中古車も買えないおいらはそんなひどい昼食でない。
普通に街の食堂でランチくらい食える生活だ。
だから過去形ではなく現在形、現在進行形、未来形こそが万人悩みのタネです。
では新車なんて買い物をした人は我欲を満たす為に無理をした自己責任か?
この新車を冥徳解脱供養商品に話を戻すと、我欲で買ったのではなく、脅しで
買わされたのです。
ガン細胞があるから除去する為に手術を受けなさいと言われたのです。
その手術を受けて得る見返りに欲張りな我欲などはなくガンに命を侵されないだけです。
で手術を受けたわけだが、ドクター曰く「まだ他の箇所にガン細胞が発見された」
でガンに命を侵されない為にまた手術を受ける。
それが何十回も百回も続く。
「先生、もうお金がありません。手術を受けられません」
「そうか?それはお気の毒に。手術を受けるしか治る道はないが、経済的理由で
受けるも受けないも君の意志次第だ。受けなくてもよいが、ガンは治らず
あなたは死にます。さようなら」
- 156 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/14(土) 16:23:42
- >>151:準シュダオン12/01/14(土) 13:16:04
>別のものを犠牲にした、と考える人は、かなり無理して解脱供養を続けた人
>でしょう。そういう無理は続かないでしょう。そういう無理は、我欲を満たす、
>見返りを、期待するから無理するわけでしょう?私は、そう思う。
冥徳解脱供養をしたって我欲なんか満たせませんよ。
そんなに必至に何十回も投資してまで我欲を満たそうとする信者なんて実は
いるものではありません。
何百万もするのならそんなものは要らないよ。今のささやかな生活で十分だと
なるでしょう。
我欲を満たすのではなく、不幸を除去させねばと脅されているからです。
冥徳解脱供養や一般解脱供養をするのは因縁解脱して不幸を避ける為です。
桐山さんは近年こう話したと言う。
解脱供養が高いという不満に対して「君たちが解脱宝生行にいくら励んだところで
一生のうち不成仏霊を一体解脱成仏させられるかさせられないかの程度に過ぎない。
それを私が解脱供養で成仏させてやろうと言うのだ」とご立腹されながら答えたそうだ。
つまり解脱宝生行だけで因縁解脱は無理であり、解脱供養や冥徳解脱供養を何回も
しないと成就しないのです。
因縁解脱が成就しないとは悪い因縁が切れずに不幸な運命が避けられないことを
意味する。
だから我々凡人はお金持ちとかそんな欲張りは求めなくてもよいが、不幸な運命
だけは避けたいから因縁解脱を志し、必須である霊障解脱供養でも冥徳解脱供養にも
励むのです。
しかしそんなに金が続かないのも事実です。
ではどうすればよいかと言うと、それに対する救済策というのはないのです。
金がないのを無理に続けよなんて強要はしません。
だから続けなくてもよいが、その代わり金を出さない限り永久に救われないだけです。
不幸な運命は避けられないのだから諦めなさい、死になさいと突き放されたも
同然なのです。
だから桐山さんを信じる信者ならば多少の無理をしても出費してしまうのも
弱者としての弱みを握られたからなんです。
準シュダオンさんみたいに供養しなくても平気でいられる人は、実は桐山さんの説く
悪因縁とか霊障とか信じてないだけです。
- 157 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/14(土) 17:09:08
- >>131:ラシン ◆xvojmuQ90o12/01/13(金) 10:32:05
>今まで預流向≠聖者という、あなたの狂説を桐山さんが認めました。
>このたびの新著の142頁に、三結を断じた「預流が聖者」と書かれています。
実はこの中巻の142頁の記述は国会図書館のみに所蔵の下巻の122頁から123頁において
全く同じ記述があります。
コピーをとった私はそれを読んで知っていました。
ですから時には、準シュダオンさんを喜ばせてやろうかと、この箇所を引用したい
時もありましたが、市販されてないので、それをする意義も足りないと感じてました。
準シュダオンさんとは別に私は深山さんに対して、下巻には預流向を聖者に含めるのか
含めないのか下巻でも明記されていないと答えました。
しかしこの箇所を読むと、三結断ったシュダオン未満は聖者に認めないのだから
預流向≠聖者と桐山さんが認めたと言えます。
しかしこれを桐山文証とするのには、私は物足りないと思ったのです。
この類の桐山文ならいくらでもお目にかかれる。
なおかつ「あなた方は外道凡夫ではない」などと上巻に見るような矛盾もある。
私が欲しかった文証は四向四果の体系として預流向がきちんと説かれている中での
預流向と聖者の扱いについて明記したものはないかと探したわけですが、それはなかった。
桐山さんがシュダオン「果」からを聖者として、未満を聖者にしないことは明白です。
シュダオンになるのが一番難しいと説いていたからです。
アナゴンからアルハットに飛翔するのが一番難しいがアナゴンまで来れた人には
創意工夫でそれも可能ならしめる、それよりもシュダオンになることは凡夫が聖者に
変身することなんだから、この最初のステップが一番難しいと書いていた。
つまりシュダオン果未満は凡夫としているのです。桐山さんは。
- 158 :準シュダオン:2012/01/14(土)
18:29:50
- >今まで預流向≠聖者という、あなたの狂説を桐山さんが認めました。
>このたびの新著の142頁に、三結を断じた「預流が聖者」と書かれています。
狂説!↑w。狂説ではないでしょうw。阿含経を読める力があれば、当然の
帰結になるのです。私には、「中卷」など、読む必要もなく、理解できる。
輪廻する葦、その他の管長書物を読むだけで、簡単に理解できます。
しかし、批判派の皆さんには、そうではないようです。
管長の苦労の一端が、よく解ります、管長の本を読んだとしても、その意図
が伝わっていないのです。
私も、管長同様、ある意味の空しさを感じます。批判派には、言葉の意味が
伝わらない場合が、ままあるからです。我見で凝り固まっている自覚がない。
私が、いくら、預流向≠聖者、ではないことを主張しても、批判派は納得しない。
管長の言葉があれば、簡単に納得する。それは、狂信、盲信に繋がります。
それは、自分での判断力がない、自灯明がないからです。
私は、管長に霊能力があることを、100%信じています。
だからといって、管長にのめり込むことはないです。
解脱供養は、経済的に都合がついた時だけに、することにしています。
どうやら、そのあたりに↑、カギがありそうですね。
- 159 :準シュダオン:2012/01/14(土)
18:49:53
- >なおかつ「あなた方は外道凡夫ではない」などと上巻に見るような矛盾もある。
>私が欲しかった文証は四向四果の体系として預流向がきちんと説かれている中での
>預流向と聖者の扱いについて明記したものはないかと探したわけですが、それはなかった。
だからぁ、それは矛盾ではないのです。凡夫には、外道凡夫と内道凡夫との
二種があるのです。仏道以外の道を歩んでいるのが外道凡夫です。
仏道を歩んでいる凡夫は、内道凡夫と呼ぶのです。
だから、「あなた方は外道凡夫ではない」という意味は、外道を歩んでる
凡夫ではなくて、内道(仏道)を歩んでいる凡夫なのだから、そのうちに
聖者にたどりつけますよ、という意味なのです。
- 160 :天照
◆MO30b8Jwoo:2012/01/15(日) 06:56:51
- >>158
単なるケチなのを言い訳にしているだけではないかと。
まあ、解脱供養の「する・しない」は信者さんの勝手でありますから別段良いですが
教祖様の指導に従ってない点だけは疑問符だらけです。
カギというよりは自分のポリシーだといったほうが適切ではないかと。
>>159 釈尊の示す道を歩く人ならそれは言えるでしょう。
しかし、桐山教や準シュダオン教を歩いて内道凡夫とは本当の仏道を歩んでいる
人にはかなりの失礼発言ですね。
まあ、自分の思うがままの道を行く人には何を言っても無駄でしょうが・・・。
- 161 :準シュダオン:2012/01/15(日)
09:36:19
- >>158
単なるケチなのを言い訳にしているだけではないかと。
>まあ、解脱供養の「する・しない」は信者さんの勝手でありますから別段良いですが
>教祖様の指導に従ってない点だけは疑問符だらけです。
>カギというよりは自分のポリシーだといったほうが適切ではないかと。
ケチとは違いますよ。経済的都合がついたら、申し込むのですからね。
都合がついても、申し込まないのがケチです。
十万円と言えば、けっこうな大金ですからね。
国民年金は満額でも月額7万円前後でしょう?
管長の力を100パーセント信じていたとしても、自分の懐具合を、
よく考える必要は、あるでしょう。
- 162 :準シュダオン:2012/01/15(日)
09:57:11
- >まあ、自分の思うがままの道を行く人には何を言っても無駄でしょうが・・・。
良い意見なら無駄ではありませんよ。深山さんやユビさんこそね、我見で凝り
固まっているから、何を聞いても無駄でしょうね。わたしのようにね、我見を
なくす修行を続けていると、たとえ批判派の意見でさえ、自分の修行のヒント
にしたいのですよ。
前に、「私は、自分の意見を捨てたい」とレスしたでしょう。本当なのですよ。
柔の歌に「自分に勝てと〜♪」と、あるでしょう。「昨日の自分に今日は勝つ」
という修行者の心構えです。戦う相手は、自分なのです、自分の我見と戦うのです。
ところが、批判派のレスを見ると、「議論の勝ち負け」というように、擁護派との
との戦いみたいで、自分と戦うとの意識が感じられません。
それじゃあ↑だめですね。過去レスに拘ってもいけません。それは我見に拘ること
です。わたしのレスを見れば解かるでしょう。わたしは、批判派の過去のレスに、
あまり拘ったことはない。しかし、批判派には、しつこく過去レスを持ち出す
人が居る。我(アートマン)が無いことを理解すれば、過去レスなんかに用は
ないはずですよ。
- 163 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/15(日) 10:24:24
- >>161:準シュダオン12/01/15(日) 09:36:19
>ケチとは違いますよ。経済的都合がついたら、申し込むのですからね。
>都合がついても、申し込まないのがケチです。
>管長の力を100パーセント信じていたとしても、自分の懐具合を、
>よく考える必要は、あるでしょう。
そんなことは私も含めて誰でもそうしています。
破産するような愚かなことはせず、考えながら出費します。
しかしそれでも苦しいのです。
それで終わりではなく、延々と続くのですからね。
私の場合ですと、4家系申し込んでいて、40万円分の霊示が提示される。
年に2体くらい申し込みますかね。別々に。2年かかる。
苦しい時期は何年か途絶えていた。
しかしこれで終わりではなく、また新たに霊示が下り、供養しなさい、これは
あなたの運命を暗く悪くしている先祖だから供養しないと取り返しのつかない
ことにもなりますので、なるべくお早めにと脅します。
- 164 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/15(日) 10:36:02
- >>162:準シュダオン12/01/15(日) 09:57:11
>それじゃあ↑だめですね。過去レスに拘ってもいけません。それは我見に拘ること
>です。わたしのレスを見れば解かるでしょう。わたしは、批判派の過去のレスに、
>あまり拘ったことはない。しかし、批判派には、しつこく過去レスを持ち出す
>人が居る。我(アートマン)が無いことを理解すれば、過去レスなんかに用は
>ないはずですよ。
それはあなたに発言責任がないだけです。
誰しも掲示板であれどこであれ何かしらの発言をしたからにはその社会的責任と
いうものが生じます。
つまり忘れたでは済まされない。
過去があって現在があるのだから過去を忘れては話がつながらない。
またあなたに対して向けた他人のレスも読んでよく記憶しておいてもらわねばならない。
別に受け入れなくてもよい。否定してもかまわない。
しかしさらにレスをつける時にはこちらがどういうレスをつけたかそれを踏まえた上で、
新たなる反論なりをしてもらう必要がある。
それだのにあなたはいつもこちらが反論済みのことをリセットして同じことを
書いてくるから、また同じ反論をしなければならない。
こういう相手のレスも読まずにわきまえずにレスすることは失礼に相当します。
礼儀知らずなんです。
礼儀を守れない、守りたくないのならば、このスレに出て来ないで欲しい。
- 165 :深山:2012/01/15(日)
12:15:21
- >>118 :準シュダオン:2012/01/12(木)
17:22:30
>釈尊は、慢と異陰と、言葉を使い分けていますので、慢=異陰ではありません。
>つまり、異陰とは煩悩(慢)だけのことではありません。
準シュダオンさんは、異陰とは煩悩だと思っているのですか・・・!!??
やはり脳が相当に崩壊しているようだ。
これで準シュダオンさんは、
「我見をなくす修行を続けている」(>>162)
という!!??
準シュダオンさんてみんなに笑いを提供しようと必死なんですね。
他の信者さんたちにはさすがに説明が必要ないでしょうが、
アゴン宗の教義でも異陰と煩悩とはまったく別物です。
アゴン宗の教義では「異陰=霊魂」です。
霊魂と煩悩とが別物であることは、普通の人は知っている。
だが、どうやら、準シュダオン狂では似た者だと思っているらしい。
- 166 :深山:2012/01/15(日)
12:18:40
- >>118 :準シュダオン:2012/01/12(木)
17:22:30
>釈尊は、慢と異陰と、言葉を使い分けていますので、慢=異陰ではありません。
アゴン宗ではもはや異陰という言葉自体を使ってはならない。
なぜなら、桐山さんは『仏陀の真実の教えを説く[上]』で、
仙尼経に異陰がないことを認めたし、
異陰と書いてある経典を引用も説明もしていないからです。
ところが、中巻でまだ異陰を出してきた。
「ここを「異陰」とした場合には、死んでこの陰が無くなっても、慢とそこから生じるタンハー
を断ち切っていないので、仏界に行くことができずに死後、「異陰」あるいは「意生身」(いずれ
も同じ意味であり、ともに阿含経に説かれている言葉〉を生じてその存在を受けつぐ(相続する)。そ
うして死後の存在であるこの異陰が、つぎの生の五陰を集める因縁となって再生して輪廻を続け
る、ということになります。」(『仏陀の真実の教えを説く[中]』422頁)
まるで異陰の経典を引用して解説したかのような態度です。
繰り返すが、桐山さんは異陰と書いてある経典は示していない。
また、そこでの異陰が霊魂であるこという証拠も出していない。
彼が証拠として出したのは仙尼経だけであり、仙尼経には異陰などありません。
- 167 :深山:2012/01/15(日)
12:21:57
- 「ここを「異陰」とした場合には、死んでこの陰が無くなっても、慢とそこから生じるタンハー」
厚かましいというか、盗人猛々しいというか、
まるで異陰が霊魂として広く認められているかのような書き方です。
信者さんたちもさすがに桐山さんのこの態度にあきれませんか。
仙尼経に異陰があるなら、その解釈として霊魂だと主張するならまだしも、
仙尼経には異陰などありません。
桐山さんは異陰と書いてある経典を引用していないのだから、
アゴン宗ではどこにも異陰などないのです。
たとえば、涅槃という言葉をいちいち経典にあることを証明しなくても、
これは仏教用語だから、そのまま使うことはかまわない。
だが、異陰なんて仏教用語ではないから、辞典にはありません。
なぜなら、第一義空経にある異陰とは熟語ではなく、
「異なる陰」「別な陰」という文章だからです。
もちろん、異陰に霊魂なんて意味はありません。
なぜなら、陰とは肉体をもった人間のことであり、第一義空経の異陰も、
「別な人間となって生まれ変わる」という意味です。
上巻で仙尼経には異陰がないと認めながらも、中巻ではまるで異陰を
すでに証明したかのようにぬけぬけと書いている事に、信者さんたちは
どう思いますか。
さすがは準シュダオンさんの師匠だけあって、実に厚かましい。
- 168 :深山:2012/01/15(日)
12:26:58
- 「ここを「異陰」とした場合には、死んでこの陰が無くなっても、慢とそこから生じるタンハー」
上巻では仙尼経に異陰がないことを認めながら、中巻になると
またしても異陰を持ち出す、この桐山さんを見て、信者さんたちは
桐山さんの知性と良識に疑問を持ちませんか。
仙尼経に異陰があると書いたのは安井氏の本から丸写しにしたからです。
それを中巻で桐山さんは認めた。
上巻では、仙尼経にある輿陰を「輿陰=霊魂」とした。
これだけでもゴマカシであり嘘なのに、中巻では上記のように、
また異陰を出して、新たに嘘をつき始めた。
繰り返すが、桐山さんは異陰と書いてある経典を引用していないのだから、
上記の説明には何の根拠のない嘘なんですよ。
信者さんたちは桐山さんの態度を良く見てほしい。
嘘を素直に認めるのではなく、追求され、逃げ場がないと、その場は
適当にお茶を濁し(上巻)、少したつと口を拭い、また嘘の上塗りをする(中巻)。
これが桐山さんなのです。
彼の人生はこれのくり返しです。
嘘やデタラメを絶対に認めないから、間違いに修正がかからない。
桐山さんがこんなふうに書いたのだから、アゴン宗はこれからも
「異陰=霊魂」を唱え続けます。
嘘の上に嘘を重ねるとどうなるか。
三宝偽物、解脱の定義すら違うという嘘だらけのオカルト宗教ができあがった。
- 169 :深山:2012/01/15(日)
12:31:24
- >>118 :準シュダオン:2012/01/12(木)
17:22:30
>釈尊は、慢と異陰と、言葉を使い分けていますので、慢=異陰ではありません。
桐山さんは絶対に自分の間違いを認めず、こんなふうに
さらに嘘をついてごまかそうとする。
そこで問題は信者さんたちです。
あなた方も同じことをするのか。
「異陰=霊魂」と主張すれば、「桐山ゲイカはどこで異陰と書いて
ある阿含経を示したのですか」と反撃され、信者さんたちは沈黙するしかなくなる。
普通の知性と羞恥心があれば、「異陰=霊魂」など書けない。
唯一の方法は、ここにいる信者の真似をして恥知らずになることです。
恥知らずだから、平気で>>118でも異陰という言葉を用いている。
信者さんたちはこんな下劣な人間になりたいのですか。
彼は上機嫌で自分の頭の良さに酔いしれながら書いているが、
書いた内容は矛盾だらけ、その場しのぎの空想と、己の慢心の垂れ流しです。
過去の書き込みにはいっさい責任を持たないなどと書いている。
ここまで恥知らずにならないと「異陰=霊魂」なんて書けない。
準シュダオンさんは、内心は神通力を体得したのだから準阿羅漢だと思いこんでいる。
彼が得た物は自惚れと妄想です。
信者さんたちはこんなふうになりたくないでしょう。
だったら、事実と現実を見てください。
陰とは五蘊のことであり、肉体をもった人間のことです。
五蘊の五つの要素のどこにも霊魂に相当するものはありません。
桐山さんの「異陰=霊魂」「輿陰=霊魂」という説は成り立ちません。
- 170 :深山:2012/01/15(日)
12:33:41
- >>145 :準シュダオン:2012/01/14(土)
09:58:31
>三明を具えた阿羅漢をも超えて、智慧第一と称されたこと自体、神通に値するね。
>先に涅槃に入ることを自覚してたこと自体が、サーリブッタに神通力があった
>ことを示しています。普通の人は、死後に涅槃に入るか、輪廻するか、そういう
>ことは解からない。
「では、サーリプッタよ。過去・未来・現在の真人・正しくさとった人々に
ついての〈(他人の)心のありさまを知る智〉(他心通)がお前には存在しない」
(『ブッダ最後の旅』29頁)
信者さんたちは準シュダオンさんのように空想で物を言わないことです。
ユビキタスさんが、サーリプッタには他心通という神通力がないと書いたのは、
上記のようにちゃんと経典に残されているからです。
三明、六通を持つことが解脱の絶対条件なら、サーリプッタに他心通という
神通力がなかったのはおかしくありませんか。
サーリプッタはデキの悪い解脱者ではない。
二大弟子の一人ですから、トップの解脱者です。
そのトップが少なくとも神通力の一つを持っていなかった。
これだけでも神通力で解脱するという桐山説が嘘なのがわかります。
神通力で解脱するなんて嘘であることはサーリプッタの
次の言葉をみれば十分です。
- 171 :深山:2012/01/15(日)
12:37:19
- 「[真理を見る〕眼ある尊き師・ブッダは、他の一人のひとのために、真理の教えを説かれた。
教えが説かれているとき、[道を〕求めるわたしは、耳をそば立てた。」
「わたしが聞いたことは、空しくはなかった。わたしは、束縛をのがれ、煩悩のけがれ
のない者となった。実にわたしの誓願としたところのものは、過去世の生活を知る〔通力〕
を得るためではなく、すぐれた透視[力〕を得るためでもなく、他人の心を読みとる〔通力〕を
得るためでもなく、死と生を知る〔通力〕を得るためでもなく、聴力を浄める
〔通力〕を得るた
めでもなかった」
(「仏弟子の告白」188−189頁)
これはサーリプッタの告白です。
ごらんのようにも五つの神通力を目的にしなかったとはっきり述べている。
解脱するのに神通力が必要なら、神通力獲得を目的としなかったという告白は
おかしくありませんか。
桐山さんは神通力でカルマを切って解脱するのだと主張した。
だが、上記のサーリプッタはこの桐山説を全面否定している。
サーリプッタの言葉はむしろ、五つの神通力の獲得を目的とするな、
と言っているように聞こえませんか。
信者さんたちはどちらを信じるのだ?
二大弟子とまで呼ばれ、知恵第一のサーリプッタの言葉と、
口を開けば嘘ばかり飛び出す桐山説の、どちらを信じるのですか。
- 172 :準シュダオン:2012/01/16(月)
09:50:42
- >過去があって現在があるのだから過去を忘れては話がつながらない。
必ずしもそうではない。過去は過ぎ去るのだから、現在は未来からやって来る、
という考え方が、仏教にあることを学んだでしょう?だから、あまり過去に
拘ってはいけない。私は、何度かハンドルを変えてますが、無意味に変えてた
訳ではない。我見が大きく変わった毎に、変えたのです。認識が大きく変わった
毎に、と言っても良い。3・11に、霊示体験があって、それ以前の私と大きく
認識が変わった点が起きたので、そろそろ変え時か、とも思う。
聖なるバイブを受けた後でも、ハンドルを変えました。考え方も変わった。
だから、過去レスをあれこれ言われても、困ることもあるわけですね。
- 173 :準シュダオン:2012/01/16(月)
09:56:06
- >誰しも掲示板であれどこであれ何かしらの発言をしたからにはその社会的責任と
>いうものが生じます。
それは、私が責任を取らない、と宣言しても、責任はとらされているのだから、
ユビさんが心配する必要はない。因果応報を学んだ人が、心配することではないよ。
「天網かいかい疎にして漏らさず」と、言う語もあるしね。
- 174 :準シュダオン:2012/01/16(月)
10:05:23
- >それだのにあなたはいつもこちらが反論済みのことをリセットして同じことを
書いてくるから、また同じ反論をしなければならない。
>こういう相手のレスも読まずにわきまえずにレスすることは失礼に相当します。
礼儀知らずなんです。
>礼儀を守れない、守りたくないのならば、このスレに出て来ないで欲しい。
それこそ↑思い上がりも甚だしい理屈です。くだらない長文のレスを、必ず読め、
なんて、人に押し付けられると思っているのか?それは、思い上がりだよ。
私は、自分のレスを必ず読め、なんて考えたことはないよ。
私のレスを読まずに、私にレスして来た場合は、「ああ、この人は私のレスを
読んでいないな。それは私のレスがつまらないためであって、この人が悪いわけ
ではない。」と、考えますよ。
それくらいの謙虚さが欲しいね。
- 175 :準シュダオン:2012/01/16(月)
11:25:17
- 過去レスで、勉強になった、ユビさんのレスは、覚えてますよ。
何時ぞや、小学館の「バウッダ」本の三枝氏の文を引用したレスです。
「バウッダ」本のP114に、
「釈尊は、その「答え」において、人間の力を絶した創造主としての神も、
また祈祷や呪術に応じて魔力をふるう神秘も、ことごとく退けており、一切
の不可思議で超自然的なものはすべて排し、捨てる。」と、記されています。
私には、上記のような文は目に止まらなかった。読んでも記憶に残らないの
ですね。それがユビさんの指摘で、三枝氏の経典解釈の重要部分を知らされた。
私などは、三枝氏などより、経典を読んだ量ははるかに少ないであろうが、
経典の捉え方はまるで違う。釈尊から超自然的なものを排除したら、宗教として
成り立たない、と思う。
「苦悩は、実は苦脳ではなく、内部で苦悩が消え、安らかな境地をもたらす」
のが釈尊の教えだ、みたいな解釈を三枝氏は述べているが、あまりにも学者的な
捉え方であろう。「苦悩が消えて安らかな境地」と言ったとて、それが一時的
な場合はどうするの?
釈尊の教えは、そういう曖昧なものではないでしょう。
「自身作証、三漏尽、生死尽、不受後有、無上安穏涅槃」というだけで、
十分に超自然的、神秘的な教えでしょう。
- 176 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/16(月) 11:40:36
- >158 :準シュダオン:2012/01/14(土) 18:29:50
>私も、管長同様、ある意味の空しさを感じます。批判派には、言葉の意味が
伝わらない場合が、ままあるからです。我見で凝り固まっている自覚がない。
あなたはまるで子供が母親の後ろに隠れるように都合が悪くなると、
すぐさま”ガケン”の穴に逃げ込む卑怯者です。
今回の桐山さんの預流向≠聖者について、ユビさんはまだ少し決定不足との
感想ですが、批判側はその桐山さん説を間違った解釈としているのです。
奇しくも桐山さんとあなたが一致したからといって正しいということではない。
お経に四双八輩は福田であり聖者集と書かれているのだから、
そのまま読むことで意味が通じます。
経典の裏読みなど不要で余計なことなのに、あなたは桐山さんの都合を信じている。
桐山さんの都合は、阿含経をそのまま解釈すると金集めやタダ働きを得られない。
桐山さんの私欲と教団運営のために経典が歪められている。
その根拠が判明したから批判論が噴出している現実を見ることです。
- 177 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/16(月) 11:42:30
- >159 :準シュダオン:2012/01/14(土) 18:49:53
>だからぁ、それは矛盾ではないのです。凡夫には、外道凡夫と内道凡夫との
二種があるのです。仏道以外の道を歩んでいるのが外道凡夫です。
外凡内凡という区分け自体が、アビダルマ説であり婆沙論です。
あなたは、批判がアビダルマ説を根拠としていないのに根拠にしたと非難していた。
そのあなたは常に、自分の都合でこういうアビダルマ説を持ち出しても恥じない。
批判側には汚名を着せておいて、自分は姑息にも都合勝手で使い分けている。
>162
:準シュダオン:2012/01/15(日) 09:57:11
>前に、「私は、自分の意見を捨てたい」とレスしたでしょう。本当なのですよ。
柔の歌に「自分に勝てと〜♪」と、あるでしょう。「昨日の自分に今日は勝つ」
何故捨てのですか?なぜ過去の自分に勝利したと言えるのですか?
そうかあなたは、過去の自分の間違いを見つけて捨て、昨日の自分に勝った?
ならば今から、異陰=霊魂も、桐山さんも捨てたらどうか?
出来るわけがない、あなたはただ自分のミスに蓋をしたいだけだからです。
>批判派には、しつこく過去レスを持ち出す人が居る。我(アートマン)が無いことを
理解すれば、過去レスなんかに用はないはずですよ。
あなたの仏教知識とは、その程度のレベルだと吹聴したいらしい。
あなたの過去の言動は、業を作ったことだから消せない。
あなたは、無我非我と業を混同する間違いを自ら立証している。
どうしてあなたの脳ミソは、月日を掛けても腐敗してしまうのか。
- 178 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/16(月) 12:18:09
- >174 :準シュダオン:2012/01/16(月) 10:05:23
>それこそ↑思い上がりも甚だしい理屈です。くだらない長文のレスを、必ず読め、
なんて、人に押し付けられると思っているのか?それは、思い上がりだよ。
ですからそういう押し付けではなく、あなたが反論するならば最低限度の
礼儀がある↓ とユビさんは書いています。
>>164別に受け入れなくてもよい。否定してもかまわない。
しかしさらにレスをつける時にはこちらがどういうレスをつけたかそれを踏まえた上で、
新たなる反論なりをしてもらう必要がある。
これはあなたの「ガケン」に凝り固まった思い上がりへの注意です。
それを理解しないから、また今あなたは毎回このように轍を踏んでしまうのです。
>175
:準シュダオン:2012/01/16(月) 11:25:17
>釈尊から超自然的なものを排除したら、宗教として成り立たない、と思う。
思う?
桐山さんの口マネというかそれから出発し、師の握り拳の中身を疑っている。
宗教とは超自然的なものという捉え方は、釈尊から否定されていると読んでもなお、
桐山さんもあなたも「いや、きっともっと何かがある」なんてただの思い込みに
耽溺している。
そういう態度が外道というのです。
あなたは釈尊の言葉と桐山さんの言葉のどちらを取るのですか?
- 179 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/16(月) 13:22:14
- >>172:準シュダオン12/01/16(月) 09:50:42
>必ずしもそうではない。過去は過ぎ去るのだから、現在は未来からやって来る、
>という考え方が、仏教にあることを学んだでしょう?だから、あまり過去に
そんなわけのわからんテツガク的な話をしてません。
世の中のきまりの話をしてるのです。
過去に書いたものは消えない。訂正したいならはっきりと断って書き直さねば
なりません。
それをしないで過去の自分の発言を無視することは無責任者とレッテルを貼られ
社会から相手にされないだけです。
事実どこからも相手にされなくなったからここに来ているのでしょう?
>>173:準シュダオン12/01/16(月) 09:56:06
>それは、私が責任を取らない、と宣言しても、責任はとらされているのだから、
>ユビさんが心配する必要はない。因果応報を学んだ人が、心配することではないよ。
責任はとってません。ここでいう責任とは難しいことではありません。
相手の意見をどんなにくだらないと感じても、これを読んでその反論を踏まえた
上で、それに対する反論議論をすることだけです。
私も最近2ちゃんねるで読み落としたままレスを付けてしまったので、そこは
反省謝罪して改めています。
借金を返せと言っている相手に「心配は要らない。僕が借金を返さなかったら
裁判などで裁かれるだけだ」では回答にならない。
責任をとるということは目の前にいる人に借金を返すことです。
>>174:準シュダオン12/01/16(月) 10:05:23
>それこそ↑思い上がりも甚だしい理屈です。くだらない長文のレスを、必ず読め、
>なんて、人に押し付けられると思っているのか?それは、思い上がりだよ。
長文だろうが議論をしたかったら読む必要があります。
読みたくなかったら読まなくてもいいけど、少なくともその件に関しての
議論は放棄したことになるのだから、レスを付けてはなりません。
- 180 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/16(月) 14:43:15
- >>157 :ユビキタス ◆18iA.mwnDU:2012/01/14(土) 17:09:08
>実はこの中巻の142頁の記述は国会図書館のみに所蔵の下巻の122頁から123頁において
全く同じ記述があります。
>しかしこれを桐山文証とするのには、私は物足りないと思ったのです。
>私が欲しかった文証は四向四果の体系として預流向がきちんと説かれている中での
預流向と聖者の扱いについて明記したものはないかと探したわけですが、それはなかった。
阿含経講義(中)巻
142頁 以上の身見・疑惑・戒取の三つを完全に切った人が須陀?です。
須陀?は別名を預流といいます。流れに預かる(入る)と書くわけですが、
どのような流れに入るのでしょうか?
これは聖者の流れに入るという意味です。須陀?になった人は聖者で、
須陀?になっていない人は凡夫です。それで須陀?を”聖俗”の分かれ目とします。
多分、ユビさんの所持している(下)巻写しにはない記載が(中)巻にあると思われますが、
136頁において冒頭には「十結」を解説し五下分結と五上分結の意味が記述され、
「身見」の解説は137頁まで、「疑惑」は141頁終行〜142頁「戒取」の説明に至り、
144頁「欲貪」、145頁「瞋恚」、147頁三結の総論、148頁「須陀?」から「斯陀含」、
149頁「阿那含」の五上分結の解説が、150頁まで分類されています。
桐山さんがここまで類別されている以上、ユビさんの指摘された「四向四果の体系」は、
四果のみで四向に関しては省かれているものの、その理解の範疇を阻害するものではなく、
一応、桐山さんは体裁を整えていたと判断できるものではないかと考えました。
そこで、初文に預流未満は凡夫についての断定があることを踏まえて、
「桐山さんは今回の中巻で、預流以上が聖者、預流未満(預流向)≠聖者」と明言した、
との私の結論に至ったのですが、いかがなものでしょうか?
- 181 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/16(月) 16:44:32
- 準シュダオンさんへ
「外道凡夫」の表現が、雑阿含経に一つありました。
後期原始経典群(本縁部等)や大乗諸経典に多くが散見されますが、
殆どがやアビダルマ説のみとの指摘は、私の間違いであり、
訂正し謝罪いたします。
雜阿含經卷第二十六 阿含部2向経
不空無果若於此五根。一切無者。
我説彼爲外道凡夫之數。
此の五根に於いて空無果ならず、若し此の五根に於いて
一切無くんば我れ彼れを説いて外道凡夫の数と為す。
(国訳一切経阿含部2向経 抜粋)
- 182 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/16(月) 17:14:57
追記
ちなみに外道凡夫と内道凡夫との判別論は、
前述したように阿毘達磨大毘婆沙論にて確認されるものです。
ですから、準シュダオンさんの適用の仕方はやはり婆沙論を
根拠とする考え方に他ならず、これは説一切有部の大善地法などを
取り入れた桐山さん流判別の論拠であり、ごった煮論法です。
- 183 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/17(火) 00:04:06
- >>180:ラシン ◆xvojmuQ90o12/01/16(月) 14:43:15
> 142頁 以上の身見・疑惑・戒取の三つを完全に切った人が須陀です。
> 須陀は別名を預流といいます。流れに預かる(入る)と書くわけですが、
> どのような流れに入るのでしょうか?
> これは聖者の流れに入るという意味です。須陀になった人は聖者で、
> 須陀になっていない人は凡夫です。それで須陀を”聖俗”の分かれ目とします。
>多分、ユビさんの所持している(下)巻写しにはない記載が(中)巻にあると思われますが、
いいえ、中巻の142頁の表現は前後の文脈構成とともに、国会図書館所蔵の
下巻とピッタシ同じです。
ですから下巻の時点でシュダオンになったかならないかが聖俗の境目としており
預流向≠聖者と桐山さんが結論付けています。
>桐山さんがここまで類別されている以上、ユビさんの指摘された「四向四果の体系」は、
>四果のみで四向に関しては省かれているものの、その理解の範疇を阻害するものではなく、
>一応、桐山さんは体裁を整えていたと判断できるものではないかと考えました。
>そこで、初文に預流未満は凡夫についての断定があることを踏まえて、
>「桐山さんは今回の中巻で、預流以上が聖者、預流未満(預流向)≠聖者」と明言した、
>との私の結論に至ったのですが、いかがなものでしょうか?
私は今回の中巻、いや、下巻にて結論付けたのではなく、最初から桐山さんは
シュダオン果からが聖者として扱い紹介していたと認識しています。
なんとなれば、私も一般仏教解説書も読まぬ無知な信者時代は、桐山本だけを頼りに
そう信じていたからです。
シュダオンになるのが一番難しい、なぜなら凡夫が聖者の仲間入りをするのだから
と書いた著書(ごめんなさい、著書名失念、調べてる時間足りない)があるからです。
むしろ上巻に説かれた君たちはシュダオンにまだなれねども外道凡夫ではないと
書いたことこそ、後から自分の発言を忘れて発したものだと思います。
と言うのは四双八輩という単語を出された時、いかな桐山さんと言えど
聖者は七輩限定だなんて言えないからです。
だから桐山さんの中でもともと貧弱な仏教知識で決めつけていたものが
四双八輩の単語をキーワードに質問すれば今でも困るはずですよ。
自身まだ矛盾に気づいていない可能性もあります。
発言に責任を持たないから(笑)
- 184 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/17(火) 00:25:16
- ああ、見つけました。
末世成仏本尊経講義の274頁でした。
道品法の修行で、成仏にいたる階梯は四段階ある。
このうち、最もむずかしいのは、第一の
段階である須陀オンといっていい。
ほんとうに最もむずかしいのは阿羅漢である。なにしろ、仏陀そのものになるのだから、
阿羅漢になるのがいちばんむずかしいのは当然である。
しかし、わたくしは、それを承知で、あえて、須陀オンがもっともむずかしい、
というのである。なぜならば、須陀オンというのは、もう聖者の領域に入っているのである。
凡夫が聖者になる、この第一段階の飛躍がむずかしいのである。凡夫と聖者は、
連続した線ではないのだ。大きな断層を一つ飛び越さねばならぬのだ。
それがむずかしいのである。凡夫というこちらの岸から、聖者という向こう側の
高い岸に、飛躍しなければならぬ、凡夫にとってはじめての経験である。
- 185 :Boo:2012/01/17(火)
00:50:48
- 準シュダオンさん、よかったね。準シュダオンさんの「預流向≠聖者」が準
シュダオンさんの勝手読み解釈ではなく桐山センセイの考えであることを
みんなで証明してくれましたよ。
- 186 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/17(火) 08:42:29
- >>185:Boo12/01/17(火) 00:50:48
>準シュダオンさん、よかったね。準シュダオンさんの「預流向≠聖者」が準
>シュダオンさんの勝手読み解釈ではなく桐山センセイの考えであることを
>みんなで証明してくれましたよ。
そこで結論は預流向≠聖者を提唱する桐山さんと準シュダオンさんが
仏教無知で、釈尊は預流向含む四双八輩を聖者と経典で認めたことと反する
ことになった。
結局2人とも聖者をある程度の完成された姿と捉えてしまった。
しかし私は信者時代預流と聞いて思い浮かべたイメージは、大河の一滴です。
すなわち、究極の聖者である阿羅漢を大海とみなすと、そこに至るまでの川の流れを
さします。だから大河となる前の上流源流の一滴から連続しているのです。
桐山さんの場合はできあがった聖者がふんぞり返って行進することとしてしまった。
ガンジス川の大河となって初めてインド洋の阿羅漢に向かう聖なる流れとなると
川にランク付け差別をした。
しかし流れというのは常に源流一滴から始まるのです。
そう言うとそれは預流のことであり、流れに預かったものとしてわかるが、
預流向という表記表現は預流に向かう、まだ預流に達していないと見たのでしょう。
しかし同じことでシュダオンと言えどまだ三結しか断っていない未熟者だから
努力をしないと阿羅漢に向かえないことには変わりない。
流れに預かるなんて言っても自動エスカレーターではないのだ。
ならばまずは一結から断とうと決意して努力実践を始めた時から聖なる道は
始まっている。
それを証明するのが釈尊の説いた四双八輩という2組からなる4つの聖者です。
桐山さんと言えど、これを示されて預流向だけが例外なんですかと質問されれば
言葉に窮するか、本当の聖者ではないが、ここでは聖者としたのであるとか
苦しくごまかすしかない。
当初四双八輩の考えを知らなかったのでしょう。気付かなかったのでしょう。
それで経典にもない青いオーラのともるオカルトシュダオンを創作した。
信者にはそう簡単に認定できないようにして。
準シュダオンさんと
桐山さんの違いはこの四双八輩の解釈です。
このアビダルマならぬ阿含経を示されてもまだ預流向≠聖者と臆面もなく主張し、
桐山さんの言ってもいない内道凡夫なんて説いて、桐山さんの足を引っ張る。
ゆえにまだまだ自分勝手教なんです。
- 187 :Boo:2012/01/17(火)
10:00:47
- >>186
>当初四双八輩の考えを知らなかったのでしょう。気付かなかったのでしょう。
それで経典にもない青いオーラのともるオカルトシュダオンを創作した。
信者にはそう簡単に認定できないようにして。
準シュダオンさんと
桐山さんの違いはこの四双八輩の解釈です。
このアビダルマならぬ阿含経を示されてもまだ預流向≠聖者と臆面もなく主張し、
桐山さんの言ってもいない内道凡夫なんて説いて、桐山さんの足を引っ張る。
ゆえにまだまだ自分勝手教なんです。
いやいや、なかなか鋭い考察恐れ入ります。
桐山センセイは私の知る限り「四双八輩」について、詳しく解説したのを聞いたことはない。
多分避けていたのでしょう、ユビキタスさんの言うように。それを「愛弟子」「内弟子」「愛人」
ならばいざ知らず、一会員ごときが勝手解釈の自分教で「預流向≠聖者と臆面
もなく主張し、桐山さんの言ってもいない内道凡夫なんて説いて」いる。
まあ、この辺は議論し尽くされた内容で、それ(預流向≠聖者だろうが「四双八輩」
だろうが)自体はどうでもいいことっチャ―どうでもいいことにしか思いませんが、
こだわる人にとっちゃ、厳密にしなきゃならないことなんでしょう。
私にとってはユビキタスさんの次に引用する解釈こそが重要なように思う。
>結局2人とも聖者をある程度の完成された姿と捉えてしまった。
しかし私は信者時代預流と聞いて思い浮かべたイメージは、大河の一滴です。
すなわち、究極の聖者である阿羅漢を大海とみなすと、そこに至るまでの川の流れを
さします。だから大河となる前の上流源流の一滴から連続しているのです。
桐山さんの場合はできあがった聖者がふんぞり返って行進することとしてしまった。
ガンジス川の大河となって初めてインド洋の阿羅漢に向かう聖なる流れとなると
川にランク付け差別をした。
この考えは私も違う側面から感じました。なんの経典かは忘れましたが、東に東に
向かう木が倒れるときには東に倒れる。そのように、たとえ預流未満で死んだ時も、
心配することはないんだ。と解説したホウワがありました。あの時ライブでホウワ
聴いていましたが、あの解釈を聞いたときには、ユビキタスさんの記述のような
感覚を持った覚えがあります。ポイントは死の間際、釈尊の教えを忘れて臨終に
至ったときに、自分は仏界に至るのかという問いに対する前段の釈尊の答えです。
ゲイカは預流以上の聖者になれば仏界に至るのだが、それ以前の場合はどうか、と
限定して、それでも釈尊の言うように東に倒れます、と解説していました。
それを聞いて、預流果未満でも死ぬときは結局聖者側に倒れると思った記憶があります。
私の記憶が正しければ、預流向でも預流果でも結果は同じとは言えまいか?
- 188 :Boo:2012/01/17(火)
10:07:24
- 桐山センセイの本音解釈は、預流というのはなかなかなれるもんじゃない。
だから解脱供養や冥徳供養や護摩木を買って金のつづく限り精進せよ。
というものであり、しかし、阿含経を解説するとついぽろっと、普通に解釈できる
前のレスで述べたようなことを言ってしまう。そんな感じじゃないでしょうか。
- 189 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/17(火) 11:36:53
ユビさん、ご意見ありがとうございました。
私も、桐山さんがあえて預流こそ一番難しいという話しを記憶しています。
そうは言いながら預流を目指す君たちアゴン宗諸君は聖行の集団です、
みたいな言い回しをしていました。
>>188のBooさんの感想も元信者としては一致するところではないかと思います。
桐山さんは常にあいまいで、いつでも言い訳を出来るような表現です。
学説を記述しておいてちゃっかり自説を盛り込み、いかにも前述した学説が、
根拠だと言わんばかりの文章接続をしてくる。
ただこの度の(中巻)では、三結を断じたものを(預流)と認定した上で、
「須陀?になった人は聖者で、須陀?になっていない人は凡夫です。」と、
今回は明解に断言したので、これはそろそろ桐山説の確定と考えてもよい頃と考え、
提案したしだいです。
他の「斯陀含」「阿那含」の桐山考察は、別の議論と考えておりますので、
「四向四果の体系」がなくとも桐山さんの(預流)への考察は今回を基点としても、
充分ではないかと判断しました。
- 190 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/17(火) 12:06:22
さて、その桐山説の第二段である阿那含に関するアナゴン=有余涅槃界です。
これは三供養品には、省略された「自須陀?至阿那含。断五下分結。」がある、
と桐山さんは考えて増一阿含経の火滅品を根拠に三供養品の涅槃界を阿那含まで
拡大した理由を述べています。
阿含経講義(中)巻 131頁
要するに、『三供養品』で説いている涅槃界とは、無余涅槃界(阿羅漢)の
ことではなく、有余涅槃界(阿那含)のことであり、同経では「自須陀?至
阿那含。断五下分結。」という意味であることを略しているわけです。ー後略ー
同著 130頁
此に二法涅槃界有り。如何が二となすや。有余涅槃界と無余涅槃界なり。
彼如何が名けて有余涅槃界と為すや。是において比丘、五下分結を滅して
即ち般涅槃して此の世に還来せず。これを名けて有余涅槃界となすなり。
彼如何が名けて無余涅槃界となすや。是の如く比丘、有漏を尽くし、無漏を成じ、
意解脱智慧解脱、自身に作証して自ら遊戯し、生死已に尽き、梵行已に立ち、
所作已に弁じて更に有を受けず、実の如く是を知る。是を無余涅槃界を為すと言うなり。
桐山さんの有余涅槃界部分の意訳は次の通りです。
- 191 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/17(火) 12:07:52
- 同著 130頁
(仏道修行者が五下分結を滅ぼして般涅槃を得て、この世にはもう戻らなくなる。
これを有余涅槃界と名づけます。ー後略ー)
これでどうして、アナゴン=有余涅槃界となるのかといえば、桐山さんの拙速は、
五下分結滅(阿那含)ー→般涅槃ー→不還(阿那含)という図式で述べています。
そうでなければ、単に意訳だけでは阿那含は有余涅槃界と読んではいません。
しかし、仏教の基本である、
ー岩波仏教辞典ー
(不還果)はその第三果で、原始仏教では五下分結(下位の世界に結びつける五つの煩悩)を
断じた者が得るくらいであったが,倶舎論では −後略−
【有余涅槃】これに対して,すべての煩悩を断ち切ってはいてもなお身体のけがれを残している
場合を〈有余涅槃〉または〈有余衣涅槃〉という.
を前提にこの火滅品を読めば、五下分結を滅して「般涅槃」したのだから、
此の比丘は(不還)からさらに煩悩を全て滅した者(身体のけがれを残している)と考えるべき、
と解釈しております。
(不還)がすべての煩悩を断ち切っている者ではありません。
しかしユビキタスさんは、このお経の解釈にはいまだ熟考すべきという姿勢ですので、
私も素人ながら再考してみたのですが、後に残る結論は「増一阿含経火滅品」は、
阿那含を有余涅槃と説いたお経と判断するしかない二者択一の類いではないでしょうか?
桐山さんの三供養品は省略されたものとは、さすがに根拠はありませんが、
さて、ご意見をいただければありがたいです。
- 192 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/17(火) 12:12:44
追記
此の比丘は(不還)からさらに煩悩を全て滅した者(身体のけがれを残している阿羅漢)と
考えるべき、と解釈しております。
増壹阿含經火滅品第十六
聞如是。一時佛在舍衞國祇樹給孤獨園。爾時世尊告諸比丘。
有此二法涅槃界。云何爲二。有餘涅槃界。無餘涅槃界。
彼云何名爲有餘涅槃界。於是比丘滅五下分結。即彼般涅槃。
不還來此世。是謂名爲有餘涅槃界。
彼云何名爲無餘涅槃界。如是比丘。盡有漏成無漏。意解脱智慧解脱。
自身作證而自遊戲。生死已盡梵行已立。更不受有如實知之。
是謂爲無餘涅槃界。此二涅槃界。當求方便至無餘涅槃界。
如是諸比丘當作是學。爾時諸比丘聞佛所説。歡喜奉行
- 193 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/17(火) 12:31:36
- 日本一延長の長い河川に信濃川がありますね。367qでしたか。
あれ信濃川という名称はほとんど新潟県内だけで長野県に遡ると名前を変えます。
支流の犀川(上流は梓川で北アルプスの槍・穂高連峰を源流とする)を分けて
千曲川となります。
千曲川の源流は長野・山梨・埼玉の県界にある奥秩父の甲武信岳です。
千曲川と名乗る区間の方が信濃川と名乗る区間よりも長い。
しかし信濃川の延長を計る時はあくまでも甲武信岳の源流からになります。
源流を無視して河川などないからです。
ガンジスの大河だって源流域のパンジャブ地方とか聖域になっているのではないか。
甲武信岳西面に降った雨は地下伏流の時期を含めて日本海に向かうのです。
仏道修行者も出家して修行実践を始めたからには、阿羅漢目指して努力している。
彼らの全てが聖なる修行者で布施をするに相応しい福田です。
準シュダオンさんの理屈だと新米僧が托鉢に来ても、シュダオンになってない
者に布施しても何も功徳がないことになる。
顔か頭にでもシュダオンマークでも貼っておいてもらわねば。
- 194 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/17(火) 12:47:52
- >>191:ラシン ◆xvojmuQ90o12/01/17(火) 12:07:52
>しかしユビキタスさんは、このお経の解釈にはいまだ熟考すべきという姿勢ですので、
>私も素人ながら再考してみたのですが、後に残る結論は「増一阿含経火滅品」は、
>阿那含を有余涅槃と説いたお経と判断するしかない二者択一の類いではないでしょうか?
>桐山さんの三供養品は省略されたものとは、さすがに根拠はありませんが、
>さて、ご意見をいただければありがたいです。
この件については晩にでも論じようかと思いました。
火滅品を挿入の根拠とする話は今回が初めてではありません。
末世成仏本尊経講義に出ています。
昨夜はそれを探していて、たまたまシュダオンになるのが一番難しいの文も発見したのです。
桐山さんも火滅品の一部を引用しています。
引用箇所、範囲は今回の中巻とも異なります。
それには有余涅槃界とか無余涅槃界とかの部分を引用からはずしています。
桐山さんもまた有余依涅槃は阿那含までと示したことはない。
その辺が関わっているのかもしれない。
今回平河出版の編集員が桐山説を辿って自ら國訳一切経から引用したとすると
引用してはいけないところから引用してしまったかもしれない。
これを根拠とするからには、有余依涅槃の定義も変えねばならないからです。
で、その末世成仏本尊経講義の本はかさばるので持参していない。
帰宅してからでないと引用できない。
- 195 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/17(火) 13:06:33
- >>189:ラシン ◆xvojmuQ90o12/01/17(火) 11:36:53
>そうは言いながら預流を目指す君たちアゴン宗諸君は聖行の集団です、
>みたいな言い回しをしていました。
そう、この話があるからややこしいのですよ。
星まつりが近いですよね。
現地で半纏を羽織って寒空の中、修行と題して営業手伝いをする。
この姿を健気なアゴンの聖衆とテロップを入れる。
三福道の聖衆とはアゴン宗信者皆をさす。
シュダオン果を得た者以上とは限定しないのです。
桐山さんもその場その場で使い分ける。
アゴン宗が言うところのアゴンの聖衆という用語の使い方こそが、釈尊が言う
四双八輩皆聖者という考え方と一致します。
ところが桐山さんはブルーのオーラのオカルト難解シュダオンを作り
奴隷たちにそう簡単には到達できない目標とした。
- 196 :Boo:2012/01/17(火)
13:22:03
- >三福道の聖衆とはアゴン宗信者皆をさす。
>シュダオン果を得た者以上とは限定しないのです。
>桐山さんもその場その場で使い分ける。
>アゴン宗が言うところのアゴンの聖衆という用語の使い方こそが、釈尊が言う
>四双八輩皆聖者という考え方と一致します。
>ところが桐山さんはブルーのオーラのオカルト難解シュダオンを作り
>奴隷たちにそう簡単には到達できない目標とした。
準シュダオンさんはユビキタスさんの↑の記述をよく読んで、その内容について
深く深く味わってよく熟考してください。誰にでも理解できる平易な言葉で書かれた
記述です。ただ、あなたの「我見」を排して読むだけで理解できます。
- 197 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/17(火) 13:49:32
- >194 :ユビキタス ◆18iA.mwnDU:2012/01/17(火) 12:47:52
>この件については晩にでも論じようかと思いました。
火滅品を挿入の根拠とする話は今回が初めてではありません。
末世成仏本尊経講義に出ています。
時間が有りますので、「末世成仏本尊経講義」のユビさんが指摘引用する部分を
先に掲示しておきます。
私も何度かこの著書を引用しておりましたので、それは知っておりますが、
口語訳した火滅品を全文引用掲載したのは、今回の(中)巻からと判断しました。
桐山さんは、224頁では阿那含を霊界は余分ですが、一応は学説に倣って
解説しております。
しかし258頁では、略された三供養品について逆のことを言い始めています。
ただしこの著書の引用はユビさんの言われるように、少しもの足りなかった。
だが今回の(中)巻ではこの著書などの焼き直しながら強い意志で断言しています。
桐山さんにしては珍しい、多分、批判掲示板などを意識した職員さんの配慮なのか、
こちらとしては知る由もありませんが、この著書の引用だけでは批判考察には私は、
不充分ではないかと考えておりました。
今回の(中)巻を考察する上では、まさにトピックスと判断し提案した次第です。
- 198 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/17(火) 13:51:04
末世成仏本尊経講義 抜粋
224頁
『||l五の下分結を断じ、阿那含を成ずることを得て復還りて此に生ぜざるなり』
と釈尊がおっしゃったのは、成仏法によって、この五下分結を断ち切ると、『阿那含』
という境界になるのである。
そして『復還りて此に生ぜざるなり』で、もうこの欲界、裟婆世界には還って来ない。
もう再生しないのである。だから、阿那含のことを「不還」という。還という宇は、かえる、
ということで、不還だから、もう還らない。還らないでどこへ行ったのかというと、
最上階の霊界へ行ってしまう。
258頁
(前略ーそこで、こういう場合、他の阿含経ではどうなっているかと調べてみると、
他の阿含経では、略さずに記していることがわかった。たとえば、おなじ守増一阿含経・
壱入道258品』では、『::亦、須陀痘・斯陀含・阿那含の三乗の道を成じ:::」とあり、
三宝品では、『現法の中に於て漏尽きて阿那含を得ん』とあり、
火滅品では、『:::ここにおいて比丘、五下分結を滅して即ち彼に般浬繋して云々』
つまり、この三供養品は、ここのところを略しているわけである。そういう経は他にもある。
そこで、意を通ずるために、この略している部分を、これらの経からとって
「自須陀至阿那含断五下分結」と入れたのである。
これによって、誤解を招くことを避けたわけである)。
- 199 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/17(火) 14:42:00
次に桐山さんは同著で、
「これは、ひょっとしたら、後世の、ごく初期の大乗経典がまぎれこんだのではなかろ
うかと考えたのである。」 として、
「そう思って、何百ベん、何千べんも、この経典に目を凝らした。このお経を信じたい
一心で、一心ふらんに目を凝らしたのである。」
などと大げさに真剣そのものを売りにして、「下根の成仏法」と「上根の成仏法」を
作り上げた。
深山さん指摘の異陰=霊魂ー→不成仏霊の詳細にあるように、仙尼経に「異陰」はなく、
第一義空経にある異陰は来世の五蘊でしかない(これは以前私が深山さんユビさんに
質疑し理解したことです)のに、未だに異陰があるかのように(中)巻で偽装している。
もちろん桐山さんは、この第一義空経を根拠としておりません。
こうなると、アゴン宗の根本教義の崩壊がこの(中)巻で結論づけられるのではないか、
と考えることができます。
火滅品意訳の後に桐山さんは、
(中)巻 131頁3行〜4行目
「これまで講義を受けてきた諸君はすぐにわかるでしょうが、有余涅槃界とは五下分結を
滅ぼしてこの世に二度と戻らない境地ですから、これは阿那含を指すわけです。」
と「アナゴン=有余涅槃界」説を確定しております。
これは仏教上ありえいない話しに終始していると言わざるを得ません。
あと、三宝品の『現法の中に於て漏尽きて阿那含を得ん』については見つかりません。
- 200 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/17(火) 17:19:25
ここで少し批判の指摘をまとめてみたいと思います。
異義がある場合はご教授を願いたいと思いますのでよろしく。
桐山さんはこの度の阿含経講義(中)巻にて、まさにアゴン宗教義の
根幹を揺るがしている。
弁解のような理屈が、逆に身から出たサビによって侵食崩壊が進んだ。
三供養品では、三福道を命名したと言い、オリジナルと認めてしまった。
学説三善根の意味では誤解するとの理由で桐山オリジナル三福道に変えた。
またあろうことか、桐山さんは過去の自説の三善根=三福道を修正?撤回して、
三供養品三善根には、二種類の意味があるという準シュダオン説を盗用した。
ウソにこってりと白粉のような上薬を塗りつけたのです。
これは大爆笑ネタで、その根拠は無く自前のオリジナルです。
次に明解に、アナゴン=有余涅槃界とまで謳いあげた。
火滅品解釈に関しては、ユビキタスさんの見解を待ちたいと思います。
また、仙尼経には異陰が記述されていないことを認めながらも異陰=霊魂説は、
根拠なく提言し続けている。
それが「堕胎経」は、霊障のホトケや不成仏霊という言葉はないが、
罪を償いきれない中有界を説いたという記述表現です。
この桐山解釈をこれから少し考えてみたい。
「縁斯罪故。墮地獄中。已百千歳。受無量苦。以餘罪故。今得此身。續受斯苦。」
私はこの堕胎経の表現は「中有」では無く、未だ地獄「界」を表現していると考えます。
どこにも「中有」などを表していず、唯一「以餘罪故」のみです。
それはまた口語訳を引用して考えてみたいと思います。
- 201 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/17(火) 23:06:10
- >>197:ラシン ◆xvojmuQ90o12/01/17(火) 13:49:32
>時間が有りますので、「末世成仏本尊経講義」のユビさんが指摘引用する部分を
>先に掲示しておきます。
ありがとうございます。助かります。
帰宅したらまず引用から始めねばならぬことを考えると憂鬱でもありましたので。
また既に引用がされてあれば帰宅を待たずに帰路の道すがら書くこともできます。
引用を必要としたのは、この旧著「末世成仏本尊経講義」の引用の中には
無余涅槃界と有余涅槃界という重要なキーワードが書かれて
いないことを
示したかったわけです。一方今回の中巻にはそれがきちんと書かれているので
三供養品に対して勝手に他の経典から挿入などしてよいものかの論議は
置いておいて、何らか釈明したいのであれば、ここの部分は欠かせないと思います。
二つの涅槃界があるとしたわけですからね。
>>200:ラシン ◆xvojmuQ90o12/01/17(火) 17:19:25
>次に明解に、アナゴン=有余涅槃界とまで謳いあげた。
>火滅品解釈に関しては、ユビキタスさんの見解を待ちたいと思います。
これは正直わからないのです。
ラシンさんの推測解釈を超えるものは私にはできません。
私としては経典というものは素直に字面通り読んで解釈してしまいたいのです。
だがそれだと五下分結を滅して不還果を得たのが有余涅槃界のように読めてしまう。
ラシンさんが疑問に思っているように、これはおかしな話で、煩悩が全てなくなったが肉体だけが残っているのを有余依涅槃、
煩悩がなくなり肉体もなくなった(要するに命が尽きて死んだ)後の悟りが
無余依涅槃というのが、どこを調べても共通する学説であり、桐山さんもまた
これを示していた。
アナゴンまでが有余依涅槃なんて定義は聞いたことがない。
これをどう解釈するか?
やはりラシンさんのように般涅槃につなげて発展性、連続性を持たせて読み解く
ことがベストなんだろうかと考えてしまう。般涅槃とは完全な涅槃のことのようだし。
完全な涅槃となれば阿羅漢しかなく阿那含止まりのはずがない。
とにかくどうもすっきり訳せなくて困っています。
となると、道は二つしかないと思うのだ。
一つはラシンさんが示した般涅槃(阿羅漢)の有余涅槃界、もう一つは阿那含までの
有余涅槃界。
このどちらかであるとして二つの選択肢掲げて考察するしかない。
- 202 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/17(火) 23:28:01
- >>200:ラシン ◆xvojmuQ90o12/01/17(火) 17:19:25
>次に明解に、アナゴン=有余涅槃界とまで謳いあげた。
>火滅品解釈に関しては、ユビキタスさんの見解を待ちたいと思います。
さて二つの見解が示されました。
アナゴンまでの有余涅槃界、アラハンまでの有余涅槃界。
この二つで考えていくしかないのだが、その前に中巻の結論は全くおかしいです。
三供養品に挿入して補うべき涅槃界とは(アナゴンである)有余涅槃界と限定
しており、これの根拠理由がない。
なぜ無余涅槃界の方ではなく有余涅槃界でなければならないのか?
涅槃界としては無余涅槃界>有余涅槃界ですよね。どちらの意味でも。
肉体があるかないかの違いだったら、肉体の束縛、汚れも離れた涅槃の方が高い。
アナゴンまでの涅槃界だったらアラハンまでの涅槃界の方が高い。
然るに三供養品には涅槃界としかない。
桐山さんはかつて涅槃ではなく涅槃界と表現されているのが味噌で、完全な涅槃
ならば涅槃だけでよいが、まだ完璧ではないアナゴンまでだから涅槃「界」と
界をわざわざ付けるのだと説明していた。
ところが今回わかった火滅品の表現はどちらも涅槃界ではないか?
桐山さんの説明していた界があるかないかなんて弁明は嘘だったのですね。
共に涅槃界ならばどうして高い方を選ばない?
わざわざ敢えて低い方を選ぶ?
ラシン説のように有余依涅槃はアナゴン止まりではないのだとしたら
桐山説は完全に崩壊します。肉体が残るか失うかだけの違いであるので
いずれを選んでもアナゴン止まりなんてことはありません。
- 203 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/17(火) 23:53:03
- >>197:ラシン ◆xvojmuQ90o12/01/17(火) 13:49:32
>時間が有りますので、「末世成仏本尊経講義」のユビさんが指摘引用する部分を
>先に掲示しておきます。
これは決めつけではなく、あくまでも私の推察とお断りしておきますが、
今回の中巻の火滅品の和訳引用は旧著末世成仏で桐山さんが出典を明らかにした
のだから、それを頼りに平河出版の職員が自分たちで國訳一切経を調べて引用した
と私は見ています。
その際、桐山さんの書いた旧著と引用箇所、範囲が異なるのは、平河の誠意だと
思います。この誠意とは読者に理解してもらいたいという努力です。
ほらね、火滅品では二つの涅槃界を示しているよ。じゃあ三供養品の涅槃界って
有余と無余のどっちなんだろう?という導入ですね。
肝心の結論が「だからどうして唐突に有余なんだよっ?!」ってなお粗末はさておき
導入にはそれなりに成功している。
ところが桐山さんは旧著でこの肝心なウヨムヨの箇所を引用せずウヤムヤにした。
どうしてか?
有余と無余の違いは肉体の有無だけという学説常識を桐山さんも示しており、
桐山さん自身、私が訳に困ったように、こなしきれてなかったのではないか?
だからあからさまに有余無余の二種を書いてしまうのを恐れたとは考え過ぎか?
つまり敢えて見えないように隠したのではないか?
準シュダオンさんがよくやる卑怯な引用方法です。
その桐山さんのうまくごまかしてしまいたい気持ちを知らずに、平河出版は
サービス精神をよいことに桐山さんの足を引っ張ったのではないかとも考えています。
- 204 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/18(水) 08:25:30
- >>202:ユビキタス ◆18iA.mwnDU12/01/17(火) 23:28:01
>三供養品に挿入して補うべき涅槃界とは(アナゴンである)有余涅槃界と限定
>しており、これの根拠理由がない。
>なぜ無余涅槃界の方ではなく有余涅槃界でなければならないのか?
>>203:ユビキタス ◆18iA.mwnDU12/01/17(火) 23:53:03
>肝心の結論が「だからどうして唐突に有余なんだよっ?!」ってなお粗末はさておき
失礼、アナゴン有余涅槃界を限定して選ぶ理由が明記してありましたね。
三善根(三福道)で涅槃まで行けてしまうならば、上巻に示した応説経で
七科三十七道品を修行しないと漏尽解脱を得られないと説いていることと
相反する、矛盾するからと言うのです。
だから阿羅漢まで行く涅槃界は七科三十七道品でなくては駄目で、三善根(三福道)
の方はアナゴンまでの涅槃界としたのです。
笑っちゃいますね。
(三福道)なんてするから訳がわからなくなるのですよ。
三善根と三十七道品を別とみなすからこんなことになるのです。
仏教の修行は三十七道品しかないと思っている。
三十七道品なんて仏教の修行を表す表現分類の一つに過ぎない。
他に戒定慧の三学でも煩悩を止息する道でも何でもよいのです。
三善根もまた然り。
つまり三善根も三十七道品も同じなんです。
だからこそ、桐山さんが二つあるとした三善根は無貪善根・無瞋善根・無痴善根
の方でなければならないのです。
三つの福を得る道なんてのは桐山さんの命名創作なんだから、三善根には
無貪瞋痴の一つの意味しかない。
無貪・無瞋・無痴の三善根ならば、貪瞋痴の煩悩をなくす漏尽解脱そのものなんだから
これは同じものを違った角度から表現したものとわかる。
応説経と矛盾しないばかりか同じことを説いている。
だから三善根を修行すると、有余と無余の涅槃界の意味がどちらであろうとも
どちらの涅槃界にも行け、有余止まり、アナゴン止まりなんてきまりはないのです。
だから三善根はいよいよもって無貪無瞋無痴しかなく、それでなければならぬ。
- 205 :準シュダオン:2012/01/18(水)
09:55:34
- >準シュダオンさんはユビキタスさんの↑の記述をよく読んで、その内容について
>深く深く味わってよく熟考してください。誰にでも理解できる平易な言葉で書かれた
>記述です。ただ、あなたの「我見」を排して読むだけで理解できます。
じゃあさw、ユビさんみたいな信者も含めて、管長はアゴンの聖衆と言うの
かい?あほらしい。言葉のアヤ、ろくでなしの弟子も含めて聖衆と呼んでる
わけでね、ホントはろくでなしの弟子などは聖衆ではないのよ。
そんなのいちいち区別して説いてたら、くどくて仕方ないだろう。
四双八輩も同じこと。その中には後に還俗して釈迦の悪口を言う弟子も沢山
いたわけよ。そういうのは聖衆に入らないのは、サルでも理解できるだろう。
- 206 :天照
◆MO30b8Jwoo:2012/01/18(水) 11:54:11
- ・・・・しかし、どこまで水掛け論を欲するのかね。
阿含宗は釈尊の教法を講じて無いから「聖衆」に値しないというのがわからないんだね。
また、管長も自分の教団は正しいという嘘をついているから、平気で「聖衆」だと主張
するでしょう。釈尊の正しい教法を見ようともしないのですから外道はどっちか、です。
サルでも理解できるのが出来てないのは阿含宗の信者側のほうですよ。
- 207 :名無しさん:2012/01/18(水)
12:00:37
- つまり三善根も三十七道品も同じなんです。
>だからこそ、桐山さんが二つあるとした三善根は無貪善根・無瞋善根・無痴善根
の方でなければならないのです。
三つの福を得る道なんてのは桐山さんの命名創作なんだから、三善根には
>無貪瞋痴の一つの意味しかない。
何度もレスしたけど、そうではないのよ。ユビさんには、ろくな友人もいない
のかえ?漢文読める国語教師とかさ、そういう友人はいないのかえ?
教師なら、シュダオンや涅槃界の意味は解らなくても、善根とは功徳の種をうえる
ことだと教えてくれると思うよ。
無貪無瞋無痴の三善根はね、十善の中の三つでしょ。十善戒の中の三つなのよ。
つまり、三善根は戒行なんです。戒行だけでは涅槃界へは至れません。
戒→定→慧、というように進んでいかねば、涅槃界へは至れません。
だから、三善根→法向善趣 三三昧→法向涅槃 という経もあるのです
- 208 :深山:2012/01/18(水)
12:32:39
- ・火滅品にある片方の涅槃界のみを採用するのはおかしい
火滅品にはあるのは、涅槃界に2種類あると述べているだけです。
それらは有余依涅槃と無余依涅槃です。
今、有余依涅槃の議論を抜きにして、桐山説に従うなら、
涅槃界=有余依涅槃界(阿那含)
涅槃界=無余依涅槃界(阿羅漢)
これが火滅品で示した内容です。
二つを示しているのです。
それなのに、どうして桐山さんはその内の一つだけを採用するのでしょう。
おかしいですよね。
阿那含と阿羅漢が涅槃界だという。
なのに、どうして桐山さんは阿那含だけを採用するのでしょうか。
三供養品には阿那含なんて一言も出てこないし、有余依涅槃も出てこない。
火滅品の涅槃界を根拠にするなら、三供養品の涅槃界とは
阿羅漢と阿那含の涅槃界であるとすべきです。
火滅品には二つあると書いてあるのだから、両方を採用するべきです。
なのに、阿羅漢の涅槃界を無視して、自分に都合のいいように、
阿那含のほうの涅槃界だけを採用した。
そればかりか、三善根を阿那含までの修行法だなどと書いている。
火滅品が根拠なら、阿羅漢と阿那含までの修行法ということになる。
阿羅漢を採用したら、桐山さんの在家用の修行法だという説が成り立たなくなるからです。
よくまあ、こんなご都合な内容を、桐山さんはともかく、
平河出版の人たちが採用したものだとあきれる。
- 209 :深山:2012/01/18(水)
12:34:43
- ・三善根とは阿羅漢の境涯そのもの
ユビキタスさんが指摘しているように、
三供養品の涅槃界が阿那含を含めるはずがないのです。
なぜなら、三善根だからです。
三善根とは無貪・無瞋・無癡ですから、煩悩をすべて消滅した状態です。
阿那含はまだ五上分結という煩悩が残っている。
こういう存在を三善根を成就したとは言いません。
三善根によって得られる涅槃界が、煩悩の残っている阿那含であるはずがない。
阿那含など含まれないことは、経典の次の文言でわかります。
「此の三善根は窮尽す可からず、涅槃界に至ることを得と謂うなり」
「此の窮尽す可からずの福を獲べし」
三善根も、それによって得られる福も究極のものであり、
それ以上はないと言っているのです。
阿那含は究極の境涯ではありません。
究極とは阿羅漢以外にない。
三善根で得られる境涯は阿羅漢です。
- 210 :深山:2012/01/18(水)
12:38:11
- ・涅槃と涅槃界は別物という桐山説はおかしい
桐山さんは涅槃界と涅槃とは違うかのような書き方をしている。
まったく無意味で、根拠のない主張です。
「涅槃・・・迷いの火を吹き消した状態。ニルヴァーナ」
「涅槃界・・ニルヴァーナの境地。完全な解脱の境地」
(『佛教語大辞典』中村元、1076頁)
ごらんのように、涅槃界とは涅槃の境地という意味であって、解脱そのものです。
涅槃と涅槃界で意味が違うなどありえない。
完全な解脱の境地とは阿羅漢です。
ここまでが桐山さんの涅槃界についての反論であり、
ごらんのように、議論に値しないほどのゴマカシです。
三善根は阿那含まで行く修行法だとか、三供養品が阿那含まで
行くための在家に説かれた経典だなどという説は成り立ちません。
三供養品は、三善根によって阿羅漢という涅槃界に至ると説いた普通の経典です。
- 211 :深山:2012/01/18(水)
12:41:18
- 次に、有余依涅槃についての議論です。
火滅品の有余依涅槃が阿那含を指すのかどうか、という議論があります。
繰り返しますが、阿那含を指すものであってもなくても、
桐山説の根拠にはなりません。
結論から言うと、内容が煩雑なのと、これが桐山説の根拠にならないのだから、
議論はしないほうがいいと思います。
その理由を示すためにも途中まで吟味してみます。
「是に於て比丘、五下分結を滅して即ち彼(かしこ)に般涅槃して此の世に還来せず。
是れを名付けて有余涅槃界となすなり。」
(『國訳一切経 阿含部8』116(100)頁)
これが問題となっている火滅品の文章です。
文章からだけ見ると、「有余依涅槃=阿那含」と読めます。
ところが、『國訳一切経』のこの経典の有余依涅槃についての
注釈は次のようにあります。
- 212 :深山:2012/01/18(水)
12:43:18
- 「有余涅槃界とは、依身(肉体)ある涅槃の義にして、
即ち煩悩を断盡して涅槃を得るも、未だに五蘊仮和合の肉体存し、
五官によるて快不快を感ずるもの、無余涅槃の未来のものなに対して、
現在に於いて到達する涅槃をいふ。」
(『國訳一切経 阿含部8』116(100)頁)
これは「有余依涅槃=生きている阿羅漢」という普通の説です。
学者は火滅品の有余依涅槃とは阿羅漢だと解説しているのです。
つまり、ラシンさんの主張は学者の多くが認めていることです。
2ちゃんねるで、ラシンさんの主張に皮肉めいた書き込みをしている人がいたが、
こういう学者の解釈を知らないのでしょう。
また、有余依涅槃について学者の解説や、他の阿含経でも、
火滅品のような「有余依涅槃=阿那含」と読める書き方をしているのは、
私の知る限り皆無です。
- 213 :深山:2012/01/18(水)
12:46:39
- 「後世になると、生存の根源をなお残しているニルヴァーナ(これは現世で得られる)と、
生存の根元を絶滅しつくしたニルヴァーナ(これは死後に得られる)という
二種類のニルヴァーナを想定するようになるが、最初期の仏教においては、このような区別はまだ立てられていなかった。」
(『仏教思想8 解脱』39頁、中村元)
ごらんのように、有余依も無余依もアビダルマ仏教の作品で、
釈尊は直接的にはあずかり知らぬことです。
こういう学者の説明から見て、明瞭に釈尊が有余依と無余依を説明しているように
見える火滅品はいったい何なのかということになります。
この経典の所在は増一阿含経で、これは一番後になって成立した経典だと言われています。
つまり、アビダルマ仏教の解釈の影響をもっとも強く受けた経典です。
たとえば、三十七道品という分類はアビダルマが作り上げたものだが、
そのほとんどが増一阿含経に出てきます。
- 214 :深山:2012/01/18(水)
12:50:13
- 「部派仏教になると、涅槃には有余・無余の二種あるとされ・・・(中略)。
この考えは外教の影響を受けたもので、仏教本来のものということはできない。」
(仏教要語の基礎知識、水野弘元、28頁)
ただし、有余依や無余依はアビダルマが何もない所から作り出したではなく、
当然、その元は阿含経にあります。
その典型的な決まり文句が下記です。
「・・かれには二つの果報のうちの一つの果報が期待される。
すなわち、現世にいるままで全知を[得る]ことが[期待され]、あるいは
有余依であれば不還者の境地が[期待される]。」
(『原始仏典4』春秋社、152頁)
二つの果報とは、阿羅漢と阿那含のことで、ここで有余依という言葉が出てきます。
しかし、よく注意してほしいのは、「有余依涅槃=阿那含」とは言っていない点です。
「有余依であれば」と言っているのであって「有余依涅槃であれば」とは言っていません。
「肉体をもっているのであれば阿那含となることが期待される」と言っているだけで、
阿那含を有余依涅槃だとは書いていません。
これは中阿含経にある文章で、他の経典でもよく使われます。
つまり、こういう定例句が元になり、後のアビダルマの人たちが
火滅品などで、「有余依であれば」を「有余依涅槃であれば」と
解釈してしまった可能性です。
いずれにしろ、火滅品の有余依涅槃は例外です。
桐山さんは『末世成仏本尊経講義』で他に二つの経典を引用していますが、
それらは準シュダオンさんと同じで部分を引用して、いかにも
自説に合うかのように書いているだけで、有余依涅槃=阿那含という
説や、涅槃界に阿那含を含めるという説の根拠になりません。
- 215 :深山:2012/01/18(水)
12:59:35
- 阿那含には五種不還を含めて合計6種類の阿那含がいます。
分類はともかく、彼らは亡くなった瞬間や、天界に生まれ変わってからなど、
解脱して阿羅漢になります。
彼らの解脱のあり方について名前が付いています。
それらは、中般涅槃、生般涅槃、無行般涅槃・・・などです。
着目してほしいのは、すべてに涅槃がついている点です。
もちろん、彼らは亡くなってから涅槃を得るのです。
しかし、亡くなって確実に涅槃を得ることから、
阿那含を「肉体を持っているが涅槃に確実に至る存在」という意味で、
「有余依ではあるが、涅槃に至る存在」であり、
これを略して、有余依涅槃としてしまった可能性です。
このように、有余依涅槃とは何かという議論は奥が深く、泥沼化する恐れがあり、
何よりも、仮に火滅品の有余依涅槃が阿那含を指すものであっても、
「桐山説の論拠にはならない」という結論が出ているのですから、
この点ついての議論はほどほどにしたほうが良いと思います。
- 216 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/18(水) 13:22:29
- >>205:準シュダオン12/01/18(水) 09:55:34
>じゃあさw、ユビさんみたいな信者も含めて、管長はアゴンの聖衆と言うの
>かい?あほらしい。言葉のアヤ、ろくでなしの弟子も含めて聖衆と呼んでる
>わけでね、ホントはろくでなしの弟子などは聖衆ではないのよ。
そうです。桐山さんはろくでなし信者含めて聖衆なんて言いません。
つまり準シュダオンさん、あなたは必ずはずれます。
アゴン宗聖衆とは桐山さんの指導に従い実践努力をしているかいないかに関わります。
サボリ信者がいたならそんな例外まで聖衆とは認めません。
何度も書いたことだが、桐山さんは信者を3種類に分けます。
一つは会費だけは納めている人で、ろくに参拝もしない。
これを会員と呼んでいる。
次に毎日の勤行はちゃんと行い、例祭にも参拝での出席は欠かさない。
しかし奉仕や布教などの実践ボン行はしない。
これを信者と呼んでいる。
それから勤行や例祭参拝などは当たり前過ぎる話で、それだけでなく
道場に通って奉仕ボン行を習慣とし、布教にも励む信者がいる。
これを弟子とした。
会員、信徒、弟子の3ランクを付けたわけです。
そこで大切なことは桐山さんはこの会員や信徒でも宜しいとは言っていない。
諸君は全員弟子になれと説いている。
つまり聖衆として認めるならば弟子だけです。
会員と信徒の間を行ったり来たりしてる準シュダオンははずれてしまうわけです。
- 217 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/18(水) 14:00:59
ユビさん、ご意見ありがとうございます。
見方の範囲が広がり、納得から確信に至る思いです。
>ラシンさんの推測解釈を超えるものは私にはできません。
私としては経典というものは素直に字面通り読んで解釈してしまいたいのです。
批判側は常に経典を「素直に字面通り」読むことを旨としていますからね。
ユビさんが引っ掛かるのは理解できます。
ここは学者の翻訳や解説が無いので、私の「一考」として留めるようにいたします。
>ところが桐山さんは旧著でこの肝心なウヨムヨの箇所を引用せずウヤムヤにした。
桐山解説はいたるところが「有余無余→ウヤムヤ」に、笑いながら賛同します。
となれば、編集職員も大変な作業をして尚、師匠を庇いきれていなかった分けですね。
>失礼、アナゴン有余涅槃界を限定して選ぶ理由が明記してありましたね。
>これは同じものを違った角度から表現したものとわかる。
応説経と矛盾しないばかりか同じことを説いている。
そうです、私もその部分を拾い出しして2chには掲示しましたが、
桐山さんのその根拠とする理由があまりにも身勝手で公平性を欠くものです。
205 233
:Rashin ◆xvojmuQ90o :2012/01/13(金) 12:50:55.14
ID:FqZ/Nu/1
<その理由は、応説経にある難しい7科37道品を修業しない易しい修業では余りにも
おかしいと熟考し、得た結論が三供養品は下根の成仏法、応説経は上根の成仏法と
種別することで納得が可能としています。129頁〜131頁
>
<三供養品は三善根(煩悩滅)を三宝のもとで修業することにより福(涅槃)を得る。
応説経は八正道(煩悩滅)を修業しないと解脱(福を得る)が出来ないと説かれている。
説法の表現や切り込みの違いだけで、どちらも内容は煩悩を全て滅して涅槃を得よです。>
- 218 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/18(水) 14:21:12
- >>208-215
深山さんの解説はまこと理に適ったものと受け止め、批判諸学の参考とします。
また、
>「ごらんのように、有余依も無余依もアビダルマ仏教の作品で、
釈尊は直接的にはあずかり知らぬことです。」
とは、目からウロコです、雑阿含経、増一阿含経の四経以外の殆どがそうです。
>「つまり、アビダルマ仏教の解釈の影響をもっとも強く受けた経典です。」
やはりそうかとの思いが確定にかわる指摘です。
>しかし、よく注意してほしいのは、「有余依涅槃=阿那含」とは言っていない点です。
「有余依であれば」と言っているのであって「有余依涅槃であれば」とは言っていません。
>「肉体をもっているのであれば阿那含となることが期待される」と言っているだけで
>つまり、こういう定例句が元になり、後のアビダルマの人たちが
火滅品などで、「有余依であれば」を「有余依涅槃であれば」と
解釈してしまった可能性です。
そう解釈すれば桐山さんの三供養品阿那含界説や火滅品の根拠など成り立たない、
ということですね。
>阿那含を「肉体を持っているが涅槃に確実に至る存在」という意味で、
「有余依ではあるが、涅槃に至る存在」であり、
必要にと感じて引用掲示した辞典での説明が、深山さんのこの指摘を裏付けています。
不還
ふげん[s,p:anagamin]音写して(阿那含あなごん)とも.
もはや人間界にもどることなく,天界以上の階位に上って悟りに至る者の意.
(岩波仏教辞典)
いずれにしても桐山さんは、根拠と成り難い経典を混成してアナゴン=有余涅槃界と、
釈尊すら種別していないウヤムヤ(有余無余アビダルマ説)で、珍説を断言したようです。
火滅品についてはユビさんにも前述したように「私し考」の一つに留め置き、
お終いにいたします。
- 219 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/18(水) 15:14:34
- >205 :準シュダオン:2012/01/18(水) 09:55:34
>四双八輩も同じこと。その中には後に還俗して釈迦の悪口を言う弟子も沢山
いたわけよ。そういうのは聖衆に入らないのは、サルでも理解できるだろう。
そう述べる時は何か根拠を示してください、サルじゃないのでしょうから。
例えば提婆達多に関しても、戒律の厳格性を求めて教団を分った以外の史実はない、
と看做されています。
>207
:名無しさん:2012/01/18(水) 12:00:37
>無貪無瞋無痴の三善根はね、十善の中の三つでしょ。十善戒の中の三つなのよ。
準シュダオンさんと見てレスしますが、
これは初耳です、十善は阿含経にあるが、十善戒など大乗的な解釈と考え方です。
三善根は修業であって戒行ではありません。
この十善が読み数えられますか?
若刹利種中有不殺者。有不盜不婬不妄語不兩舌不惡口不綺語
不慳貪不嫉妬不邪見。婆羅門種居士首陀羅種。亦皆如是同修十善。
(長阿含經卷第六 小縁經第一
抜粋)
ー仏教語大辞典ー
【三善根】さんぜんごん 無貪善根・無瞋善根・無癡善根の三根。
一切の善法がこの三つから生まれるからである。
それらは具体的には施・慈・慧となって現われる。三毒の対。
ー岩波仏教辞典ー
善根〈善本〉〈徳本〉とも漢訳される.善根は,善を樹木の根に
たとえたもの.すなわち根が花や果実をつけるもとであるのと同様に,
善はよい果報をもたらすもとであることからの造語.また無貪・無瞋・
無癡の三つを〈三善根〉という.
- 220 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/18(水) 16:35:03
桐山さんの霊障のホトケの根拠の一つが、
この堕胎経の抜粋部分です。
阿含経講義(中)巻254頁
「縁斯罪故。墮地獄中。已百千歳。受無量苦。以餘罪故。今得此身。續受斯苦。」
「その罪に縁るが故に地獄の中に堕ちて已に百千歳の無量の苦を受け、
余罪を以っての故に今此の身を得るも続いて斯の苦を受くるなり。」
阿含経講義(中)巻261頁
「”不成仏霊”とか”霊障のホトケ”という言葉は、たしかに「阿含経」には
ありません。けれども「堕胎経」でマハーモッガラーナのご覧になったものは、
どう見ても”霊障のホトケ”ではりませんか。水子をつくった罪業によって
地獄に墜ちたけれども、まだ罪がつぐないきれないために中有界に生じて、
町中を漂白している存在。これを”霊障のホトケ”と呼ばなかったら、
いったいなんと表現するのでしょうか。
- 221 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/18(水) 16:38:12
しかし「以餘罪故」と同様に「餘罪未盡猶復不死」などの表現経文が、
長阿含経の地獄品などに多数散見しています。
そこで抜粋すれば、「其彼獄中受罪衆生。自然生身猶如段肉。故名無雲。」や
更には「苦痛辛酸萬毒並至。餘罪未畢故使不死。是故名爲無間地獄。」など等。
桐山さん同様に「餘罪未盡猶復不死」を意訳すれば、
「余罪が未だ尽きていないのでなお復た死なない」のですから、
それは何度も地獄において罪過の報いを受けていた様子が、
宿明通を持つ大目連には見えただけある、と推察できます。
桐山さんは、それを中有界の存在と認めて霊障のホトケだと述べていますが、
釈尊はそのような死後の世界を説き明かしていません。
師の無記答について、弟子の大目連が死後の世界や霊魂を語るわけが無い。
これは桐山さんが、牽合し主意となした理屈と推考できるもので、
堕胎経が霊障のホトケの根拠とはならない、と考えるものです。
- 222 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/18(水) 17:58:23
訂正
誤:宿明通を持つ大目連には見えただけある、と推察できます。
正:天眼通を持つ大目連には見えただけある、と推察できます。
- 223 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/18(水) 18:02:03
- >>207:名無しさん(名前を入れ忘れた準シュダオンさん)12/01/18(水) 12:00:37
>無貪無瞋無痴の三善根はね、十善の中の三つでしょ。十善戒の中の三つなのよ。
>つまり、三善根は戒行なんです。戒行だけでは涅槃界へは至れません。
>戒→定→慧、というように進んでいかねば、涅槃界へは至れません。
それ(三善根は戒行に過ぎない)こそあなたの我見ですよ。
あなたは単に無貪、無瞋、無痴という文字を見て、「貪らないようしよー」
とか「瞋らないようにしよー」とかの戒めの心構えとしか見ていない。
それって根拠のない話です。
無貪とは貪りが無くなった状態であり、そのような状態になる為に貪りをなくしていく
ことです。
もちろんそれには戒律は重要なポジションを持ちます。戒めも心構えも絶対に必要です。
しかしどうして戒めの心掛け止まりにする必要があるのか?
貪りを減らしなくす為に戒→定→慧と進む、瞋恚を減らしなくすために戒→定→慧と進む、
痴かさを克服するために戒→定→慧と進むという発想はないのか?
仏教の目的とは貪瞋痴に代表される煩悩をなくすことなんだから、三善根と言ったら
仏教そのものと言ってよい。
あなたは仏教とは戒めに掛け声だけの心構えしかないと侮辱したようなものです。
- 224 :名無しさん:2012/01/18(水)
18:20:44
- >会員、信徒、弟子の3ランクを付けたわけです。
>そこで大切なことは桐山さんはこの会員や信徒でも宜しいとは言っていない。
>諸君は全員弟子になれと説いている。
つまり聖衆として認めるならば弟子だけです。
>会員と信徒の間を行ったり来たりしてる準シュダオンははずれてしまうわけです。
そういうランク付けに惑わされてはいけません。私は、会員・信徒かも知れないが、
ちゃんと聖なるバイブレーションが起こったし、3・11には霊示もあった。
少しも不満はありません。何も起こらない弟子よりは、功徳を受けた会員の方が、
マシだというものです。
ですから、怠けを自覚している現役信者さん方にも、大いに希望があります。
信者を継続していれば、いつか芽がでるでしょう、但し、我見を断つ努力だけは、
忘れてはいけませんね。「仏陀の真実の教えを説く」本のP306に、
「我見があると、本当の教えが頭に入りません」と書いてあるでしょう。
ユビさん方は、信徒時代に我見を断つ修行を疎かにしましたね。だから管長の教
えを我流に解釈したのです。今も我流に解釈して、変な批判を続けています。
- 225 :準シュダオン:2012/01/18(水)
18:49:08
- >それって根拠のない話です。
>無貪とは貪りが無くなった状態であり、そのような状態になる為に貪りをなくしていく
>ことです。
それこそが、↑勉強不足の我見論です。岩波仏教辞典で、「十善」を引いて勉強して
ください、長いから引用しませんが、受十善戒経などの説明があって、ちゃんと無貪が
入っているでしょう。
三衆経の三善根の場合も、戒の仲間にされています。
戒行だけではダメで、戒を修めつつ→禅定、さらに慧、というように進んでいかないと
いけないのです。
無貪とは貪りがなくなった状態、ではありません。そういう考え方をしているから、
ユビさんは修行が進まなかったのです。無貪・無瞋を達成できたら、阿那含という
大聖者でしょう。先ず、我見を断つ修行から始めないと、無貪・無瞋は何時までも
達成できないのです。貪瞋痴の三毒は、我見から生起するとは、前にもレスしたで
しょう。
ユビさんこそ、私のレスを読んでいないでレスしてるみたいだね。
それとも、読んだ先から忘れてる、とか。先ほどのレス、名前を入れるの忘れて失礼。
- 226 :準シュダオン:2012/01/18(水)
18:55:13
- >無貪とは貪りがなくなった状態、ではありません。
これ↑は、誤解される表現をしてしまった。
勿論、無貪とは貪りが無くなった状態をいうのですが、無貪は修行法ではない、
ということを言いたかったわけです。
- 227 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/18(水) 19:17:32
- >>224:名無しさん12/01/18(水) 18:20:44
>そういうランク付けに惑わされてはいけません。私は、会員・信徒かも知れないが、
惑わされる?つまり桐山指導に対する否定と愚弄ですね。
わかりました。表現は自由です。好きなようにしなさい。
公共の掲示板におけるアゴン宗現役信者としての立場でそのような発言をした
あなたにアゴン宗としてどのような責任を負うから私は関与しません。
私に関係ない話だ。
尚桐山指導というのは桐山さんが決めるものであってあなたが決めることではない。
あなたが桐山指導に従わないのは勝手だが、桐山指導そのものを変えることは
あなたにはできません。
>信者を継続していれば、いつか芽がでるでしょう、但し、我見を断つ努力だけは、
>忘れてはいけませんね。
桐山さんは果報は寝て待てとは指導していない。
練って待てと自己努力の行動を促しています。
我見を断つ努力だけでは駄目で、徳を積む必要がありますね。
徳がないから尊い成仏法も実践できないと説く。
桐山さん自ら滝を打たれながら御霊示を受けたように「徳は自ら積むものだ!」
力のように授けられるのではなく、自分が身体を動かして奉仕努力をして積むものです。
いや、徳を積むなんて言い方は傲慢で謙虚さがないとしている。
積み上げてどんなもんだいと誇る為でなく、悪因縁、不徳の借金を背負った人が
返済していく道として説いています。
まあ私はこういう桐山指導を書いているうちにちゃんちゃらおかしくなってきます。
桐山指導を否定するあなたとは今後気が合いそうだ。
一緒に桐山指導の否定、批判でもしますか?(笑)
>「仏陀の真実の教えを説く」本のP306に、
>「我見があると、本当の教えが頭に入りません」と書いてあるでしょう。
アドバイスまでに書いておきますが、あなたが仏陀の真実の教えを説く(中)を
まだ買ってなくても、今後買う見込みがなくても構いませんが、巷には上巻と中巻の
二つが存在するのだから、そのどちらであるのか明記するのが常識ですよ。
上巻は最初から上巻と銘して発売されているのだから。
- 228 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/18(水) 19:44:38
- >>225:準シュダオン12/01/18(水) 18:49:08
>それこそが、↑勉強不足の我見論です。岩波仏教辞典で、「十善」を引いて勉強して
>ください、長いから引用しませんが、受十善戒経などの説明があって、ちゃんと無貪が
>入っているでしょう。
戒律を説いた経典に無貪が入っているなんて当たり前です。
仏教の修行で戒律の占めるウエイトはかなり高いのだから。
戒律なくして無貪は実現しません。
あなたの間違いは戒律の経典にも出ていたから、この無貪とは戒律だけの意味しか
ないと勘違いをしていることです。
>三衆経の三善根の場合も、戒の仲間にされています。
これまた戒の仲間に無貪瞋痴が入っていて何の不思議もなく当然なんだが
戒律だけの役割しか持たないというのは間違いです。
ともあれ何か経典を出すのなら引用は必須ですね。
引用したくなかったら経典の名前も出さない方がよい。その資格がない。
>戒行だけではダメで、戒を修めつつ→禅定、さらに慧、というように進んでいかないと
>いけないのです。
>>226:準シュダオン12/01/18(水) 18:55:13
>勿論、無貪とは貪りが無くなった状態をいうのですが、無貪は修行法ではない、
>ということを言いたかったわけです。
言っていることが矛盾してますね。
たしかに無貪はアゴン宗でいうところの修行技術論ではない。
呼吸を長く吐いて、腰の角度は、目の角度は、なんて話ではない。
三善根とは要するに教えです。実践すべき教えです。
どう実践するかは方便究竟するしかない。
ところがあなたが書いた戒行という分類自体、目的を実現する為の方便なんですよ。
- 229 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/18(水) 22:01:47
- >>221:ラシン ◆xvojmuQ90o12/01/18(水) 16:38:12
>堕胎経が霊障のホトケの根拠とはならない、と考えるものです。
堕胎経を考えるにあたって、これを最初に読んだのは私が再入行する前に
「間脳思考」を買って読んだ時に既に瞬時にして気付いたことですが、
アゴン宗が常日頃行っている水子供養、水子解脱供養の根拠にすらなっていないことです。
すなわち水子の霊障など、どっっっっこにも説いていない。
なんとなく霊みたいに見える存在は示してますね。肉段。
でもこれって堕胎されて怨念を発している水子の霊ではない。
堕胎した加害者である親がその悪業ゆえに地獄に堕ちて尚も余罪にてああいう姿で
苦しんでいるのだという。
これに対して釈尊はそれを普段説きもしないで救うことも説かぬのだが
とにかくこれは不成仏霊みたいなものと表現できなくもない。
でもそれって霊障にはなりませんよね。
アゴン宗の霊障とは子孫縁者、地域社会、国土人類にまで祟って悪影響を及ぼす
存在ですよね。ところがこの肉段は人知れずだだ自分独りで苦しんでいるだけで、
どこにも祟っていない。
そして釈尊も目連も悪業の報いを受けているのだと承知しただけで救おうとすら
せず放置している。
ゆえに霊障などはこれっぽっちも説いていない。
いや、そういう話以前に水子自体がどこにも出てこない。
堕胎というのは命を殺害する地獄に堕ちるに値する悪業なんだから、してはならない
という話です。堕胎すると殺された被害者である水子が怨念を発して、あなたの
お子さんが粗暴になる原因になるからとか全然説いていない。
あくまでも加害者の親の悪業が消せない話です。
だからこれはアゴン宗の水子供養の否定に相当します。
いくら堕胎した本人のお母さんや関わった旦那や間男を施主にしようとも
悪業は消えずに地獄に堕ちることを説いた。
被害者の水子の怨念を鎮めれば不幸から逃れられるなんてトンチンカンな供養
などしても、為した悪業は消えないからです。
- 230 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/18(水) 23:30:58
- >>221:ラシン ◆xvojmuQ90o12/01/18(水) 16:38:12
>堕胎経が霊障のホトケの根拠とはならない、と考えるものです。
さて今回の中巻ではこの件について水子解脱供養をしただけでは駄目だとしています。
水子供養をして水子そのもののご供養はすみ、霊障は解けても、その父親や母親が
なしたところの罪障は消えてないのです。
(中略)
だからこそ水子の供養とは別に、罪障を消滅させる滅罪生善の行をしなければ
ならないわけです。
「水子の供養をやればそれでいい」というのは間違いです。罪障を消滅させないかぎり、
水子は浮かばれても、罪障を犯した親たちは"霊障のホトケ"になります。
これは新しい一つの問題提起だと私は思います。
(266頁)
で、結局その解消をボン行に求めています。
同時に過去の罪障は梵行によってなくしていきます。だからこそ梵行を課している
わけです。梵行とは徳を積む修行です。滅罪生善の行です。罪障を換言すれば不徳です。
その不徳を徳によって消すわけです。
(中略)
ご宝塔の前で聖典勤行をするだけでは、充分な修行とはいえません。
聖典勤行と梵行、この二つがそろってこそ修行は進むのです。この二つは車の両輪です。
どちらも欠けてはなりません。その理由は『堕胎経』を読めば一目瞭然です。
(269〜270頁)
う〜ん、これはやはり準シュダオンさんは中巻は買わない方がよい。
我見もよいが梵行をしなければならないことを説いているからです。
過去(過去世含む)の罪障を梵行によって切らないと因縁が切れないと示しています。
やはりこんな霊障がどうのなんて駄本なんか買っても目の毒だから
学者の書いた現代語訳阿含経典を読んでいる方が為になりますよね。
お気持ちはわかります。
- 231 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/19(木) 00:30:41
- >同時に過去の罪障は梵行によってなくしていきます。だからこそ梵行を課している
>わけです。梵行とは徳を積む修行です。滅罪生善の行です。罪障を換言すれば不徳です。
>その不徳を徳によって消すわけです。
この考えは仏教では通用しません。
悪業を為したからには報いは受けねばなりません。回避することはできません。
善行を為せば来世に良い果報を受けます。しかしだからと言って罪障が帳消し相殺
とはならないのです。
良い果報も悪い果報もそれぞれ別に受けるわけです。
自分が為した行いの結果なんだから、これは誰も恨めません。
甘んじて受けるしかないのだが、これに対して釈尊はくよくよと思い悩むなです。
善業の果報も悪業の報いも来世になって実を結びます。
わかりもしない前世の悪業の報いなんかにビクビクしても仕方がない。
それよりも今この現在の人生を正しく生きることに努めるべきです。
そんなこと言っても地獄に堕ちて肉段になるなんていやだよ〜という気持ちは
わからんでもない。
でもだからと言って地獄から逃れる方法をお教えしましょうなんて無責任な
話は持ちかけてはなりません。
ところでアゴン宗は単に善業をもって悪業を相殺するという考えですらありません。
梵行をせよなんです。
ここで言う梵行とは仏教本来の性欲を断じる禁欲ではなく、あくまでもアゴン宗で
いうところの教団への奉仕実践です。
被災地に行ってボランティア活動をすることを梵行とは言いません。
あくまでも教団奉仕ボン行でなければならないのです。
シャカを世に出すとシャカは喜び、因縁を切るのに必要な徳を授けてくれるのだと言う。
こんなご機嫌とりでどうして堕胎の罪が消える?
アゴン宗の信者は他の堕胎経験者よりも悪業積んでますよ。
まず水子供養なんてピントはずれなことをする。
それも水子が悪い影響を与えているからこれを除去するなんて、堕胎するだけでなく
不当な濡れ衣を赤ちゃんに与えている。
それから特定教団に奉仕するだけで罪障が消えるなんて信じるそのあさましさ。
ましてやこの教団に奉仕するとは、間違った歪められたシャカを世に広める
悪業に加担してるのだから、ますます罪障を強めています。
人間として本当に清らかさを持つようにしようという方向に改善されておらず
かえって汚れてしまっているのです。
- 232 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/19(木) 08:49:39
- >>221:ラシン ◆xvojmuQ90o12/01/18(水) 16:38:12
>堕胎経が霊障のホトケの根拠とはならない、と考えるものです。
仏教では霊障なんてものは説かれません。
説かれるのは地獄のみです。
どうして地獄に堕ちるかと言うと生前に為した悪業の報い、罪障によるものです。
これって世間においても常識通念になっています。
ところがアゴン宗の場合は違います。
自分の罪障とは関係なく殺されるなどの被害に遭った人が死に際の苦しみの念が
タンハーとなって残り中有に迷うというものです。
そして子孫に祟る。
堕胎経にある肉段は地獄の余罪であって霊障ではない。
桐山さんの世界において地獄と霊障は同じなのか別なのか定かでない。
死ぬと斉の広場に行くとよい。そこは恐ろしいところなんで逃げ出す亡者もいると言う。
斉の広場で三途の川を飛び越そうとして越せずに落ちて地獄行きとなる。
越さずにこちらの岸で悶々としてると、定期的に川があふれて岸にいる亡者を
地獄に引き込んでしまう。
で、子孫縁者に祟るというのはいつどこで祟っているのか?地獄に堕ちたら
地獄の底から祟っているのか?
来世に生じたら来世で人間しながら祟ってるのか?
冥徳供養などは五代以上も前の先祖が怨念を発して祟っている。
その間ずっと輪廻しないでいるのか?
この中巻の堕胎経で桐山さんはタンハーによる霊障だけでなく罪障によるものが
あることが問題提起されたとした。
今更ながら世間一般にも通念として広がる地獄の概念を知らないのか?
桐山霊障なるものがあり、仏教ではその霊魂の救済を説くのならば当然そのような
経典根拠があるはずですよね。
しかしそんなものはない。
辛うじて見つけだした堕胎経は桐山霊障ではなく地獄の延長でした。
その地獄に対して救いの手も差し伸べずに冷ややかに傍観しただけです。
- 233 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/19(木) 14:23:47
桐山さんは根拠にならないものを付会して、いかにも釈尊が説いた如く
偽装する手法を、今回の新著にも多様していることが分かります。
これは桐山さんが過去から為して来た手法ですが、
学説や経典を再読すれば、その偽装された真実が見えて来ます。
釈尊が六道以外の死後の世界に対して無記答であったことを
基本に据えれば、桐山さんの作り物の全貌がよく見えます。
今回の阿含経講義(中)巻にしぼってその矛盾を考えれば、
堕胎経など、ユビさんの指摘通り水子を悪る者にした創作であり、
桐山教団に、布施とボン行を名目として金とタダ働きを望んでいるに
過ぎないと理解できます。
桐山さんが「堕胎経」としているお経は「屠牛者経」から続いたもので、
桐山さん本人もそれを、省略部分を乃至として分かりにくいから併記した、
などと書いております。
それは「好戦経」にとどまらず、国訳一切経の「大目ノ連相應第二品」には、
いくつもの同様の地獄の余罪で苦を受ける場面が語られています。
- 234 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/19(木) 14:24:45
桐山さんは本当にこの国訳一切経の「大目ノ連相應第二品」を読破したのか、
大いに疑問とするところです。
例えば「卜占経」には、占い師の身分で多くの人を誤り惑わせ財を成した者が、
その報いで地獄に落ち余罪のために苦しむ姿もあります。
この喩えなど桐山さんに当てはめて、自己の戒めとなすべき内容です。
しかし、桐山さんは「堕胎経」や「好戦経」の例えを持ち出して、
信者などには脅すが、この「卜占経」は見事にスルーしています。
また「他婬経」の好んで淫らな行為をして地獄の余罪を受ける様子は、
桐山さんには無関心ごとでよいのか、と問いたい気持ちもある。
- 235 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/19(木) 14:25:22
要は桐山さんの乃至と省略されたと言う部分は、大目連が乞食の最中に、
これらの様々な衆生の様子を見たと語っている部分です。
天眼通の通力とは中有界を見通すものではない。
桐山さんの弁によれば、王舎城の街の中にはこういう霊障のホトケが
ウヨウヨさ迷っていたことになります。
過去世の罪過によって苦しんでいるのはその者本人だけで、
釈尊にも見えても町中の人や誰かに害を及ぼすなんて説かれてはいない。
桐山さんのお化けや霊障話しとは、苦しんでいる状況ではなく、
他者に祟る存在として作られているハズです。
ホウワでは、冬の部屋で大きな氷の塊があるような影響だと話していた。
衆生が皮をはがれ苦しむさまは、まさに地獄などの阿鼻叫喚の世界です。
中有界でお化けが苦しんで、他者に影響を及ぼしているとは読めません。
その意味でも桐山さんがこの(中)巻で取り上げた「堕胎経」は、
霊障のホトケの根拠には成り得ません。
- 236 :準シュダオン:2012/01/19(木)
15:21:31
- >桐山さんは果報は寝て待てとは指導していない。
練って待てと自己努力の行動を促しています。
>我見を断つ努力だけでは駄目で、徳を積む必要がありますね。
ほんとに、呆れるほどの↑理解不足だね。想像力貧困脳。
あのね、我見を断つ努力には徳を積む行も含まれているのよ。解ったかい?無理か。
だからね、貪・瞋・痴の煩悩を断つ修行にも、徳を積む行が必須なんですね。
だから、三供養品の三善根もね、無貪瞋痴を実現するためには、徳を積む行も必須
なわけです。だから、「功徳の種をうえよ」になってるわけで、徳を積む行も合わせて
行わねばいけないのです。
と、いうわけで、三供養品の三善根を無貪瞋痴としたのでは、涅槃界へは至れません。
- 237 :準シュダオン:2012/01/19(木)
15:35:39
- >まあ私はこういう桐山指導を書いているうちにちゃんちゃらおかしくなってきます。
桐山指導を否定するあなたとは今後気が合いそうだ。
>一緒に桐山指導の否定、批判でもしますか?(笑)
ありゃ、私は管長指導を否定していませんよ。信者、信徒、弟子、のランク付けに
してもね、早く全員弟子に成りなさい、という親心で言ったのでしょう。
でもね、その後、「弟子受け入れ」という秘儀を行ったわけですから、ランク付け
も変るわけです。受け入れの秘儀を受けた信者は、怠けていても弟子なのです。
そういう理窟になるでしょう↑?
だから、過去の法話発言に何時までも縛られているユビさんは、進歩がないのです。
状況は変化しているのですから、己も変えないといけませんね。
- 238 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/19(木) 15:49:52
桐山さんは、この(中)巻「堕胎経」の頁で盛んに、
阿含経には霊障のホトケなどは説かれていないと中傷されたが、
この「堕胎経」にあるように「一大身の衆生の体を挙げて皮無く、
形肉段の如く、虚に乗じて行ける」存在なのだから、
現代人に分かりやすいように”不成仏霊””霊障のホトケ”と呼んでいる、
と桐山さんは短絡して述べている。262頁〜266頁
国訳一切経「堕胎経」を掲示しますから、読者諸兄も参考にしてください。
http://www.archive.org/stream/kokuyakuissaiky028800uoft#page/234/mode/2up
この品だけで、実に三二経ほどの小経が説かれています。
桐山さんは三十経あると書いていますが、区分けの違いはあってもどちらにしても、
その全ては過去世の罪過で地獄の余罪により苦を受ける衆生の姿だけです。
- 239 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/19(木) 15:51:28
「これまで解説したお経には、タンハーによって人は輪廻転生して、次の生を受ける。
と書かれていたはずです。解脱をしていない人は、みなタンハーがあり、
それによって輪廻転生するわけです。タンハーを分かりやすくいえば、
強い執念であり、強い執着です。死ぬ時に、強い執念、強い執着を持って死ぬと、
ほぼ間違いなく、”不成仏霊””霊障のホトケ”になります。ー後略ー」264頁〜265頁
桐山さんはこのように有りそうで実は無い仏教を騙って理屈をコネています。
tanha(タンハー)とは生命の根元的な欲望で、「渇愛」と訳されています。
この「渇愛」とは、岩波仏教辞典によれば”本能的強い欲望執着”ではあるが、
”初期仏教では輪廻的再生をもたらす根源”と解されています。
どこにも”強い執念・執着”を持ったままでの死が”不成仏霊”や
”霊障のホトケ”として中有界に生じるなどと解釈されていないのに、
桐山さんは、こういうウソを滑らせ盛り込んでいる。
- 240 :準シュダオン:2012/01/19(木)
15:52:56
- >で、子孫縁者に祟るというのはいつどこで祟っているのか?地獄に堕ちたら
>地獄の底から祟っているのか?
霊障になってから、悪趣にて祟っているのでしょう。
>来世に生じたら来世で人間しながら祟ってるのか?
そのとおりでしょう。
>冥徳供養などは五代以上も前の先祖が怨念を発して祟っている。
>その間ずっと輪廻しないでいるのか?
苦しくて輪廻できないでいるのでしょう。5代ですと、100年〜150年間
くらいですか?短い期間ですよ。キンさんギンさん、考えたらね。
- 241 :準シュダオン:2012/01/19(木)
16:06:20
- >桐山霊障なるものがあり、仏教ではその霊魂の救済を説くのならば当然そのような
>経典根拠があるはずですよね。
>しかしそんなものはない。
>辛うじて見つけだした堕胎経は桐山霊障ではなく地獄の延長でした。
いや、そうではなくて、経典解釈の違いでしょう。管長は肉段を霊障を発する
不成仏霊と解釈したのです。地獄の延長と考えたい人は、そうすればいいよ。
>その地獄に対して救いの手も差し伸べずに冷ややかに傍観しただけです。
それは、縁のない不成仏霊だったから傍観したんでしょう。縁のあるなしに関わらず
仏が救いの手をのばすのならば、皆寝ていて良い事になってしまう。
- 242 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/19(木) 18:01:16
このように桐山さんの根拠とは、学説や経典を出しても巧みに自説を
付会し偽装しています。
金太郎飴のように、どこを切っても同様にその手法がテンコ盛りされた
解説文のなかに露わに出てきます。
アゴン宗教義の根幹は、先祖のカルマによる因縁→異陰=霊魂→霊障のホトケ、
ー→自身の因縁を司るという筋書きです。
桐山さんと教団のためにそれらカルマからの解脱、因縁解脱には信者の
積徳(金とタダ働き)が必要で、それには三福道の実践すなわち解脱供養と
瞑徳供養で”霊障のホトケ”と”不成仏霊”を成仏させて信者の富貴を得るもの、
と約束している。
アゴン宗教団のニセ三宝において三福道を実践すればアナゴンの境涯まで可能だ、
とついたウソも、仏教で認知されていない有余涅槃界=アナゴン発言で自爆した。
しかも今回の桐山著(中)巻によれば、まずその仙尼経に異陰の根拠が無いと認めた。
異陰=霊魂の経典すら出せずに、その教義の根幹が崩壊した。
さらに実践すべき三福道も桐山オリジナルと認め、阿含経看板の意義を喪失させた。
”霊障のホトケ””不成仏霊”の根拠となるべき「堕胎経」にはどこにもその記述は無く、
あるのは、過去世の罪過で地獄の余罪により苦を受ける衆生の姿だけです。
桐山さんは阿含経を講義すると題して、自らの経典改ざん行為と解釈間違いを露呈した。
- 243 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/19(木) 20:47:03
- >>236:準シュダオン12/01/19(木) 15:21:31
>あのね、我見を断つ努力には徳を積む行も含まれているのよ。解ったかい?無理か。
>なわけです。だから、「功徳の種をうえよ」になってるわけで、徳を積む行も合わせて
>行わねばいけないのです。
私は我見(この場合、仏教用語として説くアートマンの身見でなく、仏教無知の
あなたに合わせて世間一般に言う独断偏見の意味の我見とします)を断つだけでは駄目で、
我見をなくすという認識を改める他に、「行動」としての奉仕実践が必要だと桐山教義を
説いたのですよ。
私は批判はさておき桐山さんの教えを説明しているのですが。
今は三善根だの総合的な修行の話をしているのではなく、我見を断つだけでなく
さらに梵行により徳を積む必要があると桐山説を説いたのです。
あなたも行と書いている通り、積徳の梵行とは思索して能書きを垂れているだけでは
何もしたことにならず、行動で示す実践です。つまり具体的な話です。
星まつりが近い。行動梵行実践の一例として、星まつり現地修行があります。
これがなぜ積徳梵行になるかと言うと、シャカを世に出す大聖業の縁の下の力持ちに
なって役立つからです。
いかに法力霊力無比の大導師桐山靖雄大僧正猊下がいたとて独りではこれだけの
護摩は焚けず、内陣に出仕する山伏だけでも開けず、会場整理やら交通整理などの
多くの人の力を必要とします。
この星まつりは世にアゴンの法を示し問うのです。
写真で示されてもわからん大きな炎に現形した仏の姿に感涙し、
「世の中には神も仏もいるんだね」という気持ちを起こしてもらう。
「よし、困ったことがあったら何でもおねだりしよう」なんて依存心はさておき
菩提心を起こさせる。「この世には神も仏もいるもんか!太く短く生きてやる」
なんて気持ちと反対の心を起こさせる。
そういう貴重なイベントを行う裏方を担うのです。
その為に寒空の下でも元気いっぱいで明るい笑顔を参拝客に示して接する。
「この坂いつまで続くんか?年寄りには辛いずら」と目の周り真っ青のオバケみたいな
おばちゃんが紫の袈裟つけて、信者同士じゃねえかと思いつつも「あともう少しですよ。
頑張って下さい」と笑顔で答える。
こういう教団の布教イベントに参拝ではなくお役を得て行動することが徳になるとは
私が言っているのではなく、桐山さんが言っているのだから、理屈はいいから
実践する。
- 244 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/19(木) 20:50:19
- >240 :準シュダオン:2012/01/19(木) 15:52:56
>霊障になってから、悪趣にて祟っているのでしょう。
この準シュダオンさんの文章を分かり易く意訳をすれば、
>「霊の障りお化けが、悪趣(地獄・餓鬼・畜生)から祟っている。」
、、、、、、??
桐山さんの中有界を、サボり信者が否定した瞬間です!
桐山さんのご指導は、霊障のホトケは地獄から中有界に途中下車して
「ヲマイらに悪さをするぞ!」と、懇切丁寧に脅迫指導しているのに、
ユビさんから詰められたら、なんと、このテイタラクです。
この老人の脳みそが、いかに崩壊の一途を辿っているかの証明です。
批判の指摘は、桐山根拠の崩壊なのに、準シュダオンさんが率先し崩壊した?
この老害者は、それすら自覚できない認知症を患っている。
>いや、そうではなくて、経典解釈の違いでしょう。管長は肉段を霊障を発する
不成仏霊と解釈したのです。
その根拠はもうすでに喪失したのだから、新珍説を出すしかない。
>それは、縁のない不成仏霊だったから傍観したんでしょう。縁のあるなしに関わらず
仏が救いの手をのばすのならば、皆寝ていて良い事になってしまう。
ならばすでに>>238に掲示した国訳一切経を確認して述べなさい。
↓
http://www.archive.org/stream/kokuyakuissaiky028800uoft#page/234/mode/2up
この品だけで、実に三二経ほどの小経が説かれています。
これら多くの地獄の余罪で苦しむ衆生を釈尊が、”縁無き不成仏霊”ですよと
傍観したなら、なぜ桐山さんが、霊障のホトケだの不成仏霊だのと一々に
その根拠にするのですか?
ボケた脳ミソじゃ、整合性を確証できないだろうがね。
- 245 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/19(木) 21:16:32
- >>236:準シュダオン12/01/19(木) 15:21:31
>なわけです。だから、「功徳の種をうえよ」になってるわけで、徳を積む行も合わせて
>行わねばいけないのです。
さて星まつり現地修行なんてのはほんの一例です。
実はこういう奉仕ボン行は普段から継続してやっていなければならない。
よく普段は例祭でも参拝しかせず、ボン行をしない奴が星まつりの時だけ
大して難しくも辛くもない一日なのだから修行参加し、山伏位階だけもらう人もいるが、
桐山さんはこのようなたまに思い出した時だけやるようなのを修行とはみなさず
レジャーに過ぎないと言います。
つまり普段からの積み重ねの継続努力があるからこそ、積徳行になるのだと
言いたいのです。
ささやかな奉仕であっても塵も積もれば山となるで、数がモノを言うのです。
しかし数を誇って人に自慢する話ではありませんよ。
そもそも積徳なんて偉そうな話ではない。滅罪生善の行です。
我々は過去世に罪障を為したるから現世の悪因縁がある。
この罪障を解消するには奉仕梵行しかないと言っているのです。
それがないと因縁が切れないと今回の中巻の堕胎経の解説で示している。
これは平河の創作ではなくかつての桐山法話ビデオによるものです。
だから我見を断つのも大切だが、奉仕梵行という行動実践が不可欠なわけです。
そこで今回初めてあなたに質問するが、他人に偉そうに説教する準シュダオンさんは
具体的にどのような行動実践の梵行をどの程度されてきて、今も継続した上で
アゴン宗の修行を語るのですか?
具体的に書いてください。
- 246 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/19(木) 22:25:54
- >>237:準シュダオン12/01/19(木) 15:35:39
>ありゃ、私は管長指導を否定していませんよ。信者、信徒、弟子、のランク付けに
>してもね、早く全員弟子に成りなさい、という親心で言ったのでしょう。
いいえ、あなたは桐山指導を完全に否定したことになります。
あなたの言うように桐山さんは早く弟子になりなさいと促している。
しかし親心とは「お〜、よちよち、悪い子ね。たまには言うことをきかないと
ママ許さないわよ」なんてヌルイ甘やかしではない。
本当に会員や信者レベルでは駄目と言っているのです。
だってそうではないか?ある宗教団体に信仰心を持って入信した。
しかし会費だけは払って何もしないなんてあるか?
護摩だけナモナモ参拝し、法話を聴いて一目散に帰るだけの信仰。
そちらの方が異常とは思わないか?
桐山さんは勤行の他に梵行が不可欠とか因縁解脱の指導をしているのです。
だから素直に指導に従いなさいと当たり前のことを示したのです。
別に難しいことを要求してません。
当たり前のことを当たり前に実践しなさい。その人が弟子ですとしたのです。
つまり不良でないのが弟子です。
指導に従いたくなくば因縁解脱も志さねばよいのです。
そしてあなたが自分では否定してないなどと言っても、否定したことになるのは
怠けていてもよいと示したからです。
怠けていても自分のようにご霊示があったとか勝手な思い込みを公共の掲示板にて
他の信者にも朗報として教示したのは桐山さんの指導の邪魔をしたのです。
否定しないのならばこう書く。
残念ながら私は未だ怠け癖が抜けず会員や信者の段階にとどまっていることは恥ずかしい。
でも私のような例外はさておき他の信者は頑張っていると擁護するはずです。
ところがあなたは自分の言い訳の為に桐山指導を公に否定したのです。
- 247 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/19(木) 22:46:30
- >>237:準シュダオン12/01/19(木) 15:35:39
>でもね、その後、「弟子受け入れ」という秘儀を行ったわけですから、ランク付け
>も変るわけです。受け入れの秘儀を受けた信者は、怠けていても弟子なのです。
>そういう理窟になるでしょう↑?
どう考えてもそんな理屈にはなりません。
受け入れの儀式に参加したから弟子の仲間入りをした、もう弟子だということに
なりません。
受け入れの儀式なんてグモンジスクールだかアシュラムアーガマだかに入会費を
払えば参加資格はあります。
たったそれだけの条件です。
つまり金で弟子が買えることになるが、さすがに桐山さんもそんなことで
弟子なんて認めない。
弟子となったからには弟子となっただけの態度というものが育つはずです。
才能素質はなくてもやる気は認められ、それが行動実践からも読み取れることです。
怠けているのが弟子のはずがない。
受け入れの儀式を受けることによってグルから不思議な念力が注入され、
どうしたことかそれを契機に今まで面倒で怠けていたのが、なぜか梵行をすることに
抵抗もなく楽しく積極的に参加するように変身したのならば弟子になれたと言える。
しかしあなたは受け入れの儀式を受けても依然として怠けてますよね。
弟子になれてないのです。
こんなのを弟子と認めたら他の真面目な修行者が気の毒だ。
それにあなたが桐山指導を否定していないだの、受け入れの儀式が終われば
怠けていても弟子だと思うのならば、桐山さんの前でそれを言ってごらんなさい。
堂々と言って認めてもらいなさい。
できないでしょうが?
ならばここを見ている現役信者さんに申し上げます。
ネットの掲示板で準シュダオンと名乗る人がこういうことを書いているが、
正しいかと質問状を出してみてはどうでしょうか?
それは質問者が書いたことではないのだから。
- 248 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/19(木) 23:22:10
- >>240:準シュダオン12/01/19(木) 15:52:56
>>来世に生じたら来世で人間しながら祟ってるのか?
>そのとおりでしょう。
つまりアウシュビッツ収容所で処刑されたユダヤ人がその後アメリカなどに
続々生まれ変わったという報告が桐山本でも紹介されてますね。
しかしこの転生者は生まれ変わることでどうその怨念を晴らしたのですか?
普通にアメリカ人として平凡な暮らしをしただけで、何の反社会活動もしていないし
自ら地獄のような責め苦にも遭っていない。
しかし実は見えないところでヨーロッパ社会を暗くして壊滅に導くような念波を
寝ているうちにでも発していたと言いたいわけね。
あのね。桐山さんは霊障の不成仏霊とは輪廻すらできない存在としたのですよ。
成仏とはここではブッダに成る意味ではなく、死んで何らかの安息を得る世界に
一時的に行くこととしたのですが、安息の世界に行った後、また輪廻して再生するのが
普通ならば、それすらできないのが不成仏霊としたのです。
それが平凡な人間に輪廻できて・・・適当な思いつきを書くのはやめなさい。
- 249 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/20(金) 00:32:37
- >>241:準シュダオン12/01/19(木) 16:06:20
>いや、そうではなくて、経典解釈の違いでしょう。管長は肉段を霊障を発する
>不成仏霊と解釈したのです。地獄の延長と考えたい人は、そうすればいいよ。
私は肉段を不成仏霊みたいな物とまでは認めたのを読んでませんか?
繰り返すが、ブッダに成ることではなく、死んでなんらかの一時的な安息を得る
ことを仮に成仏と表現するのならば、堕胎の悪業により地獄に堕ちてその余罪で
なおも肉段が宙に浮いてハゲタカやオオカミなどが喰いつばむなんて普通の人には
見えないモノとなって苦しんでいるというならば、それは間違っても安息を得てない
から不成仏と言えますし、目に見えない霊みたいな存在とも言えます。
ただし、釈尊はそれを見ながらも、たまたまモッガラーナの質問があったから
答えたまでで、それがなかったら一生説くことのなかった話ですが。
だから不成仏霊みたいなものとまでは認めましたが、桐山さんが説くところの
霊障としての属性は備えてません。
桐山霊障としての属性とは障ること、祟ることです。
つまり子孫縁者に悪影響を与えることです。
ところがこの肉段さん、自らの悪業の報いで自分が苦しんでいるだけで
どこのどなた様も迷惑を被ってませんよねえ。
だからこそ釈尊も目連も受けるべく報いなんだから受けてなさいと突き放したわけです。
その肉段独りに関する話なんだから。
だから不成仏霊ではあっても霊障ではない。
それからこれを救わないのは救うに値しない縁のなき亡者だったとしているけど、
その理屈、霊障だったらおかしいですよ。
だって霊障のホトケが自分に祟っているんですよ。
この怨念により自分は不幸な運命を実現しようとしているのです。
だから霊障解脱とは先祖の為ではなく自分の為なんですよ。
自分の不幸な運命(因縁)を変える為にその霊障のホトケを成仏させることが
まず第一条件なんです。
ところがあなたのように、このホトケ救うに値せず、縁無き者よと突き放したら
どうなるか?
自分の不幸な運命も避けられない、自分も救われないことになりますよね。
「管長、解脱供養でお救いください!」
「いや、だめだ。こいつは縁無き奴で救うに値しないから救わない」
「すると私が受けた霊障はどうなりますか?私の悪因縁の運命はどうなりますか?」
「うん、君の霊障は解けないね。やがて死ぬ。10万円返すから諦めなさい」
- 250 :天照
◆MO30b8Jwoo:2012/01/20(金) 06:50:20
- そういえばまもなく京都での大焚き火大会の時期ですねえ。あの方はしっかりと勧進なさったのでしょうか?
またいつものとおりで「わしゃ無理しない主義だからのう」と修行を放棄(怠惰)しているのでしょうか。
- 251 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/20(金) 07:48:47
- >>241:準シュダオン12/01/19(木) 16:06:20
>地獄の延長と考えたい人は、そうすればいいよ。
地獄の延長と考えたい人とは釈尊です。
堕地獄中。已百千歳。受無量苦。以余罪故。
と原文にあります。
これは釈尊が大目連に説明した言葉です。
- 252 :準シュダオン:2012/01/20(金)
09:48:31
- >堕地獄中。已百千歳。受無量苦。以余罪故。
と原文にあります。
>これは釈尊が大目連に説明した言葉です。
ですから、それを管長は、霊障を発する不成仏霊だと解釈したわけでしょう。
釈尊が、霊障についての発現をしてるかどうかは知りませんが、特に否定して
いるとも思えませんね。
- 253 :準シュダオン:2012/01/20(金)
10:02:31
- >またいつものとおりで「わしゃ無理しない主義だからのう」と修行を放棄(怠惰)
>しているのでしょうか。
勧進だけが修行じゃないでしょう。無理しないのはそのとおりです。
けど、私なりの参加は致しますよ。何らかの功徳の種をうえるのが私の修行です。
阿含宗のイベントに、何らかの形で参加・支援することが、仏法僧に功徳の種を
うえることだと考えていますよ。それが在家の修行法、三供養品・三善根である
と、管長本に書いてあります。指導者を目指す人は、37道品に取り組みなさい、
とね。わたしゃ、指導者を目指さないんで、簡単な方で良いのです。
- 254 :準シュダオン:2012/01/20(金)
10:23:36
- >だから不成仏霊みたいなものとまでは認めましたが、桐山さんが説くところの
>霊障としての属性は備えてません。
>桐山霊障としての属性とは障ること、祟ることです。
ですから、釈尊は、肉段の祟りがあるとも、ないとも言っていないですよね。
管長は、祟りがある、と説くだけでしょう。
モッガラーナが見た肉段にしても、その親族や縁者には祟っていたのかも
知れない。しかし、肉段の親族は遠方に住んでいるので、わざわざそこに訪ねて
行って、「もしもし、あなたの縁者が肉段になっていて苦しみ、その結果、
不本意ながら、あなたに祟っている形なので、解脱供養しなさい」などと、
お世話はしないだけの話でしょう。
釈尊は、そういうこと↑より、縁起の法や37道品を説くことを優先し、
それに専念したのだと思いますね。
- 255 :準シュダオン:2012/01/20(金)
10:37:30
- >しかしこの転生者は生まれ変わることでどうその怨念を晴らしたのですか?
普通にアメリカ人として平凡な暮らしをしただけで、何の反社会活動もしていないし
>自ら地獄のような責め苦にも遭っていない。
しかし実は見えないところでヨーロッパ社会を暗くして壊滅に導くような念波を
>寝ているうちにでも発していたと言いたいわけね。
>あのね。桐山さんは霊障の不成仏霊とは輪廻すらできない存在としたのですよ。
あのね、そういう算数的に割り切って考えてはいけないのよ。霊障の不成仏霊も、
例外的に輪廻転生する場合もある、というように考えるべきです、そのような
場合は、オウムの教祖みたいな悲惨な事件を、起こしたりするのでしょう。
毒ガスで殺されて、アメリカに転生したからといって、一生安泰だとは保障され
ないよ。悲惨な事件に巻き込まれるか、悲惨な事件を起こすかも知れない。
それを避けるために、彼等はイエスの奇蹟に救われようと、イエスを信じて献金
しているわけでしょう。
- 256 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/20(金) 12:06:10
桐山さんは、差し詰めマールンクヤ(摩羅迦)のごとく、
死後の世界について拘り教団ビジネスモデルの根幹としている。
仏弟子と桐山さんを同列にするのは、釈尊に対しては甚だ非礼ですが、
桐山さんは死後ネタで「金とタダ働き」を欲しがるのですから、
その所行は最悪業と指摘する所以です。
有名な「毒矢の喩え」の通り、釈尊が無記答としたのだから「堕胎経」を
根拠にする桐山さんの手法など通じる訳がない。
また釈尊の考えは、ヴァッチャ(婆蹉)に回答したことでも分かるとおり、
それらを論じることは意見の乱闘であり、涅槃に役立たないとしている。
ひと言で言えば、「死後の世界など考えるな」です。
釈尊が死後の世界に対する問答に無記という姿勢を貫いていたのですから、
大目連の質問に答えた釈尊が、「堕胎経」で死後の様相を語った訳があるまい。
こういう普通の常識すら持ち合わせないで、それでもなおと食らいつくのを
仏教ではタンハーに縛されていると言うのです。
釈尊の思想は一貫していてブレることなどないと知ることです。
- 257 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/20(金) 13:04:38
- >253 :準シュダオン:2012/01/20(金) 10:02:31
>阿含宗のイベントに、何らかの形で参加・支援することが、仏法僧に功徳の種を
うえることだと考えていますよ。
信者が、「イベント」などと言ってはいけないでしょう。
批判側使うのは、「見世物」的意味合いを含んでいるのです。
教団としては、あくまでも大事な「儀式・催事」という行事です。
軽はずみに「イベント」などと使用してしまうことで、
この信者さんの信仰レベルがよく分かります。
功徳の種などと謳いあげても、桐山三福道など絵空ごとのツクリモノと、
この度の新著ですでに自縛している。
今回、このアゴン宗「焚き火」の”お魔釣り”に何人の参拝客が
訪れるのか興味津々ですが、年々減少の一途のようで今年はどうだ?
さて、息を吐くようにウソを語る桐山さんが、大導師としての威厳を保てるか?
毎回奔走し、汗だくになるコスプレ山伏さんたちの擬似達成感のために、
今年もまた多くの無料奉仕修行者さんが、縁の下で支えるのでしょう。
ゴマ木勧進数も減少し、両界壇の燃料が大幅に不足してしまう事態もありますか。
- 258 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/20(金) 13:29:29
- 仏陀の真実の教えを説く(中)
同時に過去の罪障は梵行によってなくしていきます。だからこそ梵行を課している
わけです。梵行とは徳を積む修行です。滅罪生善の行です。罪障を換言すれば不徳です。
その不徳を徳によって消すわけです。
(中略)
ご宝塔の前で聖典勤行をするだけでは、充分な修行とはいえません。
聖典勤行と梵行、この二つがそろってこそ修行は進むのです。この二つは車の両輪です。
どちらも欠けてはなりません。その理由は『堕胎経』を読めば一目瞭然です。
(269〜270頁)
これは生きている我々がその過去世に為して悪因縁の元を作った罪障を解消するには
梵行をするしかないと説いたものです。
では死んだ亡者の罪障はどうなるのか?
解脱供養を必要とする亡者には怨念を発しているだけでなく、当然それなりの
罪障があるから霊障を起こす存在となったのですよね。
しかし亡者は梵行をしようにもさせられることができない。
そこで不徳な亡者に徳を上増しさせてやるのが10万円の回向料です。
どんなに罪深い殺人鬼であっても10万円で帳消しにしてくれます。
しかし亡者が10万円で罪障をなくなるのなら、生きている我々も梵行なんか
しなくても10万円払えば罪障帳消しになるはずの理屈ですよね?
どう思います?
- 259 :準シュダオン:2012/01/20(金)
14:07:58
- >そこで不徳な亡者に徳を上増しさせてやるのが10万円の回向料です。
どんなに罪深い殺人鬼であっても10万円で帳消しにしてくれます。
>しかし亡者が10万円で罪障をなくなるのなら、生きている我々も梵行なんか
しなくても10万円払えば罪障帳消しになるはずの理屈ですよね?
>どう思います?
なかなか良い着眼です、が、管長は法話で話していますね。
例えば、家族に10万円渡して、「私の死後、管長に私の解脱供養を申し込んで
くれ」と言い残し、あとは悪業三昧やりつくして死ぬとね。さぁ、死後の私は、
解脱成仏できるでしょうか?と。
>しかし亡者が10万円で罪障をなくなるのなら、生きている我々も梵行なんか
>しなくても10万円払えば罪障帳消しになるはずの理屈ですよね?
>どう思います?
これはなかなか、素晴らしい指摘ですね。生者の解脱供養ですよね。
私は効果あると思います。一度で成仏することはないでしょうけど、解脱は
加持力を受けて進むでしょうね。
問題は、管長が、生きている信者の解脱供養を、してくださるか、否かですね。
自分が施主になって、自分の解脱供養を申し込むわけね。
何となく怖いねぇ、五万円の護摩札二つの方が、良いと思うよ。
- 260 :準シュダオン:2012/01/20(金)
14:21:33
- >信者が、「イベント」などと言ってはいけないでしょう。
批判側使うのは、「見世物」的意味合いを含んでいるのです。
>教団としては、あくまでも大事な「儀式・催事」という行事です。
>軽はずみに「イベント」などと使用してしまうことで、
>この信者さんの信仰レベルがよく分かります。
お、たまたまラシンさんのレスが目に入った。
イベントなんだから、イベントと呼んでいいでしょう。メーンイベントです。
私の場合は、尊敬を込めてイベントと呼んでますよ。
参拝人数もそれなりにあるでしょうから、心配要りませんよ。
何しろ、第1回目は、参拝者・修行者の合計が200名、なのですからね。
- 261 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/20(金) 14:22:56
>しかし亡者が10万円で罪障をなくなるのなら、生きている我々も梵行なんか
しなくても10万円払えば罪障帳消しになるはずの理屈ですよね?
どう思います?
これは私も信者時代に首を傾げていたことでした。
まして滅罪生善などと、罪業が善業で相殺されるとはこれは、
まことに都合がよく、準シュダオンさんの如く能天気でいられた。
釈尊は為した業は消せないと知ったのは、批判板を見てからです。
桐山さんの答えが、ホウ話か著書か、記憶でしかありませんが、
「死者というのは霊障を発していても生きている者より素直だ」、
というものでした。
桐山さん曰く、「生きて生活し欲にまみれている人は強情頑固で、
なかなか師の言うことでさえ理解し守って、行動を起こさない。
しかし、死者はたとえ亡者でも恨みや妬みにた偶々縛られているだけで、
よほどの強い霊障でない限り、不成仏の霊は私のジョウブツリキで
悟りの意識を送ってあげれば、それがほどけて霊界に行くようになります。
生きている者は、そういう意味で教団でボン行に勤め、先祖の霊に対しては、
功徳をお分けしてあげて、供養とは供えを養うとの両方の心構えが必要なのです。」
桐山さんはこのような意味合いで、生者と死者の供養料の違いを
説明していた記憶が、あります。
現存するこれらの資料はないので、正確性には欠けますが、
桐山さんの舌先三寸に習い、ああ言えばこう言う式の言葉を
先達が弁説していたかもしれない。
私は労働奉仕するよりお金のほうを注ぎ込んでしまいましたので、
今はドブに捨てたようなものです。
- 262 :準シュダオン:2012/01/20(金)
15:34:48
- >しかし亡者が10万円で罪障をなくなるのなら、生きている我々も梵行なんか
>しなくても10万円払えば罪障帳消しになるはずの理屈ですよね?
>どう思います?
やはり、生きている人の解脱供養は変だと考え直したねw。
死者の解脱供養は、成仏させると言っても、阿羅漢にするという意味ではないね。
死んだ自覚もなくて、霊障を発っしている霊的存在の目を醒まし、死者の行くべき
所に導いてやる、と、そういう意味の解脱成仏供養でしょう。
すると、やはり、生者とは意味合いが違うね。
- 263 :準シュダオン:2012/01/20(金)
16:02:33
- >桐山さんの舌先三寸に習い、ああ言えばこう言う式の言葉を
>先達が弁説していたかもしれない。
>私は労働奉仕するよりお金のほうを注ぎ込んでしまいましたので、
>今はドブに捨てたようなものです。
ラシンさんは、お金をドブに捨てたような結果になり、私は、3・11には霊示を
受けて、海に行く予定を中止したし、以前には聖なるバイブレーションも受けた。
お金などには及びもつかない功徳です。これは、作り話ではありませんよ。
二十代の頃の私は、因果応報など信じていなかった。泥棒したとて、見つからなけ
れば、罰はないと考えていたね。けど、今は違うね。嘘をついて人を欺けば、
その報いは受けると、身にしみて感じるようになった。ゆえに、ネットとはいえ、
嘘はつきませんよ。けど、バカ正直は避けますからね。
霊示については、管長の教えになかったようにも思うけど、私は体験した。
わたしのように功徳がある場合と、批判派のように功徳を得られない場合がある。
その違いはどこから来るのか、というと、我見を無くす修行をしてきたか、と、
いうことだと思うね。同じ管長本を読んでも、私と批判派とで、その解釈が違い
ますからね。
- 264 :天照
◆MO30b8Jwoo:2012/01/20(金) 17:17:45
- >>253
準さんは自己解釈をよく述べるが、ここの「イベント」というのは教祖の指導に従っている証拠です。
過去にゲイカは「イベント上等。イベントの何が悪い」と法話で話されたことがあります。
それに倣っているので信者さんとしては変ではないのですよ。
当時私も欺瞞には気が付かなかったので「さすがはゲイカ」と感服したものですが、今は違う。
釈尊がではそういうイベント行為をしたか、推奨するか、です。
釈尊を排除して無視するならイベント上等・ええじゃないか、になります。
占いも護摩もOKなのがそういう理由です。
教祖から釈尊の教えなど守るつもりも無い。だからできる所以です。
京都のお山でイベントを行い、コスプレごっこを楽しむ教団だからできる技ですね。
- 265 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/21(土) 08:03:58
- >>253:準シュダオン12/01/20(金) 10:02:31
>けど、私なりの参加は致しますよ。何らかの功徳の種をうえるのが私の修行です。
はい、皆さん、ご覧ください。
「私なりの」「何らかの」と書くだけで、それ以上の具体的なことは絶対に書けません。
>とね。わたしゃ、指導者を目指さないんで、簡単な方で良いのです。
すると梵行必須ですな。
梵行をやらないと因縁を切れない。
今回の中巻にも随所に書かれています。
- 266 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/21(土) 08:17:49
- >>254:準シュダオン12/01/20(金) 10:23:36
>ですから、釈尊は、肉段の祟りがあるとも、ないとも言っていないですよね。
「説かない」と明言しています。
堕胎経と同じスタイルの経典はいくつかあり、好戦経もその一つなのは間脳思考を
読めばわかるでしょう。万事この調子です。
目連がいろいろなモノを見るたびに釈尊はその地獄の余罪を受けているものを答えるが
そもそもこれを説かないと明言している。
つまり霊障も霊障解脱も説かないのであり、他に説いた経典も見当たらない。
- 267 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/21(土) 08:38:27
- >>255:準シュダオン12/01/20(金) 10:37:30
>あのね、そういう算数的に割り切って考えてはいけないのよ。霊障の不成仏霊も、
>例外的に輪廻転生する場合もある、というように考えるべきです、そのような
>場合は、オウムの教祖みたいな悲惨な事件を、起こしたりするのでしょう。
数の話(アウシュビッツの処刑者が輪廻転生した比率)をしていません。
わかりやすいように例を出したのです。
そういう時には、処刑に遭った人でも怨念を残さずに死んで、不成仏霊にならなかった
のもいた、とどうしてそれだけ書けないのか?
社会人として暮らしながら、自分でも気づかぬうちによその地域に見えない怨念の念波を
発しているだの考える方がアタマがどうかしているのです。
桐山さんも輪廻転生するのは一度幽界で安息を得た人と限定しています。
霊障のホトケは輪廻すらできないと言うのです。
それにオウムのようなテロを起こすと言うのなら、アウシュビッツの処刑者が
アメリカに転生したという話は、本に実例として載せられた話です。
ならばこの実在した人はテロを起こしたという報告はあるのか?
あるいは非業な死を遂げたなんて報告はあるのか?
- 268 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/21(土) 09:00:42
- >>262:準シュダオン12/01/20(金) 15:34:48
>死者の解脱供養は、成仏させると言っても、阿羅漢にするという意味ではないね。
>死んだ自覚もなくて、霊障を発っしている霊的存在の目を醒まし、死者の行くべき
>所に導いてやる、と、そういう意味の解脱成仏供養でしょう。
私は罪障の消滅という側面についての回向料を話に出したのです。
桐山さんにいかに成仏力がありテレパシーで伝える能力があっても、亡者の側に
それを受け取る徳がない。
だからこの不徳(罪障)を埋め合わせる為に子孫縁者が代理で10万円払い
本来布施した子孫縁者に還るはずの功徳を、こっちへ来るな、あっち(先祖)へ行けと
回して向ける。すると先祖の罪障が消滅して成仏法を受け取れる徳が生じるというものです。
ならば生きている我々もそれだけでは因縁解脱もできないけど、罪障を解消する手段
としては金で済むじゃんと言いたかったわけですよ。
- 269 :準シュダオン:2012/01/21(土)
09:35:49
- >回して向ける。すると先祖の罪障が消滅して成仏法を受け取れる徳が生じるというものです。
>ならば生きている我々もそれだけでは因縁解脱もできないけど、罪障を解消する手段
>としては金で済むじゃんと言いたかったわけですよ。
なるほどね。取引信仰にならない心がけでの、財施供養ならば、効果があるでしょうね。
でも、金で済むじゃん、という考え方は、取引信仰になっていると思いますよ。
- 270 :準シュダオン:2012/01/21(土)
09:53:24
- >桐山さんも輪廻転生するのは一度幽界で安息を得た人と限定しています。
>霊障のホトケは輪廻すらできないと言うのです。
ですから、何でも理詰めで解決できると考えてはいけませんよ。理屈どおりに
いかないのが生命でしょう。人工生命なんて、ボウフラさえ作れないのですからね。
霊障のホトケや、ただの不成仏霊がどんな状態なのかは、想像だにできませんよ。
大石は沈むし、油は浮かぶ、それを祈願してもどうにもならない、というお話しが
ありますね。
そこで更に、「大石でもロープに結んで象に引かせたら水面に浮かぶでしょう?
油でも水をかき回したら、下の方にも沈むでしょう?
死者の霊にそのような働きかけは不可能なのでしょうか?」
と、いうように質問を進めたら、良かったのに、と思いますね。
- 271 :準シュダオン:2012/01/21(土)
10:11:03
- >目連がいろいろなモノを見るたびに釈尊はその地獄の余罪を受けているものを答えるが
>そもそもこれを説かないと明言している。
>つまり霊障も霊障解脱も説かないのであり、他に説いた経典も見当たらない。
ああそうですか。説かないのですか。何で説かないのでしょうね。
釈尊が何で解脱供養を説かなかったかを、考えて見るに、釈尊は、上流階級の人達
から布教を進めていますね。農夫は肥沃な大地から種を蒔く、と言って。
当然、霊障の影響などない、家庭環境の良い人達から布教を始めた、で解脱供養は必要ない。
しかるに、現代の阿含宗の場合の信徒はどうか?
社会の下流階級と言っては言い過ぎで誠に失礼ではあるが、しかし、何らかの
トラブルやら生活苦に悩んだりしての入行が一般的な信徒ではなかろうか?
だとしたら、当然、霊障の影響を受けている人も多いと考えられますね。
だから管長は、解脱供養から始めなければいけなかったわけでしょう。
- 272 :準シュダオン:2012/01/21(土)
10:17:57
- >すると梵行必須ですな。
>梵行をやらないと因縁を切れない。
>今回の中巻にも随所に書かれています。
そうです、梵行必須です。梵行とは清らかな行いです。
功徳の種をうえるのは、梵行です。
ですから、梵行も探せば無数にあります。
- 273 :準シュダオン:2012/01/21(土)
10:26:21
- >釈尊を排除して無視するならイベント上等・ええじゃないか、になります。
>占いも護摩もOKなのがそういう理由です。
>教祖から釈尊の教えなど守るつもりも無い。だからできる所以です。
当時、バラモンは占いをして庶民からお金をとって稼いでいた。
そういう行為は卑しいとして、釈尊は弟子にそれをさせなかったのです。
阿含宗だとて、占いで世間から稼いではいないでしょう。
阿含宗の占いは、信徒の運勢を見て因縁解脱が進むように利用しているだけです。
特に、悪いとは思えませんね。
- 274 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/21(土) 10:27:43
- >ラシンさんは、お金をドブに捨てたような結果になり、私は、3・11には霊示を
受けて、海に行く予定を中止したし、以前には聖なるバイブレーションも受けた。
お金などには及びもつかない功徳です。
たしか知人宅へへの予定でしたね、変更したのは「行くな!」との
天の声があったわけではないはずです。
私が財施したのは仕事優先にした為、ボン行時間を割けなかったのです。
あなたの功徳の中身など、ただの俗物的欲求を満たしたものに過ぎない。
そうなら私の場合も、仕事が成功し優雅な生活を取得し、万々歳でしたが、
それはオシャカのお手配ではなく、私の日々努力と他者の協力と気づいた。
>泥棒したとて、見つからなければ、罰はないと考えていたね。けど、今は違うね。
嘘をついて人を欺けば、その報いは受けると、身にしみて感じるようになった。
それは泥棒の社会的制裁とは別で、最低限度の道徳の欠如です。
悪業が悪報で返ると理解できたなら、滅罪生善という相殺勘定など
あり得無いと分かるはずです。
業報は善悪両方にもたらすと考えるのが仏教です。
また準シュダオンさんの嘘をつかないと言うのは自分の欲望に対してであり、
他人にはウソをつきまくっている。
自分の欲望を晒しだすのを正直と考えているだけの開き直りです。
ふつう、信仰の道に入れば少しは虚心坦懐に自己を見つめ出す。
桐山さんは逆に選民思想を植えつけ、劣等感の逆作用で慢心を高めさせる。
そこで鵜飼の鵜のように信者を扱いだす。
時々はぐれ鳥が出てあなたのように漁獲のアユを勝手に呑み込むが、
桐山さんから結ばれた縄はそのままです。
- 275 :準シュダオン:2012/01/21(土)
15:03:28
- >それは泥棒の社会的制裁とは別で、最低限度の道徳の欠如です。
>悪業が悪報で返ると理解できたなら、滅罪生善という相殺勘定など
>あり得無いと分かるはずです。
あのね、滅罪生善という意味を、たは勘違いしてるんです。滅罪というのは
罪を滅するという意味ではありません。過去に犯した罪の報いが熟す前に、善業
を積んで、罪の報いを変えようとする考え方なのです。
- 276 :準シュダオン:2012/01/21(土)
15:15:04
- >また準シュダオンさんの嘘をつかないと言うのは自分の欲望に対してであり、
>他人にはウソをつきまくっている。
あきれる程のひねくれものですねw↑。あなたの財施供養など、見返りを期待した
欲望の裏返しにしかすぎない。そんな愚か者に果報などあろうはずがないw。
退会していただいて、有難う。
あなたのような信者が残っていたのでは、阿含宗の名折れです。
私が嘘つかないという意味は、霊示体験など作り話や嘘ではなく、事実の話だ
という意味です。
けど、煩悩だらけのラシンさんにはそういう体験が起ころうはずもないし、
自分が嘘つきだと、人の実話も嘘だと思うもんです。救いようがないね。
退会後、オウムに行ったわけじゃ、ないだろうね?
- 277 :準シュダオン:2012/01/21(土)
15:41:28
- >たしか知人宅へへの予定でしたね、変更したのは「行くな!」との
>天の声があったわけではないはずです。
確かに、行くな!ではなかったけど、「震度5の地震で云々・・」という声は
あったのです。実際は、震度5ではなくて、震度6強というもので、数字は
外れたけどね。けどそれで、港のある町のYさん宅の訪問予定を中止したのだ
から、お金などに変えられない功徳でしょうよ。それを功徳というのです。
Yさん宅は流されて、痛ましくもYさんは亡くなったのですよ。
私が訪問していたら、逃げようとしても車の渋滞に巻き込まれたら、恐らく
そうとう危うかったでしょう。
>私が財施したのは仕事優先にした為、ボン行時間を割けなかったのです。
>あなたの功徳の中身など、ただの俗物的欲求を満たしたものに過ぎない。
上記の私のレスを読めば解るだろうけど、私のいう功徳の意味は、あなたが
考えるような俗物的欲求のことではないよ。霊示体験のような、おそらくは
指導霊とでもいうような高級霊からのものでしょう、そういうのを功徳とい
うのです。あなたが受けるのは、不成仏霊からの霊障ですか?
霊示体験のようなことは、このネット以外では口に出していませんからね。
貴重な体験レスだと思いますよ。匿名のネットでさえ、書くのをしばらく
躊躇してたのですからね。
管長も法話で、「常識を超えた能力・体験は人に話すべきではない。自分
だけで楽しんでいたらそれで良いでしょう」と、話していましたからね。
- 278 :深山:2012/01/21(土)
22:08:38
- ・嘘に嘘を重ねて自己矛盾
有余依涅槃の問題で自己矛盾をはらむようになったのはアゴン宗です。
それは、「有余依涅槃の聖者を自称する桐山ゲイカは阿那含なのか、阿羅漢なのか」です。
学者たちは「有余依涅槃=生きている阿羅漢」「無余依涅槃=入滅した阿羅漢」つまり、
学者説「有余依涅槃=阿羅漢」
ところが、今回の本で涅槃界とは阿那含を指すという桐山説の根拠として
引用された火滅品を元に、
桐山説「有余依涅槃=阿那含」
ということになりました。
ところが、ここでアゴン宗の教義におかしいことが起きる。
それが、桐山ゲイカは有余依涅槃の聖者を自称しているのだから、
未だに阿那含であって、阿羅漢にはなっていないのか、という問題です。
- 279 :深山:2012/01/21(土)
22:11:09
- ・阿羅漢を宣言していた桐山ゲイカ
「しかしわたくしは、
完全に悟りを開いて有余依涅槃の聖者になっている。」
(『ダルマチャクラ』122号、2000年、9頁)
「わたくしは有余依涅槃に入っています。成仏法・七科三十七道品の四神足法(四如意
足法)を成就して、肉体を持ったままニルヴァーナを体得し、有余依涅槃の聖者になっ
ています。わたくしは四神足法を成就して、有余依涅槃に入っていることを自覚している。」
(『ダルマチャクラ』128号、2000年、9−10頁)
「完全に悟りを開いて」「ニルヴァーナを体得し」とあるのだから、
この文章を見る限り、桐山さんは、
「有余依涅槃=阿羅漢」
ということになっている。
これが2000年以降のアゴン宗の教義です。
ところが、今回の本で、わざわざ「有余依涅槃=阿那含」であると主張するために、
わざわざ火滅品を証拠として出してきて、
桐山説「有余依涅槃=阿那含」
であると言っている。
2000年には桐山ゲイカは阿羅漢を宣言したのに、
2011年には阿那含に逆戻りですか。
- 280 :深山:2012/01/21(土)
22:14:44
- ・阿羅漢から阿那含に逆戻り
「しかしわたくしは、
完全に悟りを開いて有余依涅槃の聖者になっている。」
(『ダルマチャクラ』122号、2000年、9頁)
「・・・有余依涅槃界とは五下分結を滅ぼし
てこの世に二度と戻らない境地ですから、これは阿那含を指すわけです」
(『仏陀の真実の教えを説く[中]』2011年、131頁)
信者の皆さんは両者を良く読み比べてください。
この両者の文章は明らかに矛盾しています。
「有余依涅槃=阿那含」と言ってしまったら、今の桐山さんは
阿那含ということになってしまい、解脱者ではなくなるのですよ。
十年前「完全に悟りを開いて」「ニルヴァーナを体得し」たはずの
桐山ゲイカが、阿那含に逆戻りした?
なぜ、こんな矛盾したことを書いたのか。
理由は簡単で、嘘やデタラメをごまかそうとして、今回の本でさらに
嘘を書いたから、自己矛盾に陥ったのです。
「有余依涅槃=阿那含」と強く主張し始めたのは今回の中巻が初めてです。
その証拠がこの中巻自体に残っている。
- 281 :深山:2012/01/21(土)
22:25:30
- ・「有余依涅槃=阿那含」は今回加筆された
同じ本でありながら、有余依涅槃について矛盾した記述があるのは、
元となった文章に「有余依涅槃=阿那含」が今回新たに書き加えられたからです。
それが、「二つの涅槃界」(128頁〜)という文章です。
だから、中巻の直前の原稿とも言える国会図書館に納品されている下巻には
「二つの涅槃界」という章はありません。
そして、いかにも涅槃界について前から考察したかのように、
わざわざ次の文章を新たに二カ所に付け加えています。
「ただし、ここでいう「涅槃界に至る」とは阿羅漢になることではなく、阿那含になることを指してい
る、とわたくしは考えます。」
(『仏陀の真実の教えを説く[中]』106〜107頁、129頁)
この中巻の元の原稿は、国会図書館にある下巻であり、
その前は、『ダルマチャクラ』に連載されたものです。
その『ダルマチャクラ』での講義では、中巻とは正反対の表題がついています。
- 282 :深山:2012/01/21(土)
22:31:34
- ・涅槃界は完全解脱と説明していた
「涅槃界とは完全解脱の境地」
(『ダルマチャクラ』60号、1994年、10頁)
これが三供養品の解説文の冒頭についていた表題です。
そして、具体的に次のように説明しています。
「涅槃界となにか?
これは、生死を超越した境涯です。涅槃というのはサンスクリット語でニルヴァーナ
といいますが、完全解脱の境地です。」
(『ダルマチャクラ』60号、1994年、13頁)
ここではもちろん桐山さんは涅槃と涅槃界が別物であるかのような
オカルト説は出さず、ごく普通の説明をしています。
また、「完全解脱の境地」ですから、涅槃を阿羅漢の境地であると
述べて、阿那含の境地であるとは述べていません。
『ダルマチャクラ』の解説の脚注にはズバリ、有余依涅槃の説明があります。
「・・・生きたまま完全解脱した状態を有余依涅槃といい、その境地に
入られた方を仏というが、有余依涅槃に入られた仏が入滅されることを
「無余依涅槃に入る」と表現する」
(『ダルマチャクラ』64号、1994年、5頁、脚注)
ごらんのように、学者たちの説と同じように、有余依涅槃とは阿羅漢の
ことであると述べている。
今回の中巻の説明「「有余依涅槃=阿那含」」とまるで違うことに
お気づきでしょうか。
同じ人の解説とは思えないほど、百八十度も話が違う。
- 283 :深山:2012/01/21(土)
22:36:39
- ・重大な教義の変更
「・・・有余依涅槃界とは五下分結を滅ぼし
てこの世に二度と戻らない境地ですから、これは阿那含を指すわけです」
(『仏陀の真実の教えを説く[中]』2011年、131頁)
中巻では三供養品の涅槃界が阿羅漢の境涯を指すのはおかしいとして、
涅槃界を阿那含だと書いている。
同じ経典について『ダルマチャクラ』では阿羅漢だ書いている。
『ダルマチャクラ』だけでなく、2007年頃に出る予定だった
国会図書館にある下巻でも、阿羅漢であると述べている。
それが2011年になって突然、涅槃界とは阿那含であると言い出した。
その結果、桐山さんは阿羅漢でなく、阿那含なのか、という
自己矛盾まで出てきた。
アゴン宗の教義に重大な支障が出るほどの内容変更なのです。
まず信者さんたちにこういう桐山さんの話の矛盾に気がついてほしい。
なぜなら、これこそが桐山さんの嘘やゴマカシの跡だからです。
教義の矛盾を生じるほど、何をごまかそうとしたのでしょう。
- 284 :深山:2012/01/21(土)
22:40:42
- ・涅槃界という一語が桐山三福道の致命傷
中巻を出版するにあたり、三供養品は三福道が入っているから、
徹底した見直しが行われた。
その証拠に「二つの涅槃界」(128頁〜)などという文章をわざわざ付け直した。
なぜだと思いますか。
桐山三福道にとって、三供養品にある「涅槃界」という一語が致命傷になるからです。
桐山説では、三供養品は在家に説かれた経典だという。
在家はいくら修行しても阿羅漢まではなれず、阿那含までです。
ところが、三供養品には「涅槃界に至る」とある。
涅槃界とは、桐山さんも『ダルマチャクラ』などできちんと
説明しているように、完全解脱の境涯、つまり阿羅漢の境涯です。
三供養品にある涅槃界という言葉一つを見れば、
これが在家だけに説いた特別な経典などではなく、
阿羅漢に至る出家に説かれた経典であることは明瞭です。
桐山さんの、在家用の三福道などという説は成り立たない。
- 285 :深山:2012/01/21(土)
22:43:10
- ・二つの三善根があるという説も成り立たない
信者さんたちの中には、三善根に二種類あるという桐山説を信じているかもしれない。
桐山さんは他の経典で説かれた無貪・無瞋・無癡の三善根の他に、
供養の功徳で阿那含になるという別な三善根を三供養品で釈尊が説いたと主張した。
仮に、百歩譲り、三供養品では別な三善根を説いたとします。
ところが、その別な三善根もまた「涅槃界に至る」というのだから、
在家用の特殊な三福道などという修行法ではなく、阿羅漢になれる修行法です。
三善根に二つあるなどという桐山説は成り立たないが、
仮に二つあるとしても、どちらの三善根も阿羅漢の境地を示すのです。
積徳行で阿那含までなれるなんていう桐山三福道は真っ赤な嘘ということになる。
これを批判側は何度も指摘して来た。
そこで、桐山さんと平河出版社の人たちが中巻を出すにあたり、
これをどう回避するか必死に考えたのです。
そのゴマカシのための新しい嘘が「有余依涅槃=阿那含」です。
しかもこれは元ネタがある。
- 286 :深山:2012/01/21(土)
22:51:28
- ・二十数年前の嘘を再利用
『末世成仏本尊経講義』での嘘ネタをそのまま採用することにした。
この本では、桐山さんが「自須陀諸Y至阿那含断五下分結」という文章を
勝手に加えて経典を捏造した言い訳が書いてある。
それによれば、涅槃と涅槃界とは違うという詭弁です。
その証拠として出した三つの経典のうちの一つが、今回使った火滅品です。
信者さんたちの中にはお気づきと思うが、>>282で引用した『ダルマチャクラ』では
涅槃界と涅槃を同じ扱いにしているのに、『末世成仏本尊経講義』では
違うと書いている。
最初は違うと書き、機関誌で同じだと書き、今回の本でまた違うと書いた。
二転三転していることを見ても、桐山さんの話がちょうど準シュダオンさんのように
その場しのぎの思いつきで書いているのがよくわかる。
桐山さんや準シュダオンさんとはこういう人たちです。
桐山さんと平河出版社の人たちは、悪知恵を働かせ、
二十数年前の本のネタ「有余依涅槃=阿那含」という説を持ち出し、
涅槃界とは阿那含を指すから、三供養品は在家用なのだと主張したのです。
その結果、それなら「有余依涅槃であると自称する桐山ゲイカは、
阿羅漢ではなく阿那含なのか」という最初に出した疑問が出てくる。
阿那含と名乗るのはかまわないが、では、『ダルマチャクラ』に述べた
「ニルヴァーナを体得」「完全に悟りを開いて」とは何を指しているのか。
- 287 :干柿:2012/01/21(土)
22:53:00
- >同じ人の解説とは思えないほど、
思わず笑ってしまいましたw
まるで平河出版の誰かが桐山ゲイカの代わりにつじつまあわせのウソの説明
を付け加えたかのようですw
私が思うにもう桐山ゲイカは思考を重ねて文章をひねりだすこともできない
くらい衰えてボケてしまっていると思います。
法話は法話になっていないと人づてに聞いています。職員が話すのを聞いて
うんうんとあいづちうったり、それでよろしい、と一言いうだけ
今回の星まつりメッセージの印刷文はどうみても桐山ゲイカが今発したもの
ではないと聞きました。もう老化の進行状態は目も当てられないようです。
- 288 :深山:2012/01/21(土)
22:54:48
- ・嘘をつき自己矛盾に陥った
信者さんたちは、桐山さんがその場しのぎの嘘で自爆したことに気がついていますか。
自分で自分を阿羅漢でないと否定してしまったのです。
よく見て欲しいのは、三供養品で在家用に三福道を説いた、
などという最初の嘘から始まり、その間違いを指摘されると、
別な嘘を塗り重ね、ついには自己矛盾し、自己否定することになった桐山さんの姿です。
今さら、桐山さんが自分を阿那含だなんていったら、アゴン宗は成り立たない。
嘘をついたり、その場しのぎのゴマカシを並べると、
いつかは矛盾することは、信者さんたちも現実世界でいくらでも経験する。
嘘がばれたら、さっさと認めて、修正するのが最も被害が少ない方法です。
だが、桐山さんも平河出版社もそうではない。
今回の自己矛盾を桐山さんも平河出版社も百も承知ではないかと思う。
なぜなら、「有余依涅槃の聖者であると自認したのは機関誌だけで、
世間には公表していない。だから、素知らぬふりをすればいい。
信者など古い機関誌なんか覚えていないから、いくらでもごまかせる。
あいつらには何を言っても大丈夫だ」というのが、彼らの意図でしょう。
信者さんたちは完全に桐山さんたちからなめられている。
- 289 :深山:2012/01/21(土)
23:02:42
- ・教師を接待すれば卒業させてくれるという愚か者
信者さんたちは三供養品の釈尊の言葉をそのまま読んでください。
「如来のみもとで功徳をうえる」
とあるだけです。
供養するなんて言葉は一言も出てこないだけではなく、
「みもと(所)」ですよ。
如来に何か差し出すのではなく、如来のみもとで煩悩を捨てるのです。
「教師のみもとで勉強をする」というのと同じです。
これは学校で勉強するという意味です。
これを教師を接待し金品を差し上げると学校を卒業させてくれると
解釈するバカはいない・・いや、一人だけいた。
桐山さんです。
- 290 :深山:2012/01/21(土)
23:05:35
- ・三善根とは護摩木祈願や星まつりをやめること
「如来のみもとで功徳をうえる」とは、如来の説く修行をするという意味です。
その内容が冒頭に出てくる三善根、つまり無貪・無瞋・無癡です。
これを実現すれば涅槃界という究極の福が得られると説いた。
こんなわかりやすい、ありふれた経典にブッダの智慧と称する
屁理屈はいりません。
信者さんたちは桐山さんの嘘に嘘を重ねた愚昧な解説など読まず、
釈尊の言葉を文字どおりに読んでください。
ねじ曲げた解釈をするから煩雑複雑になるだけで、
釈尊は三供養品に限らず、煩悩を減らせとしか言っていない。
護摩木祈願や護摩を焚くことこそが三善根に反する行為です。
三供養品で釈尊は、護摩木祈願や星まつりをやめなさいと言っているのです。
- 291 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/22(日) 02:04:15
- >>269:準シュダオン12/01/21(土) 09:35:49
>でも、金で済むじゃん、という考え方は、取引信仰になっていると思いますよ。
私がそれを書いた「金で済むじゃん」とは、あなたを筆頭にめんどくさい梵行なんか
しなくても金で清算しちまった方が楽じゃん、そうしてくださいなと希望してしまう人が
いるかと思うのだが、私はその逆なんですよ。
罪障というものがあり、それを解消しようと考えているのならば、金で解決なんて
あさましいこと考えてはいかんでしょ。面倒でも罪を贖うという誠意ある気持ちを
持ってそれに則した行為を為さねばいかんですね。
ここでは善行が悪業を相殺してくれることを仏教では否定しているとか
そういう前提は別にしておいて、仮に善行でなんとかできるという立場に立って
みてさえ、納得がいきません。
罪を贖うには軽い罪は罰金でも済みますが、そんな悪因縁を作るような罪ならば
その性根を改善する必要があります。
例えば刑務所というところに入って刑期を務める。
刑務所とはどういうところか?囚人を拷問するところではない。
更正する施設ですね。ですから労務を含めて規律ある生活をしますが、拷問じゃ
ないんだから、寝食削って過酷な労働などさせません。
正月にはおせちもつく。(「極道めし」参照)
しかし自由は束縛されるし辛さは享受せねばなりません。
ところが、これが金で免除するとなったらいかがなものか?
法務省に喜捨する代わりに受刑が免除される。
違うだろって話になる。
ましてや10万円だの。
血と汗の10万円だなんて言葉だけのことで、温泉旅行にでも10万円など
投じてしまう。そんな値段で買える罪障消滅って、そんなのあるか?
そうそう、麻原死刑囚の死刑執行が今年行われるか興味深いが、桐山さんは
こんな質問に答えたことがある。
死刑執行後、麻原の遺族からアゴン宗に麻原の解脱供養が申し込まれ、応じて
解脱供養した場合、麻原は解脱成仏するのか?との質問。
これに対して桐山さんは、最終的には悪業消えず地獄に堕ちるが、一時的には
解脱成仏するとの回答でした。
あれほどの悪業を為した罪人でも等しく10万円あれば助かるのです。
私はこのことを昔から地獄の沙汰も金次第と表現しています。
- 292 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/22(日) 02:33:57
- >>270:準シュダオン12/01/21(土) 09:53:24
>そこで更に、「大石でもロープに結んで象に引かせたら水面に浮かぶでしょう?
> 油でも水をかき回したら、下の方にも沈むでしょう?
> 死者の霊にそのような働きかけは不可能なのでしょうか?」
>と、いうように質問を進めたら、良かったのに、と思いますね。
質問者の質問が悪いとしましたか?
いいえ、回答者の回答が悪いのです。死者成仏も自分はできるのだと説きたかったのならば。
せっかく村長からいい質問を受けたのだから、願ってもないチャンスです。
その西から来たバラモンの力では駄目だと説明しただけでは何もならず、
しかし我が教団ではこれを可能にしたのであり、死者の怨念と我々は密接な
関係があり、無視できない問題なので、我々は死者成仏をこそ重要視して
これの普及に努めているのである、と説法せねばならぬだろう?
それを逆に、そんなことは誰にもできやせんよと誤解されてしまう表現をして、
質問してきてくれないから、もうおしまいって、何それ?
そんなマヌケな教え方をしたのは、マヌケなのではなく、死者成仏なんて
自分でも絶対に不可能だとしていたからであり、死者成仏を否定していたからです。
- 293 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/22(日) 02:46:22
- >>271:準シュダオン12/01/21(土) 10:11:03
>釈尊が何で解脱供養を説かなかったかを、考えて見るに、釈尊は、上流階級の人達
>から布教を進めていますね。農夫は肥沃な大地から種を蒔く、と言って。
ハア??????
>当然、霊障の影響などない、家庭環境の良い人達から布教を始めた、で解脱供養は必要ない。
あなた年齢いくつなんですか?
幼稚園児にも劣る頭脳ですか?
これはボケの問題ではない。
苦悩、苦しみは貧乏人にこそあり、裕福な金持ちは常に幸せという構図しかないのですか?
上層階級こそ深刻な不幸と苦悩があるのですよ。
王族で勢力争い、殺し合いなどをする。
日本の古代の天皇家なども然りです。
父親を幽閉し、死に至らしめた阿闍世王。
戦争を起こすのも上層階級です。
下層階級なんてのはいがみ合いの喧嘩をする程度で、国を上げての殺し合いの
戦争なんか起こしません。
上層階級にこそ深刻な霊障が想定できるのは崇徳院を見てもわかる。
- 294 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/22(日) 02:53:27
- >>272:準シュダオン12/01/21(土) 10:17:57
>そうです、梵行必須です。梵行とは清らかな行いです。
>功徳の種をうえるのは、梵行です。
>ですから、梵行も探せば無数にあります。
はい、皆さん、おばんです。
ほらね、無数あると一般論だけ書いて、ちっとも具体的に何を実践しているのか
って話には絶対に発展しないのがわかるでしょ?
- 295 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/22(日) 02:59:46
- >>272:準シュダオン12/01/21(土) 10:17:57
>そうです、梵行必須です。梵行とは清らかな行いです。
>功徳の種をうえるのは、梵行です。
>ですから、梵行も探せば無数にあります。
こういう書き方って何を言わんとしてるか皆さんわかりますか?
管長もこれをやりなさいと示して、他のマトモな信者ならば素直にやっている
既存の梵行はやったことがない、やりたくない、やらないと言っているのです。
やりもしないで、頭を巡らせば無数に梵行なんか考えつくさ、と一般論だけ偉そうに示す。
それで無数でも何でもよいが、考えついて、そういう行動実践をすればまだよい。
結局具体的には現実的には永久に何もしないのです。
- 296 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/22(日) 03:13:32
- >>273:準シュダオン12/01/21(土) 10:26:21
>阿含宗だとて、占いで世間から稼いではいないでしょう。
>阿含宗の占いは、信徒の運勢を見て因縁解脱が進むように利用しているだけです。
アゴン宗の占い金とりますよ。
星まつりに行ってご覧なさい。
そこでALCのテントの中に入って、誰でもいいから個別に占い含めて相談を
申し込んでご覧なさい。
終わって少しも金を払わないなんてことありませんから。
普段も占い代とらないで、護摩木代をとっているのですよ。
護摩木を購入して書くように勧める。もちろん有料です。
地区道場でも行うようなイベントに運営する側となって参加してみなさいよ。
最後に収益報告をするのですよ。
護摩木何本、護摩札何本、解脱供養申し込み何件、お手配願い何件(3000円)、
入行申し込み何件と報告する。
つまりそれが目的なんです。
梵行参加したことないからわからないでしょ?
- 297 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/22(日) 03:23:50
- >>275:準シュダオン12/01/21(土) 15:03:28
>あのね、滅罪生善という意味を、たは勘違いしてるんです。滅罪というのは
>罪を滅するという意味ではありません。過去に犯した罪の報いが熟す前に、善業
>を積んで、罪の報いを変えようとする考え方なのです。
だからその根性があさましいのです。
罪を作ったのならば、過去のそれは消せないから、報いも堂々と受ければよいのです。
サリンを撒いておいて、報いが来る前に(捕まる前に)逃げようと言うのですか?
醜い心ですよね〜。
- 298 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/22(日) 03:44:23
- >>277:準シュダオン12/01/21(土) 15:41:28
>確かに、行くな!ではなかったけど、「震度5の地震で云々・・」という声は
>あったのです。実際は、震度5ではなくて、震度6強というもので、数字は
>外れたけどね。けどそれで、港のある町のYさん宅の訪問予定を中止したのだ
その話は既に私が一解釈を示しました。
何の不思議もありません。
3月11日の二日前の3月9日の昼頃、東北全土で震度4という大きな地震がありました。
一番震度が高かったのが、宮城県北部で震度5。
他は広範囲で4ですから、かなり大きい。
東京も揺れたが、やはり怖い。東北なら尚更。
これがあったからこそ、白日夢みたいな声を聴くんですよ。
その声、あなたの脳が作り上げたものです。
一昨日みたいな最大震度5の地震が来たら、港町のYさんではなく、もっと近くに住む
あの人の家、財産、命はどうなるのか?
本当に心配していればそんな声も天の声みたいに聴きます。
実は自分の心の中から発せられた声です。
また心配ではなく、これは思ってもいけない禁断の声だが、地震であの人の
財産がおじゃんになってしまったら、なんて潜在願望なんかあると(私にだって
誰にだってその程度のいけない願望はあります)その声はテキメン気まぐれに発する
わけです。
たしかにムシの知らせみたいなものかもしれません。
でも特別アゴン宗の神霊みたいのがプレゼントしてくれた天啓ではない証拠が
結局、Yさん以外の人ははずれたということです。
はずれていて、何が予言なんだか。
- 299 :準シュダオン:2012/01/22(日)
10:33:21
- >他は広範囲で4ですから、かなり大きい。
>東京も揺れたが、やはり怖い。東北なら尚更。
これがあったからこそ、白日夢みたいな声を聴くんですよ。
>その声、あなたの脳が作り上げたものです。
>一昨日みたいな最大震度5の地震が来たら、港町のYさんではなく、もっと近くに住む
>あの人の家、財産、命はどうなるのか?
あのね、何も知らない第三者だからそう思うのよ。yさんは十年以上前からの知人で、
私は、3・11まで、定期的訪問を、それまで一度も欠席したことがなかったのですよ。
過去十年間だって、地震はありましたよ。宮城岩手内陸地震だってあった。
それでも過去欠席したことはなかった。
で、3・11の午前に、何となく無心になる瞑想練習をしていた。何時もなら、
ウイークディなので、パソコン開いて仕事関係のネットを見てる時間帯ですよ。
だから、私には、お助けの霊示だったことを疑う余地はないのです。
もっと言うと、あれを天耳通というのかも知れない。この世の人の声だけで
なしに、天界(霊界)の声を聴く能力が、人にはあるのだと思いますね。
でも、普通は聴けない、私も、たまたま偶然、一度だけです。
今後の危機時にも、お助けがあるのかないのか、それは解りません。
- 300 :準シュダオン:2012/01/22(日)
10:43:00
- >だからその根性があさましいのです。
>罪を作ったのならば、過去のそれは消せないから、報いも堂々と受ければよいのです。
>サリンを撒いておいて、報いが来る前に(捕まる前に)逃げようと言うのですか?
あさましい、ではなく当たり前でしょう。サリンを撒いたらつかまらなくても
報いはあるのです。
堂々と受ければよい?
ろくな苦を受けた経験もないから、そういう能天気なことが言えるのです。
ホントの苦を受けた体験がある人は、こりゃかなわん、と将来の苦を逃れようと
するものです。
- 301 :準シュダオン:2012/01/22(日)
10:55:06
- >護摩木何本、護摩札何本、解脱供養申し込み何件、お手配願い何件(3000円)、
入行申し込み何件と報告する。
つまりそれが目的なんです。
>梵行参加したことないからわからないでしょ?
それだけが梵行ではないよ。大大的に、占いで商売してるわけではない。
釈尊時代のバラモンは、色々な占いで稼いでいたのです。穀物の上がり下がり、
は勿論のこと、今で言えば、競輪、競馬、かくスポーツの勝ち負け、あらゆる
占いをして商売をしていたのです。そういうのを卑しいとして釈尊は禁じたのです。
まっとうな占いなら良いのじゃないですか?
日本にも居るでしょう、運命鑑定師が。
- 302 :準シュダオン:2012/01/22(日)
11:14:57
- 堅固経で、富裕な在家信者の堅固と言う者が、釈尊に、「高弟の神通力を示して
布教した方がより偉大な法として広がるでしょう、是非神通力を示させてください」
と、釈尊に懇願しますね。釈尊は、弟子にはそうさせない、と拒否します。
釈尊は、弟子に、「功徳は隠すべきであり、過失は明らかにして懺悔すべき」と
指導しています。
釈尊が神通力を示さない理由として、それは悪評がたつからだと答えています。
伝聞した者が、それは呪文のしわざだ、と教団を侮辱するであろう、と。
今風に言えば、そりゃ手品に決まってる、邪道だとか悪評がたつからしないと。
なんだか、管長の念力の護摩を思い出しますね。
- 303 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/22(日) 12:11:55
- >>299:準シュダオン12/01/22(日) 10:33:21
>あのね、何も知らない第三者だからそう思うのよ。yさんは十年以上前からの知人で、
だからあなたが聴いた霊示は、実は当日伺う予定のYさんの件には一言も触れて
いなかったはずです。
霊示の内容は、「震度5の地震が来てMさん(イニシャル失念。仮のものと見て下さい)
の〇〇が〇〇になってしまう」という報告でした。
Yさんは出て来ません。共通点は大きな地震が来るというだけです。
そして局地的には震度5も記録した大きな地震は2日前に起きたばかりだから
またいつ来るかわからないと不安が心の中にあっておかしくない。
>だから、私には、お助けの霊示だったことを疑う余地はないのです。
>もっと言うと、あれを天耳通というのかも知れない。この世の人の声だけで
>なしに、天界(霊界)の声を聴く能力が、人にはあるのだと思いますね。
天界だとか高い存在からの霊示として捉えるべきかどうか判断するのに参考基準
となるのは予言の内容ですね。
震度5よりもどうしてMさん(仮)の件がはずれるのか?
Mさんは当日よその土地に出掛けていて被害に遭わなかったことが後にわかったと
報告してましたよね。
なんで天界さんは不当にもMさんを辱める?
しかしあなたの空想が夢ではないが夢のように気まぐれに現れたと見れば説明がつく。
夢でもない幻聴は高齢による脳の軟化が原因でしょう。
高齢者が皆軟化するわけではないが、軟化してそのような幻聴を聴くような報告は
あるのであり、あなたの場合もそれと推定されます。
- 304 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/22(日) 12:43:03
- >>300:準シュダオン12/01/22(日) 10:43:00
>ホントの苦を受けた体験がある人は、こりゃかなわん、と将来の苦を逃れようと
>するものです。
その苦が自分がなした過失とか不正が原因だったらどうでしょう?
あなたは不正を隠匿してまで苦(処罰を受ける)ことを避けようとしますか?
さて、今回は過去の罪障を解消する話です。
過去の罪障を解消できるか否かの議論はさておいて、これを解消する道を考える
わけです。
ちなみに釈尊は過去世の罪障などで脅すようなことをせず、今自分の行いと心のみに
注視するよう説いたわけですが。
だから過去世の罪障なんて自覚もできぬものなど出しても仕方がない。
しかしここでは過去の罪障を話に出しているのだから、罪障というものは自分が
為したものです。
つまり不正を為したのです。
あなたは不正を隠匿して責任をとらないのか?
いみじくも>>302であなたは釈尊の言葉を引用してますね。
>釈尊は、弟子に、「功徳は隠すべきであり、過失は明らかにして懺悔すべき」と
>指導しています。
- 305 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/22(日) 13:06:14
- >>301:準シュダオン12/01/22(日) 10:55:06
>それだけが梵行ではないよ。大大的に、占いで商売してるわけではない。
>まっとうな占いなら良いのじゃないですか?
>日本にも居るでしょう、運命鑑定師が。
占いをもとに霊感商法を展開しています。
京極夏彦の小説「魍魎の匣」を読むと、この辺を京極堂こと中禅寺秋彦が細分類してますよ。
占いだけを生業とする人と、預言託宣をしてそこから先に「あなたの不幸は〇〇が
原因である、速やかに〇〇せよ」として入信を勧めたり、解決させる為のグッズを売りつける。
後者の方がたちが悪いとしています。
アゴン宗のALC相談の場合も占いをして、はい、終わりではなく、この苦境を
打開するために護摩木などのグッズを買うように勧めます。
あるいは一般人ならば入信にまで勧めることを最大眼目とします。
愛染明王祈願会だの各道場でささやかなイベントが開かれますが、運営する人たちは
必ずその集計実績を数字で報告します。
星まつりだって地区ごとの売り上げ本数です。
各地区にノルマのごとく数字が課せられている。
- 306 :準シュダオン:2012/01/22(日)
14:32:05
- >アゴン宗のALC相談の場合も占いをして、はい、終わりではなく、この苦境を
打開するために護摩木などのグッズを買うように勧めます。
>あるいは一般人ならば入信にまで勧めることを最大眼目とします。
まぁ、当人は善いことだと信じて勧めているんでしょうからね。しつこくなければ
問題ないのではありませんか?誰にも人の商売を邪魔する権利はないはずですよ。
阿含宗は占いの後で、高額なハンコを売ったりはしていないでしょう。
霊感商法とは、程度問題でしょう?
全国の神社仏閣は、全部、いわば、科学的根拠のない霊感商法でしょう?
要は、程度問題だと思いますね。
- 307 :準シュダオン:2012/01/22(日)
14:49:52
- >しかしここでは過去の罪障を話に出しているのだから、罪障というものは自分が
為したものです。
つまり不正を為したのです。
>あなたは不正を隠匿して責任をとらないのか?
ユビさんには、もう少し想像力を働かせて欲しいのだけど、過去の罪障は解らない
のですよ。あるいは前世で、心ならずも戦争に行って、たくさん人を殺していて、
現世で十年後に事故死する運命かも知れないんですよ。
不正の隠匿といっても、不正の価値観は、前世と今世では違うのですよ。
ついでに記すと、滅罪生善て、大乗では罪も実態のあるものではなく、無常・空
なのだから、罪そのものを滅する方法がある、と説いていますね。
で、アウフヘーベンした阿含宗の教えでは、過去に為したカルマ・業(罪)は変
えられないが、そのカルマ・業(罪)の「報い」は変えられるという教えでしょう。
私はそのとおりだと思いますね。
- 308 :準シュダオン:2012/01/22(日)
15:09:57
- >の〇〇が〇〇になってしまう」という報告でした。
Yさんは出て来ません。共通点は大きな地震が来るというだけです。
そして局地的には震度5も記録した大きな地震は2日前に起きたばかりだから
>またいつ来るかわからないと不安が心の中にあっておかしくない。
あのね、霊示には4〜5人の人が出てきたのです。でも忘れないうちにメモして
おこうと考えた時には、MKさんとKTさんの二人しか覚えていなかったわけね。
あなたは想像するしかないから、否定することは目に見えていた。煩悩がある
から、素直に受け入れられないのです。それが解っているから、しばらく霊示レス
を躊躇していたのです。しかし、今更、消せない。
この霊示の件は、法友にも話していませんよ。話せば、話が少しは知られ、
「あの人、霊示があったそうよ、天耳通とか豪語してるそうよ、幻聴聴いて少し
思い上がってるんじゃないの、少しへこましてやろうか」とかね、
なにかとトラブルの元になりかねない。ネツトならそういう心配はない。
けれど、何かと説明は面倒くさいね。
- 309 :準シュダオン:2012/01/22(日)
15:37:31
- >なんで天界さんは不当にもMさんを辱める?
しかしあなたの空想が夢ではないが夢のように気まぐれに現れたと見れば説明がつく。
>夢でもない幻聴は高齢による脳の軟化が原因でしょう。
高齢者が皆軟化するわけではないが、軟化してそのような幻聴を聴くような報告は
>あるのであり、あなたの場合もそれと推定されます。
こういう幻聴で災害を避けられるのなら、何度でもこういう幻聴が欲しいね。
釈尊の、「功徳は隠すべきであり、過失は明らかにして懺悔すべき」という
指導の中の功徳とは、こういう霊示みたいな功徳は隠せ、という意味だと思う。
正しく修行していると、このような超自然的な体験が起こるのでしょう。
でもこういう功徳は隠すべきなんですね。以後の功徳はネットにも書かないよ。
こういう超能力みたいなのは、目的ではなくて、修行の道しるべ、なのだと
思うね。超能力を獲ようと修行しては、それはつかない。煩悩を無くす修行を
していれば、自然に超能力もつく。まぁ、例外的な人もいるでしょうけどね。
管長は、「間脳思考」本に、密教超能力=霊性=無限に発展した道徳意識、
と書いています(霊性とは何かの項)。
そういうのを読めば、超能力だけ獲ようとしても、それは無理だということが
解りそうなものであるけど、ユビさんなどは見落としていたでしょう。
- 310 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/22(日) 17:21:41
- >>306:準シュダオン12/01/22(日) 14:32:05
>霊感商法とは、程度問題でしょう?
>全国の神社仏閣は、全部、いわば、科学的根拠のない霊感商法でしょう?
>要は、程度問題だと思いますね。
程度問題とは裁判沙汰になるかの時であり、裁判にまではならねども少額でも
霊感商法には変わりないんですよ。
キリスト教の教会でも献金はあります。
私の義姉がキリスト教だったので、姪や甥たちと教会に行ったこともある。
ミサの最中に献金がある。
信者でもない招待客は出さなくてもよいとのことだったが。
さてこの献金ですが、占いをして脅して不幸を脱却する為に、願いを叶える為に護摩木を
書きなさいというのとはまるで性質が違う。
教会では聖書を読んで信仰心を育て、その上で献金をするのだが、こんな占いで
煽り脅すようなあからさまなことはしない。
- 311 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/22(日) 17:43:40
- >>307:準シュダオン12/01/22(日) 14:49:52
>過去の罪障は解らない
>のですよ。あるいは前世で、心ならずも戦争に行って、たくさん人を殺していて、
>現世で十年後に事故死する運命かも知れないんですよ。
>不正の隠匿といっても、不正の価値観は、前世と今世では違うのですよ。
私もわかりもしない前世での悪業なんて考えるのもおかしいと思う。
だが、わからないだけで、何も無いとするのも教えに反しますよね。
わからないから安易に金でも解決できる話だにはならないはずだ。
それって金を受け取る教団側の都合のよい嘘ですよね。
被災地などでボランティアに励む善行などに励まれても教団にとっては
何の利益にもならないからです。
だから私は具体的に本当に悪業をなした麻原の話を出した。
麻原が死刑となり、残された遺族、子孫に麻原の霊障が祟ったかのように見えて
将来アゴン宗に解脱供養をお願いに来る。
こういう想定ではあるが、具体的な事例に対する質問に対して、桐山さんは
麻原の霊障は解脱成仏すると回答したのです。
この際麻原の不徳罪障は10万円の回向で地獄から一時抜け出せたのです。
あなたは納得できますか?
- 312 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/22(日) 18:09:44
- >>308:準シュダオン12/01/22(日) 15:09:57
>あのね、霊示には4〜5人の人が出てきたのです。でも忘れないうちにメモして
>おこうと考えた時には、MKさんとKTさんの二人しか覚えていなかったわけね。
何人出て来ようが、その中にあなたが覚えていられる知人がいればいるだけ
これは外からの天啓ではなく、内からのあなたの脳の作り上げ幻聴をきかせた
ものだと、より納得がいきます。
>あなたは想像するしかないから、否定することは目に見えていた。煩悩がある
>から、素直に受け入れられないのです。それが解っているから、しばらく霊示レス
>を躊躇していたのです。しかし、今更、消せない。
私が今回否定しているのは天啓の部分だけです。
今回あなたにムシの知らせみたいなものがうまいタイミングで現れたかもしれない
可能性まで否定していないのです。いくら前々日大きな地震があったとは言え。
しかしアゴン宗の神霊の作用ならば、MKさんの外れ霊示なんか出す方がおかしい。
本当の霊示ならば、地震が来る、危ないだけでよい。
もっと確実なのは沿岸部に近寄るな。大津波が来るとでもあればよい。
しかし三陸では昔から津波被害があったにも関わらず、当日は避難が遅れたことが
原因で犠牲者が出たほど想定外だったのです。
あなたの幻聴も想定外までは予知していないからYさんは出てこなかった。
この霊示の件は、法友にも話していませんよ。話せば、話が少しは知られ、
今後も話さないことをアドバイスします。
あなたが準シュダオンさんであることを暴露するようなもので、宗務局にちくられたら
ややこしいことになります。
- 313 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/22(日) 21:27:31
- >>309:準シュダオン12/01/22(日) 15:37:31
>そういうのを読めば、超能力だけ獲ようとしても、それは無理だということが
>解りそうなものであるけど、ユビさんなどは見落としていたでしょう。
他人のことを勝手に決めつけているが、その実一番超能力志向は準シュダオンさん
ではないでしょうか?
私は再入行以前に三明六通の話を桐山本を通じて読んだ時から、必要なのは
漏尽通と思ってました。
ただし現在との違いは漏(煩悩)を神通力で断ってしまうかのように間違って
理解していたのだが。
他の宿命通だの他心通だのに興味がなかった。
ってか過去世が透視できたり他人の心が読めたりしたところで、それがどうして
根本問題である苦の解決につながるのか?桐山因縁解脱でも説明がつかないからです。
だから目標とすべきは漏尽通だけです。
ところがあなたは他の神通力を必至に出して必要だ必要だと説く。
あなたと私の価値観の違いでしょうか?
因縁解脱であれ煩悩解脱であろうが、宿命通や他心通がどう役に立ち必須なのか説明してみなさいな。
- 314 :準シュダオン:2012/01/23(月)
10:27:29
- >他人のことを勝手に決めつけているが、その実一番超能力志向は準シュダオンさん
>ではないでしょうか?
私が入行したんは、「特に信仰は必要ない」という管長本を読んだからです。
管長はその表現を後悔していましたが、信仰が必要だというのならば、私は入行
しなかったでしょう。当時は、非科学的な宗教など信じていませんでしたから。
当時は、自分の苦境を打開するには、管長の説く密教・超能力の修行をするしか
ない、と考えた。そういう意味では、入行時の私は、ユビさんのいうとおりです。
>私は再入行以前に三明六通の話を桐山本を通じて読んだ時から、必要なのは
>漏尽通と思ってました。
わたしは、「輪廻する葦」「間脳思考」本を読んでからは、超能力志向を一切
止めましたよ。三結煩悩を断つことに専念したのです。必要なのは漏尽通という
ユビさんは、漏尽通を誤解していませんか?
ただ漠然と、「煩悩が尽きたかな」なんて思うのは漏尽通ではありませんよ。
「自身作証 生死尽智 不受後有」つまり、生死が尽きて輪廻を脱したと、自覚
できて、初めて漏尽通ですよ、つまり、阿含経の漏尽通は完全に超能力です。
>ところがあなたは他の神通力を必至に出して必要だ必要だと説く。
>あなたと私の価値観の違いでしょうか?
私が神通・超自然的能力が必要だというのは、それがあると修行が正しく進んで
いる、というゆるぎない自覚が生じるからです。神通は、修行が正しく進んでい
ることを確認できるバロメーターだと思います。だから私は、今や、ユビさんの
レスを読むことがあっても、少しも自信が揺らぐことはありませんね。
- 315 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/23(月) 11:51:48
桐山さんは阿含経講義(中)巻において過去の主張の曖昧さを
弁解したり糊塗したりしております。
三供養品では、三善根を三福道に変えたというように三善根の
意味を付け加わえ、火滅品を出してアナゴン=有余涅槃界と主張しています。
ご承知のようにアゴン宗は、上根の成仏法とした応説経と下根の成仏法である
三供養品の二つの教義で成り立っています。
応説経は、桐山さんのように徳積みをしてグモンジ脳を開発した機根者が、
達成できる修行法であり、三供養品は在家でありながらも三福道を
三宝の身許で実践すれば得られるアナゴンまでの境界であるはずです。
桐山さんは当然、応説経の道品法を修業した有余衣涅槃者としています。
今回の(中)巻でも、それを裏付ける文章が随所に記載されています。
414頁「わたくしは、七科三十七道品を如実に修業したわけですが、」
415頁「わたくしは四念処法と七覚支法を主に修業して、成仏力を身につけたわけですが、」
桐山さんの教義の主旨は、
1、七科三十七道品を修して「阿羅漢(有余衣涅槃者)」となる(応説経)
2、三福道を実践して「阿那含(有余涅槃界)」までを可能とする(三供養品)
となっております。
以上を素直に受け取れば、桐山さんの主張は2種類の有余涅槃界があることになります。
当然、桐山さんは七科三十七道品を修した阿羅漢の有余衣涅槃者です。
そしてそれ以外の機根の低い者でも、三福道の実践により得られる有余涅槃界は、
阿那含だと述べていることになります。
桐山さんが、この2種類の有余涅槃界を否定すれば、
>>283の深山さんからの指摘通り、桐山さんは自ら申告して得た阿羅漢から、
なんと阿那含へ転落することになります。
嫌なら「2種類の有余涅槃界」を説くしかないことになる。
さて仏教の常識として以上の「2種類の有余涅槃界」などあるのでしょうか?
自説の過ちを糊塗するために打ち出した(中)巻の桐山説は、
進むも地獄、引くも地獄というアリサマだと考えます。
- 316 :準シュダオン:2012/01/23(月)
13:36:01
- >私が今回否定しているのは天啓の部分だけです。
>今回あなたにムシの知らせみたいなものがうまいタイミングで現れたかもしれない
>可能性まで否定していないのです。いくら前々日大きな地震があったとは言え。
私も天啓だと確信しているわけではありません。が、そういう出来事があって、
Yさん宅訪問を中止した。まぁ、月に一回程度の定例会、とでも言いますか、
句会とかなら上等なんですが、そうではない、が、過去何年間も、私は欠席した
ことがなかった。
それをイヤな感じがして、行かなかった。偶然とは言い難いでしょう。
天啓とまではいかなくても、阿含宗の仏様のお助けである、と私は考えています。
今までそういう体験が一度もなかったと思うしね。震度6強の震災だったので、
「震度5」という霊示は外れたと、考えていたがそうでもないね、考えて見たら
震度5のもあったね。
- 317 :準シュダオン:2012/01/23(月)
13:54:40
- >こういう想定ではあるが、具体的な事例に対する質問に対して、桐山さんは
>麻原の霊障は解脱成仏すると回答したのです。
それは、麻原の霊障がストーカーの如く、遺族等に祟っていた状態が止む、
と、そのような意味だと解しますね。
>この際麻原の不徳罪障は10万円の回向で地獄から一時抜け出せたのです。
>あなたは納得できますか?
地獄から一時的にでも抜け出したとは解釈しません。
ああいう重罪の場合は、一度の回向では、遺族への祟りを解消するくらいで、
麻原霊が成仏するためには、もう少し回向が必要だと思います。
- 318 :準シュダオン:2012/01/23(月)
14:09:03
- >私もわかりもしない前世での悪業なんて考えるのもおかしいと思う。
>だが、わからないだけで、何も無いとするのも教えに反しますよね。
輪廻を前提とすれば、人間に生まれた者は、必ず悪業を積んでいます。
そうでなければ仏陀になっているはずでしょう?
>わからないから安易に金でも解決できる話だにはならないはずだ。
>それって金を受け取る教団側の都合のよい嘘ですよね。
嘘とは決め付けられないでしょう。嘘だという証拠はない
>被災地などでボランティアに励む善行などに励まれても教団にとっては
>何の利益にもならないからです。
ボランティアも善業には違いないでしょう。善いことには違いないけれども、
それで涅槃界へ至ることは出来ませんよ、というほどの意味だと思います。
ボランティアをする人は偉い、と私は思いますね。
- 319 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/23(月) 14:20:38
今から20年ほど前に別院の信者同士の間で、
桐山ゲイカは解脱してるのか?という質問がありました。
職員の話しでは「アナゴン」です、という回答でした。
しかしこれは公言しないほうがよい?と言われた。
この時期、桐山さんはスサノオウの生まれ変わりとも言い出した。
私はまだ信者でしたが、この異様性に首を傾げてしまった。
桐山有余衣涅槃者の宣言は、>>279で深山さんが引用してくれたことで
確認できます。
しかし桐山さんらしく12年前は、「成仏法・七科三十七道品の四神足法(四如意
足法)を成就して、」とあり、
今回の(中)巻では、「わたくしは、四念処法と七覚支法を主に修業して、
成仏力を身につけたわけですが、」同著415頁 と記憶が異なります。
実際に修業したなら、12年程でなぜ斯くもその道品法の記憶があいまいなのか?
その場しのぎの思いつきというウソばかりだからです。
グモンジ脳がきいて呆れます。
アゴン宗で桐山さんは、七科三十七道品を修した有余衣涅槃者=阿羅漢です。
しかし、
三福道を実践し五下分結を断ったならば、有余衣涅槃者=アナゴンと、
今回の(中)巻で言い放ってしまった。
これは有余衣涅槃には、二種類の沙門「果」があるということになって、
仏教常識からも過去の桐山語録からも異なる珍説発表です。
これを否定するならば、
今回の「有余衣涅槃者=アナゴン」一説と言い抜けなければならず、
これまた仏教常識から逸脱し、有余衣涅槃者の桐山さんはアナゴンに降格です。
編集職員は、このアリサマをどのように収拾するのでしょうか。
- 320 :準シュダオン:2012/01/23(月)
14:44:48
- ユビさんが、「わたくしたちは外道凡夫ではありません」との管長言を、矛盾が
あると称したけど、それが気に掛かっていたので再度レスします。
思うに、ユビさんは算数の回答の如く、黒でなければ白、というような考え方を
しますね。だから、外道凡夫でないのならば、聖者だろう、というように考える。
向経の釈尊の言葉を受けて、管長は説明しています。
「わたくしたちは、外道凡夫ではありません」
この場合の外道凡夫は、聖者には成れない外道凡夫のことですね。
修行していない外道凡夫なのだから、当然、聖者にはなれません。
一方、こちらの方の凡夫は聖者に近づいている凡夫です。将来、聖者になれる凡夫です。
「もうすでに、聖者に向かって修行しています。・・これを須陀オン向といいます・」
と、説明があるとおりです。矛盾はありません。
1、聖者になれない外道凡夫と
2、聖者に近づいている凡夫=須陀オン向
との二種類の凡夫が、管長の説明に登場しているのですね。
ユビさんは、深山さんやラシンさんとは違い、まだ自分の思考を修正できる
柔軟性が有りそうですから、納得できるでしょう。
- 321 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/23(月) 16:35:05
- >320 :準シュダオン:2012/01/23(月) 14:44:48
>外道凡夫でないのならば、聖者だろう、というように考える。
批判の誰もそのような短絡した自説など、出していない。
阿含経を論拠として学者が和訳した記述を出しているだけです。
桐山さんは(上)巻で、預流未満(預流向)≠外道凡夫と言い、
今回、(中)巻では、預流未満(預流向)=凡夫と解説した。
それは釈尊の四双八輩に該当するものではなく、
桐山さんは四双八輩を出されると困るであろうと、
ユビキタスさんが前述しているものです。
>1、聖者になれない外道凡夫と
2、聖者に近づいている凡夫=須陀オン向
との二種類の凡夫が、管長の説明に登場しているのですね。
私は、準シュダオンさんのレスに対して>>177では、
阿含経に「外道凡夫」が説かれていないような表現をしました。
>>178において私は、阿含部2の向経を示し謝罪し撤回しています。
しかし、阿含経で唯一認められる「外道凡夫」は準シュダオンさんの
主張するような区分けではありません。
桐山さんの「預流」を以って”聖俗の分かれ目”という根拠は、
阿含経には無いのです。
あなたが根拠が無い桐山説をいくら根拠にしても、釈尊の主張とはなりえない。
四雙八輩が聖者集であり福田という記述の阿含経は、多数確認できる。
長阿含経二経〜中阿含経、増一阿含経と、ざっと確認できるだけで十五経です。
逆に準シュダオンさんの「預流向≠聖者」という阿含経を引用してもらえないか?
今まで出すことが出来なかったはずです。
無いものは引用できるはずがあるまい。
- 322 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/23(月) 16:40:29
>>178において私は、阿含部2の向経を示し謝罪し撤回しています。
↓
>>181のまちがいでした。
- 323 :Boo:2012/01/23(月)
17:18:36
- >向経の釈尊の言葉を受けて、管長は説明しています。
>「わたくしたちは、外道凡夫ではありません」
>この場合の外道凡夫は、聖者には成れない外道凡夫のことですね。
>修行していない外道凡夫なのだから、当然、聖者にはなれません。
>
>
>一方、こちらの方の凡夫は聖者に近づいている凡夫です。将来、聖者になれる凡夫です。
>「もうすでに、聖者に向かって修行しています。・・これを須陀オン向といいます・」
>と、説明があるとおりです。矛盾はありません。
もういいでしょう、この話は。一般的見解としては、準シュダオンさんと桐山聖者区分
とは矛盾していないが、釈尊の教え、仏説、とは矛盾する部分がある、ということですね。
- 324 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/23(月) 21:33:32
- >>314:準シュダオン12/01/23(月) 10:27:29
>ユビさんは、漏尽通を誤解していませんか?
>ただ漠然と、「煩悩が尽きたかな」なんて思うのは漏尽通ではありませんよ。
勝手な言い方をするのはやめなさい。煩悩が尽きてなくなるというのは、すんごい
ことなんです。三明のうち二明まで体得した外道でも漏尽はできなかったのですから。
>「自身作証 生死尽智 不受後有」つまり、生死が尽きて輪廻を脱したと、自覚
>できて、初めて漏尽通ですよ、つまり、阿含経の漏尽通は完全に超能力です。
煩悩が尽きてなくなると輪廻が止むことを否定したことは一度もありません。
通常は輪廻するものをしなくなるのは超能力に等しいと表現するのならば
私もそれに乗りますよ。
煩悩が尽きてなくなったことも超能力のような離れ業なれば、輪廻しなくなった
ことも超能力のような離れ業と言えます。
しかし超能力「で」煩悩をなくし輪廻を止めたのではない。
「自身作証 生死尽智 不受後有」この中に輪廻が止まること以外にどこに
他の超能力がありますか?
そしてあなたが出すのは、その「他の」超能力なんですよ。
他の超能力を修行の過程において体現することはあっても、どう見ても必要な
超能力ではないと、あなたが引用した文からでもわかります。
また私が信者時代にも漏尽通のみに価値をおいていたのも、それが桐山インネンに
直結するものだと捉えていたからです。
自分を悪しき方向に押し流す衝動の大本の煩悩がなくなれば因縁解脱は完成します。
それさえあれば過去世なんか透視できなくてよいし、他人の心など読めなくてもよいし
身体から火や水なんか出したところで何もならない。
- 325 :深山:2012/01/23(月)
22:27:03
- >>320 :準シュダオン:2012/01/23(月)
14:44:48
また、インチキ引用が始まった。
すでに議論の終わったことをこうやって蒸し返す。
読者の皆さん、準シュダオンさんの引用は必ず原文を確認してください。
この人はこれまでも、自分に都合が良く解釈できるように前後をカットして
引用したことが何度もある常習犯です。
油断も隙もあったものではない。
この件はこれまでも何度も議論になり、桐山さんの文章からだけでは、
「預流向=聖者」とも「預流向≠聖者」とも読み取れないというのが結論です。
ところが、これをまたインチキ引用して、まるで「預流向≠聖者」と
桐山さんが書いたかのように話を歪めた。
本当に悪質な年寄りだ。
- 326 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/23(月) 22:28:26
- >>314:準シュダオン12/01/23(月) 10:27:29
>私が神通・超自然的能力が必要だというのは、それがあると修行が正しく進んで
>いる、というゆるぎない自覚が生じるからです。神通は、修行が正しく進んでい
>ることを確認できるバロメーターだと思います。
いいえ、それはバロメータにはなりません。
なぜならそのような通力は外道の修行者でも体験できてしまうのです。
宿命通や天眼通までもね。
しかし神通力を得ても解脱はできない。
逆に二大弟子のサーリプッタみたいに神通力なしに最高の解脱を得た聖者もいる。
神通力と解脱が別物なのだから、修行の過程において体験することはあっても
そんなものに囚われずに先に進まねばなりません。
そうは言ってもそこまで進めば励みになるではないかと言いたいだろうが
なりません。それは神通力の中身をよく検証してみなさい。
過去世が透視できたのはよい。自他ともに、なるほどこのような煩悩があったればこそ
輪廻を続けてきたんだなあと観察はできますよね。
しかしそれができれば煩悩はなくなるのか?別ですよね。
自覚したところで煩悩が消えるわけでなく、そこから意識的努力を繰り返して
減らしなくすしかないではないか?
釈尊の場合は既に煩悩がなくなった状態で過去世も透視したが、過去世を透視
できたところで、煩悩の断ち方を知らねばどうにもならないではないか?
あなたがかつては超能力志向者だと告白してくれたが、
私も告白するならば
私のは能力志向です。
桐山さんの掲げる超能力を調べてみなさい。
三明六通などの神通力とも性質が異なる。
桐山さんのはそれを身につけることによって現代社会において出世活躍できる能力です。
人の3倍から5倍の体力や精神力だの高度な知能だの爆発的な念力による
願望達成力だの他人を動かし環境を変える力だの。
こういう能力は私も欲しかった。この力を獲得して社会に出れば・・・。
私がアゴン宗の超能力志向は現世利益信仰に過ぎないと言ったのもこのことです。
一方オウムの超能力志向はアゴン宗とも違う。あれは神秘体験をするだけです。
だから私は信者時代からオウムを馬鹿にしていた。
主観の神秘体験ができたとてそれが何になる?根本的な人格などは改善もされて
ないし、世の中に役に立たないものだ。
では阿含経にも説かれる神通力はどうか?どちらに近いのか?
- 327 :深山:2012/01/23(月)
22:28:31
- >>320 :準シュダオン:2012/01/23(月)
14:44:48
「もうすでに、聖者に向かって修行しています。・・これを須陀オン向といいます・」
これが向経にある桐山さんの文章だと準シュダオンさんは引用した。
これだけ読むと、まるで「聖者に向かっているのが須陀諸Y向」と読める。
聖者に向かっているのだから、須陀諸Y向は聖者ではないことになる。
桐山さんも準シュダオンさんと同じように、
「預流向≠聖者」と説いたと判断できます。
だが、原文を見てください。
「預流向≠聖者」とも「預流向=聖者」とどちらとも取れる文章なのです。
「わたくしたちは外道凡夫ではありません。もうすでに聖者に向かって、一生懸命に修行してい
ます。完全に須陀諸Yになっていないまでも、須陀諸Yに近くなっている人たちもいます。須陀諸Yに
どんどん向かっているのですから――これを須陀諸Y向といいます――、みなさんは外道凡夫ではありません。」
(『仏陀の真実の教えを説く[上]』373頁)
- 328 :深山:2012/01/23(月)
22:34:41
- 「わたくしたちは外道凡夫ではありません。」
桐山さんは信者を外道凡夫ではないと言っている。
そして、信者を少なくとも預流向であると言っているように取れる。
仏教では凡夫でなければ聖者です。
つまり、「預流向=聖者」です。
桐山さんの外道凡夫という言葉に着目すれば、こういう結論が出て来る。
だが、準シュダオンさんのように、聖者に向かっているのが預流向だと
桐山さんが書いているようにも読める。
こうなったら、「預流向≠聖者」です。
つまり、桐山さんの文章からは「預流向≠聖者」とも、「預流向=聖者」とも
どちらとも読み取れる。
だから、以前の議論では、これ以降の本、つまり今回の中巻で桐山さんが預流向のことを
何と書くか、それを見てみようではないかというのが議論の結末だった。
- 329 :深山:2012/01/23(月)
22:36:48
- 「わたくしたちは外道凡夫ではありません。」
国会図書館の下巻が手に入る前、ユビキタスさんに報告してもらったのも、
四向四果の預流向について何か記述がないかどうかでした。
だが、残念ながら、預流向そのものについての記述はありません。
ラシンさんが前に引用した部分は、ユビキタスさんが説明したように、
四向四果ではなく、四果(四沙門果)についての記述で、
これはこれまでも桐山さんはすでに同じような主張をしています。
四向四果と四果とは別個にしないと、かつての私のように混乱します。
四果の話で「預流からが聖者だ」というのは正しい。
しかし、これをもって「預流向≠聖者」にはなりません。
なぜなら、預流向は四果ではなく、四向四果の分類だからです。
四果に預流向はありません。
観点や切り口が違うのだから、両者を一緒にするのは危険です。
四向四果と四果では、同じ内容の記述だし、表記が似ているから、
つい両者をいっしょにしてしまいがちです。
だが、四果と四向四果を同時に取り扱うのは正しくありません。
といくら言っても準シュダオンさんには理解できない。
- 330 :深山:2012/01/23(月)
22:38:57
- 「この預流(初果)というのは、四諦の真理を完全に理解会得した境地で、
ここから「聖者」の列に入るのである。」(『人間改造の原理と方法』182頁)
この文章が桐山さんが預流向について書いたもう一つの文章です。
と言っても、預流向という言葉は出てこない。
実は、桐山さんのこの本の181頁での四向四果の一覧表を見ればわかるように、
「預流」と「預流果」を一組の聖者としている。
アビダルマではこれはありえない。
正しくは預流向と預流果が一組の聖者で、預流と預流果は同じです。
正しくは「預流向」と「預流果」とするべきところを、付け焼き刃だから、
桐山さんはこんな変な組み合わせにした。
つまり、上の文章では預流向のことを預流と書いたのです。
上記の預流とは預流向のことなのです。
だから、桐山さんはこの本では「預流向=聖者」と述べていることになる。
- 331 :深山:2012/01/23(月)
22:42:55
- 「わたくしたちは外道凡夫ではありません。」
桐山さんが準シュダオンさんと同じように、「預流向≠聖者」と
唱えてくれるなら、大歓迎です。
無知ぶりをあざ笑ってあげます。
実際、桐山さんは準シュダオンさんと同じような理解のレベルだから、
「預流向≠聖者」と内心思っている可能性がある。
しかし、残念ながら、これから本が出るとしても、「預流向≠聖者」と
唱える可能性はかなり低い。
なぜなら、平河出版社がこのスレを読んでいるからです。
準シュダオンさんのようなマダラ脳の社員がいれば別だが、
普通の知性があるなら、経典も学者説も「預流向=聖者」
であることをこのスレで学習した。
『人間改造の原理と方法』でも、桐山さんは水野博士の解説を
読んだ直後だから、四向四果=聖者であることを述べている。
わざわざ学者説と違う説を書いて、批判ネタになっては困るから、
「預流向≠聖者」なんて阿呆説は出しません。
しかし、「預流向=聖者」と出すかと言うと、これも出さないでしょう。
なぜなら、これを出せば、アゴン宗の信者は皆さん聖者ということになる。
これでは、聖者の位階を売るつもりの桐山さんの商売に反する。
桐山さんは聖者に値段を付けるために、わざわざ前の本では、
預流には聖者ではなく賢者という位階を付けた。
こんなふうに名前をいくつか付けて段階的に信者に売るつもりでいたのに、
信者全員が聖者だなんて認めたら、商売あがったりです。
だから、「預流向=聖者」もわざわざ書かないでしょう。
- 332 :深山:2012/01/23(月)
22:46:28
- 「わたくしたちは外道凡夫ではありません。」
信者さんたちは準シュダオンさんのように勝手な解釈をするのではなく、
正確に仏教を理解してください。
聖者の意味が仏教では一般的な意味とは違います。
仏教では、世の中には聖者と凡夫しかいない。
後の部派仏教などでは、この簡単な分類に余計なことをあれこれ付け加えた。
だが、釈尊はそんなくどい分類はしません。
「聖者:仏教では,主に凡夫(ぼんぶ)(pthag-jana,異生(いしょう))との対立概念として用いられる.」
「凡夫:仏教の道理を理解していない者、俗人。
特に修行論では聖者の階位(見道、四向四果の預流向)に到達する前。」
(岩波仏教辞典)
聖者と凡夫は対立概念だとある。
つまり、聖者でない者は凡夫、凡夫でない者は聖者です。
だから、桐山さんが信者さんたちのことを外道凡夫でないと言ったのだから、
信者さんたちはアゴン宗における聖者です。
また、凡夫についての説明の中に、聖者の位階である預流向に到達する前とある。
つまり、預流向から聖者であり、それよりも前は凡夫です。
この説明の一文を見てもわかるように、「預流向=聖者」です。
- 333 :深山:2012/01/23(月)
22:52:37
- >493 :準シュダオン:2009/10/25(日) 10:36:08
ID:P9JinFks0
>そういう人は、「仏陀の真実の教えを説く」を読めば、管長の考えがわかる
>P372にも、須陀諸Y、預流、聖者、の説明があります。
>そして、P373のお終いから3行目、
あなたが桐山さんから引用した文章を、あなたは初めて引用したと
思っているのでしょう?
とんでもない、上記のように二年前からあなたは引用しているのです。
この文章の後にあなたは今回の文章を引用してみせた。
もう何年にもわたりこうやってあなたは同じ主張を繰り返し、
そのたびに私は、仕方ないから同じ反論を繰り返し、議論の結論は、
「どちらともとれる」であることを示した。
ところが準シュダオンさんはまったく記憶しない。
>思うに、ユビさんは算数の回答の如く、黒でなければ白、というような考え方を
聖者について白黒をつけているのは批判側ではなく、>>332に示したように、
釈尊であり、仏教辞典に書いてあることであり、批判側は関係ない。
それよりも、白黒を付けたがっているのは準シュダオンさんのほうですよね。
批判側は、「どちらともとれる」、つまり白や黒ではなく、灰色だと述べたのです。
これが今の所のこの議論の結論で、桐山さんやアゴン宗から
新しい資料が出てこない限り、議論は進まない。
こういう議論をきれいに忘れ、桐山説は「預流向≠聖者」と主張して、
白黒をつけたがっているのは準シュダオンさんのほうです。
思い出さなくてもいいから、理解できましたか。
ついでに、夕飯を食べたことを記憶していますか。
- 334 :深山:2012/01/23(月)
22:59:43
- >>320 :準シュダオン:2012/01/23(月)
14:44:48
準シュダオンさんが暇そうに年中書き込んでいる所をみると、
ようやく退職したのではありませんか。
おめでとう。
おめでとうとは、準シュダオンさんにではなく、元いた職場の人たちへのお祝いです。
準シュダオンさんを追い出せて、彼らは祝杯をあげているでしょう。
威張り屋、自惚れ屋で、何の実力もないお説教魔の準シュダオンさんに
仕事場にいられては、迷惑なだけで何の役にも立たない。
しかし、喜んでいるのは職場の人たちだけです。
暇を持て余した準シュダオンさんは一日中したらばにへばりついている。
小人閑居して不善を為すという言葉は準シュダオンさんのためにあるのかもしれない。
あなたが仕事場を追われたことで、ここでの老人介護は大変です。
一日中、とりとめのない話をクドクドと書き込む。
他人の反論は無視、嘘や矛盾を指摘されても馬耳東風、
自分が過去に書いたことにすら責任を持たず、今回もすでに
議論が済んでいるのを完全無視して、自分の説を蒸し返した。
あなたの人生は他人の迷惑の上に成り立っている。
2ちゃんねるに、あなたと似たような二体さんという信者が出てきたが、
彼のほうがまだ他人にそれほど迷惑をかけていないという点で、
あなたよりもましです。
- 335 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/23(月) 23:36:57
- >>314:準シュダオン12/01/23(月) 10:27:29
>私が神通・超自然的能力が必要だというのは、それがあると修行が正しく進んで
>いる、というゆるぎない自覚が生じるからです。神通は、修行が正しく進んでい
>ることを確認できるバロメーターだと思います。
阿含経に説かれる神通力はオウムの神秘体験とアゴン宗の現世利益のどちらに近いか
と言うと、オウムの神秘体験と同類にしては失礼な話であるが、少なくともアゴン宗の
現世利益とは全く別です。
オウムの神秘体験との違いは、きちんと知ることができることですね。
過去世にしても生死のことにしても他人の心でも如実に知ることができます。
智慧であり知恵です。宿命通とも言うし宿命智とも言う。
しかしそこまでと言えないでしょうか?
「知る」ことにおいて超人的ではあるが、そこから先は別の努力を必要とするのです。
だから私は問うている。前世のことは知った。わかった。
じゃあ後はどうするの?
知ることにおいて超人的ではあってもそれだけでは何事も解決しない。
だからオウムみたいな漠然とした神秘体験とは根本的に異なるが、それだけで
外部に働きかけて何かを動かし救うこともできないし、影響力も与えられない。
つまり病気ひとつ治せないではないか?
むしろ釈尊含め自分らもまた病気を克服できていない。疫病が流行れば大量に死ぬ。
病気治しもできない超能力です。
「阿含仏教・超奇蹟の秘密」に「示現経」が引用されてます。
内容は釈尊が三つの示現をあらわした話です。
まず身体からカラフルな火や水を出したという神変示現。
次に他人の心を読む他心示現。
そして最後に言葉を駆使して教えを説いた教戒示現。
このうち衆生は釈尊の最後の教戒示現、すなわち言葉を介した説法に歓喜奉行したのです。
もちろん歓喜しただけですぐにその人は変わりません。
教えを理解し、日々実行をこれからしていくのです。
つまり他心通は相手の心を読むだけで相手の心まで動かせません。
ダイバダッタであろうが誰だろうが神通力で改心させられません。
このように釈尊もまた示す神通力は知ることの一種といえ、そんなに外部に
影響力すら与えられない力なんです。
再度言うが病気治しすらできないのです。
- 336 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/23(月) 23:51:58
- >>316:準シュダオン12/01/23(月) 13:36:01
>私も天啓だと確信しているわけではありません。が、そういう出来事があって、
>それをイヤな感じがして、行かなかった。偶然とは言い難いでしょう。
>天啓とまではいかなくても、阿含宗の仏様のお助けである、と私は考えています。
あなたがそのように捉えることは自由だと思います。
と言うのは他の宗教を信じる人もそれと同じことを考えているからです。
だからあくまでもあなた個人の枠を出ない主観世界ではそれでもよいと思う。
しかしこれが他との比較、客観的考察となると、ではどの宗教が正しく本当なのか
ってなことになってしまう。
私とてあなたが低い知性の埋め合わせとばかり不思議な霊感というか予知能力
みたいのが作用したかもしれない可能性を否定もしていないのです。
しかしそれとその信仰が客観的に正しいかとは別に考えた方がよいのです。
客観的に考えるならば私が仮説として示したような可能性も含めて皆さんに
考えてもらえればよいわけです。
つまりあなたの確信は皆に共通する客観的な確信にはならない。
- 337 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/24(火) 00:16:18
- >>317:準シュダオン12/01/23(月) 13:54:40
>地獄から一時的にでも抜け出したとは解釈しません。
>ああいう重罪の場合は、一度の回向では、遺族への祟りを解消するくらいで、
>麻原霊が成仏するためには、もう少し回向が必要だと思います。
ところが桐山さんはそうとも申していないのですよ。
麻原が一時は解脱成仏して幽界に安息するかのように話したのが桐山さんです。
私は当時関東別院の法話で直にそれを聴きました。
決して麻原は地獄で苦しみながら、遺族の祟りだけが解けたというような
言い方ではない。
霊障と言うのは福島原発が倒壊して放射性物質が拡散し続けているから
周辺住民に危険を及ぼしているように捉えればよい。
これを解消するには原発から放射性物質が漏れ出ることなく復旧することです。
もちろん原発そのものは新たに再起動などしなくてもよいが、放射性物質の漏れ
だけは修復する。
これが解脱供養です。
だから悪影響を与えられていた人ももう被害の元がなくなり安心する。
しかし後遺症のようなものは残るでしょう。
しかしアゴン宗ではその後遺症とは桐山さんの言い訳にしか使われません。
あれだけ霊障を受けていたのだから後遺症がある、だからすぐに好転したように
見えない。
そのリハビリを修行によって埋めるのだとする。
つまり放射性物質が漏れなくなり、これ以上影響を継続的に受けずに済んだのが
桐山霊障解脱であり、原発が修復しても後遺症に悩んでいる状態を霊障とは言わない。
だから麻原は一時的に解脱成仏の安息を見たことになる。
その代わりまた後で最終的に地獄に堕ちると苦しい説明だが。
その時また解脱供養出せば助けてあげられるのかな?
つまりあんな極悪人でも10万円払えばなんとかなると説いたも同然なわけです。
- 338 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/24(火) 00:48:22
- >>318:準シュダオン12/01/23(月) 14:09:03
>嘘とは決め付けられないでしょう。嘘だという証拠はない
嘘と言うよりもおかしいと思わないか?
悪業と言っても程度ものです。
それぞれ罪障解消すると言っても刑罰にも罰金で済むもの、無期懲役から死刑
まであるように重さによって違います。
それが一律10万円の回向料で済んでしまうって、何それ?
あなたに悪影響を与えている霊障を起こした先祖って、麻原級の悪党がねじ曲がった
怨念ごと祟っている可能性が無いとは言い切れませんよね?
それなのに10万円で済んじゃう?
>ボランティアも善業には違いないでしょう。善いことには違いないけれども、
>それで涅槃界へ至ることは出来ませんよ、というほどの意味だと思います。
これは桐山さんがはっきり説いているから桐山梵行の名の由来とともに
桐山教学を勉強してもらいましょう。
桐山さんは善因善果、善因楽果を認めますが、それを世間福と出世間福に分けます。
世間福とは世間一般の因縁の制約の上に成り立っている福であり、被災地で
ボランティアをすることもこれに相当します。もちろんこの善業に対して功徳はあります。
しかしそれが善い話となって実を結ぶのは来世と教えています。
来世の福にはなっても現世の悪因縁を切る福にはならないと説きます。
現世の悪因縁をも切るような福は世間の因縁から離れた出世間福なんだとします。
出世間福とは因縁解脱したホトケの世界に関する福と桐山さんはした。
つまり釈尊の仏法を世に広めることとした。
この出世間福を梵福と呼ぶ。梵福を得る為に行うのが梵行だとした。
実は世間福、出世間福、梵行、いずれも本来の用例とは違っているのですが。
ともかく世間のボランティアでは現世の因縁を切れず、ホトケに対して行った
布教の善行のみが因縁解脱の徳にもなると限定した。
だから教団への献金もふくめたみささげ梵行だけしか通用しないと説くのです。
- 339 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/24(火) 08:45:24
- >>318:準シュダオン12/01/23(月) 14:09:03
>嘘とは決め付けられないでしょう。嘘だという証拠はない
>ボランティアも善業には違いないでしょう。善いことには違いないけれども、
>それで涅槃界へ至ることは出来ませんよ、というほどの意味だと思います。
桐山さんの説いた世間福、出世間福、梵行、全て元の仏教用語の意味と異なった
誤用をしています。
世間福とは桐山さんが出世間福としている出家・僧団に対して布施をすることに
よって生じる福です。
出世間福とは自ら出家して煩悩をなくす修行をすることによって得る福です。
梵行とは主に性欲を制御する禁欲のことです。
これらを捏造改竄してみささげをすれば解脱に必要な徳をいただける御利益の話に
してしまった。
そしてそのみささげの対象はアゴン宗限定なのです。
他の善行は来世に得る福であり、現世で因縁を切りたかったらアゴン宗にみささげを
して徳を得なさいという指導です。
こんな教えは仏教にはない。
布施は説くが、それと解脱とは関係ない。来世に得る福です。
出家僧団に供養しようとも。
もっとも日本の白隠禅師など現世の中でも返る福をご存知施行歌で説いています。
千座行時代からの和讃のネタにしたものですね。
修行読本1の巻末に掲載されている。
しかしこれってよく読んで考えてみなさい。
ここで白隠の勧めるほどこしって、どこに対して行うものですか?
わが自坊である原の松陰寺に対して供養をせよ、臨済宗に対して布施をせよですか?
違いますよね。世の中の困っている人たちを助けてやりなさいと、自分の教団には
何の利益にもならない教えを説いているのです。
施しをする心を養い、世の中の為になりなさいと社会への還元を説いている。
桐山さんの商売とは全く異なりますね。
社会に還元されても教団には何の得にもならないからです。
信者が立派な人間となって人材などが育っても利益にならないからです。
あなたが認めたように商売だからです。
- 340 :準シュダオン:2012/01/24(火)
09:34:15
- >世間福とは桐山さんが出世間福としている出家・僧団に対して布施をすることに
>よって生じる福です。
>出世間福とは自ら出家して煩悩をなくす修行をすることによって得る福です。
ユビさんは誤解しています。世間福というのは、俗にいう現世利益のことです。
出世間福というのは、涅槃界へ至る福です、つまり解脱の福のことです。
管長は間違えていません。ユビさんが読み違えていると思います。
>梵行とは主に性欲を制御する禁欲のことです。
出家者の梵行の場合はそれ↑で正解だと思いますが、在家者の梵行の場合は少し
違うでしょう。清らかな行いという意味ですよね。バラモンの人生では学生期に
あたり、師から学ぶ時期でしょ。梵は、梵天とか、仏の意味もあるでしょう。
ですから、仏様のお仕事のお手伝いをすることも、梵行だと思います。
- 341 :天照
◆MO30b8Jwoo:2012/01/24(火) 09:46:30
- >梵行
だからそれはゲイカ論だって。頑固なんだからね。真面目に仏教を考える気、ある?
- 342 :準シュダオン:2012/01/24(火)
09:56:14
- >他の善行は来世に得る福であり、現世で因縁を切りたかったらアゴン宗にみささげを
>して徳を得なさいという指導です。
>こんな教えは仏教にはない。
三供養品・三善根に説いているでしょう。如来の所で功徳の種をうえなさいと。
阿含宗は、自分の所に如来が居ると自負してますから、自分のところに奉仕しなさい、
と教えているのでしょう。
>布施は説くが、それと解脱とは関係ない。来世に得る福です。
>出施しをする心を養い、世の中の為になりなさいと社会への還元を説いている。
>桐山さんの商売とは全く異なりますね。
管長も同じですよ、和讃を読んでご覧なさい。「・・我が身わが子を救わんと、
思わば人を先ず救え・」等、世の中の為になれと説いています。ユビさんは、
大局的に読んでいません。セクト的なところばかり読んで、揚げ足を取っています。
>ここで白隠の勧めるほどこしって、どこに対して行うものですか?
>わが自坊である原の松陰寺に対して供養をせよ、臨済宗に対して布施をせよですか?
和讃の「・悩める人の杖となれ・」などに有る如く、阿含宗限定ではありません。
- 343 :準シュダオン:2012/01/24(火)
10:01:51
- >>梵行
>だからそれはゲイカ論だって。頑固なんだからね。真面目に仏教を考える気、ある?
私のは管長論だけではありません。岩波仏教辞典の「梵行」の項を要約したのが
先のレスです。で、仏様の手伝い、という管長論も正しい、と認識してるだけです。
- 344 :準シュダオン:2012/01/24(火)
10:12:44
- >来世の福にはなっても現世の悪因縁を切る福にはならないと説きます。
>現世の悪因縁をも切るような福は世間の因縁から離れた出世間福なんだとします。
>出世間福とは因縁解脱したホトケの世界に関する福と桐山さんはした。
あぁ、そうだったんですか。勉強になりました。
>つまり釈尊の仏法を世に広めることとした。
そのように↑限定しているわけではないでしょう。
>この出世間福を梵福と呼ぶ。梵福を得る為に行うのが梵行だとした。
>実は世間福、出世間福、梵行、いずれも本来の用例とは違っているのですが。
>ともかく世間のボランティアでは現世の因縁を切れず、ホトケに対して行った
な〜るほど、と勉強しました。すぐ忘れますけど。
>布教の善行のみが因縁解脱の徳にもなると限定した。
私は、限定してはいない、と解釈しています。
- 345 :準シュダオン:2012/01/24(火)
10:21:56
- >あなたに悪影響を与えている霊障を起こした先祖って、麻原級の悪党がねじ曲がった
>怨念ごと祟っている可能性が無いとは言い切れませんよね?
>それなのに10万円で済んじゃう?
ね、そうでしょ。そういう極悪人の霊障を、10万円で払いのけてくれるなら、
安いもんでしょ?霊感商法云々も、要は、解脱供養がホントか、ウソかの問題
には、裁判官も立ち入らず、10万円が不当に高いか否か、の問題になるでしょう。
- 346 :天照
◆MO30b8Jwoo:2012/01/24(火) 10:57:05
- >>343
では私は岩波辞典を持ってないので示してくれますでしょうか。
私には岩波辞典では阿含宗の言うような梵行の意味は記してないと思うので。
- 347 :名無しさん:2012/01/24(火)
11:15:53
- >>345
>10万円が不当に高いか否か
高い高いっ!
んなもん
せいぜい1万円が妥当だっつーの
1体を完全解脱ご供養するのに10年20年かかるならまだしも
冥徳解脱供養みたく
家族でダブってもお構い無し
家系名がわかんなくったって「某甲家」でOK!
そんなアバウトなやり方で100体200体300体
なんてのを続けていけばその内どういう結末が待っているかなんて
ちょっと考えればわかるはず
欲にかられて判断が鈍ったんだね
自分の能力の過信による増上慢の強欲から判断を誤ったんだよ
少しの賢い知恵があればあんなバカな霊感集金は絶対しない
訴えられるのは当然の結果。
少し知恵があればわかること。
- 348 :深山:2012/01/24(火)
12:22:03
- 岩波仏教辞典
「梵行 ぼんぎょう[s:brahma-cary]
<梵>(brahman)は節制・禁欲を意味し,<行>(cary)は振舞・行為をさす.
清らかな行い.すなわち出家者が戒律を守って禁欲の生活を送ること.
特にあらゆる性的な行為を慎むこと.古くインドでは,バラモン(婆羅門(ばらもん))の
送るべき人生の諸段階を四つに分け,そのうちの第一段階を<梵行期>(学生(がくしょう)期)といって,
その間は身を清く保ちながら,師匠のもとで学習に専念すべきものとされた.
これが仏教などの出家宗教では,生涯にわたる純潔主義に発展し,
違犯すれば教団追放の重罪に処されるという修道上の基本となった.
転じて,仏教の修行生活そのものも指す.」
- 349 :深山:2012/01/24(火)
12:22:45
- 仏陀の真実の教えを説く[上]、175頁
「梵行とは「浄め、高める修行」です。まず、法にしたがって身を浄める。また、先祖供養をし
て不成仏霊・霊障のホトケを成仏させる、という霊的な浄化もこれに入ります。それから、仏さ
まのお手伝いをして徳を積み、自分を高める。このように「浄め、高める修行」が梵行です。」
- 350 :準シュダオン:2012/01/24(火)
12:24:07
- >私とてあなたが低い知性の埋め合わせとばかり不思議な霊感というか予知能力
>みたいのが作用したかもしれない可能性を否定もしていないのです。
>しかしそれとその信仰が客観的に正しいかとは別に考えた方がよいのです。
釈尊は、「得阿那含 種種神通境界」と、説いているんですよ。五下分結煩悩を
断てば、神通が生じる世界に入る、と説いているのです。私の霊示体験で、先へ
進めば、そういう種種神通境界も本当だろう、と私は、信じられるのです。
こういう霊示は、知性の高低は関係しないね。ユビさんは、自分では知性
が高いと思っているようですが、そういう慢の強い人にはまず、起きないね。
我見煩悩が薄れていって、初めて霊示を受けられると思います。
我見大王の深山さんも、何かレスしているようですが、私はスルーします。
あんなに我見に満ちた、大量のレスを読む能力は、私にはない。
我見準大王のラシンさんのレスも、スルーします。
私が、「二十代の頃は泥棒しても見つからなければ罰はないと考えてた」とレス
したら、ラシンさんは「道徳の欠如だ」ときたw、それを我見と言う。
私は、「泥棒したい」とレスしたのではない。因果応報や天罰を信じていなかった
例えとして、「見つからなければ罰は無い」とレスしたのです。
だからと言って泥棒を勧めるはずもない、被害者の立場に立てば泥棒できないこと
は当たり前だろうが。私だって悪ガキ時代は忘れたが、成人してからは泥棒したことはない。
天網カイカイ疎にして洩らさずを信じるということは、罪には天罰があると、
信じることを意味します。今やそう思うから、匿名のネットでさえ私はウソは
書かない、とレスした。そしたら「ウソつきまくってる」とのラシンさんの評だ。
「だめだ、こりゃ」と、考えて、以後ラシンさんのレスもスルーする。
- 351 :深山:2012/01/24(火)
12:26:59
- >>343 :準シュダオン:2012/01/24(火) 10:01:51
>私のは管長論だけではありません。岩波仏教辞典の「梵行」の項を要約したのが
>先のレスです。で、仏様の手伝い、という管長論も正しい、と認識してるだけです。
天照さんに、辞典を引用してみろと言われると、年中はりついている
準シュダオンさんが急にいなくなるのがおもしろい
ぬけぬけとよくまあ、口から出任せのデタラメが書けるものだ。
岩波仏教辞典のどこに、アゴン宗の意味のボン行があるのだ?
暇を持て余した老人脳はこうやって平然と嘘を書き並べる。
他の信者さんたちは>>348の岩波仏教辞典を良く読んでほしい。
そして、>>349の桐山さんの定義しているアゴン宗のボン行と比較してください。
両者はまったく似ても似つかない内容です。
岩波仏教辞典の説明にあるように、仏教の梵行とは、
「戒律を守って禁欲の生活を送ること」
であり、特に、
「性的な行為を慎むこと」
です。
つまり、欲望を抑えること、特に性欲を抑えること、これが仏教の梵行です。
一方、桐山さんのいうアゴン宗のボン行はどうか。
- 352 :深山:2012/01/24(火)
12:30:51
- >>349
浄める・・・不成仏霊、霊障のホトケを成仏させる
高める・・・イベントを手伝い徳を積む
これが桐山さんのいうボン行です。
信者さんたちには、>>348の岩波仏教辞典の説明と比べてほしい。
どこをどう読んでも両者はまったく別物です。
どこをどう読んでも桐山さんの説明のような意味は出てきません。
阿含経に限らず、仏教には不成仏霊を成仏させて霊的浄化をするとか、
あるいは徳を積むなんてはありません。
信者さんたちはアゴン宗のいう徳が具体的に何を指すかわかりますか。
霊障のホトケと同じで、信者さんたちは認識できない。
しかし、釈尊は、こういうあるかないかわからないような内容を
修行として説くことはほとんどありません。
釈尊のいう徳とは、煩悩から解放されることです。
だから、大徳とは解脱者のことです。
仏教の梵行とは禁欲であり、性的なことを慎むことです。
このように釈尊の説く梵行とは、不成仏霊や徳などいう誰にも
わからない話ではなく、煩悩という誰でもが自覚できる具体的な内容です。
- 353 :深山:2012/01/24(火)
12:34:30
- 梵行「性的な行為を慎むこと」
もう一つ信者さんたちに着目してほしいのは、
釈尊の説く修行そのものの基本は「他人にする」ことはほとんどないという点です。
欲望を慎むのも、性的な禁欲もすべて自分に対して行うことです。
一方、桐山さんのいうボン行とは、霊障のホトケという自分以外、
イベントを手伝うという他者に対して何かすることです。
そういうと、信者さんたちは、八法十六法があるではないかという。
だが、よく見てください。
ここでも八法という自分が基本です。
八法を「自分」が行った上で、他人に対しても行うのだとしている。
自分がまず実践することが大前提です。
自分が実践するとは、煩悩を減らすことであり、
禁欲を意味する梵行はその一つです。
これを自分がした上で他人にも勧めろと言っているのです。
他人に勧めることで自分の煩悩がなくなるなんて言っていない。
- 354 :深山:2012/01/24(火)
12:37:50
- 梵行「性的な行為を慎むこと」
釈尊の説く修行とは、自分に対して行う修行であって、
自分以外の存在である不成仏霊の供養なんて出てこない。
また、自分の以外の存在である応供の如来に供養するなんてのも出てこない。
「いや、釈尊は供養も説いている」と言うでしょう。
では、お聞きするが、それが解脱のための修行だと釈尊がいつ説きましたか。
釈尊は供養によって解脱できるなんて説いていない。
すでに何度も引用しているように、マガダ国に住んでいた大金持ちの
事例が典型で、彼は前世で解脱者に供養した功徳で大金持ちに
生まれたが、今生では目の前に釈尊など如来がいるにもかかわらず、
仏縁すらできなかった。(『神々との対話』中村元、197頁〜)
この大金持ちは、供養したにもかかわらず煩悩は少しも減らなかった。
貪りの心はそのままだったから、大金持ちなのにケチで貧乏人のような
生活をして、人生を享受できなかった。
解脱者に供養しても、貪りの心は減らなかったのですよ。
金持ちが得たのは、供養の功徳で次の人生で金持ちになったことだけです。
解脱への道とはまったく関係ない。
彼は解脱者に供養したにもかかわらず、預流にすらなれなかったという
事実に信者さんたちは驚いてほしい。
相手が如来でも供養などいくらしても、解脱とは関係ないのです。
三福道なんて嘘です。
- 355 :深山:2012/01/24(火)
12:40:34
- 梵行「性的な行為を慎むこと」
この大金持ちの話からわかることは、信者さんたちが仮に
本物の如来に供養するチャンスがあっても、百年供養しても、
それだけでは煩悩が減ることはないから、預流にすらなれない。
解脱者や不成仏霊とは他者だから、彼らに何をしようが、
自分の煩悩が減ることはないからです。
預流などの解脱の道を進むためには、他者ではなく、自分の
煩悩をなんとかする以外に道はありません。
だから、釈尊は禁欲を意味する梵行を説いた。
『仏陀の真実の教えを説く[上]』にある出家経にそれが出ています。
阿那含になるためには梵行が必要になる。
阿那含になるためには欲貪と瞋恚をなくす必要があるからです。
欲貪とは簡単に言えば欲望ですから、これを禁欲を意味する梵行によって
なくしていくのです。
禁欲によって欲貪がなくなるから阿那含になる、ほら、筋が通りますよね。
こんなわかりやすい内容なのに、どこに不成仏霊を成仏させるとか、
星まつりのイベントを手伝うのがボン行だなんて話が必要なのですか。
- 356 :準シュダオン:2012/01/24(火)
12:41:14
- >自分の能力の過信による増上慢の強欲から判断を誤ったんだよ
>少しの賢い知恵があればあんなバカな霊感集金は絶対しない
>訴えられるのは当然の結果。
そうかなぁ、そんなに世間は甘いかな。
「金があって、解脱供養効果を信じて申し込んだんだろう?教団だって、人を
集めて、経費かけて法要してたわけだからねぇ。後になって金返せというのは
虫がいいんじゃないの?そういうことは申し込む前に、考えるべきじゃないの」
第三者的一般人は、その↑ように考えると思う。
- 357 :深山:2012/01/24(火)
12:42:31
- 梵行「性的な行為を慎むこと」
準シュダオンさん以外の方は、釈尊の言う梵行とは禁欲であり、
性欲を慎むことだと理解できましたか。
そういう目で桐山さんを見てください。
彼のどこが欲望を慎んでいるのだ?
「食いしん坊だから大食いするけれども・・」(ダルマチャクラ、175号、31頁)
出家の一日一食とは、身体を維持するのに必要最小限という意味です。
それを守らないどころか、食欲にあかせて「食いしん坊」だという。
この桐山さんのどこが梵行をしていると言えるのだ?
名誉欲もすさまじく、必要もない肩書きを次から次と購入してくる。
そして、あげくが愛人です。
桐山さんが元愛人に訴えられたのは88歳ですよ。
少なくとも2005年まで付き合いがあったことが裁判でわかっているから、
84歳頃まで愛人がいたことになる。
俗人ならお盛んで立派なことだが、解脱者ならありえない。
いや、解脱者などでなくても、仏道修行をしている者に愛人がいるなど
あってはならない。
岩波仏教辞典の記述を読んでください。
- 358 :深山:2012/01/24(火)
12:45:41
- 「違犯すれば教団追放の重罪に処されるという修道上の基本となった.」
出家は禁欲である梵行を破る者は追放されたのです。
実際、性的な関係で追放された比丘の記述が残っています。
梵行は修行の基本だから、これすら守れない者は教団にいられないのは当たり前です。
釈尊の説く修行である梵行は、禁欲です。
食欲や睡眠欲など肉体を維持するのに必要な欲望は最小限にして、
性欲、名誉欲、物欲はすべて捨てることを求められる。
これが守れないなら、出家としては追放される。
食欲、性欲、名誉欲、物欲を満載している桐山さんは
阿羅漢どころか、仏教修行者ですらない。
釈尊の時代なら、追放どころか、最初から入門させてもらえない。
このように釈尊の説く梵行一つを正しく理解しだけでも、
桐山さんを阿羅漢だの聖者だのと仰ぐのは無知以外のなにものでもないのがわかる。
信者さんたちは釈尊の説く本当の梵行を良く理解してほしい。
釈尊の説いた意味の梵行からは、星まつりで焚き火をして供養するとか、
死者を成仏させるとか、それによって功徳を積んで解脱するなんて
オカルト話は絶対に出てこない。
むしろ、真っ先にそれらを捨てるのが梵行だと気がつくはずです。
信者さんたちの今していることは釈尊の指示に逆らった「反梵行」です。
- 359 :深山:2012/01/24(火)
12:51:32
- >>350 名前:準シュダオン 投稿日: 2012/01/24(火)
12:24:07
>信じることを意味します。今やそう思うから、匿名のネットでさえ私はウソは
>書かない、とレスした。そしたら「ウソつきまくってる」とのラシンさんの評だ。
おやおや、また準シュダオンさんの嘘が増えましたね。
どこまでこの人の面の皮って分厚いのでしょう。
では、準シュダオンさんの嘘の一覧表を更新しましょう。
1.「預流向≠聖者」という阿含経の根拠は?
2.桐山さんが「預流向≠聖者」と言ったという証拠は?
3.「阿含仏教では、預流向は凡夫僧」(55章625)という阿含経の根拠は?
4.小縁経のどこに「阿羅漢」とあるのか。
5.「預流果=一来向」「一来果=不還向」「不還果=阿羅漢向」という阿含経の根拠は?
6.アビダルマ仏教が預流向を聖者に位置付けた犯人だという根拠は?
7.深山が倶舎論を根拠として「預流向=聖者」と主張した文章はどこにあるのか?(55章940)
8.下記の文章のある阿含経はどこにあるのか?
「四双八輩是聖賢之衆」(五章266、6月23日)
「四双八輩 是如来弟子聖賢之衆」(五章633,
7月9日)
「四双八輩 是如来弟子衆也聖賢之衆」(>>7)
9.これだけの嘘を書き並べていながら、自分は嘘つきでないと述べた。
「私はウソは書かない」(57章350)
- 360 :深山:2012/01/24(火)
13:25:24
- >>350 :準シュダオン:2012/01/24(火)
12:24:07
>釈尊は、「得阿那含 種種神通境界」と、説いているんですよ。五下分結煩悩を
>断てば、神通が生じる世界に入る、と説いているのです。私の霊示体験で、先へ
>進めば、そういう種種神通境界も本当だろう、と私は、信じられるのです。
うわあ、また嘘だ!
準シュダオンさんて、桐山さんと同じで、口を開けば、嘘がでてくる。
桐山さんと馬が合うはずだ。
部分引用して意味を歪める、準シュダオンさんの得意技です。
上記の引用は真っ赤な嘘で、部分を切り取ったのです。
しかも、これは初めてではなく、これについては前に私から嘘を指摘されている。
原文は以下です。
「我三結を盡さしめして須陀諸Yを得、三結盡き貪恚癡薄らぎて
斯陀含を得、五下分結盡きて阿那含を得、種種神通境界、
天眼天耳。他心智。宿命智。生死智、漏盡智。皆悉く得ん。」
(『國訳一切経 阿含部3』485頁)
ごらんのように、これは須陀諸Yから阿羅漢に至るまでの四沙門果の説明です。
「五下分結盡きて阿那含を得、種種神通境界」とは、
阿那含が神通力を得るという意味ではなく、文章は「阿那含を得」で
切れており、次の「種種神通境界」とは阿羅漢についての説明です。
それをまるで神通力の説明が阿那含であるかのように部分を引用して、
前後をカットして、ごまかそうとした。
準シュダオンさんは桐山さんですらしないほどに阿含経を
使って次から次と嘘を書き並べる。
では、準シュダオンさんの嘘の一覧表に書き加えましょう。
- 361 :深山:2012/01/24(火)
13:27:22
- 準シュダオンさんの嘘の一覧表(本日二件追加の更新)
1.「預流向≠聖者」という阿含経の根拠は?
2.桐山さんが「預流向≠聖者」と言ったという証拠は?
3.「阿含仏教では、預流向は凡夫僧」(55章625)という阿含経の根拠は?
4.小縁経のどこに「阿羅漢」とあるのか。
5.「預流果=一来向」「一来果=不還向」「不還果=阿羅漢向」という阿含経の根拠は?
6.アビダルマ仏教が預流向を聖者に位置付けた犯人だという根拠は?
7.深山が倶舎論を根拠として「預流向=聖者」と主張した文章はどこにあるのか?(55章940)
8.下記の文章のある阿含経はどこにあるのか?
「四双八輩是聖賢之衆」(五章266、6月23日)
「四双八輩 是如来弟子聖賢之衆」(五章633,
7月9日)
「四双八輩 是如来弟子衆也聖賢之衆」(>>7)
9.これだけの嘘を書き並べていながら、自分は嘘つきでないと述べた。
「私はウソは書かない」(57章350)
10.阿那含で神通力が得られるかのような嘘を書いた(57章350)
「釈尊は、「得阿那含 種種神通境界」と、説いているんですよ。五下分結煩悩を
断てば、神通が生じる世界に入る、と説いているのです。」
- 362 :天照
◆MO30b8Jwoo:2012/01/24(火) 13:56:33
- 深山さん、辞典だけでなくゲイカの解説(阿含宗での教義)まで示してくださって感謝申し上げます。
なるほど。これなら辞典を持って無い私はもちろん、外部の方でもわかりますね。
さあ、準さん引用は深山さんがなさってくれました。岩波辞典と阿含宗との中身が違うわけですが、
これらをどう説明いたしますか? 解説をお待ちしております。
- 363 :名無しさん:2012/01/24(火)
14:47:12
- >>356
>金があって
みんな、金なんか持ってないでしょう!?
こんな景気の悪い不安定な時に貴方お金なんてあるの?
>教団だって、人を
>集めて、経費かけて法要してたわけだからねぇ
経費って?
いったい幾らの経費で解脱供養してるのさ?
利益ー経費=純利益
教団は冥徳解脱供養でいくら集金(純利益)してきたと思ってるの?
>申し込む前に、考えるべきじゃないの
ちゃんと考えられるような情報を与えない方が悪いと思わない?
信者の幸せになりたいと思う欲をくすぐって
目に見えないモノ(霊)を使い恐怖で煽った
はじめは1千万円2千万円かかるなんて一言も言わないよ
後から少しづつ話しを変えていくんだ
それだけでも契約違反にならない?
完全な説明不足!
(始めから説明してたら商売にならない、様子を見ながらルールを変えていくんだ)
申し込む前と後で話しがドンドン変わっていったんだよ!
そうして最終的に上手に桐山さんに誘導されながら
気が付けば数千万円。
そして桐山さんの口癖は
「霊的な事は聞くな、そして言っても君らにはわからん、私に任せていればそれでいい」
世間的に一人の人間に数百体の先祖供養って必要だと思う?
世間一般常識的に一人の人が数百人のご先祖様を
ご供養しなければいけないなんて
果たして何人の人が思ってるかな?
そんなの洗脳され自力で考える力をなくしてる信者しかいないでしょう
>虫がいいんじゃないの?
虫がいいのか悪いのかは裁判官が判断するだろう
そのために間に裁判所を入れて裁判しているんだから。
- 364 :準シュダオン:2012/01/24(火)
15:03:11
- >出世間福とは自ら出家して煩悩をなくす修行をすることによって得る福です。
仏教辞典には、「出世間=俗世間を離れた仏道の世界の意」と、ありますね。
>梵行とは主に性欲を制御する禁欲のことです。
出家者にはだいたいそれ↑でもいいかと思いますが、もっと広く考えるべき
でしょう。長阿含経には、「・・妙法、清浄、梵行具足・・」の法として、
様々な修行法が説かれていますからね。
>この出世間福を梵福と呼ぶ。梵福を得る為に行うのが梵行だとした。
>実は世間福、出世間福、梵行、いずれも本来の用例とは違っているのですが。
>ともかく世間のボランティアでは現世の因縁を切れず、ホトケに対して行った
>布教の善行のみが因縁解脱の徳にもなると限定した。
しからば、在家の梵行とは何ぞや?それを釈尊は一切事経で明快に説いて
います。いわゆる、信戒施聞持観法次法向の八法の実践と、それを世に布教
する十六法の実践、その中に在家の梵行がすべて含まれているのです。
ですから、布教を第一の梵行と説く管長は正しいのです、それは十六法の
実践ですからね。
- 365 :準シュダオン:2012/01/24(火)
15:10:10
- >申し込む前と後で話しがドンドン変わっていったんだよ!
>そうして最終的に上手に桐山さんに誘導されながら
>気が付けば数千万円。
数千万円も供養できたら、それだけ稼げていたんですから、感謝すべきです。
私には無理だろうね、出来たら、わたしもそうしたいけどさ。
- 366 :準シュダオン:2012/01/24(火)
15:24:49
- >さあ、準さん引用は深山さんがなさってくれました。
>岩波辞典と阿含宗との中身が違うわけですが、
>これらをどう説明いたしますか? 解説をお待ちしております。
私は、深山さんのレスを見ていないが、結果は解ります。深山さんは、我見で
解釈していますから、辞典の中身も、阿含宗の中身も、両方間違えて捉えているのです。
赤い色眼鏡をかけて世の中見れば、世は赤みかかって見えるでしょう?
青い色眼鏡の場合は、青みかかって、見えるわけです。
正しく見るためには、色眼鏡を外して見ないといけません。
我見とは、その色眼鏡のことをいうのです。
しかし、深山さんには我見の自覚がない、つまり、色眼鏡の自覚がないので、
それを外すことが出来ないのです。我見は、何年も修行して、少しづつ取れて
いくのですから、深山さんには無理なように思えます。
- 367 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/24(火) 16:07:05
今回、桐山新著において、桐山さんが預流未満(預流向)≠聖者と、
判断したか否か、あくまでもそれは四果による解説と捉えてどうか?
これはここのスレにも合致するので一考すべきかとの観点で再度、
私なりの見解を出してみます。
否、これで桐山批判の一つとするのは無理というご意見があれば、
それはどうかご教授をいただき、一考の糧としたいと思います。
阿含経講義(中)巻142頁より
以上の身見・疑惑・戒取の三つを完全に切った人が須陀?です。
須陀?は別名を預といいます。流れに預かる(入る)と書くわけですが、
どのような流れに入るのでしょうか?
これは聖者の流れに入るという意味です。須陀?になった人は聖者で、
須陀?になっていない人は凡夫です。それで須陀?を聖俗の分かれ目とします。
ユビキタスさんからの助言は、桐山さんが「四向四果の体系として」、
預流向が類別されていないので時期尚早ではないかとありましたが、
釈尊は体系別に説いていませんでした。
しかし、その説いた内容は後世において理解されるものです。
そこで、私は桐山さんのミスを抉り出そうと考えたものです。
四果と四向四果とは切り口が別である、との深山さんの指摘も学んでいます。
- 368 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/24(火) 16:41:39
四果とは、修行者の四つの果報であり四つの階位を表しているはずです。
桐山さんの「預流は聖者の流れに入る」とは、たしかに四果の観点で
話したと、考えられるものです。
事実、桐山さんはここで四向に関して一切触れず、記述していません。
これのみの判断であれば、桐山さんの預流向解釈は過去より、
いまだ”曖昧”のままであると解釈できます。
しかし四果を話したのであれば、「須陀?を聖俗の分かれ目」との
その基準判断はマチガイである、と私は指摘します。
理由は、最初に述べたように四果とは聖者の基準ではないからです。
これは、四果が聖者ではない、との意味ではありません。
聖者の基準を言うなら、先ずは「四双八輩」であるはずです。
須陀?を聖者とするのは四果でかまわないが、
それで「聖俗」の分かれ目と判断基準にすれば四向四果ではないか?
つまり、
ここで桐山さんは、「四向四果」の解釈を持ち出したことになる、
と考えることが出来ます。
ご承知のように四向四果とは、修業の過程段階と各果の階位を示し、
それは聖者集であることを意味しています。
桐山さんは、四果の「預流」を解説しているツモリで「四向四果」の
基準で、「聖俗の分かれ目」と結果的には口を滑らしたか。
私は、この部分に疑問を感じたので、問題提起としました。
私の考えるところ、桐山さんは結果ながら「四向四果」に由来した。
この考えによって私は、四果を四向四果で判断しているとはなりません。
桐山さんの「須陀?を聖俗の分かれ目」とは、「四向四果」と考えるからです。
桐山さんの無知ゆえか、軽薄かによるそのミスをあぶり出しています。
- 369 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/24(火) 16:49:42
今回さらに私が注目しているのは、「須陀?を聖俗の分かれ目」の
根拠である「須陀?になっていない人は凡夫」との桐山さんの判断です。
これは、三結を断じていない者は凡夫、との意味です。
>>332の深山さんの引用に従えば「聖者と凡夫は対立概念」ですから、
これを看過すれば、ならば釈尊は「預流」未満の者は凡夫とみなしたか?
との疑問ではなく、疑義が生じます。
しかし、
このような疑義が生じないように釈尊は、
ナーディカ村で病死した人々を例えに「沙門四果」の果報を説き、
引き続き「四双八輩」として聖者の修業の過程、聖者の各階位を示した。
四果と四向四果とは連携し相互に解釈しなければ矛盾を生じる所以では
ないか、と考えるものです。
この「須陀?になっていない人は凡夫」との桐山基準は、図らずも
前述したことを以って四向四果(四双八輩)の預流向に該当するもの、
と私は考えました。
仮にこれが、四果を四向四果で判断する過ちであるとなれば、
この桐山基準は釈尊に倣ったものなのか?との疑問も残してしまう。
いやあくまでも四果の判別で「預流」未満は凡夫が正解であるならば、
すなわち「四果の三結を断じていない者は凡夫」という矛盾を生じます。
- 370 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/24(火) 16:51:18
岩波仏教辞典には、
預流:「無漏の聖者の流れに入った者.”四向四果”の最初の段階.」とあり、
この部分の解説は預流向を指し、後段で「原始仏教では三結を断じた者が
得る位」と同じ表現となる言葉の意味を区分けしてあります。
一来:「天界に生まれ再び人間界に戻って悟りに入る者の意.
”四向四果”の一つ.」
不還:「天界以上の階位に上って悟りに至る者の意.
”四向四果”の一つ.」、とあります。
このように学者は、解釈としては四果と四向四果を切り離しているわけでは
ありません。
この辞典で見る限りは「預流」にのみ最初に「向」の解説をわざわざ
取り入れています。
一来や不還には「向」の解説は付記されていません、なぜか。
この「預流」表現にこそ、聖者の判別の基準として学者は気をつけ、
注意しこだわった、ということでしょう。
つまりここでは、預流向から「無漏の聖者の流れに入った者」と
解説されていることになります。
預流とは「”四向四果”の最初の段階.」とあるのですから、
その意味において桐山基準の「四果の預流未満=凡夫」との
桐山判断は、預流未満(預流向)≠聖者 としたことであり、
それは仏教的にはマチガイであると指摘する所以です。
- 371 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/24(火) 17:00:16
誤:>>332の深山さんの引用に従えば「聖者と凡夫は対立概念」ですから、
これを看過すれば、ならば釈尊は「預流」未満の者は凡夫とみなしたか?
との疑問ではなく、疑義が生じます。
正:>>332の深山さんの引用に従えば「聖者と凡夫は対立概念」ですから、
この桐山説を看過すれば、ならば釈尊は「預流」未満の者は凡夫とみなしたか?
との疑問ではなく、疑義が生じます。
- 372 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/24(火) 18:08:40
打ち明けた話しで言えば、桐山さんの阿含経講義の知識を疑うものです。
批判側が過去より指摘する桐山さんの曖昧さは、矛盾だらけで事実を言えない。
深山さんも指摘するとおり、信者に預流向という階位を与えれば、
教団の商売は見込めずにアガったりです。
しかし、預流未満(預流向)≠聖者とすれば仏教解釈から乖離し、
批判の的になることを察知しているのか。
どう転んでも桐山さんは、明らかに解説することが出来ない。
だから今回も「預流」などと、>>370四果の預流果とも四向四果の預流向とも、
どちらも取れるような曖昧な記述をした? でなければただの無知です。
しかし私は敢えてあぶり出してみようと考えたのが、前述した「四双八輩」の
意味する基準でした。
また「預流」を聖者の流れとの解釈は、四果を説いた経典にある通りですが、
桐山さんの「須陀?(預流)」を基準にして「聖俗」の分かれ目と判断するのは、
それが四果を解説していると見るには、根拠が薄く、ならばこれは、
四向四果(四双八輩)に由来すると考えて、無理があるか否か?
- 373 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/24(火) 22:00:50
- >>340:準シュダオン12/01/24(火) 09:34:15
>ユビさんは誤解しています。世間福というのは、俗にいう現世利益のことです。
>出世間福というのは、涅槃界へ至る福です、つまり解脱の福のことです。
>>364:準シュダオン12/01/24(火) 15:03:11
>仏教辞典には、「出世間=俗世間を離れた仏道の世界の意」と、ありますね。
まず一言お詫び申し上げたい。
出世間福の正しい意味を出家して煩悩を断つことにより得る福と書きましたが、
これは記憶違いで出家まではせぬが在家が仏の教えに従って自ら煩悩を減らしなくす
修行に励むことによって得る福です。
たしか何年か前も同じ間違いを書いてしまったような記憶がある。
私も進歩しないものだ。
こちらの世間福、出世間福のそれぞれの意味内容には根拠がありまして、それは
中阿含経世間福経の記述です。
それによるとこうです。
世間福経とは比丘に供養することによって得る福です。
対して出世間福とは冒頭で述べた通り、在家が仏教の煩悩を減らす修行をして得る福です。
あなたは世間福とは現世利益としたが、比丘に供養する善行をなすと、来世に福を
得るのだが、その福とはお金に困らないとか容色すぐれるというものだから
来世になって得る現世利益みたいなものだ。
ただしこれは比丘に供養したから得たと言うよりも、必ずしも比丘でなくても
善行をなすならば利益を得ます。
比丘供養は善行だとしたわけです。
一方出世間福は出家のように完璧に行かねども、努力工夫によりいくらでも
煩悩を減らせますから涅槃界にも向かいます。
性交を一切断つ不淫戒まで実行して阿那含にまで至るのもいる。
当然二種類の福を説いて出世間福>世間福とするわけです。
さて桐山さんはこれを世間福経で世間福としている比丘、如来への供養みささげを
出世間福としてしまったのです。
世間福の方は比丘、如来ではない世間一般の布施による功徳とみなした。
ところが本当の出世間福とは在家と言えど、煩悩を減らしなくす道、方法に変わりない
のだから、あなた方の好きな七科三十七道品そのものの修行です。
アゴン宗では七科三十七道品の成仏法の修行と奉仕みささげの梵行とは明確に分けます。
成仏法が修行できるだけの徳を得る為にまず奉仕みささげ梵行に励む。
つまり桐山さんの世間福と出世間福の定義は間違っている。
- 374 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/24(火) 22:48:43
- >>340:準シュダオン12/01/24(火) 09:34:15
>出家者の梵行の場合はそれ↑で正解だと思いますが、在家者の梵行の場合は少し
>違うでしょう。清らかな行いという意味ですよね。バラモンの人生では学生期に
>あたり、師から学ぶ時期でしょ。梵は、梵天とか、仏の意味もあるでしょう。
>ですから、仏様のお仕事のお手伝いをすることも、梵行だと思います。
梵行の意味に出家と在家に違いなどありません。
また説く教えも出家と在家の区別は根本的にはなく、要は実践における程度の違いだけです。
だから梵行も性欲を断つことを中心とした禁欲であることに変わりありません。
先に書いたように在家でも梵行をやってのけて阿那含にまで到達した人が何人も
いたわけですから。
清らかな行いと言うが、自分が解脱する徳を得る為に、ホトケにみささげして
機嫌をとるあさましい行いのどこが清らかなんだか。
如来は力も徳とやらもプレゼントしてくれません。
言葉で教えを説いて指導する教師です。
教師に教わる生徒は自分の努力で学習するだけです。
感謝の印にお中元やお歳暮を喜捨してもよいが、それと学習の成果は関係ありませんよね。
アゴン宗のみささげは捧げることにより徳を貰おうという取引信仰であり
お世辞にも清らかではなく、依存と不当な欲望の煩悩に汚れています。
仏様の手伝いって何?
釈尊は各自が煩悩を減らしなくすように説法したのです。
だからすることは煩悩を減らしなくす努力しかありません。
京都の山の上でどでかい焚き火をすることで自分の名前が矢面に出される
侮辱を手伝いとは言いません。邪魔、妨害しているのです。
- 375 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/24(火) 23:15:05
- >>342:準シュダオン12/01/24(火) 09:56:14
>三供養品・三善根に説いているでしょう。如来の所で功徳の種をうえなさいと。
だから如来(釈尊)の所で貪瞋痴の煩悩をなくす修行に励むことはこの上ない
功徳であり福だと説いたわけで、供養ではない。
如来、比丘への供養は世間福に過ぎないと世間福経で説いているわけですから。
>阿含宗は、自分の所に如来が居ると自負してますから、自分のところに奉仕しなさい、
>と教えているのでしょう。
なるほど、醜いばかりの差別化意識ですね。
釈尊は臨終の際、おまえたちを捨てていくと言い残して涅槃に入ったのです。
それのみならず自分が死んだ後は説いた教えを規範とせよと説いた。
ここにどうして如来がノコノコ現れるか?
お笑いじゃねーっつーの。
>管長も同じですよ、和讃を読んでご覧なさい。「・・我が身わが子を救わんと、
>思わば人を先ず救え・」等、世の中の為になれと説いています。ユビさんは、
>大局的に読んでいません。セクト的なところばかり読んで、揚げ足を取っています。
>和讃の「・悩める人の杖となれ・」などに有る如く、阿含宗限定ではありません。
それならばそれこそ被災地に行って援助してあげるボランティアをしてこそ
少しでも杖となれるはずだ。
ところがアゴン宗ではそんな浮き世の因縁の範疇内でのボランティアでは根本的な
救いにはならないと説く。
おまえが地震や津波でこんなひどい目に遭ったのも悪因縁があるからだ。
だからその悪因縁を解かなければならない。それにはアゴン宗で成仏法の修行を
するしかない。まずは解脱供養で霊障を解かねばまた地震が来た時危ない
と言って避難所民に10万円を喜捨でもさせるのですか?
金は全部アゴン宗に入ります。
被災地民にも行きません。収益の一部は囲碁の協会になぜか贈られたり
見返りに名誉の高段もらったり、海外の大学で寄付した見返りの名誉学位などを
買ったり、愛人のミンクのコートに消費されます。
- 376 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/24(火) 23:58:11
- >>344:準シュダオン12/01/24(火) 10:12:44
>そのように↑限定しているわけではないでしょう。
これもアゴン宗教義を教えてあげましょう。
因縁解脱の徳となるような善行、梵行とは何か?
それはシャカを世に出すことである。
抹殺されたアゴン経(抹殺されてねーっつーの)を蘇らし、真実のシャカの教法を
広めることが、シャカが一番喜ばれるのです。
その行動力こそがシャカをして感動せしめて感応道交の世界が開けるのです。
行動を起こさない人には力が加わらない。
あなたがシャカになれ!
アゴン宗が世に出た今がチャンスなのであり、あなた方が行う梵行はそれしか
ないのであると説いたわけです。
- 377 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/25(水) 00:22:49
- >>345:準シュダオン12/01/24(火) 10:21:56
>ね、そうでしょ。そういう極悪人の霊障を、10万円で払いのけてくれるなら、
>安いもんでしょ?
はっはっはっ
ついに本音が出ましたね。
あなたは↓を書いたのに。
>>269:準シュダオン12/01/21(土) 09:35:49
>でも、金で済むじゃん、という考え方は、取引信仰になっていると思いますよ。
安い金で済んでよかったじゃんと安堵するあなたはやはり取引信仰だったわけだ。
安く値切れるもんならそれにこしたことはない。
つまりお買い物だったわけです。
私は金で済ませたら根本的な心の改善にはならんだろ?と疑問を呈したのに。
- 378 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/25(水) 08:39:30
- >>366:準シュダオン12/01/24(火) 15:24:49
>私は、深山さんのレスを見ていないが、結果は解ります。深山さんは、我見で
>我見大王の深山さんも、何かレスしているようですが、私はスルーします。
>あんなに我見に満ちた、大量のレスを読む能力は、私にはない。
>我見準大王のラシンさんのレスも、スルーします。
私は準シュダオンさんのこういう書き込みを目にするごとに喜んでいます。
つくづく彼が批判側でなく、擁護側信者でよかったと思っています。
同じ批判側だったら注意を促したいところだが、逆の立場なので笑っています。
2ちゃんねるでも深山さんとか私のネームを勝手に使って変なことを書き込むのがいる。
批判側である我々に対して腐すような反感を持った人ならば擁護側の信者である
可能性が強い。
アゴン宗の信者がマナー違反をしているのです。
私がアゴン宗の信者だったら恥ずかしくて仕方がない。
注意してやりたいところですね。
準シュダオンさんの認識不足はこのスレに自分と批判側常連しかいないと思って
いることです。
しかし実はここに書かないだけで、じっとロムしている人たちがいる。
その中には批判側だけでなく外部の人もいようし、現役の信者さんも宗務局職員
含めて見ているでしょう。
こういう人たちがあなたの発言を読んで、信者さんならがっかりするだけでなく
腹立たしく思っていることでしょう。
相手の書き込みにいちいち全部レスする義務はありません。
しかし読みもしない、スルーするよとして反論された内容を無視して好き勝手な
ことを書く。
こんなのが同じ信者であることに腹立たしく思っているでしょうね。
だからこちらとしては自分らが腐されようが黙って見ているだけでアゴン宗の
評判は落ちていく。
それをほくそ笑みながら傍観しているわけです。
私は準シュダオンにレスを付けながら観客がどう見ているかに注意を払っている。
私が擁護側信者だった時に気を付けたのは発言内容そのものもさることながら
恥ずかしくない態度でした。
観客に対して変に取り繕うはないが、当たり前の社会人としてマナー違反だけはしない。
こういう意識が準シュダオンさんにはないのでしょう。
それはこちらにとっては、アゴン宗の信者にこんな奴らがいるというだけで、
冷笑に値することなんです。
- 379 :準シュダオン:2012/01/25(水)
09:16:45
- >私は準シュダオンさんのこういう書き込みを目にするごとに喜んでいます。
>つくづく彼が批判側でなく、擁護側信者でよかったと思っています。
>同じ批判側だったら注意を促したいところだが、逆の立場なので笑っています。
あの膨大なレスを全部読めと言うのかい?三文小説家が自分の本を全部買え、と、
言ってるようなものです。無料だから読めというんなら、時間は金なりです。
私の時間を奪うわけだから、無料ではない。ゆえに、私のレスも読みたくない人は
読まないのが当然です。
ユビさんのレスも我見については、深山さんやラシンさんと同じだが、やや自分
の思考を修正する能力が感じられる。ゆえに、ユビさんのレスは、今のところ
アチコチ読んでいます。
>その中には批判側だけでなく外部の人もいようし、現役の信者さんも宗務局職員
>含めて見ているでしょう。
>こういう人たちがあなたの発言を読んで、信者さんならがっかりするだけでなく
>腹立たしく思っていることでしょう。
それは仕方ないでしゅw。
- 380 :準シュダオン:2012/01/25(水)
09:34:27
- >安い金で済んでよかったじゃんと安堵するあなたはやはり取引信仰だったわけだ。
>安く値切れるもんならそれにこしたことはない。
>つまりお買い物だったわけです。
>私は金で済ませたら根本的な心の改善にはならんだろ?と疑問を呈したのに。
そこが説明の難しいところですね。同じく供養の効果を期待しながらお金を支払い、
取引信仰になる場合と、ならない場合がある。これは各自会得するしかない。
10万円は、高い高い。せいぜい1万円か2万円だろ。と、レスした人がいたね。
同じことだと思いますね。1万円を10体すれば、10万円ですもの。
十万円が、都合つかないなら、都合ついたとき解脱供養すればいいのです。
都合つくまでは、100円護摩木で成仏供養などしていればいいのです。
仏様に、「不成仏霊の解脱供養のお金の都合がつきません。しばらく100円護摩木
で供養しますので、霊障のホトケに、痛み止めの注射をしておいてください。」
とでもお願いしておけば良いのです。それが本当の信仰でしょう。
- 381 :準シュダオン:2012/01/25(水)
09:44:21
- >これもアゴン宗教義を教えてあげましょう。
>因縁解脱の徳となるような善行、梵行とは何か?
>それはシャカを世に出すことである。
いやぁ、ユビさんのアゴン教義レスは勉強になるね。私の知らないことが沢山ある。
誤解釈してるのもありますけどね。
優婆塞の十六法の実践をすれば、釈迦の教法を世に出すことになるでしょ。
釈迦の教法を世に出すとは、シャカを世に出すことに他ならない。
だから、管長の説くことは正しいのです。
- 382 :準シュダオン:2012/01/25(水)
10:07:05
- >だから如来(釈尊)の所で貪瞋痴の煩悩をなくす修行に励むことはこの上ない
>功徳であり福だと説いたわけで、供養ではない。
>如来、比丘への供養は世間福に過ぎないと世間福経で説いているわけですから。
これも頑固に我見を張っていますね。三供養品・三善根には、貪・瞋・痴の一字
も出ていません。他の経で三善根を説く場合は、必ず、貪瞋痴の説明が出ています。
ですから、三供養品の三善根は、貪瞋痴に限定するもんではありません。
勝手に貪瞋痴としてはいけません。
それに、三善根→善趣 三三昧→涅槃、というように、三善根では天上界どまりで
あることが、三衆経に出ているでしょう(衆の字は、正しくは血の部分は取です。
正しい字が出てこないので衆で代用します)。
三衆経では、三善根→法向善趣 五戒→法向善趣 七戒→法向善趣、と説き、
三善根は戒行扱いです。また同経では、三三昧→法向涅槃 五根法→法向涅槃
七覚意→法向涅槃、というように、修行法の場合は法向涅槃です。
ですから、三供養品の三善根は、貪瞋痴に限るものではないのです。
これを理解できれば、我見を一つ離れるのです。
- 383 :準シュダオン:2012/01/25(水)
10:24:33
- >金は全部アゴン宗に入ります。
>被災地民にも行きません。収益の一部は囲碁の協会になぜか贈られたり
>見返りに名誉の高段もらったり、海外の大学で寄付した見返りの名誉学位などを
>買ったり、愛人のミンクのコートに消費されます。
ユビさんが大学に寄付しようと、見返りの名誉学位は買えません。それ相応の力量
が必要です。愛人と断定するのが我見です。人物が卑しいと推測や断定を停止する
ことが出来ないのです。私のように、我見を断つ修行を続けてくると、知りようが
ない事柄は、考えないことができます。ミンクのコートも我見の拡大妄想ですw。
- 384 :準シュダオン:2012/01/25(水)
10:52:06
- >梵行の意味に出家と在家に違いなどありません。
>また説く教えも出家と在家の区別は根本的にはなく、
>要は実践における程度の違いだけです。
>だから梵行も性欲を断つことを中心とした禁欲であることに変わりありません。
あらまぁ、根本的に認識↑を間違えています。そもそもバラモンの人生の第一期
を梵行期(学生期)に区分して、学習に専念させたわけでしょ。日本人なら、社会
に出るまでの、学生時期を梵行期と考えたら良いのです。要は学習期間。
それが仏教でも採用された。
例えば、釈尊は阿含経でしばしば、「義味清浄 梵行具足」といって法を説いて
います。例えば増一経もそうですね。「清浄であり、梵行の条件を完全に満たし
ている奥深い法を説こう」と、学者先生は訳していますね。
説かれた法を実践・修行することが、清浄行であり、梵行なのです。
だから、優婆塞の場合は、八法十六法の実践こそが、梵行なのです。
管長本では、「仏陀の真実の教えを説く上」本の出家経の講義で、P169から、
出家の梵行、在家の梵行として詳しく説かれていますね。
ユビさん方は、我見で読むから、管長の意図を正しく読み取れていないのです。
- 385 :準シュダオン:2012/01/25(水)
12:19:56
- >さて桐山さんはこれを世間福経で世間福としている比丘、如来への供養みささげを
>出世間福としてしまったのです。
これも↑ユビさんは誤解釈しています。「社会科学としての阿含仏経」本のP316
から詳しく解説していますから勉強してください。
出世間福とは、解脱の福です、と正しく説いています。
そして同本のP354に、如来に功徳の種をうえるということは、修行と供養を
同時にすることだ、と解説しています。
如来への供養だけではなく、修行も同時に説いています。つまり、ユビさんは
見落としているのです。
>世間福の方は比丘、如来ではない世間一般の布施による功徳とみなした。
>ところが本当の出世間福とは在家と言えど、煩悩を減らしなくす道、方法に変わりない
>のだから、あなた方の好きな七科三十七道品そのものの修行です。
管長もそのように説いているのだが、ユビさんはそれを読み取れていないだけです。
>アゴン宗では七科三十七道品の成仏法の修行と奉仕みささげの梵行とは明確に分けます。
>成仏法が修行できるだけの徳を得る為にまず奉仕みささげ梵行に励む。
修行と梵行を明確に分けてはいないでしょう。ユビさんが明確に分けて解釈して
いるだけです。管長は、修行と梵行を同時にしなさい、と言っているのですから。
>つまり桐山さんの世間福と出世間福の定義は間違っている。
ユビさんが、我見から誤解釈
しているだけですね。
- 386 :深山:2012/01/25(水)
12:20:03
- >>366 :準シュダオン:2012/01/24(火) 15:24:49
>私は、深山さんのレスを見ていないが、結果は解ります。深山さんは、我見で
また、お得意の「ガケン真言行」が始まりましたね。
他人の文章を読まずに結果がわかるなどというのを我見というのです。
だが天照さんが求めているのは、仏教辞典とあなたの説と
どう関連しているのかと質問しているのです。
あなたは答えていない。
>>348,>>349に引用したのは私の意見ではなく、
あなたが元としたという仏教辞典と桐山説です。
>>343 :準シュダオン:2012/01/24(火) 10:01:51
>私のは管長論だけではありません。岩波仏教辞典の「梵行」の項を要約したのが
水と油のように違う桐山さんの説明と岩波仏教辞典の梵行を、
どう要約すればあなたの説になるのか、示してみさない。
できないから、逃げたんでしょう?
前も、アゴンさんから「預流向≠聖者」という阿含経の根拠を
示せと言われて、いっぱいあると書いただけで何も示せず、逃げた。
あなたはこうやって矛盾や嘘を指摘され、返事できなくなると、
>>379のように「読まない」と称して、無視して逃げ出すただの卑怯者です。
そのあなたの卑怯者ぶりの一部か>>361です。
あなたはこれまでの人生でずっとそれをしてきた。
桐山さんと同じで反省や修正をしないから、何一つ学ばず、何一つ進歩しない。
慢心と無恥を増やしただけの無駄な人生でしたね。
- 387 :深山:2012/01/25(水)
12:23:48
- >>364 :準シュダオン:2012/01/24(火) 15:03:11
>しからば、在家の梵行とは何ぞや?それを釈尊は一切事経で明快に説いて
>います。いわゆる、信戒施聞持観法次法向の八法の実践と、それを世に布教
>する十六法の実践、その中に在家の梵行がすべて含まれているのです。
>ですから、布教を第一の梵行と説く管長は正しいのです、それは十六法の
>実践ですからね。
八法は、信・戒・施・聞・持・観・法次・法向ではなく、正しくは
信・戒・施・見・聞・持・観・法次法向です。
準シュダオンさんのようなガケン脳の持ち主はともかく、
他の信者さんたちは素直に経典を読み、正しく理解してください。
桐山さんのいう信・戒・施・聞・持・観・法次・法向は間違いです。
「見」が入っており、「法次法向」は一つです。
八法は梵行が含まれるなんて、当たり前です。
釈尊が教えた教法の中に欲貪を捨てろというのがあるのだから、
八法で何をするかというなら、その教えを聞いて実践すること、
つまり、欲貪をなくすために禁欲である梵行をすることです。
しかし、他人に勧めることを梵行とは言わない。
自分の欲望を捨てることを梵行というのです。
自分が食べておいしいお菓子を他人に勧めることを、
お菓子を食べるとは言わないのと同じです。
>>348の学者の説明にあるように、梵行には他人に布教することは含まれていない。
自らの欲望を律することが梵行であり、これが八正道です。
- 388 :深山:2012/01/25(水)
12:25:54
- >>384 :準シュダオン:2012/01/25(水)
10:52:06
>だから、優婆塞の場合は、八法十六法の実践こそが、梵行なのです。
桐山さんの言っているボン行は布教活動です。
そんなものは仏教の梵行の項目にはありません。
梵行を自分が実践するのが八法、他人にも勧めるのが十六法です。
準シュダオンさん以外の方々はこの違いがわかりますよね。
梵行をするのは自分であり、十六法とはそれを他人にも実践するように
勧めることであって、勧めること自体を梵行とは言いません。
たとえば、学校に行き先生から習い、勉強(梵行)するのは自分です。
だが他人にも学校に行き学習するように勧めることを勉強とは言わない。
勉強とは自分がすることであって、他人は関係ありません。
釈尊は自分で梵行(勉強)し、他人にも梵行(勉強)を勧めるように説いただけで、
他人に勧めることを梵行(勉強)とは言っていません。
仏教の梵行は「自分の禁欲」です。
- 389 :深山:2012/01/25(水)
12:30:09
- >>384 :準シュダオン:2012/01/25(水)
10:52:06
>だから、優婆塞の場合は、八法十六法の実践こそが、梵行なのです。
なぜ、桐山さんや準シュダオンさんが、梵行が禁欲であることを
認めたがらないか、信者さんたちはお気づきでしょうか。
彼らは禁欲なんかしたくないからです。
自分がしなくても良い言い訳をこうやって滔々と作り上げている。
桐山さんをみればわかるように、生活習慣病になるほど美食飽食を続け、
脳梗塞になってもまだ食いしん坊がやめられない。
名誉欲の強さは大作さん並です。
80歳すぎてロールスロイスを買った物欲の強さをごらんください。
80歳すぎても性欲を満たすために愛人がいた。
「今夜にでも」とホテルに誘い、「千景がいないさびチい」とほざいた。
準シュダオンさんも同様で、桐山さんほどの力がないから、
金も女も不自由だが、現役時代は業者にたかって糖尿病になるほど
タダ飯、タダ酒を飲みまくり、脳梗塞になってもまだやめらず、
夜中まで酒を飲んでいる。
準シュダオンさんはこの間までは職場で威張っていられたが、
そこも首になり、ついに誰も相手にしてくれなくなった。
そこでここに来て一日中、トグロを巻いてゲロを吐いている。
こういう欲望のままに生きることを彼らは否定されたくない。
だから、梵行が禁欲だなんて金輪際認めたくないのです。
「自分」の欲望を正当化するために、梵行が霊的浄化だの布教活動など、
「他人」に対して何かすることであるかのように置き換えている。
彼らは欲望と感応道交して、自分から逃げている卑怯者です。
信者さんたちは桐山さんの詭弁に惑わされないことです。
- 390 :深山:2012/01/25(水)
12:32:08
- >>384 :準シュダオン:2012/01/25(水)
10:52:06
>あらまぁ、根本的に認識↑を間違えています。そもそもバラモンの人生の第一期
>を梵行期(学生期)に区分して、学習に専念させたわけでしょ。日本人なら、社会
>に出るまでの、学生時期を梵行期と考えたら良いのです。要は学習期間。
>それが仏教でも採用された。
また、こうやって嘘を書く・・・正直、この準シュダオンさんの悪臭に私は耐え難い。
どうしてこの人はこんなに次から次と平気で嘘が書けるのだろう。
仏教は学習期間など採用していません。
仏教はバラモンの四住期のように、時期を定めて禁欲を説いたのではなく、
全期間の禁欲を説いたのです。
比丘たちには性的な関係は全面禁止、在家も最小限にして、
できれば出家を真似て全面禁止を奨励したから、これを実践して、
阿那含まで到達した在家がいたのです。
桐山説のように、梵行が布教活動だなんて言ったら、
布教活動でどうして欲貪いう煩悩が切れるのか、説明がつかない。
だが、釈尊の説いた梵行が、バラモンから取り入れた禁欲なら、
禁欲で欲貪を抑え、制御するから、阿那含になる。
理屈が通ります。
- 391 :準シュダオン:2012/01/25(水)
12:34:11
- >だから如来(釈尊)の所で貪瞋痴の煩悩をなくす修行に励むことはこの上ない
>功徳であり福だと説いたわけで、供養ではない。
仏道に帰依したら、貪・瞋・痴を無くす修行は、如来のもとでの修行に決まって
いるのですから、わざわざ如来のところと限定する必要はないでしょう。
ところが、供養を言う場合は、如来への供養、ならず者への供養、とあるわけで、
如来供養を勧めるわけです。
>如来、比丘への供養は世間福に過ぎないと世間福経で説いているわけですから。
他の経では、聖者への布施供養は「功徳」を得ると訳されており、功徳は世間福に
限定されるわけではないのですけどね。
だから、修行と供養を同時に行うのです。供養で世間福を得つつ、修行で解脱し
ていったらそれで良いでしょう。何で文句あんの。
- 392 :深山:2012/01/25(水)
12:35:28
- >>364 :準シュダオン:2012/01/24(火) 15:03:11
>出家者にはだいたいそれ↑でもいいかと思いますが、もっと広く考えるべき
>でしょう。長阿含経には、「・・妙法、清浄、梵行具足・・」の法として、
>様々な修行法が説かれていますからね。
また始まった・・・準シュダオンさんて心を病んでいますね。
昨日、引用のデタラメを指摘されても、まったく何ともない。
馬耳東風でまたインチキを始める。
その調子で県庁の職員をして仕事をしていたのかと思うと、ゾッとさせられる。
「・・妙法、清浄、梵行具足・・」
準シュダオンさんが出した経典の元は下記です。
「私はお前たちに意味内容が清浄で、梵行もそなわっている奥深いこと
がらを説こう。」
「我與汝等説微妙法。義味清淨梵行具足。」
(『現代語訳阿含経典3』平河出版社、91頁)
どこにアゴン宗のボン行があるのだ?
この言葉のどこに、霊的浄化や布教活動があるのだ?
準シュダオンさんは如来の言葉を使って、嘘をつくのがなんともない。
仏教の清浄とは、霊的浄化などではなく、煩悩に汚染されないことを指す。
梵行という禁欲によって欲望から離れているという意味です。
性欲、物欲、名誉欲を捨て、食欲、睡眠欲を最小限にするのが梵行です。
こういう経典一つを見ても、梵行の説明のどこにも霊障のホトケを
成仏させろもなければ、布教活動して徳を積めもありません。
- 393 :深山:2012/01/25(水)
12:37:44
- >>382 :準シュダオン:2012/01/25(水) 10:07:05
>これも頑固に我見を張っていますね。三供養品・三善根には、貪・瞋・痴の一字
>も出ていません。他の経で三善根を説く場合は、必ず、貪瞋痴の説明が出ています。
読んでいる信者さんたちにお聞きするが、
では、三供養品のどこに供養の言葉が出てくるのだ?
どこに、供養すれば功徳が得られ、その功徳で阿那含まで行けるとあるのだ?
どこに、この涅槃界とは阿那含のことだと説明があるのだ?
ありもしない言葉や概念を勝手に付け加えておきながら、
三善根の説明がないと主張するこの身勝手な準シュダオンさんを見てください。
三善根は、漢訳経典だけでも十経くらい出てくるが、準シュダオンさんの指摘のように、
大半が無貪・無瞋・無癡と説明がある。
そこで信者さんたちにお聞きしたい。
他の経典で三善根を無貪・無瞋・無癡と説明していて、
ある時、釈尊が無貪・無瞋・無癡という説明なしに「三善根あり」と
説法を始めたら、それは別な三善根の話だと思いますか、それとも、
いつもの無貪・無瞋・無癡の説明を始めるのだろうと思いますか。
だれがどう考えても、いつもの無貪・無瞋・無癡の話だと思うでしょう。
学校の授業で「三角形について説明します」と先生が言うと、
生徒の桐山さんと準シュダオンさんは、これを三角関係の説明だと
主張して譲らないようなものです。
愚か者という言葉以外、何もない。
- 394 :深山:2012/01/25(水)
12:40:02
- >>382 :準シュダオン:2012/01/25(水) 10:07:05
>これも頑固に我見を張っていますね。三供養品・三善根には、貪・瞋・痴の一字
>も出ていません。他の経で三善根を説く場合は、必ず、貪瞋痴の説明が出ています。
涅槃や梵行という言葉をいちいち説明しないのと同じで、
釈尊が三善根ありと説いたら、それは無貪・無瞋・無癡以外にはありえない。
大半の経典での三善根が無貪・無瞋・無癡の意味で、
仮に三供養品だけが別な意味だというなら、どうして釈尊は
「これは別な三善根である」と説明しないのですか。
釈尊の説明のしかたは聞いている者が著しい誤解をするような表現はしません。
信者さんたちに着目してほしいのは、この経典を説いている相手は
アーナンダであることす。
桐山さんや準シュダオンさんのような無知な人に説いているのではない。
アーナンダは教法を良く理解し、そのまま記憶していた人です。
その彼に冒頭から「三善根あり」と釈尊が説いたら、アーナンダは
別な三善根だとなんて阿呆な発想はしない。
「三善根あり」と言われたら、アーナンダの頭にはすぐに無貪・無瞋・無癡が
浮かんだはずです。
すでに無貪・無瞋・無癡が三善根だと理解していたアーナンダが、
別な三善根を説かれたら、それを質問しないはずはない。
だが、彼は釈尊が無貪・無瞋・無癡を説いていると理解しており、
三宝において無貪・無瞋・無癡を実践すれば、解脱できる究極の福だという
いつもの内容だったから、質問をしなかったのです。
- 395 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/25(水) 12:59:19
- >382 :準シュダオン:2012/01/25(水) 10:07:05
>それに、三善根→善趣 三三昧→涅槃、というように、三善根では天上界どまりで
あることが、三衆経に出ているでしょう
またほんの二ヶ月前を持ち出しています。
何年も続いている。
批判意見を読んでも理解できないのでしょう。
簡単に言えば、
この三聚経の意味は、○○止まりという意味ではありません。
呼んで字のごとく、○○へ向かう、=方向性を示し悪行と善行と道を
説いているのです。
云何三法向惡趣。謂三不善根。貪不善根恚不善根癡不善根。
云何三法向善趣。謂三善根。無貪善根無恚善根無癡善根。
云何三法趣向涅槃。謂三三昧。空三昧無相三昧無作三昧。
悪趣へ向かうことは何か、煩悩をな無くさぬことだ。
善趣へ向かうことは何か、煩悩を無くすことだ。
涅槃へ向かうことは何か、煩悩を無くす心を安定することだ。
悪趣への向く行いを「対」にして善趣への行いを示し、
次にその果を得る方法を示した。
この経の一から十法まですべて「対」となした表現方法です。
- 396 :準シュダオン:2012/01/25(水)
14:16:49
- >おまえが地震や津波でこんなひどい目に遭ったのも悪因縁があるからだ。
>だからその悪因縁を解かなければならない。それにはアゴン宗で成仏法の修行を
>するしかない。まずは解脱供養で霊障を解かねばまた地震が来た時危ない
>と言って避難所民に10万円を喜捨でもさせるのですか?
まさか避難所民にそういうのはタイミングが悪すぎですが、普段の教えは
そういうことでしょう。
ユビさんの場合は、避難所民に、「これはあなた方の過去の罪の報いです
から、甘んじて受けるべきです。過去の罪の報いを逃げようなどと浅ましい
ことを考えてはいけない。」と、言うのですね。
ユビさんの考えも↑酷いでしょう。日本では年間3万人以上が自殺している
のですよ。向こう十年間では30万人になります。自殺を思いとどまり、苦に
喘いでいる人は、その何倍にもなるでしょう。その苦の報いを逃れたいのは
浅ましいことですか?
阿含宗の解脱供養は強制ではないですから。
それを信じる、信者が経済的な都合がついたら、申し込めば良いのです。
都合がつかない人は、100円の供養護摩木でつないでいたら良いでしょう。
100円じゃあんまりだから、千円の護摩木でとか。
それまで、積み立てしたら良いでしょう?
積み立てられるだけ運が良いのですから。
- 397 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/25(水) 14:21:46
- >391 :準シュダオン:2012/01/25(水) 12:34:11
>仏道に帰依したら、貪・瞋・痴を無くす修行は、如来のもとでの修行に決まって
いるのですから、
??三福道でなく「貪・瞋・痴を無くす修行」?
貪・瞋・痴を無くす=煩悩滅ですから、供養は、
まったく関係無いことになる。
三宝の身許に於いてとは、
仏に帰依し、法に従い、サンガに集って、
との意味が分かりやすい。
そうして涅槃を得る三善根を為せ、
と、アーナンダに説いたのです。
>ところが、供養を言う場合は、如来への供養、ならず者への供養、とあるわけで、
如来供養を勧めるわけです。
ならず者への供養?
供養とは、原語では尊敬する人へ敬意をもって
もてなすことです。
初期においては、釈尊とその弟子、理想王に
対するものです。
三供養品の1にあります。
あなたは、桐山さんのような人へ供養することに
慣れ勤んでいるから、供養すべき人と、
ならず者を見分けられない。
>だから、修行と供養を同時に行うのです。供養で世間福を得つつ、修行で解脱し
ていったらそれで良いでしょう。何で文句あんの。
文句あり!おかしな意見です、いつもながら。
それが、
出家者に対しての話しなら、比丘が誰に供養するのか?
在家者に対しての話しなら、在家で解脱できるのか?
準シュダオンさんの話しはいつも要点が定まらない。
- 398 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/25(水) 14:36:38
- >396 名前:準シュダオン 投稿日: 2012/01/25(水) 14:16:49
>まさか避難所民にそういうのはタイミングが悪すぎですが、普段の教えは
そういうことでしょう。
認めたわけです、アゴン宗の霊障恐喝を!
>自殺を思いとどまり、苦に喘いでいる人は、その何倍にもなるでしょう。
その苦の報いを逃れたいのは浅ましいことですか?
阿含経において言えば、それらも無明による煩悩です。
社会通念上は、幸福や発展を求める人を浅ましいとは言わない。
だがアゴン宗は、その人の弱みに着け入って金とタダ働きを
交換条件にして、出来ない相談を請け負っているのが浅ましい。
>阿含宗の解脱供養は強制ではないですから。
だから準シュダオンさんのような自分教の
サボリ信者が増えて、教団の台所が苦しくなる。
- 399 :akb55:2012/01/25(水)
19:06:13
- ならず者への供養?準さんて面白いわー。爆笑しました。
- 400 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/26(木) 08:50:34
- >>380:準シュダオン12/01/25(水) 09:34:27
>10万円は、高い高い。せいぜい1万円か2万円だろ。と、レスした人がいたね。
>同じことだと思いますね。1万円を10体すれば、10万円ですもの。
>十万円が、都合つかないなら、都合ついたとき解脱供養すればいいのです。
>都合つくまでは、100円護摩木で成仏供養などしていればいいのです。
ほらね。10万円は高いという話にすり替えてごまかしている。
私は麻原のような極悪の悪業を為した者を救うのに10万円の肩代わりと言うのは
おかしいだろ?と申しておるのです。
じゃあ100万か1000万かという話でもない。金で解決できる話ではない。
麻原のような極悪人が霊障として祟る。
解脱供養にてそんな霊障ですら法力無比の桐山ゲイカは解脱成仏させられる
成仏力がある。
しかし麻原の側にそれを受け取る徳がない。
この不足の徳を補う為に、10万円という総本殿建立基金1口を喜捨したことに
よって返る功徳を亡者麻原に回向して麻原は地獄から抜け出し、縁者の受けていた
霊障もなくなるという理屈です。
ところで麻原という事例はないが、数ある霊障の中には極悪人が祟っているもの
だって想定できますよね。
そんな極悪人の場合だって10万円の供養料で解脱成仏してきたのです。
6ヶ月もすれば解脱成仏しましたの連絡が来て御霊牌が下った。
このホトケは業が深く、供養料が足りず、解脱成仏させられませんなんて
連絡が施主に下がったなんて話はない。
極悪人は祟らないなんて話もない。
- 401 :準シュダオン:2012/01/26(木)
09:18:18
- >ほらね。10万円は高いという話にすり替えてごまかしている。
いや、批判派が言う解脱供養の問題は、結局は費用が不当に高いか否か、
の問題だと思う。訴訟したとて、裁判官は、解脱供養が本当かインチキかの判断
にはふれない。憲法第20条で信教の自由が保障されているからね。信教は自由
だから、裁判官が、これこれの宗教が正しいとか、これは邪教とか、そういう
判断には立ち入れない。
すると結局、霊感商法の如く、高いか妥当か、に帰結するでしょう。
>私は麻原のような極悪の悪業を為した者を救うのに10万円の肩代わりと言うのは
>おかしいだろ?と申しておるのです。
>じゃあ100万か1000万かという話でもない。金で解決できる話ではない。
それはそのとおりでしょう。では、放っておけば良いのか?
放っておけば、仏様の救いが勝手に働いて、解決するのか?
そうはならないでしょう。
10万円を仏法に供養して、極悪霊障のホトケに、仏様に救いの縁をつけてあげ
る、と、そういうことだと思いますよ。
縁無き衆生は救えない、と、その衆生に縁をつけて、解脱供養をしていただくんです。
- 402 :準シュダオン:2012/01/26(木)
09:25:29
- そんな極悪人の場合だって10万円の供養料で解脱成仏してきたのです。
>6ヶ月もすれば解脱成仏しましたの連絡が来て御霊牌が下った。
>このホトケは業が深く、供養料が足りず、解脱成仏させられませんなんて
>連絡が施主に下がったなんて話はない。
>極悪人は祟らないなんて話もない。
その疑問↑には、異議がございません。
だからインチキだ、とは思いませんけどね。
- 403 :準シュダオン:2012/01/26(木)
09:48:30
- >そんな極悪人の場合だって10万円の供養料で解脱成仏してきたのです。
>6ヶ月もすれば解脱成仏しましたの連絡が来て御霊牌が下った。
>このホトケは業が深く、供養料が足りず、解脱成仏させられませんなんて
>連絡が施主に下がったなんて話はない。
>極悪人は祟らないなんて話もない。
これは一番難しい問題だと思うね。管長は、解脱成仏させたといっても、ブッダに
させたという意味と違う、と説いています。また、霊障のホトケを成仏させると、
守護霊に変る、とも説いてます。まさか、全てそうなるとも思えませんが。
霊障のホトケは輪廻さえも出来ない。普通の不成仏霊は、輪廻してることになり
ますね。
今、生きているすべての人は、慢が断じられないんで、異陰・与陰を相続して
五陰が生じているわけです。この異陰・与陰を滅っするのが仏教の目標であり、
それが不受後有であり、涅槃なのだ、と管長は説いていますね。
この不成仏霊がどういうものか?それは私どもには理解できないと思いますね。
どんな極悪人でも、一度で解脱成仏させられるのか?
仏法は摩訶不思議なので、可能かも知れないね。
大量殺人鬼のアングリマーラでさえ、現世で成仏させる力がありますから。
- 404 :深山:2012/01/26(木)
12:21:44
- >>403 :準シュダオン:2012/01/26(木)
09:48:30>五陰が生じているわけです。この異陰・与陰を滅っするのが仏教の目標であり、
>それが不受後有であり、涅槃なのだ、と管長は説いていますね。
>この不成仏霊がどういうものか?それは私どもには理解できないと思いますね。
またゴマカシです。
まるで、仏教も異陰や輿陰という霊魂を説いたかのようなゴマカシです。
仏教は、異陰や輿陰という霊魂を相続しないようにと言っているのではなく、
生まれ変わりである「陰」を相続しないようと言っているのです。
陰とは、霊魂という意味はなく、肉体をもった人間のことです。
また輿陰、異陰などという熟語はありません。
あるのは「陰」です。
輿陰とは「陰とともに」であり、異陰とは「別な陰」という意味で、
どちらも「陰」という意味で、輪廻して生まれ変わった自己を指す言葉で、
霊魂などという意味はありません。
- 405 :深山:2012/01/26(木)
12:24:04
- >>403 :準シュダオン:2012/01/26(木)
09:48:30
>五陰が生じているわけです。この異陰・与陰を滅っするのが仏教の目標であり、
>それが不受後有であり、涅槃なのだ、と管長は説いていますね。
嘘です。
桐山さんは、異陰や輿陰を滅することが涅槃だとは言っていない。
今回の本でも異陰や輿陰は不成仏霊であり、これを成仏させることが
因縁解脱には不可欠だと説いているだけです。
桐山さんは仙尼経の「陰とともに相続する」を、輪廻していくと
いう意味ではなく、不成仏霊になるという意味にとっている。
もちろん、そんな意味はありません。
「陰とともに相続する」とは、輪廻して肉体をもった別な自分になるという意味です。
- 406 :深山:2012/01/26(木)
12:30:33
- >>403 :準シュダオン:2012/01/26(木)
09:48:30
>霊障のホトケは輪廻さえも出来ない。普通の不成仏霊は、輪廻してることになり
これもアゴン宗の教義とは違います。
霊障のホトケも不成仏霊も輪廻はしていない。
輪廻できないからこそ、不成仏霊なのです。
それを桐山さんの成仏リキのこもった仏舎利を信者が拝んでいると、
不成仏霊程度なら成仏してあの世に行き、そこで輪廻していく、
というのがアゴン宗の教義です。
しかし、霊障のホトケになると、素人では無理で、
桐山さんの成仏リキを使わないといけない。
桐山さんの成仏リキだけでも実は無理で、不成仏霊の
徳を補うために、十万円出せというのがアゴン宗の教義です。
準シュダオンさんの話は、あちらこちらの話を切り貼りして、
まぜこぜにした老人のタワゴトです。
彼の説明はアゴン宗でもなければ、もちろん釈迦仏教ではない。
準シュダオン教の我見教学です。
- 407 :深山:2012/01/26(木)
12:32:03
- >>403 :準シュダオン:2012/01/26(木)
09:48:30
>大量殺人鬼のアングリマーラでさえ、現世で成仏させる力がありますから。
これも嘘です。
アングリマーラは何か力よって成仏させられたのではない。
自分の煩悩を自分で断ち切ったから、阿羅漢になったのです。
「成仏させる力」などと、何か本人以外の所に力があって、
その力で成仏させたかのような表現だが、嘘です。
アゴン宗のいうような成仏リキなんてものは仏教にはありません。
アングリマーラも力で成仏したのではなく、煩悩を捨てたから、阿羅漢になった。
だから、彼の作った大量殺人の業とその報いはそのままです。
消えていません。
仏教の解脱とはカルマを断ちきることではないからです。
- 408 :深山:2012/01/26(木)
12:34:10
- >>403 :準シュダオン:2012/01/26(木)
09:48:30
>大量殺人鬼のアングリマーラでさえ、現世で成仏させる力がありますから。
桐山説のようにカルマを断ちきらないと解脱できないというなら、
アングリマーラの作った大量殺人という悪業をどうやって断ち切るのですか。
そんなことができるなら、大目連はどうして異教徒に殴り殺されたのだ?
アングリマーラが作った悪業は消えない。
彼が輪廻すれば、やがてその報いを受ける。
事実、阿羅漢になってから托鉢に行けば、石を投げられ、
血だらけになって帰ってきた。
こういう報いは解脱しようがしまいが、消えません。
煩悩を断ちきり、輪廻から脱出するから、その悪業を受けないだけです。
またアングリマーラの解脱に釈尊の力は関係ありません。
釈尊が彼を解脱させたのではなく、アングリマーラ自身が
煩悩を捨てたから、解脱できたのです。
このように阿含経のどこにも因縁解脱などありません。
- 409 :深山:2012/01/26(木)
12:40:26
- >>403 :準シュダオン:2012/01/26(木)
09:48:30
>大量殺人鬼のアングリマーラでさえ、現世で成仏させる力がありますから。
信者さんたちは桐山さんの阿含経解説ではなく、阿含経そのものを読んでください。
どこにもアゴン宗のいうような因縁切り、運命転換、カルマ消滅なんてありません。
仏教の解脱とは漏尽解脱といい、煩悩を捨てることです。
それも如来が断ち切ってくれたり、手伝いをすることはありません。
在家、出家を問わず、煩悩を捨てるのは自分であり、自分以外にはない。
ここからわかることは、他人を成仏させることはできない、ということです。
不成仏霊を霊界に送るという意味での成仏もできません。
釈尊が、こういう意味での死者成仏を否定していることは、
阿含経の伽弥尼経で何度かご紹介しました。
アゴン宗の解脱供養、冥徳解脱、その他の死者供養を
釈尊はできないと否定しているのです。
悪業を為そうが、善業を為そうが、煩悩を捨てない限り、輪廻して、
やがては自分の為した善悪の両方の報いを受けるというのが仏教の教法です。
だから、煩悩だらけの桐山さんは瞑想などしなくても、ご希望どおりに輪廻する。
ただし、その前に、悪業の報いとしてあの世でしばらく苦しむことになる。
信者さんたちは桐山さんの悪業を手伝っている。
釈尊が説いてもいない死者成仏を説いたかのような嘘を並べるアゴン宗の手伝いをしている。
その悪業の報いはやがて信者さんたちに降りかかってくる。
釈尊ですらそれを回避させることはできません。
だったら、一刻早く悪業はやめるべきです。
- 410 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/26(木) 22:27:19
- >>381:準シュダオン12/01/25(水) 09:44:21
>優婆塞の十六法の実践をすれば、釈迦の教法を世に出すことになるでしょ。
>釈迦の教法を世に出すとは、シャカを世に出すことに他ならない。
本当の仏教で説く梵行は深山さんが説明したように十六法とは全く別の話です。
しかしアゴン宗においてはボン行も十六法も共通点があります。
布教という面ですね。
桐山さんが言うシャカを世に出すとは、あなたに言われなくても誰しもシャカの
教法を出して広めるものと理解してますよ。
「あなたがシャカになれ」というキーワードでも思い出せなかったのは
あなたがその頃の入行でもないせいかな?
ちなみに私はその頃再入行もしてない一般人扱いでしたが、そんな話まで覚えてます。
自慢にもならないけどね。
どこか著書に載ってなかったかな?
最近忙しくて帰宅しても桐山本を調べる時間もないし気力もない。
世間福と出世間福の解釈の間違いは、私は所持してないが、旧座右宝鑑に書いて
あるとのことです。
しかし私はこれはこの耳で法話で聴きましたよ。
さて布教が桐山ボン行であり桐山十六法ですから、同じようなものとなります。
しかし布教活動を七科三十七道品とは言わないわけです。
布教に関することならば、チラシ撒きも護摩木勧進もお導きの前段階のものとして
立派にアゴン宗ボン行と言います。
今度の星まつりも1人や信者仲間同士で現地参拝しても修行に認められないが、
信者でない一般人を同伴すれば「お連れ修行」とみなされ山伏位階の対象にまでなる。
アゴン宗から見ればこれも十六法の一つに数えてもよいだろう。
大切なことはとにかく実践することです。
ところが準シュダオンさんは八法十六法だなんて言って能書きばかり垂れても
実践がないのだから意味がない。
桐山さんと同じで本を読んだり話を聞いたりしただけで、自分も既に実践してる
気になっているのでしょうか?
道場に参詣して教えを聴聞するのが八法ならば、それを人に勧めるのが十六法です。
ところが自分が道場にも行かずして、あんた勝手に行けば〜と言うのが十六法なのか?
日中ネットに書き込む時間が十分にあることは、勤め人の私には羨ましい。
それだけの時間があるならば、毎日行く必要ないが、週に1回でも道場に通い
滞在時間を護摩木判押しやトイレ掃除などのボン行に充てることもできる。
車の運転ができるならばできます。
でもやらないw
- 411 :天照
◆MO30b8Jwoo:2012/01/26(木) 23:18:31
- 珍しくこういう時間に起きているのもあるが、思ったので書いてみる。
「あなたがシャカになれ」聞き覚えがありますね。このほかにゲイカは種々の
『観音菩薩になれ』とか『如意輪観世音になれ』とか様々なものになれ、といいますが、
そういうイメージだけは叫ぶが、中身はどうする、ですよ。
間違った仏教知識を植えつけたままで心は「観世音」だろうが「仏」のつもりになろうが
間違ったものを露呈してあやうく恥をさらすところだった。
もちろん仏教を深く知らない一般人に布教しているのだから反論されたり攻撃されることは
なかったわけだが、もしも深山さんやユビさんのように知識がある人に布教したらエライ目に遭う。
それこそただでは済まないでしょう。赤っ恥をかいてこてんぱんにやられることかと。
比喩でだすが、如何に自分が仏だろうがウルトラマンだろうがなりきったつもりでもデタラメを
教祖が教えているのだから話にならない。本当に「観念宗」だなあとつくづく思う。
観念ばかりで中身が無いから茶番宗というのがふさわしいかもしれない。
- 412 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/26(木) 23:23:18
- >>383:準シュダオン12/01/25(水) 10:24:33
>ユビさんが大学に寄付しようと、見返りの名誉学位は買えません。それ相応の力量
>が必要です。
だから買える買えないではなく、どうして名誉学位なんて買う必要があるのか?
我々はそんな桐山さんの名誉欲を満たすために喜捨をしたのではない。
自分に功徳が返ろうが返るまいが、人を救う仏の事業に使われるというのだから
出費をしているのです。
どうして囲碁協会に金が寄付されるのだ?
代わりに名誉九段だなんて貰いましたね。
囲碁は日本ではメジャーな文化であり、わざわざ桐山さんが
スポットなど当てなくても
人口は多い。だいたい仏教では出家に禁じた娯楽です。
慈善事業らしき寄付もいくつかあります。
例えば中国に小学校を作り奨学金制度などを設けた。
しかしこれってしっかり桐山小学校なる名称にしている。
つまり名誉名声を買ったのです。
桐山さんの寄付は無償ではなく必ず何らかの名誉の称号などを引き替えにしています。
つまり取り引きです。
こういう高額を寄付して名誉を買うのを名誉餓鬼という。
池田大作氏がその代表ですね。
- 413 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/26(木) 23:40:13
- >>385:準シュダオン
12/01/25(水) 12:19:56
>出世間福とは、解脱の福です、と正しく説いています。
>そして同本のP354に、如来に功徳の種をうえるということは、修行と供養を
>同時にすることだ、と解説しています。
>如来への供養だけではなく、修行も同時に説いています。つまり、ユビさんは
>見落としているのです。
仰る通り出世間福とは解脱の福です。
だから煩悩を減らす修行をしてこそ解脱に近づきます。
ゆえに在家でも供養ではなく、修行をして得る解脱の福が出世間福なわけです。
対して世間福の方に世間一般の布施の功徳ではなく、比丘に対する供養の功徳に
この名称を与えた意味がわかるでしょうか?
供養の徳なんてものはいかに対象が比丘であれ如来であれ、世間福の範疇を出ない
とこの経典(世間福経)は説いているわけです。
解脱の福を得たかったら煩悩を減らしなくす修行するしかないと説いている。
私は比丘などを離れて世間一般の布施の功徳も世間福と呼んでよいと思っています。
しかし比丘、如来に対しての供養であっても所詮世間福は世間福でしかないのです。
そしてここでは桐山三善根、桐山三福道に単なる供養だけでなく修行も含むとか
そんな三供養品の話もしていないのです。
桐山さんが世間福と
出世間福(梵福)の区別を示し、ボン行を奨励する法話を
した時に三福道の話などしません。
あくまでもアゴン宗ボン行のしくみを説く法話で世間福と出世間福の2つがある
ことを話に出したのです。
その世間福、出世間福解釈が間違っていたのです。
- 414 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/27(金) 00:48:52
- >>391:準シュダオン12/01/25(水) 12:34:11
>仏道に帰依したら、貪・瞋・痴を無くす修行は、如来のもとでの修行に決まって
>いるのですから、わざわざ如来のところと限定する必要はないでしょう。
>ところが、供養を言う場合は、如来への供養、ならず者への供養、とあるわけで、
>如来供養を勧めるわけです。
深山さんが書いていたように、この場合如来の「所」だからこそ環境のことだと
わかるのですよ。
如来に供養するのであれば、何も所を付け加える必要はない。
単純に如来に功徳の種をうえるでよいはずです。
所とあるのは文字通り場所です。環境です。
如来(釈尊)のいる所です。
つまり如来のいる所「で」、(解脱の)功徳の種となる煩悩を断つ修行をすることを
種をうえると表現したのです。
わざわざ所を付けてそれが供養の対象ならば如来のいる僧団ということになってしまう。
しかし僧団(サンガ)ならその後で聖衆という言葉で説いている。
正法をあわせて仏法僧の三宝としたわけですからね。
僧とは僧侶ではなくそもそも僧伽(僧団)のことですし。
正法に於いて供養をすると言うのがますますわからん。
供養でなく修行だから正法でぴったりなのです。
あなたの言う通り如来の所で修行していたのが当たり前です。
いくら普段は少人数のグループで托鉢に出て散り散りになるとは言っても。
だからこれは実は比較を説いたのですらないと私は思いますよ。
私はかつて孤独で貪瞋痴の煩悩をなくす修行に励むよりも如来という教師と手本の
いるところで指導を受けながら修行する方が、最上だという意味を書いたが
決してそんな二者比較ですらなく、煩悩を断つ修行をするにおいて仏法僧の三つが
そろっていることを強調して、敢えて三善根と三宝の三という数字にかけてみた
だけだと思う。
だから正法もそうですよ。
桐山さんはこれを将来大乗仏教が勃興して像法、末法の時代が来ることを予見して
敢えて正法と差別化表現をしたなどとお粗末な解釈をしていたが、釈尊の説いた
法(教え)とはすべからく正法なのですから。
煩悩をなくす正しい教えにしたがって煩悩断滅の修行をすることはすばらしいと
説いただけねことです。
- 415 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/27(金) 01:30:21
- >>396:準シュダオン12/01/25(水) 14:16:49
>ユビさんの場合は、避難所民に、「これはあなた方の過去の罪の報いです
>から、甘んじて受けるべきです。過去の罪の報いを逃げようなどと浅ましい
>ことを考えてはいけない。」と、言うのですね。
私はそんなことを誰に対しても言いません。
タイミングも糞もない。
そもそも今回の被災を運命だの因果の報いだの思ってないからです。
では因果の応報を否定するのかと言うと、そうではなく、こんなところに
わかりもしない過去世の業だの話を出しても何の意味もないと思うからです。
犠牲者は悪人ではない。善男善女だったのではないですか?
だから不幸にも犠牲に遭われた方には心から哀悼の念をささげます。それだけです。
間違っても過去世の悪業の報いにて今生の被災があったとか、わかりもしない
ことで他人を不当に辱めたりしません。
しかし現実面で犠牲者にも反省点はありますね。
それは避難が遅れたことです。
動画も残っているが、川を遡って津波が襲ってくるのに、のんびりと岸辺で
野次馬見物などをしてるのがいた。
こちらでは必死に危ないから避難してくださいと放送してるのに。
津波を甘く見ていたのでしょう。
だからこういうのは次の災害の時の教訓とすべきでしょう。
行政面の整備、個人レベルの備蓄とか避難訓練とか現実的な被災活動は極力
やるべきです。それにより被害を最小に抑えたいですからね。
しかしそういう現実努力はするが、わかりもしないウンメイの転換だなんて
導くのは間違いだと思う。そんなことは絶対にしたくない。
で、釈尊もまた過去について思い悩むなと説いているのですよ。
くよくよするな。気にするなと説いている。
そんなことより今これからを大切にして悪業を為さないことを強調します。
過去のことを気にするなって・・・これって因縁解脱を志し、誘引することに
対する真っ向からの否定ではないですか?
- 416 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/27(金) 01:36:37
- 訂正
×:現実的な被災活動はすべき
↓
○:現実的な防災活動はすべき
- 417 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/27(金) 08:47:41
- >>403:準シュダオン12/01/26(木) 09:48:30
>これは一番難しい問題だと思うね。管長は、解脱成仏させたといっても、ブッダに
>させたという意味と違う、と説いています。また、霊障のホトケを成仏させると、
>守護霊に変る、とも説いてます。まさか、全てそうなるとも思えませんが。
ブッダだの守護霊だの立派な存在を出してごまかしても駄目です。
ここで言う解脱成仏とは霊障を起こして苦しむことにより子孫縁者にまで
その悪影響を与えてしまっている亡者が、通常の人と同じように幽界や霊界に
一時安息の地を得ることを指すことは信者でも熟知しています。その後に来世への輪廻に向かう。
要するにブッダにも守護霊にもならない一般人の死と同じ扱いに落ち着くことを言う。
死に際に強い怨念や苦しみの念を残して亡くなった人は霊障を起こすとしています。
しかし死に際にそのような悪い念がなくても生前悪いことをした人はその罪障ゆえに
一時安息の幽界霊界にも行けず霊障を起こす。
それを世間では信じる信じないは別として子どもでも知っている地獄の概念を
今回の中巻では今更ながら新発見のように堕胎経の章で示したのです。
霊障の亡者が守護霊にまでなるというのは誰もがそうなるということではなく、
たまたま死に際に強い怨念や苦しみがあっただけで、生前は慈悲深い守護霊にも
なり得る徳の高い人だったからこそ増益供養で守護霊にもなる
というものです。
ところが麻原のような場合強い罪障ですからその資格はありません。
だから守護霊やブッダなどどうでもよいがせめて人並みの安息の幽界や霊界に
行かせてくれないかと望むところだが、そうは問屋が卸さず、罪障ゆえに昇天
できないと言うのです。
それが昇天できて霊障も解消したということは罪障あったのが無罪放免になった
ようなものです。
それが子孫縁者のたかだか10万円の回向料によりです。
これは地獄の沙汰も金次第と言ってもズバリその通りでしょう。
- 418 :準シュダオン:2012/01/27(金)
10:50:30
- >しかし布教活動を七科三十七道品とは言わないわけです。
>布教に関することならば、チラシ撒きも護摩木勧進もお導きの前段階のものとして
>立派にアゴン宗ボン行と言います。
そう、三十七道品には数えませんが、梵行にはなります。釈尊は比丘たちに
広施の行をせよ、と説いています。布教のことですよね。
>本当の仏教で説く梵行は深山さんが説明したように十六法とは全く別の話です。
>しかしアゴン宗においてはボン行も十六法も共通点があります。
>布教という面ですね。
古来のバラモンの梵行、解説書にある仏教の梵行など、解った上で管長は、
具体的に示しているのです。前にレスしたように、釈尊はしばしば、「・・
清浄、梵行具足・・」と枕詞をつけて、様々な修行法を示しています。
出家者は、戒律を守って修行する生活スタイルそのものが梵行になっている
わけです。
ところが在家はそうではない。在家は8法16法を実践してこそ、梵行を実践
することになるのです。信じて・・戒を守り・・施行をし・・というようにね。
- 419 :準シュダオン:2012/01/27(金)
10:58:33
- >ところが自分が道場にも行かずして、あんた勝手に行けば〜と言うのが十六法なのか?
>日中ネットに書き込む時間が十分にあることは、勤め人の私には羨ましい。
わたしの本業はネットを使う仕事でもあるので、合間を見てレスするのが
可能なのです。
>それだけの時間があるならば、毎日行く必要ないが、週に1回でも道場に通い
>滞在時間を護摩木判押しやトイレ掃除などのボン行に充てることもできる。
>車の運転ができるならばできます。
>でもやらないw
私はもうすでに大きな功徳を頂いていますので、梵行をあせることはない
のです。梵行の貯金があったから功徳を頂いたわけで、別に功徳の借金が
あるわけではないので、あせることはないわけですw。
- 420 :準シュダオン:2012/01/27(金)
11:04:15
- >ところが在家はそうではない。在家は8法16法を実践してこそ、梵行を実践
>することになるのです。信じて・・戒を守り・・施行をし・・というようにね。
こういう↑ことを思いつくのは、不完全とはいえ、聖なるバイブレーションを受
けた効果だと思います。それ以前には、本に書いてあること以外は、思いつけな
かったでしょうね。
- 421 :準シュダオン:2012/01/27(金)
11:28:32
- >どうしてて囲碁協会に金が寄付されるのだ?
>代わりに名誉九段だなんて貰いましたね。
>囲碁は日本ではメジャーな文化であり、わざわざ桐山さんが
スポットなど当てなくても
>人口は多い。だいたい仏教では出家に禁じた娯楽です。
おや、当時インドに囲碁があったのですか?
出家者でも老人にはボケ防止に良いと思いますけどね。
度を越さねばよろしいのでは?
- 422 :準シュダオン:2012/01/27(金)
12:22:10
- >桐山さんが世間福と
出世間福(梵福)の区別を示し、ボン行を奨励する法話を
した時に三福道の話などしません。
>あくまでもアゴン宗ボン行のしくみを説く法話で世間福と出世間福の2つがある
ことを話に出したのです。
>その世間福、出世間福解釈が間違っていたのです。
何も間違えていないでしょう?管長本でも、他の解説書と同じですよ。
ユビさんの受け止め方が違うのではないですか?
三供養品・三善根にしても、功徳の種=供養+修行、とした方が効果的でしょう。
世間福さえ得られない者に、解脱の福などあろうはずもないのですからね。
功徳の種を、無貪・無瞋・無痴に限定しようとするケチくさい考え方が理解できま
せんね。
- 423 :深山:2012/01/27(金)
12:33:23
- 出世間福@桐山説
『仏陀の真実の教えを説く[中]』で桐山さんは世間福と出世間福を説明しています。
いかにも阿含経にこのように書いてあるかのような記述ですが、
桐山さんのこれらの説明は間違い、と言うよりも、真っ赤な嘘です。
それを説明するために、まず桐山さんの世間福と出世間福についての
記述を信者さんたちはしっかりと読んで理解してください。
「きて、仏教では、福には世間福と出世間福の二種類があるとしています。世間福とは一般世
間における福です。たとえば財福や寿福のように世間的な福です。財福とは読んで字のごとく金
銭的な福で、寿福は長生きをする福です。病気をしないで長生きをする福が寿福です。それ以外
にも高い地位を得る福、権力を得る福、すぐれた肉親をたくさん持つ福などがありますが、いず
れも世間福です。
出世間福とは世間を超えた福です。一般世間を超越した福が出世間福です。具体的にいえば、
解脱成仏の福です。因縁解脱する福、悪いカルマを切る福が出世間福なのです。」
(『仏陀の真実の教えを説く[中]』107〜108頁)
- 424 :深山:2012/01/27(金)
12:36:11
- 出世間福@桐山さんのいう世間福と出世間福
桐山説による世間福と出世間福を端的にまとめるなら、次のようになります。
*桐山世間福・・・世俗的な福徳
*桐山出世間福・・世俗的な福徳+因縁解脱の福徳
中巻の説明には、出世間福に世間福が含まれているとはありません。
出世間福の中に世俗的な福が含まれることは次のように説明しています。
「出世間福を得る過程で、世間福などは自然に身についてくるでしょう。」
(『社会科学としての阿含仏教』の319頁)
ご覧のように、出世間福の中には世間福も入ると桐山さんは述べています。
もちろん、この考えも嘘であることは、後で経典から示します。
- 425 :準シュダオン:2012/01/27(金)
12:38:32
- >深山さんが書いていたように、この場合如来の「所」だからこそ環境のことだと
>わかるのですよ。
>如来に供養するのであれば、何も所を付け加える必要はない。
>単純に如来に功徳の種をうえるでよいはずです。
ですから、供養に限定するとは説いていません。管長は、供養+修行、と
説いているのです。だから、如来所で良いのです。
- 426 :深山:2012/01/27(金)
12:38:34
- 出世間福@因縁解脱の福という嘘
「因縁解脱する福、悪いカルマを切る福が出世間福なのです。」
信者さんたちにまず気がついてほしいのが、桐山さんの上記の嘘です。
仏教には、悪いカルマを切るとか因縁解脱などというものは存在しません。
釈尊のいう解脱とは漏尽解脱であり、アゴン宗でいう煩悩解脱です。
アゴン宗では因縁切りやカルマを切るなどと、まるで仏教の常識であるかのように
言われていますが、そんな言葉や概念は仏教にはありません。
因縁切りは明治以降の新興宗教が作り上げた言葉であり、
カルマを切ることを目指したのは、ジャイナ教という釈尊時代の外道です。
ですから、出世間福の意味がどうであるか別としても、
そもそも因縁解脱する福など仏教にはありません。
- 427 :深山:2012/01/27(金)
12:40:35
- 出世間福@桐山さんの言葉を信用してはならない
信者さんたちは、釈尊が世間福と出世間福を説いた経典を読んだことがありますか。
たぶん読んだことがないはずです。
桐山さんは経典そのものを一度も引用したことがありません。
こういう時は気をつけないといけない。
三供養品のように引用してさえも、平然と捏造する人です。
止息経などもそうだが、引用もしない時は、何か裏があると思ったほうがいい。
桐山さんは旧『座右宝鑑』で中阿含経「世間福経」の中に世間福と
出世間福があると説明しています。
ただし、経典の文章は引用せずに、『仏陀の真実の教えを説く[中]』と
同じ説明をしています。
こういう重要な内容は桐山さんの解説を信用せずに、自分の目で確認することです。
この経典は『國訳一切経 阿含部4』(大東出版社)29頁以降にあります。
桐山さんの言うように、それぞれ七つの世間福と出世間福とが説かれている。
しかし、内容を読むとは桐山さんの説明とは違います。
- 428 :深山:2012/01/27(金)
12:45:26
- 出世間福@世間福の釈尊の説明
出世間福経の現代語訳がみつかりませんので、漢文書き下しを引用します。
チュンナという比丘が世間福と出世間福を質問し、
釈尊がそれぞれに七つの福があると答えています。
七つの世間福とは次のようなものです。
わかりやすく番号をつけました。
世間福
1.比丘衆に房舍・堂閣を施す。
2.房舍の中に於いて床座藷ナ?氈褥臥具を施與す。
3.房舍中に於いて一切新淨妙衣を施與す。
4.房舍の中に於いて常に[比丘]衆に朝粥中食を施す。
5.園民を以って供給使令せしめ。
6.若(も)し風雨寒雪には躬(みずか)ら園所に往きて増施供養し。
7.諸の比丘衆をして風雨寒雪に衣服を沽漬するを患へず、晝夜にして安樂に禪寂思惟せしむ。
七つに分けてあるが、簡単に言うなら、世間福とは比丘たちが修行できるように
在家が様々に供養すること、です。
この7つの行為そのものが世間福だと釈尊は述べているのです。
- 429 :準シュダオン:2012/01/27(金)
12:48:53
- >正法に於いて供養をすると言うのがますますわからん。
ですから、供養に限定しないですってばぁ。功徳の種は無数にあるのです。
だから、「当求方便獲此・・」となっているでしょう。功徳の種は無数にある
から、いろいろ工夫して、その種を見つけてうえなさい、と、説いているのです。
無貪瞋痴に限定したら、工夫も何も、貪らない、怒らない、愚かしない、で、
解りきってるじゃないですか、当求方便なんて、いう必要ないでしょう。
- 430 :深山:2012/01/27(金)
12:49:19
- 出世間福@比丘に供養するのが世間福
まず信者さんたちに驚いてほしいのは、これが世間福の説明であるという点です。
信者さんたちは比丘たちに供養することが出世間福の話だと思っていませんでしたか。
私の引用が、出世間福の話ではないと疑問に思った信者さんもいるでしょう。
だが、これが世間福のほうの説明なのです。
桐山さんの話の印象とずいぶんと違います。
さらに、重要な点は、桐山さんのいう世間福の意味が違うことにも気がついてほしい。
違うというよりも、解釈を間違っている。
世間福とは>>428の1から7までの供養そのものを指しているのです。
「世間福=供養」です。
供養すること自体が世間福なのです。
ところが、桐山さんは比丘に供養することで得られる功徳を
世間福や出世間福であるかのように述べている。
果報のことを桐山さんは世間福と述べています。
間違いです。
比丘たちに供養することを世間福と言っているのであって、
果報を福といっているではありません。
これは出世間福についても同様のことが言えます。
- 431 :深山:2012/01/27(金)
12:50:52
- 出世間福@釈尊の説く出世間福
出世間福について、釈尊は次のように述べています。
これもわかりやすく番号を付けます。
1.如來または如來の弟子、某處に遊ぶと聞く。聞き已りて歡喜極はまり踊躍を懐(いだ)く。
2.
如來または如來の弟子、彼至より此に至らんと欲す。聞き已りて歡喜極はまり踊躍を懐(いだ)く。
3.如來または如來の弟子、彼至より此に至ると聞く。聞き已りて歡喜極はまり踊躍を懐(いだ)く
清淨心を以って躬(みずか)ら往きて奉見・禮敬・供養す。
供養し已りて、三自歸を得。
4.仏、
5.法および、
6.比丘衆に、而して
7.禁戒を受ける。
これらの内容を簡単に言うなら、三宝に帰依して、自らも在家の修行をすることです。
簡単に言うなら、
「出世間福=三宝帰依」
です。
- 432 :深山:2012/01/27(金)
12:57:13
- 出世間福@出世間には供養なんてない
*釈尊の説く出世間福=三宝帰依
*桐山出世間福・・世俗的な福徳+因縁解脱の福徳
ここでも信者さんたちに驚いてほしい。
桐山さんの話では、三宝に供養して得られる功徳が出世間福だった。
ところが、そもそも出世間福には比丘への供養など何もありません。
世間福で見たように、比丘への供養は世間福なのです。
しかも、出世間福とは供養の功徳や果報の話ではなく、三宝に帰依することです。
そして、出世間福の説明をみればわかるように、
これは信者さんたちの理解している内容からすれば八法のことです。
三宝に帰依し、教法を聴聞し、護持し、実践することです。
その内容はもちろん、因縁解脱などではなく、漏尽解脱を
目指して、煩悩を捨てることです。
桐山説のような、比丘に供養すると出世間福という摩訶不思議な果報が
得られて、解脱するなんて荒唐無稽な話ではなく、
三宝に帰依して煩悩を捨てる修行をすること、これを出世間福と表現したのです。
- 433 :準シュダオン:2012/01/27(金)
13:01:28
- >わかりもしない過去世の業だの話を出しても何の意味もないと思うからです。
犠牲者は悪人ではない。善男善女だったのではないですか?
>だから不幸にも犠牲に遭われた方には心から哀悼の念をささげます。それだけです。
間違っても過去世の悪業の報いにて今生の被災があったとか、わかりもしない
>ことで他人を不当に辱めたりしません。
それは確かにそうでしょう。何でもかんでも、不幸が起きたら、過去の罪障と
されたのでは、立つ瀬がありません。
寂聴さんは、「代受苦」を説いていますね。善男善女が犠牲になったのは、
助かった人を助けるためだったのだ、という考え方ですね。
つまり、身代わりになって犠牲者になったのだ、というのです。
ですから、衷心より冥福を祈って供養しましょうと。
わたしもそう考えたいですね。
- 434 :深山:2012/01/27(金)
13:04:03
- 出世間福@デタラメな桐山説
*釈尊の説く世間福=供養
*釈尊の説く出世間福=三宝帰依
*桐山世間福・・・世俗的な福徳
*桐山出世間福・・世俗的な福徳+因縁解脱の福徳
桐山さんの説明は、釈尊の説明をグチャグチャに混ぜて、
元の意味とはまったく違う勝手解釈です。
釈尊は、供養することや帰依することの大切さを世間福や出世間福と
言っているにすぎない。
それによって得られる功徳や果報の話をしているのではありません。
ところが、桐山さんは、供養することで解脱への道を歩むかのように
話をすり替えてしまった。
出世間福とは三宝に帰依することだから、そこで煩悩をなくせば
たしかに阿那含まで行きます。
しかし、世間福(=供養)をしたから阿那含になるのではない。
そんなことはどこにも書いていない。
世間福(=供養)と出世間福(=三宝帰依)とは別物で、
この経典でも釈尊は明瞭に分けて説いています。
出世間福経は、清浄の比丘たちに供養すること(=世間福)と
三宝に帰依すること(=出世間福)を説いたにすぎない。
もちろん功徳はあるが、功徳を強調しているのではなく、
供養と三宝帰依の大切さを福という言葉を使って説明しているのです。
信者さんたちも桐山さんの小手先のゴマカシに惑わされず、
釈尊の説いた内容を正確に理解してください。
- 435 :深山:2012/01/27(金)
13:08:03
- 信者さんたちに一つ気をつけてほしいのは、御利益に釣られないことです。
準シュダオンさんも、二言目には功徳をいただいている、と餓鬼丸出しのことを平然という。
こういう御利益が欲しい、功徳が欲しいという欲望で目が曇っているうちは、
阿含経をいくら読んでもダメです。
全部、餓鬼解釈をする。
桐山さんも、御利益ほしさに読んでいるから、世間福や出世間福という
言葉を見ると、内容もろくに調べずに、御利益の話だと解釈した。
冷静に読めば、釈尊は功徳や果報の話をしているのではなく、
供養の大切さ、帰依することの大切さを福という言葉を使って説明しているのです。
ところが、桐山さんの目は餓鬼だから、福という単語をみたとたん、
御利益だと勘違いした。
信者さんたちは、今日も餓鬼丸出しのレスをつけている準シュダオンさんを
反面教師として参考にしてください。
釈尊はその功徳を欲しがる欲望を減らせと説いた方であることを
忘れてはなりません。
- 436 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/27(金) 13:44:21
- >>422:準シュダオン12/01/27(金) 12:22:10
>三供養品・三善根にしても、功徳の種=供養+修行、とした方が効果的でしょう。
ならばどうして三福道を下根の成仏法と桐山さんはしたのですか?
下根の成仏法と言うのは我々が吐いた言葉ではなく、桐山さんが決めたものです。
三十七道品の修行をしないと漏尽解脱を得られないとした応説経と矛盾するでないか?
修行しないで涅槃界に至るなんておかしいではないか?これは後世の大乗の思想が
入り交じった偽作ではないかとまで疑ったのだそうです。
それに対する答えは、これは釈尊の時代の如来ではなくして、未来に現れる
如来を予言した経典で、この如来には供養みささげをすることで阿那含まで行ける
と説いたもので、修行をするのが上根の成仏法ならば、こちらは機根の低い人に
説かれた下根の成仏法と結論付けて、これは今も変えてません。
あなたのいう通りに供養だけでなく修行まであるのならば、文句はなく
どうしてこれを下根の成仏法としたのか答えてみなさい。
- 437 :準シュダオン:2012/01/27(金)
15:41:11
- >ならばどうして三福道を下根の成仏法と桐山さんはしたのですか?
>下根の成仏法と言うのは我々が吐いた言葉ではなく、桐山さんが決めたものです。
>三十七道品の修行をしないと漏尽解脱を得られないとした応説経と矛盾するでないか?
あのですね、出家の場合は世間福は不用でしょ、衣食を在家に依存するわけです
からね。ところが、在家の場合は、世間福も必須です。在家は、最低限の世間福が
なければ修行どころではありません。
ですから、管長は、三供養品・三善根を在家の成仏法=下根の成仏法としたのだと
思います。供養で世間福を得つつ+修行で出世間福を得る、というようにね。
- 438 :準シュダオン:2012/01/27(金)
15:49:03
- >説かれた下根の成仏法と結論付けて、これは今も変えてません。
>あなたのいう通りに供養だけでなく修行まであるのならば、文句はなく
>どうしてこれを下根の成仏法としたのか答えてみなさい。
ですから、「社会科学としての阿含仏教」本P354を、1ページで良いです
から、読んで見てください。修行と供養の二つを同時に行う、と説いています。
最初の頃は、言葉足らずの時が、あったのかも知れません。
私は、その後の入行ですから、詳しくは解りません。
- 439 :天照
◆MO30b8Jwoo:2012/01/27(金) 18:45:20
- いつの頃の法話か忘れましたが、教学ビデオ拝聴だったかと思います。
世間福と出世間福についてゲイカが語られていたものですが、世間福は財産が授かるとか
世俗的な徳であり、出世間福は「因縁を切ることの出来る徳」というように言われておりました。
つまり因縁解脱を目指すのなら出世間福を得なければいけない。
そして、その出世間福は巷には無い。なぜなら仏様がお授けになる徳だからである。
その徳が得られるために仏様に供養するのだ、とあります。
いくら世間的に良い事やボランティアの類のような見返りを求めないような善行為をしても
それは「世間福」を得るだけの行為にしかならない。
だから巷の人を見て御覧なさい。悪因縁が切れずに悪い因縁に苦しめられているではないか。
世間福を沢山得ても、お金や財産などを得られたとしてもその程度であり、悪因縁を解脱する
ための力が無いので、不幸な人生にやられてしまう。
信者さんたちに因縁解脱の徳を授けてくださることの出来る仏さまは阿含宗にしか居ない。
だからこそ修行の甲斐があり、供養のするべき対象(本尊)があり、解脱を果たすことが出来る
のであるというが、これは全てゲイカの妄想・戯言であります。
世間福と出世間福の解説は深山さん・ユビさんの解説が正しく、またそういう徳を授けるなどという
ことも釈尊は一言も言われていない。勝手に自分で話を作り上げ教学にしているのが阿含宗なのです。
- 440 :天照
◆MO30b8Jwoo:2012/01/27(金) 19:01:45
- 出世間福を沢山供養したのはゲイカや故 副管長などが良い例でしょう。
ですが、現実はどうでしょうか。故 副管長はガンで亡くなり、ゲイカに於いては糖尿病を患い、
脳梗塞に成り今や老いに勝てず呆け老人と化している。
仏様に精一杯の(いや、かなりの)供養を行って尚且つゲイカは釈迦の成仏法をマスターし仏陀となられた方である。
求聞持法も習得し自らの脳を改造し超人脳を持つお方で、修行を完成させたお方が今ではヨレヨレで過去の締まった
姿を見る由も無い。
今や91歳だが、巷で別段仏道修行などしないでも矍鑠としている老人は居られる。
一方、修行完成者で聖者様と仰せられる方は、人の介助がなければロクに生活も出来ない。
こういう輩が「出世間福が一杯」とは甚だ疑問だ。
その出世間福で得意の「解脱の様」を見せれるかといえば、見せてない。
むしろ解脱など程遠い状態であろう。故 副管長はガンの因縁に負け、教祖は脳障害の因縁の真っ只中だ。
尚且つ「自分には脳障害の因縁は無い」と宣言したのにもかかわらず、である。
言っていることとやっていることの整合性も無いまま突き進んだのが阿含宗である。
そして年を追えば追うほどそのボロが出てきている。
隠し通した「愛人」のことも一昨年にばれてしまっている。
信者や巷には良いことを言いつつ、裏で何をやっていたかがバレ始めている。
ここで愛人だった色川さんやゲイカなどに親しい人、教団の深い部分に居た人の暴露が有れば一発で
教団生命も終わりになってくる様相である。
仏教の知識もロクに無いのに口八丁でこさえてきた末路があらわになってきている。
因果応報を受ける日は近いのかもしれない。
- 441 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/27(金) 20:56:57
- >438 :準シュダオン:2012/01/27(金) 15:49:03
>ですから、「社会科学としての阿含仏教」本P354を、1ページで良いです
から、読んで見てください。修行と供養の二つを同時に行う、と説いています。
-社会科学としての阿含仏教-
「三福道」
に説かれている福は出世間福です。お釈迦さまがお金を
もうけるとか、高い地位が得られるとか、長生きするとか、
そのようなことを福と考えられて、そういうものが得られるぞ、
とわざわざお説きになるはずがない。お釈迦さまがおっしゃっている福は、
因縁解脱する福なのです。(319頁)
ー如来のもとでどのような功徳を種えるかー
さて、生ける如来のもとで種える功徳とは、具体的にはどういうものか。
これは二つに分類できます。分類するといっても両者は別々のものではなく、
同時に行なうべきものです。
まず一つは、修行と深い信心です。二つめは供養です。
信心・修行と供養を併せて行なう。
それが如来のもとで種えるべき功徳の内容です。(354頁)
桐山さんの言う出世間福とは因縁解脱する福であり、
桐山さんの言う功徳を種える一つめは、「修行と深い信心」だそうです。
この「修行と深い信心」とは、信仰によるアゴン梵行、タダ働きです。
上根の道品法などでないことは、明々白々です。
次の二つめの「供養」とは、モノ・金を供えることですから、
三供養品の功徳を種えるとは、(タダ働き)と(モノ・金)です。
準シュダオンさんの修行の解釈とは、これしか言えない。
アゴン宗信者は、長い間これしか示されずにいて気付かない。
上根の道品法などいつまで経っても出て来ません。
アゴン宗信者さんは、三供養品の功徳を種えるための(タダ働き)と
(モノ・金)を未来永劫に供え続けるのです。
- 442 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/27(金) 22:30:57
桐山さんの新著での涅槃界=アナゴンとの根拠が、
再登場させた「火滅品」を引用していました。
この「火滅品」は学者による訳解が見当たらないため、
仏教辞典に学説を反映させていました。
しかし相似する経文と解釈がありましたので再考のため掲示します。
深山さんの助言に従い、(有餘・無餘)涅槃界については、
すでに議論の余地がないので省きます。
あくまで「於是比丘滅五下分結 即彼般涅槃 不還來此世」の
表現解釈について再考します。
先ず桐山解説と解釈の(五下分結滅→般涅槃=アナゴン)です。
増壹阿含經火滅品
於是比丘滅五下分結。即彼般涅槃。不還來此世。
(訳文)
是において比丘、五下分結を滅して即ち般涅槃して此の世に還来せず。
これと相似した表現が「ブッダ最後の旅」にありました。
- 443 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/27(金) 22:31:50
「六、ナーディカ村にて」47〜48頁
尼僧ナンダーは、ひとを下界(=欲界)に結びつける五つの
束縛を滅ぼしつくしたので、ひとりでに生まれて、そこで
ニルヴァーナに入り、その世界からもはや(この世に)還って来る
ことが無い。「ブッダ最後の旅 中村
元訳」
以上47〜48頁にて、カクダ、カーリンガ、ニカタ、カティッサパ、
トゥッタ、サントゥッタ、パッダ、スパッダ、死んだ五十人以上の
在俗信者たちを、として同じ表現文となっています。
中村元博士の訳注によれば、このニルヴァーナに入る「不還」に
相当する文章は、後期アビダルマ教学よりウパニシャッドの思想に近い、
との見解を示されています。(219頁)
また、深山さんによる「火滅品」が載っている増一阿含経への学識見解も
参考すれば、桐山さんの示す解釈の根拠は学説に於いて通用しないもの
となります。
ー岩波仏教辞典ー
不還
ふげん[s,p:anagamin]音写して(阿那含あなごん)とも.
もはや人間界にもどることなく,天界以上の階位に上って
悟りに 至る者の意.
不還果はその第三果で、原始仏教では 五下分結
(下位の世界に結びつける五つの煩悩)を断じた者が
得るくらいであったが,倶舎論では −後略−
- 444 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/28(土) 10:25:29
- >>438:準シュダオン12/01/27(金) 15:49:03
>から、読んで見てください。修行と供養の二つを同時に行う、と説いています。
>最初の頃は、言葉足らずの時が、あったのかも知れません。
最初の頃と言うが、最新の「仏陀の真実の教えを説く(中)」でもどっこい下根の成仏法
は生きている。ちゃんと上根の成仏法と下根の成仏法は明記されているのです。
ですからあなたもこの問題について何かしら論じたいのであれば中巻を買って
読んだ上でないと話になりませんよ。
世間福と出世間福についてもこの三供養品の中で桐山解説がされている。
私もそう言えばあったなあと、中巻の記述ではなく、昔の法話の記憶だけで
書いていました。
八法十六法と(桐山)梵行がイコールであることも書いている。
ただ下根の意味がこれまでに比べて不足と言えますね。
まず三十七道品を修行しないと漏尽解脱しないと説いた上巻掲載の応説経と矛盾
することを示しています。
そして応説経との違いを説明する意味で二つの涅槃界として火滅品も引用して
三善根(三福道)で行けるのは阿那含までであり阿羅漢までは行けないことを示し
ゆえに下根(下品)の成仏法としたとしか読み取れないのです。
この中巻だけを読む限り。
機根の優れぬ者のためになどとサラリと書いているが、機根の優れぬ人とは
どういう人であり、なぜ二つの成仏法があることを説明していない。
それならば阿那含までは三善根(三福道)で行って、そこから先だけ上根の成仏法
たる三十七道品をやれば合理的な話ではないか。
応説経で説いたことと矛盾することに対してその矛盾を解消する解説として
十分でないのです。
応説経では修行法を実践しないと解脱できないと説いた。
しかし三善根(三福道)ならば特殊な修行法を駆使しなくても、八法十六法=(桐山)梵行
と解脱宝生行の聖典勤行だけで阿那含までは行けてしまうと言うのです。
ちなみにこの章で解脱宝生行は聖典勤行と梵行の二つから成り、梵行をしなければ
解脱宝生行にならないと明記しています。
まあ法話で聞いた通りですね。梵行をしないと因縁が切れない。
ところでどうして桐山梵行をすると煩悩が切れるのか?
阿那含だの五下分結だの専門用語だけで話を済まして騙そうと言っても
そうは問屋が卸さない。
どうして欲貪や瞋恚などが桐山梵行をすることによりなくなるのか?
説明になってないのです。
- 445 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/28(土) 10:58:07
- 八法十六法の中に戒があり、戒律は必須であることがわかります。
ゆえに単なる供養でもないし、宣伝でもない。
しかし準シュダオンさんは常に戒定慧解脱解脱知見の五分法身を涅槃の条件としています。
八法に定や慧まであるのか?
見と聞は説法を聞くことですよね、持と観と法次法向あたりに定慧があるのか?
もし無いのならば戒だけで阿那含まで行けることになるのか?
桐山さんは上巻の一切事経解説でおかしなことを書いてましたね。
法次は解脱宝生行の実践、法向は七科三十七道品の実践と。
すると、八法もまた立派に上根の成仏法ということになります。
三善根(三福道)はあくまでも如来の所、正法、聖衆に於いて功徳の種をうえる
ものとしています。
ところが桐山さんも準シュダオンさんもこの三供養品における三善根とは
無貪無瞋無痴ではないとしている。
つまり自己節制の修道ではなく、如来という高い存在から徳を頂ける営みとしています。
しかし準シュダオンさんによると、供養と修行がそろっているという。
修行もあるならば無貪無瞋無痴の修道もあっておかしくないことになり、
否定する必要もなく矛盾しています。
必死に無貪無瞋無痴だけは否定したい理由は何か?
- 446 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/28(土) 11:24:17
- >>419:準シュダオン12/01/27(金) 10:58:33
>私はもうすでに大きな功徳を頂いていますので、梵行をあせることはない
>のです。梵行の貯金があったから功徳を頂いたわけで、別に功徳の借金が
>あるわけではないので、あせることはないわけですw。
これはジョークですよね?
ボン行に卒業はなく絶えず続けねばならないのです。
中巻にもボン行をしなければ解脱宝生行として成立しないことを説いている。
そしてボン行とは積徳の行と言うが、積徳なんて、なんか高く積み上げるかのような
ものとの印象を与えているが、諸君が実践しなければならないのはそんな余裕のある
ご立派な行動ではなく、悪因縁の借金、負債があるから、この不徳の埋め合わせを
せよと滅罪行を課しているのです。
解脱供養も然りで、あれ貯金を積み立てているのではない。
借金を返済している真っ最中なんです。
返済のある程度済んだ人に与えられるのが守護神や守護霊なわけです。
ボン行を卒業した人など桐山さんは認めていない。
借金をボン行で返せと指導しているわけです。
あなたのは単なるサボリであり、指導に従っていないだけです。
そのサボリも一時的な中休みならまだよい。
しかし過去に何らかのボン行に励んだ形跡すら皆無なんです。
あなたの解決した問題なんて、叱られる上司から解放されたくらいです。
それでよしとするのはあなたの自由だが、それを因縁解脱の道に一つの区切りが
ついたかのように公言するのは教団にとって迷惑でしょう。
ボン行経験なく因縁が切れたことになりますからね。
- 447 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/28(土) 12:03:53
- >>429:準シュダオン12/01/27(金) 12:48:53
>だから、「当求方便獲此・・」となっているでしょう。功徳の種は無数にある
>から、いろいろ工夫して、その種を見つけてうえなさい、と、説いているのです。
それを桐山さんは具体的に明示したのです。
おシャカを世に出す、あなたがおシャカになれ、おシャカの喜ぶことをやれ、
おシャカの喜ぶこととは何か?この成仏法を広めることである。
だから人と金を集めて教団を盛り上げろ、教団の役に立てと命じたわけです。
それは自分自身の成仏法の修行ともまた別の布教修行です。
>無貪瞋痴に限定したら、工夫も何も、貪らない、怒らない、愚かしない、で、
>解りきってるじゃないですか、当求方便なんて、いう必要ないでしょう。
解りきっている?
じゃああなたは貪らないようにしよう、怒らないようにしよう、愚かなことはしない
ように心掛けようと漠然と念じるだけで、貪瞋痴はなくなって、はい、おしまい、
一丁あがりと済んでしまうと考えますか?
そうではないでしょう?
そうは簡単にいかないから観念工夫をこらすのです。
その具体的な実践の一つの表現が応説経に説かれた三十七道品の実践です。
つまり三善根=三十七道品=無貪無瞋無痴で、共通のものと理解できます。
無貪無瞋無痴を目標として観念工夫していく道と言ったら大変な一大事どころではなく
一生のものです。
それを単なる標語に掲げるだけのものとみなしたあなたがおかしいのです。
- 448 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/28(土) 15:41:20
- >>444:ユビキタス ◆18iA.mwnDU12/01/28(土) 10:25:29
>ところでどうして桐山梵行をすると煩悩が切れるのか?
>阿那含だの五下分結だの専門用語だけで話を済まして騙そうと言っても
>そうは問屋が卸さない。
桐山さんは経典を駆使して用語の解説をしながら、突如経典も説かない何の根拠も
ない話に切り替えていきます。
煩悩解脱を解説しながら突如煩悩解脱は小解脱だなんて書く。
じゃあそのことが経典のどこに書いてあるのかと言うと、もちろんどこにも書いていない。
単なる自分の決めつけに過ぎない。
それを経典解説というあくまでも主役は経典、自分は解説者に過ぎない立場を
忘れて自分の考えを唐突に出す。
唐突に出すから鈍感な読者なら、あたかも経典にそのように書いてあることを
解説されたかのように錯覚をする。
シュダオンやアナゴンもまた然り。
一応三結断ったのがシュダオン、五結断ったのがアナゴンという正しい解説は
されています。
しかし一度そういう解説を済ませると桐山シュダオンや桐山アナゴンは独り歩きを
桐山さんによってさせられます。
やれシュダオンは青いオーラを発するだの欲貪や瞋恚は表面意識レベルでは
なくなっている、アナゴンで断つべき欲貪や瞋恚は深層意識レベルのそれだとか。
もちろん何の根拠もない。
三福道でアナゴンまで行けるというのもその延長にある。
してその方法は要するに桐山ボン行です。
シャカを世に出すボン行に励むと徳を授けてくださるという創作教義はそれなりに
わかります。
しかしではその徳をもとに上根の成仏法である三十七道品にもチャレンジできて
それで五結も切っていってアナゴンになるのならばわかるが、そうではなく
三福道だけでアナゴンに行けると言うのです。
と言うことはボン行をするうちに五下分結がいつの間にか切れることになる。
欲貪や瞋恚がボン行をするうちに切れる。
このメカニズムがわからない。説明がない。
これはアナゴンだの五下分結なんて難しい用語を独り歩きさせたからです。
だから言葉だけでごまかして細かな思考を遮断させる。
準シュダオンさんの使う専門用語もそうです。
用語の意味内容よりも用語だけで思考をストップさせて、単なる言葉のもてあそびをする。
彼は五下分結を語る時、それは漢字4文字でしかない。
ゴ、ゲ、ブン、ケツ。
意味などどうでもゆい。呪文みたいなものだ。
- 449 :準シュダオン:2012/01/29(日)
09:38:13
- >桐山さんは経典を駆使して用語の解説をしながら、突如経典も説かない何の根拠も
>ない話に切り替えていきます。
それは、関連あるのだけれども、それに気付けないんですね。
>煩悩解脱を解説しながら突如煩悩解脱は小解脱だなんて書く。
>じゃあそのことが経典のどこに書いてあるのかと言うと、もちろんどこにも書いていない。
経典にも書いてあるのだけれども、そのものズバリ、管長用語のように書いてない
だけで、内容は同じだと思うね。だいたい、解脱という用語だけでも○○解脱と
言うのが沢山あるでしょ、私が以前レスしたように。
- 450 :準シュダオン:2012/01/29(日)
09:59:04
- >しかし一度そういう解説を済ませると桐山シュダオンや桐山アナゴンは独り歩きを
桐山さんによってさせられます。
>やれシュダオンは青いオーラを発するだの欲貪や瞋恚は表面意識レベルでは
なくなっている、アナゴンで断つべき欲貪や瞋恚は深層意識レベルのそれだとか。
>もちろん何の根拠もない。
根拠は、管長の体験ですよ。修行体験からの見解を述べているのです。
だいたい、ユビさんからして、「自分とは我見の塊」であることを自覚したこと
がないでしょう。そして、これは我見であるか?自灯明であるか?などと自問自答
したことがあるでしょうか。それが我見を断つ第一歩だと思いますね。
それがないから、例えば、深山さんなど、異常に大量の我見レスを平気でする。
我執の塊であることに気づけないでいます。つまり「慢」です。慢の大きさが
大量レスに繋がります。学者先生の解説を、そのまま信じてるレベルでは、本物
ではないと思いますね。自分の修行体験から、学者先生の解説と、どこか違う
見解の一つか二つ、持てるようでなければ修行ではないと思いますね。
- 451 :準シュダオン:2012/01/29(日)
10:13:40
- >三福道だけでアナゴンに行けると言うのです。
>と言うことはボン行をするうちに五下分結がいつの間にか切れることになる。
>欲貪や瞋恚がボン行をするうちに切れる。
>このメカニズムがわからない。説明がない。
8法16法には、梵行も修行も含まれているのです。同じ内容は比丘にも説かれて
います。つまり、在家には、比丘たちに説いた内容のうちから、在家向きの内容を、
必須のものをピックアップして説いたんですね。
信、戒、施、の梵行でしょう、そして聞で法を教わって、法次は教わった法を実行
することです。と、いうように、8法16法には、修行もあるので五下分結も断て
て、熱心な在家はアナゴンまで行けるわけです。
- 452 :準シュダオン:2012/01/29(日)
10:40:24
- >つまり三善根=三十七道品=無貪無瞋無痴で、共通のものと理解できます。
>無貪無瞋無痴を目標として観念工夫していく道と言ったら大変な一大事どころではなく
>一生のものです。
ずいぶん、ひねくれた解釈ができるもんだと感心するね。これじゃあ、話にならんし、
仏教どころか、批判派が社会人として一人前に生活できているのか、疑問になるね。
三供養品の三善根が無貪瞋痴を意味するのであれば、「如来・法・聖衆に於いて
無貪瞋痴を実践せよ」と、説けば紛れがないし、私でも説ける。何で釈尊とも
あろうお方が、功徳の種をうえよ、と言い換えるものかね。
他の経典で三善根が出てきた場合、必ずその内容を説明しています。
三供養品の場合は、功徳の種をうえよ、と説明しています。
勝手に功徳の種を、無貪瞋痴に限定するんではないよ。
三供養品三善根には、無貪瞋痴の一字一句も出ていないよ。
- 453 :準シュダオン:2012/01/29(日)
10:46:49
- >これはジョークですよね?
>ボン行に卒業はなく絶えず続けねばならないのです。
ジョークではありません。梵行を卒業したとは書いていません。あせることは
ない、と書いたのです。だいたいが、批判派のレスには、脅迫めいたボン行論
の感じがするね。
狭い日本、そんなにあせってボン行しなくて良い人も居る、のですね。
- 454 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/29(日) 11:40:18
- >>449-452:準シュダオン
>だいたい、解脱という用語だけでも○○解脱と
言うのが沢山あるでしょ、私が以前レスしたように。
しかしその中に「因縁解脱」はありません。
桐山さんの標語は数多くあれど、経典にないものが殆どです。
>8法16法には、梵行も修行も含まれているのです。
アゴン宗のその解釈が誤りです、と批判されている。
仏教の修行はひとつだけ、”自己の浄化”につとめることです。
セイテン勤行が梵行と考えるなら、マチガイとムダです。
阿含経を読んでも意味を自問せず、呪文のように捉えている。
分からない言葉や世界をアリガタがる悪い傾向です。
アゴンボン行は、それ以外すべて「タダ働きとモノ金」供養です。
>三供養品の三善根が無貪瞋痴を意味するのであれば、「如来・法・聖衆に於いて
無貪瞋痴を実践せよ」と、説けば紛れがないし、私でも説ける。
釈尊在世時でも準シュダオンさんのような分からず屋がいた。
だから三善根の実践とは、功徳の種をうえることと同じですと、
別の観点から説いただけです。
>三供養品三善根には、無貪瞋痴の一字一句も出ていないよ。
いつも説く”三善根”ではないなら、逆に新たな事前説明をします。
- 455 :準シュダオン:2012/01/29(日)
12:58:25
- >つまり三善根=三十七道品=無貪無瞋無痴で、共通のものと理解できます。
あら、それなら何でアナゴンまでなんですか?阿羅漢まで行けるでしょ。
>無貪無瞋無痴を目標として観念工夫していく道と言ったら大変な一大事どころではなく
>一生のものです。
それこそ観念論で、そう言う人ほど口先だけで、我欲だらけなんです。
- 456 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/29(日) 13:19:37
- >455 :準シュダオン:2012/01/29(日) 12:58:25
>あら、それなら何でアナゴンまでなんですか?阿羅漢まで行けるでしょ。
そうです、桐山さんがアナゴン止まりとマチガイを犯した。
三善根=三十七道品=無貪無瞋無痴が仏教です。
三善根=八正道=無貪無瞋無痴と考えても同じです。
>それこそ観念論で、そう言う人ほど口先だけで、我欲だらけなんです。
三歳の子供でも分かることが、九十の桐山さんでも
行うことは難しいことで観念論でないと分かります。(景徳伝灯録
参照)
「すべての悪しきことをなさず、善いことを行い、
自己の心を浄めること―これが諸の仏の教えである。」
ダンマパダ183
これは「七仏通誡偈」と言わる詩句に説かれています。
「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」
自己の心を浄めるために、三善根の無貪無瞋無痴を実践するのです。
- 457 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/29(日) 13:22:49
- >455 :準シュダオン:2012/01/29(日) 12:58:25
>それこそ観念論で、そう言う人ほど口先だけで、我欲だらけなんです。
釈尊は悟りを得たからそれで終わりではないことは、
中村元博士訳の(サンユッタ・ニカーヤU 悪魔に関する集成)で、
読み取ることができます。
悪魔はブッダの内心の汚れであり、心の消極的一面を表している。
この観点で中村元博士は、ブッダは伝道者であり、また修行者として
一生を自己の浄化につとめ、向上の一路を歩んだと解釈しています。
ブッダは、常に誘惑が起きてくる心を悪魔とし、それを退散させ心の安定を
はかっていたのだから、それは常なる内省心を維持していた”道の人”、
いわば最後まで修行者でもあったわけです。
- 458 :準シュダオン:2012/01/29(日)
13:36:13
- >つまり三善根=三十七道品=無貪無瞋無痴で、共通のものと理解できます。
ユビさんは、最初に我見を立ててしまうから、三善根=三十七道品などと奇想天外
な説を立てて平気でいられるのです。前にもレスしたように、無貪瞋痴は、修行の
結果得られるもので、修行法そのものではありません。
三衆経の三善根→法向善趣 五戒→法向善趣 三三昧→法向涅槃 五根法→法向涅槃、
をなぜ無視するのですか?それこそが、ユビさんの我見なのです。
三善根とは戒行扱いで、天上界どまりです。涅槃に至るには、三三昧という修行法で
なければいけません。
ゆえに、三善根≠三十七道品です。
こういう基本的なところを、ユビさん方は、勘違いしているのです。
- 459 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/29(日) 13:43:36
- >455 :準シュダオン:2012/01/29(日) 12:58:25
>それこそ観念論で、そう言う人ほど口先だけで、我欲だらけなんです。
釈尊が、マガダ国王アジャータサット王に対して述べた伝承によれば、
「民衆は弱いものであり迷信に取りつかれやすいものであるが、
その弱みに付け入って当時の宗教家たち(バラモンやシラマナ)が、
生活している。」と、非難しています。
まるで桐山さんを見るものです。
−ヒンドゥー教と叙情詩 中村元選集−
『例えばある種の修行者・バラモンがたは、信者から与えられた施しの
食物を食べて〔生活しながら〕次のような卑しい術、邪悪な生活手段に
よって生活を営んでいます。すなわち、四肢の特徴により、前兆により、
自然現象の異変により、夢見により、身体の特徴により、鼠に噛まれた
衣服によるなどの諸種の運命判断、また火を焚く護摩の術〔用法の異なる
種々の〕杓子を用いる護摩の術、もみがら・ぬか・脱穀した穀物・凝乳・
油を備える護摩の術・種子などを口から火の中に吐き出して行う護摩の術、
〔右膝からとった〕血をささげる護摩の術、また〔指の関節などの〕身体を
見て呪文を唱えて行う運命判断、家を建てる土地の相の判断、畑の判断、
山犬の鳴き声による占いの判断、悪霊祓いの呪術、地の中の宝や金鉱を
みつけるために占う術、蛇呪文、鳥や烏の鳴き声による運命判断、これからの
人の生きられる寿命の予知、矢から身をまもる呪文、 動物の鳴き声による
運命判断〔などを生活手段としている〕。 しかしこのような卑しい術を
行なわないのが、また修行僧の戒めの一つです。−後略−』(111頁)
- 460 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/29(日) 13:45:43
- >455 :準シュダオン:2012/01/29(日) 12:58:25
>それこそ観念論で、そう言う人ほど口先だけで、我欲だらけなんです。
桐山さんは、三善根の実践を嫌い、信者さんも心から同意している。
日々の制欲である清浄行が大嫌いだから、呪術や神通リキに逃げて、
モノにできると妄想していることが”我欲”です。
桐山さんの打出した「ホー」、自然現象の予知、占断術、護摩、
霊障祓いなどで得る生活は、卑しく戒められるべきものだ、
と釈尊は、述べているのです。
- 461 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/29(日) 14:15:32
>三衆経の三善根→法向善趣 五戒→法向善趣 三三昧→法向涅槃 五根法→法向涅槃、
をなぜ無視するのですか?
またほんの4日前を持ち出しています。
それも何年も続いているが、再度反論します。
この三聚経の意味は、○○止まりという意味ではありません。
読んで字のごとく、○○へ向かう、という方向性を示している。
例えば「出席⇔欠席」のように「悪行」と「善行」を対義語として
比較表現し、その果である道を説いているのです。
この経の一から十法まですべて「対」となした表現方法です。
経典は、このように対義的に比較して結果を説く手法が多くあります。
云何三法向惡趣。謂三不善根。貪不善根恚不善根癡不善根。
云何三法向善趣。謂三善根。無貪善根無恚善根無癡善根。
云何三法趣向涅槃。謂三三昧。空三昧無相三昧無作三昧。
悪趣へ向かうことは何か、煩悩をな無くさぬことだ。
善趣へ向かうことは何か、煩悩を無くすことだ。
涅槃へ向かうことは何か、煩悩を無くす心を安定することだ。
- 462 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/29(日) 15:28:04
- >>449:準シュダオン12/01/29(日) 09:38:13
>経典にも書いてあるのだけれども、そのものズバリ、管長用語のように書いてない
>だけで、内容は同じだと思うね。だいたい、解脱という用語だけでも○○解脱と
>言うのが沢山あるでしょ、私が以前レスしたように。
ほらね。皆さん、内容云々よりも、私が指摘批判した曖昧な手法を早速やってみせてくれた。
解脱にも〇〇解脱とかいろいろあると示しただけで、これで煩悩解脱は小解脱である
ことを証明してみせたつもりらしい。
もちろん過去には〇〇解脱だなんて書いてません。
慧解脱とか倶解脱とか出しています。
しかしそこまでなんですよ。単語を提示しておしまいです。
煩悩解脱がこれらの解脱用語の存在によって小解脱になると言うのならば
慧解脱なり倶解脱なりをきちんと解説して両者の比較をきちんと論じなければ
なりませんよね。
ところが彼にはこれをこなす能力もないから無明とか理解もできていない専門用語
だけを突きつけているだけです。
こんな話に騙されてはいけません。
まず煩悩解脱ですが、これは我々も便宜上使用している言葉だが、厳密にはこういう
用語の使用はしません。
〇〇解脱という場合、〇〇から解脱するという意味で使用しないのです。
それなら慧解脱などは智慧解脱で智慧から解脱する?という意味になる。
解脱という用語自体悟りを表すから、〇〇と解脱が同義的になるのが本来です。
よって因縁解脱なんて用語もあり得ない。
あるとするならば因縁は真実の悟りであり解脱は真実であるということになり、
悪因縁から解脱するという意味に使われない。
しかしここではその視点原則で語るとややこしい面もあるので、仮に因縁解脱と
いう使用法を認めておいて、こちらも煩悩解脱という言葉を仮使用して
解脱とは因縁(からの)解脱ではなく煩悩(からの)解脱だよとして理解を
促しているのです。
だから正確には煩悩滅解脱と表現すべきでしょう。煩悩滅=解脱です。
さてその煩悩解脱(煩悩滅解脱)ですが、経典にはそんな用語はありません。
あるのは心解脱ですね。心に貪著を離れた解脱をいう。
貪著や瞋恚を離れたわけですから煩悩滅解脱です。
これに対して準シュダオンさんが出してくるのが慧解脱や倶解脱です。
ではその慧解脱や倶解脱とはどういうものか見てみましょう。
- 463 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/29(日) 16:01:53
- >>449:準シュダオン12/01/29(日) 09:38:13
>経典にも書いてあるのだけれども、そのものズバリ、管長用語のように書いてない
>だけで、内容は同じだと思うね。だいたい、解脱という用語だけでも○○解脱と
>言うのが沢山あるでしょ、私が以前レスしたように。
慧解脱とは智慧を得る上で障りとなる無明から離れたことを言います。
倶解脱とは定の障りとなるものから離れたことを言います。
つまり戒定慧の三学をなすことにより心解脱、倶解脱、慧解脱を得てそれを知見
できて阿羅漢の涅槃が完成という構図が理解されます。
そこで心解脱だけではまだ不十分だと言いたいのでしょう。
しかしこれが煩悩(滅)解脱が小解脱という論拠にはなりません。
ましてや因縁解脱が大解脱になる論拠であるはずがない。
と言うのは無明自体が煩悩の原点とみなされているからです。
だから無明は煩悩の範疇に含まれる。無明という煩悩です。
だから我々が煩悩解脱という場合、当然無明の煩悩も含めている。
つまり慧解脱も含まれている。
倶解脱は辞書的解説ではなかなか我々にはわかりにくいが、これも五上分結に
類する含まれるものと推察可能です。
結とは煩悩であり、五上分結も煩悩です。
だから五上分結を断つとは煩悩を断つ延長というか煩悩を断つことに変わりない。
それで阿羅漢を得るのです。
つまりあらゆる煩悩を滅して阿羅漢の悟りを得るわけです。
ここまでを指して煩悩解脱と我々は表現しているのだから、これより上などない。
煩悩解脱を小解脱だなんて侮辱する謂われはないのです。
それに慧解脱や倶解脱を心解脱よりも上位に認めたところで、それは因縁解脱には
なりません。
なぜなら桐山因縁解脱とは、病気や災害などは因縁から来るものであり、この悪因縁を
なくすから、今生において運命として予定されていた病気や災害には遭わなくても済み、
安穏な人生を送ることが可能になるとしたのが因縁解脱の定義です。
ただその究極としてなぜか唐突にも、死んで後、もはや輪廻も止んで生まれ変わる
こともない輪廻(滅)解脱、涅槃を加えてますから、そこだけは阿羅漢の得る
輪廻のやむ涅槃と共通させているだけです。
しかしてそんなことで騙されてはならず、輪廻のなくなる涅槃より前の、現世での
不幸不運の運命が好転してしまうことなど、慧解脱にも倶解脱にもどこにも説いていない。
- 464 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/29(日) 16:37:16
- >>449:準シュダオン12/01/29(日) 09:38:13
>経典にも書いてあるのだけれども、そのものズバリ、管長用語のように書いてない
>だけで、内容は同じだと思うね。だいたい、解脱という用語だけでも○○解脱と
>言うのが沢山あるでしょ、私が以前レスしたように。
無明とは根本的な無知のことです。
無知とは何か?痴でしょうが。
だから貪瞋痴の煩悩を断つとは当然無明無知も断つことを含めます。
だから三善根の無貪・無瞋・無痴というのは仏教の完成形です。
これを目標に観念工夫して精進する道です。
それから〇〇解脱の分類として、身解脱というのもあります。
この身解脱、桐山さんも使用したことがあります。
心解脱に対してですね。
桐山さんによると心解脱とは悪い心癖をなくすことを言う。
しかしこれだけでは小解脱であり、この上に身解脱、命解脱がなければならないと説く。
このうち身解脱とは単に心の悪い部分が是正されるだけでなく、病気など
身体的な面にまで及んで是正されることなんだそうです。
さらにその上に命解脱があり、これは災害に襲われることなどなくなってしまう
運命の好転改善を言うのだそうです。
しかし実はそんな記述などどこにもなく、単なる桐山さんの希望に過ぎない。
アビダルマでしょうが、仏教には身解脱という用語はあります。
この場合、肉体の束縛から離れたことを言います。
つまり解脱を得た阿羅漢が死んで肉体が滅びることを言います。
つまり有余依涅槃の聖者が寿命尽きて死んで肉体もなくなり無余依涅槃を得た
ことを言います。
つまり釈尊が35歳の時に悟りを開いてブッダとなったわけですが、そのブッダは
80歳で入滅するまでは身解脱までは成し遂げていなかったとみるものです。
桐山身解脱と全然違うでしょうが。
ところでこの慧解脱や倶解脱、身解脱といった分類はアビダルマによるものです。
準シュダオンさんがその時の都合によって、担いだり否定したりするものですね。
何しろ彼は桐山説に都合が悪ければアビダルマだ大乗だと否定し、逆に桐山説に
都合がよいと見えれば、アビダルマも大乗もよしとする主体性のない可哀想な
洗脳老人ですから。
ともあれアビダルマ説ですら桐山因縁解脱に相当するものはないのです。
結局アビダルマでも解脱とは広義にも煩悩滅しかないと説いているのです。
- 465 :準シュダオン:2012/01/29(日)
16:54:41
- >準シュダオンさんがその時の都合によって、担いだり否定したりするものですね。
>何しろ彼は桐山説に都合が悪ければアビダルマだ大乗だと否定し、逆に桐山説に
経典に照らし合わせて正しければアビダルマも肯定するし、そうでなければ否定する
だけです。ユビさん方は、経典説とアビダルマ説の区別さえ、ろくに出来ていない。
>都合がよいと見えれば、アビダルマも大乗もよしとする主体性のない可哀想な
>洗脳老人ですから。
そういうわけで、ユビさんこそ↑状態を通り越したボケ状態なのです。
- 466 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/29(日) 17:23:38
- >>450:準シュダオン12/01/29(日) 09:59:04
>根拠は、管長の体験ですよ。修行体験からの見解を述べているのです。
オーラなんてものは最初から経典記述などに根拠を持たない自分の体験から得た
ものにしておこうとわかるものはまだよいですよ。
あのオーラの色とは誰のを見たのでしょうか?
シュダオンの青いオーラは信者の僅かな一部にもまだ弱い光ながら散見される
みたいなことを書いているが、アナゴンのジェット機を思わす強いオレンジ色とかは
自分のオーラを見たというわけですか。
ところが煩悩解脱が小解脱とか唐突に示すのは体験などでは済まされません。
あの著書はあくまでも経典の解説書です。
だから経典を逸脱するような体験(?)があるのならば、必ず逸脱することを
付記する必要があります。
だいたい自分の体験で、これは小解脱に過ぎないなんて判断する体験ってどんな体験?
それは体験などではなく自分の好み、嗜好、価値基準に合うか合わないかの
考えに過ぎない。
我見ですらないのです。
経典の説いていることを謙虚に受け止めようという気持ちもなく、選り好みをして
自分の考えに合わないものは否定排除しただけです。
ならば経典の解説書なんて書かなければよいではないか。
書く資格がない。
- 467 :準シュダオン:2012/01/29(日)
17:35:57
- >このうち身解脱とは単に心の悪い部分が是正されるだけでなく、病気など
>身体的な面にまで及んで是正されることなんだそうです。
>さらにその上に命解脱があり、これは災害に襲われることなどなくなってしまう
>運命の好転改善を言うのだそうです。
そうなんですか、いやぁ、勉強になります。ユビさんは体験がないから、管長の
教えに疑問なんでしょうけど、私はな〜るほどな、と納得できます。
身解脱と病気の関係もね、私にはそ〜か、というような心当りがあります。
が、ユビさんなどは経典に書いてないことは信じられないのでしょう。
ユビさんには、まだ、仏教と仏法の違いを、体験していないのです。
だから、言葉と想像だけで、判断しています。
>しかし実はそんな記述などどこにもなく、単なる桐山さんの希望に過ぎない。
>アビダルマでしょうが、仏教には身解脱という用語はあります。
アビダルマでなくても、経典に「色解脱」が説かれています。色、受、想、行、識
の色です。つまり、身=色、でしょうから、経典に身解脱も説かれてあるのです。
- 468 :準シュダオン:2012/01/29(日)
17:54:20
- >〇〇解脱という場合、〇〇から解脱するという意味で使用しないのです。
>それなら慧解脱などは智慧解脱で智慧から解脱する?という意味になる。
私が何度もレスしてるのに、そういう基本さえ、ユビさんは理解していない。
私のレスを読んでいないか、読んでも理解できないのですね。
解脱するとは、解放されるという意味と、具える、という意味があるのです。
だから、智慧解脱とは、智慧を具えるという意味です。
他に、慈解脱、悲解脱、とかあります、慈悲喜捨の四無量心を具えていく解脱です。
>解脱という用語自体悟りを表すから、〇〇と解脱が同義的になるのが本来です。
解脱には、悟りの他に、超越・解放されるという意味もありますから、そういう
杓子定規的に解釈しては間違いですね。
- 469 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/29(日) 18:15:58
- >>451:準シュダオン12/01/29(日) 10:13:40
>8法16法には、梵行も修行も含まれているのです。同じ内容は比丘にも説かれて
>います。つまり、在家には、比丘たちに説いた内容のうちから、在家向きの内容を、
>必須のものをピックアップして説いたんですね。
>信、戒、施、の梵行でしょう、そして聞で法を教わって、法次は教わった法を実行
>することです。と、いうように、8法16法には、修行もあるので五下分結も断て
>て、熱心な在家はアナゴンまで行けるわけです。
桐山教を離れて、釈尊の仏教だけを考察する場合、出家の修行も在家の修行も
基本的には変わらない、程度問題であるという点は私もそう思います。
八法十六法とは決して具体的に示した技術論としての成仏法などではない。
しかして法次法向という言葉で釈尊の説いた教えに自他ともに従い、精進していこう
となればアナゴンにまで至る道もその人次第で展開されようというものです。
で、八法十六法では具体的な内容は省略されているとみる成仏法とは何かと言うと
結局、応説経にも説かれた三十七道品ということになります。
それを実践するからこそアナゴンにまでも行けるわけです。
応説経に説かれた三十七道品とはあくまでも完璧なアラハンを目指す人が実践
すればよいのであり、アナゴンまでだったら三十七道品は特に必要ないという
ことになりますからね。また桐山さんもそう言っていない。
だいたいあなたでさえ準シュダオンと名乗り、生涯のうちにシュダオン果まで
達すれば満足みたいなネームを名乗り、修行を休み焦らない人にとって、
アナゴンまで行けたら大満足であり、それはアゴン宗の信者も共通でありましょう。
つまり三十七道品の
修行なんて要らないことになる。三福道だけで十分だ。
三十七道品と三善根(三福道)を区別するから、桐山さんも
矛盾するなどとし、
上根の成仏法、下根の成仏法などと区別したのです。
して実は八法十六法には三十七道品とも共通する修行も含まれ、その十六法とは
ボン行と共通であり、三善根(三福道)とはボン行と八法十六法の修行の総体
となれば、これはちっとも下根の成仏法なんてことはなくなる。
つまり三福道の修行というのはボン行のことです。
供養というのは金や財物を喜捨することですよね。
アゴン宗ボン行は行動奉仕をするのですよ。布教の手足になることなんですよ。
わけのわからん話でしょうが?
- 470 :準シュダオン:2012/01/29(日)
18:20:37
- >だから五上分結を断つとは煩悩を断つ延長というか煩悩を断つことに変わりない。
それで阿羅漢を得るのです。
>つまりあらゆる煩悩を滅して阿羅漢の悟りを得るわけです。
ここまでを指して煩悩解脱と我々は表現しているのだから、これより上などない。
>煩悩解脱を小解脱だなんて侮辱する謂われはないのです。
それに慧解脱や倶解脱を心解脱よりも上位に認めたところで、それは因縁解脱には
>なりません。
言いたいことはわかるが、その解釈では、不堕悪趣の説明はできません。
「三結断、不堕悪趣」と説くのか?「三結断」だけで十分なのではないですか?
煩悩からの解脱が涅槃なのならばね。
経典には、煩悩からの解脱と、カルマ・悪業からの解脱が説かれています。
惑→業→苦、という順還・運命からの解脱です。惑から解脱しても、将来
受けるであろう過去の「業」による→「苦」=「因縁」を解脱しないうちは、
大解脱ではない、というのが管長の教えです。
そう考えれば良いだけの話で、複雑化することはないのです。
不堕悪趣の意味を考えたら良いのです。不堕悪趣とは、悪趣解脱でしょ?
悪趣解脱ってな〜に、と考えたら、管長の説く、煩悩解脱と因縁解脱の
違いが理解できるでしょ。
- 471 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/29(日) 18:40:45
- >>452:準シュダオン12/01/29(日) 10:40:24
>三供養品の三善根が無貪瞋痴を意味するのであれば、「如来・法・聖衆に於いて
>無貪瞋痴を実践せよ」と、説けば紛れがないし、私でも説ける。何で釈尊とも
>あろうお方が、功徳の種をうえよ、と言い換えるものかね。
はい、この経典は当たり前のことを説いています。
もちろん聞いて理解するのが当たり前であることと、実行と達成が容易であること
とは別です。実行と達成にはかなりの不断の努力を必要とします。
釈尊は奇抜なことを甘言のように囁いたりしません。
欲望をもった人間には耳の痛いうるさいことを説くわけですよ。
当たり前である同じことをくどくどと何回も。
それでも改めようとしないのが人間であることは、高齢のあなたを見ていると
よくわかる。
釈尊は自分の教えを古の偉人の説いた古い教えとしています。
- 472 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/29(日) 18:43:17
- >465 :準シュダオン:2012/01/29(日) 16:54:41
>ユビさん方は、経典説とアビダルマ説の区別さえ、ろくに出来ていない。
経典説とは、どういう説ですか?
阿含経は桐山さんが掲げたものですから、桐山説が照合するかを
検証しているだけです。
批判では、アビダルマをつとめて論拠としていません。
>そういうわけで、ユビさんこそ↑状態を通り越したボケ状態なのです。
釈尊は常に正道と非道を比較して道を説いていたのです。
非道に対して批判したが、相手に中傷を込めた空虚な
貶しあい議論は、していない。
こちらは桐山さんを批判しているのです。
今の準シュダオンさんがスレに適うことは、桐山擁護でしかない。
桐山さんが述べていないことを自分教にするのではなく、
桐山さんの論拠に基づいて話すべきです。
>根拠は、管長の体験ですよ。修行体験からの見解を述べているのです。
(「われは知る」「われは見る」ということに)執着して
論ずる人は、みずから構えた偏見を尊重しているので、
かれを導くことは容易でない。
自分の依処することがらのみ適正であると説き、
そのことがらに(のみ)清浄(となる道)を認める論者は、
そのように(一方的に)見たのである。-スッタニパータ910-
- 473 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/29(日) 18:48:28
なんと、論旨が拡散しています。
言いたい放題で何が議論なのでしょう?
釈尊が議論を肯定しなかった理由も、うなずけます。
桐山批判に必ずしも擁護相手が必要ではないことの証明でもある。
- 474 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/29(日) 19:11:22
- >>453:準シュダオン12/01/29(日) 10:46:49
>ジョークではありません。梵行を卒業したとは書いていません。あせることは
>ない、と書いたのです。だいたいが、批判派のレスには、脅迫めいたボン行論
>の感じがするね。
脅迫しているのは桐山さんです。
悪因縁を説いて運命を説く。
よくない運命とはあなたの都合がよいように遅れて実現したりしません。
明日地震が来て命を失ってもおかしくないのです。
これを脅しとして巧みに早く解脱供養せよ、ボン行せよと迫るのです。
しかしこれは脅しでなくても釈尊でもハッパをかけてますよ。
怠けることなく精進せよが釈尊の最後の言葉です。
「人生は短い。長く生きても百年だ」と言って、怠惰を排して精進することを
説いたのです。百年なんてあっという間のこととしたのです。
てか明日寿命が尽きてもおかしくない。ならば今この瞬間を無駄にしてはならない
と説いたのです。
怠けは煩悩です。
「疲れたら休むんや」と言いますよね。
その通りで疲れたら休むべきです。
しかし休みっぱなしということはあり得ず、疲れがとれたらまた働かねばならない。
ところがあなたの場合は休みっぱなしですよね。
「疲れたらやめるんや」ですか?
また「休む」とか「やめる」とかはそれ以前に何かをやっていた時に使う言葉です。
あなたの場合は昔を遡って質問しても、何も行動ボン行を実践していないことが
丸わかりです。
つまり
「疲れるから最初からやらないのや」
- 475 :深山:2012/01/29(日)
19:16:02
- >>470 :準シュダオン:2012/01/29(日)
18:20:37
>経典には、煩悩からの解脱と、カルマ・悪業からの解脱が説かれています。
ありません。
信者さんたちはくれぐれも、暇にまかせた老人の空想仏教を信じないことです。
阿含経にはカルマ解脱など存在しません。
信者さんたちは、阿含経で、因縁解脱、業解脱という言葉を見たことがありますか。
ないはずです。
なぜなら、釈尊の説いた解脱はカルマ解脱などではないからです。
釈尊のいう業とは身口意の三業を指すのであって、
桐山さんのような運命というような意味ではありません。
煩悩から身口意の行いを正しなさいと言っているだけです。
「解脱(岩波仏教辞典)
・・・仏教では煩悩(ぼんのう)から解放されて自由な心境となることをいう.」
これが仏教の解脱の定義です。
どこにも因縁解脱もカルマ解脱もない。
阿含経には慧解脱、心解脱などの言葉は出てくるが、いずれも解脱であり、
これらを体得した人たちは阿羅漢です。
しかし、そのどれもが煩悩からの解放であって、信者さんたちが信じているような
カルマや悪因縁からの解放などという意味はありません。
- 476 :深山:2012/01/29(日)
19:18:38
- >>470 :準シュダオン:2012/01/29(日)
18:20:37
>不堕悪趣の意味を考えたら良いのです。不堕悪趣とは、悪趣解脱でしょ?
三善根を解脱の境地でないという愚かな発言です。
「三善根=無貪・無瞋・無癡」
貪瞋癡という三つの煩悩は、三種類の煩悩ではなく、煩悩の全てです。
だから、貪瞋癡がないということは、煩悩から解放された、つまり解脱したという意味です。
三善根とは解脱の境地だから、釈尊は「涅槃界に至る」と述べた。
また、解脱こそが究極の目的だから、無貪・無瞋・無癡の境涯を
「極め尽くすこともできない福」と賞賛している。
三善根こそが解脱そのものです。
だから、釈尊は三宝においてこれを実践しろと説いたのです。
三善根という言葉は仏教では熟語であって、無貪・無瞋・無癡、
つまり解脱や涅槃という以外の意味などありません。
- 477 :深山:2012/01/29(日)
19:20:49
- >>383:準シュダオン12/01/25(水) 10:24:33
>ユビさんが大学に寄付しようと、見返りの名誉学位は買えません。それ相応の力量
>が必要です。
準シュダオンさんの説によれば、大作さんは「それ相応の力量」があるそうだ。
大作さんは200にも及ぶ学位や名誉を得ている。
私には金で買ったようにしてか見えない。
だが、準シュダオンさんは違い、大作さんに学問的な力量があると見えるらしい。
信者さんたちはいかがか。
- 478 :深山:2012/01/29(日)
19:24:39
- >>450 :準シュダオン:2012/01/29(日)
09:59:04
>それがないから、例えば、深山さんなど、異常に大量の我見レスを平気でする。
>我執の塊であることに気づけないでいます。つまり「慢」です。
また準シュダオン教お得意のガケン真言です。
具体的には何も反論できないから、悔し紛れに、ガケンガケンを唱える。
書き込みは大量か少量かではなく、内容です。
彼は仏教の我見すらも理解していない。
準シュダオンさんには無理なようだが、せめて信者さんたちは
仏教の我見の意味を良く理解してほしい。
我見とは、アゴン宗のように、人間には霊魂という主体があると信じることです。
霊魂があり、死ぬと魂魄の片割れが出てきて不成仏霊になるとか、これが
輪廻するなどと主張するのは、自己の主体のなるもの、輪廻の主体となるものを
説いたことになり、これを我見といい、釈尊は否定したのです。
自分の中に霊魂がある、などと言ったとたん、それは我見であり、外道思想です。
だから、我見を持っているのはアゴン宗を信じている準シュダオンさんのほうです。
- 479 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/29(日) 19:29:56
- >>455:準シュダオン12/01/29(日) 12:58:25
>あら、それなら何でアナゴンまでなんですか?阿羅漢まで行けるでしょ。
三供養品には阿那含までしか行けないなんて書いてないからです。
今回の中巻には、あなたが勤行に使っている聖典の記述とは違って、
「自須陀オン至阿那含断五下分結」の語句は漢文原文にも和訳書き下し文にも
現代語訳にも載せてません。
解説のところで初めてここで書かれている涅槃界とは阿羅漢までの涅槃界ではなく
阿那含までの涅槃界と火滅品を示して自説を示しただけです。
だからそんな自説などは桐山教団の中でしか通用せず、世間では通用せず、
私もまた桐山説など支持しません。
普通に阿羅漢までの涅槃界に行くのが無貪無瞋無痴の三善根です。
無痴があるのだから無明無知まで断ってしまうし。
- 480 :深山:2012/01/29(日)
19:30:12
- >>450 :準シュダオン:2012/01/29(日)
09:59:04
>我執の塊であることに気づけないでいます。つまり「慢」です。
自惚れの塊のような準シュダオンさんにこれを言われるのは爆笑です。
彼の主張への批判はすべて我見だという。
彼の主張を受け入れない者は我見だという。
何一つ根拠を示せず、何も言えなくなると、「長いから読まないww」などと
無視して、矛盾を指摘されても無視して、同じ話を繰り返す。
しかも、話はあっち飛び、こっち飛びして、>>473のラシンさんでなくても、
誰も準シュダオンさんの話にはついていけない。
論点の飛躍を含めて、いかにも頭の老化した年寄りらしい身勝手な屁理屈です。
自分くらい正しい者はいないというのだから、彼は慢心の塊です。
ただの脳梗塞を総本山から白銀バイブを受けたとか、
運良く災害から助かると、今度は神通力を体得したなどと解釈する。
準シュダオンさん本人は、神通力を体得したから、内心阿那含を通過して
阿羅漢向だと自惚れている。
爆笑です。
こういう自己評価が異常に高いひとを自惚れ屋といい、
仏教では慢というのです。
- 481 :深山:2012/01/29(日)
19:34:51
- >>452 準シュダオン 2012/01/29(日)
10:40:24
>仏教どころか、批判派が社会人として一人前に生活できているのか、疑問になるね。
丁寧に反論している相手に向かって、よくまあ、こんな無礼なことを書くものだ。
準シュダオンさんはろくな仕事もできない癖に県庁の公務員として居座り、
ついでに天下りして、ついこの間までへばりついていた。
あなたは仕事などできていない。
公的機関から表彰状をもらったと威張っていましたね。
それって、あなた個人の成果に対する表彰などではなく、
公務員だから永年勤続で表彰されたか、あなたが所属していた部などが
全体で表彰された時にあなたも名前が載っただけでしょう?
準シュダオンさんは公務員だったから、どんなに無能でも首にならずに、
税金から給料をもらい生活したことはそのとおりでしょう。
でも、あなたは仕事はできなかった。
それはあなたの今の書き込みぶりをみれば十分です。
脳が老化した分を差し引いても、ただひたすら自説を唱えるだけです。
これで普通に仕事ができたら奇蹟です。
- 482 :深山:2012/01/29(日)
19:41:41
- >>452 準シュダオン 2012/01/29(日)
10:40:24
>仏教どころか、批判派が社会人として一人前に生活できているのか、疑問になるね。
>>361のように、あなたの嘘は職場でも同じだったはずです。
だが、あなたはまったく反省もなく、開き直り、しばらくたつと、
まるで他人が嘘やデタラメをしたかのように他人にお説教を始める有様だった。
昔からものすごい厚かましい男ですよね。
だから、今もあなたはそれをして、あなたが我見と慢心を垂れ流しにしているのに、
逆に、批判側が我見と慢心を垂れ流していると批判する。
自分がしている悪事を他人がしていると言い換える。
これがあなたが現役時代からしていることです。
無能な上に嘘つきで慢心ばかり強いのだから、職場で嫌われるのは当たり前です。
周囲から無視されて、あなたはストレスでおかしくなり、病院に行ったが、
もちろん、あなた自身の無能と嘘が原因なのだから、問題は何も解決しない。
宗教に救いを求め、ついにあなたは救われた。
なぜなら、そこはあなたの大好きな嘘が堂々と通用する世界だったからです。
中高年になり、脳の老化とともに元々少なかった羞恥心もなくなり、
あなたここで自分は神通力を得た阿那含だと内心自惚れている。
頭がボケ始めた二人の老人が、一人が阿羅漢だと自惚れ、もう一人は阿那含だと自惚れる。
アゴン宗は認知症教団になり果てたらしい。
信者さんたちは、準シュダオンさん、宝生さん、二体さんを見なさい。
いずれも二十年、三十年以上の信者のなれのはてです。
信者さんたちもそのまま進めば、準シュダオンさんのように醜悪で
嫌われ者の老人になれますよ。
- 483 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/29(日) 20:05:06
- >>458:準シュダオン12/01/29(日) 13:36:13
>前にもレスしたように、無貪瞋痴は、修行の
>結果得られるもので、修行法そのものではありません。
修行の結果得られるものであることはその通りですが、三善根法なんて修行法は
ないのですよ。それは仏道修行の総体です。
そんな都合のよい一夜漬けみたいな修行法は存在しません。
>三衆経の三善根→法向善趣 五戒→法向善趣 三三昧→法向涅槃 五根法→法向涅槃、
>をなぜ無視するのですか?それこそが、ユビさんの我見なのです。
>三善根とは戒行扱いで、天上界どまりです。涅槃に至るには、三三昧という修行法で
>なければいけません。
五根法が出て来たが、実は五根法なんて五根法教室にて五根法のテキストに従って
習うものではありません。これは三三昧についても然りです。
修行をふりかえって、ある側面から適当な数字をあてはめて、こんなふうにも
表現できるとした。
事実、上巻で解説のあった向経で、「五根法を修行しないものは外道凡夫である」
と釈尊は述べている。
しかし桐山さんは五根法を三十七道品の必須科目と示したこともなく、
ここでいう五根法とは仏道修行の修行法全体を指すとしています。
まさにその通りで仏道の修行なんて、スポットを当てる側面からいくつにでも
表現できる。だから固定的な秘伝修行法なんてない。
だから三十七道品なんてのは分類区別の論ではないのです。
だから三三昧を説いた経典も三善根と区別したのではない。
瞑想の部分にスポットをおいて三つの数字にあてはめてみたに過ぎない。
向かうところを涅槃としているが、それは三善根の向かう善趣と同じと見るべきです。
単なる表現の違いで三善根の向かう先の善趣とは天上ではなく涅槃と見るべきです。
区別をつけるのは悪趣だけです。
三三昧「法」をどうして桐山さんは説かないのですか?
どうして七科三十七道品の中に三三昧法が入ってないのですか?
その答えをあなたは知っているはずだ。
その答えこそが三善根と三三昧を分類区別などしてはいけない理由です。
- 484 :大東洋
◆18iA.mwnDU:2012/01/29(日) 22:10:00
- >>467:準シュダオン12/01/29(日) 17:35:57
>そうなんですか、いやぁ、勉強になります。ユビさんは体験がないから、管長の
>教えに疑問なんでしょうけど、私はな〜るほどな、と納得できます。
>身解脱と病気の関係もね、私にはそ〜か、というような心当りがあります。
>が、ユビさんなどは経典に書いてないことは信じられないのでしょう。
>ユビさんには、まだ、仏教と仏法の違いを、体験していないのです。
>だから、言葉と想像だけで、判断しています。
仏法とは何かというと教えのことです。
仏教という用語は明示以降にできた言葉で、それまでは仏法、宗教と呼んでいたと
バウッダに書いてありませんでしたか?
西洋のreligionを訳す時に、日本には
そういう用語分類がないので困り、宗教を使うことにした。
それからキリスト教やイスラム教に対して仏教と分類区別できるようにしたわけで
それまでは仏法、仏道、宗教です。
だから仏教も仏法も同じです。
法とは真理の教えのことです。
誰かさんみたいに法術みたいに言いません。
桐山さんが法と教えが違うと区別するには密教の影響がある。
言葉で説いて理解納得させる道を顕教とした。
対して如来内密の教えは言葉を通してではなく説かれるとしたのが密教で
密法を体得することによって仏の内密を得られるとしたわけです。
しかし釈尊はそんな密教も密法も説いていません。
言葉に説いて理解納得の上、実践させる道だけです。
第一体験があろうと言葉で説いた教えと体験で得た勘違いに矛盾があってはなるまい。
それは一致するはずです。
まず言葉において、我々は病気をするなど肉体の制約の上に生きている。
しかし解脱が進むとその肉体の制約に自由がきくようになり、病気なども
しなくなるようにできるのである、これが身解脱である。と言葉で簡単に説明説教
できてしまうではないか?
で、本当に病気もしなくなる神通力(釈尊の神通力にこんなものはないが)は
理屈はともかく黙って密法を実修してもらい体得して初めてわかる、なるほど、
言葉で説かれた病気知らずの身解脱と一致したとわかった、とできる。
どうして言葉で説ける概念すら説かないのか?
そんな教えも密法もないからです。
- 485 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/29(日) 22:21:08
- >>467:準シュダオン12/01/29(日) 17:35:57
>アビダルマでなくても、経典に「色解脱」が説かれています。色、受、想、行、識
>の色です。つまり、身=色、でしょうから、経典に身解脱も説かれてあるのです。
ほらね、また単語の羅列だけが出た。
ではその色解脱を単語だけでなく、どういう解脱なのか解説して、桐山さんのいう
因縁解脱の肉体面を補強する身解脱になるのかどうか論証してみなさいな。
- 486 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/29(日) 22:27:06
- >>468:準シュダオン12/01/29(日) 17:54:20
>解脱するとは、解放されるという意味と、具える、という意味があるのです。
>だから、智慧解脱とは、智慧を具えるという意味です。
>他に、慈解脱、悲解脱、とかあります、慈悲喜捨の四無量心を具えていく解脱です。
はい、その通りですよ。私もそれを言いたかったわけですよ。
で、智慧を具えたり慈悲を具えたりすることが、どうして不運不幸な災害運命を
回避する解放になるんですか?
- 487 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/29(日) 22:30:13
- >>484のネームが入れ間違いです。
ユビキタスに訂正します。
- 488 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/29(日) 22:56:04
- >>470:準シュダオン12/01/29(日) 18:20:37
>言いたいことはわかるが、その解釈では、不堕悪趣の説明はできません。
>「三結断、不堕悪趣」と説くのか?「三結断」だけで十分なのではないですか?
>煩悩からの解脱が涅槃なのならばね。
悪趣とは死後に堕ちるとされる地獄、餓鬼、畜生の悪い境界です。
だから生前に悪い心で悪い行いをすればこういうところに堕ちます。
しかしそういう悪い心を改め悪いことをしなければそういうところには堕ちません。
少なくとも仏道に発心して、そういう悪い心を持たず悪い行いをしなければ
それより以降の悪い報いはありません。
仏教とは常に今これからのことを改善するから、それより以降の自分は悪い方向に
堕ちることはない。
堕ちたらそれは過去の悪業によるものです。
これは消せない。アングリマーラだってあれだけの殺人をしたのだから
悪業は消えてません。だから本来は死後地獄に堕ちるはずです。
しかし輪廻ごと止めたので行く先もなくなったわけでして。
あなたは現世人間界に生きているでしょ?ここは地獄ではない。
地獄とは悪業の報いで堕ちるところだからここは地獄ではない。
しかし人間界でも辛い苦しいことはあります。
しかしその苦しいことを地獄と混同してはなりません。
病気があったり災害があったり苦しいのは当たり前なんです。
しかし病苦を地獄だなんて言いません。
(次にあなたが出す経典を予知できましたw)
また仮に現世の苦しみが過去世の報いとするならば、それがなくなるなんて
経典は説きません。
今これからの人生を改めたから、少なくともその教えを継続して守ったならば
それ以前に為した悪業の報いはさておき、それ以外に悪趣に堕ちる謂われは
なくなるのです。
正しい教えを理解して守るからもう悪趣に堕ちるような自業自得はありませんぞ
ということです。
未来に悪趣に堕ちる条件がなくなったのです。
過去に為してしまった悪業を除いて。
だから現世なんて悪業の報いなのかどうか知らんが普通に辛いことがありますよ。
それに負けずに生きることです。
被害者として地獄を想起させる人生であってもどうしようもありません。
それよりも加害者として他人様を地獄のような苦しみにあわせる悪業を絶対に
しないことですね。
加害者には地獄が待っている。
加害者になるくらいなら被害者になろう。
- 489 :天照
◆MO30b8Jwoo:2012/01/30(月) 06:27:18
- >>453
>だいたいが、批判派のレスには、脅迫めいたボン行論の感じがするね。
始まった。なんでこういう風に憶測めいたような表現をして批判(反論)するかですが、
大体予想が付きますが生で目の前で話ができない掲示板であることを良い事に常識のない
行為を平気で堂々と行う姿勢にまたも呆れる。これが私たちより年長者で社会経験のある
人間のすることかどうか。また阿含宗の信者、としてみても恥ずかしくないのか。
第一教学を知っていればこういう言葉は出ません。性悪としかいえない行為だ。
何が批判側が脅迫めいた梵行云々ですか。自分の属している教団と教祖の出している内容
ぐらい認知してから物を言ったらどうか。認知症じゃあるまいし。
掲示板に来ていつも教学のことを述べている諸兄さん方の阿含教学は間違いではありません。
自分もある程度何度も教わったので、合っているのはわかりますし、第一嘘だと思うなら
調べてみればわかることです。もしも仮に嘘であったなら私も諸兄さん方に
「そこの箇所違いませんか?」と言ったりします。
言わないのは正解だからです。今まで記憶違いか本当に何かの捉え違いのような僅かな
違いや表現ミスはあったでしょうが、大きな間違いは無い。尚且つ記憶力が強く、また過去の
ゲイカ本やいろんな物を用いて間違いがないように発言をしている。
教団や教祖を正当化したいのかわからないが、ちゃんと調べてからものを言った方が良い。
恥をかくのは自分です。
- 490 :天照
◆MO30b8Jwoo:2012/01/30(月) 06:42:21
- 脅迫めいた梵行だけにことならず、こういった信者に強迫観念を植え付けているのは阿含宗です。
「脅迫めいた」と、とれるだけ精神にマトモな部分があるのですから、それを何故確かめない?
とぼけたような表現をしても、「脅迫めいた」とわかる、ということはやはり「脅迫じみている」
と理解していることです。そういった内容であることがわかっている証拠です。
それを責任転嫁して相手に投げつけるということは、まさに「教団・教祖ひいき」であり、自己の
論を正当化したくて相手に「あんたとんでもないこというね」と言いがかりをつけている。
本当に頭が大丈夫か?と思う所業である。
準さんによれば、私たちが勝手に「脅迫めいた内容の教学」を作り上げ、それを用いて阿含宗信者に
それらを植え付け行わせているかのような発言だ。
うちらは教祖でもまた現信者でもないのにそういったことをするか?
実際的に教団に居て道場の中で「脅迫めいた内容」を撒き散らし従わせようとするか?
もしも在籍していてたならそういうこともありえるだろうが、例えであってもするはずが無い。
教祖自身がそういうことをしていることすら気が付かない貴方が愚かなのです。
また我らが出す阿含教学は誰が作ったか? ゲイカ自身です。それを述べても
「あんたがたは脅迫めいたことをいつもいう」と、とぼけている。しらばっくれても駄目です。
都合の悪いことや自分の論に合わないことはすぐこうやってとぼけて嘘をつく。
ゲイカ本や阿含関連の資料などで示せば外部の人でも信者でなくても判別できます。
閻魔様に舌を抜かれる、などと言いたくは無いが、そういう因果応報でもなければ貴方は懲りない。
教祖と同じ人種で嘘が平気な人種のようだ。朱に交わりすぎてますなあ。
- 491 :天照
◆MO30b8Jwoo:2012/01/30(月) 06:55:14
- 相手の論、特に阿含教学を出してくるととぼけるしかないのでしょう。
準さんは「社会科学〜」の辺りからの信者であって比較的新しい信者暦のようだが
以前の投稿を見ていると、それ以前の入信(信者)ではなかったか?
まあ、仮に準さんの申告を正規と受け止めても、阿含教学もロクに覚えてないようだ。
掲示板での反論や持論展開は抜群でも自分の所属している教団の教学になると急に記憶が
無くなるか、邪魔になるらしく我らが言っているゲイカの発言も正しいかどうかも判別
出来ず、我らが勝手に「脅迫めいた言葉を発している」と見える・感じるらしい。
最近では多少教学に覚えがある部分が出てきたのか、それともどういう心変わりがわからんが、
我らが述べた発言に「そうだね」と言う箇所が出てきた。
『あ、少しは変わった(理解できた)のかな』と思うまもなく、いつもの論もやめない。
どうやらこのお方は教祖よりも自分がエライと思っているのか、それとも教祖の教学のままでは
反論できないくらい不完全だから「排除」するか「我らに責任転嫁」するしかないのだろう。
そして教祖と同じく「どこまでも嘘や空想、勝手持論の展開」で対抗するしかないのだろう。
信者なんだから阿含教学ぐらいはマトモに記憶し、相手の言っていることぐらい理解してから
発言してもらいたいものだ。尚且つ教学に間違いがあるのなら指摘ぐらいするくらいの甲斐性を
出してもらいたいものだ。まあ、無理だと思うが。
- 492 :天照
◆MO30b8Jwoo:2012/01/30(月) 07:15:44
- 脅迫めいた内容を出したのは「教祖 桐山」であり、ゲイカと呼ばれる人物です。
我らが勝手に脅迫めいたことを言っていると揶揄なさるな。
頭がおかしいなら「脅迫めいた」と判別できるはずが無い。
明らかにわかっていて「とぼけている」のです。
どうしてこうも性悪だろうか。
少し前には「ちょいワル親父」というのが流行ったが、ちょいワルどころか
かなり悪い「極悪親父」そのものです。性格も悪いとなれば「性悪親父」でもいいか。
勝手な個人論を言うのはその人の勝手だからいくつでもどこまでもいえる面があるが、
こと教学となれば逃げ場がなくなります。
それは当然自分が居る教団のTOPが考えた思考・指導だからです。
いくら自分が悪くなくても教団自体に欠陥や欠点があったなら認めざるを得ない。
しかし、現実的にそれを認めたくないならゴロツキ法でもいいから悪たれる。
それしかない。貴方のやっていることはまさにこの「ゴロツキ」です。
自分がゴロツクためにはどんなものであっても良い。相手に負かされないためには
屁理屈だろうが道理があろうがなかろうが関係ない。相手を呆れさせてものを言わなく
させれば貴方の勝ちです。そういうことをいつもしてきたのでしょう?
ところが掲示板で登場する「諸兄」方はなかなか呆れてはいても論をやめない。
呆れてしまって放置してくれた方が「勝利を得たと同じ状況」なのに何年経っても
批判はとまらない。
こういう人って中々社会には多くは無い。大抵は「あいつ馬鹿だから構うな」で
終わりです。だから錯誤優越も出来るだろうが現実はそうは行かない。
また目の前で直に論ずるわけではないので屁理屈は言い放題。
痛くも痒くも無い状況であるから、現実世界では出来ないことが往々とやれる。
懲りない姿勢は続けられるというものです。
そういえば以前準さんを応援していた「さくら」も全然来ないがどうなったか?
唯一の応援団も去ってしまって孤軍奮闘だが、応援もできないほど味方も呆れてしまったか。
自分勝手な論は論だが、阿含教学までも認めたら負けですからね。突っぱねるしかない。
何とも哀れな反抗方法だろうか。
- 493 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/30(月) 08:19:28
- >>491:天照 ◆MO30b8Jwoo12/01/30(月) 06:55:14
>準さんは「社会科学〜」の辺りからの信者であって比較的新しい信者暦のようだが
>以前の投稿を見ていると、それ以前の入信(信者)ではなかったか?
30年信者であることを本人が認めてますね。
となると1983年くらいになる。
千座行時代からやっていたことになる。
千座行から解脱宝生行に移行したのが1986年。
移行にあたり、今まで勤行に費やしていた時間をボン行に充てよとの指導で
ボン行奉仕なしには解脱宝生行が成立しないことになったのは、今回の中巻にも
明記されています。
アゴン経の解説をやっていたのが1982年頃です。
しかしアゴン宗のボン行教学はその前に出来上がってました。
社会科学としての阿含仏教が出たのが1997年だから、今から15年前になり、
計算が全く合わないので、この頃の入行ということはないでしょう。
要するに実践には弱いが教学にも弱かったのでしょう。
著書を我見で都合よく読むだけで、きちんと学ぶことをしなかったのでしょう。
横の交流も本人が申告するほど無いと思われますし。
- 494 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/30(月) 08:28:30
- いや、1982年か1981年あたりの入行ということになるな。
アゴン宗教学構築と実践の真っ盛りな頃です。
- 495 :準シュダオン:2012/01/30(月)
09:51:00
- >社会科学としての阿含仏教が出たのが1997年だから、今から15年前になり、
>計算が全く合わないので、この頃の入行ということはないでしょう。
そのように↑あれこれ詮索するのを煩悩というのです。私のレスには、そういう
詮索をすることは、めったにないはずです。煩悩が薄いからです。
>要するに実践には弱いが教学にも弱かったのでしょう。
>著書を我見で都合よく読むだけで、きちんと学ぶことをしなかったのでしょう。
>横の交流も本人が申告するほど無いと思われますし。
それは、ユビさん、あなたのことでしょう。↑
こんなところで、退会した教団を相手にしてたとて、進歩しないよ。
正しいと思う仏教教団に入って修行したら良いでしょう。どうしてそうしないのか。
- 496 :準シュダオン:2012/01/30(月)
10:01:15
- >自分がゴロツクためにはどんなものであっても良い。相手に負かされないためには
>屁理屈だろうが道理があろうがなかろうが関係ない。相手を呆れさせてものを言わなく
>させれば貴方の勝ちです。そういうことをいつもしてきたのでしょう?
何度もレスしてるが、私は勝ち負けなど意識してないよ。そういう意識があるのは、
レベルが低い証拠なのです。勝ち負けというのなら、自分の間違いに気付いて、
考え方を正しく変えられたら、それこそ勝ちです。
そういう点では、議論に負けた方が成長できるから、勝ちなんですね。
- 497 :準シュダオン:2012/01/30(月)
10:07:14
- >準さんは「社会科学〜」の辺りからの信者であって比較的新しい信者暦のようだが
私は、↑のような信者だとレスしたことはない。天さんは勝手に誤解しているのです。
>以前の投稿を見ていると、それ以前の入信(信者)ではなかったか?
そのとおりです。
- 498 :準シュダオン:2012/01/30(月)
10:13:25
- >>453
>だいたいが、批判派のレスには、脅迫めいたボン行論の感じがするね。
>始まった。なんでこういう風に憶測めいたような表現をして批判(反論)するかですが、
これは誤解を受けたかも知れない。ユビさんが私に、毎週道場に顔を出してボン行せい、
というようなレスをしたので、それに答えたんです。
- 499 :準シュダオン:2012/01/30(月)
10:29:03
- >今これからの人生を改めたから、少なくともその教えを継続して守ったならば
>それ以前に為した悪業の報いはさておき、それ以外に悪趣に堕ちる謂われは
>なくなるのです。
「三結断 不堕悪趣」の説明にはなっていないですよ↑。
惑→業→苦の順還において、惑を断っても、過去に為した業により、将来受ける
であろう苦を断たないうちは大解脱ではない、と、管長は説いてるのです。
大乗仏教には、真理を悟った瞬間に、過去の罪は消え去る、との教えもあるよう
ですけどね。
- 500 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/30(月) 11:22:09
- >488 :ユビキタス ◆18iA.mwnDU:2012/01/29(日) 22:56:04
>加害者になるくらいなら被害者になろう。
たしかに、釈尊は徹底して非暴力の人でした。
人は世で一番自分が愛おしいから自分を傷つけないように、
他者に害心を持ってはならないとの考えです。
桐山さんの場合は、信者に害心を抱かせています。
先祖を霊障のホトケ扱いし、信者の境遇を祟る敵とみなす。
桐山さんは、その浄化を命がけで社会運動にまで推し進めて
行くという。
釈尊の場合と比べていかに桐山さんが美装しているかわかる。
十大弟子のひとりであるプンナ(富楼那)がスーナパランタへ
伝道する際に、釈尊から最後の教戒を受けた時の話しです。
釈尊は、その地は粗暴な人々がいることを前提とし、
もしその地の人が、プンナに害心を持ったらどうするかをたずねた。
プンナは、その地の人々がよき人々と認め私を手で打つことは無い、
また打つなら、武器で打つことはない、また武器で打つなら、
命まで奪うような人々ではないと思い、もし命まで奪うようなら、
「世尊の弟子のなかには、苦悩のために刃物をとって死を求める者も
おります。私は自分で刃物をとらないで死ねる、と思うことにします。」
と、釈尊の諸の質問に答えます
これを聞いて釈尊は、「プンナは自制力と安穏な心を兼ね備えているので、
その地で定着して伝道を達成できる。」と、認めました。
プンナの全身全霊の修業であると、中村博士は解説しています。
- 501 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/30(月) 12:08:22
惑→業→苦とは、
この世で考えても、惑(煩悩)で業(行為)をつくれば、
それは苦を招くとの教えです。
三世間で考えると、惑(煩悩)によって業(行為)をつくる。
ゆえにそれは苦であり、輪廻する原因です。
惑(煩悩)で為した業(行為)により、
輪廻するのですから、惑(煩悩)が切るべき相手です。
業(行為)を何とかできるものではありません。
また、
三結という煩悩を断てば預流ですから、悪趣に堕ちないのは
当然の結果です。
- 502 :深山:2012/01/30(月)
12:45:10
- >>499 :準シュダオン:2012/01/30(月) 10:29:03
>「三結断 不堕悪趣」の説明にはなっていないですよ↑。
>惑→業→苦の順還において、惑を断っても、過去に為した業により、将来受ける
>であろう苦を断たないうちは大解脱ではない、と、管長は説いてるのです。
口先では縁起がどうの言いながら、準シュダオンさんは縁起の意味がわからない。
「惑→業→苦」とは縁起によって苦の元を示している図式です。
惑(煩悩)によって行為(業)を為し、その報いの苦を受けるという意味です。
苦の元は業であり、業の元は惑なのだから(縁起の順観)、
惑をなくせば業はなくなり、業をなくせば苦もなくなる(縁起の逆観)。
だが、こういう抽象的な言葉ではなく、具体的に見るとわかりやすいのです。
「女が欲しい(惑)」という性欲(煩悩)が元になって、
「今夜にでも」と女を誘って愛人にして(行為=業)、
その結果、裁判で最高齢のエロ教祖として全国に名をはせた(苦)。
これが縁起を用いた「惑→業→苦」の具体例です。
釈尊は苦の元をこのように考察によって追求している。
この考察の仕方を縁起といいます。
- 503 :深山:2012/01/30(月)
12:54:40
- >>499 :準シュダオン:2012/01/30(月) 10:29:03
>「三結断 不堕悪趣」の説明にはなっていないですよ↑。
>惑→業→苦の順還において、惑を断っても、過去に為した業により、将来受ける
>であろう苦を断たないうちは大解脱ではない、と、管長は説いてるのです。
同じ縁起を用いた考察で、苦を断ち切ることを説いている。
それを桐山さんにあてはめるなら、次のようになる。
「性欲に囚われことがなければ(惑がない)、
女と関係することもなく(業がない)、
従ってエロ教祖として大恥をかくこともなかった(苦がない)。」
これが縁起を用いた考え方です。
結論は、苦の本当の元である惑(煩悩)を捨てろと言っているのです。
行為(業)の報いを消せとか、それによる苦を消せなんて言っていない。
実際に消せるはずがないからこそ、桐山さんは性欲という
煩悩によって、エロ教祖という不名誉(苦)を得た。
苦を断たないうちは大解脱ではないというなら、
不名誉という苦を消してみせればいいではないか。
すでに起きてしまったことをどうやって消すのだ?
煩悩丸出しにして女を誘い、内弟子として長年愛人を囲い、
エロ教祖の名を全国にとどろかせたことをどうやって消すのだ?
出来もしない事をさも出来るかのようにうそぶく。
こういう口舌のヤカラの口先の抽象論に惑わされないことです。
- 504 :深山:2012/01/30(月)
13:00:44
- >>499 :準シュダオン:2012/01/30(月) 10:29:03
>であろう苦を断たないうちは大解脱ではない、と、管長は説いてるのです。
釈尊はすでにしてしまったことの報いを変えられるなんて言っていない。
釈尊の教法は常に、これから、です。
その典型が四正勤です。
1)すでに起こっている悪を断つ努力.
2)いまだ生じていない悪は,これを起こさない努力.
3)いまだ生じていない善を起こす努力.
4)すでに起こっている善は,これを大きくする努力.
ごらんのように、釈尊の教法の中には、過去の行為の報い、
つまり、アゴン宗でいう悪因縁を断ち切れなんてありません。
過去に為したことはどうにも取り返しがつかない。
これを桐山さんにあてはめるなら、
1)二度とE川さんに手をださない努力.
2)これからもいっさい女に手を出さない努力.
3)性欲を抑える努力.
4)自分が為した悪業を隠さず、反省し、告白する努力.
ということになるが、残念ながら、桐山さんには無理ですね。
信者さんたちに見てほしいのは、釈尊は過去の悪業を消すという
因縁切りなど説いていないことです。
苦の元となった煩悩を減らせと言っている。
信者さんたちのように欲望が木ぎれに祈願させ、焚き火を拝むという愚行を招き、
それはただ財布が軽くなり、信者さんたちの欲望と依存が強くなると
いう苦しか生み出さない。
四正勤を良く読んで、自分が何をするべきかを考えてみることです。
- 505 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/30(月) 13:22:11
- >>499:準シュダオン12/01/30(月) 10:29:03
>「三結断 不堕悪趣」の説明にはなっていないですよ↑。
>惑→業→苦の順還において、惑を断っても、過去に為した業により、将来受ける
>であろう苦を断たないうちは大解脱ではない、と、管長は説いてるのです。
物事には何事も時間軸で考える癖をつけてくださいね。
昔あった惑が今なくなればこれより行う悪業はなく、それによって生じる苦も
ないわけです。
しかし昔あった惑を今なくしたが、昔既に悪業をなしていたならば、その報いと
しての苦を受けることは避けられません。
じゃあ、どーすんだ?って、過去は変えられないのだから、どうしようもないでは
ありませんか?
しかし過去は変えられなく、その報いを受けることから逃げられなくても
今これから惑を断ち悪業を断てば苦も断てるのだから、不当な贅沢言わないで
その道を邁進するしかないではありませんか。
逆に今断たなければ今後もそれこそ未来永劫に惑→業→苦の縁起から抜け出せません。
過去に悪業ありてその報いを受けることが予定されていようとも、自暴自棄にならず
せめて今から未来を正していくしかないではありませんか?
だから桐山因縁解脱というのは過去世の惑→業により現世に苦が生じて、それが
災害だの病気だのと説いているのだから、これは縁起の法則により避けることは
できません。現世に結果を求める因縁解脱はできません。
>大乗仏教には、真理を悟った瞬間に、過去の罪は消え去る、との教えもあるよう
>ですけどね。
でも釈尊の仏教には無いんですね。
- 506 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/30(月) 13:31:14
- >>499:準シュダオン12/01/30(月) 10:29:03
>「三結断 不堕悪趣」の説明にはなっていないですよ↑。
>惑→業→苦の順還において、惑を断っても、過去に為した業により、将来受ける
>であろう苦を断たないうちは大解脱ではない、と、管長は説いてるのです。
>大乗仏教には、真理を悟った瞬間に、過去の罪は消え去る、との教えもあるよう
>ですけどね。
今のあなたの居場所は悪趣ではありませんよ。
人間界に生まれたのだから。
来世も悪趣に生まれることのないように現世で惑をなくし業(行い)を改めなさい。
現世で殺されるような憂き目があってもそれは悪趣ではない。
殺したら悪趣に堕ちること必定ですが。
- 507 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/30(月) 17:20:39
- >惑→業→苦の順還において、惑を断っても、過去に為した業により、将来受ける
>であろう苦を断たないうちは大解脱ではない、と、管長は説いてるのです。
業(行為)を考える意味では、アングリマーラの喩えが分かりやすい。
アングリマーラは衆知のように百とも千ともいえる悪業(殺人)をなした。
のちに釈尊に帰依し、修行僧となり、終いにはアラハトとなった。
ー仏弟子の告白 アングリマーラ長老よりー
872
以前には悪い行いをした人でも、のちに善によってつぐなうならば、
その人はこの世の中を照らす――雲を離れた月のように。
(注)ここで「つぐなう」とは、直訳すれば「閉ざされた」の意。
善行によって悪い行いを閉ざす(=以後、悪を為さず、)。
890
妄執を離れ、執着することなく、感官の門を護り、よくみずから制御し、
罪悪の根を除き去って、わたしは汚れの消滅に達した。
釈尊は、このように解脱する道を自己浄化の実践と説いている。
曲解された「惑を断っても、過去に為した業」云々は無い。
惑(煩悩)をすべて断てば、「将来(来世)」など無いのです。
また桐山さんの、グモンジ脳を獲得し神通力で解脱するなど、
どこをさがしても、そんな教えも方法もありません。
- 508 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/30(月) 17:24:25
釈尊は、解脱についても明解に述べています。
いわく、不死の門は開かれた、と。
死なないとは、生じない世界です。
アングリマーラが作った千の悪業は残っても、
アングリマーラが解脱したらどこにも生じない。
悪業を作り報いを受ける主を、どこにも見つけられない。
桐山さんの輪廻転生瞑想法など、通じない教えです。
釈尊は、これを次の比ゆで表しています。
その人の汚れは消えうせ、食べ物を貪らず、その人の解脱の境地は
空にして無想であるならば、かれの足跡は知りがたい。――
空飛ぶ鳥の迹の知りがたいように。(ダンマパダ第九章)
- 509 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/30(月) 18:08:37
- >>496:準シュダオン12/01/30(月) 10:01:15
>何度もレスしてるが、私は勝ち負けなど意識してないよ。そういう意識があるのは、
>レベルが低い証拠なのです。勝ち負けというのなら、自分の間違いに気付いて、
>考え方を正しく変えられたら、それこそ勝ちです。
>そういう点では、議論に負けた方が成長できるから、勝ちなんですね。
心にもない実際には実践できやしない一般論なんか言いなさんな。
あなたが負けを認めたことなどなく、また今後負けを認めることなどあり得ないし、
こちらもそんなものを求めてません。
意見が対立しているのですから、どちらでもようござんすなんてことはない。
そこでお互いの意見を出し合い、私はロムする各位にそれぞれどちらの言い分が
妥当か判断してもらおうと思っているのです。
あなたを説得することなど鼻から眼中にない。
ロムする各位と言うのだから多数決でもないのですよ。
私は退会した元信者、批判側に理解してもらっても今更という気持ちなので
それよりも現役信者さんの目を常に意識して書いてますよ。
現役を続けている信者さんなんだから批判側の私など不愉快で気に入らない
だろうことはわかっており、反感も買うだろうし、あなたに同意はしないながらも
私にも同意したくないだろうと思っています。
したがって甚だ不利でもあるのだが、かまわないから自分の思っていることを
書くだけです。
多数決で負けてもかまわないが、ほんの少数の信者さんがすぐに同意までしなくとも
考えてくれたら幸いと思って書いているのです。
- 510 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/30(月) 19:09:05
- >>497:準シュダオン12/01/30(月) 10:07:14
>私は、↑のような信者だとレスしたことはない。天さんは勝手に誤解しているのです。
しかしあなたの書き込みも誤解を与えている面もあるのです。
>>438:準シュダオン12/01/27(金) 15:49:03
>ですから、「社会科学としての阿含仏教」本P354を、1ページで良いです
>から、読んで見てください。修行と供養の二つを同時に行う、と説いています。
>最初の頃は、言葉足らずの時が、あったのかも知れません。
>私は、その後の入行ですから、詳しくは解りません。
↑上記の「その後の」の「その」はどこに掛かるか?
「社会科学としての阿含仏教」を読んだ後と読めなくもない。
もちろんそうではなく、「言葉足らずの時があった最初の頃」以後とも読めます。
しかしあなたは後者で読むのが常識だろ?なんて偉そうなことを言う資格はありません。
国語の先生にあなたの文章を見せたら、非常に曖昧な拙い文と評価されます。
最初の頃っていつなのか?
上根の成仏法と下根の成仏法という対比が桐山本にはっきり書かれた頃という意味
ですよね。その頃は入行していなかったと。
入行年月なんか示す義務はないが、書くのならばこのようにはっきり示さないと
相手は納得してくれず、書いたあなたに責任もあるのです。
ところで下根の成仏法なんて言葉が最初に出て来た著書って何だか知ってますか?
30年前、つまり1982年あたりに出た本ではないですよ。
- 511 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/30(月) 19:51:34
- >>498:準シュダオン12/01/30(月) 10:13:25
>これは誤解を受けたかも知れない。ユビさんが私に、毎週道場に顔を出してボン行せい、
>というようなレスをしたので、それに答えたんです。
私が書いたのは以下の通りです。↓
>>410:ユビキタス ◆18iA.mwnDU12/01/26(木) 22:27:19
>日中ネットに書き込む時間が十分にあることは、勤め人の私には羨ましい。
>それだけの時間があるならば、毎日行く必要ないが、週に1回でも道場に通い
>滞在時間を護摩木判押しやトイレ掃除などに充てることもできます。
>車の運転ができるならばできます。
あなたが私と同じように未だ引退もできずに毎日朝から晩まで職場に通わねば
ならない勤め人ならば週に1回という一つの設定も提示しやしません。
道場の閉門時間は限られているし、仕事が休みの日だって疲れを癒やしたい。
昔から私のハードルはすごく低いのですよ。
2週間に1回、つまり月2回くらいのペースでも継続して、滞在時間30分でも
護摩木判押しでもしていたらボン行と認めましょうとしていた。
ところがあなたは日中気楽に書き込みができるだけの悠々自適に近い生活を
しているようだ。
ならば毎日なんて無茶は言わんが週に1回通っても罰当たらないんじゃない?
と示したのです。
それってそんなに脅しに相当します。
私は昔からかなりあなたの条件を甘く想定してあげています。
身体が不自由なところがあるのではないか?とか。
しかし車の運転してるようだから、パソコンに書き込みもできるならば
いくらでも選べるボン行メニューがあります。短時間でもいいから。
ちなみにお手配願いを出すと戒行が下りますね。
午前中に済まさねばならない勤行だけでなく「月に3日間道場えお詣りせよ」
というものです。
この3日というのは例祭参拝を含まないし、また単にお詣りするだけでなく
何でもいいからボン行をして帰りなさいという桐山さんと教団の指導です。
例祭含めて4日となれば毎週ペースになりますね。
これをあなたはお手配してもらいたいがゆえの他人の足下につけこんだ脅しとしますか?
うん、そう思えなくもない。
ともかくあなたのような時間のある人に週に1回なんてのは無理な話ではない。
しかし例えばあなたの居住県が広くて、うんと遠い道場に通うのに時間もガソリン代も
かかると言うのならそう申し出て下さい。
- 512 :天照
◆MO30b8Jwoo:2012/01/30(月) 21:06:55
- >>496
>勝ち負けというのなら、自分の間違いに気付いて、考え方を正しく変えられたら、それこそ勝ちです。
なるほど。では、準さんは自分の間違いに気づかず、間違った考え方を直さないので負けですか。
また勝ち負けを意識して無い、というのに勝ち負けを言っている時点で貴方もアウトですが。
そうやって飄々としても無駄です。貴方の手法は見飽きるほど知らされている。
>>497についてはユビさんが>>510で述べられていることに同意です。
確かに変じゃないか、と感じたのは私だが、誤解されるような表現だったのではないかと。
>>498については、なるほどと。
しかし>>511でユビさんが述べられていることで理解できます。
誰もが言うことですが準さんには教祖の指導にも沿わず勝手解釈・自己判断・都合で阿含の修行を
自分で好きなようにやっている&怠惰している様がありありと出てる。
しかもその状態を反省するでもなく、悪びれもしない。むしろ蛙の面に水状態です。
普通ならユビさんの言われたようにするのが修行者(信者)の本来ある姿です。
「自己流で好きにやるさ」を通したいのでしょうね。目に前にゲイカが居るわけでも無いから、PCで
好き放題なことをいえるから、怖くも無いし反省も無い。
挙句には過去の習いだが、修行のことを細かく書いても「自慢か」という始末でしょうから書かないが、
貴方からは真剣さも深く修行をしたことが無いから、嫌気しか感じられない。
- 513 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/30(月) 21:35:22
- >>499:準シュダオン12/01/30(月) 10:29:03
>惑→業→苦の順還において、惑を断っても、過去に為した業により、将来受ける
>であろう苦を断たないうちは大解脱ではない、と、管長は説いてるのです。
「人を殺しました!」
「ならばムショに行って裁きを受けて来い」
「ちょっと待って下さい!ムショに行くなんて苦ではないですか?
たしかに私は昨日殺意あって人を殺しました。
しかし今日はそんな殺意のような惑はありません。なくしました。それどころか
反省までしました。そんな過去の惑を滅ぼした今の私が苦を受けねばならない
なんておかしいではありませんか?」
- 514 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/30(月) 23:42:56
- 30日間のお手配願い
(法礼3000円)
戒行「道場え3日間お参りせよ」
「脅すのか?!」
なお戒行は他に簡易な勤行次第を毎日午前中に済まさねばなりません。
「脅すのか?!」
しかしこれは甘くなったもので、その昔は午前7時までにこの勤行を終えていなければ
ならなかった。
この願いを受けて大導師(管長)は毎日早晨勤行をなさり記念いたしますので
あなた様も・・・といったことが受け書に書き添えられています。
しかしこんなことはもちろん嘘です。
早晨勤行なんかしません。
自称坊主なんだから自分の道場であり関西総本部なり関東別院に住んでいるのだから
護摩なんか焚かなくてもよいが、お手配願いを壇に置いて毎日勤行したって
罰も当たるまいに。
自分ができないのならば法務部僧侶にやらせればよい。
そして受け書にもその旨正直に書いて法務部僧侶が早晨勤行をしますと書くべきですね。
もちろん本当に輪番でよいから法務部僧侶が勤行を実際にする。
せめてそうすることが誠意ではないですか?とは私がずっと昔に書いたことです。
- 515 :準シュダオン:2012/01/31(火)
10:11:48
- >「人を殺しました!」
>「ならばムショに行って裁きを受けて来い」
>「ちょっと待って下さい!ムショに行くなんて苦ではないですか?
私が言う過去の「業」というんは、そんな単純な業ではないの。
前世、前々世、前々々世、に為し、記憶などない業のことで、しかも受ける苦は
自殺か・自殺寸前のものすごい苦のことをいうの。
ムショなんて、私の言う苦に比べたら楽なものなのね。
その点、ユビさんは単純すぎて、考え不足よw。
- 516 :準シュダオン:2012/01/31(火)
10:27:01
- >ともかくあなたのような時間のある人に週に1回なんてのは無理な話ではない。
>しかし例えばあなたの居住県が広くて、うんと遠い道場に通うのに時間もガソリン代も
>かかると言うのならそう申し出て下さい。
そういう個人情報に近いものは出せるはずもない。
>ならば毎日なんて無茶は言わんが週に1回通っても罰当たらないんじゃない?
それだって、余計なお世話だっちゅうの。管長は、お金を出せる人はお金を、
時間がある人は身施を、何でもよい、ベロを出すのもイヤなんてのはダメ、
と言ってるわけでね。
私なりに、無理のないボン行をしてるつもりなんだから、ユビさんが評価したって
仕方ないの。私は、仏様に評価して頂くんですからね。
- 517 :準シュダオン:2012/01/31(火)
10:38:58
- >「人を殺しました!」
>「ならばムショに行って裁きを受けて来い」
>「ちょっと待って下さい!ムショに行くなんて苦ではないですか?
昔は、仇討ちは美徳であった。だから仇討ち赦免状てのもあった。
仇討ちを果さないと肩身が狭くて生きていけなかった。
で、前々世で仇討ちをして、現世でその報いを受ける番だったらどうしましょ。
あるいは、前々々世では農民を泣かせて過酷な年貢を取り立てるのが仕事であった。
それがお上に尽くす忠義であり、正義であった。その報いが現世に現われる。
私がいう時代によって正しいことや、価値観が違うというのは、そういうことです。
- 518 :準シュダオン:2012/01/31(火)
11:25:08
- 世間福経てのは読んだことがないので、正確には解らないが、如来への布施供養
は世間福を得る因にしかならず、出世間福は得られない、というユビさんのレス
には疑問があるね。
岩波仏教辞典の「福田」の説明には、
「福田は布施供養する人にとって菩提(さとり)の功徳を得る因となるところの
ものであった」と、あります。
と、いうことは、布施供養は世間福を得る因だけとは限らないじゃないの。
この辞典の、学者先生の解説は、間違いなのでしょうか。
- 519 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/31(火) 12:18:19
- >岩波仏教辞典の「福田」の説明には、
「福田は布施供養する人にとって菩提(さとり)の功徳を得る因となるところの
ものであった」と、あります。
と、いうことは、布施供養は世間福を得る因だけとは限らないじゃないの。
この辞典の、学者先生の解説は、間違いなのでしょうか。
1世間福とは、出家者の修業を支援する衆生の行為そのもの。
2出世間福は、五戒を受けて在家信者となる行為そのもの。
1の行為から2へ発展し、またさらに出家すればそれは、
1も2も菩薩(さとり)への因であることにかわりません。
国訳一切経 阿含部4 中阿含経巻第一巻の第二 七、世間福経第七
http://www.archive.org/stream/kokuyakuissaiky048800uoft#page/394/mode/2up
桐山解釈は、「福」という言葉そのものに目がくらんで何かもらえる
世俗的な福を世間福とし、世俗を超越し因縁を切れるのが出世間福などと、
大げさな解釈をしていますが、それは間違いであるとわかります。
- 520 :深山:2012/01/31(火)
13:04:16
- >>515 :準シュダオン:2012/01/31(火) 10:11:48
>私が言う過去の「業」というんは、そんな単純な業ではないの。
>前世、前々世、前々々世、に為し、記憶などない業のことで、しかも受ける苦は
>自殺か・自殺寸前のものすごい苦のことをいうの。
信者さんたちは良く見てください。
準シュダオンさんの単純でない業の意味なんて誰も関心も興味もないが、
信者さんたちも業を何か見えない前世からの力のように信じていませんか。
「業 『岩波仏教辞典』
原語の基本的意味は,<なすこと><なすもの><なす力>などで,
<作用><行為><行為対象><祭祀>などを表す語としてインド思想一般で広く用いられた.」
これがインドで、また仏教でも用いられた業の意味です。
どこにも、前世の報いという意味の業などありません。
業とは、身口意の三業というように、身体、言葉、心で行う行為のことです。
ところが、桐山さんも準シュダオンさんも、過去の行為の「報い」を
業と言っている。
この使い方は間違いです。
ましてや、釈尊は業の報いをなくせとか、なくせるなどとは一言も言っていません。
今現在の自分の行為(業)を正せと説いているだけです。
- 521 :深山:2012/01/31(火)
13:08:56
- >>517 :準シュダオン:2012/01/31(火)
10:38:58
>私がいう時代によって正しいことや、価値観が違うというのは、そういうことです
善悪などその時代の価値観だから、何が善なのか、悪なのかなんてわからない、
という主張です。
桐山さんも同じようなことを言っていた。
もっともらしい説だが、こういう屁理屈に惑わされないことです。
釈尊のいう善悪は普遍的なものであって、その基準は簡単です。
煩悩に基づく行為は悪です。
煩悩を捨てる行為は善です。
その具体的な基準も明瞭で、それを表したのが五戒です。
「殺すな、盗むな、不倫をするな、嘘をつくな、酒を飲むな」
これが簡単に言えば五戒であり、これを守ることが善であり、破ることが悪です。
桐山さんのように、死者たちを不成仏霊と罵り、成仏させるなどと嘘をつき、
亡くなった人を再度殺すような行為は、悪です。
桐山さんのように、他人の本を「日盤鑑定法」などと信者に
講義することを盗むといい、悪です。
桐山さんのように、愛人を持つことを不倫といい、悪です。
桐山さんのように、死者が成仏できるとか、釈尊が因縁解脱を
説いたかのような嘘をつくことは、悪です。
桐山さんのように、龍神様が飲んでいると称して酒を飲むことは、悪です。
これらの行為はいずれも煩悩に基づいた行為であり、
すべて悪業です。
こんなふうに釈尊の説く善悪の基準もまた煩悩であり、示す内容は明瞭で、
桐山さんや準シュダオンさんの善悪についての哲学的な考察など無用です。
- 522 :深山:2012/01/31(火)
13:12:23
- >>517 :準シュダオン:2012/01/31(火)
10:38:58
>私がいう時代によって正しいことや、価値観が違うというのは、そういうことです
信者さんたちは戒律を軽視しているが、戒律を破ることは仏教ではすべて悪です。
その戒律として大戒と呼ばれるものの中に、護摩を禁止している項目がある。
>>459でラシンさんが引用した経典がそれです。
釈尊は小さいつまらない戒律は、比丘同士で話し合いをして変えても良いと遺言した。
しかし、大戒とは、変えてはならない戒律です。
これを破ることは大戒を破ることなり、罪は大きい。
信者さんたちは、星まつりで仏様に供養すると称して、釈尊が大戒として禁止し、
してはならない悪であるという護摩を焚こうとしている。
釈尊を拝みながら、釈尊の教法を踏みつけている自分に矛盾を感じてください。
- 523 :深山:2012/01/31(火)
13:17:58
- >>518 名前:準シュダオン 投稿日: 2012/01/31(火)
11:25:08
>と、いうことは、布施供養は世間福を得る因だけとは限らないじゃないの。
また、こうやって言葉尻を捉えている。
いったい八法のどこを読んでいるのだろう?
布施供養が菩提の因となるのは当たり前です。
なぜなら、解脱した比丘たちを供養で支え、彼らを訪ね、話を聞き、
それを実践することが在家の解脱への道だからです。
比丘たちは在家の供養なくしては生きていられなかった。
彼らが絶滅したら、教法を説く者はいなくなり、在家は菩提の因を失う。
だが、供養したことが菩提、つまり解脱になるなんて書いていない。
準シュダオンさんは、供養の見返りに阿那含までなれるなんて
荒唐無稽な説を前提に辞典を読んでいるから、全部こんなふうに曲解している。
だが、そんなことは書いていない。
比丘たちに供養することで、教法を聞くことができるのが「菩提の因」です。
しかし、供養や聞いただけではダメなのは、八法にも書いてある。
信じて、戒律を守り、比丘に供養して、まみえ、教法を聞いて記憶し考え、
煩悩を捨てる実践をする。
これが八法です。
本人が煩悩を捨てることを実践するから阿那含までなれるのです。
八法を理解したら、布施供養が菩提の因になるなんて当たり前ではないか。
だが、どこにも八法のうちの一つにすぎない供養だけで阿那含まで
なれるなんて書いてありません。
- 524 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/31(火) 13:32:52
- >>515:準シュダオン12/01/31(火) 10:11:48
>私が言う過去の「業」というんは、そんな単純な業ではないの。
>前世、前々世、前々々世、に為し、記憶などない業のことで、しかも受ける苦は
>自殺か・自殺寸前のものすごい苦のことをいうの。
私が出した人を殺してムショに入る例は刑獄の因縁です。
死刑が執行されたら横変死の因縁も含む。
それには過去世の悪業があると言う。
現世において人を殺したからムショに入ったが、それは実は生まれた時から
前世に為した悪業により決まっていたというものです。
桐山さんは縦の因縁と横の因縁を説きます。
縦の因縁とは先祖から受け継がれる悪い運命。
実は仏教ではこんなことはどこにも説いていない。
先祖に対する不当な侮辱です。
しかし桐山さんは横の因縁を説く。横の因縁とは自分の前世に為した悪業の報いです。
桐山さんはガンの因縁があったと言う。
そして先祖を調べると母方の祖父がガン死している。この爺が悪いのか!
また調べるともっと遡った代にもガン死が何名かいる。
こいつらのせいでもあるのか!
しかし考えた。親子というものは慈しみ合うものであり憎しむものではない。
そこで横の因縁です。自分がガンの家系である桐山家に生まれたのは、自分もまた
ガンになる報いを受けて相応しい悪業を積んで来たからこそ桐山家と縁が生じて
生まれたのだ。だから私が桐山家でなく高橋家や中村家に生まれて来てもそこは
ガンの家系であることを避けられず、自分に原因があったのだと悟ったと言う。
悟ろうが桐山家の先祖を侮辱したことには何も変わってないが。
ところがそんな桐山さんでも刑獄の因縁となると話が違う。
刑獄の因縁は例の母方の祖父が18人上意討ちをした相手の怨念から生じたのだという。
しかしそんな縦の因縁だけでなく、桐山さんにもムショに入るべき報いを受ける
悪業を前世に為したから、偽ビール事件に手を染めたという理屈になります。
しかしその辺はコメントしませんね。
ガンになることは辛い話だがそれ自体罪も恥もない。
だからガンになるべき悪業なんてのも自分で晒してみせたかのように示しても
曖昧です。
しかし刑獄の因縁となると話が違う。
自分が破廉恥な罪で捕まるようなことを前世にしたと晒すことになるからです。
だからそこはコメントしないで、自分はスサノオの生まれ変わりとかトラック
千台分の善行をなしたなんて話をする。
- 525 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/31(火) 13:34:29
- 話がいきなり脱線したが本論はまだ続くよ。
この時間はこれまで。
- 526 :Boo:2012/01/31(火)
13:48:27
- かつて、ラシンさんと議論したことがありますが・・・
「因縁解脱」で過去になしたカルマを解脱できるか、否か。
私が考えたことは、過去になしたカルマの報いから逃れられることができないならば
「成仏」とはどういう状態なのか?カルマの報いを受けないで阿羅漢が死んだ場合、
報いはどこで受けるのか?カルマの報いを受けぬまま死後仏界に行くのならば
生前の肉体をもった「ニルバーナ」状態でもカルマの報いを受けないのではないか、
と考えました。
上記の理屈には2つの問題があります。
@もし上記理屈が仏教に当てはまるのならば、釈尊は「カルマの報いを受けない」
方法を経典ににのこしたのではないか?カルマ解脱、因縁解脱、など経典に見当たら
ないのはどうしてか?
A阿羅漢になってもカルマの報いを受ける記述がアーガマの中に散見できるのは
カルマからの解脱ができないからなのか?
それでも桐山アゴン教義との整合性を取ろうとした退会前の私は、阿羅漢になったら
カルマの報いを受ける、受けないの選択もできるのではないか?と想定したこともあ
ります。
洗脳の解けた頭で考えたら、経典を素直に読めば、当然カルマからの解脱など読み解く
ことができないのは明白です。
- 527 :Boo:2012/01/31(火)
15:05:23
- >しかし刑獄の因縁となると話が違う。
>自分が破廉恥な罪で捕まるようなことを前世にしたと晒すことになるからです。
>だからそこはコメントしないで、自分はスサノオの生まれ変わりとかトラック
>千台分の善行をなしたなんて話をする。
スサノオの尊は生き馬の皮を剥いで家の屋根から人家の中に放り投げてショックで
女性が数人死んだという逸話(ちゅうか神話の中の伝説ですが)がある。
信者時代、これらのことが「刑獄の因縁」のもと(因)ではないかと勝手に想像しました。
そういう想像が容易にできるキャラクターではありますね、スサノオは。
まあ、どちらにせよゲイカの自己申告で確認できない話ですね。
スサノオノミコトが現世で詐欺を働くなんてのも妙な話です。
- 528 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/31(火) 17:39:21
- >「因縁解脱」で過去になしたカルマを解脱できるか、否か。
666
けだし何者の業も滅びることはない。それは必ずもどってきて、
業をつくった主がそれを受ける(スッタニパータ)
桐山さんは、釈尊が断ち切れないカルマを断てと言う。
「一切行は無常なり 生ずれば必ず死あり
生ぜずば即ち死せず 此の滅を最楽と為す」
(國訳一切経 阿含部9 大東出版社 65頁)
http://www.archive.org/stream/kokuyakuissaiky098800uoft#page/330/mode/2up
滅亡したシャカ族の都の迦毘羅城で説いた釈尊の教法です。
煩悩を断ち切れば、生まれ変わりから解放されることが分かります。
- 529 :名無しさん:2012/01/31(火)
18:02:59
- >>515 :準シュダオン:2012/01/31(火) 10:11:48
>私が言う過去の「業」というんは、そんな単純な業ではないの。
>前世、前々世、前々々世、に為し、記憶などない業のことで、しかも受ける苦は
>自殺か・自殺寸前のものすごい苦のことをいうの。
確かに仏教では三時業ということを説いており因果の連鎖を三世、あるいはそれ以上の世代にまで及ぼすとします。
つまり業によって果報(むくい)を受ける時期に異なりがあり
・順現業
- 現世において受くべき業。
・順生業 - 次の生で受くべき業。
・順後業 -
三回目以降の生において受くべき業。
また報いを受ける時期が定まっていないものを順不定業(じゅんふじょうごう)と言うようです。
仏教では業を輪廻転生の主体としたため、一種の力として単に表面的な行為を指すにとどまらず、むしろ果報をともなう
潜在的な力のほうを積極的に指すようになったのも事実です。
お釈迦様は、まいた種は必ず生えるが、生えてくる時期には、前後があると教えられました。
ただ、「まかぬ種は生えない、まいた種は必ずはえる」そして、刈り取らねばならない全ては
自分のまいたものばかりと教えられています。
だから、現在受けねばならぬ一切の原因は、自己がかつて造ったものであり、未来は、これからの自己が創造していくものだと分かります。
業力は不滅であり自分がまいた種(業)は自分で刈り取らねばならないのです。
- 530 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/31(火) 21:59:29
- >>515:準シュダオン12/01/31(火) 10:11:48
>私が言う過去の「業」というんは、そんな単純な業ではないの。
>前世、前々世、前々々世、に為し、記憶などない業のことで、しかも受ける苦は
>自殺か・自殺寸前のものすごい苦のことをいうの。
さてとにかく刑獄の因縁とは過去世に為した悪業がもとに生じたものです。
一方あなたの書いている自殺か自殺寸前の苦しみというのは、本当に自殺したら
横変死の因縁があったことになる。
しなかったら何も特段悪い因縁もなく、誰しも人間関係などで悩み、自殺したくなる
こともあることを、特別甘ったれて悪い因縁のせいにしようとしたか、あるいは
ノイローゼになる程度の軽い脳障害の因縁があったのかもしれないことになる。
ちなみに自殺するかしないかはアゴン宗では決まってます。
生まれた時から決まっている。横変死の因縁があれば自殺して死にますし、
なければどんなに頑張っても未遂に終わります。
いずれにしてもそれ
が因縁ならば、これまた縦横の因縁で、過去世に為した悪業の
報いにより生じたものであります。
つまり私が出した例もあなたの出した曖昧な例(?)も因縁の苦であることに
何ら変わりない。
これをどっちが苦しいかなんてのは主観により異なるでしょう。
あなたにとってはいっそ人を殺して死刑にでもしてくれた方がどんなに気が楽か
なんて思ったかもしれない。一方ムショに入った死刑囚は、たかだか人間関係で
自殺したいなんて、そんな苦労を背負って生きている方がまだよかった、自分は
もう取り返しがきかない、甘ったれるなと言うかもしれない。
甘ったれもまたその人の因縁です。
普通の人よりも単に耐性がないだけの弱虫毛虫でも、それが理由に自殺すれば
それが因縁だ。単にレベルが低いだけで。
さて話があちこちに飛ぶが、この過去世の悪業による因縁は単純に報いとして
空から鉄柱が落ちてきて不慮の死を遂げるものもあれば、現世に生まれてからの
自分の行動にかかるものがある。
人殺しをする刑獄の因縁などは後者です。
前世も悪いことをしたが現世も繰り返し悪いことをしようとしている。
それを実行してしまったらもう現世に救いはなく、因縁解脱は不可能となります。
だから人殺しをする前の自分を改めねばならない。
これは弱虫毛虫の自殺志願者も同じです。
自殺を遂行する前に食い止めねば。
そこに因縁解脱の成否がある。
つづく
- 531 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/31(火) 22:50:27
- >>515:準シュダオン12/01/31(火) 10:11:48
>私が言う過去の「業」というんは、そんな単純な業ではないの。
>前世、前々世、前々々世、に為し、記憶などない業のことで、しかも受ける苦は
>自殺か・自殺寸前のものすごい苦のことをいうの。
あなたの書いている通り前世だのさらに前世だのって記憶にありません。
だから釈尊はわかりもしない過去世の悪業の報いなんて実は説いていない。
業とは今現在の行いがどうであるかです。
過去世がどうあれ今現在の行いを正しいものにすることだけを考えていけばよいのです。
それが四正断です。
桐山因縁解脱は刑獄の因縁が発動して取り返しがつかなくなる前に因縁を切って
人殺しをやめさせ、ムショに入る苦の運命も転換してしまうことを狙う。
まだ起こらぬ悪を起こさないようにする四正断と同じだと思いますか?
同じではありません。
桐山さんはここでも脅しを使っている。
この刑獄の因縁に基づく殺人の衝動は通常避けられないとしています。
因縁の操り人形になってしまっているのだから、教えで自己を制御しようにも
できないのです。
あなたは記憶に無いと書いたが実は記憶もトラウマもある。
それは表面意識では認知もできない深層記憶にあり、深層意識の中に強いトラウマ
として自分を支配してしまっている。
普段は理性で抑えることができていても天命殺の時期になると生命力も判断力も
弱まり、この衝動に突き動かされてしまう。
しかもそれは単に脳の問題ではなく霊障にも密接な関係がある。
だから怨恨をもった不成仏霊、霊障のホトケを解脱成仏させねば因縁は切れない。
だからこれはシャカの成仏法という特殊な供養と特殊な修行をしないと歯が立たない。
これが桐山因縁解脱の世界です。
殺す運命のある人は殺さないように心がけていても殺してしまうのです。
こんな馬鹿な教えは四正断でも説きません。
仏教の教えをことごとく否定したトンデモカルトのオカルトです。
- 532 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/01/31(火) 22:58:51
- >529 :名無しさん:2012/01/31(火) 18:02:59
「確かに」→「と言うようです」→「事実です」とまでの主張をする場合は、
その意見者は、まずその根拠を明解に示すべきです。
桐山さんの仏教解説は、いちおう学説を述べながら次に俗事を長々と例え、
学説を目くらましにしたところで、いきなり自説を繋ぎ合せる無理がある。
>仏教では業を輪廻転生の主体としたため、
まちがいです、輪廻の主体などはありません。
「慢断ぜざるが故に此の陰を捨て已りて陰と與(ともに)相続し生ず。」
(國訳一切経 仙尼経より抜粋)
意訳すれば、慢(煩悩)を断じられないゆえに輪廻転生するです。
煩悩があるあいだは、輪廻する。
>お釈迦様は、まいた種は必ず生えるが、生えてくる時期には、前後があると教えられました。
曖昧な解釈の象徴で、仏教は可能な限り正しく受け止めるべきです。
悪事をしても、その業(カルマ)は、しぼり立ての牛乳のように、すぐに固まることはない。
(徐々に固まって熟する。)その業は、灰に襲われた火のように、(徐々に)燃えて
悩ましながら、愚者につきまとう。ーダンマパダー
>業力は不滅であり自分がまいた種(業)は自分で刈り取らねばならないのです。
これも意味を履き違えた間違いです。
ースッタニパーター 666「けだし何者の業も滅びることはない。」
刈り取るべき相手とするなら、それは己の煩悩です。
- 533 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/01/31(火) 23:54:35
- >>516:準シュダオン12/01/31(火) 10:27:01
>それだって、余計なお世話だっちゅうの。管長は、お金を出せる人はお金を、
>時間がある人は身施を、何でもよい、ベロを出すのもイヤなんてのはダメ、
>と言ってるわけでね。
はい、私はあなたは普段はケチだが、ここぞという時、金で解決する人だと見ています。
もちろん金が絶対的に無い時には出さないが、あるうちは金で物事を解決する。
その方が手っ取り早くて楽だからです。
地獄の沙汰も金次第なんだから面倒なボン行など避けて金だけで功徳を積もうとする。
あなたに時間がないはずはない。昔こそ十分にボン行もできなかったのが
今こそ時間をボン行に充てるチャンスなのに、逆に今こそしようとしない。
桐山さんは金を支払う道も説いているが行動の道を重視しているのです。
行動を起こしてこそお導きなどそこに自分の因縁を観察するチャンスであり
現代人には欠けている忍耐とか協調性とかも養おうとしてるのです。
だから悪い心癖も是正されて因縁も切れていくとするのです。
金で済ますあさましい根性では結局駄目なんです。建て前は。
>私なりに、無理のないボン行をしてるつもりなんだから、ユビさんが評価したって
>仕方ないの。私は、仏様に評価して頂くんですからね。
はい、皆さん、今度は無理のないボン行です。
またしても具体的なボン行実践は少しも示されませんでしたね。
全くしたことがないとは申しません。
具体的な話が出て来たこともあります。
それは護摩木勧進、チラシ撒き、施本です。これらはたしかにアゴン宗ボン行です。
施本に至っては色紙まで貰ったと言うのだから、最低10冊は配っている。
ただしお導きに結び付け八法十六法の実践よろしくお世話までしたなんて報告もなく
色紙一枚で満足して終わりのようです。
彼が具体的に示したボン行はこの3つだけで、他は書いたことがありません。
無理のないボン行とあるが、今のような時間が十分ある中で、週に1回道場に通い、
30分間座って護摩木判押しをすることは無理ですか?
もちろん継続が必要です。
継続を否定したら何も得るものはありません。
受験生に無理して勉強するなと言うようなものです。
「珍しく勉強してるな?長続きしないぞ。たまに思い出した時にやればよいではないか?」
これで学業が成り立ちますか?
- 534 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/01(水) 00:07:07
- >>516:準シュダオン12/01/31(火) 10:27:01
>私なりに、無理のないボン行をしてるつもりなんだから、ユビさんが評価したって
>仕方ないの。私は、仏様に評価して頂くんですからね。
その仏様って、あなたの心の中だけにあるあなたの創作仏ですよね?
「仏様、仏様、私の無理のないボン行はこれでよいでしょうか?」
「準シュダオンよ、それでよいのだ」
これって「鏡よ鏡よ鏡さん、世界で一番美しいのは誰?」「それはそなたぞな」
という妄想姫の話と同じですよね。
そもそも桐山さんは無理のないボン行でよいなどと甘いことを説いていない。
私のように勤め人が週末などにとる休みも疲れを癒さなければならないし
なんて甘いハードルを掲げてやってる私と大違いですよ。
それは今回の中巻の百槍経の解説にもよく表れています。
- 535 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/01(水) 01:23:50
- >>516:準シュダオン12/01/31(火) 10:27:01
>それだって、余計なお世話だっちゅうの。管長は、お金を出せる人はお金を、
>時間がある人は身施を、何でもよい、ベロを出すのもイヤなんてのはダメ、
>と言ってるわけでね。
>私なりに、無理のないボン行をしてるつもりなんだから、ユビさんが評価したって
>仕方ないの。私は、仏様に評価して頂くんですからね。
百槍経の大意はこうです。
お釈迦様が弟子に説いた。ここに百歳まで生きる人がいて、その人に質問した。
毎日朝に百回槍で突かれる、昼にも槍で百回突かれる、夜にも槍で百回突かれる、
一日合計三百回槍で突かれる。
これが百歳まで続いて初めて仏法を聴聞して最高の悟りを得ることができるとしたら
あなたはその苦しみを受けますか?と。するとその人は仏法を聴くためには
その苦しみを受けることができる。なぜならば我々は常に六道輪廻をしており、
地獄界や餓鬼界なども輪廻して長い間多くの苦しみを受け、仏法を聴聞することもできない。
その苦しみを考えると、たかだか百年毎日3百回の槍に突かれる苦痛があろうとも
せっかくの人間界に生まれたチャンスを活用して、輪廻の苦しみから脱することが
できる仏法を得ることができるならば大きな苦痛とは思わないと表明するわけです。
そしてお釈迦様はまだ悟りを得てない者はあらゆる方法を駆使して修行に励みなさい
とした。
この話を桐山さんは六道輪廻の苦の話ではなく因縁解脱の修行の話にすり替える。
因縁解脱のためにボン行をするのだが、ボン行をする時間がないとか言って
時間を捻出しないのがいるが、ボン行で苦労して走り回るのと、いざ本当に悪因縁が
発動して走り回り苦しむのと、どちらをとるか?
本当の因縁の苦しみを考えればボン行の辛さなど物の数ではないはずだ、
だからボン行をする時間がないなどと言い訳をせずにボン行に励めと説いている。
勤行やボン行が苦しいなんていったら罰が当たると書いてます。
これは私が説いたのではなく、桐山さんが説いた話です。
「仏陀の真実の教えを説く(中)」の百槍経解説で説いています。
- 536 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/01(水) 07:58:57
- >>527:Boo12/01/31(火) 15:05:23
>スサノオノミコトが現世で詐欺を働くなんてのも妙な話です。
まさにその通りで、18人の革命の志士たちの怨念の霊障の祟りを受けて
刑獄に至る犯罪が偽ビールというのも笑える話で、霊障の説明にもならない。
- 537 :準シュダオン:2012/02/01(水)
08:54:48
- >時間を捻出しないのがいるが、ボン行で苦労して走り回るのと、いざ本当に悪因縁が
発動して走り回り苦しむのと、どちらをとるか?
>本当の因縁の苦しみを考えればボン行の辛さなど物の数ではないはずだ、
だからボン行をする時間がないなどと言い訳をせず
にボン行に励めと説いている。
>勤行やボン行が苦しいなんていったら罰が当たると書いてます。
だからね、私は既に、因縁の洗い出し現象、聖なるバイブレーション、そして、
3・11の霊示、と大きな功徳を頂いているのです。だから、自分のボン行の
ペースで良いとの確信があるのです。あとは、報恩謝徳の行を、どの程度するか
の問題です。ユビさんの言うとおり行動したら、ペースが乱れてろくなことない、
ことだけは解るのです。
- 538 :準シュダオン:2012/02/01(水)
09:04:42
- >はい、私はあなたは普段はケチだが、ここぞという時、金で解決する人だと見ています。
>もちろん金が絶対的に無い時には出さないが、あるうちは金で物事を解決する。
>その方が手っ取り早くて楽だからです。
全くはずれですw。
あなたは、そういう我見でだけ、判断してるから、信徒時代の修行も
間違えたのです。先ず、そういう偏見と言うか、我見を捨てるところ
から始めないといけないのです。
- 539 :準シュダオン:2012/02/01(水)
09:18:57
- >具体的な話が出て来たこともあります。
>それは護摩木勧進、チラシ撒き、施本です。これらはたしかにアゴン宗ボン行です。
あなた、何ゆうてんの?あなた、広施の行を知らないの?それは↑広施の行ですよ。
釈尊は、法を世に広める行だけで、阿那含までいけると説いてるのですよ。
>施本に至っては色紙まで貰ったと言うのだから、最低10冊は配っている。
>ただしお導きに結び付け八法十六法の実践よろしくお世話までしたなんて報告もなく
いちいち報告する義務はないね。広施の行で、将来、入行まで行く人も居るかも
知れないし、他人がどうこう評価することではないね。
>色紙一枚で満足して終わりのようです。
>彼が具体的に示したボン行はこの3つだけで、他は書いたことがありません。
3つでも書きすぎです。そんなこと、手柄みたいに書くもんじゃないよ。
そうことから、ユビさんの心の卑しさ・さもしさがすけてみえるのですよ。
- 540 :準シュダオン:2012/02/01(水)
10:11:09
- >その仏様って、あなたの心の中だけにあるあなたの創作仏ですよね?
>「仏様、仏様、私の無理のないボン行はこれでよいでしょうか?」
>「準シュダオンよ、それでよいのだ」
>これって「鏡よ鏡よ鏡さん、世界で一番美しいのは誰?」「それはそなたぞな」
星祭りの護摩に、如来の現形があったとき、管長はご霊示を仰いだという。
「われは応供の如来である。供養を受けるぞ」
というご霊示がさがったそうです。
私には、ご霊示を仰ぐなんて芸当は夢のまた夢だが、3・11の霊示以後、
仏様とは言わないまでも、仏様のお使いの龍神様か、天様、何かが私を見守って
いるような気配を感じることがあります。
で、つい、仏様と啖呵を切ってしまったです。
- 541 :名無しさん:2012/02/01(水)
12:10:42
- >>532 :ラシン ◆xvojmuQ90o:2012/01/31(火) 22:58:51
>「確かに」→「と言うようです」→「事実です」とまでの主張をする場合は、
>その意見者は、まずその根拠を明解に示すべきです。
【三時業】
原因としての善悪の業(行い)によって報われる結果を、報われる時世での遅速にしたがって3種類に分類したもの。
現世で報いを受ける業を「順現法受業」。次世で報いを受ける業を「順次生受業」。第三世以降で報いを受ける業を「順後次受業」とする。
簡単に、「順現報・順次報・順後報」という「三報」ともする。また、このような時期が定まらない不定業も合わせて4種類とする。
この詳細は『倶舎論』巻15「分別業品第四之三」にて説かれている。
-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
論じて曰く、此上に説く所の順楽受等、応に知るべし、各、定・不定の異有り。定受に非ざるが故に、不定の名を立つ。
定に、復、三有り。一には順現法受、二には順次生受、三には順後次受。此の三の定業、并びに前の不定と総せて、四種と成す。
『大正蔵』巻29-81c
-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
- 542 :名無しさん:2012/02/01(水)
12:15:02
- >>532 名前:ラシン ◆xvojmuQ90o 投稿日: 2012/01/31(火)
22:58:51
>>仏教では業を輪廻転生の主体としたため、
>
>まちがいです、輪廻の主体などはありません。
>
> 「慢断ぜざるが故に此の陰を捨て已りて陰と與(ともに)相続し生ず。」
> (國訳一切経 仙尼経より抜粋)
>
>意訳すれば、慢(煩悩)を断じられないゆえに輪廻転生するです。
>煩悩があるあいだは、輪廻する。
この問題は仏教をどの範囲まで捉えるかにかかわってきます。
根本仏教しか認めないか、あるいは大乗仏教まで拡げて論ずるかにより変わってきます。
ここで「業」を詳細に論ずるつもりはありません。(そんな能力も力もありません)
ただ、生死輪廻をくりかえしている問いに対し仏教は総じて業感縁起という考えで答えます。
唯識仏教では「業」を刹那に生滅しつつ相続して存在しつづけるとみます。暴流のように流れて存在するとみます。
実体的な自我ではなく、一瞬一瞬、生じては滅し、滅しては生ずる相続体とみるのです。
- 543 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/01(水) 12:16:10
- >星祭りの護摩に、如来の現形があったとき、管長はご霊示を仰いだという。
「われは応供の如来である。供養を受けるぞ」
桐山さんのその「ご霊示」とは、どんな経緯による意味かの再考察です。
ー末世成仏本尊経講義 265頁
予告された如来の復活(抜粋)ー
昭和五十四年二月四日、それは阿含宗創建の翌年のことであった。
京都東山花山の、総本山道場建立予定地において、
「節分星まつり大柴燈護摩供」奉修中、一陣の霊気が結界内を
走ったかと思うと、突然、焚き上げている大護摩の火炎が、
巨大なホトケのご尊体と変わったのである。
修法が終わって道場に帰り、ご霊示を仰いだ。
「われは応供の如来である。供養を受けるぞ」
というご霊示がさがった。 ー中略ー
「応供の如来」とは、「(信者の)供養を受けて、その供養を
功徳として(信者に)返すという意味である(如来の十号参照)。
桐山さんいわくこれは、法爾無作の如来の現形と解説しています。
それも修法が終わって数日後に、信者からの写真を見てのことだ、
と後述しています。
これこそ、「三供養品の如来」だと気づくには、翌年のインド仏蹟巡拝の
旅から帰ったあとの護摩修法の時、10年前に忘れ去っていた三供養品の
お経を思い出した、と書かれてあります。
- 544 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/01(水) 12:18:17
- >星祭りの護摩に、如来の現形があったとき、管長はご霊示を仰いだという。
「われは応供の如来である。供養を受けるぞ」
桐山解釈「応供の如来」表現は、すでに何度も批判者からその仏教無知を
苦笑されていることです。
しかし、桐山さんはすでにグモンジ脳を持ちながら、信者の霊写真で
ようやく法爾無作の如来と確信し、その後インドのサヘトマヘトで仏勅を
受けていて、なお「三供養品の如来」と気づくのに一年余りを有しています。
桐山さんの「ご霊示」力が、いかにいい加減で曖昧かの証明です。
受けた「ご霊示」は、「われは応供の如来である、供養を受けるぞ」です。
ニョライ様が、自身の呼称をまちがって託宣し、「三供養品の如来」とは、
桐山さんがあとでつないで創った物語にすぎない、と分かるものです。
「応供の如来」→「法爾無作の如来」→→「三供養品の如来!」との図式です。
すべて桐山さんの"造語"を混ぜた解釈です。
応供とは、供養に応えて功徳を返すなどの意味は、どこにもありません。
法爾無作などは、密教の大日経以降にしか存在しませんし意味も異なります。
応供おうぐ[s:arhat)供養を受けるにふさわしい者の意.(岩波仏教辞典)
応供《(梵)arhatの訳。音写は阿羅漢(あらかん)》
1
仏の十の号の一。供養を受けるにふさわしい者の意。
2 小乗仏教で、最上の聖者。(デジタル大辞泉)
法爾ほうに[s:dharmata]法(事物)の
あるがままな状態をいう.
- 545 :名無しさん:2012/02/01(水)
12:21:52
- >>532 名前:ラシン ◆xvojmuQ90o 投稿日: 2012/01/31(火)
22:58:51
>>業力は不滅であり自分がまいた種(業)は自分で刈り取らねばならないのです。
>
>これも意味を履き違えた間違いです。
「自分が蒔いた種は自分で刈り取らなければならない」
これは「自業自得」の格言として捉えてください。
- 546 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/01(水) 12:30:30
>この問題は仏教をどの範囲まで捉えるかにかかわってきます。
岩波仏教辞典と倶舎論を根拠とされている、と理解します。
桐山論拠に関しては不明です。
スレの趣旨は、>>1にある阿含宗考察と検証や意見交換です。
- 547 :名無しさん:2012/02/01(水)
13:15:55
- >>546 :ラシン ◆xvojmuQ90o:2012/02/01(水) 12:30:30
>岩波仏教辞典と倶舎論を根拠とされている、と理解します。
>桐山論拠に関しては不明です。
>
>スレの趣旨は、>>1にある阿含宗考察と検証や意見交換です。
>>515準シュダオンさんの投稿内容に対し仏教ではどう考えているのか。
乖離しているか、あるいはしていないかを読者に示したまでです。
準シュダオンさんを擁護するつもりもないし、批判側を批判するつもりもありません。
ただ読者に正しい情報を示したかっただけです。
- 548 :準シュダオン:2012/02/01(水)
14:06:15
- >>星祭りの護摩に、如来の現形があったとき、管長はご霊示を仰いだという。
「われは応供の如来である。供養を受けるぞ」
>桐山解釈「応供の如来」表現は、すでに何度も批判者からその仏教無知を
たまたまラシンさんのレスが目に入った。
あのね、辞典や学者先生のいう「応供」の意味など、解った上で、管長は説いて
いるのです。霊示の体験もない人は、辞典などの言葉の解釈しか頼るものがない
から、それを絶対だと考えてしまう。
しかし私は、3・11に「震度5の地震・云々」の霊示体験以後、管長の説く、
「供養を受けて、その供養を功徳として返す」という意味を、200パーセント
信じています。勿論、私だとて、ラシンさんが示したような「応供」の意味は
承知しているよ。しかし、霊示は辞典に書いてあるとおりには起きないです。
「われは供養を受けるに相応しい、応供の如来である」などと辞典のとおりには、
霊示は起きないと思う(私の体験上)。「供養を功徳として返す」という意味は、
霊示の中に明確にそのような概念が伝えられていたのでしょう。
管長は、それを忠実に本に書いただけだと思われます。
- 549 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/01(水) 14:46:04
- >「自分が蒔いた種は自分で刈り取らなければならない」
これは「自業自得」の格言として捉えてください。
格言であれば、桐山説を擁護していないと了承。
また、根本仏教にはない思想。
自業自得:自らなした行為の果報は自らに”受けとる”ということ.
(岩波仏教辞典)
>>515準シュダオンさんの投稿内容に対し仏教ではどう考えているのか。
乖離しているか、あるいはしていないかを読者に示したまでです。
準シュダオンさんを擁護するつもりもないし、批判側を批判するつもりもありません。
ただ読者に正しい情報を示したかっただけです。
>>515準シュダオンさん説の業は、>>520の深山さん解説がスレに適っています。
ここでの批判論は、正しいを格別にテーマにしている訳ではなく、
また、批判への批判も拒否せず容認すべきと考えられています。
阿含経を掲げる桐山さんの虚偽を、パーリ5部と、
それと相応する漢訳四阿含”等”を根拠にする批判意見の場です。
- 550 :名無しさん:2012/02/01(水)
15:24:24
- >>549 :ラシン ◆xvojmuQ90o:2012/02/01(水) 14:46:04
>阿含経を掲げる桐山さんの虚偽を、パーリ5部と、
>それと相応する漢訳四阿含”等”を根拠にする批判意見の場です。
スレ主の天照さんはそこまで厳しく規制をかけておられないと思いますが
ラシンさんの気持ちも分からない訳ではありません。
阿含経以外での批評はさけるべきと仰るなら貴方の言葉に従いましょう。
- 551 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/01(水) 15:52:20
>阿含経以外での批評はさけるべきと仰るなら貴方の言葉に従いましょう。
いいえ、桐山さんは必ずしも阿含経に基づいていません。
部派仏教、アビダルマや後期大乗密教、何でもありです。
阿含経に依所しているのに、その適用は乱暴乱雑で矛盾がある。
その意味で、何でも持ち出す桐山さんはおかしいとの批判です。
- 552 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/01(水) 15:53:45
- >霊示は辞典に書いてあるとおりには起きないです。
>「われは供養を受けるに相応しい、応供の如来である」などと辞典のとおりには、
霊示は起きないと思う(私の体験上)。
「応供の如来」表現が、辞典のとおりではありません。
批判が、辞典を絶対根拠と考えるのではなく、
桐山解釈と根本仏教との食いちがいを学説にて指摘するものです。
また、桐山さんの如来解釈のひとつである「如来の十号」も、
それは北伝のシナ化された思想に基づくものである以上、
その適用が、阿含経を反映していないとの批判に値します。
現仏教界で判明している「如来」への解釈は諸論があり、
初期仏典で語義説明はされていない(岩波仏教辞典 如来頁)。
桐山さんが依処した解釈は、部派仏教以降のものです。
それが「ご霊示」を受けた内容のネタ元であるから、
桐山さんこそ辞典や学説の上っ面をとり上げただけと苦笑されている。
その「ご霊示」は、サンタのイメージでイエスの生誕地も雪が降っていた、
と解釈するような粗末なもの、と失笑されている。
もともと「如来」とは、仏教以前からある「修業を完成した者」の呼称です。
- 553 :天照
◆MO30b8Jwoo:2012/02/01(水) 16:00:05
- >>550
名無しさん。
仰せの意とおりで私はあまり酷い投稿や姿勢で無い限りは規制や管理行使はしません。
またなるべく言ってわかる方には管理前にもお知らせします。
お知らせもしないで行うのは「趣旨と関係ない広告、またはまがい行為」
公共良俗に反するAA。妨害とわかるリンク貼り。異常なコピペなどなどですね。
ラシンさんを始め諸兄様方はスレの趣旨に沿い阿含宗についての教義や教祖の発言、
阿含宗における中身の考察に準じる議論を交わしております。
私もそうですが、仏教にかかわる&阿含宗にかかわるものであればいいかも、と考える
ことがありますが、あまり逸れると話を戻せなくなったり趣旨からずれて話が拡散し、
逸脱する恐れもあります。
ことに時折見られる「阿含擁護」で意図的な人はそこを狙ってわざと展開する人も過去
居られたみたいですが、会話を趣旨に戻すことで的がぶれないのと相手の手中にはまり
「訳がわからない状態」または「阿含宗とは関係ない事項について議論」になってしまい、
そうなると「仏教全般」となり一生を費やしても終わらぬ談義になりがちです。
そうしたことを避けるためにも、趣旨遵守をおこなっておられるようです。
もしも、阿含宗のことを語りながらも仏教のことに触れるような「拡散内容」での
展開をされたい場合はお手数ですが以下の場所にて行ってみてください。
http://jbbs.livedoor.jp/internet/6441/ agama@chs-1
この中の「阿含宗という宗教法人を主とした意見交換板」で行えます。
何卒ご了承いただけますよう、お願いいたします。
- 554 :天照
◆MO30b8Jwoo:2012/02/01(水) 16:05:18
- >>553 途中関係ない文字がありますが、タイプミスです。ご勘弁を・・・。
>>551
本当にその通りです。ゲイカは油断も隙もあったものではない輩。
まして仏教に疎い(私がそうですが)人間が多いことを機にデタラメなことを
平気でやっています。
そのデタラメさと中身を示されているのがラシンさんや批判側諸兄様方であります。
ですから2chや過去にあったザビビなどがなかったら、こうやって公にゲイカの
デタラメや間違いを示すことがどれだけ出来たかわかりません。
- 555 :Boo:2012/02/01(水)
16:07:26
- >信者さんたちは良く見てください。
>準シュダオンさんの単純でない業の意味なんて誰も関心も興味もないが、
>信者さんたちも業を何か見えない前世からの力のように信じていませんか。
>
>「業 『岩波仏教辞典』
>原語の基本的意味は,<なすこと><なすもの><なす力>などで,
><作用><行為><行為対象><祭祀>などを表す語としてインド思想一般で広く用いられた.」
ウィキペディアからの引用です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%AD
『業
「カルマ」は、この項目へ転送されています。その他の用法については「カルマ
(曖昧さ回避)」をご覧ください。
業(ごう)とは、仏教の基本的概念である梵: ?????? (karman)
を意訳したもの。サンスクリットの動詞の「クリ」(kR)の現在分詞である「カルマット」(karmat)より転じカルマンとなった名詞で、「行為」を意味する。
業はその善悪に応じて果報を生じ、死によっても失われず、輪廻転生に伴って、アートマンに代々伝えられると考えられた。アートマンを認めない無我の立場をとる思想では、心の流れ(心相続)に付随するものとされた。中国、日本の思想にも影響を与える。「ウパニシャッド」にもその思想は現れ、のちに一種の運命論となった。』
準シュダオンおよび桐山アゴン教学の解釈でも全く誤りとはいえないと思います。
>ましてや、釈尊は業の報いをなくせとか、なくせるなどとは一言も言っていません。
>今現在の自分の行為(業)を正せと説いているだけです。
これはその通りでしょう。ま、「業の報いをなくせ」なければ「因縁解脱」の教義自体も
ありえなくなるので、アゴン宗の存在理由は無くなってしまいます。
「因縁解脱」を仏教の本流という位置に据えるためには(桐山アゴン教学では実際
因縁解脱こそ釈迦仏教の本質であり因縁を解脱することがニルバーなに通じると説く)
前世からくる運命因子である因縁(業=カルマ)を切る→因縁解脱
を前面に出さねばならず、そうするとカルマを行為とその結果などの解釈では
物足りなくなってしまう。ただ、そのような「業」の解釈でまるっきり間違いで
はないように感じますが、いかがでしょう?
- 556 :Boo:2012/02/01(水)
16:13:23
- あれ?
前レスの引用は>>520の深山さんのレスに関するものです。
なんだか変なタイミングになって申し訳ないです。スルーしていただいて
結構です。
- 557 :名無しさん:2012/02/01(水)
16:54:17
- >>553 :天照 ◆MO30b8Jwoo:2012/02/01(水) 16:00:05
天照様
ご心配をお掛けして申し訳ございません。
わたしは桐山擁護派ではなく批判側の方ですが、しかし今回の件はより中立の立場で批評したいと思い投稿した次第です。
>ことに時折見られる「阿含擁護」で意図的な人はそこを狙ってわざと展開する人も過去
>居られたみたいですが、会話を趣旨に戻すことで的がぶれないのと相手の手中にはまり
>「訳がわからない状態」または「阿含宗とは関係ない事項について議論」になってしまい、
>そうなると「仏教全般」となり一生を費やしても終わらぬ談義になりがちです。
確かにそうですね。
そのような隙を与えるのはこちらの本意ではありませんが、落とし穴に引きずり込まれる危険性はあります。
2chではそんな輩が出没しているので皆さん神経を尖らせているのは理解しています。
以後、投稿する際は批判側であることを明確にして書き込みをさせて頂きます。
- 558 :天照
◆MO30b8Jwoo:2012/02/01(水) 19:23:18
>>557
名無しさんへ。
返信を頂き、ありがとうございます。私も名無しさんのご意見を拝見し、逸脱してたとは思っておりません。
お気持ちもログを少し前にさかのぼって拝読しましたら、名無しさんのお気持ちも理解できました。
諸兄様方もおっしゃられていることですが、批判側だからといっても必ずしも全て同意せねばならない、と
いうことはない、と言われております。批判する側であっても意見や考え方の違いや過去にもありましたが、
論じていくうえで食い違いがあって少し批判側でもかみ合わなかった事項がございます。
そういう場合はその「かみ合わない点」について集中して話し合うか、または私が提示した板で移動展開して
話し合うなどが良いかもしれませんね。
今回の名無しさんの発言されたことについては私は良いと思っています。
ただ、広範囲な解釈や考察をする場合には伝わりにくいこともありますので、注釈をつけて置かれる。
つまり、出された意見・発言について「OOの視点から見た場合などで云々」とか「私がOOで見た場合の
意見であります」など何かつけると良かったかも知れません。
そうはいっても私も文章がへたくそなので僭越極まりないのですが、中々皆さんに100%意図を伝えるのは
難しいと常々感じております。
またいつも発言の度に”注釈付け”をする訳にもいきませんから、そういう場合は後から今回のように何か
論が出たりなどの場合には「後から自分の意図説明」でよろしいかと思います。
総じて述べますと、意外と趣旨に沿うのは簡単な事ながら、時には「ちょっと難しいなあ」と思う時があります。
(自分がそう感じるだけなのかもしれませんが)
特に人によっては「自分の理論や理屈」を展開してくる方が居られますので、教祖同様油断がならないです。
(名無しさんのことではありません)
そういうことで、広範囲や解釈のことで難しくなってしまうことをなるべく避けて、釈尊の言われたことに
どれだけ正確に近づけるか、またトンデモ論を言ってくる(来た)教祖やその擁護者たちの展開に気をつける。
これをやらないといろんな講釈で負かそうとします。または持論を正当化しようとします。
もちろん議論は勝ち負けでは無いですが、嘘を本当といってやまない人がいるのが事実です。
これが今まで仏教を歪めてきた&尚且つ阿含宗を始めインチキ新興宗教が巷に遍満している原因の1つでは無いか
と私個人は思っています。
そういう歪んだ思考や体制に対するには、やはり批判諸兄様方が取られている方法が一番のようです。
百歩譲って、などや何か少しでも譲歩するようなことがあれば、そこを利用してくる場合も有ります。
また論を上手くすり替えてきたりする場合も考えられます。
名無しさんは擁護したわけでも無いし、批判側に何かしたわけではないのでいいと思います。
どうぞこれからも議論に参加され、ご意見をよろしくお願いいたします。
- 559 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/01(水) 20:57:40
- >>537:準シュダオン12/02/01(水) 08:54:48
>だからね、私は既に、因縁の洗い出し現象、聖なるバイブレーション、そして、
>3・11の霊示、と大きな功徳を頂いているのです。だから、自分のボン行の
>ペースで良いとの確信があるのです。あとは、報恩謝徳の行を、どの程度するか
>の問題です。ユビさんの言うとおり行動したら、ペースが乱れてろくなことない、
>ことだけは解るのです。
まるでもう因縁は全て切ってしまって、もう切るべき因縁は一つもないような
書き込みですよね。
あなたはこれまでの人生体験から起きてしまった病気や怪我などから考えて
透視などしてもらわなくても自覚できる因縁があるとした。
そんなものは私にでも誰にでもできる。ちなみに私は椎間板ヘルニアで手術を経験している。
となると人体にメスを入れたという事実だけで、軽かれ重かれ何らかの肉体障害の
ある、あったことに
なります。
準シュダオンさんも昔はよく怪我をしたと書いていた。肉体障害の因縁のようなものも
自覚していたようです。しかし最近は怪我をしなくなった。
これを以て因縁が切れたか薄らいだかと捉えたようです。
まあ怪我なんてのは定期的にすると決まったものでもなく、何十年ぶりに大怪我
でもするのが人生というものですが。
とにかく自覚する因縁のいくつかが切れたか薄らいだと感じたのだそうだ。
しかしそれでもう切るべき因縁がなくなったわけではあるまい。
高齢になればもう不幸な運命は訪れることなく静かに臨終を迎えるしかないなんて
ことはない。交通事故に遭って脳味噌も目ん玉も飛び出してぐちゅぐちゅになる
かもしれないし、逆につい気が弛んでほんの短距離とばかり飲酒運転をしたところ
人を轢いて死なせてしまい罪に問われるかもしれない。
高齢者を狙った悪質な詐欺師に騙されて多額の借金で苦しむかもしれない。
ましてやあなたは成人病だと書いた。アゴン宗に入信して以降発病した成人病です。
糖尿病なら一生治らない。しかし糖尿病でも普通に仕事をしている人は大勢いる。
問題なのはこれ以上進行悪化させない節制が必要です。
悪化すると例えば桐山さんのように脳梗塞にもなります。
脳障害の因縁ですね。失明もする。目を失い手足を断つごとき肉体障害の因縁ですね。
あなたの場合は桐山さんみたいに霊示という名の幻聴を聴いているから脳梗塞が危ない。
だからボン行を休んでよいとはならない
- 560 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/01(水) 21:28:56
- >>537:準シュダオン12/02/01(水) 08:54:48
>だからね、私は既に、因縁の洗い出し現象、聖なるバイブレーション、そして、
もちろんあなたが脳梗塞で倒れようが借金苦に苦しもうが、それを避けたいがために
ボン行なんかする気はないという選択肢をとるのもあなたの自由です。
大きなお世話だとでも言ってください。
私だってあなたがどうなろうと知ったことではないし。
ただ桐山さんはこう言う人にこういうことを言いますね。
死ぬ時は死ぬがよき候なんて生悟りみたいなことを言う奴がいる。
しかし殺す時には殺すがよき候とはならないでしょう。
先に書いた車で人を轢死させてしまう事故ですね。
だから我々は不幸な因縁を切る義務がある。人は幸せになる権利ではなく義務が
あると説いて、因縁解脱の絶対必要性を強要はできないながらも脅迫に訴える。
あなた個人の問題でなく、桐山指導に逆らうことを書いていると、教団はそれを
妨害とみなします。それでも妨害するのもあなたの自由で、こっちの知ったこっちゃ
ないけどね。
>ユビさんの言うとおり行動したら、ペースが乱れてろくなことない、
>ことだけは解るのです。
ペースなんて乱れたって崩れたっていいじゃないですか?
毎週行けないこともたくさんある。
しばらく足が遠退くこともある。
しかしまた気を取り直して再開すればよいだけの話です。
あなたは物事をする前から、行動する前から、屁理屈つけて面倒なことをしない
だけです。
それならばアゴン宗なんかやめてしまえばよいではないですか?
もう功徳は得たし。
アゴン宗があなたの姿勢を否定しているのです。
勘違いしないで下さいね。あなたの修行を修行じゃないと否定しているのは
私らではなくアゴン宗です。
- 561 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/01(水) 23:14:19
- >>539:準シュダオン12/02/01(水) 09:18:57
>あなた、何ゆうてんの?あなた、広施の行を知らないの?それは↑広施の行ですよ。
その広施の行もアゴン宗ではボン行として重要な位置を占めます。
ボン行の最たるはお導きであり布教です。
ですからチラシ撒き、施本、護摩木勧進これら布教行は全て立派なボン行として
認められています。
その他に行事にお客さんとしてではなく運営する側に奉仕して働くボン行があるのです。
アゴン宗のことを何も知らないのですね。さすが幽霊会員。
どこの教団のお方ですか?
アゴン宗では逆に広施とか広宣という用語が普及していないのですよ。
あなたよほどアゴン宗ボン行と言うのが言葉ごと大嫌いで否定したいのですね。
>釈尊は、法を世に広める行だけで、阿那含までいけると説いてるのですよ。
あれ?三善根(三福道)は供養プラス修行とあなたは書いてませんでしたか?
布教だけでよいのですね?
その時その場でコロコロ意見変えますね。
>3つでも書きすぎです。そんなこと、手柄みたいに書くもんじゃないよ。
手柄にはなりませんよ。
だって他のマトモな信者さんだったら他にいくつもやっていることだ。
それをあなたもちゃんとやっているかを問い質しているわけで、よほどたくさん
答えぬ限り手柄にすらなりません。
また個人情報の開示になり得ません。
護摩木判押し行なんて答えてみたところで護摩木判押し行なんて誰でもやってる
ボン行だから、その答えで個人が特定されるわけでない。
- 562 :Boo:2012/02/01(水)
23:18:06
- >あなたは物事をする前から、行動する前から、屁理屈つけて面倒なことをしない
>だけです。
>それならばアゴン宗なんかやめてしまえばよいではないですか?
>もう功徳は得たし。
>アゴン宗があなたの姿勢を否定しているのです。
>勘違いしないで下さいね。あなたの修行を修行じゃないと否定しているのは
>私らではなくアゴン宗です。
これには激しく同意します。
かつて、準シュダオン氏は斜に構えていた擁護の私にアゴン宗をやめるように
言っていました。実は準シュダオン氏こそが桐山アゴン宗にいるべき人間ではない
ことがユビキタスさんのレスでよくわかる。
- 563 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/02(木) 00:09:34
- >>548:準シュダオン12/02/01(水) 14:06:15
>あのね、辞典や学者先生のいう「応供」の意味など、解った上で、管長は説いて
>いるのです。霊示の体験もない人は、辞典などの言葉の解釈しか頼るものがない
>から、それを絶対だと考えてしまう。
>霊示の中に明確にそのような概念が伝えられていたのでしょう。
>管長は、それを忠実に本に書いただけだと思われます。
いいえ、桐山さんの受けた霊示とは音声です。
言葉で表しきれない概念はサヘトマヘトの白銀のバイブレーションです。
他は非常にはっきりしている。
まずは観音慈恵会を立ち上げる時。
1人滝行をしていたら御霊示が下った。
「今だ、起て!教えを広めよ」
桐山さんはこの音声に答えた。
「私にはそのような徳も力もございません」
「力は既に与えてある。徳は自ら積むものだ」
そして1979年の星まつりで現形の写真がとれた時も視覚的には写真でそれとわかったが
何の為に?とのことで、護摩の時に写真を置いてお訊ねしてみた。
すると下がった音声が「我は応供の如来なり。供養に応えて功徳を授けるぞ」です。
これを忠実に示したわけです。
桐山さんが辞書の意味を知った上も下もそんなこちらの付け足しみたいな
考慮など不要なんです。
我々の応供の如来に対する批判は二つあります。
一つはあなたも書いている通り、供養を受けるに相応しいという意味であり
供養に応えて「よーし、パパめいっぱい返しちゃうかんね」と取り引きなどを
意味しないというものです。
もう一つが応供も如来も仏の十号として同じ意味なんだからこういう使い方は
仏教の語法としておかしいというものです。
如来の応供と聞いたらなんか変でしょ?それと同じです。
山に登山、馬に乗馬、女の女性と言っているようなものです。
桐山さんがあくまでも自分が聴いた音声を誤りなく忠実に伝えたのではなく
概念から桐山さんが言葉を選んで付与して示したと言うのならば、そのニョライさんだか
オウグさんには失礼ながらも無知で恥をかかせたことになります。
信者さんなら桐山さんの作り話を信じてあげなさい。
- 564 :準シュダオン:2012/02/02(木)
10:15:36
- >我々の応供の如来に対する批判は二つあります。
>一つはあなたも書いている通り、供養を受けるに相応しいという意味であり
>供養に応えて「よーし、パパめいっぱい返しちゃうかんね」と取り引きなどを
>意味しないというものです。
それは解釈の間違いですね。阿含経を読めば、アラハンは、供養を功徳として
返してくださる力を持っているから、供養を受けるにふさわしい、のです。
それは経典に説かれています。
批判派は、阿羅漢が何で供養を受けるにふさわしいのか、その追求が弱い・不勉強
なのです。
- 565 :準シュダオン:2012/02/02(木)
10:21:19
- >我々の応供の如来に対する批判は二つあります。
>一つはあなたも書いている通り、供養を受けるに相応しいという意味であり
>供養に応えて「よーし、パパめいっぱい返しちゃうかんね」と取り引きなどを
>意味しないというものです。
取引はしないというんは、例えば、お金を供養して増やそうとしても、応供の如来
様は投資銀行ではないから、そういうさもしい根性供養には応えない、というもの
です。お導き行にしても、導いた手柄によって功徳を頂けるだろう、などと我欲が
先行したんでは、梵行ではないということです。
- 566 :準シュダオン:2012/02/02(木)
10:45:11
- >そして1979年の星まつりで現形の写真がとれた時も視覚的には写真でそれとわかったが
>何の為に?とのことで、護摩の時に写真を置いてお訊ねしてみた。
>すると下がった音声が「我は応供の如来なり。供養に応えて功徳を授けるぞ」です。
>これを忠実に示したわけです。
そのこと↑に全く異議はございません。私が言いたいのもそう↑です。但し、
「供養に応えて功徳を授けるぞ」と、言っても、取引をする、という意味では
ありません。だから、狂信すると、間違えてしまうのです。
ユビさんの、私に対するボン行の強制レスなどを読むと、何か狂信的だなぁ、
と思わざるを得ません。
昭和54年2月に応供如来の現形があり、翌年、インドのサヘト・マヘトで
思念の相承・聖なるバイブレーションで、東の国に新たなサエト・マヘトを
建立せよとの勅命を受けて、帰国後、最初の護摩を修して、パッと三供養品・
三善根が浮かんだわけでしょ。
つまり、「応供如来」と「聖なるバイブレーション・思念の相承」と、
「三供養品・三善根は」セットなのですね。
- 567 :準シュダオン:2012/02/02(木)
11:04:54
- >>3つでも書きすぎです。そんなこと、手柄みたいに書くもんじゃないよ。
>手柄にはなりませんよ。
>だって他のマトモな信者さんだったら他にいくつもやっていることだ。
>それをあなたもちゃんとやっているかを問い質しているわけで、よほどたくさん
>答えぬ限り手柄にすらなりません。
いいですか。ユビさんが、そういうことを知りたいのは、ボン行の量によって、
人を評価するという、さもしい根性があるから、書かせたいことなのです。
人を比較して、優劣をつけようという、卑しい根性があるからです。
3つでも書きすぎです。その3つを私が書いたとしたら、未熟だからです。
今や、一つだって書く気がありません。ボン行なんて、管長がいくつも具体的
な例を教えています。その中から、自分に出来ることをしたら良いのです。
- 568 :準シュダオン:2012/02/02(木)
11:22:06
- >>釈尊は、法を世に広める行だけで、阿那含までいけると説いてるのですよ。
>あれ?三善根(三福道)は供養プラス修行とあなたは書いてませんでしたか?
三善根は、供養プラス修行と説いたのは管長です。私はそれを紹介しただけです。
>布教だけでよいのですね?
布教だけでよい、とは書いてないでしょう。法を広めるだけで阿那含まで行ける
と、書いたのです。五戒品に「・受天上福得泥オン証 所謂広施也・」と、
あるでしょう(註・オンはシュダオンのオンという字、泥オン=涅槃でしょ)、
天上で涅槃を得るのだから、阿那含だろうと解釈したのです。
>その時その場でコロコロ意見変えますね。
意見は変えていませんよw。経典を変えてるだけです。
- 569 :準シュダオン:2012/02/02(木)
11:36:19
- >もちろんあなたが脳梗塞で倒れようが借金苦に苦しもうが、それを避けたいがために
>ボン行なんかする気はないという選択肢をとるのもあなたの自由です。
>大きなお世話だとでも言ってください。
ボン行しないとは書いてないよ。自分のペースでする、と書いてるのです。
しかし、ボン行の内容までは書かないとね、書くと愚か者は、それで人の
優劣をつけようとするからです。
我欲から、無理なボン行(真の梵行にはなっていない)をして、疲れ果て、
退会して悪口を書くよりは、
会費払って、5〜10分の勤行をして阿含宗報読んでるだけでも、ず〜と、
功徳はあるでしょうね。
- 570 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/02(木) 12:10:46
- >阿含経を読めば、アラハンは、供養を功徳として
返してくださる力を持っているから、供養を受けるにふさわしい、のです。
それは経典に説かれています。
これは密教的な桐山さんの解釈であって、初期仏典にはありません。
桐山さんは、「三身即一の応供の如来」?と規定していました。
その身は、まさに密教の法身仏という架空のホトケが、
写真におさまるために着飾り、真横のポーズまで披露してくれている。
桐山さんがその写真を見て、説一切有部のアビダルマで説かれたホトケを
これさいわいに引用し、つなぎ合わせて応供の如来物語りにしたのです。
三供養品の如来をでっち上げるために、シナリオを作り上げただけです。
- 571 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/02(木) 12:17:25
- >批判派は、阿羅漢が何で供養を受けるにふさわしいのか、その追求が弱い・不勉強
なのです。
伝えられる釈尊像は頭の毛を剃り、カシャーヤを身にまとっていた。
剃髪という当時の習いは、すべての虚飾を去る意味がありました。
カシャーヤは、インドで身分がいちばん低い者が身にまとう着衣です。
不可触民と言われた人達が、習俗として身に着けていたのです。
カシャーヤは、音訳され袈裟となり、糞掃衣と音写されています。
墓地に埋葬し捨てられた死体を包む白布が、猛獣や鳥に蝕まれ、
その散らばったものをつないで衣にしたものです。
死体から染み汚れた黄赤色を意味することばが、カシャーヤです。
- 572 :深山:2012/02/02(木)
12:18:28
- >>555 :Boo:2012/02/01(水)
16:07:26
>準シュダオンおよび桐山アゴン教学の解釈でも全く誤りとはいえないと思います。
私が>>520で引用した業の意味は仏教、特に釈迦仏教での使い方です。
ネット辞書には次のように載っています。
1
仏語。人間の身・口・意によって行われる善悪の行為。
2 前世の善悪の行為によって現世で受ける報い。「―が深い」「―をさらす」「―を滅する」
3
理性によって制御できない心の働き。
今日の日本では、業を行為という1の意味にとる人はまれで、
むしろほとんどが2の意味に使われます。
釈尊のいう業には、もちろん2の意味も含まれます。
しかし、それは1を前提とした話です。
1こそが最初に来て、2はその後に追加される意味です。
ところが、アゴン宗では1をまったく無視して、
2だけの意味に用いている。
これが仏教を知らない世間一般の人なら許されるでしょう。
しかし、仏教、特に阿含経を説くなら1の意味を無視して、
2だけを教義の中心に採用するなどオカルト以外の何ものでもない。
オカルトというよりも、無知であり、嘘です。
- 573 :深山:2012/02/02(木)
12:21:35
- 1 仏語。人間の身・口・意によって行われる善悪の行為。
2
前世の善悪の行為によって現世で受ける報い。「―が深い」「―をさらす」「―を滅する」
桐山さんは業を2の意味にだけに用いている。
こんな使い方をしたら、阿含経は理解できません。
「生れによって賎しい人となるのではない。生れによってバラモンとなるのではない。
行為によって賎しい人ともなり、行為によってバラモンともなる。」
(『ブッダのことば』中村元、31頁)
この経典の行為とは業のことです。
中村博士は業と訳したのでは誤解を招くから、行為と訳している。
桐山流にこれを直訳するなら、
「前世の悪因縁によって賎しい人ともなり、前世の悪因縁によってバラモンともなる」
などとなって、意味が通じないだけでなく、釈尊の主張とは
逆の意味になってしまいます。
八正道の一つに正業というのがあります。
これは、もちろん、「煩悩を出さない正しい行為」という意味ですが、
桐山流に、前世の行いの報い、という解釈をしたらどうなりますか。
「前世の善悪の行為によって現世で受ける正しい報い」??
意味不明です。
- 574 :深山:2012/02/02(木)
12:23:38
- 『祈りは天地を動かす』P.77〜78
「成仏法は、「因縁解脱」の法であって、業(カルマ)を断ち切る法なのです。
それは、個人とか、社会とか、そういう区別はないのです。
この世に存在するものすべて、天地自然、生物も人工物も、すべてのきはん
(きずな・制約・束縛)を断ち切る法なのです。人間だけに限ったものではない。」
桐山さんの業についての解釈は仏教や世間の解釈からも逸脱しています。
この桐山さんの記述を見ればわかるように、桐山説の業とは
この世の中のすべてわ動かす見えない力という意味です。
しかし、仏教の辞典、日本語の辞典、またインド思想を見ても、
こんな業の解釈はありません。
元々の業の意味は「人間の行為」(1の意味)ですから、そこから
「人間の行為の報い」(2の意味)が出てきても、人間を離れた業など、
どこにもない桐山珍説にすぎません。
- 575 :深山:2012/02/02(木)
12:26:13
- 桐山さん自身が業の元々の意味を知らず、世間で使われているような
2の意味だと思い込み、そこからお得意の空想を広げて、
この世の中は業が支配するなどと言い出したのでしょう。
こういう解釈を見ても、桐山さんが仏教の業ついて無知なのがよくわかります。
そして、桐山説の業のインチキの極みが、言うまでもなく因縁解脱です。
「大きい意味での解脱というのは、お釈迦さまに等しい完全解脱です。
具体的に言えば、カルマを断つ力を持つことです。
カルマを断った時に、初めて大解脱者になるのです。」
(『アゴン・マガジン』43号、2010年、10頁)
桐山さんは「因縁解脱=業解脱」だという。
因縁解脱など仏教にはないというだけでなく、仏教用語の意味を
無視した滅茶苦茶なオカルトです。
桐山さんチのオシャカは、この世の中を動かす力が業であり、
これを断ち切るのが解脱だと説いたという。
しかし、釈尊はこの世の中を動かすのが業だなどと説いていない。
業の意味は行為と、行為の報いという意味で、世の中を動かすなんて言っていない。
なによりも、業の報いを断ち切ることが解脱だなんて言っていません。
業を断ち切るのが解脱だと定義したのは、ジャイナ教、つまり外道です。
毎度反論しているように、業の報いを断ち切ることが解脱なら、
大目連はどうして異教徒に殺されたのかということになる。
- 576 :深山:2012/02/02(木)
12:29:25
- 1 仏語。人間の身・口・意によって行われる善悪の行為。
2
前世の善悪の行為によって現世で受ける報い。「―が深い」「―をさらす」「―を滅する」
仏教では、業の報いは必ず受けるとされている。
それを>>529さんが引用しています。
輪廻先まで追いかけてくるのです。
つまり、桐山さんの因縁切りや因縁解脱を仏教ではできないと
完全に否定しているのです。
こんなふうに桐山さんは業の意味を歪め、とんでもないオカルト解脱を説いている。
釈尊はできないと説いている業解脱を、釈尊が説いたとアゴン宗の
信者さんたちは信じている。
だから、彼らに元々の業の意味を理解するように説いているのです。
業を2の意味にだけ取ると、修行のあり方も間違ってしまう。
アゴン宗みたいに前世から業の報(悪因縁)を切れなんて、
できもしないアホウな教義を信じたら、とんでもない。
だが、業とは1の行為という意味であり、身口意の業を正すのが
仏道なのだと理解したら、何をするべきかがおのずとわかります。
過去の業の報いである悪因縁を切るなどというアホウな話ではなく、
今から自分の行為(業)を正す(四正勤)のが釈尊が説いた教法だと理解できる。
正しい行為とは、煩悩を捨てる行為です。
山の上で焚き火をして、祈りと称して欲望と執着と妄想を増やすことは、
煩悩を捨てる行為に反するから、するななんて言われなくてもやめる。
死後の状態は生前の行為(業)で決まると釈尊が説いたことを理解したら、
洋上で焚き火をするという愚かな行為(業)はしなくなる。
信者さんたちに業の意味を正確に理解してほしいから、
毎回、1を強調するのです。
- 577 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/02(木) 12:34:48
- >批判派は、阿羅漢が何で供養を受けるにふさわしいのか、その追求が弱い・不勉強
なのです。
釈尊は、その衣を着ることで差別の無い清浄行を世に示した。
道の人とは、まずそのように最低限の境地に身を置くことです。
その釈尊が入滅して王冠と宝石で着飾り、堕落した密教の
ホトケの変化身などと考えるのが、無知の証しです。
それは、桐山さんの想像による造りものでしかありません。
釈尊の出家することとは、世俗の名誉や利得をすべて捨てて、
社会の最低限の立場になることです。
その立場を貫いて清浄行の実践を説いたのです。
- 578 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/02(木) 12:36:16
- >批判派は、阿羅漢が何で供養を受けるにふさわしいのか、その追求が弱い・不勉強
なのです。
釈尊は、あるバラモンから出生を尋ねられ、その答えが、
「生まれを尋ねてはいけない、行いを尋ねなさい」です。
生まれでなく、行ないによって最高の自己浄化を求める姿を示した。
その釈尊と、桐山さんの想いから捻出された「応供の如来」を
比べれば、いかに両者が真逆でかけ離れているかが分かります。
釈尊の教えは、行いによって身をつつしむ自己浄化に励むことです。
世の人々が、その姿に尊敬し心からもてなしたことを「供養」という。
出家者が如来に供養する場合は、釈尊の清浄行を実践することです。
- 579 :準シュダオン:2012/02/02(木)
14:10:21
- >>ユビさんの言うとおり行動したら、ペースが乱れてろくなことない、
>>ことだけは解るのです。
>ペースなんて乱れたって崩れたっていいじゃないですか?
>毎週行けないこともたくさんある。
ペースが乱れたら大変でしょう。ユビさんみたいに生気を無くして
退会するかも知れない、そんで教団の悪口レスするようになったら、
最悪です。悪口を言う対象と関わると、自分の根性も悪くなるので
す。狂信すると、そういうことに成りかねないのです。
- 580 :準シュダオン:2012/02/02(木)
14:23:02
- >それならばアゴン宗なんかやめてしまえばよいではないですか?
>もう功徳は得たし。
功徳を得たと言っても、四沙門果の功徳に比べたらまだまだ小さな功徳です。
だから、やめられません。
>アゴン宗があなたの姿勢を否定しているのです。
>勘違いしないで下さいね。あなたの修行を修行じゃないと否定しているのは
>私らではなくアゴン宗です。
アゴン宗の教えを理解できなくて退会した人が、アゴン宗の代弁をしようと
しても無理な話です。
深山さんやラシンさんがレスしてますが、量が大なんでスルーします。
良さそうなレスがあったら(無いはずですが)、ポイントを絞って、
ユビさんなどが取り上げてください。
- 581 :準シュダオン:2012/02/02(木)
15:13:11
- >アゴン宗のことを何も知らないのですね。さすが幽霊会員。
>どこの教団のお方ですか?
>アゴン宗では逆に広施とか広宣という用語が普及していないのですよ。
先ほど、うろ憶えでレスしたら、五戒品の解釈を間違えていました。
広施の功徳、天上福得・天上の福を受ける、とは、必ずシュダオンに成ると
いう意味で、泥オン証とは必ず涅槃を得るという意味です、と管長は説明
していますね。
広施の語が普及していない、というんは、ユビさんの誤解か勉強不足です。
ダルマチャクラ・1994年1月号から、広施の行について、管長は詳しく
説いています。阿含宗の修行者を自認するなら、ユビさんも当然、広施の行
を意識しながらの修行でなくてはいけなかったでしょう。
ボンクラ修行の私でさえ、広施の語を意識していたのですからね。
>あなたよほどアゴン宗ボン行と言うのが言葉ごと大嫌いで否定したいのですね。
そういう偏見はよしてください。狂信ボン行は避ける、ということだけです。
- 582 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/02(木) 15:22:24
- >深山さんやラシンさんがレスしてますが、量が大なんでスルーします。
気にしないでください、レスを求めてのものではありません。
まして争論化するやり取りは、板の無駄な消費と考えています。
- 583 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/02(木) 21:35:07
- >>566:準シュダオン12/02/02(木) 10:45:11
>昭和54年2月に応供如来の現形があり、翌年、インドのサヘト・マヘトで
>思念の相承・聖なるバイブレーションで、東の国に新たなサエト・マヘトを
>建立せよとの勅命を受けて、帰国後、最初の護摩を修して、パッと三供養品・
>三善根が浮かんだわけでしょ。
>つまり、「応供如来」と「聖なるバイブレーション・思念の相承」と、
>「三供養品・三善根は」セットなのですね。
適当な記憶を不正確に繋げないで欲しい。
サヘトマヘトなどのインド仏跡ツアーで桐山さんはミラクルの池を示したが
バイブレーションの内容について、ラクノウのホテルにて自動書記が起きた後、
書き直したものの写真を転載して「1999年カルマと霊障からの脱出」のという著書に
したためて、公開したのが翌年1981年7月です。
これに先駆けて、4月頃神田の三省堂書店に寄った際、五島勉氏のノストラダムスの大予言の新刊本を
目にしてサヘトマヘトで受けた白銀のバイブレーションと共に襲った戦慄の恐怖
が再び襲ったという。そしてこの本を買って読み、その恐怖の正体は1999年に起こる
地球壊滅の危機であることを悟り、さらに今回の仏勅が、アーガマを説いたモンゴルの
王としてのアンゴルモアの大王による救いと関係あることを示したのです。
この一連の話に三供養品も三善根三福道も出て来ません。
三供養品が初めて著書として発表されるのが1984年の間脳思考です。
ただしその前に1981年から1982年にかけて例祭法話でアゴン経講義があり、
この時に三供養品も紹介されました。
この経典解説とサヘトマヘトの仏勅とは関係を示していません。
応供の如来との関連性は示して後になって示しています。
一応応供事件の前にも三供養品は読んでいたことにはしています。
当初三供養品を読んだが、これは応説経に書いてある三十七道品の修行をしない限り
解脱できないと書いてあることに矛盾する。
これは後世の大乗が混入したものとみなしていた。
ところが応供さんが現形したことによって、三供養品に説く如来の所とは
2500年前の釈尊その人ではなく、この未来に現れる応供さんを予言した経典
だったのかと解釈したわけです。
- 584 :干柿:2012/02/02(木)
22:02:37
- 30年すぎて阿含宗の主張する教義やら行法がどのようなものでどんな結果
がでたのか、もう明らかですね。
それなのにいまだに準シュダオンさんはぐだぐだとこんなインチキに
しがみついているのでしょうか?
仏勅などウソですよ。まずサヘトマヘト、ミラクルの池など実在しないし
東の国にうつした祇園精舎は、ただでかい建物がたっているだけで
解脱した聖者など一人も生まれてはいません。だいいち成仏法とやらの
修行など何もおしえていませんし(それで失望して夜逃げした専修学院の生徒もいますw)
あんなとこ(総本山)桐山ゲイカの虚栄心で立てたようなものです。
まず嘘ばっかり、いまだにこんなの信じ込んでいるのはアホか洗脳で頭がいかれたか
そんなもんですよ。
- 585 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/02(木) 23:03:40
- >>567:準シュダオン12/02/02(木) 11:04:54
>いいですか。ユビさんが、そういうことを知りたいのは、ボン行の量によって、
>人を評価するという、さもしい根性があるから、書かせたいことなのです。
>人を比較して、優劣をつけようという、卑しい根性があるからです。
>>569:準シュダオン12/02/02(木) 11:36:19
>ボン行しないとは書いてないよ。自分のペースでする、と書いてるのです。
>しかし、ボン行の内容までは書かないとね、書くと愚か者は、それで人の
>優劣をつけようとするからです。
ではボン行はやっているとのことですね。
具体的な内容や量、ペースについては都合が悪く書けないようですが。
ならばその自己申告は一応受け入れることにしましょう。
なぜならば我々の目的はアゴン宗批判にあり、一怠け信者の修行不足など相手に
する価値がないからです。
しかしこれだけは個別論ではなく一般論としても反論しておきましょう。
ボン行であれ何であれ一定の量こそが物を言います。
それは複数の人間が競い合う選抜試験ではなく、一定の基準学力のある者のみが
合格する資格試験のような話です。
選抜試験は誰かが受かる代わりに誰かが落ちる競争だが、資格試験は基準に達すれば
全員合格もするし、逆もまたあります。
その基準の学力とは点数という量の問題であり、マイペースが許される話ではない。
だから皆必死に受験勉強をする。
その受験勉強もまた時間という量が物を言います。
もちろん上へ行けば行くほど時間量より質が物を言うようになる。
しかし低いレベルにおいては一定基準の量をこなさないと勉強をしたことになりません。
受験生の息子に父親が質問する。
「おまえ受験勉強してるのか?」
「ちゃんとしてるよ」
「どれだけやってる?」
「月に1回はしないと仕方ないからするようにしている。下手に毎日やろうなんて
無理な計画を立てても挫折は目に見えている。ならば無理なく月に一度くらい
思い出した時にするならばやらないよりもマシだ」
この息子にお父さんは何と言うか?
「ならば学資を援助するのは打ち切ろう。自分で稼げ」
こんな勉強で受験に合格などするはずないからです。
- 586 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/02(木) 23:49:00
- >>569:準シュダオン12/02/02(木) 11:36:19
>ボン行しないとは書いてないよ。自分のペースでする、と書いてるのです。
ましてやアゴン宗のボン行とはホトケという相手から功徳をいただく為に
真心を捧げるものです。
感応道交を得るのです。ホトケに真心を尽くして働きかけ、ホトケをして感動
せしむるのです。
これを桐山さんはホトケを動かすと表現しています。
だからマイペースで無理のないことをチンタラやっていてはホトケも感応してくれない。
こちらが努力を惜しまないからホトケも力を加えてくれることを惜しまないわけです。
桐山さんは無理のない範囲で無理をせよ、背伸びをせよと説いている。
そうしないとホトケが動いてくれないからです。
桐山さんは朔日護摩の法話で各界の成功者の努力の体験を紹介しています。
いずれも失意のどん底、苦境を克服して成功するために、血の小便が出るくらいの
努力をしてきた人たちのその努力の必要性の話です。
あなた血の小便出たことありますか?と、そのくらい努力しないと駄目なんだと
信者さんに向かって説いているのです。
これを否定してマイペースが一番と言うのですか?
あなた自身が個別にマイペースであっても私はそんな人をいちいち相手にして
いじめません。しかし自分のマイペースを正当化する発言は桐山さんの指導に
反逆して邪魔していることになると注意しているのです。
桐山ボン行でなくても世の中万事「継続は力なり」こそ真実です。
あなたはこれを否定するか?
つまり努力する者こそ報われるという健全な考えです。
あなたはこれを否定するのか?
- 587 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/03(金) 00:06:38
- >>581:準シュダオン12/02/02(木) 15:13:11
>広施の語が普及していない、というんは、ユビさんの誤解か勉強不足です。
>ダルマチャクラ・1994年1月号から、広施の行について、管長は詳しく
>説いています。阿含宗の修行者を自認するなら、ユビさんも当然、広施の行
>を意識しながらの修行でなくてはいけなかったでしょう。
私が言う普及しているしていないと言うのは広施という用語を一度も使ったことが
ないということではありません。
使う頻度の問題です。
圧倒的にボン行の方が多い。
チラシ撒き、施本、護摩木勧進は広施の行であることは間違いありません。
しかし広施の行こそがアゴン宗ボン行の最たるものとされていることを示したのです。
護摩木勧進はボン行に相当しないなんて言う信者はいない。
ところがあなたのおかしな反応は、私が護摩木勧進などをボン行と表現したことに
反対して、ボン行ではなく広施の行であるとつっかかってきたのです。
- 588 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/03(金) 00:26:15
- >>580:準シュダオン12/02/02(木) 14:23:02
>深山さんやラシンさんがレスしてますが、量が大なんでスルーします。
>良さそうなレスがあったら(無いはずですが)、ポイントを絞って、
>ユビさんなどが取り上げてください。
それならばあなたのリクエストとは逆に、私の方こそ今後あなたの書き込みには
スルーすることをそろそろ考えています。
私はあなたを説得して同意を得る気などさらさらなく、ただロム者に判断いただこう
という意味でレスをつけていたのだが、それにしてもあなたの反応は少しも進歩
することなく堂々巡りです。
このつまらない芝居を続けることがロム者の支持を得るとは考えられなくなったのです。
>>582でラシンさんが書いている通りにスレの無駄遣いです。
あなたの存在価値がなくなった。
だからあなたとの漫才コンビの解消を宣言したい。
老人介護から引退します。
あなたがここに書くことは自由です。
私はあなたに対していかなる規制などを駆使してでも強制的に追い出すことには
大反対で、それだけは保証したい。
しかし何を書いてもレスはつけない。
あなたも相手にして欲しかったらそれこそ自分の努力で深山さんでもラシンさんでも
長文読んでレスでもつけたらいかがですか?
さらにレスが返ってくるかわかりませんが。
しかし私がこのスレを引退することではない。
私は私なりに擁護側信者が他にいなくても、せっかく中巻が出たのだから
こういうものを題材に批判を論じていくことも考えています。
それに対してあなたなどが、中巻を読んだ上で当を得たタイムリーな反論を
してくれれば、そのレスに対してはレスをするかもしれない。
内容に価値がなければスルーします。
- 589 :Boo:2012/02/03(金)
01:37:57
- おいおい、準シュダオンさんは深山さんの「カルマ」に関する記述くらい読んだほうが
よいと思うよ。
- 590 :準シュダオン:2012/02/03(金)
09:36:30
- >それならばあなたのリクエストとは逆に、私の方こそ今後あなたの書き込みには
>スルーすることをそろそろ考えています。
いいですよ。個人の自由です。
>私はあなたを説得して同意を得る気などさらさらなく、ただロム者に判断いただこう
>という意味でレスをつけていたのだが、それにしてもあなたの反応は少しも進歩
>することなく堂々巡りです。
堂堂巡りは、あなたや深山さんの方です。例えば、預流向の聖者問題です。
私が、何度もしつこく、「管長は、預流向を聖者に含めておらず、預流果からを
聖者にしている」とレスし、説明してもユビさんや深山さんには無駄だった。
「輪廻する葦」「間脳思考」その他の著書でも、普通の頭で読めば、預流向が聖者
に含まれないことが理解できるものを、ユビさんや深山さんは理解できない。
その原因は、我見が強いからです。
結局、「仏陀の真実の教えを説く・中」本の、「須陀オンになった人は聖者で、
須陀オンになっていない人は凡夫です」という、P142の記述を読むまでは
理解できなかったのですね。
「Aさんは男性です」と言えば、普通のレベルの人は、「Aさんは女性ではない」
と理解できるものです。
しかし、深山さんのレベルになると、「Aさんは男性だ、とは書いてるが女性で
はないとは書いてない。だから女性かも知れない」というような論法です。
呆れ果てて、私は負けました。
- 591 :準シュダオン:2012/02/03(金)
09:40:59
- >おいおい、準シュダオンさんは深山さんの「カルマ」に関する記述くらい読んだほうが
>よいと思うよ。
深山さんの文は長いので、あなたが要点を要約して、書いてくださいよ。
- 592 :準シュダオン:2012/02/03(金)
09:51:20
- >私は私なりに擁護側信者が他にいなくても、せっかく中巻が出たのだから
>こういうものを題材に批判を論じていくことも考えています。
>それに対してあなたなどが、中巻を読んだ上で当を得たタイムリーな反論を
>してくれれば、そのレスに対してはレスをするかもしれない。
中巻は手に入れてますが、ごく一部しか読んでいません。
中巻のP93に、三善根を三福道と命名した理由が書かれていますね。
無貪瞋痴の三善根と混同するからだ、との理由です。
全く正解で、そのとおりですね。批判派の皆さんは混同しています。
私は、三善根でも三福道でも三功徳法でも混同せず、同じ意味にとりますけどね。
- 593 :準シュダオン:2012/02/03(金)
09:56:47
- >反対して、ボン行ではなく広施の行であるとつっかかってきたのです。
いや、広施の行というボン行である、と言いたかったのです。
- 594 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/03(金) 11:44:04
- >アゴン宗の教えを理解できなくて退会した人が、アゴン宗の代弁をしようと
しても無理な話です。
アゴン宗の根幹教義は、三供養品に由来しています。
桐山さんの「三供養品の如来」とは、密教の五智宝冠をつけた
架空のホトケということになる。
桐山さんは物書きを自負していたから、著述を得意とし、
多くの書籍を残した。
逆に言えば、あとから台本をつくる芸当で「三供養品の如来」の
物語りを書きあげた。
ユビキタスさんが、>>583でその芸当ぶりを時系列で検証しています。
書いたものは残るから、ウソや矛盾を指摘される好例です。
「三供養品の如来」物語は、あとからつじつまを合わせたものです。
それが、アゴン宗教義の根幹をなしている。
- 595 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/03(金) 11:46:40
- >アゴン宗の教えを理解できなくて退会した人が、アゴン宗の代弁をしようと
しても無理な話です。
桐山さんは、密教界が様式化され形骸化されていると非難したが、
その形にいちばんこだわり、形を取り入れているのが桐山さんです。
密教界から追放されたとか、自分からおさらばしたなどと言いながら、
アゴン宗を立宗したあとも、密教の権威や形にこだわり続けている。
桐山さんは、護摩を焚く時にジョウブツリキがいちばん発揮される、
と述べています。
禁止された護摩を救済という名目ならば許される、との解釈です。
釈尊がジョウブツリキを発揮したしことも、仏典にはありません。
釈尊は、説法によって人々に自己浄化の価値を示し実践する功徳を説いた。
- 596 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/03(金) 11:48:44
- >アゴン宗の教えを理解できなくて退会した人が、アゴン宗の代弁をしようと
しても無理な話です。
桐山さんが、密教を手放さず手段に用いているには理由があるようです。
それは、密教にある権威主義とご利益信仰です。
桐山さんは密教が様式化され形骸化している、
と非難し阿含経を選択した。
そのわりには、密教の中身(権威とご利益)を手段にしています。
桐山さんは、密教の権威で身を飾り立てて信者に君臨している。
桐山さんは、密教のご利益をそっくり頂いて信者に売りつけている。
それをアゴン経という包装紙でキレイにつつんで世の目を欺いています。
梱包を開けて出てくる中身は、密教の「ご利益」ばかりです。
- 597 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/03(金) 11:50:25
- >アゴン宗の教えを理解できなくて退会した人が、アゴン宗の代弁をしようと
しても無理な話です。
調伏法ちょうぶくほう[(梵)abbica・rika」五大明王等の法を修して,
悪人除去,魔障怨敵の摧破を祈る護摩法。その原型は古くアタルヴァ・ヴェーダ
中にも見出され,息災・増益等の数種の内,調伏法は最も期限が古い。
(密教辞典/法蔵館
調伏法頁から抜粋)
−スッタニパータ−
〔仏教とは、呪術的な儀式のしきたりを記した〕アタルヴァ・ヴェーダの
呪法と夢占いと相の占いと星占いとを用いてはならない。
鳥獣の声〔を占うこと〕、〔呪術的な〕懐妊術や医術を信奉して、
従ったりしてはならない。
信者さんは、「法」という尊い教えを伝授されていると信じている。
しかしそのアゴンの「法」こそが、すべて卑しい「ご利益」です。
それが、上記にある内容と>>459に釈尊が戒めた呪術のことがらです。
アゴン宗の法と名のつくものは、釈尊から禁止された内容以外のものは、
何一つありません。
あると言うなら、飲酒は戒められているがタバコは戒にないからと、
堂々と喫煙している南方の僧侶と変わりません。
- 598 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/03(金) 11:55:54
- >アゴン宗の教えを理解できなくて退会した人が、アゴン宗の代弁をしようと
しても無理な話です。
たとえば「独鈷の加持」は、卑しい悪霊祓いの呪術、「屋敷浄霊」は、
家を建てる土地の相の判断という邪悪な生活手段であり、
「密教占星術」は、星占いや諸種の運命判断という卑しい術であり、
「如意輪法」とは、物質的願望と精神的願望のシンボルですから、
卑しい術によって生活(伝法で金を得る教団運営)を営んでいることです。
金胎・護摩法すべてがその枠組みに入ります。
煩悩をよびおこすいかなる法も、それで布施を得たなら、
釈尊が禁止した「信者から与えられた施しの食物を食べて〔生活しながら〕
卑しい術、邪悪な生活手段によって生活を営んでいる」ことです。
密教の法は、煩悩を調伏するはずが、桐山さんはその堕落した部分を
見逃さずに、世俗的願望を達成する手段に持ち変えています。
- 599 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/03(金) 11:57:05
- >アゴン宗の教えを理解できなくて退会した人が、アゴン宗の代弁をしようと
しても無理な話です。
桐山さんが教義を説く著書も、過去の焼き直しと他人のものを
剽窃し混成した内容がほとんどです。
桐山さんは、長いあいだ修法を弟子にまかせホウワもろくにできていない。
釈尊は、臨終のまぎわまでスバッダの懇請を受け説法し帰依させたのです。
スバッダは、釈尊の最後の直弟子となりました。
また、
仏典に関して多くの書籍を残し、学会に深く寄与された中村元博士は、
亡くなられるこん睡状態のなかで、約45分間もの講義をされたそうです。
付き添った訪問看護士さんが、その様子を夫人に報告した内容は、
まるで東方学院での講義そのままであったというのですから、
最後まで仏典講義に心を駆け巡らせていたのでしょう。
桐山さんは自身の著書に、釈尊をえがき、中村博士文をよく引用しています。
信者さんなら、この三者三様の「行い」をよく考えていただきたい。
- 600 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/03(金) 12:20:03
- >結局、「仏陀の真実の教えを説く・中」本の、「須陀オンになった人は聖者で、
須陀オンになっていない人は凡夫です」という、P142の記述を読むまでは
理解できなかったのですね。
批判は、桐山預流説についての断定は(中)巻以前において一度もしていない。
桐山さんの預流説は、(中)巻以前まで曖昧でどちらにも解釈できる内容です。
そして桐山預流説は、仏典においてまちがった解釈です。
- 601 :深山:2012/02/03(金)
12:35:59
- >>580:準シュダオン12/02/02(木) 14:23:02
>深山さんやラシンさんがレスしてますが、量が大なんでスルーします。
毎回断らなくてもいいですよ。
あなたは読んで理解できるだけの知性は残っていないのは、
今回のラシンさんへのレスを見てもよくわかるし、
理解できる部分があっても記憶できないから、どちらにしろ何も残らない。
他人の文章どころか、自分が書いたことも忘れている。
嘘やデタラメな主張をしてあざ笑われたことも忘れている。
元々恥の概念が薄く、さらにアゴン宗の信仰によって恥を捨ててしまっているから、
何をどう書かれても何も感じず、「ww」と人を小馬鹿にしているくらい、
とてもお幸せな状態であることは良く知っています。
あなたにレスをつける形を取って、知性の残っている信者さんたちに
呼びかけているだけで、私はあなたにレスなんかつけていない。
あなたが読まない、記憶しないおかげで、毎回、こうやって
信者さんたちへの話題に事欠かない。
普通の信者に対しては、あまりきつく批判するのは気が引けるが、
あなたは違う。
あなたをからかい、あざ笑っても、あなたは読まないのだから、
傷つくこともないから、私も気を使わずに済む。
うっかり私の批判を読んで傷ついても、あなたは三秒で忘れるから、
傷が残ることもない。
- 602 :深山:2012/02/03(金)
12:41:32
- >>580:準シュダオン12/02/02(木) 14:23:02
>深山さんやラシンさんがレスしてますが、量が大なんでスルーします。
この文章すらも準シュダオンさんに書いているのではなく、
読者の笑いを取るためのものです。
あなたはご存じないようだが、漫才とは、相方にではなく、
会場にいる聴衆に向かって話をしているのです。
しかし、>>588でユビキタスさんすらも「老人介護」には
ウンザリして、放棄したいと言い出している。
今後、批判側は、ちょうど私のように、あなたにレスを付ける形をとりながら、
実際にはあなたとの会話ではなく、読んでいる他の信者さんのために
書くという形をとるかもしれない。
あなたは暇を持て余し、ここに書き続けるだろうが、
批判側とは会話すら成り立たなくなるから、独り言です。
会社を辞めて社会とのつながりがなくなり、道場に行っても、
誰も相手にしてくれないし、近所との付き合いもない。
唯一と言ってもいいくらいの知的な会話のできるこのスレも、
批判側は誰も相手にしなくなりそうな雰囲気です。
あなたはただ同じような独り言を繰り返すことになる。
準シュダオンさんは現役時代から、常に孤立していたが、
それでも勤めていたから社会とのつながりがあったのに、それがなくなり、
唯一残ったこのスレでの対話もなくなる。
自業自得とはいえ、寂しい人生ですね。
- 603 :深山:2012/02/03(金)
12:46:16
- >>580:準シュダオン12/02/02(木) 14:23:02
>深山さんやラシンさんがレスしてますが、量が大なんでスルーします。
私は、準シュダオンさんは絶対にアゴン宗を辞めるべきではないと思っている。
一つにはアゴン宗までやめたら、あなたは実社会とのつながりがゼロになってしまう。
これは老人にとってとても危険なことです。
また、うっかりやめて批判側になど来られた、大迷惑だからです。
金輪際、絶対にそんなことはしないでください。
準シュダオンさんは仕事もなく、ここしかないのだから、
その駄文を批判側の立場で書かれたら、批判の信用は地に落ちる。
準シュダオンさんのアゴン宗批判の文章を読んだ信者さんたちは
「批判側とは、ろくにアゴン宗の教義も知らず、仏教も知らず、
勝手な解釈でこんなアホウな批判をしているのか」などと誤解する。
前のあなたの職場がそうであるように、あなたに批判側に来られては大迷惑です。
くれぐれも、絶対に、決して、アゴン宗を辞めずに、今のその他人を
侮った態度と口調で、頭に妄想、額に恥知らず、鼻先に慢心をぶら下げ、
口からは嘘と思いつきを垂れ流しにして、桐山さんの顔に泥を塗り続けてください。
それがあなたの選んだ役割です。
- 604 :深山:2012/02/03(金)
12:52:27
- >>580:準シュダオン12/02/02(木) 14:23:02
>深山さんやラシンさんがレスしてますが、量が大なんでスルーします。
あなたは神通力を獲得して、阿那含になったと思いこんでいるようだが、
一つだけ体得してはならない神通力がある。
他心通です。
これは他人の心の中が手にとるようにわかるという神通力です。
これだけは準シュダオンさんは決して体得してはならない。
これを体得したら、周囲があなたのことをどれほど小馬鹿にしているか、
どれほど軽蔑しているか、どれほど嫌っているか、わかってしまう。
あなたほどに他人から嫌悪と侮蔑を受け、邪魔者扱いされたら、
普通の人ならいたたまれない。
自殺を考えるほどでしょう。
幸い、あなたは厚かましく、図太い人間だが、それでも彼らの本心を
知ったら、かなりのショックを受ける。
前の職場だけでなく、県庁にいた時、周囲が自分のことを
どうみなしているかを他心通で知ったら、もうどうしようもない。
まるであなたの人生は人に嫌われるための人生、邪魔者扱いされただけの
人生のようであり、それがまた事実です。
あなたの人間としての向上のためには本当はそれを知ることは必要だと
思うが、その頭の固さからみても現実と向き合うのはもう無理でしょう。
だから、くれぐれも他心通だけは体得してはなりません
- 605 :深山:2012/02/03(金)
12:56:21
- >>590 :準シュダオン:2012/02/03(金) 09:36:30
>私が、何度もしつこく、「管長は、預流向を聖者に含めておらず、預流果からを
>聖者にしている」とレスし、説明してもユビさんや深山さんには無駄だった。
それに対して、私が何度も、桐山さんの「外道凡夫ではない」という
文章を引用して、また、『人間改造の原理と方法』の文章を引用して、
桐山さんは「預流向=聖者」ととれる発言をしているのを示したが、
準シュダオンさんには無駄だった。
桐山さんはこの件についてはたった2カ所でしか記述していないから、
どちらとも取れる状態であり、あなたの説も、私の説も確定はしていないと、
何度書いても、あなたは絶対に受け入れず、自分の解釈こそが正しいと言い続けた。
相手の説や反論を「読まない」と称して無視して、どこまでも自説を唱え、
根拠のない自分の説を受け入れろとごり押しする。
あなたみたいな人を老害というのです。
- 606 :深山:2012/02/03(金)
13:00:32
- >>590 :準シュダオン:2012/02/03(金) 09:36:30
>結局、「仏陀の真実の教えを説く・中」本の、「須陀オンになった人は聖者で、
>須陀オンになっていない人は凡夫です」という、P142の記述を読むまでは
>理解できなかったのですね。
相変わらず、あなたも四沙門果と四向四果をごちゃ混ぜにしている。
両者は同じ内容を別な観点から述べているのだから、
一緒にしてはならないのです。
区別して議論しないと、かつての私と同じような間違いをする。
だが、あなたは私が自分の間違いを丁寧に解説し、説明しても、
何も学ぼうとせず、自己流の解釈を延々と繰り返すばかりで、
相変わらず、四沙門果と四向四果をごちゃ混ぜにしている。
両者を一緒にしてはならないといくら説明されても、
あなたのそのマダラ脳では理解できない。
あなたが上記に取り上げた桐山さんの説明は四沙門果の説明です。
四沙門果の中に預流向はないから、桐山さんの四沙門果の
説明には預流向は含まれない。
四沙門果の中には「向」はないから、「向」の根拠にはならない。
これを何度説明されてもあなたはわからない。
- 607 :深山:2012/02/03(金)
13:03:30
- 「四向四果・・・四沙門果から発展したもので、原始仏教やアビダルマ仏教において
最高の悟りの境地とされる阿羅漢果に至る聖者の階位。」
(『佛教大辞典』小学館、379頁)
「四向四果・・・聖者の四つの位」
(『佛教語大辞典』中村元、512頁)
読んでいる信者さんたちのためにも再度説明しましょう。
まず上記の四向四果(=四双八輩)の定義を良く見てください。
ごらんように、四向四果はすべて聖者です。
だから、「預流向=聖者」です。
釈尊も阿含経の中で四向四果が聖者であると述べています。
「四向四果・・・預流向・預流果,一来向・一来果,不還向・不還果,阿羅漢向・阿羅漢果」
また、もう一つ気をつけてほしいのは、四向四果とは
八つの聖者の位階ではなく、四つだという点です。
つまり、「向」と「果」が一つの組の聖者です。
だから、預流果が聖者なら、預流向は当然聖者です。
準シュダオンさんの説のように、預流果は聖者だが、
預流向は聖者でないなどという説は、この点からみても成り立ちません。
準シュダオンさんの珍説が正しいなら、夫は夫婦だが、妻は夫婦ではないことになる。
この馬鹿げた珍説を彼は延々と繰り返している。
頑迷な老人は放置して、次に、四向四果と四沙門果の違いについて説明します。
- 608 :深山:2012/02/03(金)
13:07:30
- 「四沙門果・・・預流、斯陀含、阿那含、阿羅漢」
「四向四果・・・預流向・預流果,一来向・一来果,不還向・不還果,阿羅漢向・阿羅漢果」
ここで、「預流=預流果、斯陀含=斯陀含果、不還=不還果、阿羅漢=阿羅漢果」
ですから、両者が同じ内容を指していることは言うまでもありません。
しかし、気をつけなければならないのは、四沙門果の中には「向」が入っていない点です。
四向四果は四沙門果を包括しているが、四沙門果には四向四果を包括していない。
だから、四沙門果の分類や説明を元にして「向」について議論するのは間違いです。
四沙門果の分類において「預流からが聖者である」という表現は正しい。
そうすると、準シュダオンさんのような老人脳は、
「預流とは預流果なのだから、預流果からが聖者だというなら、
それよりも前の預流向は聖者でない」と短絡する。
お気づきのように、彼は四沙門果と四向四果の区別がつかないから、
両者をごちゃ混ぜにして話をするのです。
- 609 :深山:2012/02/03(金)
13:10:25
- 「四沙門果・・・預流、斯陀含、阿那含、阿羅漢」
「四向四果・・・預流向・預流果,一来向・一来果,不還向・不還果,阿羅漢向・阿羅漢果」
四沙門果の分類において「預流からが聖者である」という表現は正しく、
四向四果の分類において「預流向からが聖者である」という表現も正しい。
どちらも正しいのです。
なぜなら、四沙門果の中には預流向は入っていない。
元々、四沙門果では「向」は考察の対象外です。
四沙門果の立場から見たら、世間には、
「凡夫、預流、斯陀含、阿那含、阿羅漢」
がいることになる。
だから、「預流からが聖者である」となる。
ところが、四向四果の立場からみたら、世間を構成しているのは、
「凡夫、預流向・預流果,一来向・一来果,不還向・不還果,阿羅漢向・阿羅漢果」
となるのです。
だから、「預流向からが聖者である」となるのです。
どちらも正しいが、両者を一緒にしてはなりません。
- 610 :深山:2012/02/03(金)
13:13:08
- 四沙門果から見た人間の分類
「凡夫、預流、斯陀含、阿那含、阿羅漢」
四向四果から見た人間の分類
「凡夫、預流向・預流果,一来向・一来果,不還向・不還果,阿羅漢向・阿羅漢果」
信者さんたちにもう一つ知ってほしいのは、
釈尊はこの世の中の人たちを凡夫と聖者の2種類に分けていることです。
彼が分類したのはこれだけです。
極めて単純明瞭な分類で、仏道を歩まない者を凡夫、
仏道を歩む者を聖者とした。
信者さんたちは、聖者とは特別な修行をした境涯の高い人のことだと思いこんでいる。
一般世間でもそういう概念だし、桐山さんからそのように教え込まされているからです。
だが、釈尊はそんな分類はしていない。
もっと言うなら、そんなケチ臭い分類はしない。
- 611 :深山:2012/02/03(金)
13:15:08
- 釈尊は仏道を歩む者は、今日出家した新米比丘でも聖者と見なしたのです。
この意味では、仏教に帰依した在家も全員が聖者です。
とてもわかりやすいと思いませんか。
桐山さんみたいに、やれ賢者だの聖者だの、オーラが何色かなんて
訳のわからん分類ではなく、仏道を歩む者とそうでない者を区別しただけです。
だから、桐山さんが引用している「外道凡夫」は「外道と凡夫」と
いう意味だが、釈尊の教法を信じようとせず、あるいは外道を信じている人たちのことです。
釈尊は区分の線をたった一本しか引かなかった。
釈尊は、どこかの教祖様みたいに位階を切り売りして商売をした人ではなかったからです。
- 612 :深山:2012/02/03(金)
13:21:34
- 昨日出家したばかりの新米の比丘でも、応供です。
応供とは、桐山さんの説みたいに「供養に応える」ではなく、
「供養に値する」という意味です。
タダ飯を食う物乞ではなく、煩悩を捨てるという清浄な行いをする者は
すべて供養に値する。
だから、普通応供とは如来の十号として使われるが、
実際には、預流向も応供です。
当たり前ですよね。
昨日出家したばかりでも、飯を食わないわけにはいかない。
如来にだけ食事を供養して、新米比丘にはやらないというわけにはいかない。
清浄な修行をする者はすべて供養に値するのです。
彼らは清浄な行をする人たちだから、こういう人たちに供養するのは、
大きな善行で、大きな功徳となる。
だから、聖者への供養には功徳があります。
しかし、ここで気をつけなければならないことがある。
- 613 :深山:2012/02/03(金)
13:25:37
- 供養する相手は、聖なる修行をしている者であることです。
骨や火に金や人を供養しても何にもならない。
誰の遺骨だろうが、何を燃やそうが、あれのどこが清浄なのですか。
仏教の清浄とは煩悩から解放されている状態を指します。
信者さんたちが信じているような霊的浄化などではない。
骨や火がどのように煩悩から解放されているのだ?
こんな物に供養しても何の意味もない。
善行ではないから、何の功徳もありません。
また、もう一つ気をつけなければならないのは、比丘に供養して得られる功徳とは
来世において世俗的な功徳となって返ってくるものである点です。
信者さんたちは、今の人生において解脱の功徳となって返ってくると信じている。
だが、釈尊はそんなことは説いていません。
清浄の比丘に供養することは大きな功徳になるが、それらは来世で
金持ちや健康になるなど世俗的な功徳であり、解脱とは何の関係もない。
本物の如来に供養しても、その功徳で預流向にすらなれません。
アゴン宗のどこにも清浄な比丘などおらず、俗物ばかりの教団に
供養しても何の功徳にもならない。
そればかりか、インチキ宗教の手伝いなのだから、来世において
この悪業の報いを受けるだけです。
- 614 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/03(金) 15:14:52
- >アゴン宗の教えを理解できなくて退会した人が、アゴン宗の代弁をしようと
しても無理な話です。
桐山さんは、密教の権威を利用しています。
一番わかりやすい例は、
信者にアジャリ様三礼をさせるときです。
桐山さんは、金箔入りの七條袈裟を着けて太鼓とともに登場します。
>>571>>577-578に書いたとおり、釈尊の着衣は社会の最底辺に身をおく
人々とおなじものを着用していたのです。
その意味は、その衣を着ることで差別の無い清浄行を世に示すことです。
しかし、
銀髪の桐山さんは、手には中啓をもち、威風堂々とお出ましになる。
インド時代の剃髪は、すべての虚飾を去る意味がありました。
おなじく中啓は、修行者の暑さをしのぐためや、
払子と同じく、虫などを殺さないための団扇のような役割でした。
しかし密教では、すべて権威付けの道具として使われています。
- 615 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/03(金) 15:15:48
- >アゴン宗の教えを理解できなくて退会した人が、アゴン宗の代弁をしようと
しても無理な話です。
桐山さんが登壇し、うやうやしく三礼して磬を鳴らし散状を振るう諸式は、
密教がバラモンから取り入れた、生けにえの儀式の亜流の亜流です。
信者さんは、柄香炉(えごうろ)を掲げて表白する桐山さんの声や、
もったいづけた所作に憧憬を抱いたはずだが、今はどうなのか不明です。
過去に見た先達が、入堂作法や修法で指弾したりする姿はミニ桐山です。
桐山さんが、中村博士によって釈尊の人となりを知っているなら、
なぜこのような権威的になっている様式を見習うのか。
桐山さんは、密教界を批判しながら密教の様式は上手に利用している。
- 616 :準シュダオン:2012/02/03(金)
17:09:31
- >おいおい、準シュダオンさんは深山さんの「カルマ」に関する記述くらい読んだほうが
>よいと思うよ。
だから、BOOさんがその要点をまとめてくれ、ての。相変わらず深山さんは
膨大なレスをしてます。読む気が失せてしまうw。いくら焼肉が好きな人
でも、30キロくらい一度に出されたらうんざりするでしょう。
あのスレ量は、我見、慢、の現われそのものです。読む人の立場なんて、
少しも考えていないね、押し売りですよ。
「カルマ」って、学者先生の解説そのままならいらないよ。そんなの、
ある程度は私も読んでるからね。自分なりの体験を元にした、管長の
カルマ論の批判なら、聞いてもいいけど、辞典などのカルマ論ならい
らない。
惑→業・カルマ→苦、という円環において、将来受けるべき○○苦が
決まっている、というのが、私の体験上のカルマ論でね、管長の教え
は正しいと思うね。イエスは、弟子のペテロに、「お前は、夜明けま
でに三度私を知らないと言う」と、予言したら、そうなったでしょ。
釈尊は善宿に、「彼の裸行者は7日後に腹が膨れて死ぬ」と、予言し
たらそうなった。
そのように、過去の業によって運命は決まっている、というのが私の
体験上の考えね。体験が無ければ、イエスのお話も釈尊のお話しも作
り話だろ、と考えますけどね。そんで、7日後に腹が膨れて死ぬ運命
は変えられないけれども、7年後の腹が膨れて死ぬ運命なら、仏道修
行で変えられる、というのが阿含経の説くところだと思うね。
やっぱ、言葉の研究だけしてても、阿含経は読み解けないと思うよ。
釈尊は、国語の講義をしてる訳ではないし、国語的解釈では真意は
解らないと思うね。
- 617 :無関係な人間です:2012/02/04(土) 10:55:56
- >>616
準シュダオン 様
深山さんの文章の量が多いと言っても、書籍の量とは比較にならないぐらいの
少なさです。また、内容が特に難解だとも思いません。私は宗教学を専門に学んだ
人間ではないですが、普通に理解できました。
そういう文章も読めない人が、釈尊の教義について説教をしても、説得力がないと
思います。
また、準シュダオン様あてに書かれた文章ですから、先ずは読む努力をして、その上
で理解できない点は具体的に質問をするのが礼儀だと思います。
他人に要約しろ、というのは、すこし身勝手だと思います。
私はそんな事を思っていませんが、これでは阿含宗の信徒は、桐山さんに洗脳された
愚か者で、欲と見栄という人参をぶら下げられ、「正しい釈迦の教え」という根拠の
ない作り話にすがりつく狂信者である、と誤解されると思います。
もう少し真面目な態度で対応されたほうが良いと思います。
- 618 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/04(土) 10:59:01
- >>568:準シュダオン12/02/02(木) 11:22:06
>布教だけでよい、とは書いてないでしょう。法を広めるだけで阿那含まで行ける
>と、書いたのです。五戒品に「・受天上福得泥オン証 所謂広施也・」と、
>あるでしょう(註・オンはシュダオンのオンという字、泥オン=涅槃でしょ)、
>天上で涅槃を得るのだから、阿那含だろうと解釈したのです。
>>581:準シュダオン12/02/02(木) 15:13:11
>先ほど、うろ憶えでレスしたら、五戒品の解釈を間違えていました。
>広施の功徳、天上福得・天上の福を受ける、とは、必ずシュダオンに成ると
>いう意味で、泥オン証とは必ず涅槃を得るという意味です、と管長は説明
>していますね。
>ダルマチャクラ・1994年1月号から、広施の行について、管長は詳しく
>説いています。
ダルマチャクラなど掘り出さなくても今回の「仏陀の真実の教えを説く(中)」に
増一阿含経五戒品と有無品がセットで掲載されています。三供養品解説の前の章です。
大意はこうです。釈尊が祇園精舎にて説法をするのだが、ここに集う衆で誰も
やっていない一法がある。それをすれば人間界の福と天上界の福を得、さらに涅槃の証を得る。
その一法とは広施である。広く布施を行うことにより慳心を離れる。
皆釈尊の説法を聴いて歓喜した。
さらに桐山さんは有無品にて施には二つあり法施>財施とすることを解説します。
この2つの経典を組み合わせて解釈すると、法を広めることにより成仏に向かう
ということになる。そしてこれは大乗のもとになった経典としました。
事実大乗では日蓮などが法華経を広めることが成仏の条件として折伏という
徹底攻撃的な布教をする。
では大乗は正しいのかと言うと、法華経だの創作経典を依拠としているのだから
正しくない。逆に言うと阿含経ならば、広施により涅槃に行けることを認めた
ように示しています。
そしてアゴン宗で行っている護摩木勧進にしても、お導きにしてもこの広施に
当たるのであると桐山さんは結論つけた。
さて準シュダオンさん以外の皆さんに質問します。
この通り釈尊は教えを広めるだけで涅槃に行けるのだと説いたのだと思いますか?
- 619 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/04(土) 13:53:39
- >>581:準シュダオン12/02/02(木) 15:13:11
>広施の功徳、天上福得・天上の福を受ける、とは、必ずシュダオンに成ると
>いう意味で、泥オン証とは必ず涅槃を得るという意味です、と管長は説明
>していますね。
私の考えを申しますと、この経典はいかに泥オン(涅槃のこと)の証などと表現
したところで、広施たる布教だけで涅槃を得るなんてことを説いた経典には
ならないと思います。
広施とは要するに布施ですが、布施の心と実践こそが物惜しみをする心とか慳貪
の煩悩から離れることになるのです。
だからこそそれは涅槃に向かう証と言えます。
ちなみに阿含経では布施の徳を説きます。
三福道ならぬ三福業があるでしょう。
施福業、平等福業、思惟福業です。施福業とはもちろん布施です。
ところでこの三福業は皮肉なことに三福道ならぬ三善根と共通点があります。
イコールではないが共通する。
物惜しみなく布施をする心とその実践は貪りの心を離れることに繋がります。
もちろん布施だけでは無貪は極められない。しかし手段として有効な道の一つです。
誰に対しても平等慈悲の心を持つことは無瞋に近づく為の有効な道です。
無痴を得ようと思ったら思惟観察の道を突き進むしかない。
つまり布施、広施とは無貪への道です。
そして出家にとって広施とは法施しかない。
無一物の彼らが財施などできるしかない。
ならば彼らにできる布施、広施と言ったら教えを説いて導くことしかない。
ただしこれは教団勢力を拡大する布教活動ではない。
あくまでも衆生に対する平等慈悲の心あってこその施しです。
ならば広施「だけ」では涅槃に至れずとも広施は煩悩を乗り越えるものとして
十分に涅槃の証としてその一つの道として示されたと言えるではありませんか。
ならば釈尊はここにいる修行者がまだこの一つの道を実践していないのならば
実践して慳貪の煩悩をなくして涅槃に至る一助としようではないかと
呼びかけたとわかります。
- 620 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/04(土) 14:21:22
- ×無一物の彼らが財施などできるしかない。
↓
○無一物の彼らが財施などできるはずがない。
- 621 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/04(土) 14:29:14
- >この通り釈尊は教えを広めるだけで涅槃に行けるのだと説いたのだと思いますか?
桐山さんは、過去からこういう出典の出し方で論拠とする。
しかし、この(中)巻に引用した増一阿含経五戒品と有無品は、
都合のよい所だけの切り貼りで、解釈もまちがいです。
まず、この「五戒品」のお経で伝えるところは、
周知の五戒(不盗・不殺生・不邪婬・不妄語・不飲酒戒)です。
この五戒を破る者と守る者の二者を一対として、合計5×2の
1〜10経までのなかの一経です。
桐山さんの広施なる者は、受人中福・天上福・得泥?證、
と解釈するまちがいです。
受人中福・天上福・得泥?證は、「修行已多修行已」に
掛ることが、最後の経の10で分かります。
広施の果報は、前の経において”他人の財物”を盗めば、
餓鬼・畜生戒へ堕ちるか若しくは貧匱(貧窮)の極みを
味わう人となる、との前提または対象で説かれたものです。
「佛、諸の比丘に告げ賜う。若し廣く布施を行う人有らば、
現世に於いて物を得るは、人々の力を得て具足するなり。
天上では無量の食福の人なり。是れ故に諸の比丘よ、
布施を行う際には、人情がなく無慈悲なること勿れ。」
どこにも涅槃へ行けるなどの結論はありません。
あとの四戒もおなじです。
不殺生戒を守る人は長命を得、不邪婬戒を守る人は天界で福を得、
不妄語戒を守る人は世間広く名徳を得、
不飲酒戒を守る人は愚惑されたりせず心の安定を得る、です。
広施は、釈尊の教えを広める意味での布施ではなく、
不偸盗戒の例えとして説かれたものです。
- 622 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/04(土) 15:18:39
- >>568:準シュダオン12/02/02(木) 11:22:06
>布教だけでよい、とは書いてないでしょう。法を広めるだけで阿那含まで行ける
>と、書いたのです。五戒品に「・受天上福得泥オン証 所謂広施也・」と、
>>581:準シュダオン12/02/02(木) 15:13:11
>広施の功徳、天上福得・天上の福を受ける、とは、必ずシュダオンに成ると
>いう意味で、泥オン証とは必ず涅槃を得るという意味です、と管長は説明
>していますね。
準シュダオンさんはこのように法施による広施だけで涅槃界にも行ける一乗道の
ように捉えている。
桐山さんはどうかと言うと甚だ微妙です。
準シュダオンさんが主張するように説いているようにも読めるし、しかしそこまで
大袈裟に一乗道のように騒ぎ立ててない。
三供養品は応説経に矛盾するが、もう一つの下根の成仏法を説いた特別な経典
であると持ち上げたように、この五戒品を布教だけで涅槃界へ行けると説いた
これまた応説経にも矛盾する画期的な経典だとも宣伝しない。
つまりは涅槃の証とは涅槃に至る条件の一つであることを示しただけで、
こういう広施もすごく重要で価値あり効果あることなんだぞと示したに過ぎない。
慳心をなくす為にも布施をすること、利他心を養う為にも布施をすること。
涅槃の為の一助ですが、一乗道ではない。
さてところで桐山さんがアゴン宗の護摩木勧進やお導きを以て広施であるとしたわけです。
アゴン宗のこれらの布教活動は涅槃の一助となる広施として機能するでしょうか?
これはなりません。
なぜならばアゴン宗の信者はこれをすることにより自分の積徳の点数稼ぎを貪る
わけで喜捨にも布施にも相当しないからです。
目が衆生を向いていない。ニョライ様に向いている。
ニョライに捧げて褒美に自分の因縁解脱の徳の貯金をしている。
自分の為にニョライ様のご機嫌取りをしている。
それは不純にして浅ましい煩悩です。
こんなものでは煩悩を増やすのみで、いよいよ涅槃から遠ざかります。
いや、純粋に他人を救いたいのだと言うかもしれないが、そもそも釈尊の説いた
教えは救いなどではない。
教えを示してその人が理解して実践するしかない。
護摩木などに願い事を託させても、かえって依存の心と不当な欲望を育てさせている。
涅槃への道の邪魔を促しているのです。
利他にも布施にも相当しない。
- 623 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/04(土) 15:31:34
<どこにも涅槃へ行けるなどの結論はありません。>
桐山さんは、このように諸経典の前後の流れを無視し、
五戒品と有無品を勝手に併用し、自説を強化している。
桐山さんが引用した五戒品は、品の4/10番目の不偸盗戒の例えです。
釈尊の法を広める布施の話しなどではない。
有無品は、3/10番目で、たしかに釈尊の法を施す話です。
これらは多分に、説一切有部など部派仏教時代のお経のようです。
桐山さんは、それを意識的に併用して法を広める価値を強調した。
ただし間違ったのではなく、意識的にそれで涅槃の可能性を暗示した。
三福道の功徳を読者の頭の中に根付かせる前提手段です。
読み手は、この先入観で三福道の解説を受け入れ、
供養だけでアナゴン可能説を信じてしまう。
- 624 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/04(土) 15:44:19
- >>621:ラシン ◆xvojmuQ90o12/02/04(土) 14:29:14
>桐山さんは、過去からこういう出典の出し方で論拠とする。
>しかし、この(中)巻に引用した増一阿含経五戒品と有無品は、
>都合のよい所だけの切り貼りで、解釈もまちがいです。
>まず、この「五戒品」のお経で伝えるところは、
>周知の五戒(不盗・不殺生・不邪婬・不妄語・不飲酒戒)です。
>この五戒を破る者と守る者の二者を一対として、合計5×2の
>1〜10経までのなかの一経です。
この都合のよい箇所だけ断片的に切り貼りというのは重大な指摘です。
準シュダオンさん以外の人はこの桐山さんが掲載した短い経典のどこにも五戒が
出て来ないことに訝しく思いませんでしたでしょうか?
だからこれは短い経典集を余すとこなくセットで読まねばならない。
そこでラシンさんが調べて発見した5×2=10経の根拠資料、サイトなどを
お示しください。
準シュダオンさん以外の衆生に対する布施の意味でも。(笑)
- 625 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/04(土) 15:45:07
- >アゴン宗の教えを理解できなくて退会した人が、アゴン宗の代弁をしようと
しても無理な話です。
アゴン宗でみとめられる煩悩解脱の解釈や方向性とは、
ひとえにアゴンボン行をするための言わば心得みたいなものに
塗り替えられています。
信者さんが、教団に「タダ働きと金」を布施・喜捨するうえで、
なに疑いなく素直な気持ちで行えるための下行の位置づけです。
そのボン行では、いちおうアナゴンまでを可能としますが、
布施・喜捨の限度は天井知らずで、じったいは設定されていない。
煩悩解脱を小解脱と貶しながら、どこまでの範囲なのか曖昧です。
七科三七道品法をゆいいつ因縁解脱とするなら、
その小解脱がその中での途中経過の位置なのか、
判別不能です。
桐山さんは、今回の(中)巻でアナゴン=有余涅槃界としたので、
つじつまを合わせたつもりでいるらしい。
しかし、これは仏教の解釈から外れています。
もしそうであれば、応説経の文言に矛盾することになる。
桐山さんも強調していたように道品法を修すれば解脱を
願わなくても、解脱してしまうのです。
それは、小解脱を飛び越えて因縁解脱という大解脱を果たすのか。
- 626 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/04(土) 15:58:13
- >そこでラシンさんが調べて発見した5×2=10経の根拠資料、サイトなどを
お示しください。
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=0125_,02,0576a13&key=%E4%BA%94%E6%88%92%E5%93%81&ktn=&mode2=2
以前、天照さんのレスにも掲示しました、ただしagama@chs-1です。
お経の表示画面がズレている場合、T0125_.02.0576a13:五戒品第十四まで
スクロールしてみてください。
- 627 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/04(土) 16:01:00
- >アゴン宗の教えを理解できなくて退会した人が、アゴン宗の代弁をしようと
しても無理な話です。
桐山さんは、八正道をたんなる道徳の範囲としか理解していない。
信者さんも、八正道とは因縁を切れないただの戒めや道徳的教え、
と見下しています。
見下しながら実は、その道に価値を付けられ、たくみに誘導されている。
桐山さんは、教えだけでは何かがモノ足りないと述べていた。
たしかに「モノ」にこだわる桐山さんらしい感想です。
一人解脱した釈尊なら、必ずや大神通力の「握りこぶし」があると、
桐山さんは確信して、七科三七道品を因縁解脱の法とうたいあげた。
七科三七道品とは、アビダルマ論師が八正道を構成要素と考え、
法数分けして解釈したものと言われています。
その八正道とは自己浄化実践(梵行)のすべてであり、
その梵行によって漏尽解脱は達成されると説くのが阿含経です。
- 628 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/04(土) 16:02:13
- >アゴン宗の教えを理解できなくて退会した人が、アゴン宗の代弁をしようと
しても無理な話です。
信者さんも知っている経典の定例句の「梵行」です。
梵行を終了したら、もはや輪廻転生しない、次の生が生じない。
これは、解脱以外のなにものでもありません。
〈梵行已に立ち、所作已に弁じて後有を受けざるを知る。〉
−岩波仏教辞典−
梵行 ぼんぎょう[s:brahma-cary]<梵>(brahman)は節制・禁欲を意味し,
<行>(cary)は振舞い・行為をさす.清らかな行い.
すなわち出家者が戒律を守って禁欲の生活を送ること.
特にあらゆる性的な行為を慎むこと.−後略−
第二六章15 この世で妄執を断ち切って、静かならしめ、すべての塵汚れを
おさめて、河の水を乾かしてしまったならば、苦しみが終滅すると説かれる。
(ウダーナヴァルガ 中村元訳)
- 629 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/04(土) 17:06:17
- >>626
ありがとうございます。
やはり電子経典ですね。
五戒品第十四として(1)から(十)まであり、それぞれ五戒の対になっています。
それぞれに受人中福受天上福得泥オン証がある。
さらには於此衆中我不見一法修已多修行已が必ず書かれている。
桐山さんが掲載したのは(四)だけだが、例えば不殺生を説いた(二)では
桐山さんの読み方をすると、まずこの中にいる者で不殺生という一法を修めて
いるものはいない、見ていないと言ったことになる。(つまりあんたら殺生してるやろ?と言った
ことになる)
そして不殺生を修めるならば涅槃の証を得る、つまり殺さないだけで涅槃に行けるのだ
なんておかしな話になってしまいます。
これは本当に今目の前にいる弟子どもが、おまんら人殺しやろ?強姦魔やろ?
それ改めえなと説いたのではなく、基本に立ち返って五戒の大切さを説いたのです。
五戒を守ることから全てが始まる。
それなくして人中の福も天上の福も涅槃の証もあり得ない。
それを説いただけの話で、殺さなかったらそれだけで涅槃に行けちゃうよとか
布施するだけで涅槃に行けちゃうよとか犯さなかっただけで涅槃に行けちゃうよ
なんてアホな話ではない。
本当に桐山さんも平河の編集もアホな本出しますね。
準シュダオンさんはどうせこんな都合の悪い電子経典なんか読まないだろうから
他の皆さんはしかとその目で確認してください。
ラシンさん、根拠資料の提示をありがとうございました。
- 630 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/04(土) 18:54:25
- >>592:準シュダオン12/02/03(金) 09:51:20
>中巻のP93に、三善根を三福道と命名した理由が書かれていますね。
>無貪瞋痴の三善根と混同するからだ、との理由です。
>全く正解で、そのとおりですね。批判派の皆さんは混同しています。
>私は、三善根でも三福道でも三功徳法でも混同せず、同じ意味にとりますけどね。
準シュダオンさん以外の信者さんは上記の準シュダオンさんと同じように思われた
でしょうか?
この経典の三善根は無貪瞋痴の意味が妥当であるかないかという考察よりも以前に
三福道という用語が桐山さんによって命名されたことをあなた方は承知してましたか?
社会科学としての阿含仏教では三福道と書かれた三供養品経典と三善根と説かれた
三供養品経典の二つがあるかのように明記されていました。
して三福道とは桐山さんの命名だったと知らされたのは今回の著書が初めてですよね。
それならばどうして最初からそのように示してくれなかったのか?
経典の語句を勝手に取り替えてよい話にはならないのだが、取り替えるなら
せめて取り替えましたという説明があって当たり前です。
その当たり前のことがされずに30年ほど命名であることを知らされずに
毎日読誦してきたのです。
もちろん批判側がネットで指摘してきたからです。
この三福道は私が命名しましたと書いた著書が今回世に初めて出回るにあたり
例祭法話でそのことに対する桐山さん自らの口によるコメントはあったのですか?
まさか内容には触れずに、著書で活字で示しておしまいとしたいから触れないで
いるなんてことはないですよね?
準シュダオンさん以外の信者さんはまずこういう点に疑問を向けてください。
準シュダオンさんのように簡単に受け入れないでください。
- 631 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/04(土) 19:20:56
- >>592:準シュダオン12/02/03(金) 09:51:20
>中巻のP93に、三善根を三福道と命名した理由が書かれていますね。
>無貪瞋痴の三善根と混同するからだ、との理由です。
>全く正解で、そのとおりですね。批判派の皆さんは混同しています。
>私は、三善根でも三福道でも三功徳法でも混同せず、同じ意味にとりますけどね。
どうして過去には命名であることを白状もせずに嘘を示してきたのか疑問視してください。
自分の命名であるのかないのか自説なのか学者の辞典とも共通する解釈なのか
いちいち明記すべきですよね。
準シュダオンさんは梵行の本当の意味は知っているとのことでした。
桐山さんはそれを知っての上で敢えて意味を変えて示しているのだとした。
しかしそれならば桐山さんから解説あって然るべきですよね。
三善根と同じように梵行の仏教辞典における意味を示して、しかしわが教団の使用する
梵行はこの意味ではなく、敢えてこのようにしているのである・・・と言った
説明が未だにされてないですよね。
今回の中巻にも桐山梵行のオンパレードです。
しかし未だにその意味を変えたなんて説明断りがないのはどういうことか?
物事を説く時にはいちいち根拠を示す必要があります。
ましてやこれは経典の解説であり、個人の考えよりも先に経典ではどう記述されて
いるのか正しく示すことが大前提ですからね。
煩悩解脱が小解脱であることを著書に書くのもそうです。
それって自分の考えなのか?経典に根拠を持つ考えなのか?
(ここで準シュダオンさんが根拠文献を示すだろうが反論済みにてスルー)
桐山さん自らその著書の中で根拠経典を引用する義務があります。
しかしその義務を果たしていない。
今回の五戒品もそうですよ。
布施の話について、間脳思考に書いた話を蒸し返している。
釈尊らが托鉢遊行をしており、ある道を行こうとしたら弟子がそちらには行かない
ように言う。そちらの方向は貧乏で托鉢してもとても供養を受けられないからと言う。
釈尊はだからこそ敢えて行くのだ。彼らは物惜しみをする前世で心があったから
現世で貧乏なのだ、ならば彼らに布施をする心を教える必要があるとして、足を運び
僅かながらも供養を受けて10日間説法したという話です。
こういう話を逸話として出すからには当然出典を明らかにすべきですよね。
しかし今回もその出典など全く書かれていません。
- 632 :準シュダオン:2012/02/05(日)
10:03:34
- >どうして過去には命名であることを白状もせずに嘘を示してきたのか疑問視してください。
>自分の命名であるのかないのか自説なのか学者の辞典とも共通する解釈なのか
>いちいち明記すべきですよね。
それはそのとおりでしょうけど、もし、私が管長の立場なら、三福道とか三功徳
とか訳してる異訳本がないものかと、粘って探しますね。そして、どうしても
異訳本が無かった場合には、真実を白状しようとね。で、今がそうです。
>準シュダオンさんは梵行の本当の意味は知っているとのことでした。
>桐山さんはそれを知っての上で敢えて意味を変えて示しているのだとした。
>しかしそれならば桐山さんから解説あって然るべきですよね。
私は、阿含宗のボン行も、本来のボン行と違っているとは考えませんよ。
教えを説く上巻のP169から、出家の梵行と在家の梵行を説いていますね。
そして、P175に、梵行とは、「浄め、高める修行」です、と説いています。
だから、管長は解りすぎるくらいに、解っているんです。
そして、梵行の具体的な例として、例えばお導き行だ、と説きます。
お導き行は、16法の実践です。16法とは、信戒施聞持観法次法向を他人に
教え進めることでしょう、そのためにはなにより自分が8法を実践していなけ
ればいけませんよね。
梵行=浄め高める修行、を忘れ、最初から、16法・導き行、を目的にしてしまう
から、本来の意味と違う、と思ってしまうのです。中巻のP410に、お導き行の
神髄が説かれていますね。「この人を必ず幸福にしてあげるのだ」という慈悲・
愛の心を持たねばいけない、と書かれています。それを、我欲から導こうと
しては梵行にはならない、とは、法話で何度も話しているはずですよ。
- 633 :準シュダオン:2012/02/05(日)
10:16:50
- >釈尊らが托鉢遊行をしており、ある道を行こうとしたら弟子がそちらには行かない
ように言う。そちらの方向は貧乏で托鉢してもとても供養を受けられないからと言う。
>釈尊はだからこそ敢えて行くのだ。彼らは物惜しみをする前世で心があったから
現世で貧乏なのだ、ならば彼らに布施をする心を教える必要があるとして、足を運び
>僅かながらも供養を受けて10日間説法したという話です。
釈尊は阿羅漢・福田として、供養を功徳として返す力があるから、そのような
芸当ができるのですよ。それを、ユビさんが、布施の心を教えると言って、
貧乏人から何かを搾り取ったとしても・・・効果ありますか?
- 634 :準シュダオン:2012/02/05(日)
10:25:53
- >今回の中巻にも桐山梵行のオンパレードです。
>しかし未だにその意味を変えたなんて説明断りがないのはどういうことか?
梵行=浄め高める修行、ですから、桐山梵行を「浄め高める修行」の手段と
すれば良いだけです。
そうではない、というのならば、じゃあ、逆に訊くけど、具体的な梵行とは
何をすればよいのか、ということになるでしょ。
戒を守るだけでは梵行とは言えませんからね。
- 635 :準シュダオン:2012/02/05(日)
10:40:04
- >準シュダオンさんはどうせこんな都合の悪い電子経典なんか読まないだろうから
>他の皆さんはしかとその目で確認してください。
>ラシンさん、根拠資料の提示をありがとうございました。
いやぁ、あれば私も読みますよ。
まぁ、どういう解釈をするかは、まだ不明ですが。
- 636 :準シュダオン:2012/02/05(日)
10:48:20
- >この都合のよい箇所だけ断片的に切り貼りというのは重大な指摘です。
>準シュダオンさん以外の人はこの桐山さんが掲載した短い経典のどこにも五戒が
>出て来ないことに訝しく思いませんでしたでしょうか?
私は、スルーするといっても、重要部分は目にすると思いますよ。
だから、管長解釈が間違いだ、というのならば指摘してください。
批判派の解釈もおかしなものばかりですけど、役に立つのも少しはあるからね。
五戒が出て来ないのは、頁数の関係か、と私は思っていましたね。
- 637 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/05(日) 10:59:41
- >>635:準シュダオン12/02/05(日) 10:40:04
>いやぁ、あれば私も読みますよ。
皆さん、ここ笑い所、大爆笑ですね。
いやあ〜、準シュダオンさんって天才的な天然ですね。
こちらの想像を遙かに上回ってる。
- 638 :準シュダオン:2012/02/05(日)
11:09:09
- >やはり電子経典ですね。
五戒品第十四として(1)から(十)まであり、それぞれ五戒の対になっています。
>それぞれに受人中福受天上福得泥オン証がある。
さらには於此衆中我不見一法修已多修行已が必ず書かれている。
>桐山さんが掲載したのは(四)だけだが、例えば不殺生を説いた(二)では
桐山さんの読み方をすると、まずこの中にいる者で不殺生という一法を修めて
>いるものはいない、見ていないと言ったことになる。(つまりあんたら殺生してるやろ?と言った
>ことになる)
私は、五戒品をみな読んではいないが、これ↑は、大きな勘違いをしている
と思いますよ。この五戒品は、諸比丘に説いた内容ですからね。在家の五戒
とは、根本的に違う内容だと思いますよ。
その点、ユビさんは勘違いしてると思いますw。
- 639 :準シュダオン:2012/02/05(日)
11:29:54
- >>いやぁ、あれば私も読みますよ。
>皆さん、ここ笑い所、大爆笑ですね。
>いやあ〜、準シュダオンさんって天才的な天然ですね。
>こちらの想像を遙かに上回ってる。
いや、言葉足らずで失礼。
目の前にあれば、読みますよ、という意味です。
読みたいところを探し出すのは大変ですからね、なかなかその気にならないの。
- 640 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/05(日) 11:39:00
- >>639:準シュダオン12/02/05(日) 11:29:54
>目の前にあれば、読みますよ、という意味です。
>読みたいところを探し出すのは大変ですからね、なかなかその気にならないの。
皆さん、さらに笑い所です。腹痛ぇ〜w
ラシンさんは至れり尽くせりのサービスをしてくれたのに。
- 641 :準シュダオン:2012/02/05(日)
11:53:19
- >皆さん、さらに笑い所です。腹痛ぇ〜w
>ラシンさんは至れり尽くせりのサービスをしてくれたのに。
そうじゃないでしょ。いつもなら、わざわざ、辞典の内容を長く引用してくれ
てるじゃないの。今回はそれを、たぶん、していない。だからユビさんもコピー
していない。たぶん、クリック、クリック、で探さねばいけない手法でしょう。
批判派に有利な内容なら、そんな手間掛けさせずに、引用してくれるでしょう。
それをしてないから、屁理屈と断定したのです。
だから、探してまで読む価値はないのです。
- 642 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/05(日) 12:03:20
- >そして、どうしても異訳本が無かった場合には、真実を白状しようとね。
で、今がそうです。
桐山さんは、信者の仏教無知を利用して何でもオリジナル化します。
気づかれなければ、そのまま押し通すズボラさに
回りの職員は、あとからいつも振り回されています。
桐山さんは過去にも「命名」だったと白状する居直りをしています。
−カリュキラムの第一歩 御尊前に誓う−
そもそも大白身法という法の名称は、私が、十数年まえ、
準胝如来から御霊示をうけて、私自身がつけた名称であり、
あとにもさきにも、大白身法とはこれしかないのである。
「密教―超能力のカリキュラム1974年1月初版 24頁抜粋」
これに引き続いて織田隆弘氏は、密教の手法による阿含経涅槃の
実現(立宗時の目的)の矛盾を指摘し、
大乗諸教は偽仏教と断言しておりながら、阿含宗になっても
「後期大乗である密教の方法をもって編成した即身成仏・・・
の修行課程を実修し」と云うのは、ゴマ化しの何物でもありません。
(密教宝庫を開く/織田隆弘
183〜184頁)
その立宗時の本尊「大白身如来最勝金剛仏母準胝観世音大菩薩」は、
桐山さんの”創作ホトケ”だ、とも批判しています。
この修行課程は、改変されながら今にまで伝法で行われている。
桐山さんの仏語命名というオリジナル行は、過去から連綿となされて来た。
それもバレるまでは、事実を隠し正当仏教のように偽装を続けることです。
- 643 :準シュダオン:2012/02/05(日)
12:19:45
- 今回の中巻で、シュダオンは表面意識での欲貪と瞋恚は断っていて、十結の欲貪
と瞋恚は潜在意識と深層意識でのそれなのだ、と解説していますね。
表面意識での欲貪と瞋恚は、身見(我見)にほぼ含まれているから、とのことです。
そういわれると、な〜るほど、そうかとも思いますが、疑問も少し残りますね。
表面意識に欲貪と瞋恚が少し残っていたとしても、三結を断じたら聖者と考え
てもよいのではないか、との疑問です。そして表面意識から欲貪・瞋恚が完全に
消えたらシダゴンで、深層意識の欲貪・瞋恚が消えたらアナゴン、というように。
でもまぁ、私は潜在意識や深層意識のことは、よく解らないので、管長のおっしゃる
ことが正しいのです。ユビさんだと、前はそう言うことを説かなかったと、文句言う
でしょうねw。
- 644 :深山:2012/02/05(日)
12:19:54
- >>633 :準シュダオン:2012/02/05(日)
10:16:50
>釈尊は阿羅漢・福田として、供養を功徳として返す力があるから、そのような
>芸当ができるのですよ。
信者さんたちは、準シュダオンさんが話をそらして逃げていることに気がついていますか。
>>631でユビキタスさんが指摘したのは、貧乏人から食物を請い、
功徳を積ませてやったという話は、阿含経のどこにあるのかという点です。
この件は前から指摘されている話です。
阿含経に根拠があるというなら、その経典を示すべきです。
なぜなら、桐山さんの阿含経引用は信用がならない。
仙尼経に異陰がある、三供養品に三福道があると書いた。
桐山さんは三福道と書いてある三供養品の漢訳経典まで示してみせたのですよ。
- 645 :深山:2012/02/05(日)
12:23:46
- 「ここでは、徳薄く福少ない者であっても、福徳を身につけて成仏に向かうことのでき
るという下根の成仏法が説かれた、『増一阿含経・三供養品三福道』と同内容で異訳
本の『増一阿含経・三供養品善根』(以下「三善根」)を講義いたします。」
(『社会科学としての阿含仏教』277頁)
この文章を良く読んでください。
三福道の三供養品があり、それと異訳の三善根があると書いてある。
しかも、288頁以降、その三福道と三善根の二つの漢訳経典と
その書き下しまで引用している。
異訳があるとして、原文ともいえる漢訳経典まで示したら、
普通は、三福道という阿含経が実在すると錯覚する。
しかも、三福道の経典には、
「須陀諸Y自り阿那含に至りて五下分結を断ず」
などと書いてある。
これも、漢訳経典の基本である大正新脩大蔵経や、国訳一切経に
このように書いてあるのだろうと読者は錯覚する。
だが、いずれも真っ赤な嘘です。
三福道などと書いてある経典は存在しません。
桐山さんは経典を捏造し、それがあたかも漢訳経典に存在するかのように
人々を騙したのです。
この点を信者さんたちは軽く見てはならない。
立派な宗教犯罪です。
こういうことを平気でやる桐山さんの道徳心を信者さんたちはどう見ますか。
- 646 :深山:2012/02/05(日)
12:26:48
- >>633 :準シュダオン:2012/02/05(日)
10:16:50
>釈尊は阿羅漢・福田として、供養を功徳として返す力があるから、そのような
>芸当ができるのですよ。
ネットで指摘されて、桐山さんは三福道と書いてある経典などないことを認めた。
だが、三福道が桐山さんの造語であることを認めただけで、
『社会科学としての阿含仏教』などで行ってきた捏造や嘘、騙しについては
なんら認めてもいないし、謝罪もしていない。
まるで最初から造語であることを断っていたかのように、口を拭い、素知らぬ顔です。
だが、『社会科学としての阿含仏教』では明らかに二つの経典があると
桐山さんは断言し、証拠まで出していたのです。
この桐山さんの姿勢に信者さんたちは疑問を持ちませんか。
アゴン宗の信仰の重大な教義の一つである三福道が桐山さんの捏造だったのです。
準シュダオンさんみたいに嘘が大好きな人は何も感じないだろうが、
普通の知性と良識の残っている信者さんたちは、この事実から目をそらさないでください。
しかも、桐山さんのこの種の捏造や開き直りはこれ一つではない。
- 647 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/05(日) 12:27:08
- >>641:準シュダオン12/02/05(日) 11:53:19
>てるじゃないの。今回はそれを、たぶん、していない。だからユビさんもコピー
>していない。たぶん、クリック、クリック、で探さねばいけない手法でしょう。
「たぶん」ですか?(笑)
一度のクリックで五戒品第十四(一)〜(十)がすぐ見れるようになってます。
>批判派に有利な内容なら、そんな手間掛けさせずに、引用してくれるでしょう。
>それをしてないから、屁理屈と断定したのです。
くれない族ですか?
なるほど、自分はマトモないい加減な引用しかしないくせに相手には完璧な引用
サービスを求めますか?
それなら準シュダオンさんの引用も読む価値ないことになりますね。
>だから、探してまで読む価値はないのです。
かまいませんよ。最初からあなたには探して読むことを求めてませんから。
他の人が一回クリックして確認してくれればよいわけですから。
あなたは自分のことだけ考えていなさい。
相手にはしないから。
- 648 :深山:2012/02/05(日)
12:32:24
- 「『増一阿含経・三供養品三福道』と同内容で異訳
本の『増一阿含経・三供養品善根』(以下「三善根」)を講義いたします。」
仙尼経の異陰も同じです。
桐山さんは『仏陀の真実の教えを説く[上]』仙尼経に異陰がないことを認めた。
まず信者さんたちにこれだけでも仰天してほしい。
あれほど、釈尊の説いた霊魂の証拠として出していた仙尼経の異陰が、
実は存在しないのです。
解脱供養や冥徳供養など死者成仏の重大な根拠である仙尼経の異陰が
なんと桐山さんの捏造だった・
仙尼経にあるのは異陰ではなく「陰」です。
桐山さんは異陰を霊魂であると主張したが、陰に霊魂という意味はありません。
陰とは、肉体を持った人間のことです。
仙尼経に異陰がないことを認めたのだから、もはや異陰をいう言葉は
使えないはずです。
ところが、『仏陀の真実の教えを説く[中]』になると、
まるで異陰という言葉が仏教用語としてあるかのように、また異陰を使い始めた。
桐山さんは異陰と書いてある経典すら示していないのです。
それなのに、すでに証明されたかのように異陰を使っている。
準シュダオンさんのその場しのぎの主張に、信者さんたちは
彼の人格や人間性に疑問を持つでしょう。
同様に、この桐山さんの開き直りとゴマカシぶりに、
信者さんたちは桐山さんの人格や人間性に疑問を持ちませんか。
- 649 :深山:2012/02/05(日)
12:34:26
- >>633 :準シュダオン:2012/02/05(日)
10:16:50
>釈尊は阿羅漢・福田として、供養を功徳として返す力があるから、そのような
>芸当ができるのですよ。
こんなふうに桐山さんの阿含経引用は、その元となった経典まで
さかのぼらないと、何一つ信用ができない。
今回も、ラシンさんが五戒品と有無品についての桐山さんの
インチキ引用を指摘している。
阿含経の前後を無視して、切り貼りして、自分に都合の良いように引用するのは
準シュダオンさんだけではなく、桐山さんが見本を示しているのです。
実在する経典にすら平然と書き加えたり、ありもしない経典を捏造する桐山さんが、
釈尊が貧乏人から托鉢したという話を書いている。
この話が本当に阿含経にあるのかどうか、疑われて当然です。
準シュダオンさんに出せるはずもないから、適当に話をすり替えた。
信者さんたちはこの阿含経を見たことがありますか。
桐山さんはこの話を慈恵会時代の古い機関誌にも書いている。
つまり、阿含経に目覚め、徹夜で読んだという話の前の時代に
すでにこの話を書いているのです。
信者さんたちもぜひ職員や先達や、阿含経講義をしている森川さんに
この話がどこの何という阿含経にあるのか、質問してみてください。
- 650 :深山:2012/02/05(日)
12:37:05
- >>633 :準シュダオン:2012/02/05(日)
10:16:50
>釈尊は阿羅漢・福田として、供養を功徳として返す力があるから、そのような
>芸当ができるのですよ。
このマダラヴォケの老人には何を言っても無駄だろうが、
釈尊は供養の功徳を「返す力」などありません。
釈尊はそんなバカみたいなことは説いていない。
善行を行えば、善行に対する報いがあると説いているだけです。
釈尊が返すのではなく、それがこの世界の法則だと説いているのです。
リンゴが地面に向かって落ちるのがこの世界の法則であって、
リンゴを育てた農家の功徳でないのと同じです。
煩悩を捨てる清浄な修行をしている比丘たちに供養することは
最大の善行です。
最大の善行には最大の功徳がくる。
だが、その功徳は、桐山さんが言うような内容とは違い、
釈尊や比丘たちが返すのではありません。
- 651 :深山:2012/02/05(日)
12:39:13
- >>633 :準シュダオン:2012/02/05(日)
10:16:50
>釈尊は阿羅漢・福田として、供養を功徳として返す力があるから、そのような
>芸当ができるのですよ。
1.功徳は釈尊が返すのではない、
2.功徳は今生ではなく、来世で来る
3.金持ちや健康といった世俗的な功徳であり、解脱とは関係ない。
これが阿含経で釈尊の説いた供養に対する功徳です。
桐山さんはまったく反対のことを書いている。
彼の説はいずれも阿含経に根拠はありません。
桐山さんが根拠とした三供養品の三善根とは供養による功徳の
話などはありません。
三善根とは無貪・無瞋・無癡、つまり煩悩から解放されることです。
在家専用なんてのも嘘だからこそ、涅槃界に至るとはっきり述べている。
涅槃界とは涅槃そのもので、阿羅漢の境地です。
これを桐山さんは有余依涅槃と無余依涅槃の話にすり替えているが、
ごまかされないことです。
- 652 :深山:2012/02/05(日)
12:41:15
- >>633 :準シュダオン:2012/02/05(日)
10:16:50
>釈尊は阿羅漢・福田として、供養を功徳として返す力があるから、そのような
>芸当ができるのですよ。
三供養品には涅槃界とあるだけです。
桐山さんは有余依涅槃を阿那含として、これを含めると言いたいらしい。
では、涅槃界には有余依涅槃(阿那含)と無余依涅槃(阿羅漢)が
あるという桐山説を採用することにしましょう。
仮にそうなら、三供養品では、
涅槃界=阿那含+阿羅漢
ということなる。
阿羅漢も含まれるのです。
桐山さんが何をごまかしたかわかりますか。
涅槃界の説明に、有余依涅槃の話だけを出して、
有余依涅槃は阿那含だから、涅槃界は阿那含界なのだとすり替えたのです。
まるで手品です。
だが、桐山さんが引用した火滅品ですら、涅槃界には有余依涅槃と
無余依涅槃の二つだとあるだけです。
だったら、三供養品の涅槃界とは阿那含と阿羅漢の両方ということなる。
桐山三福道だと供養の功徳で阿羅漢まで行けることになってしまい矛盾する。
こんなふうに桐山説に基づいて検証しても、桐山三福道は成り立ちません。
嘘とデタラメとすり替えを繰り返したから、自己矛盾したのです。
- 653 :深山:2012/02/05(日)
12:43:04
- >>633 :準シュダオン:2012/02/05(日)
10:16:50
>釈尊は阿羅漢・福田として、供養を功徳として返す力があるから、そのような
>芸当ができるのですよ。
桐山説によれば、供養の功徳で阿那含まで行けるという。
だが、その根拠とした三供養品自体が桐山さんの捏造であり、
その経典には三福道に相当することは書いていない。
無貪・無瞋・無癡という普通の漏尽解脱を説いた経典です。
信者さんたちは桐山さんが二つのことを混ぜて、ごまかしていることに
気がついていますか。
「如来への供養による功徳」と「解脱への道」を混ぜている。
両者はまったく別物です。
釈尊は供養の功徳で預流になるとすら説いたことはありません。
供養で得られるのは、来世における世俗的な功徳です。
その典型的な阿含経を二ヶ月ほど前にも示しました。
同じ内容を書きます。
- 654 :深山:2012/02/05(日)
12:46:29
- ・供養によって大金持ちになった
『ブッダ神々との対話』(中村元)の197頁にある「子がいない」
という経典を読んでみてください。
経典の内容は次のようなものです。
コーサラ国にいた金持ちの男は、ケチで貧乏人のような生活のまま死んだ。
釈尊に彼について次のように説明した。
その男は前世で解脱者に供養したから、その功徳によって七回天界に生まれ、
コーサラに生まれて大金持ちになれた。
だが、供養する時、惜しいという煩悩をもったことで金持ちであることを
享受できず、しかも、彼は今生で何の善業も為さなかった。
その上、財産を奪った悪業の報いで、今は地獄に墜ちているという。
この経典の内容はアゴン宗の三福道が成り立たないことを示しています。
- 655 :深山:2012/02/05(日)
12:49:55
- ・供養では解脱できない
仏に供養した功徳は確かに大きいから天界に生まれ、大金持ちになれた。
だが、すぐそばに釈尊という如来がいたのに、彼は仏道修行どころか、
仏縁すらできなかった。
供養だけでは阿那含どころか、預流すらなれないのです。
まず気がついてほしいのは、
「如来に供養しても、世俗的な功徳しか得られない」
という点です。
桐山三福道みたいに、如来に供養した功徳で解脱するのなら、彼はシュダオンになっても
いいはずだし、せめて仏縁くらいあってもよさそうなのに、ない。
如来に供養しても仏道修行とはまったく関係ないことに気がついてください。
桐山三福道では、如来に供養すると、その功徳は出世間の功徳であり、
シュダオンなどの解脱への道を歩み始めることになっている。
だが、現実にこの男が解脱者に供養したことによって得られたのは、
世俗的な御利益だけで、解脱とはまったく関係ない。
この経典の事例は、供養の功徳で阿那含まで行けるという桐山三福道を
完全に否定していることに気がついてください。
- 656 :深山:2012/02/05(日)
12:51:56
- ・供養しても現世の功徳にはならない
信者さんたちはアゴン宗の仏様に供養すると、自分は徳という貯金ができたと信じている。
そして、その功徳で現世で好運が得られ、あるいはシュダオンになれると信じている。
私から見たら、取引信仰、餓鬼信仰なのだが、それはさて置き、残念ながら、
信者さんたちの要求と期待を釈尊は否定しているのです。
「それ故に、善いことをして、来世のために功徳を積め。
功徳は、あの世で人々のよりどころとなる」
(『ブッダ神々との対話』200頁)
信者さんたちは釈尊のこの言葉にギョッとしませんか。
釈尊は、供養という善業で功徳が得られるのは来世だと言っているのです。
信者さんたちは、現世で好運が得られ、運がよくなり、
棚ボタ御利益がどんどん落ちてくると期待している。
だが、釈尊は「来世のため」というのだから、その期待に水を浴びせている。
アゴン宗にはどこにも漏尽解脱を目指す聖者はいないのだから、
そこに金や物をいくら供養しても、なんら善行ではないから、功徳にはならない。
しかし、仮に、我々が釈尊に供養することができたとしても、
それは現世にその見返りがあるのではなく、来世でその功徳が来るのです。
つまり、信者さんたちがいくら供養しても現世での好運などありえないのだから、
アゴン宗の御利益体験談など仏教とは何の関係も脈絡もないことになる。
そして、このことが、もう一つ、アゴン宗の教義に致命傷を与えている。
- 657 :深山:2012/02/05(日)
12:54:22
- ・供養で悪因縁は切れない
この経典は、因縁切りを否定していることに気がつきませんか。
桐山さんに言わせると、如来に供養すると、その見返りに前世の悪因縁を
切ってくれる、つまり悪業を善業で帳消しにしてくれるという。
だが、釈尊の答えは、
「功徳は、あの世で人々のよりどころとなる」
因縁切りなんてできるはずがないが、その議論はさて置き、仮に出来るとしても、
供養の功徳は来世だというのだから、因縁切りも来世ということなる。
この経典はアゴン宗の因縁切りの話が真っ赤な嘘であることの証拠です。
この経典の金持ちは、解脱者に供養するという大善業と、人を殺して財産を奪うという
悪業を為したが、両者は帳消しになることはなかった。
だから、善業の功徳は天界に生まれるという結果を生み、
悪業の報いは地獄に墜ちるという結果を生み、両者はなんら相殺していない。
この有様はアゴン宗の因縁切りの話を否定していることに気がついてほしい。
前世の悪業の報いである悪因縁を、ホトケに供養することで帳消しにしてもらおうと
いうのがアゴン宗の因縁切りであり、これをオシャカが説いた主張している。
だが、この男の事例を見ればわかるように、如来に供養するという善業は、
自分が為した別な悪業を消してはくれないのです。
供養の功徳で悪業(悪因縁)を帳消しにならないだから、
如来に供養しても悪因縁は切れません。
アゴン宗の因縁切りは成り立たない。
- 658 :深山:2012/02/05(日)
12:57:28
- ・供養では解脱できない
・供養しても現世の功徳にならない
・供養で悪因縁は切れない
信者さんたちはいかがですか。
これでもまだ信者さんたちは如来に供養すると、現世で功徳が得られ、
その功徳で好運が訪れ、因縁が切れて、解脱への道を歩むと信じるか。
本物の如来である釈尊に供養しても、因縁切りも解脱もできないことが
「子がいない」という経典の事例ではっきりしている。
ましてや、三供養品のどこに「供養」の文字があるのだ?
三供養品には一言も供養なんて文字も概念も出てこない。
「功徳をうえる」とあるだけで、供養なんて出てきません。
供養で解脱するとか、徳を授けるなんてありません。
功徳をうえるとは、無貪・無瞋・無癡を目指して、つまり煩悩から
解放されるような努力をすることです。
他に意味などない。
桐山三福道など阿含経には言葉だけでなく、概念もないのです。
つまり、信者さんたちがしている積徳行と称する護摩木売りや
星まつりに参加することは、釈尊の説いた仏教から見て、まったく無意味です。
- 659 :準シュダオン:2012/02/05(日)
14:39:47
- >「たぶん」ですか?(笑)
>一度のクリックで五戒品第十四(一)〜(十)がすぐ見れるようになってます。
それで管長の五戒品(四)の解説が間違えているというんですか?
私が、中巻の解説を読むかぎり、正しいと思いますよ。
あと、有無品(三)と有無品(五)を五戒品と並列させて解説していますね。
これらは関連しているからです。管長は、経典の要所を引用しているのです。
量が多くて全てを引用できるわけないですからね。
ここで、3・11の私の霊示内容が、
「震度5の地震で、MKさんの○○が△△になる」というもので、
「○○が△△になる」の部分は外れた、とレスしましたが、よく考えると外れた
というのは当らないのではないか、とも思えますので、○○△△の内容を書いて、
当り外れは、読者にお任せしたい。
全部書くと、「震度5の地震で、MKさんの家の道が途絶える」という内容でした。
後日、MKさんに聞いた話しでは、3・11当日、遠方に人を迎えに出かけてい
そうです。当日、MKさん宅で、冠婚葬祭の一つの相談毎があり、親戚が集ること
になっていたそうです。それで迎えに出かけていた。が、帰宅途中、あの地震で、
通行止めがあったり、いろいろなことが起きて、あわや帰れない状況に陥ったそう
です。
でも、結局、大幅に時間がかかったけども、深夜、帰宅できたそうです。
遠くから来た親戚の人も、途中で通行止めがあったりして、あわや、来れないか
という状況に追い込まれましたが、これまた、大幅に時間は遅れたが、MKさん宅
にたどり着けたそうです。このことを、私は単純に、帰宅出来たのだから、「家への
道が途絶えた」というのは外れだ、と考えたのです。
しかしよく考えると、通常の道は途絶えたのだから、霊示は当った、と判断して
も良いのかも知れませんね。
- 660 :Boo:2012/02/05(日)
16:44:12
- >>659
・・・「御霊示、御霊示」ってあなたね。何様のつもりですか?
白昼夢を「御霊示だ」なんて言って、普通の信者でも「ああ、準シュダオンさん
には脳障害の因縁があるんでしょうね、多分。」と思っていますよ。
私は何十年もアゴン宗で無駄な貢物させられてきましたが、「御霊示」なんて
カンチョウ以外に降りるものじゃないと考えていましたが、最近は信者にも
「御霊示」が降りるんですか?
- 661 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/05(日) 17:21:50
- >>659:準シュダオン12/02/05(日) 14:39:47
>それで管長の五戒品(四)の解説が間違えているというんですか?
その結論については昨日2月4日の土曜日に私とラシンさんがそれぞれに論じた
のが全てです。
桐山さんの経典解釈だが、五戒品・四について現代語訳は間違っていません。
広施というものが重要だということは間違いありません。
広施、布施ですが、在家も含めれば財施を含むが、出家に限れば法施しかないことになる。
そこで問題なのは法施の広施を実践すればそれだけで涅槃の証を得て、準シュダオンさんが
主張したようにアナゴンまで行けるかのように匂わすのがおかしい。
それはこの五戒品を四だけでなく、きちんと一から十を示すことによって釈尊の
言わんとすることがわかります。
例えば(二)では不殺生の戒を守ることを説いている。
その構成は(四)の広施と全く同じなんですよ。
つまり電子経典の五戒品を見るとこう説いている。
桐山さんの現代語訳に添って示しましょう。
「ここにはたくさんの修行者たちが集まっているものの、その修行者たちのいずれもが、
一つの法を修行していません。その(一つの)法を多く修行するならば、
人間界の福を受け、天上界の福を受けて、涅槃の悟りを得ることができるのです。
その(一つの)法とは不殺生です。」
さて、これをどう解釈しますか?
まず釈尊は祇園精舎に集まった修行者に君たちは不殺生を修めてない、殺して
ばっかいると諫めたと見ますか?
また不殺生を実行させたらそれだけでアナゴンまで行けるかのように説いたと見ますか?
違います。釈尊は祇園精舎の修行者に向けて五戒の大前提を示したのです。
ここに不殺生の戒を守らない者がいたとするならば守るべきである。
出家在家を問わず大原則を説いた。
さすれば(不殺生などの戒を守れば)それは人間界の福を受け、天上界の福を受け、
涅槃の悟りを得るための絶対必要条件なのである。
不殺生だけでアナゴンの悟りを得るわけではないが、涅槃の悟りを得ようと
志したからには、不殺生や広施などは必ず守らなければならない最低条件なのである
と示したわけです。
だから桐山さんは五戒品の四だけを切り取って提示したことが欺瞞なんです。
二の不殺生なども一緒に同じ表現で示してしまうと、自分の意図が通じなくなるからです。
単なる五戒の重要性を説いた経典では困るからです。
- 662 :準シュダオン:2012/02/05(日)
18:23:00
- >だから桐山さんは五戒品の四だけを切り取って提示したことが欺瞞なんです。
>二の不殺生なども一緒に同じ表現で示してしまうと、自分の意図が通じなくなるからです。
>単なる五戒の重要性を説いた経典では困るからです。
まぁ、ユビさんの言わんとしていることも、解らんではないが、曲解しすぎの
感は否めないですね。例えば、三供養品・三善根にしても、三供養品に沢山の
三に因んだ経のうちから、一つだけ取り上げているわけでしょ。どうでもいい
ような経を取り上げても、仕方ないじゃないですか。釈尊は、解脱に役立つこと
しか説かないと言いながら、私が経を読むかぎり、どうでもいいようなことも
説かれていますね。
「三結断 不堕悪趣」が、要所要所に説かれています。三結断とは三結解脱の
こと、つまり煩悩解脱ですね。不堕悪趣とは、悪趣解脱のことで、つまり管長の
説く○○因縁解脱が悪趣解脱です。肝心なのは悪趣解脱です。悪趣解脱するため
に煩悩を断つのです。煩悩を断っても、悪趣解脱しないのならば意味がありませ
ん。悪趣とは地獄・餓鬼・畜生の三悪趣にかぎりません、人間界も含む場合も
あるとは、辞典に書いてあります。
私の入行目的も、悪趣解脱でした。因縁が発現してからの入行でしたから、今の
悪趣状態から、何とか逃れさせてくれ、ということからです。本当の仏教は因縁
解脱を説いていないというのならば、そんな本当の教えは私には不要です。
私に必要なのは、管長が説く、○○因縁解脱の宗教です。
- 663 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/05(日) 18:27:24
- >>632:準シュダオン12/02/05(日) 10:03:34
>それはそのとおりでしょうけど、もし、私が管長の立場なら、三福道とか三功徳
>とか訳してる異訳本がないものかと、粘って探しますね。そして、どうしても
>異訳本が無かった場合には、真実を白状しようとね。で、今がそうです。
5つの選択肢が考えられます。
@異訳本を探し出すまでは三供養品自体を公表しない。
A異訳本もないので原文の通り三善根で公表する。しかしこの三善根は無貪瞋痴の
意味には相当しないことを書き添えておく。
B異訳本もないので、暫定的に三福道という自分の命名を使って公表する。
この場合、異訳本が見つかって三功徳とかだった場合、その時点で取り替えることに
決めておく。しかし異訳本が見つかろうがなかろうが、三福道を示して公表した
時点で、それは自分の命名であることを当然の義務として付記する。命名した理由も
書き添えておき、このことを信者にも著書の読者にも周知徹底する。
C異訳本が見つかるまで命名である三福道を使用するが、見つかるまでは命名で
あることを内緒にして、あたかも三福道が原文であるかのように嘘をつき通す。
異訳本が見つからずに数十年が過ぎたらようやく「白状」することにする。
D異訳本もないので三福道と命名する。命名であることは永久に明かさずに
信者や読者を騙し続ける。
@についてはそこまでする必要はないでしょう。
Dの線は消えました。
準シュダオンはCを選択しました。
私ならば(私が仮に三善根が無貪瞋痴の意味では妥当でないと思った場合)
当然Aしか選択しません。
百歩も千歩も万歩も譲って認めるにしてもBまでです。
命名した時点で最初から命名なんですよとして公表する。
そしてBでも何ら問題はなかったはずです。(そもそもAでも説明補足を添える
ことにより問題はない)
信者なんてものは教祖が右向けと言えば右を向くものだからです。
だから最初から三福道というのは命名なんですよ、三善根から三福道に替えますよ
と言えば信者は了承して異議を唱えないものです。
それでも嘘をついたのはなぜか?
桐山さんとしてはDを選択したかったのです。
どうせ分かりやしないだろうと経典を捏造した。
しかし前科が暴露された時と同じように、暴露されてから言い訳をつけて
認めざるを得なかった。
白状とは準シュダオンさんの当を得た名言ですね。
- 664 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/05(日) 18:35:33
- >そんな本当の教えは私には不要です。
私に必要なのは、管長が説く、○○因縁解脱の宗教です。
因縁解脱をあきらめた桐山さんです。
桐山さんは、東日本大震災一ヶ月前の2月11日に、
慰霊と復興を祈願するためのゴマを星まつりで焚くそうです。
その一週間後の18、19日に京都南座で追悼と復興支援の
ための歌舞伎音曲公演を行うとしている。
わたしは、今度の南座公演を見て、震災に遭われた方達に
元気を出して貰いたいのです。公演を観て、そこから勇気を
持って立ち直って、頑張っていただきたい、その思いで
この公演をおこなうわけです。−中略−
また演劇界の聖地とされる、由緒ある京都四条南座でおこなわれる
公演には、各界の一流の方々が参加されて、東日本復興のために、
ご尽力くださいます。専門家も、このような顔ぶれが一堂に会する
ことは、おそらく二度とないであろう、と言っています。−後略−
(新しき年を迎えて官長メッセージ 抜粋)
- 665 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/05(日) 18:36:43
この声明文によれば、東日本の被災者の何人を招待するつもりなのか。
慈善なのか偽善なのか、自慢を込めた宣伝文なのか、
よくわからない文章です。
そこで結ばれる文章は、瓦礫の山から新しい文明が生まれる。
死は生命の終わりではなく新たな生命の誕生なのだ。
今後の中心指導となる「輪廻転生瞑想法」を修行すれば、
自分の望むような理想の来世で、新た生を得ることができる。
そのためには、準胝尊秘密光明七輪寶、準胝尊秘密光明曼荼羅、
水晶龍神御尊像、霊障魔除け光明宝蓮華が、今後の法具として
必要になる。
星まつりを盛大に行うためにゴマ木勧進に精進した法施として、
これらを授けるので必ず拝受しておきなさい、、、
とのことです。
どう読んでもこれは、因縁解脱を変更した脅迫を含む宣伝文であり、
煽動文であり、東日本大震災をダシにした偽善ビジネス
にしか見えません。
- 666 :準シュダオン:2012/02/05(日)
19:00:21
- >私は何十年もアゴン宗で無駄な貢物させられてきましたが、「御霊示」なんて
>カンチョウ以外に降りるものじゃないと考えていましたが、最近は信者にも
>「御霊示」が降りるんですか?
ハハハ。脳障害の霊示で災難から逃れられるなら、脳障害の霊示も有りがたい
ではないかw。私は、しばらく霊示のレスを控えていたが、報恩謝徳と考えて、
ついにレスをしたのです。聖なるバイブレーションも受けた。しかし、思念は
流入しなかったので、不完全な思念の相承だと考えています。
それでも、間脳は揺さぶられた、のです。だから霊示も起きたのでしょう。
管長が話していないことでも、たぶんこいうことだ、と次々に思いつくよう
になったのは、その成果だと考えているよ。
深山さんや、ラシンさんは、惜しいことに間脳が目覚めていないね。だから、
科学者的頭脳には優れていたとしても、宗教的な脳ではないね。今の深山さんや
ラシンさんは、知識を沢山集めて、宗教学者には成れても、シュダオンにはなれ
ないでしょうね。そのことを、管長は、どこかの本で自動車の運転に例えていた。
自動車の構造をいくら詳しく覚えても、運転は出来ないとね。
点火プラグのシステムやブレーキやアクセルの仕組み、バッテリーやエンジンオ
イルの役割、それらをいくら詳しく覚えても、運転技術を学ばねば、運転できな
いのです。ハンドル操作とギアチェンジとブレーキとアクセル操作が出来れば、
運転はできます、構造など知らなくても運転はできるね。
私は、バイブレーションを受けてから、何となく車のエンジンが掛かったような
感じがする、と以前、レスした。まだ、車が走り始めた、なんて豪語は出来ませ
んが、何となく車が動き出すような感じだけはあるのです。
私はろくな修行はしなかったが、運良くここまではたどりつけました。
それは、自分は預流向だ、いや我見を断つ修行をする預流向であらねばいけない
のだ、と考えてきた成果のような気がします。
預流向を聖者だと定義したアビダルマ論を信じていたら、こういう成果は得られ
なかったでしょうね。
- 667 :準シュダオン:2012/02/05(日)
19:07:58
- >私は何十年もアゴン宗で無駄な貢物させられてきましたが、「御霊示」なんて
>カンチョウ以外に降りるものじゃないと考えていましたが、最近は信者にも
まぁ、それが私に起きるまでは、わたしもそう↑思っていましたよ。
事実ですから、私のレスを信じなさい。
- 668 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/05(日) 19:20:16
- >そんな本当の教えは私には不要です。
私に必要なのは、管長が説く、○○因縁解脱の宗教です。
「輪廻転生瞑想法」で自分の望むような理想の来世を
得るために、せめてこの世で悪い因縁を可能な限り切っておく。
そのための下座の行をいつまでも信者に課業させ続けておく。
こう指導するなら、桐山さんは阿含経の看板は言うに及ばず、
仏教そのものの看板を降ろすしかありません。
伝統仏教にすら、次の人間界を目的とする輪廻転生を
願う教えは見あたりません。
どう言おうが桐山さんは、密教のご利益を得る呪術を
ジョーブツ法として偽り、宗教詐欺の商売を続ける。
多くの人々が、この世の幸せを求めるスキに付け入るのが、
もっとも効果的と知っているからです。
人々が自身に求めるのは、清浄より世俗的利益だからです。
人々は他者に清浄を求めても、自信には求めようとしない。
釈尊は社会の底辺に身を置き、そこから差別なき清浄行の
実践を示し説いた。
桐山さんは社会の底辺から身を起こし、上位から差別化を
煽り欲望を根付かせようとしている。
- 669 :深山:2012/02/05(日)
19:21:11
- ・五戒品のデタラメ解釈
ラシンさんから桐山さんの五戒品についての解釈の間違いが指摘されています。
信者さんたちも、五戒品の「広施」を布教活動だと信じていませんでしたか。
実際、桐山さんは五戒品の解説の中でも、他に施す利他心だと称して、護摩木を
売り歩くことを取り上げています(『仏陀の真実の教えを説く[中]』54頁)。
しかし、五戒品の広施とは護摩木の物売りの話ではなく、
その題名にあるように五戒(不盗・不殺生・不邪婬・不妄語・不飲酒戒)
の一つ「盗んではならない」という戒律を守ることを説いた経典です。
護摩木を売り歩く話ではありません。
>>626でラシンさんがリンクしてくれた漢訳経典を読めば、
護摩木を売って、星まつりで供養しろと言っている経典でないことは
あまりに明瞭です。
準シュダオンさんもそうだが、桐山さんも経典の前後を無視して、
自分に都合の良いように解釈するのが得意です。
>>626を自分で確認することを厭わずに、信者さんたちにもぜひ
自分の目で確認してほしい。
その労力を省略しようとするから、桐山さんに騙されるのです。
桐山さんの滝行の話など余計な法螺話はどうでもいから、
釈尊が説いている内容に耳を傾けてください。
>>626の漢文のままではあまりに読みにくいでしょうから、
『國訳一切経』の書き下しを紹介します。
全体の構成を見て、釈尊が何をおっしゃっているのか、正しく理解しましょう。
- 670 :深山:2012/02/05(日)
19:22:41
- ・五戒品は布教ではなく五戒の話
五戒品は、
『國訳一切経 阿含部8』106頁
にあります。
十の経典が対をなしており、独立した経典ではありません。
十は五戒に対応して、次のように二つが一組になっています。
1.殺生 2.不殺生
3.盗む 4.不盗
5.邪淫 6.不邪婬
7.嘘つき 8.不妄語
9.飲酒 10.不飲酒
桐山さんが取り上げたのはこの内の4番目です。
他人の物を取るのではなく、むしろ、人に施しをしなさいと説いた経典であって、
護摩木を売り歩け、星まつりのイベントを手伝えなどという話ではありません。
これらが対になっていることを理解するために、
まず、最初の「1.殺生」から見てみましょう。
- 671 :準シュダオン:2012/02/05(日)
19:23:01
- >・・「御霊示、御霊示」ってあなたね。何様のつもりですか?
これは↑おかしな表現ですねw。御霊示を受けるからといって、何様と考える
必要はないよ。霊能力があるからといって、別段、偉いわけでもない。
私は、不幸に人生を終えた霊能者も知ってるしね。
霊能力があるからといって、偉いわけでもないし、幸福なわけでもないよ。
霊能力があることによって、不気味がられ、不幸な人生を送る人さえいるよ。
だから私の、霊示のことは、匿名でのネット以外には話していないよ。
- 672 :深山:2012/02/05(日)
19:24:21
- ・戒律1.不殺生を破ればどうなるか
1.聞くこと是の如し。一時、仏、舎衛国祇樹給孤独園に在
しき。爾の時世尊、諸比丘に告げたまわく、「此の衆中
に於て我一法を見ず。修行し己り、多く修行し己れば
地獄行を成じ、畜生行を成じ、餓鬼行を成じ、
若しは人中に生るるも寿命極めて短きものを、
所謂殺生なり」。
諸比丘、若し人有って意に殺生好めば、
便ち地獄・餓鬼・畜生に堕し、若し人中に生るれば寿命極めて短し。
然る所以は他の命を断ずるを以っての故に。
是の故に殺生莫きことを学ぶべし。
是の如く諸比丘、当に是の学を作すべし」と。爾の時諸比丘、
仏の所説を聞きて歓喜奉行しぬ。
書き下し文は少々読みにくいが、構成や表現が桐山さんが引用した経典と
良く似ているのがわかります。
この経典の主旨は「殺生」です。
殺生をなせば三悪道に落ちるから、やってはいけないと述べていることです。
では、次にこの経典と対になっている2番目を見てみましょう。
- 673 :深山:2012/02/05(日)
19:25:49
- ・戒律1.不殺生を守ればどうなるか
2.聞くこと是の如し。一時、仏、舎衛国祇樹給孤独園に在
しき。爾の時世尊、諸比丘に告げたまわく、「此の衆中
に於て我一法を見ず。修行し己り、多く修行し己れば、
人中の福を受け、天上の福を受けて泥諸Yの証りを得ん。
所謂不殺生なり」。仏、諸比丘に告げたまわく、
「若し人有って広く殺生を行わず、亦殺すことを念はざれば、寿命極めて長し。
然る所以は彼渚ョ亂せざるを以っての故に。
是の故に諸比丘、当に不殺生を学ぶべし。
是の如く諸比丘、当に是の学を作すべし」と。爾の時諸比丘、
仏の所説を聞きて歓喜奉行しぬ。
この経典の主旨は「不殺生」です。
1の経典(>>671)と対になっているのが良くわかります。
そこで、3に行きます。
- 674 :深山:2012/02/05(日)
19:27:41
- ・戒律2.不盗戒を破ればどうなるか
3.聞くこと是の如し。一時、仏、舎衛国祇樹給孤独園に在
しき。爾の時世尊、諸比丘に告げたまわく、「此の衆中
に於て我一法を見ず。修行し己り、多く修行し己れば地獄行を成じ、
餓鬼畜生行を成じ、
若しは人中に生るれば極めて貧匱となり、衣類は形を蓋(おお)はず、食は口に充たざらん。
所謂劫盜なり」。
諸比丘、若し人有って意に劫盜を好み、他の財物を取らば、
便ち餓鬼畜生中に堕し、若し人中に生るれば極めて貧匱とならん。
然る所以は他生の業を断ずるを以っての故に。
是の故に不輿取を遠離を学ぶべし。
是の如く諸比丘、当に是の学を作すべし」と。爾の時諸比丘、
仏の所説を聞きて歓喜奉行しぬ。
この経典の主旨は「劫盜」つまり、他人の物を盗むことです。
他人の物を盗んだら餓鬼畜生の境涯に落ちるぞと警告している。
この3の経典と対になっているのが、次の4、つまり桐山さんが引用した経典です。
- 675 :深山:2012/02/05(日)
19:30:19
- ・戒律2.不盗を守るならどうなるか
4.聞くこと是の如し。一時、仏、舎衛国祇樹給孤独園に在
しき。爾の時世尊、諸比丘に告げたまわく、「此の衆中
に於て我一法を見ず。修行し己り、多く修行し己れば、
人中の福を受け、天上の福を受けて泥沼の証りを得ん。
所謂広施なり」。
仏、諸比丘に告げたまわく、「若し人有
って広く布施を行ぜば、現世の中に於て、色を得、カを
得、衆得具足し、天上、人中の食福無量なり。是の故に
諸比丘、当に布施を行じ、慳心有るこど勿るべし。是の
如く諸比丘、当に是の学を作すべし」と。爾の時諸比丘、
仏の所説を聞きて歓喜奉行しぬ。
この経典の主旨は不盗から来た「他人に施すこと」です。
再度申し上げるが、これは3の「盗」という経典と対になっている点です。
つまり、五戒の一つ「盗んではならない」との戒律を
3と4でくり返し説明したものです。
他人から物を盗むどころか、むしろ他人に物をあげれば、
その行為(業)の報いとして、物質的な豊かさを享受できると説いている。
以下、同様に、
5.邪淫 6.不邪婬
7.嘘つき 8.不妄語
9.飲酒 10.不飲酒
と言うように、対になって説いている。
つまり、五戒品は五戒そのものについての説明であって、
布教をしろという話ではないことは全体を見れば明らかです。
- 676 :準シュダオン:2012/02/05(日)
19:32:09
- >桐山さんが取り上げたのはこの内の4番目です。
他人の物を取るのではなく、むしろ、人に施しをしなさいと説いた経典であって、
>護摩木を売り歩け、星まつりのイベントを手伝えなどという話ではありません。
これらが対になっていることを理解するために、
>まず、最初の「1.殺生」から見てみましょう。
おっと、この↑部分は目に入りましたから、期待(?)して待つことにします。
どうせデタラメ講義だろう、なんてことは申しませんよw。
- 677 :深山:2012/02/05(日)
19:33:12
- ・五戒を守ることに布教は含まれない
桐山さんの解説を見ていて悪質だと思う点がいつかあります。
一つ目が、不盗戒を説いた経典を、まるで護摩木売りを
釈尊が認めたかのようにすり替えた点です。
釈尊が3と4番目の経典で主張したいのは、他人の物を取るのではなく、
むしろ、他人に多くの物を施せと言っているのです。
この経典での広施とは明らかに物質的な物を指しているからこそ、
その功徳は次のようなものです。
「・・・その者は現世の中において物質的な徳を得て、また力を得て、
さらにはその他もろもろの徳を身に備えて、天上界と人間界の福を無量
に享受します」(『仏陀の真実の教えを説く[中]』35頁)
いずれも物質的な世俗的な福徳を指しています。
これらはいずれも出家が目指すべきものではなく、在家への訓戒です。
出家が目指すべきものは、その次にある以下の言葉です。
「もの惜しみや貧りの心を捨てなさい」
これが釈尊がこの経典で比丘たちに言いたいことです。
確かに釈尊は布施という言葉を用いているが、比丘たちの
実践しなければならない布施とは、煩悩を捨てることです。
それを布教と広く解釈することも間違いとは言えないだろうが、
この経典だけ見るなら、それは書いていない。
これは五戒を守ることを強調した経典です。
五戒を守ることに布教は含まれません。
- 678 :深山:2012/02/05(日)
19:35:28
- ・釈尊は法施だけを強調したのではない
桐山さんの二つ目のゴマカシは、
「此の衆中に於て我一法を見ず」
という一文の悪用です。
「その肝心要の一法こそが、広施の行です。」
(仏陀の真実の教えを説く[中]、38頁)
などと、まるで釈尊が布教活動のみを極端に強調したかのように
錯覚させている点です。
実際は、残りの9つの経典を読めばわかるように、五戒の
すべてについて、釈尊は「此の衆中に於て我一法を見ず」と述べている。
つまり、>>661でユビキタスさんがまとめているように、
釈尊は広施だけを一法と特別に取り出したのではありません。
五戒のすべてを一法と強調したのです。
五戒をすべて守ることが基本であり、その上で比丘は涅槃に至り、
在家は大きな福徳を得られる。
それを桐山さんはまるで釈尊が広施だけを足りないと言っているかのように
錯覚させています。
釈尊は五戒を守れと言っているだけです。
- 679 :深山:2012/02/05(日)
19:39:20
- ・戒律を守らない者の末路
信者さんたちは、五戒品を見た時、桐山さんが引用しなければならないのは、
4番目だけでなく、残りの、
5.邪淫 6.不邪婬
7.嘘つき 8.不妄語
9.飲酒 10.不飲酒
すべてだと思いませんか。
桐山さんに全部あてはまる。
桐山さんは、解脱を宣言した後に愛人がいた。
桐山さんは、三福道と書いてある三供養品があるかのような嘘をついていた。
桐山さんは、龍神様が飲むと称して高級酒をたしなむ。
全部、彼は戒律を破っている。
釈尊によれば、これらの戒律を破る者は、
「地獄・餓鬼・畜生中に堕し・・」
「畜生・餓鬼中に堕せん・・」
「畜生・餓鬼・地獄の罪を受け・・・」
とあります。
桐山さんの行く末はこのようなものだと釈尊がおっしゃっている。
信者さんたちは桐山さんの後をついて行き、護摩木売り、星まつりと
いう外道のイベントの手伝いをすれば、行き先は桐山さんと同じです。
金と時間と労力を使い、わざわざ地獄・餓鬼・畜生に墜ちたいらしい。
- 680 :準シュダオン:2012/02/05(日)
19:45:24
- >この経典の主旨は不盗から来た「他人に施すこと」です。
再度申し上げるが、これは3の「盗」という経典と対になっている点です。
>つまり、五戒の一つ「盗んではならない」との戒律を
3と4でくり返し説明したものです。
>他人から物を盗むどころか、むしろ他人に物をあげれば、
>その行為(業)の報いとして、物質的な豊かさを享受できると説いている。
いいじゃないですかそれ↑で。盗むよりは施せ、という教えでしょう。
比丘には、法を施せ、という教えです。
在家には、八法を施せ、という教えでしょう。
阿含宗は、八法を施す手段として護摩木を利用してるに過ぎないのです。
それを、ひねくれた人は、護摩木を売るのが目的だ、と解釈してるだけです。
仏法を教え、仏法に縁をつける、というのが護摩木勧進の趣旨なのです。
- 681 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/05(日) 20:09:13
- >>632:準シュダオン12/02/05(日) 10:03:34
>教えを説く上巻のP169から、出家の梵行と在家の梵行を説いていますね。
>そして、P175に、梵行とは、「浄め、高める修行」です、と説いています。
ではそこの部分をこちらで引用してみましょう。
「出家というものは生活や生き方そのものが梵行であり、それはむしろ「戒律」に
属するものですから、お釈迦さまはあえて梵行とはおっしゃらず、法と律について
のみ説かれていたのです。それに対して在家の者は世俗の中で生きておりますから、
より高い解脱を求めるためには、絶対に梵行が必要となります。
(174〜175頁)
出家の梵行が生活そのものであることはその通りです。
戒律に基づいた生活こそ梵行です。
ではその戒律に基づいた生活としての梵行とはどういうものであるかが
書かれていませんね。欲望の起こることを断つ禁欲生活です。
そして在家にもまた梵行を実践して深い迷いを離れる人たちが少人数でなく
何百人も存在することを経典原文と現代語訳は示しています。
これを出家と在家の梵行は別だと捉える方がどうかしている。
出家と在家の違いは程度問題なのだから梵行にしても基本は変わらず禁欲生活であり
戒律の実践です。
つまり在家でも戒律に基づいて禁欲生活をするのです。
それで生活が成り立たないなんてことは決してありません。
175頁の「浄め、高める修行」についての桐山記述も引用しましょう。
「梵行とは「浄め、高める修行」です。まず、法にしたがって身を浄める。また、
先祖供養をして不成仏霊・霊障のホトケを成仏させる、という霊的な浄化も
これに入ります。そこから、仏さまのてつだいをして徳を積み、自分を高める。
このように「浄め、高める修行」が梵行です。」
どうですか?先祖供養だの霊障だの仏さまの手伝いだの、経典にも少しも謳われて
ないことをいつの間にか梵行の定義にしてしまったかがわかるでしょう?
梵行はたしかに清浄行と言います。しかしそれは禁欲の浄らかさであり
霊的清浄だの仏の手伝いをする布教の徳なんてことを清浄だなんて根拠がありません。
- 682 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/05(日) 20:25:19
- >>634:準シュダオン12/02/05(日) 10:25:53
>そうではない、というのならば、じゃあ、逆に訊くけど、具体的な梵行とは
>何をすればよいのか、ということになるでしょ。
>戒を守るだけでは梵行とは言えませんからね。
いいえ、戒律を守って禁欲生活をすることです。
具体的には性生活を断つ。
スケベ屋さんに行かない。
オナニーにも耽らない。(喩えが悪いがオウムの上祐さんが言ってましたね。
「私はもう何年もセックスもしていなければオナニーもしていない。修行とは
そういうものですよ」と。)
セックスに限らず欲望を煽るようなことは一切避けてしない。
これが梵行という戒律生活です。
梵行という呼吸法付きの体操を一日30分やって、後は趣味三昧、し放題なんて
レジャーではないのですよ。
- 683 :準シュダオン:2012/02/05(日)
20:27:17
- >信者さんたちは、五戒品を見た時、桐山さんが引用しなければならないのは、
>4番目だけでなく、残りの、
5.邪淫 6.不邪婬
7.嘘つき 8.不妄語
9.飲酒 10.不飲酒
>すべてだと思いませんか。
すべてだとしても、すべて取り上げていたら本が分厚くなって読む人がいなく
なりますよ。深山さんの膨大なレスを読む人がマニアックな人だけみたいなね。
だから、管長は大事な、盗むの対の施を取り上げたのです。
施の中でも、尊い法施、を説く有無品を並立させて解説したのです。
法施である16法の実践が、大切なのだとね。
なんでそういう簡単なことが解らんのかねw。
>桐山さんに全部あてはまる。
>桐山さんは、解脱を宣言した後に愛人がいた。
愛人だと確信するのは、卑しい人間の思考パターンの証拠です。
真実の関係を知るのは当事者だけです。愛人関係なのか、単なる親しい弟子なのか、
そういうことは、世界が有限か無限か、を考えるようなもんで、キリが無いんです。
そういうことは判断しないこと、思考停止が正解なのです。
それを思考停止できたら、我見を離れた証拠です。
推測してるうちは我見です。
- 684 :準シュダオン:2012/02/05(日)
20:41:40
- >どうですか?先祖供養だの霊障だの仏さまの手伝いだの、経典にも少しも謳われて
>ないことをいつの間にか梵行の定義にしてしまったかがわかるでしょう?
>梵行はたしかに清浄行と言います。しかしそれは禁欲の浄らかさであり
>霊的清浄だの仏の手伝いをする布教の徳なんてことを清浄だなんて根拠がありません。
ですから、それが本来の梵行の意味を解った上での、管長の説く梵行なのです。
先祖供養が梵行なのだなんて、阿含経には説いていません。しかし、清めるの中に
霊的な浄化が含まれるとの考えは、霊視できる管長にして、避けられない内容なの
でしょう。ですから、信じられない人は否定したら良いのです。
経典に書いてあることだけが真実だ、と思う人はそれで良いのです。
私は、因縁の洗い出し現象、聖なるバイブレーション、霊示、と、管長は
説いても、経典には説かれていないことを体験しました。
ゆえに、わたしは、経典を盲信するよりは、管長言の方をより信じていますね。
いないこと
- 685 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/05(日) 21:24:57
- >>680:準シュダオン12/02/05(日) 19:45:24
>いいじゃないですかそれ↑で。盗むよりは施せ、という教えでしょう。
>比丘には、法を施せ、という教えです。
>在家には、八法を施せ、という教えでしょう。
そのように桐山さんが説きたいのだとしたら、まずは経典原文の盗と不盗という
対の構図を明らかにして、その上で、この広施とは、と論じるのが筋ではないですか?
全文引用邦訳解説したら頁が増えるなんて屁理屈の逃げです。
この中巻でも桐山さんの無駄話は随所に見られます。
簡単に五戒を破る者と守る者の果報を紹介して、その中の一部として盗の対となる
不盗を逆の布施の行為で説明している構図を示すべきです。
それをしないのは、他の部分を見せたくないからです。
あたかも広施だけが法施布教として強調されているかのように錯覚させたかったのです。
五戒の盗・不盗の話の構図として示されている事実を知らせたら、自分が強調して
騙したいことが見破られてしまうからです。
だから甚だ卑怯なんですね。
今回これが五戒品解説として掲載されていたら、これは三福道の命名たることを
隠して提示してきたことと同根の捏造です。
しかし五戒品・四としての解説としたから、最低限その捏造とまでは言えなくなった。
しかし四以外の9つを隠していることには変わりない。
そもそも四だけ取り上げて解説するのが、この経典では考えられない話なんです。
素人は知らないことをいいことに、欺いているわけです。
- 686 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/05(日) 21:38:39
- >今の深山さんやラシンさんは、知識を沢山集めて、
宗教学者には成れても、シュダオンにはなれないでしょうね。
批判の誰もが、拳しを握りしめて、批判としていません。
できる限り、出典や論拠をあきらかにしています。
読者の誰もが確認できるように、典拠の列記を配慮している。
個人の主観を避け、経典と学説と公文を掲示している。
知識ではなく、共有すべき公平性を考えているからです。
桐山さんの場合は、経典や学説を勝手都合に切り貼り併用し、
不都合なものは、くわしく明記しないで、匂わすだけです。
学説の権威を利用するスベは、異常なほど練磨されている。
たとえば、
密教にもない念力の護摩法をあるかのように吹聴し、
故人となってから密教の碩学の名を使って偽装した。
密教のグモンジ法も密教を非難しながら、
ヨーガで成就したと粉飾し偽装した。
クンダリーニの覚醒など、他人が確認できない自己申告を
にわか仕込みのヨガ解説をもって論拠とした。
桐山さん自身で命名した各種の法も、他者が確認できない
「ご霊示」で、世間の目を偽っている。
桐山さんの僧籍も、著書によっては記憶が違いすぎます。
僧籍もアジャリ伝法灌頂も、坊さんにすれば誕生日と同じです。
それを記憶に止められないのは、宗教家の資質いぜんの問題です。
どれもこれも、桐山さんの過去から真実を探し出すことは、
至難のワザです。
- 687 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/05(日) 22:14:17
- >>665:ラシン ◆xvojmuQ90o12/02/05(日) 18:36:43
>この声明文によれば、東日本の被災者の何人を招待するつもりなのか。
>慈善なのか偽善なのか、自慢を込めた宣伝文なのか、
>よくわからない文章です。
もちろん自慢をこめた偽善の宣伝文でしょう。
本当は東日本大震災の被災者の為なんかではなく、彼らを招待すると内外に宣伝
することにより、慈善者であることを誇示したいのです。
慰問の気持ちが本当にあるならば、桐山さん自身東北の信者のところを訪れても
よさそうなものを、天皇皇后両陛下ですらしていることを自らしようとしない。
東北の被災者に往復交通費、宿泊費込みで招待しようとも金だけ出して
スポンサーになって名声を得ようとまだしている。
だから宣伝する。たぶん今度の土曜日、星まつりのテレビ放送でも、このことは
放送案内して自慢するのではないか?
>そこで結ばれる文章は、瓦礫の山から新しい文明が生まれる。
>死は生命の終わりではなく新たな生命の誕生なのだ。
>今後の中心指導となる「輪廻転生瞑想法」を修行すれば、
>自分の望むような理想の来世で、新た生を得ることができる。
これがひどい関連付けですよね。後述のゲップでも出そうなホーセグッズの宣伝も
さることながら、瓦礫の中から新たに生まれる文明とは来世への期待なんだそうだ。
これは災害に負けずにいまこのつらい世の中を乗り越えて復興を目指そうとする
ことに水を挿すような話だ。
瓦礫の運命ひどかった。これからはああはなるまい。
なりたくなかったら来世に賭けろと説くことは被災者に対する侮辱であり
悪用に他ならない。
くっつけてよいものと悪いものがある。
- 688 :深山:2012/02/05(日)
23:22:51
- >>680 :準シュダオン:2012/02/05(日)
19:45:24
>それを、ひねくれた人は、護摩木を売るのが目的だ、と解釈してるだけです。
>仏法を教え、仏法に縁をつける、というのが護摩木勧進の趣旨なのです。
護摩木もろくに買って準シュダオンさんが、「護摩木勧進の趣旨なのです」??!!
どこまであなたは面の皮が分厚いのだ。
人に物を施すなら、何でも良いのか。
インチキでもデタラメでも、釈尊が禁止した護摩でも、
何でも相手に布施しろなどとは言っていない。
釈尊が禁止した護摩木を売ることが法施などというほうが、
よほど「ひねくれた人」です。
準シュダオンさんのことです。
- 689 :深山:2012/02/05(日)
23:24:40
- >>683 :準シュダオン:2012/02/05(日)
20:27:17
>すべてだとしても、すべて取り上げていたら本が分厚くなって読む人がいなく
>なりますよ。深山さんの膨大なレスを読む人がマニアックな人だけみたいなね。
桐山さんは準シュダオンさんとそっくりのことをした。
阿含経の一部分だけを取り上げて、その意味を歪めた。
準シュダオンさんの得意技ですよね。
覚えていないだろうが、あなたの引用した阿含経を
私が検索して探し出し、前後を引用して、あなたが正反対の意味に
書いたのを何度か暴露してあげた。
あなたも桐山さんと同じで、嘘がばれても恥じることもない。
見ていて、本当に準シュダオンさんは桐山さんの良き弟子です。
口を開けば嘘が出てきて、恥知らずで、無知な癖に頭が良いふりをするのが大好きです。
一つ違うとすれば、桐山さんは愛人がいるほど持てたが、
あなたは持てるどころか、職場の女性からも嫌われた。
- 690 :深山:2012/02/05(日)
23:27:12
- >>683 :準シュダオン:2012/02/05(日)
20:27:17
>施の中でも、尊い法施、を説く有無品を並立させて解説したのです。
だから、インチキだと言っているのです。
五戒品には法施の話なんて出てこない。
五戒品の主旨は、盗むなが基本であり、在家に対しては物を他の人たちに布施すること、
出家に対しては貪りの心を捨てることを説いただけです。
五戒がこの経典の主旨である限り、広施に布教の意味など含まない。
ただの拡大解釈です。
アゴン宗の法施って何ですか。
因縁解脱、死者成仏、霊障解脱?
阿含経のどこで釈尊がそんなオカルト外道を説いた?
釈尊が説いてもいない外道を他人に伝えことを法施とは言わない。
- 691 :深山:2012/02/05(日)
23:29:45
- >>680 :準シュダオン:2012/02/05(日)
19:45:24
>愛人だと確信するのは、卑しい人間の思考パターンの証拠です。
卑しいのは愛人を作った桐山さんです。
あなたは裁判の資料すらろくに知りもしないくせに、
ペラペラと舌先三寸で書き続ける愚か者です。
桐山さんがE川さんに出した御霊示の目撃者の証言を嘘だという根拠は何だ?
2ちゃんねるの68に引用してある。
桐山さんは御霊示の中でE川さんに、夜11時に自分の宿泊するホテルに来いと命じた。
夜中に、まだ二十代の女性をたった一人で来いという。
「今夜にでも」と御霊示には2回も書いてあった。
第三者が見たら、桐山さんは「盛りついた犬」です。
そして、この1989年頃を境に、E川さんは別院では特別扱いになり、
お金に困っていたはずの彼女の生活ぶりも一変し、
ブランド品で身を飾るようになった。
- 692 :深山:2012/02/05(日)
23:32:22
- >>680 :準シュダオン:2012/02/05(日)
19:45:24
>愛人だと確信するのは、卑しい人間の思考パターンの証拠です。
裁判に提出された資料の中には、浴衣姿の桐山さんの胸にE川さんが
頭をもたせかけた写真まであった。
浴衣姿の男の胸に頭をあずける女、その両者の関係が
準シュダオンさんには赤の他人に見えるらしい。
また、2ちゃんねるの67に引用してあるように、
桐山さんはE川さんに歌まで贈っている。
歌の内容は、誰が読んでも恋文です。
桐山さんは「弟子などいない」と法話で言ったそうだから、
E川さんが内弟子であることを桐山さんは否定したことなる。
では、
「高原の千草の影の風さやか
そぞろに君のしのばるるかも」
「吉兆で君の名を問う
春の醉」
とは、どんな間柄の信者に送ったのだ?
「しのばるる」「君の名を問う」とは、どういう意味だ?
いや、返事をしなくてもいい。
準シュダオンさんのそのマダラ脳味噌では、
「しのばるる」とは思い出すこと、「君の名を問う」とは、
名前を聞いただけなんでしょう?
桐山さんの世代なら、「君の名」は特別な意味があるのです。
- 693 :深山:2012/02/05(日)
23:34:04
- >>680 :準シュダオン:2012/02/05(日)
19:45:24
>愛人だと確信するのは、卑しい人間の思考パターンの証拠です。
愛人などではないというなら、桐山さんはどうしてはっきりと
信者の前でそのように宣言しないのだ?
桐山さんはただの一度も信者に対してこの件の説明をしていない。
裁判が終わって一年以上もたつのだから、説明する時間はいくらでもあった。
週刊誌であれだけ醜聞が流れたのだから、肩身の狭い思いをしている信者の
ためにも、きちんと身の潔白を示す義務がある。
だが、愛人がいたことは事実であり、準シュダオンさんと同じで
卑怯者だから桐山さんは説明しない。
言い訳をすれば嘘をつくしかなくなり、嘘をつけば、
さらにE川さんの強迫ネタを増やすことになるから、何も言えない。
だんまりを決め込んで、信者が忘れるまで待つという、いかにも
桐山さんらしい卑怯な方法を選ぶしかないのです。
「私は身に覚えがないから、裁判で堂々と戦い、勝利しました」と
どうして報告しないのだ?
こそこそと5千万円と高級マンションをあげて裏取引したという噂すら流れている。
あなたは知らないだろうが、釈尊は二度女性関係を疑われた。
だが、ちゃんと身の潔白を示し、また誰もが納得できる形で解決した。
本物の解脱者とはこのようなもので、逃げ隠れするのは卑怯者の詐欺師だけです。
- 694 :深山:2012/02/05(日)
23:37:10
- >>680 :準シュダオン:2012/02/05(日)
19:45:24
>愛人だと確信するのは、卑しい人間の思考パターンの証拠です。
E川さんがどれほど特別扱いされていたか、準シュダオンさんは
田舎にいたから、何にも知らない。
準シュダオンさんはボン行を長期的にしたこともないから、彼女が
どれほど奇妙な存在だったか、言われてもわからない。
関東別院では修行者たちは彼女に首を傾げていた。
職員の権限すらも上回る権限を彼女は持っていた。
職員の許可など必要なく、好きなお役がやれた。
イベントでは必ず目立つお役、パーティーがあればいつも上席です。
他の有名先達のように、導きや護摩木の本数がすごいのでもないのに、
いったいどうして彼女だけが特別扱いなのか、みんな不思議がっていた。
『メシア出現』の本を書いたと言っても、あれは誰がみても平河出版が
編集したもので、彼女にはあれだけの編集能力はない。
先達としてアゴン宗に大きく寄与しているのでもなく、編集などの能力に
優れているのでもなく、ピンク色のでっかいリボンをつけて蝶々のように
別院を飛んでいるだけのE川さんが、どうしてあれほど特別扱いされるのか、
修行者たちは一様に不思議に思っていた。
離婚した後のE川さんはお金がなく、困っていた時期があった。
ところが、別院で目立ち始めた頃には、働いている様子もないのに、
ブランド品を身につけていた。
その金の出所を修行者たちは不思議に思っていた。
だが、彼女が当時桐山さんの愛人だったすれば、これらの疑問は氷解する。
- 695 :深山:2012/02/05(日)
23:38:46
- >>680 :準シュダオン:2012/02/05(日)
19:45:24
>愛人だと確信するのは、卑しい人間の思考パターンの証拠です。
氷解したのは、当時の彼女の特別扱いだけではありません。
あなたは知らないだろうが、二十年前、別院ではYANが台頭して、
しかも、中心人物のS瓶さんが失脚するという事件があった。
彼は女性問題を問われて失脚したというのだが、
では、誰が桐山さんにそれを垂れ込んだのか。
また、失脚したS瓶さんが仲間の前で地階で演説していると、
階上にいた桐山さんが飛んできて、彼をまた叱責した。
桐山さんは超能力で見抜いたかのように言ったそうだが、ありえない。
誰かが演説する彼を見て、直接桐山さんに垂れ込んだのだ。
普通なら、見栄をはって演説しているのだから、放置すればいいのに、
さらに恥をかかせるようなことをしている。
桐山さんとツーカーの人物で、しかも相当にS瓶さんに恨みがある。
いったい、桐山さんに告げ口をしたのは誰なのか。
- 696 :深山:2012/02/05(日)
23:41:01
- >>680 :準シュダオン:2012/02/05(日)
19:45:24
>愛人だと確信するのは、卑しい人間の思考パターンの証拠です。
これが私の二十年来の疑問だったが、E川さんがS瓶さんとできていて、
しかも、桐山さんとも愛人関係にあったと聞いて、すべてが納得できた。
S瓶さんの女性関係を知って、E川さんが裏切りに怒り、復讐のために
桐山さんに垂れ込んで、彼を失脚させたのだ。
彼女なら、地階でのS瓶さんの演説を聴いていても誰も気にしないし、しかも
そのまま階上に上がり、桐山さんの部屋に行き、直接垂れ込むことができる。
男二人は、E川さんと男女関係になり、手玉に取られていた。
霊的に浄化されたはずのアゴン宗は男と女の三角関係と愛欲ドロドロの道場だった。
こんなふうにE川さんが愛人だったとすれば簡単に説明のつくことが
たくさんあるのです。
私はあなたと違い、別院所属だったから、目立つE川さんの事は
目撃し、また修行者仲間での噂もたくさん聞いている。
私のが卑しい人間の思考パータンなら、
準シュダオンさんの無知の妄想パターンです。
- 697 :深山:2012/02/05(日)
23:47:49
- >>680 :準シュダオン:2012/02/05(日)
19:45:24
>そういうことは判断しないこと、思考停止が正解なのです。
準シュダオンさんて、本当に何にも知らないのに、
すべてを知っているかのようにお説教を平気で垂れる。
どうしてそんな面の皮が厚いのだろう。
仏教では出家が異性関係を疑われたら、徹底的に追求される。
その追求された場面が律などの経典に残っています。
被害を受けた比丘尼に対する追求など、人権侵害ではないかと
思われるほど厳しい追及が行われている。
そして、男女関係があったと判断された場合には、教団追放です。
信者さんたちもよおく知っておくことです。
比丘が男女関係があったと疑われたら、まず激しく追求される。
出家は月に2回集まり、反省会をして、そこで違法行為があれば追求される。
男女関係など絶対に容赦されません。
桐山さんのようなことがあれば、間違いなく教団から追放されます。
つまり愛人のいる桐山さんを聖者だと崇拝する信者さんたちは
まさに準シュダオンさんのように思考停止に陥っている。
ハーレムを作っていた麻原彰晃を聖者だと尊崇していた連中とかわりませんよ。
- 698 :深山:2012/02/05(日)
23:53:13
- >>680 :準シュダオン:2012/02/05(日)
19:45:24
>そういうことは判断しないこと、思考停止が正解なのです。
なるほど、あなたは思考停止しているのですね。
自覚していたとは知りませんでした。
桐山さんに都合の悪いこととなると急に思考停止するのは、
あなただけでなく、信者にはよく見られる。
ただし、あなたの場合、思考停止させるというよりも、最初から思考していない。
元々、性格が悪い上に、脳梗塞で記憶力は壊滅状態だし、論理回路も壊れている。
壊れた部分を慢心と無恥と妄想で補っている。
他の信者にも勧めたことがあるのだが、三十本結束した護摩木で思いっきり
頭を叩いてみれば、回路が復帰するかもしれない・・え、三十本も護摩木を
買ったことがないって?
そうか、準シュダオンさんの場合、シッポ如来でも救いようがないのだ。
- 699 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/06(月) 08:36:37
- >>684:準シュダオン12/02/05(日) 20:41:40
>ですから、それが本来の梵行の意味を解った上での、管長の説く梵行なのです。
解った上で梵行を名乗り、拡大解釈で説くのならば、それを断り書きするのが
筋ではないかと申しておるのです。
あなたの言いたいことはわかりますよ。
桐山さんは言外に清浄行と言うが禁欲程度で真の清浄が得られるだろうか?
それは小清浄、小梵行というものであり、もっと欲望の根幹にある先祖の抑圧衝動
を霊的に解決することこそ大清浄であり大梵行であると。
しかしそれを言いたいなら言外では駄目でしょうが。
いやしくも仏教用語となっている梵行という言葉を借用しようというのだ。
ならばまず従来使われている用語の意味は忠実に示した上で、自分が補足する
意味を添えるべきでしょう。
しかし言葉を添えたって、これって小解脱と大解脱の決め付けと何ら変わりない。
小清浄、小梵行と罵る根拠を経典の中から見つけて、霊的清浄を大梵行たる根拠
を示す義務があります。
それができない、単なる自分の体験とやらに基づく考えに過ぎないのならば
梵行という言葉の使用を諦めるべきです。
別の言葉を命名すればよいではないか?
福行でもよいし、霊的浄化行でも積徳行でもよい。
梵行なんて言葉より霊的浄化行や積徳行の方が桐山意味を伝えている。
ただしこういう用語も仏教界でまかり通っている用語と勘違いさせぬ為に
桐山造語命名であることをきちんと明記した上でね。
三善根という用語を封印させてまであれほど三福道という用語を造語命名した
桐山さんです。
経典の提示という厳密厳格公正な作業ではなく、自分の教団の実践活動に
どうして梵行などという主に性欲を断つ禁欲行と誤解させる梵行という言葉を
使用するのか?
その場その場で都合がよいですね。
- 700 :天照
◆MO30b8Jwoo:2012/02/06(月) 08:59:20
- 結局辞典の意味や解釈まで出すと梵行の意味が通せなくなる。
持論で桐山擁護の「梵行」を出したければゆびさんのいうようにはできないしやりたくない。
だからやらない。
かと思えば辞典の一部や都合の良いところだけは引用して「ほらね」という。
どこまでも自己都合主義で有るかが窺える。
本来はユビさんの言われるようにすべきが常識であるものです。
- 701 :準シュダオン:2012/02/06(月)
09:21:36
- >護摩木もろくに買って準シュダオンさんが、「護摩木勧進の趣旨なのです」??!!
護摩木もろくに買っていない、と↑言いたいのかい?例によって慢に比例した
膨大な深山さんのレス量で、とても全部読めたものではない。が、ほんの少し目に
した部分だけを、答えてあげよう。
>どこまであなたは面の皮が分厚いのだ。
厚さはあなたの半分もないよ。レス量を見れば歴然としている。
>人に物を施すなら、何でも良いのか。
当人同士が良ければよいだろう。横から的外れの口を挟む必要はない。
- 702 :準シュダオン:2012/02/06(月)
09:29:46
- >覚えていないだろうが、あなたの引用した阿含経を
>私が検索して探し出し、前後を引用して、あなたが正反対の意味に
>書いたのを何度か暴露してあげた。
それはご苦労さんだね。愚か者は進歩しないから何年経っても同じ考えなのだ
ろうが、私は進歩してるから考えが変るのだ。違う解釈をしてる場合は、その
ように捉えてほしい。が、たぶん、あなたの解釈間違いだと思うけどね。
ところで、あなた、まだアビダルマ論の預流向の定義と、経典の預流向の定義の
違いに気付いていないのかい?
>あなたも桐山さんと同じで、嘘がばれても恥じることもない。
嘘がばれても?
あなたみたいに嘘ついた覚えはないよ。
- 703 :準シュダオン:2012/02/06(月)
10:07:27
- >だから、インチキだと言っているのです。
>五戒品には法施の話なんて出てこない。
>五戒品の主旨は、盗むなが基本であり、在家に対しては物を他の人たちに布施すること、
>出家に対しては貪りの心を捨てることを説いただけです。
>五戒がこの経典の主旨である限り、広施に布教の意味など含まない。
>ただの拡大解釈です。
では、私がラシンさん、深山さん、ユビさん、のレスのアチコチをチラリと見て
五戒品の説くところを会得したので、解説してみよう。漢文を読んでいないけど、
たぶん、正しい解釈でしょう。
五戒品は、戒を梵行に転じた教えです。それは、どういうことか?
戒を消極的に守るだけでは梵行とは言い難いのです。
戒を積極的に展開し、梵行と為すのです。
不遜ながら、釈尊をまねて説いてみよう。以下のごとく。
「皆さん、殺生は悪趣・地獄へ趣く道です。生あるものを愛護することは、善趣・
涅槃へ至る道であり、清い行いであり、梵行なのだと知るがよい。
邪淫は災いの素であり、悪趣・地獄へ趣く道だと知るがよい。貞操を守り、身を
慎むことは涅槃へ至る道であり、清い行いであり、梵行なのだと知るがよい。
欺くことは災いの素であり、悪趣・地獄へ趣く道だと知るがよい。真実のみを語
り、悪口を言わず、口を慎むことは涅槃へ至る道であり、梵行なのだと知るがよい。
盗むは災いの素であり、悪趣・地獄へ趣く道だと知るがよい。広施は涅槃へ至る
道であり、清らかな行いであり、梵行なのだと知るがよい。
飲酒は災いやトラブルの素であり、悪趣・地獄へ至る道だと知るがよい。不飲酒
にして正念・生気を保は涅槃へ至る道であり、清らかな梵行名のだと知るがよい。」
と、まぁ、以上のような具合になりますね。この中から、管長は重要な一つを
選んで、本に書いたのです。それが広施です。16法に相当します。
釈尊が、アヌルダに説いた「如来は六法の求めにおいて尽きることはない」の
六法の一つが「施」ですね。
そのように、施(広施)が重要なのですね。
- 704 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/06(月) 10:56:40
- >>あなたも桐山さんと同じで、嘘がばれても恥じることもない。
>嘘がばれても?
あなたみたいに嘘ついた覚えはないよ。
桐山さんはむかしから、息を吐くようにウソを吐いてきた。
ウソをつくことに麻痺した人は、その自覚すらなくなるらしい。
他人を根拠なく疑い、推量するのはよくありませんが、
誤解をまねいた場合、機会があるときは誤解を解くべきです。
桐山さんの場合は、過去よりいくども問われて来たのですから、
新著を発行するのは絶好の機会でしたが、根拠を示すことなく
くちをぬぐったままです。
釈尊の時代は、それを定期的におこなったようです。
その風習は「布薩」というおこないとなって受けつがれて来た。
もともとインドにおけるバラモンの儀式を仏教が、
とりいれたものです。
布薩ふさつ −仏教頁部抜粋 岩波仏教辞典−
半月に一度,定められた地域(結界内)にいる比丘たちが集って,
波羅提木叉を誦して自省する集会.
波羅提木叉(はらだいもくしゃ)とは、原義の定説はみないものの、
当時の出家者の戒律をまとめたものとあります。
のちにさらに発展し、八斎戒を守って説法を聞き僧を供養する法会が、
盛んにおこなわれるようになったが、
深山さんの説明にあるように、当初は安居の時期に釈尊が弟子らに自らの
おこないに、まちがいがあるかどうかを尋ねたことから始まるようです。
- 705 :準シュダオン:2012/02/06(月)
11:45:33
- >しかし言葉を添えたって、これって小解脱と大解脱の決め付けと何ら変わりない。
>小清浄、小梵行と罵る根拠を経典の中から見つけて、霊的清浄を大梵行たる根拠
>を示す義務があります。
>それができない、単なる自分の体験とやらに基づく考えに過ぎないのならば
>梵行という言葉の使用を諦めるべきです。
梵行も、アウフヘーベンした梵行だと捉えたらよいでしょう。
教祖なのであって、学者ではないから、経典に書いてあることだけしていても
足りないんですね。経典に書いてあることだけをするのならば、学者に入門
したほうが良いと思いますね。
>別の言葉を命名すればよいではないか?
言葉の解釈が違うのです。管長は霊的清浄を梵行に含めて解釈しているのです
から、別の言葉にする必要はありませんね。ちゃんと「霊的清浄」という言葉
を使用しているのですから。
- 706 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/06(月) 11:48:18
- >この中から、管長は重要な一つを選んで、本に書いたのです。
それが広施です。16法に相当します。
桐山さんの解説は、はじめに自説の結論づけをしておいて、
そこに一部のお経をあてはめ、印象づける方法です。
それは、お経を解釈するうえであまりにも意図的すぎます。
五戒品は、すでにみなさんがくわしく解説されているように、
仏教の五戒について説かれたものです。
それ以上にむずかしくさせて、意味を拡大する必要はない。
釈尊は、ここで出家者たちにむけて説いています。
たとえば(三)では、他人のものを盗むとどうなるかを、
逆に(四)では、他人のものを盗まずひろく人々に施せば
どうなるかを例えて示した。
そのどうなるかの例えは、在家者にとって教訓となり戒に通じる。
同時に出家者には、学び実践すべき行であることも教え示した。
桐山さんは、その(四)経の”盗まずひろく人々に施す”ことの
意味をねじまげ、自分の教団の宣伝材料に取りあつかっています。
釈尊から禁じられたゴマの木の販売を、まるで釈尊からお墨付きを
もっらたかのような汚いトリックです。
- 707 :準シュダオン:2012/02/06(月)
11:56:08
- >別の言葉を命名すればよいではないか?
>福行でもよいし、霊的浄化行でも積徳行でもよい。
>梵行なんて言葉より霊的浄化行や積徳行の方が桐山意味を伝えている。
梵行を狭義に解釈するから、そういうことになるのです。
梵行を行い易くするための条件整備として、霊的浄化を行うわけですから、
梵行と呼んでも良いと思います。
- 708 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/06(月) 12:05:20
- >言葉の解釈が違うのです。管長は霊的清浄を梵行に含めて解釈しているのです
から、
桐山さんは、階段を一歩づつ登って荷物をおろすことを知らない。
そんな労苦など梵行と認めず、エレベーターで一気に昇ることに、
大きな価値を置いた。
しかし煩悩を肥大化させて積載オーバーのままでは、
そのエレベーターは、ワイヤーが切れ奈落の底に落ちる危険なものです。
- 709 :準シュダオン:2012/02/06(月)
12:06:41
- >経典の提示という厳密厳格公正な作業ではなく、自分の教団の実践活動に
>どうして梵行などという主に性欲を断つ禁欲行と誤解させる梵行という言葉を
>使用するのか?
私の五戒品の意訳を読めば、教団の実践活動が梵行であることが理解できるでしょう。
8法16法の実践が梵行なんですから、護摩木勧進も梵行でしょう。
但し、「護摩木1本百円です。」といいながら、行商人のように売りさばいても
梵行にはなりませんよ。
- 710 :深山:2012/02/06(月)
12:39:11
- >>701 :準シュダオン:2012/02/06(月) 09:21:36
>護摩木もろくに買っていない、と↑言いたいのかい?例によって慢に比例した
答えてあげようというわりには、護摩木の話は出てきませんね。
そのゴマカシぶりがいかにも準シュダオンさんらしい。
ハッタリでごまかそうとする。
それで何本買ったのだ?
今年の誓願は何本だ?
と前にも聞いたが、あなたはもちろん答えない。
三十本すら買っていない。
道場にも行っていないのでしょう?
性格が悪いから道場でも誰も相手にしてくれないし、
あなたはケチだから、護摩木なんて木ぎれを買うのは嫌なのだ。
ろくな修行やボン行もしたことがないのに、偉そうにお説教をする。
口先ばかり、口舌のヤカラですよね、準シュダオンさんて。
金も出さずに、アゴン宗と関係のない勝手な教義をまくし立てる。
桐山ゲイカが一番嫌うタイプです。
- 711 :深山:2012/02/06(月)
12:41:43
- >>701 :準シュダオン:2012/02/06(月) 09:21:36
>当人同士が良ければよいだろう。横から的外れの口を挟む必要はない。
釈尊は広施を説いた。
そこで施す物が当人同士が良ければ良いなどと釈尊は言っていない。
釈尊の広施とは、在家なら相手にとって役立つ物です。
食べ物の足りない人に食べ物を、衣類の足りない人に衣類を
施せと言っているのであって、外道の木ぎれを売れなんて言っていない。
出家に対しては貪り心を捨てろと説いている。
これも外道の木ぎれを燃やせなんて言っていない。
釈尊の基本は、悪業を為すな、善業を為せ、です。
護摩木を売る商売を広施や善業などとは言っていない。
- 712 :深山:2012/02/06(月)
12:46:50
- >>701 :準シュダオン:2012/02/06(月) 09:21:36
>厚さはあなたの半分もないよ。レス量を見れば歴然としている。
私が指摘したあなたの面の皮の厚さは文章量ではなく、中身です。
この十年に及ぶ、あなたの態度、書き込みの内容、開き直り、嘘、
そして嘘がばれても恥とも思わないその態度。
面の皮が厚いという意味がわからなければ、恥知らずです。
あなたは厚顔無恥、鉄面皮を絵に描いたように人物です。
私はあなたにレスなどつけていない。
漫才は相方に話しているのではなく、会場の客に話しているのです。
あなたと違い、読者の信者の中には普通の知性の残っている者がいる。
私などの批判側の文章を読めば理解する者か出てくる。
私はその人たちに説明をしているのです。
あなたみたいに理屈も論理も証拠もなく、ただ我説を唱えるなど、
私は羞恥心があるからできない。
その羞恥心をあなたは完全解脱しているから面の皮が厚いと言っているのです。
- 713 :深山:2012/02/06(月)
12:51:15
- >>702 :準シュダオン:2012/02/06(月) 09:29:46
>それはご苦労さんだね。愚か者は進歩しないから何年経っても同じ考えなのだ
物凄い嘘つきの教祖がそっくり同じ事を言っていた。
嘘やデタラメを進歩と言い換える。
恥知らずとは便利な性格ですね。
進歩とは、自分の間違いを認めることです。
だが、あなたは嘘を暴露されても、
「長いから読まないww」と称して完全無視する。
桐山さんと同じで反省がないから、また同じことを繰り返す。
あなたの場合は進歩ではなく、ただの無責任です。
インチキ引用は数知れず。
こういう点だけは桐山さんとそっくりです。
桐山さんも異陰のインチキを指摘されても、今回の本では
まるで異陰という言葉が証明されたかのような使い方をしている。
居直り強盗です。
あなたの引用など誰も信用しない。
この十年で、あなたはもっとも進歩しなかった擁護派です。
これほど進歩しない人は空前絶後です。
どんな証拠を示されても、どんな事実を示されても、ぜったいに自説を曲げない。
あなたはそれを現役時代も繰り返した。
職場で嫌われたのは当然です。
- 714 :深山:2012/02/06(月)
12:53:51
- >>702 :準シュダオン:2012/02/06(月) 09:29:46
>ところで、あなた、まだアビダルマ論の預流向の定義と、経典の預流向の定義の
>違いに気付いていないのかい?
私は「預流向=聖者」と自説を唱えているのではなく、
阿含経の釈尊の言葉、学者の解説を示したのです。
あなたは「預流向≠聖者」という阿含経からの引用もしていないし、
学者の解説も出していない。
一人でそこで「預流向≠聖者」を吠え続けているだけです。
アゴンさんに証拠を出してみせろと言われても、
「たくさんある」と言っただけで、何も示せずに逃げた。
情けない男だ。
それでいて、まるで準シュダオン説が証明されたかのように、
上記のように書き連ねる。
こういうのを恥知らず、面の皮が厚いというのです。
- 715 :深山:2012/02/06(月)
12:56:02
- >>701 :準シュダオン:2012/02/06(月) 09:21:36
>嘘がばれても?
>あなたみたいに嘘ついた覚えはないよ。
私がどんな嘘をついたか書いてみなさい。
などと指摘しても何も書けるはずがない。
悔し紛れにこちらの批判をそのままやり返しただけですよね。
私は具体的に桐山さんと準シュダオンさんの嘘を並べてあげたが、
あなたの記憶力は3分しか持たないから忘れたのでしょう。
では、恒例のあなたが書いた主な嘘を並べてあげましょう。
1.「預流向≠聖者」という阿含経の根拠は?
2.桐山さんが「預流向≠聖者」と言ったという証拠は?
3.「阿含仏教では、預流向は凡夫僧」(55章625)という阿含経の根拠は?
4.小縁経のどこに「阿羅漢」とあるのか。
5.「預流果=一来向」「一来果=不還向」「不還果=阿羅漢向」という阿含経の根拠は?
6.アビダルマ仏教が預流向を聖者に位置付けた犯人だという根拠は?
7.深山が倶舎論を根拠として「預流向=聖者」と主張した文章はどこにあるのか?(55章940)
8.下記の文章のある阿含経はどこにあるのか?
「四双八輩是聖賢之衆」(五章266、6月23日)
「四双八輩 是如来弟子聖賢之衆」(五章633,
7月9日)
「四双八輩 是如来弟子衆也聖賢之衆」(7)
9.これだけの嘘を書き並べていながら、自分は嘘つきでないと述べた。
「私はウソは書かない」(57章350)
10.阿那含で神通力が得られるかのような嘘を書いた(57章350)
「釈尊は、「得阿那含 種種神通境界」と、説いているんですよ。五下分結煩悩を
断てば、神通が生じる世界に入る、と説いているのです。」
11.深山を嘘つきだと嘘をついた。
「あなたみたいに嘘ついた覚えはないよ。」(57章701)
- 716 :深山:2012/02/06(月)
13:03:25
- >>703 :準シュダオン:2012/02/06(月)
10:07:27
>五戒品の説くところを会得したので、解説してみよう。漢文を読んでいないけど、
>たぶん、正しい解釈でしょう。
読者の皆さん、ごらんください。
原文を読んでもなかなか解釈が難しいのに、読みもしないで解釈して、
しかも正しいと自惚れる。
ここまで知性や良識が衰退してしまっている。
普通の羞恥心があるなら、こんなことは書かない。
だが、羞恥心を捨て、面の皮だけが厚くなると、こんなふうになってしまう。
反論を常に無視し続けるのだから、たしかに準シュダオン教では、
準シュダオンさんはいつも正しい。
信者さんたちは脳が老化してこんなふうになったら、もうオシマイですよ。
こんなふうになる前に、現実をあるがままに良く見ることです。
せっかく生きているのだから、生きている間に間違いを修正するべきです。
準シュダオンさんのように妄想の中に生きるのは無駄な人生です。
周囲からは嫌われ、疎まれ、それでも絶対に自分の間違いを認めず、
どこまでも自分は正しいと主張し続けるこの男のミジメな姿を見てください。
準シュダオンさんの哀れな姿を、信者さんたちは反面教師にしてください。
- 717 :深山:2012/02/06(月)
13:07:20
- >>703 :準シュダオン:2012/02/06(月)
10:07:27
>欺くことは災いの素であり、悪趣・地獄へ趣く道だと知るがよい
>飲酒は災いやトラブルの素であり、悪趣・地獄へ至る道だと知るがよい
こんなふうに他人にお説教しながら、どうしてあなたは平気で
嘘を並べ、酒を飲み続けるのだ?
桐山さんが原因で自殺した人を私は知っているし、桐山さんは邪淫をなし、
嘘をつき、他人の本から平気で盗み、龍神が飲むと称して高級酒を飲み続けている。
全部五戒を桐山さんは破り、今も破りつつある。
信者さんたちは戒律を軽く見ている。
だが、何度も言うが、戒律こそは仏教の土台であり、
これなくして仏教は成り立たない。
五戒はその戒律の中でも基本中の基本です。
だが、桐山さん自ら、すべて破っている。
それも積極的に破っている。
信者さんたちはそれを軽くみているから、信者をしていられるのだろうが、
釈迦仏教ではこんなことはありえないのです。
>>704でラシンさんが布薩を紹介しています。
比丘はこんなふうにしょっちゅう自己反省を迫られた。
その一例が、前にも紹介した夏安居の後の布薩です。
そこでは釈尊が自ら「自分に間違いがあったなら指摘しろ」と
比丘たちに命じている。
如来自らが、これほど厳しい自己反省をしていたのですよ。
信者さんたちは釈尊のこの厳格な姿を見て、愛人のいた桐山さんを解脱者として
崇拝することに恥ずかしいという気持ちは起きないだろうか。
- 718 :深山:2012/02/06(月)
13:10:47
- >>703 :準シュダオン:2012/02/06(月)
10:07:27
>欺くことは災いの素であり、悪趣・地獄へ趣く道だと知るがよい
>飲酒は災いやトラブルの素であり、悪趣・地獄へ至る道だと知るがよい
五戒に対する在家と出家の大きな違いは罰則の有り無しです。
在家は罰則がないから、正確には戒律ではなく戒です。
出家は律があるから、厳重に罰せられる。
この罰の中で最も重い物が四つあります(比丘尼は8つ)。
1.性的関係
2.泥棒
3.殺人
4.解脱を偽ること
この四つを意図的に行った場合には、最も罪が重く、
これを波羅夷(はらい)と言って、教団から永久追放されます。
性的な問題は波羅夷の先頭にあります。
釈尊の時代なら、桐山さんは布薩で厳しい追及を受け、教団から追い出された。
釈尊が破戒僧としているのに、信者さんたちは桐山さんは聖者として敬っている。
- 719 :深山:2012/02/06(月)
13:13:55
- >>703 :準シュダオン:2012/02/06(月)
10:07:27
>欺くことは災いの素であり、悪趣・地獄へ趣く道だと知るがよい
>飲酒は災いやトラブルの素であり、悪趣・地獄へ至る道だと知るがよい
桐山さんは意図的に愛人を作った。
御霊諭という制度を使い「今夜にでも」などと、若い女性を夜11時に
自分の滞在している名古屋のホテルの部屋に来るように誘った。
そのために、彼女にも同じホテルに滞在するようにと金まで同封した。
同じ部屋にいたら怪しまれるから、彼女には別の部屋をとらせた。
この事実を信者さんたちはどう見ますか。
御霊諭という仏様からの指導と称して、若い女を誘ったのですよ。
二人はホテルで内弟子の清浄なる儀式をしていたと思いますか。
信者さんたちは、大作さんがこんなことをしたら、女性関係だと疑うのに、
桐山さんだと女性関係ではないと信じる自分に疑問を持ってください。
- 720 :深山:2012/02/06(月)
13:16:17
- >>707 名前:準シュダオン 投稿日: 2012/02/06(月)
11:56:08
>梵行を狭義に解釈するから、そういうことになるのです。
信者さんたちは脳味噌のふやけた老人のタワゴトを無視して、
正しい仏教の知識とアゴン宗の教義を理解してください。
「梵行 ぼんぎょう[s:brahma-cary]
<梵>(brahman)は節制・禁欲を意味し,<行>(cary)は振舞・行為をさす.
清らかな行い.すなわち出家者が戒律を守って禁欲の生活を送ること.
特にあらゆる性的な行為を慎むこと.」
梵行とは、教義は性的な関係を断ち切ることであり、
広義には八正道そのものです。
これは釈尊がそのように定義したのだから、後世の者が
勝手に中身を変えていいことにはならない。
一方、アゴン宗の定義では、次のようなものです。
「梵行とは「浄め、高める修行」です。まず、法にしたがって身を浄める。また、先祖供養をし
て不成仏霊・霊障のホトケを成仏させる、という霊的な浄化もこれに入ります。それから、仏さ
まのお手伝いをして徳を積み、自分を高める。このように「浄め、高める修行」が梵行です。」
(『仏陀の真実の教えを説く[上]』175頁)
仏教の梵行が性的な関係を慎む禁欲を意味するのに対して、
桐山説では、霊的浄化と積徳行だという。
両者はまったく似ても似つきません。
なぜなら、阿含経に死者を成仏させる霊的浄化なんて存在しないし、
徳を積むとは善行を為すとか、煩悩を断ちきるという意味であって、
梵行にはそんな意味はありません。
桐山さんがどうしてこれほどに意味を歪めてしまったか、
信者さんたちはわかりますか。
桐山さんが性的関係を慎むなんてしたくないからです。
桐山さんは愛人も持ち、金と人を集めたい。
これが目的だから、梵行の本来の意味を消し去り、
信者さんが金と人を集めることをボン行だと言い直した。
- 721 :深山:2012/02/06(月)
13:18:40
- >>703 :準シュダオン:2012/02/06(月) 10:07:27
>と、まぁ、以上のような具合になりますね。この中から、管長は重要な一つを
>選んで、本に書いたのです。それが広施です。16法に相当します。
あなたの勝手な解釈などここでは無用です。
桐山さんの本もろくに読まないで、6法などと何を訳のわからんことを
書いているのだ?
信者さんたちは桐山ゲイカの本をしっかり読んで理解することです。
桐山さんは広施とは、護摩木売りだと書いている。
護摩木を売ることが阿含経に説かれた広施だと言っているのです。
「阿含宗には護摩木勧進というものがありますが、これも同じです。」
「多くの人から護摩木を勧進し、お釈迦さまの真の仏法がこの世の中に
あることを教えるためのものです。そのような心によって勧進して集めた護摩木を、お釈迦さま
の成仏法に基づいてお焚き上げするからこそ、お釈迦さまは感応してわたくしたちを救ってくだ
さるのです。」
(『仏陀の真実の教えを説く[中]』54頁)
- 722 :深山:2012/02/06(月)
13:23:27
- 「阿含宗には護摩木勧進というものがありますが、これも同じです。」
護摩木勧進という物売りは利他の行であり、釈尊のいう広施だと桐山さんは説いている。
桐山さんは五戒品について、長々と無意味な漫談を混ぜて解説しているが、
アゴン宗でしている広施の具体例はこの護摩木勧進の話だけです。
つまり、五戒品でいう広施に相当するのは護摩木勧進だと言っているのです。
だが、信者さんたちに問いたい。
護摩木勧進のどこが広施なのだ?
釈尊は在家に布施しろと言ったのであって、物を売れとは言っていない。
布施とは、お金や見返りを受け取らずに差し出すことです。
だが、アゴン宗のしていることはお金を受け取っているのだから、物売りです。
護摩木を勧進するとか、利他行などというと聞こえが良いが、
ただの外道の木ぎれを売っているだけです。
護摩は釈尊が禁止したのですよ。
釈尊が禁止した物を、釈尊の説く広施だと称して、人々に金を取って売る。
信者さんたちは、準シュダオンさんほど頭がボケていないなら、
この荒唐無稽な屁理屈に矛盾を感じるだけの知性を再起動してほしい。
- 723 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/06(月) 14:43:30
- >レスのアチコチをチラリと見て
五戒品の説くところを会得したので、解説してみよう。漢文を読んでいないけど、
たぶん、正しい解釈でしょう。
掲示板有志の方のおかげで、URLを掲示いたします。
五戒品第十四は、103〜109頁にかけてあり、
続いて有無品、火滅品があります。
http://www.archive.org/stream/kokuyakuissaiky088800uoft#page/313/mode/2up
読者の方々も、正しく参考にしてみてください。
- 724 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/06(月) 23:01:56
- >>703:準シュダオン12/02/06(月) 10:07:27
>では、私がラシンさん、深山さん、ユビさん、のレスのアチコチをチラリと見て
>五戒品の説くところを会得したので、解説してみよう。漢文を読んでいないけど、
>たぶん、正しい解釈でしょう。
はい、皆さん、笑い所です。
しかしこの笑い所というのは批判側、中立者、野次馬さんらにとってはです。
擁護側信者さんにとっては怒り所となりましょう。
そうですよ。怒らないといかんですよ。信者なら。
何をボケーッと見てるだけなのか?
こんな恥曝しは信者仲間でない?
いやいや、甘いですよ。世の中そんなに甘くないのですよ。
アゴン宗の信者が皆あんなんじゃないと言いますか?
ならばどうして注意すらできない?
私は一番最初は擁護側信者としてユビキタスを名乗って2ちゃんねるの批判スレに
反論を試みに現れたのですが、当時アゴン宗を大切にしていた私は自分の言動態度が
恥ずかしくないように心掛けるばかりでなく、当時よー痴さんというお馬鹿なおばさんと
当初よー痴さんと正直区別がつかなかった今は立派に批判側の干柿さんもいたが
彼らの書き込みでアゴン宗教学に反する間違った書き込みがあると叱責させてもらったものです。
批判側でなく信者の側からアゴン宗を傷つけてもらいたくないからです。
準シュダオンさんが頑なで自分の考えに凝り固まるのはまだよい。
しかしこの態度は何か?
ラシンさんが>>626で示してくれた
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=0125_,02,0576a13&key=%E4%BA%94%E6%88%92%E5%93%81&ktn=&mode2=2
>お経の表示画面がズレている場合、T0125_.02.0576a13:五戒品第十四まで
>スクロールしてみてください。
があるにも関わらず彼はどう言ったか?
>>641:準シュダオン12/02/05(日) 11:53:19
>てるじゃないの。今回はそれを、たぶん、していない。だからユビさんもコピー
>していない。たぶん、クリック、クリック、で探さねばいけない手法でしょう。
たった一度クリックすればわかるものをしないのならばそれでもよい。
しかししないくせにたぶんで人のサービスを貶したのです。
もちろん未だに謝罪などない。
- 725 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/06(月) 23:13:38
- >>703:準シュダオン12/02/06(月) 10:07:27
>では、私がラシンさん、深山さん、ユビさん、のレスのアチコチをチラリと見て
>五戒品の説くところを会得したので、解説してみよう。漢文を読んでいないけど、
>たぶん、正しい解釈でしょう。
ほら、未だにクリックして読んでないという。
漢文の資料が目の前にあると言うのに読まずに解釈しようとしている。
もちろん生あるものを愛護するなんて書いていない。あるのは不殺生だけです。
呆れるほどのお馬鹿ですよね。態度もアタマも。
しかしこれがアゴン宗の信者なんです。
例外だなんて世間ではそれで通用しない。
こんな恥ずかしい礼儀知らずをあなた方信者さんはのさばらせておいてよいのですか?
なぜ名無しで書いて注意すらできない?
注意だけに現れた信者さんに対して私はレスなどつけませんよ。
こんな信者をのさばらせたのは、ここを読みながら注意すらもしないあなたの
無責任が原因ではないですか?
あなた方にとってアゴン宗とはその程度のものか?
- 726 :Boo:2012/02/07(火)
00:01:54
- >>725
擁護側の信者さんは「準シュダオン」なる人物を、批判側のやらせ、自作自演
だとでも思ってるんじゃないですか?
ここまで愚かな書き込みはまともなおつむでは、恥ずかしくてかけないでしょう。
- 727 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/07(火) 08:31:19
- >>705:準シュダオン12/02/06(月) 11:45:33
>梵行も、アウフヘーベンした梵行だと捉えたらよいでしょう。
アウフヘーベンの梵行だと桐山さんが言うのだとしたら、何がテーゼで何がアンチテーゼで
どうジンテーゼしたのか経緯を示す必要がありましょう。
いきなりテーゼと異なるジンテーゼなど出されてもわかるはずがない。
学者が編集する辞書なんてのは多様な時代にて変遷を経た多岐の意味も分類して
示します。そのどこにも説明もないオリジナルな意味をある用語に与えたかったら
いちいちこういう断り書き説明が必要だと申しておるのです。
そもそも解脱の意味すら間違えている桐山さんに正しい用語など駆使できるわけがない。
>教祖なのであって、学者ではないから、経典に書いてあることだけしていても
>足りないんですね。経典に書いてあることだけをするのならば、学者に入門
>したほうが良いと思いますね。
なんでそうなるのですか?
仏教者、仏教信仰者、仏教修行者ならば経典に説かれていることを実践すれば
よいのです。
それとも阿含経というのはそこに書かれてあることを実践するだけでは不足の
経典と言いたいのですか?
桐山さんも説かぬことを書くのはやめなさい。
- 728 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/07(火) 08:39:06
- >>709:準シュダオン12/02/06(月) 12:06:41
>但し、「護摩木1本百円です。」といいながら、行商人のように売りさばいても
>梵行にはなりませんよ。
アゴン宗ではそのようにして売りさばいてますよ。
ところで質問ですが、あなたは護摩木勧進の際、その護摩木代を祈願主から
支払ってもらってますか?
- 729 :準シュダオン:2012/02/07(火)
09:06:31
- >アゴン宗ではそのようにして売りさばいてますよ。
>ところで質問ですが、あなたは護摩木勧進の際、その護摩木代を祈願主から
>支払ってもらってますか?
代金を取らなかったのは、何年も前に、親戚の爺さんにプレゼントしたときの
一度だけですね。それ以外は頂いていますよ。管長は、ただよりも、たとえ百
円でも身銭を切らせた方が記憶に残るものだから、そのようにしなさいと本に書
いていますよ。
- 730 :Boo:2012/02/07(火)
09:20:55
- >代金を取らなかったのは、何年も前に、親戚の爺さんにプレゼントしたときの
>一度だけですね。それ以外は頂いていますよ。管長は、ただよりも、たとえ百
>円でも身銭を切らせた方が記憶に残るものだから、そのようにしなさいと本に書
>いていますよ。
で?全部でトータル何本護摩木勧進したんですか?
一年間で最大何本の勧進を達成しましたか?
ちなみに私は一度だけ朋友3人で1000本やったことがありますが、週3日か4日
やって半年くらいかかってやっと1000本できました。学生の頃の話ですから20年
以上前になりますが。
私が何を言いたいかというと、勧進をやって代金をもらうのは大変な努力がいると
いうことであり、準シュダオンさんのように自分に甘い人がまともな護摩木勧進を
実行しているとは到底思えないということです。
- 731 :準シュダオン:2012/02/07(火)
09:24:34
- >>教祖なのであって、学者ではないから、経典に書いてあることだけしていても
>>足りないんですね。経典に書いてあることだけをするのならば、学者に入門
>>したほうが良いと思いますね。
>なんでそうなるのですか?
だってそうでしょう、ユビさん方は学者先生の方に絶対的な信頼を寄せているよう
だもの、修行法も教えて頂いて、自力実践したら済むでしょう。如来の功徳を与え
てくれる力も信じていないようだし、学者に入門したほうがいいよ。
ちょうど良い題材があった。「教えを説く」中巻のP189に、ほとんどの人は、
「五難得の物」を自然の法則と解釈するでしょう、と、書いてあります。それと
管長の解釈は違います。私は当然、管長の方が正しいと思いますが、ユビさん方
は、常識的な解釈の「自然の法則」=「五難得の物」が正しいとするのでしょう。
- 732 :準シュダオン:2012/02/07(火)
11:57:32
- >私が何を言いたいかというと、勧進をやって代金をもらうのは大変な努力がいると
>いうことであり、準シュダオンさんのように自分に甘い人がまともな護摩木勧進を
>実行しているとは到底思えないということです。
それを↑狐疑というのです。根本煩悩の一つです。それがあるから人のレスをあれ
これ疑って、邪推になってしまうのです。私は勧進本数は記しません。私より多い
人もあれば、少ない人も居るでしょう。愚か者は、本数の量で人に優劣をつける可
能性が高いですからね。心境の高さ・修行の成果は、護摩木の数に比例するもので
はありません。
例えば、宗教に関心はあるが護摩木を知らない人に、長時間かけて、1本勧進した
とします。長時間かけて説得するためには、密教の護摩の意義や、阿含経の37道
品や、護摩木を焚くと何で功徳になるのか等、勉強しないと出来ません。でも長時
間説明して、ようやく1本、勧進できた人が居たとします。
一方、いつも可愛がって貰っている裕福な祖父母の所へ行って、ろくな説明もしな
いで、これを買って貰えば私が助かる、とお願いして、短時間で大護摩木を勧進で
きた人が居たとします。
さて、上記の1本の人と、千本の人、どちらの人の方が多くの功徳を得るでしょう?
簡単に判断できないのですよ。
- 733 :Boo:2012/02/07(火)
12:16:58
- >>732
簡単ですよ。より少ない1本のほうが功徳は多いでしょう。というか、1000本詐欺に
加担するのと1本の詐欺に加担するのでは、1本のほうが罪は小さい。
>但し、「護摩木1本百円です。」といいながら、行商人のように売りさばいても
>梵行にはなりませんよ。
かつてのホウワで、ゲイカが『アゴン宗は信者に行商させている』と思われています。」
と白状していますが、あれの真意は、「アゴンの護摩木勧進では梵行になりませんよ」
という解釈なんですね?準シュダオンさんの頭の中では。
- 734 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/07(火) 12:19:00
- >たとえ百円でも身銭を切らせた方が記憶に残るものだから、
>>631で、ユビキタスさんが述べています。
桐山さんは間脳思考148頁で、出展不明の「貧しきものに食を
乞う」のはなしを譬えにして、布施の功徳を解説しています。
その話しは、前世の布施をしなかった業で今世が貧しく
餓えている村の者たちに、布施をさせ功徳を積ませたことで、
その村の者たちは涅槃に至った、との内容です。
首吊りの足を引っ張る行為こそ、大聖者シャカの乞食の信念と、
桐山さんは強調しています。
しかし、
釈尊が説く布施の功徳は、来世の世俗的な果報だけです。
桐山さんのたとえ話しでは、まるで布施により涅槃を得たかのような、
乱暴な言いまわしです。
仮にその話しが阿含経にあったとして、村人たちが解脱できたのは、
釈尊の説法を聞き、帰依して清浄行を達成したからです。
桐山さんは、その肝心な部分を飛ばして布施の威力を偽装しました。
- 735 :準シュダオン:2012/02/07(火)
12:21:22
- >なんでそうなるのですか?
>仏教者、仏教信仰者、仏教修行者ならば経典に説かれていることを実践すれば
>よいのです。
普通の人では経典に説かれている内容が解らないのです。中巻のP173から、
文底秘沈と深秘釈とを説明しています。字面だけの解釈では、経典の意味を正しく
解釈できない、ということですね。私は、幼稚な修行であっても、修行してようや
くそのことが少し解るようになりました。修行したことのない学者先生には、永遠
に理解できないことだと思います。
>それとも阿含経というのはそこに書かれてあることを実践するだけでは不足の
>経典と言いたいのですか?
だから、書いてあることを正しく読み取れない、という問題もあるし、正しく実践
するためには、霊的浄化から始める必要がある人も居る、ということでしょう。
管長は、自身の修行体験からそれを説いてるのですから、もう、信じるか信じない
かの問題ですね。
>桐山さんも説かぬことを書くのはやめなさい。
私は、管長が説いてることを書いてるつもりです。
- 736 :深山:2012/02/07(火)
12:24:36
- >>701 :準シュダオン:2012/02/06(月) 09:21:36
>護摩木もろくに買っていない、と↑言いたいのかい?例によって慢に比例した
>>729
:準シュダオン:2012/02/07(火) 09:06:31
>円でも身銭を切らせた方が記憶に残るものだから、そのようにしなさいと本に書
>いていますよ。
>>732 :準シュダオン:2012/02/07(火)
11:57:32
>それを↑狐疑というのです。根本煩悩の一つです。それがあるから人のレスをあれ
私の質問に「答えてあげよう」と言っているのに、
護摩木の本数はどうなったのだ?
答えていないではないか。
Booさんからも質問されているのに答えない。
狐疑などと難しそうな言葉を出して、自分の護摩木本数の
話からそらそうと必死です。
読者の皆さん、このみっともない準シュダオンさんをあざ笑ってあげましょう。
偉そうに護摩木の説教をしながら、自らは何もしていない。
口先だけで、アゴン宗の信者としても最低です。
- 737 :深山:2012/02/07(火)
12:29:26
- >>731 :準シュダオン:2012/02/07(火) 09:24:34
>だってそうでしょう、ユビさん方は学者先生の方に絶対的な信頼を寄せているよう
>だもの、修行法も教えて頂いて、自力実践したら済むでしょう。如来の功徳を与え
>てくれる力も信じていないようだし、学者に入門したほうがいいよ。
>>735 名前:準シュダオン 投稿日: 2012/02/07(火)
12:21:22
>私は、管長が説いてることを書いてるつもりです。
読者の皆さん、このご都合主義の老人を見てください。
「平河本の学者は○○と言っている」など、何度この人は引用したことか。
彼はアビダルマから引用しながら、こちらの引用をアビダルマ説だと言い続ける。
準シュダオンさんの主張は、結局、「自分教」です。
自分の主張に沿った学者の説は採用し、そうでない説は無視する。
あるいは後世のアビダルマが作ったと居直る。
彼の目的は仏教を理解することではなく、アゴン宗の擁護ですらない。
だから、桐山さんの説とも違うことを主張しながら、
それを桐山説だと主張して譲らない。
準シュダオンさんは再就職先の会社から追い出され、社会とのつながりがなくなった。
性格が悪いから友人もいないし、周囲も相手してくれない。
彼の行き場所は唯一、ここだけです。
ここに来て、アゴン宗擁護を装って自分教を唱えると、批判側が
総出で相手してくれる。
だが、実はアゴン宗も桐山さんも、彼はそれを踏み台にして
威張りたいだけで、どうでいい。
この男には自分以外への信仰心なんてありゃしない。
- 738 :深山:2012/02/07(火)
12:31:35
- >>731 :準シュダオン:2012/02/07(火) 09:24:34
>てくれる力も信じていないようだし、学者に入門したほうがいいよ。
>>735
名前:準シュダオン 投稿日: 2012/02/07(火)
12:21:22
>私は、管長が説いてることを書いてるつもりです。
アゴン宗など準シュダオンさんの自分教が寄生するための踏み台にすぎない。
彼にはアゴン宗への信仰心すらもない。
その証拠に、このアゴン宗の一番のかき入れ時に、
チラシ配布もしなければ、護摩木勧進もしない。
一日中暇なんだから、道場に行けば、いくらでもボン行という仕事があるのに、
本人は、ボン行を口先であれこれ偉そうに説教するだけで、
見ての通り、やる気はゼロです。
護摩木を何本勧進したのか、誓願は何本なのかなど、
いくら質問されても彼は絶対に答えない。
その本数が多くなくても、たとえば、一軒一軒を托鉢したというなら、
アゴン宗から見れば立派です。
行為は愚かでも、その熱意は買う。
しかし、本人はしたこともないし、やる気もない。
準シュダオンさんにとって、「オレ様はエライ」と自己主張できる
自分教こそが重要であり、これが目的だから、仏教もアゴン宗も、
実はどうでもいいのです。
- 739 :準シュダオン:2012/02/07(火)
12:34:33
- >>では、私がラシンさん、深山さん、ユビさん、のレスのアチコチをチラリと見て
>五戒品の説くところを会得したので、解説してみよう。漢文を読んでいないけど、
>>たぶん、正しい解釈でしょう。
>はい、皆さん、笑い所です。
しかしこの笑い所というのは批判側、中立者、野次馬さんらにとってはです。
>擁護側信者さんにとっては怒り所となりましょう。
そうですよ。怒らないといかんですよ。信者なら。
>何をボケーッと見てるだけなのか?
ああ、それはね、私の解説が、ユビさんと深山さんとラシンさんに対する解説だ
と現役信徒は見抜いているから許しているのです、多少レベルが低くてもね。
私程度のレベルでは、現役信徒に解説するなんて、無理です。
相撲でいえば、私は、十両のドン尻くらいでしょうか、幕下は通過したと思って
はいますが、現役信徒には幕の内の方が沢山居るわけですから。
- 740 :深山:2012/02/07(火)
12:34:34
- >>735 名前:準シュダオン 投稿日: 2012/02/07(火)
12:21:22
>私は、管長が説いてることを書いてるつもりです。
この準シュダオンさんの姿勢を信者さんたちは愚かだと思うでしょう。
だが、桐山さんも同じなのですよ。
桐山さんは阿含経を世に出す、釈迦を甦らせると高々と旗を掲げた。
偽経典を信仰する伝統仏教に攻撃をかけた。
この建前自体は立派なことでぜひやってみればいい。
だが、現実には、阿含経を護持すると称して、
阿含経で禁止されている星まつり、柴燈護摩を最大の売り物にして、
釈尊が否定した死者成仏を教義の中心にすえた。
これのどこが阿含経を世に出すことなのだ?
阿含経が釈尊直説であり、大乗経典が偽経典だというのは学者の説です。
伝統仏教を攻撃するためには学者の説を採用し、それでいながら、
阿含経に存在しない因縁解脱を説く。
桐山さんも準シュダオンさんも、自分を売り出したいために
阿含経や仏教をただ利用しているにすぎない。
自分に都合の悪い部分は無視するか、適当に歪める。
だから、戒律は釈迦仏教の基本中の基本なのに、これを守りたくないから、
戒律を侮蔑し、桐山さん本人は積極的に堂々とこれを破る。
あげくが、釈尊の解脱である漏尽解脱を小解脱と罵る。
桐山さんにとって阿含経も釈尊も、自分がエラクなるための道具にすぎないからです。
信者さんたちもそうなのか。
- 741 :深山:2012/02/07(火)
12:37:10
- >>731 :準シュダオン:2012/02/07(火) 09:24:34
>だもの、修行法も教えて頂いて、自力実践したら済むでしょう。如来の功徳を与え
>てくれる力も信じていないようだし、学者に入門したほうがいいよ。
信者さんたちは、「如来の功徳を与えてくれる力」を信じているのでしょう。
だが、阿含経の釈尊は「如来の功徳を与えてくれる力」など
説いていないことを知るべきです。
阿含経のどこに如来が功徳を与えてくれるなんて記述があるのだ?
準シュダオンさんは頭が老化して、いくら供養の功徳と解脱とは違うと
もう何年にもわたり、何度説明されても、理解も記憶もしない。
だが、普通の知性が残っている信者さんたちなら、そろそろ理解したほうがいい。
釈尊などの比丘に供養すれば功徳は得られる。
だが、その功徳とは如来が授けるものではありません。
善業に対する善果というこの世界の法則にすぎない。
リンゴが地面に落ちるのは、誰かが落としたのではなく、
この世界の法則であるのと同じです。
しかも、その功徳とは来世に得られる。
信者さんたちが信じているような、
「現世で、如来が、功徳を返す」
などというのは嘘で、阿含経の釈尊の言い分をまとめるなら、
「来世で、この世界の法則によって、世俗的な功徳が得られる」
というのが正しい。
- 742 :深山:2012/02/07(火)
12:39:54
- >>731 :準シュダオン:2012/02/07(火) 09:24:34
>だもの、修行法も教えて頂いて、自力実践したら済むでしょう。如来の功徳を与え
>てくれる力も信じていないようだし、学者に入門したほうがいいよ。
信者さんたちは柴燈護摩に護摩木を供養して火を拝むと
如来が功徳を授けてくれると信じている。
だが、阿含経にはそんなことは書いていません。
三供養品は自分で煩悩を捨てろと説いた経典で、
どこにも供養すれば功徳が得られるなんて書いていない。
そもそも三供養品には供養という言葉は出てこない。
アゴン宗のいう下根の成仏ホウなんて桐山さんの捏造です。
信者の無知につけ込み、錯覚を利用した桐山さんの作り話です。
現実の阿含経の釈尊は護摩を禁止した。
死者成仏ができないと否定した。
信者さんたちは星まつりに行く前に、護摩木祈願をする前に、
釈尊からのメッセージをしっかりと読んでほしい。
「バラモンよ。木片を焼いたら浄らかさが得られると考えるな。」
これはアゴン宗徒にそのまんま向けられたメッセージです。
私はこれを読んでもショックだったが、実は、もっとショックだった一文がある。
- 743 :深山:2012/02/07(火)
12:44:17
- 「愚者ものどもよ。そなたらは星宿を崇拝し、森の中で火神に仕え、如実にありのままに知ることもなく、
[それを]『清浄だ』と思った。」(『尼僧の告白』中村元、35頁)
信者さんたちは、これを読んで、自分の意図や腹の底まで
見透かされたような気分になりませんか。
まさに信者さんたちは当年星と称して星宿を崇拝し、山の上で火神を拝み、
煩悩を増大させる愚行であることにも気がつかないばかりか、
それを霊的浄化であると自惚れている。
「愚者ものどもよ」という言葉そのとおりです。
痩せた比丘尼の指一本で、いきなり地面にひっくりかえされたような、
ショックを感じませんか。
「おまえのハラワタはこんなに汚い」とつかみ出され、
目の前に示されたようなショックです。
私は今でもこの一文を読むと、自分の為した愚行に大いに恥じる。
これを読んでいる信者さんたちの中に、きっとショックを受けた人がいる。
そのショックを捨ててはならない。
愚行を変えるチャンスは人生にそう何度もあるわけではない。
今この瞬間にも簡単に変えられる。
護摩木祈願や火を拝む愚行を捨てればいいだけです。
- 744 :Boo:2012/02/07(火)
13:14:39
- >>736 :深山:2012/02/07(火) 12:24:36
>私の質問に「答えてあげよう」と言っているのに、
>護摩木の本数はどうなったのだ?
>答えていないではないか。
>Booさんからも質問されているのに答えない。
>狐疑などと難しそうな言葉を出して、自分の護摩木本数の
>話からそらそうと必死です。
>読者の皆さん、このみっともない準シュダオンさんをあざ笑ってあげましょう。
>偉そうに護摩木の説教をしながら、自らは何もしていない。
>口先だけで、アゴン宗の信者としても最低です。
深山さんのレスはスルーするので要約して教えてほしい、と以前準シュダオンさんに
レスされたので、あなたに呼びかけている部分を記述しました。
- 745 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/07(火) 14:53:28
- >かつてのホウワで、ゲイカが『アゴン宗は信者に行商させている』と思われています。」
と白状していますが、
1978年月刊宝石の志茂田景樹氏の取材記事によれば、
桐山さんは終戦後の一時期には、バナナの叩き売りを
していたとの証言も得ていたと述べています。
桐山さんの香具師の口上のごとく歯切れのよい文章は、
そういう経験からであろうかと、氏は推量し感心していた。
その行商の発想は、桐山さん自身も認めていた闇屋の
商売にもとづくものなのかと考えてしまいます。
氏は香具師の口上、いわゆるタンカ売(バイ)には、各種あって、
その代表的なものが、「泣き売」と「イン売」であると述べています。
「泣き売」とは、工場が火災に遭いその製品を何とか安く買ってもらう。
「イン売」とは、インテリを装ったニセ学生が、テキスト本を売りつける。
どちらも実際には役に立たないものばかりの商品です。
桐山著書とは、その「イン売」の傾向にあるようです。
この行商行為がはなばなしく展開されるのが、2.11の星まつりです。
- 746 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/07(火) 15:06:42
- >かつてのホウワで、ゲイカが『アゴン宗は信者に行商させている』と思われています。」
と白状していますが、
行商人が荷を開いて売り場を飾りつけるように、
儀場のまわりや休憩所あたりには、数々の露店が立ち並びます。
それは香具師のタンカ売に似て、祈願札や呪い、記念グッズなどの
イベント販売会場と化しているのがわかります。
他の神社仏閣の縁日と同じように、長年一度も地元のテキヤが
参入してこないのも、アゴン宗がお金を払っているからです。
「暴排法」が昨年に施行されたが、それは反社会的団体に利益を
もたらした場合、それを供与したものが罰せられる法律です。
信者さんも星まつりに行くなら、そのことを考えてみたらどうか。
- 747 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/07(火) 15:07:55
- <アゴンの星まつり>
聖なる焚き火といわれる行事の運営費から、取引代金が反社会的団体に
流れている、との長年の疑惑です。
信者さんが、お布施やゴマ木勧進で集めた代金の一部が、
反社会的団体に流れて活用されている。
アゴン宗が、反社会的団体とかかわっているとの疑惑です。
アゴンの星まつりは、他教と一線を画した聖なる特別な儀式のハズです。
しかし、世俗のそれも、裏社会と取引されているとの疑いがあるなかで、
お参りする信者さんは、いったい何を祈るのか、修行者さんのボン行は、
いったい誰に役立っているのかを今一度、よく考えて行動すべきです。
- 748 :準シュダオン:2012/02/07(火)
16:48:15
- >>Booさんからも質問されているのに答えない。
>>狐疑などと難しそうな言葉を出して、自分の護摩木本数の
>>話からそらそうと必死です。
>>読者の皆さん、このみっともない準シュダオンさんをあざ笑ってあげましょう。
>>偉そうに護摩木の説教をしながら、自らは何もしていない。
>>口先だけで、アゴン宗の信者としても最低です。
>深山さんのレスはスルーするので要約して教えてほしい、と以前準シュダオンさんに
>レスされたので、あなたに呼びかけている部分を記述しました。
ご苦労さんw。それほど護摩木本数が気になるのかい?ほんとに笑うしかないね。
私は以前、法施グッツのレスもしてますよ、法施グッツをいくつか頂いてるとね、
それでだいたいの見当はつくでしょうが、普通の頭ならばね。
現役信者さん方なら、大体の見当をつけてますよ。見当つかないのは深山さんや
BOOさん、くらいでね、逆に深山さんこそ笑われているよw。
じゃあ、もう少しヒントやろうね。般若心経瞑想曼荼羅を頂いてるし、管長御持仏・
仏母準抵如来御尊像も頂いてますよ。これで見当がつくでしょう、法施は年度を越し
て本数を繰り越せないから。
でも、何も法施を頂けなかった年も、けっこうあるよ、成績悪くて。
私の法施グッズを知って、まだ法施を頂けてないからといって、
現役信者さんは、何もがっかりすることはありませんよ。本数が多いにこした
ことはないでしょうけど、例え、本数が少なくても聖なるバイブレーションな
どを受けることは、可能だと思いますよ、一所懸命努力してればね。
深山さんなどは、たぶん、本数は多かったのだろうけれども、我欲がすけて
見えるからね、勧進の本数が目的化して梵行にならなかったのだろうね、
だから、功徳を得られなかったのでしょう。
学生時代なら、護摩木勧進が難しいのは当たり前だね、そんな若造の言うこと
誰が本気で聞くもんかね。3人で千本なら上出来というもんだね。
でも、そんなに若くして、よく神仏を信じられたもんだね。
私がその年代の頃は、本当に神仏を信じる者は、幼児と年老いた人だけだと
思っていましたよ。
- 749 :Boo:2012/02/07(火)
17:11:39
- >ご苦労さんw。それほど護摩木本数が気になるのかい?ほんとに笑うしかないね。
>私は以前、法施グッツのレスもしてますよ、法施グッツをいくつか頂いてるとね、
>それでだいたいの見当はつくでしょうが、普通の頭ならばね。
へ〜2000本も3000本も勧進してお金を回収しているんですか?すごいですね。
私は20数年アゴン宗におりましたが、そんな多数の護摩木を勧進してお金を
回収していた人は数人しか知りませんね。
私も法施はたいてい持っていましたが、ほとんど自分で買っていました。
私の周りは親が信者で子供の勧進に応じたり、そんなのばっかりでした。
準シュダオンさんは相当の「修行者」なようですね。あなたの申告が真実ならば。
- 750 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/07(火) 17:47:41
- >普通の人では経典に説かれている内容が解らないのです。中巻のP173から、
文底秘沈と深秘釈とを説明しています。字面だけの解釈では、経典の意味を正しく
解釈できない、
阿含経講義(中)巻 174頁
ここで大切なことは、文字どおりに読むだけでは、
お釈迦さまの真意は汲み取れない、ということです。
桐山さんのこの短い文章で、信者さんの知性が簡単に麻痺する好例です。
桐山さんは、増一阿含経の等見品にある生老病死から逃れようとしても
無理である、とのお経に、上記の理屈でイチャモンをつけたのです。
この世の無常を、五つの得がたいおしえとして説いたお経です。
いわばそれは、諸行無常を意味しているのが分かります。
それを桐山さんは、ありもしない因縁解脱の法則を
あるかのように付け加えて見せようとした。
諸行無常という真理を因縁解脱の法則にからめたのです。
この等見品にも、「因縁解脱の法則によって」という語句が
略されている、と勝手に断定しています。
お経は、文字どおりに読むことが以外に、必要な何かなどありません。
お経とは、釈尊の教えそのものを記したことが大前提だからです。
内外の差別なく誰にでも理解できることが、釈尊の説き方です。
桐山さんは、自説を主張するために「文字どおりに読むだけでは」
不足だなどと、読者が自分自身で考えることを封じ込めたのです。
- 751 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/07(火) 20:30:06
- >>729:準シュダオン12/02/07(火) 09:06:31
>それ以外は頂いていますよ。管長は、ただよりも、たとえ百
>円でも身銭を切らせた方が記憶に残るものだから、そのようにしなさいと本に書
>いていますよ。
ご回答ありがとうございます。
私がこの質問をした意図は、他の人のように本数をどれだけ買ったかとか実績
を問うものではない。
護摩木勧進の基本的な考えを知っているかその理解度だけを試したのです。
もちろん理解と実践は別物で必ずしも比例しない。
しかし最低限の知識があるかどうかを問わさせてもらった。
評価は合格及第点です。
ここで自分で支払っていると書いたら不合格ですね。
やはり祈願主本人に護摩木代を喜捨してもらわねば意味ないのです。
お金を払ってまで書いてやろうという気持ちを起こさせることが大切です。
金を払うという功徳を積ませるわけです。
不思議に願い事が叶うよなんてそそるわけだから功徳を積ませるのではなく
単に欲望で買わせてるだけじゃねーかなんてことは今回は言いっこなしです。
いずれ言いますが。
護摩木に書いて合掌してもらう。しない人もいるが。
これをアゴン宗では菩提心を托鉢すると
言います。
だから自分で金払っては菩提心を托鉢したことにならない。
このように多くの菩提心を募るからこそ勧進者の徳にもなるわけです。
なぜならば家でじっとしていても菩提心の托鉢は出来ず、外に出て行動を起こしてこそ
托鉢は可能になるのだから行動力こそが鍵であり重要です。
果報は寝て待てではなく練って待てです。
行動を起こして起こして、早く功徳が返って来ないかなあと待つ。
だからやはり数は無視できず数が物を言うのだが、この数とはあくまでも勧進数
であるはずなんです。
自分で祈願したのを勧進とは本来呼べない。
この基本を抑えておくことが重要です。
とりあえず知識面では準シュダオンさんは及第と言えようか。
相手の記憶に残るとかでなく、その時、喜捨をさせたということが後になって
物を言うかもしれないというものですね。
ところで準シュダオンさんも私が昔から言いたかったことに近い(イコールではない)
いいことを書いています。
- 752 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/07(火) 21:34:24
- >>732:準シュダオン12/02/07(火) 11:57:32
>例えば、宗教に関心はあるが護摩木を知らない人に、長時間かけて、1本勧進した
>とします。長時間かけて説得するためには、密教の護摩の意義や、阿含経の37道
>品や、護摩木を焚くと何で功徳になるのか等、勉強しないと出来ません。でも長時
>間説明して、ようやく1本、勧進できた人が居たとします。
>一方、いつも可愛がって貰っている裕福な祖父母の所へ行って、ろくな説明もしな
>いで、これを買って貰えば私が助かる、とお願いして、短時間で大護摩木を勧進で
>きた人が居たとします。
>さて、上記の1本の人と、千本の人、どちらの人の方が多くの功徳を得るでしょう?
>簡単に判断できないのですよ。
これがあなたの実践に即した実話かどうかはさておき、これなどはまだ他人に
勧進したもの同士の努力度比較だが、安易に自分で書いてしまうのと、こつこつと戸別護摩木勧進など
をして、そのほとんどは拒絶する中ささやかな実績を得たり、友人知人に勧めて
一人につき数本しか勧進できない。
これで千本二千本勧進できたらその行動力、行動半径たるや見上げるほどだ。
しかし私も含めて法施グッズをゲットできる千本二千本勧進はそのほとんどが
自分で書いてしまうものです。
その中のごく一部に他人に金も払ってもらい書いてもらったものもあるというだけです。
>>748で準シュダオンさんは二千本三千本に相当するグッズを手にしたのは
嘘でなく本当だと思います。
これに対して>>749でBooさんが回収云々疑問を書いているが、準シュダオンさんは
最初から回収などと書いていない。
すなわちそのほとんどは自分で書いたものと推察されます。
これは準シュダオンさんを腐しているのではなく、我々も同じだったから無理もない
と申しておるのです。
つまり千本二千本なんて言っても本物の勧進ではないのは恥ずかしくもある。
そもそも十万円護摩木を買って自分で書いただけで、はい、千本勧進の仕上がりです。
でもこんなことではなく、やはり安易に本数が稼げてしまうことよりも
地道な努力の結晶の方が価値があると思った。
そのことを地区のミーティングで話す機会があった。
先達は答えた。
「君の言ってることは正論だ。でも結局数なんだよな」
- 753 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/07(火) 23:30:43
- >>732:準シュダオン12/02/07(火) 11:57:32
>愚か者は、本数の量で人に優劣をつける可
>能性が高いですからね。心境の高さ・修行の成果は、護摩木の数に比例するもので
>はありません。
実は本数の量だけで優劣を付けてる愚か者はアゴン宗なのです。
私に「数なんだよな」と言った先達氏が特別変なのではなく、(否、アゴン宗先達の
名に恥じぬ変なおっさんだったが)教団のシステムがああ出来上がっているのだから
数ばかりが問われるようになる。
本当に菩提心の托鉢とかに価値を求めるのだったら、誰に勧進したのかではなく
護摩木を購買した伝票一つで法施ゲットの対象にしてしまうのがおかしい。
しかも千円護摩木から十万円護摩木まで出て来て尚更おかしくなった。
それならばいっそ法施グッズそのものを廃止にした方がよい。
地道な努力の成果を評価してくれるところがないのです。
逆に金さえ出せば何でも買えるのがアゴン宗です。地獄の免罪符だろうが
御利益グッズだろうが。
メシアの法二期伝法会の必須アイテムである光明宝蓮華は護摩木1500本分だった。
数集めて法施グッズを買わないと伝法も受けられない。
だから結局数であり金なんです。
準シュダオンさんがどんなにご立派そうな建前を謳っても、残念ながら
教団が、桐山さんが、数と金しか評価しない風土を育てている現実があるのです。
- 754 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/07(火) 23:43:11
- >>735:準シュダオン12/02/07(火) 12:21:22
>普通の人では経典に説かれている内容が解らないのです。中巻のP173から、
>文底秘沈と深秘釈とを説明しています。字面だけの解釈では、経典の意味を正しく
>解釈できない、ということですね。私は、幼稚な修行であっても、修行してようや
>くそのことが少し解るようになりました。修行したことのない学者先生には、永遠
>に理解できないことだと思います。
そういう文底秘沈を含めて教師の握り拳と言い、釈尊はそれはないと断言したのです。
そして誰にでもわかる言葉で誰にでもわかる教えを説けと説いたのです。
こういう経典だけは桐山さんは絶対に出しません。
学者の方があなたより遙かに瞑想など修行してると思うのだが、それはともかく
学者ならぬ僧侶の修行を見ればいいのです。
日本の僧侶はお話にならないから、スリランカ、ミャンマー、タイなどの
僧院で修行する僧侶は経典に基づいて修行してます。
決して戒律だけではありません。
アゴン宗ではできやしないヴィパッサーなどをやってるのも経典に根拠があるのです。
- 755 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/08(水) 00:00:00
- >>739:準シュダオン12/02/07(火) 12:34:33
>ああ、それはね、私の解説が、ユビさんと深山さんとラシンさんに対する解説だ
>と現役信徒は見抜いているから許しているのです、多少レベルが低くてもね。
>私程度のレベルでは、現役信徒に解説するなんて、無理です。
見抜くのも許すのもあなたの決める話ではありません。
ここが天照さん管理の下、あなたと私と深山さんとラシンさんとBooさんや干柿さんや
無関係な人間ですさんらだけの会員制の閉鎖空間ならあなたの行状はまだ
晒されないからいい。
しかし誰でも覗ける公開の場でアゴン宗信者であるあなたは狂態を演じているのです。
相手なんか関係ありません。
どんな相手だろうとおならをぶっかけるような自分が恥ずかしい真似はしてはならない。
相手が批判しようが何しようが、常に立派な大人の態度で臨むことが義務です。
それでこそ立派な教団だと世間に示せる。
あなたのは教団の面汚しでしかない。
逆に我々批判側の方が常に大人の態度で批判を書いています。
2ちゃんねるにおかしな貼り付け魔がいますね。
私は彼が批判側憎しと攻撃してくることにホッとしています。
逆に擁護側にあの攻撃を向けられたらまるで批判仲間があんなことしてるみたいで
たまったものではない。
私や深山さんなどを攻撃対象にされているだけ、ホッとしてありがたい。
- 756 :深山:2012/02/08(水)
00:03:26
- >>748 :準シュダオン:2012/02/07(火) 16:48:15
>ご苦労さんw。それほど護摩木本数が気になるのかい?ほんとに笑うしかないね。
私は準シュダオンさんの今年の勧進本数を質問したのです。
または、今年の誓願はいくらなのか、です(>>710)。
今年のは確定していないだろうから、去年のものでかまわない。
あなたも書いているようにアゴン宗での護摩木の成績は単年度制だからです。
その年に何本護摩木を買ったか、これが成績のすべてです。
準胝如来の尊像は2003年からの法施、般若心経曼荼羅はそれよりも前です。
2003年はあなたがこのスレに来た頃です。
2ちゃんねるを読んで猛烈に反発して、ザビビに来たと書いていた。
つまり、まだ桐山アゴン宗を深く信じ切っていた頃だから、
護摩木に金を出していてもおかしくない。
あなたが十年くらい前に20万円を二度出して、法施を買ったのはわかった。
だが、そんな昔の話ではなく、去年や今年はどうなっているのかを聞いているのです。
今あなたは他人に偉そうに護摩木についてお説教するなら、
さぞや去年も今年も護摩木勧進にがんばっているのでしょう?
その成果を見せてくれと私は質問しているのです。
- 757 :深山:2012/02/08(水)
00:06:29
- >>748 :準シュダオン:2012/02/07(火) 16:48:15
>ご苦労さんw。それほど護摩木本数が気になるのかい?ほんとに笑うしかないね。
本数は何本なのだと聞かれたら、
「昨年はA本で法施はB、今年は今までにC本で、法施はD」
と書けば、たった1行で済んでしまうのに、
余計なことを長々と書き連ねているのに、今の本数も法施も出てこない。
「質問に答えよう」とか「笑うしかない」などと小馬鹿にしながら、
この人は今年の本数も法施も書いていない。
準シュダオンさんなりに熱心にしていた時期はある。
伝法会も出たし、ボン行の真似事もしたし、解脱供養も四体出し、
冥徳解脱も数体だした。
だが、いずれも過去の話です。
私は準シュダオンさんの今を疑っているのです。
それで今年、あるいは去年の護摩木の本数は何本なのですか。
私の文章が長いというなら、あなたは一行で質問に答えてみなさい。
- 758 :深山:2012/02/08(水)
00:08:53
- >>729 :準シュダオン:2012/02/07(火) 09:06:31
>円でも身銭を切らせた方が記憶に残るものだから、そのようにしなさいと本に書
>いていますよ。
もう一度質問するが、桐山さんがこんなことを本に書いていますか。
桐山さんは相手からお金を受け取るのは、自分が受け取るのでも、
教団が受け取るのでもなく、仏様が受け取るのだとしている。
「相手にお金を出せることが徳を積ませることだ」というのが
桐山さんの主張であり、アゴン宗の教義です。、
「身銭を切らせた方が記憶に残る」では話はまったく違う。
前者は相手が仏様に供養することで徳を積むという善行をしたという意味です。
だが、後者は、仏様も積徳行もまったく関係なく、
まるで賞罰的に相手に教え込んでやるという態度です。
こんなことを本に書いた?!
そこまで桐山さんがボケているのなら、大歓迎です。
ぜひ、読んでみたいから、引用してほしい。
私は、これは桐山さんの本ではなく、準シュダオンさんの
作り話だと疑っている。
桐山さんではなく、準シュダオンさんが他人に対してそのように
思っているのでしょう?
違うというなら、示してほしい。
- 759 :深山:2012/02/08(水)
00:10:36
- >>748 :準シュダオン:2012/02/07(火)
16:48:15
>ことはないでしょうけど、例え、本数が少なくても聖なるバイブレーションな
これはアゴン宗の教義としても嘘です。
準シュダオンさんは自分の護摩木の本数が少ないのを正当化するために
いつも本数ではないと言うが、そんなことは桐山さんは言っていない。
読んでいる信者さんたちは準シュダオンさんの嘘の教学に
惑わされてはいけない。
桐山さんは、護摩木の本数を重視しているからこそ、
それぞれの本数に法施を授けているのです。
本数がどうでもいいなら、どうして法施などあるのだ?
まるで少しでも買わせようと釣りをするかのように、100本から
3000本まで法施がある。
護摩木の本数が徳の大きさだからです。
桐山さんが本数が関係ないなどと言うはずがないことは、
彼がいつも引用する次の言葉を見れば十分です。
- 760 :深山:2012/02/08(水)
00:12:22
- >>748 :準シュダオン:2012/02/07(火)
16:48:15
>ことはないでしょうけど、例え、本数が少なくても聖なるバイブレーションな
「誓願なきは菩薩の魔事なり」
誓願とはこの場合は護摩木の本数です。
護摩木の本数に目標も決めない者の修行は正しくないと言っている。
数が少なくても良いという準シュダオンさんの話と正反対です。
桐山さんは護摩木の本数、導きの人数を出せと言っているのです。
準シュダオンさんは修行の現場でボン行をしたことがないから、
桐山さんを知らないのです。
桐山さんは誓願を出して、それを達成しろといつも言っている。
仏様への供養とは最善を尽くせばいいというものではなく、
最善とは数字に表れるとはっきり言っている。
桐山さんが星まつりの直前、関西道場で、「結界のお役をもらっているのに
千本も護摩木を勧進していないとは何事か」と怒り出した。
ある募集では、護摩木千本で足切りをした。
他にも、護摩木がノルマになったお役はたくさんある。
本数なんか関係ないなどとマヌケなことを言っている準シュダオンさんは
ろくに修行もボン行もしたことがないから、現場を知らないのです。
- 761 :深山:2012/02/08(水)
00:16:24
- 「誓願なきは菩薩の魔事なり」
二十年前、別院は1千万本の護摩木を達成した。
あれがアゴン宗の護摩木本数のピークです。
だが、実は一千万本に数十万本ほど足りなかった。
そこで何をしたと思いますか。
すでに星まつりが終わっているにもかかわらず、
各道場やファミリーなどに足りない分のノルマを課したのです。
これは桐山さんが同意の上でしたことです。
信者さんたちにもお聞きしたいが、これはアゴン宗の修行としても正しいことですか。
999万本であっても、それが信者たちの最大の努力の結果なら、
受け入れるべきであって、終わってから、数字合わせのために
強引に買わせるなんて、おかしい。
指導者なら、999万本を受け入れ、修行者たちをねぎらうべきです。
だが、桐山さんは違う。
一本でも増やし、その数字を誇りたい。
これではセールスと何が違うのだ。
売り上げが目標に少し足りないからと、社長の命令でセールスマン本人が
自腹を切らされているのと同じです。
桐山ゲイカの本音を見せられたようで、とてもこの件は印象に残っている。
準シュダオンさんはろくな修行をしたことがないから、
こういう現場を何も知らないで、空想でお説教を垂れている。
- 762 :Boo:2012/02/08(水)
01:17:20
- うう〜ん。深山さんのレスは要約しようがないね・・・
準シュダオンさんは深山さんのレスを読まないから私に要約するように頼まれ
ましたが仕方ないので準シュダオンさんに呼びかけている部分を抜粋しましょう。
>756
:深山:2012/02/08(水) 00:03:26
>>>748
:準シュダオン:2012/02/07(火) 16:48:15
>>ご苦労さんw。それほど護摩木本数が気になるのかい?ほんとに笑うしかないね。
>
>私は準シュダオンさんの今年の勧進本数を質問したのです。
>または、今年の誓願はいくらなのか、です(>>710)。
>今年のは確定していないだろうから、去年のものでかまわない。
>あなたも書いているようにアゴン宗での護摩木の成績は単年度制だからです。
>その年に何本護摩木を買ったか、これが成績のすべてです。
- 763 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/08(水) 08:47:35
- ああ、等見品五難得の物についてレスするの忘れてたな。
昔反論済みであるが。
- 764 :準シュダオン:2012/02/08(水)
09:08:35
- >私も法施はたいてい持っていましたが、ほとんど自分で買っていました。
それはそれで、自分で護摩木祈願をするのも必要であるが、その場合は三結煩悩が
切れるような祈願をしないといけないね。身見、疑惑などのね。そうしていたら、
私が指摘した「狐疑」など、今頃まで持っている筈がない。私のレスを見なさい。
あなたのような、疑心がありますか?あなたのレス怪しいな、とか疑いのレスは
私はしない。疑心がないからです。どうしてもレスには人格も出てしまうね。
また、狐疑を難しい言葉なんていう深山さんは勉強不足だね。狐の猜疑心に例えた
狐疑と言う言葉は、「教えを説く」上巻のP159の出家経講義で解説されています
から調べてごらんなさい。
>私の周りは親が信者で子供の勧進に応じたり、そんなのばっかりでした。
>準シュダオンさんは相当の「修行者」なようですね。あなたの申告が真実ならば。
申告が真実ならば、なんて、また狐疑がでている↑w。私は、真実をレスしている
から人のレスを疑うことがない。相当の修行者?なにそれ?あんたは護摩木の本数で
修行者を評価するのかい?そんな馬鹿げた考えは止めなさい。私は、深山さんみたい
な人が、例え五千本とか1万本を勧進しても評価しないよ。彼のは我欲で勧進してい
る。
護摩木本数で評価するにしても、私は「相当の修行者」に該当しないよ。
準低尊秘密光明曼荼羅を欲しいのだけど、まだ頂けていない、とは昨年レスして
いるところです。水晶龍神御尊像も欲しいけど、まだ頂けていない。
だから護摩木本数で評価するとしたら、最近は相当どころかたいした修行者ではないよ。
- 765 :Boo:2012/02/08(水)
09:37:20
- >729 :準シュダオン:2012/02/07(火) 09:06:31
>>アゴン宗ではそのようにして売りさばいてますよ。
>>ところで質問ですが、あなたは護摩木勧進の際、その護摩木代を祈願主から
>>支払ってもらってますか?
>
>代金を取らなかったのは、何年も前に、親戚の爺さんにプレゼントしたときの
>一度だけですね。それ以外は頂いていますよ。管長は、ただよりも、たとえ百
>円でも身銭を切らせた方が記憶に残るものだから、そのようにしなさいと本に書
>いていますよ。
確認なんですが・・・あなたの申告している「護摩木勧進」本数には当然自分で
祈願や供養した護摩木は入っていないんですよね。それで1500本2000本の勧進を
親戚の爺さんを除いてはすべて代金を回収しているんですよね?
>護摩木本数で評価するにしても、私は「相当の修行者」に該当しないよ。
>準低尊秘密光明曼荼羅を欲しいのだけど、まだ頂けていない、とは昨年レスして
>いるところです。水晶龍神御尊像も欲しいけど、まだ頂けていない。
>だから護摩木本数で評価するとしたら、最近は相当どころかたいした修行者ではないよ。
私の記述した確認事項がそのままあてはまるような勧進をしたとするなら、準シュダオン
さんのような勧進実績を持つ人は奇特で私は数人しか知りません。
- 766 :Boo:2012/02/08(水)
09:52:49
- >>私も法施はたいてい持っていましたが、ほとんど自分で買っていました。
>
>それはそれで、自分で護摩木祈願をするのも必要であるが、その場合は三結煩悩が
>切れるような祈願をしないといけないね。身見、疑惑などのね。そうしていたら、
>私が指摘した「狐疑」など、今頃まで持っている筈がない。私のレスを見なさい。
>あなたのような、疑心がありますか?あなたのレス怪しいな、とか疑いのレスは
>私はしない。疑心がないからです。どうしてもレスには人格も出てしまうね。
あはははは。それはね、「狐疑」なんて最近知った言葉を何度も使う必要ないの。
準シュダオンさんはなぜ、私のレスや他の批判派のレスに「狐疑」を出さないかと
いうとね、私や批判派の諸兄のレスはすべて真実であることをあなたの深層意識が
感じているからです。
それに対して、あなたのレスには批判側の人たちは「悪意」や「狡猾」や「不誠実」
などの心癖を感じているからなんですよ。
泥棒ほど人を見たら泥棒じゃないかと邪推する。あなたが人の「狐疑」を指摘するほど
あなたのレスが「疑慢」に満ちていることにそろそろ気がつくべきです。
- 767 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/08(水) 11:58:48
- >準低尊秘密光明曼荼羅を欲しいのだけど、まだ頂けていない、とは昨年レスして
いるところです。水晶龍神御尊像も欲しいけど、まだ頂けていない。
今回は、
東日本の被災者を人質にして、星まつりと京都南座公演を
盛大に成功させるために、ゴマ木勧進に励まねばならないのです。
桐山さんから、信者さんへのメッセージを再掲します。
準胝尊秘密光明七輪寶、準胝尊秘密光明曼荼羅、
水晶龍神御尊像、霊障魔除け光明宝蓮華が、今後の法具として
必要になる。
星まつりを盛大に行うためにゴマ木勧進に精進した法施として、
これらを授けるので必ず拝受しておきなさい、、、
深山さんが、昨年に在庫セールと指摘していた法施グッズの数々です。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/lite/read.cgi/internet/3419/1312277648/91-93
- 768 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/08(水) 11:59:43
- >自分で護摩木祈願をするのも必要であるが、その場合は三結煩悩が
切れるような祈願をしないといけないね。身見、疑惑などのね。
桐山さんの現在の指導は、法施を拝受し、それを掲げて瞑想するのです。
>98:深山2011/08/12(金)
13:05:49
(第五十六章)
>桐山さんはわざわざ、通力と神通力を区別して、
>四神足の神通力はオシャカの成仏ホウでなければ得られないとした。
>こういう桐山教は阿含経になんの根拠もないことはさて置くとして、
>その覚醒方法の伝法会こそが、20年前の仏陀の法であり、
>10年前の練脳塾だったのではありませんか。
>20年前、『仏陀の法』『求聞持聡明法秘伝』などの本を書いて、
>呼吸法でチャクラを動かし、クンダリニー覚醒への導くのだとして、
>その方法として、瞑想でプラーナがマグマのように流れていくのを
>空想するなんて、馬鹿みたいな修行法を公開した。
>ああやってチャクラを開発し、クンダリニーを覚醒した延長に
>四神足という神通力の獲得があったはずです。
>それがなんと、法施を買って瞑想すると四神足が得られる?!
>だったら、どうして当時、これらの法施を出さなかったのだ?
>法施で神通力を体得するなんて、これまでアゴン宗の教義から
>見ても、メチャクチャな話です。
>密教をさんざん、曼陀羅拝む観念宗だと小馬鹿にしながら、
>結局、していることは、そっくりそのまんまです。
- 769 :準シュダオン:2012/02/08(水)
12:24:05
- >泥棒ほど人を見たら泥棒じゃないかと邪推する。あなたが人の「狐疑」を指摘するほど
>あなたのレスが「疑慢」に満ちていることにそろそろ気がつくべきです。
何をいうかこの小童が、因縁の洗い出し現象も、聖なるバイブレーションも、なんの
体験も起こらぬ未熟な愚か者めが、あんたは現役信者か元信者かは解らんが、
あんたは深山さんみたいな愚か大将ののレスを、真実だと思うのだろうw。
あなたは愚か大佐だなw、ラシンさんは愚か少将というところかw。
小馬鹿者は、大馬鹿者を偉大だと思うものだよ。
愚か大佐のうちに足を洗わないと、あんたも愚か大将になるよw。
ユビさんは、まだ判定が出来ないね、不明なところがある。
- 770 :準シュダオン:2012/02/08(水)
12:34:31
- >準シュダオンさんはなぜ、私のレスや他の批判派のレスに「狐疑」を出さないかと
>いうとね、私や批判派の諸兄のレスはすべて真実であることをあなたの深層意識が
>感じているからです。
バッカにつける薬はないねw、私がなんで深山さんのレスをスルーして、あんたの
レスをチラリと見るかと言うとね、あんたは若いだけまだ傷が浅いから、回復が可能
だと思うからですよ。あんたは疑心と言う根本煩悩を切る修行がなっていなかった。
それは深山さんやラシンさんも同じ事です。深山さんやラシンさんの狐疑は、あんた
よりも深く凝り固まっているのです。
だから、私のスルーが多くて狐疑という暇もないのよ、解ったw?
- 771 :深山:2012/02/08(水)
12:38:25
- >>764 :準シュダオン:2012/02/08(水)
09:08:35
>修行者を評価するのかい?そんな馬鹿げた考えは止めなさい。私は、深山さんみたい
>な人が、例え五千本とか1万本を勧進しても評価しないよ。彼のは我欲で勧進してい
る。
私はあなたの修行を評価したくて、護摩木の本数を質問しているのではない。
ここで偉そうにお説教しているのだから、当然、そのお説教に
見合うだけの護摩木の成績を上げているのでしょう?と質問しているのです。
私は準シュダオンさんは面の皮が厚いから、自分ではろくな
こともしないのに、平然と偉そうに他人に説教する古狸だと思っている。
この十年にわたるあなたの反応を見れば十分です。
だから、今回も、護摩木について疑いを持っている。
ろくな勧進もせずに偉そうにお説教しているのでしょう?
この疑惑を晴らすのは簡単で「すでに千本をこえており、
今年はゲイカのご指示に基づき、水晶龍神をいただく予定である」と
返事をすればいいだけです。
- 772 :深山:2012/02/08(水)
12:42:24
- >>764 :準シュダオン:2012/02/08(水)
09:08:35
>護摩木本数で評価するにしても、私は「相当の修行者」に該当しないよ。
準シュダオンさんは私が本数だけを問題にしているように話をすり替えているが、
私はそんなことは書いていない。
あなたは、自分が書いていないことを書かれ、激しく追求して
私に謝罪まで求めたことがある。
だが、こんなふうにあなたも他人が書いていないことを
書いたかのようにいくらでも書いているのです。
本数を問題にしているのは桐山さんだと書いたのです。
>>760以降で示したように、桐山さんこそは本数を問題にしている。
だが、批判側は違う。
>>738
>その本数が多くなくても、たとえば、一軒一軒を托鉢したというなら、
>アゴン宗から見れば立派です。
>行為は愚かでも、その熱意は買う。
本数でも、熱意でもいいから、今あなたがしている護摩木勧進を
説明すればいいだけです。
たった1行で済む。
だが、あなたに何度も質問しても、今回も764で長々と書いているのに、
たった1行で済むことを書かない。
>>769-770も答えなくても言いように、罵声をあげているだけです。
つまり、あなたは自分で買うことを含めて、護摩木勧進などろくにしていないのだ。
よくそれで偉そうに護摩木についてお説教を垂れるものだ。
そういうのを面の皮が厚いというのです。
- 773 :深山:2012/02/08(水)
12:45:19
- >>764 :準シュダオン:2012/02/08(水)
09:08:35
>護摩木本数で評価するにしても、私は「相当の修行者」に該当しないよ。
準シュダオンさんは護摩木勧進に限らず、ボン行などなんにもしていないからでしょう。
元々ケチな上に退職して金銭的にも不安を持っている。
十年前は現役だったし、車を何台も乗り換えるだけの余裕もあったから、
何か御利益がないかと曼荼羅も買った。
だが、ここに来て、釈尊は護摩を禁止していると何度も教えられた。
あなたは他人から意見されることが死ぬほど嫌いで、
間違いなど指摘されようものなら、>>769-770みたいに激怒するか、無視する。
侮蔑心と反発心ばかり強いから、今でも護摩木を少しは買っているだろうが、
十年前に比べたら激減している。
法施など100本からあるのに、それすらももらっていないのでしょう?
だが、自惚れが強いから、>>764みたいに、まるで大先達であるかのように
お説教するのが三度の飯より好きだ。
そこを批判側から、護摩木勧進をしているのかと、準シュダオンさんの
一番痛いところを突かれた。
ごまかして、なんとか答えなくて済むようにしているのでしょう?
そのはぐらかしぶりが古狸です。
口先ではペラペラと偉そうにお説教しているが、実は何もしていない。
質問されると、ここに来る前の過去の成績で読者を煙に巻こうとした。
まさにあなたのしたことは古狸です。
準シュダオンなんてハンドルはやめて、準古タヌキにしたほうがいい。
- 774 :深山:2012/02/08(水)
12:47:15
- >>729 :準シュダオン:2012/02/07(火) 09:06:31
>円でも身銭を切らせた方が記憶に残るものだから、そのようにしなさいと本に書
>いていますよ。
>>758で質問したが、返事はどうなったのだ?
本になど書いていないのでしょう?
桐山さんが書いたなんて嘘ですよね?
これはあなたが他人に勧進した時の心でしょう?
桐山さんの話のように書いて、うっかり自分の汚いハラワタを見せてしまった。
しかも、その罪を桐山さんになすりつけた。
準シュダオンさんは「身銭を切らせた方が記憶に残る」などと、
こんな心で他人に護摩木を書かせているのですね。
こういう心構えで護摩木を勧めるのはいかにもケチで、
他人にお説教好きの準シュダオンさんらしい。
だが、それは桐山さんが示した方針とも違います。
桐山さんは、「徳を積ませてやっているのだ」と言っていた。
私に護摩木の個別托鉢を教えてくれた先達から、「この百円の功徳に
よって相手に仏縁がありますようにと祈りながら受け取る」と教えられた。
この先達の教えも私のしたことも愚行だが、あなたみたいに
「身銭を切らせた方が記憶に残る」などという小汚い心だけは持っていなかった。
本当に準シュダオンさんて、三十年アゴン宗にいて、
見事なまでに、ことごとく自分の心を汚しましたね。
- 775 :深山:2012/02/08(水)
12:52:54
- >>769 :準シュダオン:2012/02/08(水)
12:24:05
>ユビさんは、まだ判定が出来ないね、不明なところがある。
あなたのためにこれだけの老人介護してくれているユビキタスさんに
もう少し、気遣いをしてあげてください。
あなたからこんなふうに評価されることに、
どれほどユビキタスさんが嫌悪しているか、わかってあげてください。
ゴキブリに誉められたような気分なのです。
ユビキタスさんにも他の批判側と一緒に「未熟な愚か者め」
「愚か大将」「愚か大佐」「愚か少将」小馬鹿者」「大馬鹿者」
と一行ごとに罵りを並べてあげるのが、彼を傷つけない方法ですよ。
- 776 :準シュダオン:2012/02/08(水)
12:55:45
- >見抜くのも許すのもあなたの決める話ではありません。
>ここが天照さん管理の下、あなたと私と深山さんとラシンさんとBooさんや干柿さんや
>無関係な人間ですさんらだけの会員制の閉鎖空間ならあなたの行状はまだ
>晒されないからいい。
>しかし誰でも覗ける公開の場でアゴン宗信者であるあなたは狂態を演じているのです。
>相手なんか関係ありません。
では何で現役信者さんから、私への批判レスが無いのですか?
それは見逃してくれているんです。少々レベルの低いレスでもね。
なんかの足しになっているのでしょう。レベルの高い現役修行者は、
こんな所でレスして、無駄な時間を送ってる暇はないのですよ。
だから私が、批判派のデタラメ解釈を間に受ける現役信者さんが居て、
もし迷わされていたら気の毒だと思って、レスしているのです。
教団の中での私のレベルは、相撲に例えて、幕下か、よくて十両位とは
以前からレスしているところです。だから、現役信者に解説なんてのは
あり得ないのです。
私の解説は、すべて批判派が対象ですよ。
- 777 :深山:2012/02/08(水)
13:06:00
- >>776 :準シュダオン:2012/02/08(水)
12:55:45
>では何で現役信者さんから、私への批判レスが無いのですか?
まったく記憶していないのですね。
アゴンさんがあなたに「預流向≠聖者」の阿含経や学者の本の
根拠を示すように批判した。
あなたは答えられずに、「いっぱいある」と言っただけで、逃げ出した。
たった半年前なのに、あなたはきれいに忘れている。
他人の批判がまったく記憶に残らない。
- 778 :深山:2012/02/08(水)
13:13:48
- >>776 :準シュダオン:2012/02/08(水)
12:55:45
>では何で現役信者さんから、私への批判レスが無いのですか?
逆にあなたに聞くが、準シュダオンさんを支持する信者からの
書き込みがどうしてないのだ?
私の記憶する限り、あなたの主張が正しい時には批判側も同調したが、
その時ですら、信者からの賛同がなかった。
あなたはその理由がわからないのでしょう。
理由は簡単で、信者さんたちはあなたみたいな人と
同列にされるのが嫌なのです。
あなたは自分がとても立派な主張をしているつもりだろうが、
普通の信者から見たら、ただの自惚れで書いてる準シュダオン教です。
アゴン宗の教義ですらないことを滔々とまくしたてている。
その大半が桐山ゲイカの顔に泥を塗っている。
そんなあなたに同調したら、自分も同類の「しようもない信者」だと疑われてしまう。
あなたと違い、たいていの信者さんたちは恥じる心を持っているから、
それだけは避けたいのです。
あなたは現役時代も、周囲のあなたへの嫌悪を理解することができなかった。
職場や近所や道場で、あなたへの嫌悪を理解できなかった。
だから、あなたはここでも信者からすらも嫌われているのが理解できないのです。
- 779 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/08(水) 15:23:42
- >たとえ百円でも身銭を切らせた方が記憶に残るものだから、
そのようにしなさいと本に書いていますよ。
阿含経講義(中)巻にある経のことばの真意
五戒品(四)の「広施」:広く人々への施し(篤志)
有無品(三)の「法施」:他者へ法(おしえ)を施す
有無品(五)の「法恩」:法を与えられためぐみ
ここで読者が気をつけることは、五戒品は五戒について
二対五経の(一)から(十)まで説かれたものですが、
有無品は、二つのことがらをただ法数として羅列した、
十からなるお経だということです。
有無品の有見・無見は(一)のみで、あとは二つという
共通性だけで、合計十のお経です。
当然、
五戒品(四)と有無品(三)の内容は、異なっています。
桐山さんはこれを「広施」+「法施」=「法の広施」と混成し、
その行いは功徳となって成仏できる、と解説しています。
さらに有無品(五)の「法恩」をこじ付けて仏教徒の実践行は、
「”報”恩謝徳」などと、言葉の連想ゲームのように導いています。
この桐山さんのこじ付け解釈が、今のゴマ木勧進の基本でもあります。
- 780 :Boo:2012/02/08(水)
15:28:53
- >>769 :準シュダオン:2012/02/08(水) 12:24:05
>>770 :準シュダオン:2012/02/08(水)
12:34:31
罵詈雑言の誹謗中傷はちら見でいいでしょう。
さ、準シュダオンさん。またお勉強に時間ですよ。
>771
:深山:2012/02/08(水) 12:38:25
>>>764
:準シュダオン:2012/02/08(水)
09:08:35
>>修行者を評価するのかい?そんな馬鹿げた考えは止めなさい。私は、深山さんみたい
>>な人が、例え五千本とか1万本を勧進しても評価しないよ。彼のは我欲で勧進してい
>る。
>
>私はあなたの修行を評価したくて、護摩木の本数を質問しているのではない。
>ここで偉そうにお説教しているのだから、当然、そのお説教に
>見合うだけの護摩木の成績を上げているのでしょう?と質問しているのです。
>私は準シュダオンさんは面の皮が厚いから、自分ではろくな
>こともしないのに、平然と偉そうに他人に説教する古狸だと思っている。
>この十年にわたるあなたの反応を見れば十分です。
>だから、今回も、護摩木について疑いを持っている。
>ろくな勧進もせずに偉そうにお説教しているのでしょう?
>772
:深山:2012/02/08(水) 12:42:24
>>>738
>>その本数が多くなくても、たとえば、一軒一軒を托鉢したというなら、
>>アゴン宗から見れば立派です。
>>行為は愚かでも、その熱意は買う。
>
>本数でも、熱意でもいいから、今あなたがしている護摩木勧進を
>説明すればいいだけです。
深山さんのレスは要点の絞られた記述が多いので、要約はなかなかできないので、
本来は準シュダオンさん自身が読むべきなのだが、なかなかお忙しいので
そうもできない。私に要約すように依頼されましたので、他の読者には甚だ迷惑だとは
思いますが記述いたします。
ユビキタスさんなどは、あなたのその態度に半分はあきれていましたが、私は
あなたに依頼されたように重要な部分を抜粋し焦点を絞れるようにレスします。
「大佐」「大将」「少将」などの任命するほどの方ですからさしずめ戦時前、
戦時の日本の主権者であり現人神である天皇陛下のように威厳に満ちた人物
なのでしょう。準シュダオンさんという方はきっと。
- 781 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/08(水) 15:41:15
- 訂正お詫び
誤:有無品の有見・無見は(一)のみで、あとは二つという
共通性だけで、合計十のお経です。
正:有無品の有見・無見は(二)まで、法に関しては(五)まで、
あとは二つという共通性だけで、合計十のお経です。
- 782 :準シュダオン:2012/02/08(水)
15:59:16
>さ、準シュダオンさん。またお勉強に時間ですよ。
>>771
:深山:2012/02/08(水) 12:38:25
>>>764
:準シュダオン:2012/02/08(水)
09:08:35
>>修行者を評価するのかい?そんな馬鹿げた考えは止めなさい。私は、深山さんみたい
>>な人が、例え五千本とか1万本を勧進しても評価しないよ。彼のは我欲で勧進してい
>る。
>
>私はあなたの修行を評価したくて、護摩木の本数を質問しているのではない。
>>ここで偉そうにお説教しているのだから、当然、そのお説教に
>>見合うだけの護摩木の成績を上げているのでしょう?と質問しているのです。
ほんとにしょうがない人ですね。お説教する資格に護摩木本数は関係ないと
言うのが、まだ解らないようですね。
法施グッズの御利益欲しさに、自分で十本の護摩木を書くよりも、
仏法に縁をつけようとして知人から勧進した1本の護摩木の方が功徳は大きい、
ということです。
だから、あなたが勧進した千本よりは、私が勧進した10本の方が功徳が大きい
と、自負しているわけですよ。だから、私が勧進した本数を知らせたって意味な
いことです。深山さんの現役の時より、私の方が少ないでしょうね。
- 783 :準シュダオン:2012/02/08(水)
16:21:17
- >しかも千円護摩木から十万円護摩木まで出て来て尚更おかしくなった。
>それならばいっそ法施グッズそのものを廃止にした方がよい。
>地道な努力の成果を評価してくれるところがないのです。
地道な努力の成果を評価してくださるのは、阿含宗の如来様です。
私は法施の水晶龍神も瞑想曼荼羅も頂けてないし、教団の評価は
低い方でしょう。それでも聖なるバイブは受けましたよ、不完全
なものでしょうけどね。如来様の評価なのだと思います。
>逆に金さえ出せば何でも買えるのがアゴン宗です。地獄の免罪符だろうが
>御利益グッズだろうが。
>メシアの法二期伝法会の必須アイテムである光明宝蓮華は護摩木1500本分だった。
>数集めて法施グッズを買わないと伝法も受けられない。
>だから結局数であり金なんです。
なるほどね。
>準シュダオンさんがどんなにご立派そうな建前を謳っても、残念ながら
>教団が、桐山さんが、数と金しか評価しない風土を育てている現実があるのです。
確かに、教団と管長は、数とお金で公平に評価しています、が、見えない
ところでは、阿含宗の如来様が評価してくださると思いますよ。
- 784 :準シュダオン:2012/02/08(水)
16:40:21
- >そういう文底秘沈を含めて教師の握り拳と言い、釈尊はそれはないと断言したのです。
握り拳はないと言っても、弟子のレベルに合わせて説いたのです。
だから、レベルの低い弟子は、それなりの法しか聞けません。
>そして誰にでもわかる言葉で誰にでもわかる教えを説けと説いたのです。
>こういう経典だけは桐山さんは絶対に出しません。
誰にでもわかる言葉で説いても、批判派みたいに理解できない人達がいます。
例えば、「三結断 不堕悪趣」の意味です。これは、三結断が煩悩解脱で、
不堕悪趣が因縁解脱を意味しています。悪趣解脱とは因縁解脱のことです。
ですから、「十結断 不堕六趣」ということになって、大解脱・完全解脱です。
>学者の方があなたより遙かに瞑想など修行してると思うのだが、それはともかく
それは外れでしょうね。
>学者ならぬ僧侶の修行を見ればいいのです。
>日本の僧侶はお話にならないから、スリランカ、ミャンマー、タイなどの
>僧院で修行する僧侶は経典に基づいて修行してます。
>決して戒律だけではありません。
>アゴン宗ではできやしないヴィパッサーなどをやってるのも経典に根拠があるのです。
私は、スリランカ僧の講義をテレビで聞いて、気付きの瞑想法を実習してみましたが、
阿含経に説かれている37道品とは違う、と感じました。
- 785 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/08(水) 17:27:44
- >私は法施の水晶龍神も瞑想曼荼羅も頂けてないし、教団の評価は
低い方でしょう。
「必ず拝受しておきなさい」と、桐山さんからのご下命があります。
準胝尊秘密光明七輪寶、準胝尊秘密光明曼荼羅、
水晶龍神御尊像、霊障魔除け光明宝蓮華が、今後の法具として
必要になる。
星まつりを盛大に行うためにゴマ木勧進に精進した法施として、
これらを授けるので必ず拝受しておきなさい、、、
(新しき年を迎えて官長メッセージ 抜粋要約)
- 786 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/08(水) 17:33:56
- >誰にでもわかる言葉で説いても、批判派みたいに理解できない人達がいます。
分かりにくい、分からないことをありがたがる風潮に信者が毒されている。
桐山さんはこれを利用して、秘密を強調し握った”こぶし”を開こうとしない。
開いたら何もないから、生まれたての赤子のように拳しを握りしめたままです。
誰でも分かるとは、そのままに誰でも理解できるということです。
桐山さんはとくに、大乗の仏典をおりまぜ捻じ曲げ自説を作り上げます。
参考のためですが、バウッダ―仏教(中村
元,三枝
充悳)より、
一部抜粋しまとめると、
阿含経は、釈尊の教えを直接伝える唯一の経典群であるが、
その教えを原型どおりに記しているわけではなく、
教えそのものは、広義インド学・仏教学に基づいて十分に検討研究して、
はじめて知り得られる。
またその他多数の諸経典、特に大乗仏教からは、全く知ることができない。
http://8ru.jugem.jp/?eid=133
- 787 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/08(水) 23:11:29
- >>776:準シュダオン12/02/08(水) 12:55:45
>では何で現役信者さんから、私への批判レスが無いのですか?
>それは見逃してくれているんです。少々レベルの低いレスでもね。
>なんかの足しになっているのでしょう。
おめでたい人ですね。私も開き直って(人生を捨てて)あなたみたいに脳天気に
生きる方がいいのかなと信念がぐらつきましたよ。
>レベルの高い現役修行者は、
>こんな所でレスして、無駄な時間を送ってる暇はないのですよ。
基本的にこういう考えを持った人が多いと思いますよ。
レベルなんて普通であっても。
こんな悪口スレなんか相手にするだけ自分が汚れるとでも思ってるんじゃないですか?
ただそんな中でもちゃんと見てる人は見ていてくれ、中には書いてくれる擁護側
信者さんもいた。
前者の代表がラシンさん、後者の代表が天照さんでしょうか。
二人とも回心に成功した人です。
私にまで謝意を述べてくれるから、ああ、批判続けることは間違いじゃないと
つくづく思う。謝意など要らぬが本当によかったねとねぎらいたい。
こういう人たちが何人もいる。アゴンさんも然り。
だから目に見えないからと言ってお気楽にしてても仕方ないですぞ。
ともあれ批判スレなど相手にしないのが見識という考えがある。
これに対して少し疑問に感じた元信者がいた。時は2002年11月。
登場したスレが阿含宗という宗教28。
名は準胝と名乗った。この準胝信者の書き込み第一声が以下でした。
「ここでの論争って、レヴェルの高低はさておきアビダルマになるのかな?」
この後、生意気そうな捨て台詞を吐くのだが、このわかりにくい表現は後に
自ら解説しています。
批判スレのようなものに関わらないというのも一つの見識かもしれない。
しかしどんな批判であれ、それに真っ向から反論をする、それによって自分の信が
揺るぐか揺るがぬか試してみる、つまり信解円通を得ることができるかどうかを
確認することって、一種の生きたアビダルマ議論と言えまいかと思ったのです。
レヴェルとは高慢が鼻につくが、この考えは今でも間違ってなかったと思う。
この準胝信者どうなるかと言うと、次々と名前を変える。
準胝改め真言行、ウミタコ、携帯あれどもパソコンなし、携帯はつらいよ、昼休み、
最新情報、副管長猊下を悼む、ウミタコ竜王と節操ない。
そうです。この浮動ハンドルこそユビキタスの前進でした。
- 788 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/08(水) 23:41:47
- >>776:準シュダオン12/02/08(水) 12:55:45
>では何で現役信者さんから、私への批判レスが無いのですか?
>それは見逃してくれているんです。少々レベルの低いレスでもね。
>なんかの足しになっているのでしょう。レベルの高い現役修行者は、
>こんな所でレスして、無駄な時間を送ってる暇はないのですよ。
えーと、「現世利益」という現世利益信仰も肯定した内容を書いたネームも名乗ったな。
年に一度くらい28スレのウミタコ軍団と29スレからコテハン化する擁護側信者
ユビキタスの書き込みとそれについたレス、回心に至る変遷を遡ることがあります。
時に涙を浮かべながら。
しかし今回また読んでみたウミタコ軍団の書き込み内容ひどい!ひど過ぎる!
ウミタコ・・・おまえ・・・俺だったのかよっ!
こんな幼稚な思考をしていたことに赤面の思いです。
態度も自分で読んで好ましいと思わない。ハンドルころころ変える節操ない遊び
にしても。
しかし確認すると、内容も態度もそんなに信者の面汚しをしているとは思えない。
だってユビキタスなんだから。
でも自分では当時から不真面目だな。こんな態度は不本意だと感じていた。
まあウミタコ遊びもたしかに私に今でも息づいている私ではあるのだが、
それはそれとして。
ある人がこう書いた。
「ウミタコ竜王=よー痴だろ?あの脳障害思考は。」
今読んでみてホントに脳障害思考だとつくづく思う。
私はそれに対してレスした。ネーム欄には「脳障害」と入れて。
「そうか!批判側はこちらが馬鹿なこと書いてもそれはよーちという一人の信者の
仕業にしてくれるのか?やさしいなあ。よーち君。この際だから何でも身代わりに
なってくれたまえ」とおちょくったようなレスです。
ただ一箇所気付く人には気付いてくれるのではないかという私の真実の訴えがある。
「俺はアゴン宗の信者と言えど、どこの世界にもいる馬鹿がいると思う」
これはやはり現実の
醜聞を見てるからですね。
あるファミリーのリーダーのおばさんがいた。
ある時関東別院で曜日班の再編成が職員の指導により行われた。
〇曜日班を受け持っていたこのリーダーも難色を示して職員にどうして今あるものを
崩すのかと苦情を訴えた。
しかし職員の指導に従うことにした。職員の指導は管長猊下につながると信じて。
で、●曜日班を仕切ることになった。
そしたら元●曜日班の常連との諍いになった。
- 789 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/09(木) 00:16:32
- >>776:準シュダオン12/02/08(水) 12:55:45
>では何で現役信者さんから、私への批判レスが無いのですか?
>それは見逃してくれているんです。少々レベルの低いレスでもね。
●曜日班を新たに取り仕切ることになったそのリーダーさんに旧●曜日班から
反発を受けた。
リーダーさんは「宗務局の指導なんがから従いましょう」と説得した。
ある深夜のこと、その一人暮らしのリーダーさんの自宅に電話があった。
女性の声で「●曜日班は滅茶苦茶にしてやる」という呪いの声だった。
リーダーさんは眠れなくなった。げに恐ろしきは女の世界である。
リーダーさんはそれを職員に訴えた。
職員は桐山ゲイカに上告してくれた。
「(その呪いの言葉を吐いた信者は)破門だ」
この話を別の男性先達であり怖い先達と言われたYさんに話したことがある。
Yさんは一言。「でも破門と言っても誰だかわからないんだろう?」
その通りだ。桐山ゲイカだって見通す目なんか持ってない。
それをよく熟知している。オヌシもわかっとるのう。
さて、このようにアゴン宗でボン行してる先達たちがこのあり様です。
だから信者でも馬鹿は普通にいるよ。でも俺はああはなるまい。自分次第だと思った。
さて話が脱線したが、脳障害と名乗るのが私(ウミタコ軍団)の最後のネームです。
この後まもなく28スレが終わった。
よー痴さんのお馬鹿な荒らし埋めによって。
29スレになって脳障害信者にも今の深山さんに相当すると思われる人から
レスがついた。いや、脳障害以前にもウミタコ軍団深山さんの反論にボコボコの
完敗なのだが。
「脳障害さんがよー痴でない信者と言うのならマトモな反論をしてみなよ」
批判側元信者として現役信者のあまりのレベルの低い態度と内容に嘆かわしいのだという。
私はこの言葉を真摯に受け止めた。
そうだな。やるならもっときっちりやらねばな。
そこでまもなく登場したのがユビキタスです。
ユビキタスととりあえず名乗ることにして無闇にハンドルを変えぬことにして
新たに批判側に挑戦した。
彼の書き込みを読むと内容はたしかに無知であり仏教などの勉強不足であるが
桐山教学だけは忠実に伝えていることが認められた。
桐山教学と違うところは各地方道場の仏舎利が真正であるはずがなく貴石に他ならない
という点だけだった。
内容の幼稚さはさておき批判側からですら評価されたのはその謙虚な態度でした。
- 790 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/09(木) 00:43:50
- >>776:準シュダオン12/02/08(水) 12:55:45
>では何で現役信者さんから、私への批判レスが無いのですか?
>それは見逃してくれているんです。少々レベルの低いレスでもね。
擁護側ユビキタス信者の書き込みを今読み返すとたしかにこれなら恥ない態度だな
と自分でも納得がいきます。
それも決して付け焼き刃のええかっこしいでもない。
何よりも正直だ。これは今の干柿さんなのかなあ?と思われる人から書き込みがあった。
ユビキタスさんは真眼を持ってらっしゃると。
この擁護側仲間の書き込みを読んでも喜べなかった。
真眼なんて俺みたいなボンクラ信者に言われても困る。
正直怖いのですよ。今対峙している批判側の方(深山さんのことですね)は
書き込み内容を読んだだけで梵行などの実践も相当されて、教学にも詳しく
ユビキタス程度が掲げる桐山教学なんて熟知の上だとわかる。
そういう人と議論をしている私の胸中覚悟をわかっているのか?と言いたかった。
この辺本当に正直だった。
さて長々と自分の過去の話を書きました。
ここで準シュダオンさんにも伝えたいのはウミタコ軍団の私からユビキタスに至る
まで、何が私の態度を改めさせたのか?ということです。
準胝を名乗ったのが11月23日。脳障害を書いたのが11月30日。
そしてユビキタスとして再登場したのが12月3日。その間わずかに10日。
これは実は決して教団に泥を塗るまいなんて話ですらない。
自分を大切にしたかったのです。
アゴン宗の信仰に励む自分って、自分の良心であり真実であり、アイデンティティが
そこにあると思った。
だからそれを自分で傷つけたくない。
他人の目や教団なんかよりも自分を裏切りたくなかったからです。
だからウミタコのようなふざけや人を小馬鹿にする悪い態度も自分の中にあることは
否定せずに認めても、それは封印して、むしろそれとは別にある自分の良き点である
正直さとか誠実さを演技ではなくそのまま出してアゴン宗というものを真摯に
語り合う姿勢を貫きたかったのです。
こんなことを書いたところで準シュダオンさんに理解などしてくれるかわからないが。
あなたは結局自分を大切にしない人なんですね。
- 791 :元トイレ掃除くん
◆vKfCFZ1gqE:2012/02/09(木) 00:53:42
- 批判派諸兄は準さん皮肉ってくるだけで、マジにボンギョーしてるのって言ってるわけじゃないだよね。
アゴン教学ともはや異なる準シュダオン教説いてるから皮肉ってやろうかみたいな。
789に出てくる「元●曜日班の女性らしき信者」なんて気違いの極地ですわ。
〇曜日班のリーダーだって今思うと気違いなのに。
でもキリちゃんも、そこまでボンギョーに誇りを持ってくれてる信者を、破門だみたいに言わないほうがいいのに。
準さんは信者だからちょっとはアレだけで、でもマトモなほうでしょ。
準さんは何言われようが絶対ボンギョーしないから安心だけど、もし
したら正常人終わりでしょう
- 792 :天照
◆MO30b8Jwoo:2012/02/09(木) 05:34:07
- 阿含の場合はここが困るよね。
本来なら「素直に教壇の指導に従う」のが正常人なのだが、染まれば「正常人を逸脱する」
で、逆に指導に従わない人は、染まった人から見れば「ある意味正常である」
だが、社会に出れば「自己中心過ぎる人」は正常か?と思われることがある。
こうなるとなんがどうで正常なのか判らなくなる。
せめて纏めるなら、素直に教団に従う人は「信者としては正常」であって、逆らう人は
「信者としては異常人」であり、巷から見れば染まる人は「異常人」であり、逆らう人は
「正常」ということか。
中々部妙な感じだなあ・・・。
- 793 :天照
◆MO30b8Jwoo:2012/02/09(木) 05:49:17
- 792の文中誤字勘弁ね。
今思ったが、染まって狂うのは教団だけじゃないよね。会社とかもそう。
良く中間管理職が部下を叱る際に「お前は社長の言うことが聞けないのか」とかで叱責するとか。
あれも社長が間違っていたり、社長まで行かなくても部長とか課長が間違った采配を振っていたとき
とかに部下が従わないと部下が「異常人扱い」されることがあるよね。
教団もそれに似ていると思うが。
「元●曜日班の女性らしき信者」を省みて私もそういうのを自分の地域の道場や信者を見たことがある。
本当に嫌な姿だよね。
だけど、やっている・言っている当人は悪いということを思って無いし、後から気づいたりしたさいに
「自分は間違っていた」と反省する人もいるだろうし、その時点では過ちであり狂っているかもしれないが
何ともいえないよなあ、というのが自分にはありますね。
だからといって何をやっても良いとはいえないが、ここで言えるのが上の態度だよね。
先達でも宗務でもちゃんと指導や采配を振って処理判断できれば良いんだし、ゲイカもそういうのが
聞けた(判っていた)のなら、当人を調べて指導するとか、そこまで行かなくても「破門だ」という
得意の「紋切り型」でなくちゃんとした指導をするべきでしょう。逆らうので破門ならわかるが。
ちなみに私に地方で「勢力を大きくして管長に認めてもらおう」と計画していた人がいてそれをやっていた。
それが異常なのでゲイカに申告すると「そういうことはやめなさい。辞めなければ破門」という風に警告が
あったわけだが、その人はそれを守らないので破門になった。
「元●曜日班の女性らしき信者」よりも危ないことをしていたのに前以って警告をしていた。
つまりそういう管長に認められたくて勢力作りをしていた人でも「愚行をやめれば破門にはしない」という
ワンクッションが置かれているのに、女性先達はいきなり「破門」ですか。
狂う信者もなんですが、上も上だなという気がしますね、自分には。
- 794 :天照
◆MO30b8Jwoo:2012/02/09(木) 06:04:04
- だから上のものがちゃんと正しい指導や示唆をするべきなんだよね。
如何に中間や下のものが狂おうが、それを是正してあげる。それが上の、また知恵のある方の行動ではないかと思う。
「元●曜日班の女性らしき信者」に対してやはりゲイカは掲示板で批判される形が出ているよね。
自分に気に食わない、従わないやつは即効クビ(破門)、というやつです。
いわゆる有名な「このバカつまみだせ」です。
そういう横暴な指導ってありますか。間違っている行動や思考でも先ずは聞く。
そして正しい指導を持って悪いところを直させる。それで事足ります。
それすらせずに「はい、クビ」とは何事か。ここにゲイカの性格が良く現れてきています。
私なら両方から話や内容を聞き、そこからどうすれば良いか糸口を探します。
また管長なら法話でこの議題を出して法話上で指示されでもいいではないか。
実際過去にそのような法話もあったわけだし、それくらいは出来ます。
また法話は大げさ、というのなら、地区ミーティングの際に指導すれば良い。
まあ、こっちの報告など肩肘付きながら聴いているんだか聴いて無いんだか、の態度の教祖だから
期待も出来ないが、唯一公で指導を受けられるのはそのときです。
直接指導を仰いでみたら「破門だ」には本当に呆れます。
これでは上が上なんだから下も下になる、といわれても仕方ないかと思いますね。
- 795 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/09(木) 08:10:29
- 思わぬ「破門だ」という桐山発言に反響を呼んだのはさすがにアゴン宗スレ。
この人に指導などできるはずがなく、斬り捨てるだけですからね。
●曜班を滅茶苦茶にしてやると呪いの言葉を掛けられた方のリーダーさんは
その後何年かして守護霊を拝受したりするわけで、貢ぎもよく桐山さんの目に
適っていたわけです。もちろん深夜に嫌がらせの呪いの言葉は発する方が明らかに
悪いことですが。
さてBooさんの力を借りることなしに昨夜の私の準シュダオンさんへの長過ぎるレスを
要約すると以下になります。
>>776:準シュダオン12/02/08(水) 12:55:45
>では何で現役信者さんから、私への批判レスが無いのですか?
>それは見逃してくれているんです。少々レベルの低いレスでもね。
語り合う姿勢を貫きたかったのです。
こんなことを書いたところで準シュダオンさんに理解などしてくれるかわからないが。
あなたは結局自分を大切にしない人なんですね。
レスする相手なんかどうでもいいのです。
常に自制すべきは自分に対してです。
思えば2ちゃんねる28スレのウミタコ連合って、そんな恥曝しの発言はしていない。
腐ってもユビキタスの前身なんですから発言内容は擁護派ユビキタスと共通している。
表現態度が少し違うだけで、その態度だってそれほど不遜には見えないはずです。
深山さんと思われる方が嘆かれたのはウミタコ連合の態度ではなくよー痴信者です。
この28スレも最後の方でケンシロウが出て来て「このスレはすでに死んでいる」とか
「あたたたたたたたたたた」とか書いて荒らして強制終了させている。
これでアゴン宗信者なのだから呆れて物が言えない。
だからウミタコ軍団も決して苦情があったわけではないが、自分の方から
これではいけないと軌道修正をしたのです。
他人が見てる見てないではなく、自分はこれでよいのかという自問ですね。
10日で軌道修正をした私と比べて、長年経っても修正する気すらない
準シュダオンさんには自浄能力はないのか?と提言した次第。
- 796 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/09(木) 08:17:23
- あれ?要約コピペの部分に欠落がある。
貼り直し。
>>776:準シュダオン12/02/08(水) 12:55:45
>では何で現役信者さんから、私への批判レスが無いのですか?
>それは見逃してくれているんです。少々レベルの低いレスでもね。
これは実は決して教団に泥を塗るまいなんて話ですらない。
自分を大切にしたかったのです。
アゴン宗の信仰に励む自分って、自分の良心であり真実であり、アイデンティティが
そこにあると思った。
だからそれを自分で傷つけたくない。
他人の目や教団なんかよりも自分を裏切りたくなかったからです。
だからウミタコのようなふざけや人を小馬鹿にする悪い態度も自分の中にあることは
否定せずに認めても、それは封印して、むしろそれとは別にある自分の良き点である
正直さとか誠実さを演技ではなくそのまま出してアゴン宗というものを真摯に
語り合う姿勢を貫きたかったのです。
こんなことを書いたところで準シュダオンさんに理解などしてくれるかわからないが。
あなたは結局自分を大切にしない人なんですね。
- 797 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/09(木) 08:45:00
- >>783:準シュダオン12/02/08(水) 16:21:17
>確かに、教団と管長は、数とお金で公平に評価しています、が、見えない
>ところでは、阿含宗の如来様が評価してくださると思いますよ。
その鏡よ鏡よ鏡さんの鏡の中のあなただけの如来様に慰めを求めるのではなく
目に見えるゲイカ様ははっきり本数、金で差別をしています。
地道な1本なんて評価の対象にもならない。
因縁診断を受けて下付された因縁解脱修行宝鑑には例えば「護摩木を千本以上勧進せよ」と
課行欄に明記される。
課行というのは守らなければならないものです。
ここに本数に下限が示されている。
如来様の慰めは慰めとしてこれを遵守する義務がある。
千本を地道な努力だけで勧進して鏡の中の如来様とゲイカ様の両方から祝福を
受けてごらんなさい。
結局地道な努力ではなく安易に自分で買って書くことになる。
- 798 :準シュダオン:2012/02/09(木)
09:01:12
- >その鏡よ鏡よ鏡さんの鏡の中のあなただけの如来様に慰めを求めるのではなく
>目に見えるゲイカ様ははっきり本数、金で差別をしています。
本数、金を公平に評価して、差が出るわけでしょ。これは苦労した本数、これは
楽した本数とかの差別はしない、ということです。
>地道な1本なんて評価の対象にもならない。
教団、管長が評価しなくても、法を説きながら地道に1本を勧進できたら、
確実に仏法の復習になるし、力が付くんで、解脱が進むから、例え法施グッツ
を頂けなくても、良いのです。
- 799 :準シュダオン:2012/02/09(木)
09:13:01
- >因縁診断を受けて下付された因縁解脱修行宝鑑には例えば「護摩木を千本以上勧進せよ」と
>課行欄に明記される。
>課行というのは守らなければならないものです。
>ここに本数に下限が示されている。
それは目標として千本の課業を授けているんだと思います。私は苦労して
他人から勧進した百本の方が、自分で書いた千本よりも功徳は大きいと考え
ます。足りない分は自分で書くにしても、必ず他人からも勧進すべきですね。
- 800 :準シュダオン:2012/02/09(木)
09:26:24
- >だからウミタコのようなふざけや人を小馬鹿にする悪い態度も自分の中にあることは
>否定せずに認めても、それは封印して、むしろそれとは別にある自分の良き点である
相手を小馬鹿にしても、尊重しながら小馬鹿にするわけで、憎んでいる訳ではない。
憎んでいたら絶対にレスは返さない。だから私が大馬鹿にされても、返礼のレスをする。
>正直さとか誠実さを演技ではなくそのまま出してアゴン宗というものを真摯に
>語り合う姿勢を貫きたかったのです。
異議なし。
>こんなことを書いたところで準シュダオンさんに理解などしてくれるかわからないが。
>あなたは結局自分を大切にしない人なんですね。
大切にしてるつもりだよ。何でそういうレス受けるか、意味解んないね。
- 801 :準シュダオン:2012/02/09(木)
10:07:00
- >正直怖いのですよ。今対峙している批判側の方(深山さんのことですね)は
>書き込み内容を読んだだけで梵行などの実践も相当されて、教学にも詳しく
>ユビキタス程度が掲げる桐山教学なんて熟知の上だとわかる。
それは勘違いの褒めすぎですね。深山さんは己を利口だと思っているかも知れ
ないが、基本的なことを間違えて理解しています。本当の仏教はどうのこうの
と、解説しているが、結局は従来の仏教の説明に過ぎない。中途半端な先祖が
えりにすぎない。
惑→業→苦の循環において、惑を無くすことが悟りだ、というのは初期大乗の
中心的思想で、広く知られた話しです。そこへ、業→苦をも無くす教えこそ、
本当の仏教だ、それが阿含教に説かれてる、と唱えたのが桐山管長でしょう。
それを唱えてるのは管長ただ一人ではないですか?それを因縁解脱と呼んだの
ですが、その論を止めたのでは立宗の意味がないでしょう。
「三結断 不堕悪趣」の三結断は煩悩解脱で、不堕悪趣は○○因縁解脱のことです。
仏教辞典に、「悪趣には人間界を含む場合がある」との説明にあるとおり、
例えば大本教の一節に、「生苦厄老病死 此三悪趣」と、ありますから、
人間の苦しい生存状況も三悪趣と呼ぶ場合があるわけです。
で、三結断 不堕悪趣の悪趣も、死後の場合だけとは限らないことになります。
深山さんや、ユビキタスさんには、因縁の洗い出し現象などの体験がないから、
阿含経の真の意味が解らないのです。不堕悪趣の真の意味も解らないのです。
辞書や学者の言葉の解説を鵜呑みするしかないのです。
そして、それを正しいと思い込んでいるだけです。
- 802 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/09(木) 11:51:41
- >惑を無くすことが悟りだ、というのは初期大乗の
中心的思想で、業→苦をも無くす教えこそ、
本当の仏教だ、それが阿含教に説かれてる、と唱えたのが桐山管長でしょう。
惑とは漏など同じ煩悩の別称で、漏尽解脱こそ釈尊の教えです。
釈尊は、業(主に行為の意)を滅することができるとも、
業を滅せよとも説いていません。
桐山さんは、他人の本差しをニセモノと罵倒して、
ホンモノと得意げに抜刀したそれも、竹光だった、
というオチがつく。
桐山さんの奇才ぶりは、それを念じれば刃金の刀身となる、
とうそぶくところです。
大乗を批判しながら、大乗仏典を平気で乱用するのも、
そういう芸風に自信を持っているからです。
- 803 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/09(木) 11:52:26
- >「三結断 不堕悪趣」の三結断は煩悩解脱で、不堕悪趣は○○因縁解脱のことです。
桐山さんの教学にない解釈であり、仏教でいえばまちがいです。
桐山さんは、三結断を「三結を断じた第一の聖者」と、述べています。
三結を断じれば須陀?(別名を預流)です。(阿含経講義(中)巻142頁)
これは仏教の解釈としてまちがいではありません。
誰でも周知のように、身見・疑惑・戒取の三つを断じることです。
だがそれだけでは、「煩悩解脱」とは言いません。
十結を断じてはじめて解脱するのですから、あまりにも無謀な意見です。
不堕悪趣とは、悪趣に墜ちずの意味ですから、それ以上の何ものもない。
- 804 :元トイレ掃除くん
◆vKfCFZ1gqE:2012/02/09(木) 12:20:49
- >>792-793
そのとおり!でも辞めてみて「自己中の方がマシね(あるk-popsの歌詞)」を痛感。
794でBooさんが 買ったんじゃなく本当に勧進してたなら相当の「修行者」と書いていたがこれも「」付きで分かるとおり
皮肉であって、それは教団にとってのであって、本当に仏道修行者だと言ってるわけじゃない。
オウムの一般信者より実行犯は相当のシュギョーをした、というニュアンス。
正常な神経が残っていたら自分教を作ってボンギョーから逃げますね。
その点では準さんはまだ弱い。
自分などは星祭りだの護摩だのは廃止して脳をカイゾーする7カ
37ドーホンが本道だと考えていた。
ホモエクセレンスを説くキリちゃんがイベント護摩を焚いてるのは、ホーシの数で虚しい狭い範囲の権力をむさぼる幹部信者の陰謀でやらされているのかと思った。
しかしキリちゃん自体が元凶だと知り全て分かったから脱会したのですが
- 805 :深山:2012/02/09(木)
12:21:22
- >>782 :準シュダオン:2012/02/08(水)
15:59:16
>だから、あなたが勧進した千本よりは、私が勧進した10本の方が功徳が大きい
>ほんとにしょうがない人ですね。お説教する資格に護摩木本数は関係ないと
>言うのが、まだ解らないようですね。
解らないのはあなたのほうです。
他人の文章を無視して、私が書いてもいないことを勝手に決めつけ、
同じ話をクドクドと繰り返す。
だから、その「功徳の多い」という護摩木の本数を出してみたらどうかと言っているのです。
本数を問題にしているのは桐山さんだけで、ここにいる批判側も、
本数だけではないと全員が言っている。
「私が勧進した10本の方が功徳が大きい」かどうかなんて私は議論してない。
あなたの少ない護摩木の本数と、それをどう勧進したのかを書いてみればいい。
書けないのでしょう?
護摩木の本数すら出せない程度で、偉そうに他人にお説教をする。
厚かましい男。
情けない男。
みっともない男。
口さきばっかりの男。
これが準シュダオンさんです。
30本護摩木で頭を叩いてみろと言われても、
30本の護摩木すらあなたの手元にはない。
- 806 :深山:2012/02/09(木)
12:23:30
- >>798 :準シュダオン:2012/02/09(木) 09:01:12
>本数、金を公平に評価して、差が出るわけでしょ。これは苦労した本数、これは
>楽した本数とかの差別はしない、ということです。
信者の皆さん、ご覧ください、この卑怯者を。
熱心に護摩木勧進に励んでいる信者さんたちを裏切っているのですよ。
口では偉そうに護摩木について説きながら、本人は護摩木勧進も
自分で買うこともほとんどしていない。
これだけ何度も質問されたら、「百本だけだが、そのうち有縁の人に30本勧めた」と
書けばいいだけです。
本数が大事だと言っているのは桐山さんであって、批判側は内容も問うている。
だが、準シュダオンさんは何度聞かれても、本数が問題なのではない、
などと話をそらすばかりで、絶対に言えない。
- 807 :深山:2012/02/09(木)
12:24:53
- >>798 :準シュダオン:2012/02/09(木) 09:01:12
>確実に仏法の復習になるし、力が付くんで、解脱が進むから、例え法施グッツ
>を頂けなくても、良いのです。
自己弁護のインチキ教学が始まった。
こんなことは桐山さんは言っていない。
桐山さんは無駄な法施はなどないと言っている。
アゴン宗では法施を目標に護摩木勧進をするのが当たり前です。
- 808 :深山:2012/02/09(木)
12:27:21
- >>799 :準シュダオン:2012/02/09(木) 09:13:01
>ます。足りない分は自分で書くにしても、必ず他人からも勧進すべきですね。
こうやって自分がしてもいないことを、いかにもしているかのように
他人にお説教を始める。
どうしてこんなに厚かましいのだろう。
「他人に勧進すべき」と言うなら、自分がどの程度、他人に勧進したの
質問されて答えられないはずはない。
だが、「他人に勧進すべき」などとお説教を垂れる準シュダオンさんは、
「他人に何本勧進したのか」と質問されると答えない。
たった一行で済むのに、お説教を垂れるだけで、絶対に書かない。
いかにこの男が口先ばかりで、実際は何もしていないか、よくわかります。
- 809 :深山:2012/02/09(木)
12:30:26
- >>783 :準シュダオン:2012/02/08(水)
16:21:17
>確かに、教団と管長は、数とお金で公平に評価しています、が、見えない
>ところでは、阿含宗の如来様が評価してくださると思いますよ。
アゴン宗の応供の如来様の言葉すらも忘れたようですね。
「供養に応えるぞ」です。
供養したら応えるというのだから、供養しなければ応えてくれない。
あなたみたいにろくに金も人も労力奉仕もないのだから、供養していない。
供養していなければ、アゴン宗の如来は応えることはありません。
だから、金も労力も時間も出さない準シュダオンさんを
アゴン宗の如来様が評価するはずがない。
- 810 :深山:2012/02/09(木)
12:35:45
- >>783 :準シュダオン:2012/02/08(水)
16:21:17
>確かに、教団と管長は、数とお金で公平に評価しています、が、見えない
>ところでは、阿含宗の如来様が評価してくださると思いますよ。
どうしてあなたは星まつりの修行に出かけないのだ?
交通費さえ払えば、道場に寝泊まりできるし、飯も出る。
あなたは仕事がなく、暇なのだから、仏様への供養として身供養をするべきなのに、
なんで相変わらず、何もせずにパソコンを叩いているのだ?
あなたの言葉どおりなら、今頃、星つまり会場の設営の手伝いをしているはずです。
だが、あなたは星まつりにすら行かないのでしょう?
このあなたの姿を見れば、仏様への信仰なんてないのがよくわかる。
本当に準シュダオンさんて舌先三寸なんですね。
- 811 :深山:2012/02/09(木)
12:37:03
- 784 :準シュダオン:2012/02/08(水)
16:40:21
例えば、「三結断 不堕悪趣」の意味です。これは、三結断が煩悩解脱で、
不堕悪趣が因縁解脱を意味しています。悪趣解脱とは因縁解脱のことです。
ですから、「十結断 不堕六趣」ということになって、大解脱・完全解脱です。
>>801 :準シュダオン:2012/02/09(木) 10:07:00
>「三結断 不堕悪趣」の三結断は煩悩解脱で、不堕悪趣は○○因縁解脱のことです。
また準シュダオン教のタワゴトが始まった。
勝手な教義を作りたければよそに行ってやりなさい。
信者さんたちのために書いているなどというが、
アゴン宗と関係のない話を書いて、どこが信者たちのためなのだ?
アゴン宗にはあなたの言うような教義はありません。
「ひとくちに「解脱」と申しますが、「解脱」には「小解脱」と「大解脱」の二種類があります。「小解脱」
とは、いわゆる「煩悩解脱」です。それに対して、「大解脱」とは、「因縁解脱」のことなのです。」
(『仏陀の真実の教えを説く阿含経講義』176頁)
つまり、桐山さんの言う解脱とは、
煩悩解脱→小解脱
因縁解脱→大解脱
これだけです。
アゴン宗でも十結は煩悩です。
だから、「三結断が煩悩解脱」なんて準シュダオンさんの説はアゴン宗の
教義においてすらも嘘です。
煩悩解脱とは十結を切ることです。
- 812 :深山:2012/02/09(木)
12:38:48
- >>801 :準シュダオン:2012/02/09(木) 10:07:00
>それを唱えてるのは管長ただ一人ではないですか?それを因縁解脱と呼んだの
>ですが、その論を止めたのでは立宗の意味がないでしょう。
無知丸出しの独演会が始まった。
惑→業→苦のどこが因縁解脱なのだ?
「惑業苦 (岩波仏教辞典)
<惑>は煩悩(ぼんのう)の異訳語.
貪着(とんじゃく)・瞋恚(しんい)・無知などの煩悩に基づく業(ごう)・行為を<惑業>といい,
その業により三界を生死流転(しょうじるてん)する苦がもたらされると考えられた.
この惑と業と苦との三つは衆生(しゅじょう)が輪廻(りんね)する次第を示したもので<三道>とも呼ばれる.」
ごらんのように、業とは行為という意味です。
行為によって苦がもたらされる。
性欲という煩悩のままに、愛人を作るという行為(業)を為せば、
愛人に裁判に訴えられ、醜聞という苦を受ける。
惑業苦とはこういう内容です。
- 813 :深山:2012/02/09(木)
12:42:04
- >>801 :準シュダオン:2012/02/09(木) 10:07:00
>それを唱えてるのは管長ただ一人ではないですか?それを因縁解脱と呼んだの
因縁切りとは過去の悪業の報いを帳消しにするのだという。
愛人を作ったしまった行為の報いをどうやって消すのですか。
それができないから、桐山さんは裁判に訴えられ、週刊誌に暴露され、
大いに苦を受けた。
過去の悪業の報いである悪因縁は消せない。
因縁切りなどありえないのです。
惑業苦とは苦の元とは何かを縁起を使って示した例です。
醜聞(苦)の元は愛人を作ったこと(業)です。
愛人を作ったこと(業)の元は性欲という煩悩です。
だから、苦をなくすためには性欲を捨てることです。
すでに為してしまった行為である愛人問題は消えない。
釈尊は過去の行為の報いを消せるなんて荒唐無稽な話はしていない。
その悪い行為を止めて、その悪い行為の元となった煩悩(惑)を捨てれば、
「次から」は苦が生じないと説いているのです。
- 814 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/09(木) 12:43:19
- >>799:準シュダオン12/02/09(木) 09:13:01
>それは目標として千本の課業を授けているんだと思います。
これは全く違います。
よろしいですか?アゴン宗においては戒行とは〜するなというものであり、
〜せよというのが課行でこれは絶対遂行せねばならないものです。
これを遂行しないと因縁解脱はできないとするのです。
宗務局に質問してごらんなさい。
アゴン宗というのはあなたが決めるものではありません。
桐山さんが全てを決めるのです。
だから自分の考えなんてものは認めない。
宗務局に質問した回答をここに書いてみなさいな。
- 815 :準シュダオン:2012/02/09(木)
12:43:23
- >こんな悪口スレなんか相手にするだけ自分が汚れるとでも思ってるんじゃないですか?
>ただそんな中でもちゃんと見てる人は見ていてくれ、中には書いてくれる擁護側
>信者さんもいた。
>前者の代表がラシンさん、後者の代表が天照さんでしょうか。
>二人とも回心に成功した人です。
>私にまで謝意を述べてくれるから、ああ、批判続けることは間違いじゃないと
>つくづく思う。謝意など要らぬが本当によかったねとねぎらいたい。
>こういう人たちが何人もいる。アゴンさんも然り。
その当時、私がユビさんのレスを見てなくて幸いでした。もし見てて、退会
してユビさんにお礼を言うようになっていたら、因縁の洗い出し現象も知ら
ず、聖なるバイブレーションの体験もなく、何も知らずに、「現役信者さん
は気の毒に、早く目が覚めればいいのに」なんて、思ってたでしょうね。
聖なるバイブレーションを受けたらどうなるのか?
私の場合は、劇的に変ったというのは特にない。
けれども、明らかに自己教育力というようなものが発生して、理解力がつくね。
例えば私が、「8法16法の中に全ての梵行が含まれる」と、レス時点では、
私はまだ中巻を読んでいなかった。だから、8法の戒、施、を梵行だとレス
したのであるが、中巻のP127には、十六法が梵行だと説かれています。
もし、聖なるバイブを受けていなければ、私独自に「8法16法に梵行が
ある」なんて思いつけなかったでしょうね。三結断が煩悩解脱で、不堕悪趣が
○○因縁解脱だ、なんてのも思いつけなかったでしょう。
私のレスを、管長論ではなくて、準シュダ論だ、という人がいますが、
私としては、管長論を私の言葉に直して言ってるに過ぎない。
そりゃ、不肖の弟子であるから、間違い解釈もあるであろうが、
少なくとも、批判派よりは正しく解釈してると思っていますよ。
- 816 :深山:2012/02/09(木)
12:47:11
- >>801 :準シュダオン:2012/02/09(木) 10:07:00
>深山さんや、ユビキタスさんには、因縁の洗い出し現象などの体験がないから、
>阿含経の真の意味が解らないのです。不堕悪趣の真の意味も解らないのです。
>辞書や学者の言葉の解説を鵜呑みするしかないのです。
>そして、それを正しいと思い込んでいるだけです。
経典に書いていない個人的な体験を元にして、これが経典の意味だと
主張するのを作り話、嘘というのです。
E川裁判は桐山さんの因縁の洗い出しですか。
だが、ああいうのは因縁の洗い出しではなく、因縁丸出しというのです。
準シュダオンさんは因縁の洗い出しを経験したらしい。
だが、それは少なくともあなたの知性や人格には何の影響も与えなかったようだ。
相変わらず、無知と無恥と高慢を鼻先にぶら下げている。
あるいは、因縁の洗い出しが出る前はもっと強烈な無知と無恥と高慢を
持っていたらしい。
職場で鼻つまみになったとも当然ですね。
- 817 :深山:2012/02/09(木)
12:52:21
- >>801 :準シュダオン:2012/02/09(木) 10:07:00
>深山さんや、ユビキタスさんには、因縁の洗い出し現象などの体験がないから、
信者さんたちは体験を重視するように桐山さんから教えられている。
体験談と称して御利益話がたくさんある。
では一つ聞くが、「私は○○の因縁を切りました」という体験がどこにあるのだ?
アゴン宗にとって重要なのは因縁切りです。
御利益話ならよその教団にもいくらでもあるが、因縁切りは少ない。
これが仏教かどうかの議論はさておき、どこにその因縁を切ったという人がいるのだ?
慈恵会が始まってから間もなく六十年になろうとしている。
アゴン宗が立宗されてから、三十年以上もたつのに、
具体的に、この人の○○の因縁がキレタという事例はどこにあるのだ?
私が質問しているのは、準シュダオンさんのように自己申告ではなく、
桐山さんが霊視して、「彼の○○の因縁は切れた」という事例です。
私は、桐山さんが光和の取締役を「95%キレタ」と
宣言したのを読んだのが唯一です。
この例ですら、具体的に何の因縁が切れたのか、
何の因縁がまだ残っているのかわからない。
噂では、東海本部の理事をしていた故・O村理事は因縁はすべてキレタと
文章でもらったというが、その後も、持病に悩まされていた。
因縁切りを標傍する教団にしては、公式に、この人の因縁が
切れましたというのが皆無なのはおかしくありませんか。
- 818 :深山:2012/02/09(木)
12:55:09
- >>801 :準シュダオン:2012/02/09(木) 10:07:00
>深山さんや、ユビキタスさんには、因縁の洗い出し現象などの体験がないから、
信者さんたちは、周囲をよく見渡してください。
行歴が二十年、三十年という信者がゴロゴロしている。
だが、彼らの因縁がキレタと聞いたことがありますか。
準シュダオンさんは三十年近い行歴を持ち、宝生さんは三十年をはるかにこしている。
年末年始頃に2ちゃんねるに出てきた二体さんも三十年をこしていた。
2ちゃんねるの246-249のペテン大作さんも、似たような行歴です。
その彼らの姿を見てごらんなさい。
少なくとも心の因縁はまったく切れていない。
むしろ、煩悩は世間の人たちよりもはるかに強い。
特に自惚れ、慢心、侮蔑心、恥知らず、激しい憎しみなど、
目を覆いたくなるほどの醜態です。
2ちゃんねるでも報告されているが、最近も幹部職員がガンで亡くなり、
信者もガンで亡くなった例は少なくない。
他でもない、因縁切りのアゴン宗の副管長はガンで死んだ。
いやそれどころか、桐山ゲイカは脳障害の因縁を出し、
色情の因縁を出し、逆恩の因縁を出している。
これで因縁切りを主張して、何の説得力があるのだ?
信者さんたちがこのこれだけの現実を目の前にして、
まだアゴン宗で因縁切りかできると信じているのが信じられない。
- 819 :深山:2012/02/09(木)
12:57:36
- >>801 :準シュダオン:2012/02/09(木) 10:07:00
>深山さんや、ユビキタスさんには、因縁の洗い出し現象などの体験がないから、
私がいた時もすでにこういう因縁切りを否定する事実はあった。
有名大先達がガンで亡くなり、アゴン宗最大派閥は失速し、
まるでその有名大先達など最初から存在しなかったかのように、
桐山さんも修行者たちも口にすることすらなくなった。
都合の悪いことをきれいに忘れるのです。
しかし、これは仏教ではありえない。
ラシンさんが紹介したように、仏教では布薩といって、
月に二回、反省会を開き、互いに徹底的に批判しあう。
因根切り、因縁の洗い出しなどと地に足の付かない話をする前に、
現実にそれらが教団の中でまるっきり成り立っていないこと、
むしろ、因縁切りを否定する事例こそが多いことに
信者さんたちはもっと目を向けるべきです。
ガンで亡くなった信者を、単に修行が足りなかった、徳が足りなかった、
ゲイカの指導に従わなかったからだと片付けるのは簡単だ。
だが、それが副管長、教団幹部に対しても言えるだろうか。
あるいは、桐山さんが下半身の因縁を丸出しにしている状態を
洗い出しだと言えるだろうか。
信者さんたちは、準シュダオンさんみたいに、不堕悪趣などの
仏教用語葉を出してごまかさないで、現実を良くみることです。
因縁切りも因縁の洗い出しも、まったく成り立っていません。
そして、そんなことは当たり前であって、
釈尊は因縁切りなど説いていない。
- 820 :深山:2012/02/09(木)
13:00:06
- >>801 :準シュダオン:2012/02/09(木) 10:07:00
>深山さんや、ユビキタスさんには、因縁の洗い出し現象などの体験がないから、
仏教には因縁切り、因縁解脱なんてありません。
因縁切りは明治以降の新興宗教の教祖たちが作り出した言葉や概念であり、
因縁解脱は桐山さんの造語です。
だから、阿含経にこれらの言葉や概念がないのは当たり前なのです。
釈迦仏教に限らず、大乗仏教にすら、因縁切り、因縁解脱なんてありません。
準シュダオンさんがどんな屁理屈を唱えても無駄です。
信者さんたちは、嘘だと思ったら、桐山さんの阿含経講義の本に
解説された阿含経から因縁切り、因縁解脱という言葉や概念を探してください。
現代語訳の部分にはゴマカシが入っているから、
面倒でも、漢文の書き下し文を読んでください。
信者さんたちは面倒がって、漢文も書き下しも読まず、
桐山さんの解説だけを読んでいる。
だから、桐山さんのすり替えに気がつかないのです。
桐山さんは解説の中で唐突に因根解脱、霊的浄化、積徳行など出して、
まるで阿含経の中に説かれているかのように錯覚させる名人です。
だから、信者さんたちは長い間、三供養品には三福道という言葉があり、
仙尼経には霊魂を意味する異陰があると信じていた。
だが、どちらも存在しません。
三福道と異陰の例だけでも、信者さんたちは自分がいかに
簡単に錯覚してしまうか、自覚することです。
自分は錯覚しないとか、騙されるはずはないなどと自惚れているうちは
桐山さんの手練手管からは逃れられない。
逃れられないとは、宗教奴隷のままだという意味です。
- 821 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/09(木) 13:13:48
- >>800:準シュダオン12/02/09(木) 09:26:24
>相手を小馬鹿にしても、尊重しながら小馬鹿にするわけで、憎んでいる訳ではない。
これは相手に通じてこそ成立します。
相手に通じ、また相手のみならず周囲の人を不愉快にさせてはアウトです。
つまりシャレは通用しなければ意味がありません。
周囲が不愉快に思ったらシャレは通用したことにならない。
いかにあなたが悪意などないなんて言い訳しても駄目です。
私も冗談の好きな人間で、しょっちゅう冗談をこういうスレに書いたりもします。
時に相手を怒らすこともあります。
本気で相手が気分を害した時には私は観念して丁寧に謝罪しています。
シャレの通じない相手だなと思いつつも、シャレと認識させないこちらの手法が
未熟なんだと観念します。
個人メールまで送って丁重に謝罪したことすらあります。
個人メール内では本名も出して、私は責任をとる男なんですよ。
ただしスレ内の他の参加者から意見が出ることもあります。
大東洋さんは明らかにこのおっさんに最大の親しみをこめてのジョークであると
誰が見てもわかるのに、それを理解できないおっさんの方が明らかにおかしいとか。
このように第三者の見解も入ることがあり、あなたが自分の正当性を示したかったら
あなた一人の考えでは通用しないのが世の中の常識です。
桐山さんもこういうところにはうるさいですよ。
桐山さんは礼儀とか外見、形式というものをすごく重視します。
内容が伴っていればとか気持ちが入っていれば形なんかどうでもよいなんて
認めません。そういう言い訳を嫌います。
まず形こそ決めるからこそ気持ちも内容も充実するのです。
内容や気持ちが重要だからこそ余計に形にこだわり形を重視する。
全ては形から入るが桐山説です。だから密教の作法を教える。
托鉢勧進などもジャンパーにジーンズなどでは駄目だ。
スーツネクタイで勧進せよと説く。
今でも星まつりや例祭などアゴン宗敷地で行われる行事以外の街頭やよその敷地を
借りての法要は運営する修行者は会場整理等お役に関係なくスーツ着用です。
参加したことありますか?参拝者としてではなく修行者として。
- 822 :準シュダオン:2012/02/09(木)
13:41:59
- >これは相手に通じてこそ成立します。
相手に通じ、また相手のみならず周囲の人を不愉快にさせてはアウトです。
>つまりシャレは通用しなければ意味がありません。
周囲が不愉快に思ったらシャレは通用したことにならない。
>いかにあなたが悪意などないなんて言い訳しても駄目です。
まぁ、慇懃無礼もありますからね。子どものけんかで、あんたは馬鹿と3回言った、
君は五回、だから君が悪い、でも最初に言ったのはあんただ、なんてね。
言い訳も何も、お互い様で、悪口の回数は圧倒的に私が負けてます。
ユビさんは、批判派だから、批判派が言う悪口に気付いていないのだなぁ。
- 823 :準シュダオン:2012/02/09(木)
13:56:11
- >アゴン宗の応供の如来様の言葉すらも忘れたようですね。
「供養に応えるぞ」です。
>供養したら応えるというのだから、供養しなければ応えてくれない。
あなたみたいにろくに金も人も労力奉仕もないのだから、供養していない。
>供養していなければ、アゴン宗の如来は応えることはありません。
だから、金も労力も時間も出さない準シュダオンさんを
>アゴン宗の如来様が評価するはずがない。
そういう間違えた考え方だから、深山さんは修行が進まなかったのです。
たまたま目に触れたから、答えてあげるけど、何も、お金や労力を出さなければ
応えてくれないほど、阿含宗の如来様はガメツクないのです。
真心を込めたら、礼拝供養だけでも応えてくださるのです。
お金や労力を出さないと応えてくれない、と考えるのは、深山さん自身がガメツイ
からなのです。
それからね、如来供養の第一は、如来の教えを実践することなのですから、
修行していれば、助けてくださるのです。
如来は、「供養を功徳として返してくださる」という意味についても、たぶん、
私と深山さんで解釈が違うね。深山さんはたぶん、信者も功徳とわかるような
ガメツイ功徳を想定している。私の解釈はそうではない。
風が吹けば桶屋が儲かる式の、それとは気付かぬような、摩訶不思議な形で
功徳として返してくださるのだ、と思うね。
- 824 :準シュダオン:2012/02/09(木)
14:09:26
- >よろしいですか?アゴン宗においては戒行とは〜するなというものであり、
>〜せよというのが課行でこれは絶対遂行せねばならないものです。
>これを遂行しないと因縁解脱はできないとするのです。
私は、課行を目標だと捉えます。課行を達成しようと、努力するのは当たり前
ですが、どうしても達成出来なかったら、仕方ないでしょう。
それを、ユビさんみたいに、何が何でも、と考えるのをカルトと言うのでしょ。
不思議な現象を信じるのをカルトというのではありませんよ。
キリスト教でもイエスの奇蹟を信じてますが、カルト教ではありません。
それでも、カルト派は居ます。
- 825 :準シュダオン:2012/02/09(木)
14:25:45
- 深山さんは、相も変らずレス量が膨大だね。読み手のことを考えて、
少し要約してレスしたらよいのに、我が強いからそれが出来ないw。
それも仕方ないね。自分を預流向だと自覚して、三結を断つ修行が、修行の第一歩
なのに、預流向を聖者だと勘違いしてるから、正しい修行になっていなかった。
私は、二十数年、我見を無くそうとしてきたが、それでも我ながら、我が強いなぁ
と反省することが、まま、ありますからね。そうでない人は、なお更でしょう。
健全な欲さえ否定する深山さんの考え方は、従来の仏教です。
阿含経・羅摩経で釈尊は、聖なる求めと、聖ならざる求め、を説いています。
言葉を変えたら、聖なる欲と、聖ならざる欲のことです。
欲=願い求める、ですからね。
このあたりのことを、管長は「教えを説く」中巻P358から解説していますから
正しい欲、正しい阿含経の解釈をこの際学んでください。
- 826 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/09(木) 15:02:55
- >何も、お金や労力を出さなければ
応えてくれないほど、阿含宗の如来様はガメツクないのです。
自分の命をも捨てるほどの覚悟があるならば、
財産・名誉・地位などには執着せず、
一心不乱に修業するだろうということで、
捨身供養が尊いとされているのです。
命がけで供養したからには、必ず仏さまは応えてくれます。
(阿含経講義(中)巻122頁)
桐山さんは、目いっぱい供養するから応えてくれると言っている。
それには、財産・名誉・地位などに執着せず、
全部捧げるくらいの覚悟が必要です、との意味です。
逆を言えば、自分の命をも捨てるほどの覚悟のない供養など、
アゴン宗のニョライ様は、見向きもしてくれないということです。
- 827 :準シュダオン:2012/02/09(木)
15:33:53
- >皮肉であって、それは教団にとってのであって、
>本当に仏道修行者だと言ってるわけじゃない。
>オウムの一般信者より実行犯は相当のシュギョーをした、というニュアンス。
あ、そうだったんですか、気がつかなかった。元トイレ掃除さん有難う。
私は、滅多に皮肉を言うことがないから、皮肉に気付けなかったのですが、
BOOさんも、そういう皮肉を言うようでは気の毒ですね。
阿含宗で、皮肉の修行を長年してきたわけですねw、暇とお金かけて。
>正常な神経が残っていたら自分教を作ってボンギョーから逃げますね。
>その点では準さんはまだ弱い。
何が弱いの?梵行を目的化するから間違うのです。清め高める修行なの
ですから、適度にすればよいんです。護摩木勧進だとて、知人や友人に
世間話のついでにしてたら良いのです。私はそうしてました。
私は人見知りですから、知らない人に勧進したことはありませんw。
>自分などは星祭りだの護摩だのは廃止して脳をカイゾーする7カ
37ドーホンが本道だと考えていた。
星祭り護摩は、布教の手段として優れている、と私は思いますね。
>ホモエクセレンスを説くキリちゃんがイベント護摩を焚いてるのは、
>ホーシの数で虚しい狭い範囲の権力をむさぼる幹部信者の陰謀でやらされているのかと思った。
第1回の富士山麓での護摩を考えたら、幹部の陰謀ということはないね。
>しかしキリちゃん自体が元凶だと知り全て分かったから脱会したのですが
それは惜しいことをしたね。粘っていれば、聖なるバイブレーションが起こ
ることもあったろうに。そうすれば管長が嘘つきでないことが、自分で確か
められたのにね。
- 828 :準シュダオン:2012/02/09(木)
15:47:07
- 791 :元トイレ掃除くん ◆vKfCFZ1gqE:2012/02/09(木) 00:53:42
>批判派諸兄は準さん皮肉ってくるだけで、マジにボンギョーしてるのって言ってるわけじゃないだよね。
>アゴン教学ともはや異なる準シュダオン教説いてるから皮肉ってやろうかみたいな。
なんで皮肉る必要があんの?ストレートパンチでKOしたら良いじゃない?
それに私は、準シュダオン教にしてるつもりは少しもないのです。
管長解説を私の言葉に直して話してるだけのつもりです。
それをアゴン教学と違うと言われるとは、やはり、同じことでも十人十色の
解釈になるんですね。
- 829 :準シュダオン:2012/02/09(木)
16:19:31
- 四向四果は、阿含教学の基本だから暗記するように、と管長が説いてますから
ここで再度確認しましょう。なんせ、深山さんが誤解していた内容ですから。
仏教辞典には、四果=「預流果、一来果、不還果、阿羅漢果」とあります。
阿含経には、四沙門果=「預流果、一来果、不還果、阿羅漢果」とあります。
だから、四果=四沙門果、であることが、普通の人なら理解できます。
しかし、深山さんはそれを否定して理解しなかった。
この「四果=四沙門果」が四つの聖者の位です。
四向は、この聖者に到達しようと修行する四種の修行者です。
釈尊の教団は、四つの聖者養成学校になっている、と考えたら良いのです。
預流学校、一来学校、不還学校、阿羅漢学校、の四校です。
預流学校の三結を断じる課程を卒業したら、預流(果)の資格を得て一来学校に
入学して一来向となるのです。一来向の聖者の資格は、預流果です。
中学生の学歴資格は小学卒、と同じ理窟です。
最初に入る学校は預流学校ですから、そこを卒業するまでは凡夫なのですね。
- 830 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/09(木) 17:45:05
- >最初に入る学校は預流学校ですから、そこを卒業するまでは凡夫なのですね。
ー仏教辞典の解釈(学説)ー
四向四果しこうしか
原始仏教や部派仏教における修行の階位で,
預流向・預流果,一来向・一来果,不還向・不還果,
阿羅漢向・阿羅漢果のこと.
<向>は特定の果に向かう段階,<果>は到達した境地を示す.
向と果の対(双)が四種(四双)あるため,総計で八種の段階に
ある人という意味で,<四双八輩>ともいう.
(岩波仏教辞典)
ー経典による表記 抜粋ー
長阿含經卷第二
遊行經第二
向須陀?得須陀?。向斯陀含得斯陀含。向阿那含得阿那含。
向阿羅漢得阿羅漢四雙八輩。是謂如來賢聖之衆。甚可恭敬世之福田。
増壹阿含經卷第二
廣演品第三
所謂四雙八輩。是謂如來聖衆。應當恭敬承事禮順。
所以然者。是世福田故。於此衆中皆同一器。
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?key=%E5%9B%9B%E5%8F%8C%E5%85%AB%E8%BC%A9&mode=search&uop=1
- 831 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/09(木) 22:01:33
- >>827:準シュダオン12/02/09(木) 15:33:53
>何が弱いの?梵行を目的化するから間違うのです。清め高める修行なの
>ですから、適度にすればよいんです。護摩木勧進だとて、知人や友人に
>世間話のついでにしてたら良いのです。私はそうしてました。
>私は人見知りですから、知らない人に勧進したことはありませんw。
まずこれはあなたにしては珍しく正直な
告白と言え、それだけで評価しています。
我々はこういう報告を待っていたのです。
一般論のように語り、自分はやっているのかいないのか、やったこともないことを
やっているかのようにも見える曖昧な書き方を非難してきました。
それに比べると無縁の人への戸別勧進などの経験は皆無だと書いてくれて
そこだけははっきりしました。
たしかにこれは必ずしもアゴン宗の全信者がやっている勧進とも言えません。
しかし私も含めて古い信者などは経験している人も多い。
能率は非常に悪いですよ。ほとんど勧進に応じてくれず門前払いです。
話も聞いてくれない人が多い。
しかし托鉢勧進の指導はそういう時でも「ありがとうございました」と合掌し、
粛々と誇りを持って進めていくのです。
お願いではなくて勧めて進めるのだから、「あなたがシャカになれ」の教えの通り
釈尊になったつもりで堂々と勧進する。
それをすること自体に意義があるのです。
あなたという人脈が成績を上げるのではない。
全くあなたを知らない人に対して仏の代わりに手足となって動くのみだ。
そもそもあなたを知っている人に対して勧めるよりも知らない人の方が気楽でね?(笑)
それは冗談もあるが、あなたは浄め高める行と書きましたね。
高めるとは人間として立派になるということです。
オウムのような魔に陥る超人修行でなく、着実たる人間修行の方が大切だ。
よく練れた人間となるのです。
その為には私は人見知りだからでは通用しません。
人見知りならばそれをも克服するような努力をする。だから修行と言えるのです。
私は口下手だからでは通用しないと桐山さんも説く。
口下手であっても努力して訥々と話すことが求められます。
そうしないと向上しないからです。これが「高める」ということです。
あなたも書いたでないか?楽して頼りになる祖父母の所に行って人助けだと思って
協力してくれと言って本数を稼ぐのと、自分で努力して説明するのとどちらが価値
あるかと。
嘘だったの?
- 832 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/09(木) 22:25:50
- >>827:準シュダオン12/02/09(木) 15:33:53
>何が弱いの?梵行を目的化するから間違うのです。清め高める修行なの
>ですから、適度にすればよいんです。護摩木勧進だとて、知人や友人に
>世間話のついでにしてたら良いのです。私はそうしてました。
>私は人見知りですから、知らない人に勧進したことはありませんw。
つまり人間ラクをしていては少しも高まらない。
敢えて背伸びをしてこれまでの自分の狭い殻を破るような努力をしてこそ高まるのです。
あなたが知り合いだけに勧進してもある程度勧進したことになるさとして
一歩も前に進まないのはアゴン宗の教えとして間違っています。
せっかく正直に書いてくれたところに水をさしてすまぬが、あなたの勧進観は
間違っています。
私はあなたが戸別勧進をしたことのないことを、我々と比較差別して批判するのでは
ないのです。
なけりゃないでかまわないが、あなたの書き込みの中で読めることは、
浄め高める勧進の意味が、アゴン宗の指導がわかってないのです。
わかってもいない奴が偉そうに批判側に説教をするのが片腹痛いのです。
つまりあなたはアゴン宗の立場からアゴン宗を擁護する為に反論をする資格がない。
その器ではない。だからそんなあなたを私は相手にする気もないのです。
役不足なんです。
私は実は私が書いたような護摩木勧進を肯定しているのではないのです。
元トイレ掃除さんが書いているようにそんなボンギョーを否定する立場です。
だから私がリアルなあなたと交友関係を持っていたら、護摩木勧進もボンギョーも
やめなさい、いや、やってないことは結構なことだと祝福します。
しかし私はあなたとリアルで交友関係など持ちたくない。赤の他人で十分だ。
掲示板での対話交流は常に批判側vs擁護側の対立でありたい。
それしかあなたに求めていません。
しかし擁護側になる為にはきちんとアゴン宗教学と実践をおさえておく必要があります。
実践がない、乏しいならばせめて正しい理解があることだ。
それがあなたには著しく欠けている。
つまり対立する相手としても役不足なんで、そういう人は来ないで欲しいと
願っているのです。
来るなら勉強し直してから来てください。
- 833 :深山:2012/02/09(木)
23:47:13
- >>829 :準シュダオン:2012/02/09(木) 16:19:31
>だから、四果=四沙門果、であることが、普通の人なら理解できます。
>しかし、深山さんはそれを否定して理解しなかった。
私が「四果≠四沙門果」といつ書いたか、示しなさい。
示してみなさい。
準シュダオンさんはどうして私が書いていないことを勝手に捏造するのだ?
私は次のように書いている。
>>329 名前:深山 投稿日: 2012/01/23(月)
22:36:48
>四向四果ではなく、四果(四沙門果)についての記述で、
この文章で私ははっきりと「四果=四沙門果」と書いている。
これをあなたはどう見ているのだ?
私は「四果≠四沙門果」などと書いたことはないし、
このとおり「四果=四沙門果」であると文章にも残っている。
さあ、準シュダオンさん、あなたはどう自分の発言に責任を取るのだ?
もちろん、あなたは謝罪どころか、撤回もせず、
誰かに注意されても「読んでいないww」で終わりでしょうね。
準シュダオンさんはそういう下劣な人間です。
- 834 :深山:2012/02/09(木)
23:49:29
- >>829 :準シュダオン:2012/02/09(木) 16:19:31
>だから、四果=四沙門果、であることが、普通の人なら理解できます。
>しかし、深山さんはそれを否定して理解しなかった。
あなたは嘘を書いて、私に罪をなすりつけている。
読まないというなら、反論もしなければいい。
ろくに読みもしない、理解もせずに、勝手に私の話を作り上げて、
さも私が間違ったかのように批判する。
どうしてそんなに悪質なのだ?
どうしてそんなに頭だけでなく性格も悪いのだ?
四沙門果について理解できていないのは、準シュダオンさんだけです。
あなたは何を議論しているのかすらわかっていない。
だから、「四果=四沙門果」などと当たり前のことを持ち出して、
私がこれを理解していないなどと始まる。
- 835 :深山:2012/02/09(木)
23:50:17
- 「すなわち、二人ずつの四組と八人の人々(四双八輩)とであるが、かれらを敬うべく、
尊ぶべく、もてなすべく、合掌すべきであり、世間の最上の福田である〉と。かれは、聖者の愛する、切れ切れではなくて、瑕の無い、斑点のない、
よごれていないで、自在であって、知者の称讃する、汚れの無い、
精神統一をあらわし出すような戒律を、身に具現している。」
(『ブッダ最後の旅』51頁)
「四向四果・・・四沙門果から発展したもので、原始仏教やアビダルマ仏教において
最高の悟りの境地とされる阿羅漢果に至る聖者の階位。」
(『佛教大辞典』小学館、379頁)
「四向四果・・・聖者の四つの位」
(『佛教語大辞典』中村元、512頁)
- 836 :深山:2012/02/09(木)
23:54:08
- 「四向四果・・・聖者の四つの位」
>>835が釈尊の説いた四向四果(四双八輩)であり、その説明に基づく
学者たちの解説です。
「四向四果=聖者」
であり、従って、
「預流向=聖者」
です。
十歳の子供なら簡単に理解できる内容です。
だが、準シュダオンさんの石頭はこれほど簡単なことが理解できない。
これをアビダルマ仏教であると言い続けている。
見てください。
阿含経で釈尊が「四向四果(四双八輩)=聖者」とはっきりと
述べているのに、それでも準シュダオンさんは、
これをアビダルマ仏教だと言うのですから、手の付けられない愚か者です。
>>606以降で、わずか一週間前に私は説明した。
だが、準シュダオンさんは読みもしないし、読んでも理解できない。
だから、三十本護摩木で頭を思い切り叩いてみろと言ったのだが、
三十本護摩木すらないのだから、救いようがない。
もう一度同じ説明を書きます。
- 837 :深山:2012/02/09(木)
23:57:33
- 1.四沙門果(四果)・・・預流(=預流果)、斯陀含(=斯陀含果)、阿那含(=阿那含果)、阿羅漢(=阿羅漢果)
2.四向四果(四双八輩)・・・預流向、預流果、斯陀含向、斯陀含果、阿那含向、阿那含果、阿羅漢向、阿羅漢果
準シュダオンさんはこの両者の違いを理解できない。
何度説明されても、彼の頭では理解できない。
両者は同じ内容を示すから、つい一緒にしてしまいがちです。
しかし、良く見ればわかるように、四沙門果には「向」はありません。
四沙門果の分類において
結論1「預流からが聖者である」(四沙門果)
という表現は正しく、
四向四果の分類において
結論2「預流向からが聖者である」(四向四果)
という表現も正しい。
それぞれにおいて、どちらも正しいのです。
だが、両者を一緒してはならない。
ところが、準シュダオンさんは、結論1を使って、
「預流から聖者なら、その手前の預流向は聖者ではない」
と主張しているのです。
両者は別なのだから、結論1を使い、結論2を否定するのは
意味がないと、何度説明しても、このボンクラは理解できない。
結論1を使って結論2を否定するのは意味がない。
なぜなら、四沙門果の中には預流向は入っていないからです。
元々、四沙門果では「向」は考察の対象外です。
「向」の入っていない結論1を使い、「向」の入っている結論2を
否定するのは間違いです。
- 838 :深山:2012/02/10(金)
00:01:18
- >>829 :準シュダオン:2012/02/09(木) 16:19:31
>だから、四果=四沙門果、であることが、普通の人なら理解できます。
>しかし、深山さんはそれを否定して理解しなかった。
理解していないのは準シュダオンさんです。
あなたがどんなにわめこうが、「預流向=聖者」です。
>>830でラシンさんが示していることで、この議論は何年も前に終わっている。
たった一人、あなただけが頑迷強固に「預流向≠聖者」という
馬鹿げた説を唱え続けている。
>>776で「信者からどうして自分に批判がでないのか」とあなたは書いたが、
アゴンさんという信者から「預流向≠聖者」の経典根拠を示せと批判が
出たが、あなたはコソコソと逃げ出し、未だに示していない。
私にありもしない罪をかぶせたお礼に、半年前の
あなたの惨めな姿を晒して、読者の失笑を買ってあげましょう。
- 839 :深山:2012/02/10(金)
00:05:13
- 「560 :アゴン:2011/07/07(木) 15:43:05
その根拠となる経典をだしてください。
そうすれば、ギャラリーも貴方に軍配をあげることも、もしかしたら
万にひとつ、あるかもしれませんよ。」
アゴンさんから「預流向≠聖者」を示す経典を出すように追求され、
準シュダオンさんは次のようにごまかした。
「563
:準シュダオン:2011/07/07(木)
16:47:25
トキさんは全然理解できなくて、アゴンさんは、もしかしたら、私に軍配を上げる
可能性も万に一つあるかも、とね。根拠となる経典か。それは沢山、引用しないと
難しいね。学者先生の解説を鵜呑みにしてるだけじゃ、難しい。」
偉そうにお説教垂れるだけで、一向に経典は出てこない。
アゴンさんがさらに追求した。
「599
:アゴン:2011/07/08(金) 12:09:31
だからその根拠となる釈尊の経典をだしてくださいって。
あんたの意訳なんざどうでもいい。」
- 840 :元トイレ掃除くん
◆vKfCFZ1gqE:2012/02/10(金) 00:06:48
- >>831-832
ユビキタスさんの文章読んで途中で一瞬ええ? って勘違いしたけど832の9行目「なけりゃないでかまわないが」以降から
意図がわかってほっとしましたw
>>827
準シュダオンさんが大王の使者さんですか?彼はシュリ・バグワンラジニーシの弟子だったこともあり瞑想への関心もあったり
また気付きの瞑想は「サティヨーガ」という名称で20世紀にすでに日本に入って来ているとか、教えてくれたり、まあちょっとは見所あるかなとも思ったものです。
私や私の導き親はちょっとは正常な神経を持っていたから教団のボンギョーに異常さを感じ
自分教学を作り逃げてました。
例えば8法16法
簡単にいうと8法は、クンダリニヨガの指導を受けて記憶し、そして実践すること。
で16法は他人に、クンダリニヨガの話しをすること。
(修行=クンダリニヨガ、梵行=他人にクンダリニヨガの説明)
だってご著書に成仏法=クンダリニヨガ+仙道ってちゃんと書いてるから。
だからある時期境にトイレ掃除も護摩木押し売りも一切やめました。
まあご著書みたいに建前の教えじゃなく、リアルの教団の教学には反するけどボンギョーというものが異常なものだと感じ
逃げるにはそういう自分教を作るしかなかった。
そう言えば準さんは気付きの瞑想は7科37道品の瞑想じゃないと書いていたね。(気付きの瞑想は7科37道品の中核の瞑想なんだけどね・・私は合わないから釈迦仏教をも離れた)
7科37道品の瞑想はクンダリニヨガ+仙道なんでしょ?
じゃあ何故教団は護摩木とか変なことばかりさせるの?
また準さんも、もし使者さんなら、どうどうと、俺はラジニーシから成仏法習った、護摩木もボンギョーも関係ない勧進などしないと堂々とすればよい。
アゴン宗なんかより世間一般のヨガや気功教室のほうが釈迦に近いじゃないの?キリちゃんのご著書から推察して。
ヨガや気功がどうのといいつつ、実際は護摩木。 キリちゃんも卑怯ものだよね。
準さんは、私や導き親と比べるとまだまだ奴隷気質で、その点では準さんはまだ弱いと思いました。
(まあ導き親は解脱供養に狂ってるが・・)
とはいえボンギョーを全くしないという点で、準さんは悪業あまり積んでないから偉いですけど。
聖なるバイブレーションとかご霊示とか(全く当たってないじゃんw)が仮に本当だとして
それバグワンラジニーシの効果じゃないんですか?
- 841 :深山:2012/02/10(金)
00:08:11
- この追求にさすがの準シュダオンさんも沈黙。
必死に経典をめくっていたのでしょうね。
苦し紛れに次のような経典を引用してごまかそうとした。
「659
:準シュダオン:2011/07/10(日)
12:55:44
初心者じゃあるまいし、何処にも沢山あるでしょう。例えば、経典のあちこちに、
「三結尽 得須陀オン 三結尽貪瞋痴薄 得斯陀含 五下分結尽 得阿那含」」
だが、この経典には預流はあるが、預流向なんて書いていない。
準シュダオンさんは四沙門果と四向四果の区別がついていないから、
「預流から聖者なら、その手前の預流向は聖者ではない」と信じこんでいる。
だが、そんな思い込みの屁理屈は通用しない。
アゴンさんからはさらに追求を受けた。
「666
:アゴン:2011/07/10(日)
19:52:00
準シュダオンさんって漢文そのまま引用してるけど、読み下し文も書いてくださいよ。
あなたの引用の漢文には出てこない単語をしれっと意訳に使ってるのは、
誤魔化し以外のなにものでもないでしょう?」
そのとおりで、準シュダオンさんの引用は「誤魔化し」です。
どこにも預流向なんて書いていない。
アゴンさんからの反論の意味すら理解できず、
しどろもどろになった準シュダオンさんは爆笑への道を歩んだ。
- 842 :深山:2012/02/10(金)
00:10:47
- 「598 :準シュダオン:2011/07/08(金)
10:32:04
阿羅漢向は、阿羅漢という文字が
ついてはいますが、阿羅漢=仏ではありません。」
阿羅漢が仏でないと言い出して、失笑を買ったのに、
なんと「阿羅漢≠仏」と書いたのは批判側だと言い抜けた。
「631
:準シュダオン:2011/07/09(土)
14:05:17
そう言って↑いるのは、深山さんとラシンさんだろうがw。
だから、阿羅漢を仏でないといってるのは批判派の、一対で一つの位論者だよ。」
自分が書いたことをきれいに忘れて、批判側のせいにした。
アゴンさんはあきれはてて、質問するのを止めた。
私がこの後も、経典の根拠を示すように準シュダオンさんに
言い続けたが、もちろん、出せるはずもない。
以上、信者に追求されて逃げ惑うドブネズミのような準シュダオンさんの一席でした。
- 843 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/10(金) 00:16:55
- >>776:準シュダオン12/02/08(水) 12:55:45
>では何で現役信者さんから、私への批判レスが無いのですか?
>それは見逃してくれているんです。少々レベルの低いレスでもね。
昔からたくさんあったのをあなたが覚えてないだけです。
このしたらばではなく、ザ掲示板に阿含宗と桐山氏についてのスレがあった時です。
あの時は一時私だけが批判側の四面楚歌で、他は皆現役信者でしたよ。
今はほとんど皆改名してしまっていますし、それよりも退会批判側になっていますが、
Booさんもいたし、干柿さんもいたし、元トイレ掃除さんもいました。
いずれもあなたの書き込みを否定し、苦情も寄せてました。
批判側となってからでなく、私と対立の関係にある信者の時代にです。
- 844 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/10(金) 01:01:40
- >>824:準シュダオン12/02/09(木) 14:09:26
>私は、課行を目標だと捉えます。課行を達成しようと、努力するのは当たり前
>ですが、どうしても達成出来なかったら、仕方ないでしょう。
>それを、ユビさんみたいに、何が何でも、と考えるのをカルトと言うのでしょ。
簡単です。達成できなかったら因縁が切れないだけです。
因縁が切れなかったら因縁の示す通り不幸な運命に苦しむだけです。
達成なんかほとんど無理だったのが13救いの輪です。
だったと書きましたが、廃止したとも聞かない。
13人導けば来るべき1999年の危機からあなたの命を守ることを約束すると
桐山さんが説きました。逆に言うと導けなければ命の保証はできないと言う
ようなものです。アンゴルモアの大王に誓って守られる隊列を作れ。
これは男と男の約束だ、諸君も約束を守れと迫ったのです。
この通り戒行、課行を守れ、実行せよと説くのは批判側ではないんですよ。
桐山さんなんですよ。だから文句があったら我々に言うのは筋違いです。
桐山さんに文句言ってください。
そもそも最初から達成できなかった時のこと想定してて、初めから負け犬じゃないですか?
努力なんてのはとってつけた言葉だけで、要するに戒行も課行もやりたくない、
するものか、ラクしていたい、せったく仕事から解放されたのだから、このラクな
人生を捨ててたまるかという気持ちはわかるけどさ。
- 845 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/10(金) 08:33:23
- >>824:準シュダオン12/02/09(木) 14:09:26
>私は、課行を目標だと捉えます。課行を達成しようと、努力するのは当たり前
>ですが、どうしても達成出来なかったら、仕方ないでしょう。
>それを、ユビさんみたいに、何が何でも、と考えるのをカルトと言うのでしょ。
戒行・課行については修行読本1の86頁から89頁に解説されています。
全文読み直してみなさい。
戒行、課行、ともに因縁解脱の修行として、車の両輪のごときもので、そのどちらも
欠かすことはできない。
最も大切なことがある。
それは、戒行、課行のいずれも導師から課されたら、一議に及ばず、いっさい思議せず、
すなおに「ハイ」とお受けしてただちに実践行動に移るということである。
思議するこころ、すなわち、因縁のこころである。因縁がアレコレ考えるのだ。
とにかく「修行」とは「行動」なのだ。その「行動」は、今まで君がやってきた「行動」とは全くちがう「行動」である。
行動を変えることにより、性格を変え、因縁を変えるのである。いままでと同じ
ことをやっているのでは、(潜在)性格も変わらないし、因縁も変わらない。
あたりまえのことではないか。行動のパターンを変えることにより、性格も発想も
変わってくるのだ。そして因縁も変わるのである。
心理学では「性格を変えることはほとんど不可能である」という。
それは、ありきたりの方法で表面にあらわれた性格だけを変えようとするからだ。
人間を一つの局限状況に直面させて、潜在意識を変えていったら、どのようにでも
人間の性格は変わるのである。それが仏陀の説かれた「修行」なのである。
とにかく、考えこんでいて、あるいは、あれこれ理くつをこねていて、潜在意識も、
性格も、変わりはしないのだ。
とにかく行動することだ。
「考えず、無心に行動」
これが極意である。
もちろん戒行も課行も、実践し難いことが多いであろう。当然である。実践し難い
からこそ修行なのであって、らくらくできることであったら、修行ではない。
(87頁〜88頁)
あれこれ理屈をつけて行動しようとしないのがあなたです。
桐山さんがあなたの状態を批判しているのです。
- 846 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/10(金) 11:46:38
- 最初に入る学校は預流学校ですから、そこを卒業するまでは凡夫なのですね。
中村元博士は、かねがね、
「日本には分からないことがありがたいことだ、
という変な思想がある。
分かりやすく説くのは通俗的で、わけの分からぬような
仕方で説くのが、学術的であるかのように思われていますが、
これはマチガイです。
分かりやすく説くのが学術的なのです。
子供や一般の人にも分かるように書くべきです。」と、
著書に添えられています。
批判からも、昔から2chで、中村博士訳の分かりやすく書かれた
阿含経を読むべきです、と警鐘されていました。
桐山さんは、そのふだん使われたであろう釈尊のことばや表現に、
何かもの足りなさを感じた、と述べています。
釈尊は、特別なことはなにも述べていないからです。
読めるのは、自己の清浄行、煩悩の抑制と滅尽を説いたことです。
桐山さんの期待は、多分裏切られたのでしょう。
密教よりさらに奥深い神秘の力が、必ずや記されているはずだと、、。
桐山さんは、漢訳四阿含を多用するのもその表現が、
漢訳書き下しという体裁上、多分に権威的だからです。
その文体は、ありがたく威厳のあるように捉えてしまう。
だがパーリ訳は、とても分かりやすい平素なる表現です。
学者は、阿含経をできるだけパーリ文と漢訳文を照らし合わせて、
解釈につとめ、わかりやすく言いあらわしています。
- 847 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/10(金) 11:53:01
- >最初に入る学校は預流学校ですから、そこを卒業するまでは凡夫なのですね。
漢訳だけによらず、パーリ文も参考にすべきです。
学者は訳注において、それら二つを比較検証しています。
桐山さんは、四沙門果(四果)については明解に解説しますが、
四向四果については、意図的か、遠回り的であいまいのままです。
今回の(中)巻でも明解にされていませんでした。
なにか四向四果の解説を避け、四果のみを根拠に自論を展開している。
ただその解説には欠陥があり、つっこむ要素を残しているだけです。
四向四果説は、お経にある四双八輩を体系づけた論述法で、
アビダルマ以降の経典にだけ、その語句の多くを探り出せます。
ただ、どちらも四双八輩(四向四果)は、聖者衆とされています。
増壹阿含經卷第二
廣演品第三
所謂四雙八輩。是謂如來聖衆。應當恭敬承事禮順。
所以然者。是世福田故。於此衆中皆同一器。
これは、釈尊の思想がよくあらわされているお経です。
四双八輩は、如來の聖衆であり、みな同じ器(うつわ)つまり、
仲間である、と述べています。
ナンダ比丘から「聖者とはどういう人か?」との質問の答えに、
釈尊の思想が分かります。
ナンダよ、世の中で真理に達した人は、〔哲学的〕見解によっても、
伝承の学問によっても、知識によっても聖者とはいわない。
〔煩悩の魔〕軍を突破して、苦悩なく、望むことなく行い人々、―
かれらこそ聖者である、とわたしはいう。(1078スッタニパータ)
釈尊は、煩悩を突破しつとめ励む(=清浄行)人々を聖者と述べている。
その清浄行の場が、善き友の共同体(サンガ)という意味にもなる。
それについて釈尊は、アーナンダからの「善き仲間(サンガ)とは、
清浄行の半ばに近いことですか?」との問いに対し、
「善き仲間(サンガ)のいること、善き仲間に取り巻かれていることは、
清浄行の全体である」(サンユッタ・ニカーヤ)と、
答えています。
このように、
釈尊は、善き友の共同体(サンガ)とは四双八輩からなる集まりで、
それは清浄行の全体の場であるとしています。
釈尊に帰依し出家して清浄行を目指しはじめた者(預流向)は、
みな聖者衆となり、善き友の共同体(サンガ)の一員とされています。
- 848 :Boo:2012/02/10(金)
12:59:13
- 深山さんのレスで準シュダオンさんが理解できないのがわかりました。
⇒ 四向四果(四双八輩)
これがわからないのです、準シュダオンさんには。
⇒ 四向四果=四双八輩
が理解できないのでしょう。この等式が理解できたら
四双八輩=聖者
となり、何のことはない
四向四果=四双八輩=聖者
ゆえに 預流向=聖者
となるのが論理的にも正しいことが中学生にも分かることです。
- 849 :Boo:2012/02/10(金)
13:16:46
- ユビキタスさんのレスで思ったことを少し・・・
ユビキタスさんのウミタコ軍団ですか。私もかつて擁護側にいましたが、確かに
擁護側にいたほうが表現など荒っぽいものが多かったように感じます。
なぜか考えました。それで感じたのは批判内容が真実であり、擁護しようとすると
嘘をつかなくてはならなくなるように思います。例えば
「因縁解脱などだれがしているか?」
「私は少しだが切れている。だから因縁解脱はあるんだ。」
と言わないと説得力がないんです。現実は逆であったとしても。また、因縁が
薄れている、というのはどういう場合でもそうかもしれない、という要素は
あるので「少し切れている」という表現はまるっきり間違いともいえない、と
自分に言い聞かせてレスするのですが、じつはこれはうその表現でしょう。
ユビキタスさんが言われたように、自分に嘘をつくかレスで嘘をつくかしなくては
アゴン宗の擁護ができないように思います。
それに対して批判側は真実を曲げる必要も隠す必要もない。真実のアーガマが、
そして釈尊がアゴン宗の内容を批判して否定しているんだから嘘の記述をする
必要など何もないわけです。
釈尊が否定、批判していることを釈尊の言葉で擁護しようったってそりゃー
嘘八百を並べなきゃ議論のテーブルにも就けないでしょう。しまいには開き直るか
捨て台詞を吐くしかない。それが擁護側の荒れたレスになるように思いました。
- 850 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/10(金) 13:38:52
- 2ちゃんねるの阿含宗という宗教28のウミタコ軍団については、態度よりも
書いている内容にショックを受けました。
インドとパキスタンがあわや戦争になりそうなところをアメリカの仲裁によって
回避したのはインド護摩のおかげだとか、桐山さんが説いていたことをそのまま
出してました。出したということは、あんな戯言を信じていたのかいな?と
目を塞ぎたくなりましたね。
副管長が亡くなった時の葬儀の写真に光の帯みたいのが入ってそれを龍神と
みなしていたのをそのまま出したり。
その写真見たけど、どう見ても龍に見えなかったのに。
私はウミタコ軍団の書き込み読んでて、準シュダオンさんか宝生の生活さんが
書いてることと大して変わらんなと感じ、愕然としました。
シャカはヒンズーの護摩を禁じたけど密教の護摩は禁じてないとか、自分でも
書いていたことに強いショックを受けました。
- 851 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/10(金) 13:57:03
- >>664:ラシン ◆xvojmuQ90o12/02/05(日) 18:35:33
>桐山さんは、東日本大震災一ヶ月前の2月11日に、
>慰霊と復興を祈願するためのゴマを星まつりで焚くそうです。
>その一週間後の18、19日に京都南座で追悼と復興支援の
>ための歌舞伎音曲公演を行うとしている。
>>665:ラシン ◆xvojmuQ90o12/02/05(日) 18:36:43
>この声明文によれば、東日本の被災者の何人を招待するつもりなのか。
管長メッセージを読んでも12月例祭法話録を読んでも、ちっとも具体的な話が
見えて来ません。東日本大地震被災者に対して何をどうするのか。
交通費、宿泊費含めて招待なんて話が何も書いていない。
そういう話があったら自慢気に書くだろうが。
これは単に京都で歌舞伎やって、被災者に想いをこめるだけに過ぎないか?
これってパリで焚き火して北朝鮮からテポドンが砲撃されないように祈るなんて
話と同じにならないか?
本当に何かしてあげたいなら、なんで京都なのか?
福島県相双地区とは言わないが、福島市とか郡山市、仙台市、盛岡市に連れていく
大興行のスポンサーとかになれないのか?
単に東日本大震災をくっつけただけじゃないか?
ウケを狙って。現地にまで行かない奴に元気づけの偽善談は要らない。
収益を被災地に贈るとも明記してないし。
- 852 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/11(土) 23:00:06
- >>731:準シュダオン12/02/07(火) 09:24:34
>ちょうど良い題材があった。「教えを説く」中巻のP189に、ほとんどの人は、
>「五難得の物」を自然の法則と解釈するでしょう、と、書いてあります。それと
>管長の解釈は違います。私は当然、管長の方が正しいと思いますが、ユビさん方
>は、常識的な解釈の「自然の法則」=「五難得の物」が正しいとするのでしょう。
お待たせしました。
この準シュダオンさんのレスを活用して、今回の「仏陀の真実の教えを説く(中)」
に掲載されました等見品の桐山解釈について批判しましょう。
この経典では五難得の物を否定して、五根を説きます。
五根法とは信根、精進根、念根、定根、慧根の5つです。
これによって、シュダオン、シダゴン向、シダゴン、アナゴン向、アナゴンと進み
五種類の般涅槃(五種不還)を得てこの世に二度と戻ることはないと説く。
で、問題の五難得の物とは、
@自分の手もとから去っていくべきものが去って行かないように望むこと。
Aなくなってしまうべきものを、なくならないようにと望むこと。
B老いていく者が、老いたくないと望むこと。
C病になり病苦を受けようとする者が、病にならないように望むこと。
D死に向かっている者が、死なないように望むこと。
これらはいずれも不可能なこととします。(当たり前だ)
つまり四苦八苦の中から五つチョイスしたものとわかります。
経典はこの五難得の物を除き、五根法を修行しなさいと説く。
まさに五のつくものを並べて説いてみた経典とわかる。
先の五難得の物の内容と五根法の内容は関係ないとわかる。
対になっていたりなどしない。
五難得の物は不可能なことなんだから、こんな物を追い求めることを否定除外して
そんなことより五根法を修行しなさいと説いたものとわかります。
それが準シュダオンさんも書いているように常識的な解釈です。
ところが桐山さんも準シュダオンさんもこの経典はそんな常識解釈をしてはならない
と説いているのです。
- 853 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/11(土) 23:40:50
- >>731:準シュダオン12/02/07(火) 09:24:34
>ちょうど良い題材があった。「教えを説く」中巻のP189に、ほとんどの人は、
>「五難得の物」を自然の法則と解釈するでしょう、と、書いてあります。それと
>管長の解釈は違います。私は当然、管長の方が正しいと思いますが、ユビさん方
>は、常識的な解釈の「自然の法則」=「五難得の物」が正しいとするのでしょう。
桐山さんや準シュダオンさんは五難得の物は得ること不可能なんだからそれを
追い求めるのはやめなさいと説いているのではなく、不可能なことも可能にしてしまい
五難得の物は難得でなくなると説いているのです。
五難得の物を除くとは五難得の物が難得ではなくなり、それは得られるのだと
解釈したのです。
「お釈迦さまは、いろいろな方法を駆使して、先に説いた「五難得の物」を除く
――つまり、因縁因果の法則を超越する――成仏法・五根法を一生懸命に修行せよ、
と修行者たちに説かれたのです。
すると一斉に嘲笑が向けられることになる。
死ななくなるの?老いなくなるの?そんなことは人間である限り無理だよ。
釈尊だって病気をし、老化し、死んだ。
不老不死を求めるなんてナンセンスな!
ところが桐山さんはこの五難得の物自体の解釈に細工を加える。
経典には文底秘沈があるのだとして、世間の五事、五難得の物の定義を狭めるのです。
つまり勝手に「因縁因果の法則によって」という言葉を添えて、因縁によっては
失うたくなくても失うことは避けられないと読ませます。
それだけなら実は何も意味は変わらないはずですが、その因縁因果をいつのまにか
桐山因縁の運命の星にすり替えて当たり前としているのです。
すなわち財運・水の因縁なんて桐山さんの作った因縁の星を出して、この因縁を
切れば、失うべきものも失わずに済むかのごとく説く。
病気についてはガンの因縁とか脳障害の因縁をあてはめている。
すなわちその因縁を切れば少なくともガンや脳梗塞などの病気にはならない
かのように話をすり替える。
老化の話も老化は避けられないが、しかし老化の時期は遅らせることができると
話をすり替えます。して桐山ゲイカ、90歳でスポーツでも登山でもやっちゃう
元気なお年寄りもいる中で少しも遅らせてなどなく、星まつりは輿に乗せられ
介助なしにはマトモな歩行すらできないが。
死については死に方の話にすり替え、横変死の因縁なんか出す。
- 854 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/11(土) 23:53:38
- >>731:準シュダオン12/02/07(火) 09:24:34
>ちょうど良い題材があった。「教えを説く」中巻のP189に、ほとんどの人は、
>「五難得の物」を自然の法則と解釈するでしょう、と、書いてあります。それと
>管長の解釈は違います。私は当然、管長の方が正しいと思いますが、ユビさん方
>は、常識的な解釈の「自然の法則」=「五難得の物」が正しいとするのでしょう。
この五難得の物を除くとは難得(と言うよりも得ること不可能)であることの
因縁因果を超越してしまうなんて話ではありません。
因縁因果というのは真理なんだから変わりません。
ところが桐山さんは因縁因果を自分が作り出した運命の条件を因縁と勝手に
捏造命名したものをさも当たり前かのように適用して、因縁解脱すれば部分的にでも
不可能ではなくなるぞなんて話にすり替えてしまった。
この経典は因縁解脱を説いたものだ。
五難得の因縁を解脱する為に五根法を修行するのだなんてアホな話にしてしまった。
この経典はあくまでも五難得の物を示し、それは不可能だと断言しているのです。
事実お釈迦様だって病気になられ、老化され、お亡くなりになった。
病気の種類だの老化の時期遅延だの死に方の選択なんて話ではない。
目連の死に方は決して望んで選択した死に方ではない。横変死です。
五難得の物を除くとはそんな不可能な話を追い求める煩悩を取り除きなさいと
読むのが当たり前の常識なんです。
- 855 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/12(日) 00:56:16
- >>853の
「お釈迦さまは、いろいろな方法を駆使して、先に説いた「五難得の物」を除く
――つまり、因縁因果の法則を超越する――成仏法・五根法を一生懸命に修行せよ、
と修行者たちに説かれたのです。
は「仏陀の真実の教えを説く(中)」の等見品桐山解説の208頁の引用であることを
付記し忘れました。
話は変わるが、星まつりテレビ放送の平河出版社のCMで、新著である中巻の
紹介に、
「中阿含経、七宝経、地球救済の予言経」とかエコーをきかせて読み上げるのに
相変わらず安っぽい宣伝だと思いました。
なお予言しておきますと中巻に続く下巻の運命は密教占星術の3巻以降、
あるいは説法六十心3の運命と同じになりましょう。
- 856 :準シュダオン:2012/02/12(日)
09:17:24
- >五難得の物は不可能なことなんだから、こんな物を追い求めることを否定除外して
>そんなことより五根法を修行しなさいと説いたものとわかります。
>それが準シュダオンさんも書いているように常識的な解釈です。
>ところが桐山さんも準シュダオンさんもこの経典はそんな常識解釈をしてはならない
>と説いているのです。
そのとおり、常識解釈は字面の解釈であり、国語的解釈ですね。それではこの
経典の意味は解りません。生・老・病・死を除く五根法だから、五根法を修行せい、
と説いているのです。因縁因果の法則を超越できるから、五根法を修行せよ、と
説いているのです。そうでなければ、何で五根法を修行する意味があろうか?ないです。
因縁の洗い出し現象を体験すれば、管長の言の正しいことが解ります。
学者的解釈では、この経の意味は解けません。
- 857 :準シュダオン:2012/02/12(日)
09:21:06
- >>では何で現役信者さんから、私への批判レスが無いのですか?
>>それは見逃してくれているんです。少々レベルの低いレスでもね。
>昔からたくさんあったのをあなたが覚えてないだけです。
>このしたらばではなく、ザ掲示板に阿含宗と桐山氏についてのスレがあった時です。
ハハハ、私は昔ではなく今のことをいっています。
2012年になってからのレスを対象にしましょう。
- 858 :準シュダオン:2012/02/12(日)
09:40:46
- 四双八輩は阿含教学の基本だと、管長は説いていますから何度でも解説します。
BOOさんも、ラシンさんも、深山さんも、アビダルマ論師達と同じ間違いをして
るのです。釈尊は、「聖者集団を四双八輩に区分した」と思い込んでるのです。
釈尊は、聖者集団を四双八輩に区分したのではありません。
釈尊は、教団の構成員全員を四双八輩に区分したのです。
「四双八輩 是如来弟子衆」の原語を勉強してください。これはSAmgHAの訳で、
サンガ=教団のことを指しています。
四双八輩は、教団の中のエリート層をさしているのではなく、教団全体のことです。
大乗の言葉を借りれば、四双八輩には凡夫僧と聖者僧が含まれているのです。
この期に及んで、いまだに預流向を聖者だと思うようでは、呆れ果てるね。
- 859 :準シュダオン:2012/02/12(日)
09:55:26
- 平河本の長阿含経に、「我今是仏弟子 得須陀オン道」という言葉が一箇所出て
いますね。今のところ、経典に出ている須陀オン向の資格条件は一つです。
それは、仏弟子という条件です。
つまり、1、仏弟子→預流向
2、三結断→預流
3、三結断二結薄→一来
4、五下分結断→不還
5、十結断→阿羅漢
という資格条件になります。仏弟子が全員聖者だなんてことは、あり得ません。
ユビさんは、ペイペイの新米比丘でも敬われるべき尊者だと苦しい弁明をして
いたが、ペイペイの新米僧は凡夫僧です。
でも、まぁ、ユビさんは四双八輩の真相を理解しているのかも知れないね。
- 860 :準シュダオン:2012/02/12(日)
10:13:35
- >と言わないと説得力がないんです。現実は逆であったとしても。また、因縁が
薄れている、というのはどういう場合でもそうかもしれない、という要素は
>あるので「少し切れている」という表現はまるっきり間違いともいえない、と
自分に言い聞かせてレスするのですが、じつはこれはうその表現でしょう。
>ユビキタスさんが言われたように、自分に嘘をつくかレスで嘘をつくかしなくては
>アゴン宗の擁護ができないように思います。
嘘をつかねば擁護ができない、なんて考えるようでは修行など進まないよ。
私のレスを見なさい、嘘など書いていないよ。
阿含宗はアウフヘーベンした仏教だと、管長は宣言しています。
だから、釈尊の言葉だけでは間に合わないのです。
釈尊もアウフヘーベンを認めたので、お護摩の炎を借りて、大乗の大日如来の形で
現形したのです。
- 861 :準シュダオン:2012/02/12(日)
10:29:03
- 前に阿含宗の梵行は、アウフヘーベンした梵行だ、とレスした。
ユビさんから問があったので答えます。
古代のバラモンの梵行期の学習を主とした梵行をテーゼとします。
仏教の戒律を守った清らかな行いの梵行をアンチテーゼとします。
阿含宗の梵行は、それらをアウフヘーベンした、功徳を積むという梵行です。
それは主として利他行の梵行です。
「教えを説く」中巻のP126から、「仏教では、功徳を種える行のことを梵行
といいます」と、説明していますね。全くそのとおりですね。
- 862 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/12(日) 11:26:35
- >>856:準シュダオン12/02/12(日) 09:17:24
>そのとおり、常識解釈は字面の解釈であり、国語的解釈ですね。それではこの
>経典の意味は解りません。生・老・病・死を除く五根法だから、五根法を修行せい、
>と説いているのです。因縁因果の法則を超越できるから、五根法を修行せよ、と
>説いているのです。そうでなければ、何で五根法を修行する意味があろうか?ないです。
五根法は生・老・病・死そのものなんか取り除きません。
生老病死の「苦」から離れる道を説きます。
しかしその苦から離れるとは本当に死ななくなるとか老いなくなる、病気にならない
なんて解決法ではなく、それは不可能だと、この等見品でも断言しています。
事実釈尊は老化して病気になって死んだのです。
未だかつて老いず病まず死なない人間としての阿羅漢など一人もいない。
ただ阿羅漢を得て死んだ者は、もう生まれ変わってくることは二度とないのだから
老も病も死もありません。それ以前の生がないからです。
生ある限り老病死は必ずある。
では五根法を修行してシュダオン、シダゴン、アナゴン、アラハンになって
輪廻がなくなったとして、生老病死全てなくなったとして、これが桐山さんの説く
因縁解脱なんですか?
もちろん桐山さんも輪廻解脱を究極には説きます。
しかし桐山さんが説く因縁解脱は現世において死ぬ前に解決されたる話ばかりです。
ガンの因縁を切って健康のまま暮らすことです。
財運・水の因縁を切って財産を散ぜずにいつまでも長く持ち続けることができる
ことを説く道です。
一度死んでもう生まれ変わらないから、老病死からも解放されるのだぞ、
それを目指して、さあ死のうなんて話ではない。
- 863 :akb55:2012/02/12(日)
11:29:32
- アウフヘーベンした功徳を積むという梵行をしたから桐山さんの奥さんはガン死した訳かフムフム
- 864 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/12(日) 11:40:49
- >>861:準シュダオン12/02/12(日) 10:29:03
>古代のバラモンの梵行期の学習を主とした梵行をテーゼとします。
>仏教の戒律を守った清らかな行いの梵行をアンチテーゼとします。
>阿含宗の梵行は、それらをアウフヘーベンした、功徳を積むという梵行です。
>それは主として利他行の梵行です。
釈尊が従来からバラモン社会にある梵行期の梵行を釈尊流に意味、意義を変えて
設定して自らの教えとしたのに、どうして釈尊の阿含経に則ったとするアゴン宗が
釈尊の梵行をアンチテーゼとして解体して余計な再構築などするのだ?
バラモン教がテーゼで仏教がアンチテーゼならば、仏教を標榜する団体は
アゴン宗も含めてアンチテーゼのままでよく、どうしてバラモン教にまで
遡ってアウフヘーベンしてジンテーゼ梵行なんか作る必要があるのか?
桐山さんもそんな必要性なんか説いていない。
仮にもしするならば、そのような説明を信者や読者に示す義務がありますよね。
してません。
- 865 :Boo:2012/02/12(日)
12:42:54
- 笑いどころ1です
>「四双八輩 是如来弟子衆」の原語を勉強してください。これはSAmgHAの訳で、
>サンガ=教団のことを指しています。
>四双八輩は、教団の中のエリート層をさしているのではなく、教団全体のことです。
>大乗の言葉を借りれば、四双八輩には凡夫僧と聖者僧が含まれているのです。
>この期に及んで、いまだに預流向を聖者だと思うようでは、呆れ果てるね。
この書き込みで準シュダオンさんは中学生以下の論理解釈しかできないことが
確定しました。「四双八輩」が聖者であることは阿含経に書いています。
アビダルマだのなんだのなんて出す必要もないことです。
笑いどころ2です
>嘘をつかねば擁護ができない、なんて考えるようでは修行など進まないよ。
>私のレスを見なさい、嘘など書いていないよ。
ははは。
準シュダオンさんの場合、自分に嘘をつくまでのレベルに達していません。
バイブだの霊示だの、完全に脳障害の因縁の垂れ流しなの。
- 866 :準シュダオン:2012/02/12(日)
14:44:39
- >この書き込みで準シュダオンさんは中学生以下の論理解釈しかできないことが
>確定しました。「四双八輩」が聖者であることは阿含経に書いています。
あのね、「四双八輩 如来弟子衆 如来聖賢之衆(釈尊の教団) 為世福田」
とあるでしょ、如来聖賢之衆だからと言って、釈尊の弟子が皆、聖者なんてあり得ない
でしょ、それを言葉のアヤというの。為世福田も最初は世尊だけだったのよ。
>アビダルマだのなんだのなんて出す必要もないことです。
出す必要があるの。今までの学者先生は、アビダルマ定義の四双八輩を解説して
預流向を聖者としているのですからね。これからの新進気鋭の学者先生は、ちゃんと
経典に説いてる四双八輩を勉強して、預流向を凡夫僧に位置付けるのですからね。
>笑いどころ2です
あんたらこそ、お笑いの種ですw。四双八輩の基本を理解した人達に笑われてるん
だよ。批判派でも四双八輩を理解した人は、恥じ入るばかりでしょうねw。
- 867 :準シュダオン:2012/02/12(日)
15:02:17
- >もちろん桐山さんも輪廻解脱を究極には説きます。
>しかし桐山さんが説く因縁解脱は現世において死ぬ前に解決されたる話ばかりです。
>ガンの因縁を切って健康のまま暮らすことです。
>財運・水の因縁を切って財産を散ぜずにいつまでも長く持ち続けることができる
>ことを説く道です。
ガンの因縁を切ったり、財運水の因縁を切るのは、「三結断 不堕悪趣」の範疇です。
先ず、人間界での苦しい生活状態の因縁を切るのです。不堕悪趣の状態になると、
天上界と人間界の楽な環境の因縁になります。同じ人間界でも恵まれた状態になり
ます。五下分結を断じてアナゴンになると、さらに楽な状態になって人間界には
生まれてきません。
そして阿羅漢は、「十結断 不堕六趣」ということになって、無上安穏涅槃に入る
わけです。
因縁の洗い出し現象を体験すると、そのことが良く解ります。私は六方塞がりの
状態で入行しましたから、苦しい状態でした。今は四方開けて、四方塞がりか?
三方塞がりでしょうか、まぁ、勤勉な修行とは言い難いので、文句は言えません。
- 868 :準シュダオン:2012/02/12(日)
15:14:40
- >釈尊の梵行をアンチテーゼとして解体して余計な再構築などするのだ?
>バラモン教がテーゼで仏教がアンチテーゼならば、仏教を標榜する団体は
>アゴン宗も含めてアンチテーゼのままでよく、どうしてバラモン教にまで
>遡ってアウフヘーベンしてジンテーゼ梵行なんか作る必要があるのか?
だって釈尊の説く梵行は、在家仏教である阿含宗の場合、そのまま取り入れる
ことは無理でしょう。釈尊は、在家の梵行としては、具体的には8方16法し
か説いていないでしょう。比丘の場合は、戒律を守り清らかな生活をすること
が功徳の種をうえることですが、在家の阿含信徒の場合は、稼がねばいけない
のでそれは出来ない。功徳の種をうえる=梵行、の具体的な手段を変える必要が
あるのですよ。
- 869 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/12(日) 16:33:49
- >出す必要があるの。今までの学者先生は、アビダルマ定義の四双八輩を解説して
預流向を聖者としているのですからね。
四双八輩について批判の解釈は、経典であり解釈は学説に拠って
提供している。
釈尊の思想の根幹にある、最底辺に身を置く差別なき平等の心と、
非暴力による自己浄化の実践を知るべきです。
また「四向四果」という言葉じたい、アビダンマの論述です。
バウッダ―仏教(中村
元,三枝
充悳)から52頁より抜粋しまとめると、
「阿含経は、釈尊の教えを直接伝える唯一の経典群であるが、
その教えを原型どおりに記しているわけではなく、
教えそのものは、広義インド学・仏教学に基づいて十分に
検討研究して、
はじめて知り得られる。
またその他多数の諸経典、特に大乗仏教からは、全く知ることができない。」
-110頁抜粋-
(1)『長阿含経』 法蔵部
(2)『中阿含経』 説一切有部(略して、有部)
(3)『雑阿含経』 根本説一切有部(有部の分出)
(4)『増壱阿含経』大衆部または法蔵部、もしくはやや非正統の有部
- 870 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/12(日) 16:34:56
「四双八輩」という表現は、「大正新脩大蔵経」SATより経句検索すれば、
阿含部の長阿含経から増壱阿含経、本縁部、大乗経にまで反映されています。
釈尊が、散文形式でその表現をしたであろうという伝承と考えられる。
批判が提供した経典は、「四双八輩」という表現のあるものです。
だが、「四向四果」は、本縁部と大乗経に少しみられるものの、
そのほとんだが、律部の阿毘達磨大毘婆沙論にしか見い出せない。
婆沙論なのだから、「如是説」であり、「如是我聞」で始まらない。
そのどちらも、向預流=聖者として認められている。
>これからの新進気鋭の学者先生は、ちゃんと
経典に説いてる四双八輩を勉強して、預流向を凡夫僧に位置付けるのですからね。
長期の四双八輩(四向四果)の考察じたい、スレを逸脱しているものですが、
一応、学者による新説については専門家の考察に委ねられるべきです。
おそらくはそれらの新しい諸文献(出土本)が、今後の初期仏教の
研究に種々の話題を提供するであろうが、しかしそれらがすでにかなり
多く紹介されたとはいえ、初期仏教の思想として、これまで知られて
きたことをそれほど大きく揺り動かすまでには至っておらず、
将来も多分生じ得ないであろうと推察される。(126頁第二部三枝充悳)
- 871 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/12(日) 16:57:04
- >>867:準シュダオン
12/02/12(日) 15:02:17
>ガンの因縁を切ったり、財運水の因縁を切るのは、「三結断 不堕悪趣」の範疇です。
>先ず、人間界での苦しい生活状態の因縁を切るのです。不堕悪趣の状態になると、
>天上界と人間界の楽な環境の因縁になります。同じ人間界でも恵まれた状態になり
>ます。
人間として生きていく中で四苦八苦に悩むことを悪趣なんて言いません。
逆に四苦八苦がなくなり、もうやることなすこと無制限で全く自由なんてことを
求めるのが不当な見当違いな欲望、煩悩と言えます。
地獄という悪趣に堕ちるのは生前悪い心で悪い行いをしたからです。
それに対して四苦八苦というのは別に悪いことをしたことに比例せず人間に共通の
ものです。すなわち現世の境遇に悪趣を仮にでもあてはめるにしても、これは
成り立ちません。
財運なんて誰にでも水のごときもので、永遠に不動不変のはずがない。
ガンとは人体が錆び付くようなもので当たり前のことです。
おまえが老化するのはおまえの悪業ゆえにじゃなんて教えはない。
横変死だって自分が相手を他殺したら地獄の悪趣だが、単に被害者ならば
生前になした行いのみが問われ、殺されたことなどマイナス評点になりません。
等見品にはどこにも現世の悪趣なんて考えは出てきません。
老病死は悪趣なんじゃなんて主張しません。
避けることは不可能だと断言してるだけです。
- 872 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/12(日) 17:09:52
- >>868:準シュダオン12/02/12(日) 15:14:40
>だって釈尊の説く梵行は、在家仏教である阿含宗の場合、そのまま取り入れる
>ことは無理でしょう。釈尊は、在家の梵行としては、具体的には8方16法し
>か説いていないでしょう。比丘の場合は、戒律を守り清らかな生活をすること
>が功徳の種をうえることですが、在家の阿含信徒の場合は、稼がねばいけない
>のでそれは出来ない。功徳の種をうえる=梵行、の具体的な手段を変える必要が
>あるのですよ。
いいえ、仏教では在家にも戒律を課しており、比丘との違いは程度の差だけです。
だから在家には不邪淫戒を課したが、その在家の中にも不淫戒まで実行する人が
いたから彼はアナゴンにまでなったのです。
つまり梵行を実践した。
だから梵行とはあくまでも禁欲行です。
禁欲行が広施行には変わりません。
桐山さんは経典を解説する時に梵行尽きて後有を受けざるという解脱涅槃の
常套句もよく引用しますよね。それは出家のことを指したものが多いわけです。
この場合、どうして桐山さんは、この梵行尽きてというのは、君たち在家に
意味を変えて教えた積徳行ではなくて、禁欲行のことなんだよと、示しすら
しないのですか?
桐山さんは出家の禁欲行の梵行も未だ信者に教えてないのですよ。
- 873 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/12(日) 17:22:11
- >>750
阿含経講義(中)巻 174頁
ここで大切なことは、文字どおりに読むだけでは、
お釈迦さまの真意は汲み取れない、ということです。
桐山さんが自説を展開するときの「仕掛け」です。
信者さんは、たったこれだけで知性を麻痺します。
ついでに、学者の説は解説の参考であって深い意味は、
桐山グモンジ脳が必要と言われれば、我も彼もデンパの
アンテナを立て始める。
そこで桐山さんは、得意げに話し始めます。
この等見品にも、「因縁解脱の法則によって」という語句が
略されている、???。
これが認められるなら、すべてのお経が変造可能となります。
あなたの家は、柱や梁が標準より省略されていて免震対策が
必要だと、不要な改造工事を迫り不当な工事代金を要求する
業者がいました。
それがいかにも大事かのように吹聴する「口入れ屋」も存在する。
ここはやはり構造専門の建築士の見解を待つべきだが、
人間とは安易にだまされやすい生き物だとわかる。
- 874 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/12(日) 17:43:46
- >>867:準シュダオン
12/02/12(日) 15:02:17
>ガンの因縁を切ったり、財運水の因縁を切るのは、「三結断 不堕悪趣」の範疇です。
>先ず、人間界での苦しい生活状態の因縁を切るのです。不堕悪趣の状態になると、
>天上界と人間界の楽な環境の因縁になります。同じ人間界でも恵まれた状態になり
>ます。
この人間界に生まれたことを悪趣とは釈尊は扱ってません。
悪趣はこれまで、今後輪廻転生していく中で悪趣に堕ちることもあるわけです。
ならば人間界として生まれたことは、この機会を利用して、もう悪趣には堕ちない
ために仏法を修行するチャンスもあることを、今回の中巻の百槍経で説いています。
ある紳士に一日三百回槍で突かれることが百歳まで続くとしても仏法を聴聞する
ことを望むか?との問いにこの紳士は望むと答えるのです。
理由は長い地獄や餓鬼や畜生にも堕ちる永い輪廻転生を考えれば、せっかく人間界
に生まれたたった百年を苦しみを受けても、それを引き替えに仏法を聴聞できて
最高の悟りが得られるならば、喜んで受けると述べています。
つまり危惧すべき悪趣は来世の話です。
百槍経ではこう書いています。
桐山現代語訳の方を示しましょう。
「なぜならば、人間として生を受けたならば、いろいろな苦しみを受けるからです。
しかも、その苦しみはこの一生だけではなく、永く続いていくものです。
ある時は地獄に堕ち、ある時は畜生界に堕ち、ある時は餓鬼界に堕ちて、
さまざまな苦しみに遭うでしょう。それらの三悪道に堕ちたならば、多くの苦しみを
受けるだけでなく、仏法を聴聞することもできません。それに比べれば、
悟りを得るために、百年の間、毎日、槍で三百回突かれることなど、私には大きな
苦しみとは思えないからです。」
(284頁)
ほら、三悪趣とは今現世の人間界の様相とは別の、本当にそこに堕ちたら仏法すらも
聴聞できないところと指定しています。
- 875 :準シュダオン:2012/02/12(日)
18:12:45
- >この人間界に生まれたことを悪趣とは釈尊は扱ってません。
>悪趣はこれまで、今後輪廻転生していく中で悪趣に堕ちることもあるわけです。
>ならば人間界として生まれたことは、この機会を利用して、もう悪趣には堕ちない
>ために仏法を修行するチャンスもあることを、今回の中巻の百槍経で説いています。
前にもレスしてますが、大本経の一節に、「生苦厄老病死 此三悪趣」とあります
から人間界に生まれても悪趣があるのです。
そのことを頭に叩き込んでください。
- 876 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/12(日) 18:16:12
- >>875
それをまた出してくることを予想してました。
では百槍経とその大本経との矛盾を説明してください。
- 877 :準シュダオン:2012/02/12(日)
18:59:02
- >いいえ、仏教では在家にも戒律を課しており、比丘との違いは程度の差だけです。
>だから在家には不邪淫戒を課したが、その在家の中にも不淫戒まで実行する人が
>いたから彼はアナゴンにまでなったのです。
在家は五戒です。しかも初期の頃は、三戒、あるいは不飲酒を除いた四戒であった
とが中村元先生の報告にあります。つまり、禁欲という梵行とは、欲を満たしたら
絶対に解脱出来ない、というのではなく、欲を制御できないことが問題なのです。
だから、欲を制御できる人は、裕福に贅沢な暮らしをしていても、阿那含にまで、
なれたんです。欲の家来にならずに、欲を制御する、欲の主人であれば良いのです。
>つまり梵行を実践した。
>だから梵行とはあくまでも禁欲行です。
禁欲したからといって、必ずしも解脱に役立つとは言えない。頭の中が、ご馳走、
贅沢、異性、その他諸々の欲望を抱いていたのでは、禁欲していても害になる。
問題は、貪ることです、三毒が欲・瞋・痴ではなく、貪・瞋・痴、であること
の意味を理解すべきですね。
食欲の無い人や、不感症・性的不能者が解脱を約束されないのは、そのためでしょう。
>禁欲行が広施行には変わりません。
禁欲行=梵行、というのは、功徳を積む行なのです。つまり、解脱へ向かう、その
行によって、解脱に向かう身につく特性のことです。
「解脱へ進む特性のことを」=功徳、というのです。だから、禁欲も功徳を積む
行なのです。
>禁欲行が広施行には変りません
と、いえども、梵行を解脱へ至る行いと解釈すれば、広義に捉えたら広施も明らかに
梵行になるのです。つまり、ユビさん方の梵行の意味の解釈は浅く狭く、管長の解釈
は、本質を捉えて深く広く、解釈しているのです。
辞典とか、学者が唱えてる梵行の意味など、私でも承知している。
まして、管長の説く梵行は、学者がいう梵行を百も承知二百も合点の上での話なのです。
- 878 :準シュダオン:2012/02/12(日)
19:18:38
- >人間として生きていく中で四苦八苦に悩むことを悪趣なんて言いません。
「生苦厄老病死 此三悪趣」という釈尊の言葉で、四苦八苦の酷い状態を悪趣と
言うことが解るでしょう。
>逆に四苦八苦がなくなり、もうやることなすこと無制限で全く自由なんてことを
>求めるのが不当な見当違いな欲望、煩悩と言えます。
>地獄という悪趣に堕ちるのは生前悪い心で悪い行いをしたからです。
生前悪い行いをしたといいますが、あなたは今、悪いことをしてるか善いことを
してるか解りますか?阿含宗で修行したり、退会して悪口をレスしたり、どちら
が善悪の行為なのでしょう?原発の推進派と脱原発派、どちらが悪業ですか?
成田空港の賛成派と反対派、争いましたがどちらが善ですか?
無実の人を有罪にする正義感に満ちた検察官も居れば、罪を犯した犯人を無罪に
する弁護士事務所もある。どちらも正義と信じて、罪を犯してる。
こういう場合の、罪障は、どのようにして消したらよいのか?
消す方法はないのか?それが問題なのです。善と信じて、結果が悪を犯す者、
それが人間です。簡単に、生前に悪を犯した、とは言えないのです。
- 879 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/12(日) 20:09:27
- >>877:準シュダオン12/02/12(日) 18:59:02
>在家は五戒です。しかも初期の頃は、三戒、あるいは不飲酒を除いた四戒であった
>とが中村元先生の報告にあります。つまり、禁欲という梵行とは、欲を満たしたら
>絶対に解脱出来ない、というのではなく、欲を制御できないことが問題なのです。
>だから、欲を制御できる人は、裕福に贅沢な暮らしをしていても、阿那含にまで、
>なれたんです。欲の家来にならずに、欲を制御する、欲の主人であれば良いのです。
当初三戒だったのがなぜ五戒にまで増えたのかわかりますか?
誰が増やしたのですか?
他ならぬ釈尊です。
出家の二百五十戒も釈尊の制定したものです。
最後には些細なものは協議の上減らしてよいと遺言を残したが、当初少なかった戒律を
増やしていったのが釈尊なんです。
釈尊の時代に減らすことはなく自らどんどん増やしていった。
必要だったからです。当初の少ない戒律ではダメだから増やしたのです。
あなたの言うような欲望が制御できていれば規制など厳しくなくてもいいのだ
なんて寝ぼけた頭でっかちの理想論ではダメだから厳しく定めたのですよ。
欲望が制御できているとは戒律が守られているということです。
- 880 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/12(日) 20:22:07
- >>878:準シュダオン12/02/12(日) 19:18:38
>生前悪い行いをしたといいますが、あなたは今、悪いことをしてるか善いことを
>してるか解りますか?阿含宗で修行したり、退会して悪口をレスしたり、どちら
>が善悪の行為なのでしょう?原発の推進派と脱原発派、どちらが悪業ですか?
その回答が欲しくば、中巻に掲載されている堕胎経を読みなさい。
悪業をなした者が地獄に堕ちて尚且つその余罪を受けて肉段となって苦しんでいる
のが描かれている。
堕胎というのも微妙ですよね。
一概に悪と決めつけるには可哀想にも思う。
しかし経典はこれを悪業として、地獄まで描いている。
人間が協議して決めるものではない悪業というものが、その報いとして厳然として
あることを説いています。
>こういう場合の、罪障は、どのようにして消したらよいのか?
>消す方法はないのか?それが問題なのです。善と信じて、結果が悪を犯す者、
>それが人間です。簡単に、生前に悪を犯した、とは言えないのです。
堕胎経や好戦経などを読むかぎり消す方法など説いていません。
目連も釈尊も苦しむ肉段をただ見たというだけで、ずっと放置です。
ただああなる前に、くれぐれも今から悪業をなしてはならないと教えるのみです。
- 881 :準シュダオン:2012/02/13(月)
09:22:27
- >堕胎経や好戦経などを読むかぎり消す方法など説いていません。
消す方法を説いてはいないが、消す方法がないからとは断定できない。
>目連も釈尊も苦しむ肉段をただ見たというだけで、ずっと放置です。
放置する以前に、そもそも釈尊はそういう幽霊の話はしなかった。握り拳はない、
といいながら、不思議な話は極力控えたのです。なぜかというと、釈尊の言うこと
を信じないものは地獄に落ちるからです。不思議な話を訊いて、信じない弟子が
地獄に落ちるのを哀れんで、そういうことがないように、話を控えたのです。
>ただああなる前に、くれぐれも今から悪業をなしてはならないと教えるのみです。
それもあるが、悪業をなして今受けている苦悩(○○の因縁)から逃れる道も教え
ているのです。
- 882 :準シュダオン:2012/02/13(月)
09:32:27
- >堕胎というのも微妙ですよね。
>一概に悪と決めつけるには可哀想にも思う。
>しかし経典はこれを悪業として、地獄まで描いている。
>人間が協議して決めるものではない悪業というものが、その報いとして厳然として
だから前から、罪業を犯したのだからその報いを避けるべきではない、とは
言えないとレスしてるでしょう。何が罪業なのか、簡単には解らないのです。
例えば、日本人は鯨を食べました。あれだって、時代が経てばすごい罪業なの
かも知れないよ。鯨取る人も会社もそこで働く人も、食べた人も、罪人かも。
将来は鯨食べたら懲役何年、とかの法律が出来るかもしれない。
- 883 :準シュダオン:2012/02/13(月)
09:43:56
- >あなたの言うような欲望が制御できていれば規制など厳しくなくてもいいのだ
>なんて寝ぼけた頭でっかちの理想論ではダメだから厳しく定めたのですよ。
>欲望が制御できているとは戒律が守られているということです。
ここが、見解の分かれるところですね。南伝上座仏教は、日本などより厳しく
戒律を守っています。その割には仏陀が誕生したとは聞かない。ユビさんのよ
うに厳格に考えたら効果が大きいとも限らないね。
私などの、欲に対する寝ぼけた理想論でも、仏法の功徳を得てるよ。
そして、なんでユビさんや深山さんやラシンさんやBOOさんが功徳を得られな
かったのか、その理由も解るよ。すでにレスして指摘してるけどね。
- 884 :Boo:2012/02/13(月)
09:46:42
- 笑いどころ3です
>>866 名前:準シュダオン 投稿日: 2012/02/12(日)
14:44:39
>>笑いどころ2です
>
>あんたらこそ、お笑いの種ですw。四双八輩の基本を理解した人達に笑われてるん
>だよ。批判派でも四双八輩を理解した人は、恥じ入るばかりでしょうねw。
私・・・恥じ入らなければならないのね?
- 885 :Boo:2012/02/13(月)
10:00:01
- >そして、なんでユビさんや深山さんやラシンさんやBOOさんが功徳を得られな
>かったのか、その理由も解るよ。
この人ほんとにおバカな人ですね。
アゴン宗で功徳なんか得られないという議論で始まったようなスレの趣旨がわかっていない。
準シュダオンさんが得られた功徳って何か?アゴン宗的表現をするならば、脳障害の因縁
垂れ流しデンパ御霊示と、脳障害の因縁垂れ流し脳梗塞の兆候でしょう。
あなたの症状を脳外科または精神科に行って診断してもらえばちゃんと病名つけて
くれますよ。悪いことは言わないから、早めに言ったほうがよい。
アゴン宗の罪の深さは、あなたのような病人の症状を悪化させるような指導をしたり、
または明らかに病的状態を呈している人を―御霊示だなどと吹聴して止まない輩―病院に
行くように指導しないでいることです。
- 886 :深山:2012/02/13(月)
13:06:49
- >>883 :準シュダオン:2012/02/13(月)
09:43:56
御立派なお説教をする準シュダオンさんは星まつりに行ったのでしょうね。
読んでいる信者さんたちが迷わないように書いているのでしょう?
星まつりの会場はどんな様子でしたか。
私がこれを質問するのは、あなたが星まつりに行ったことを疑っているからです。
11日などにはあなたは書き込みをしなかった。
それって、いかにも星まつりを参拝したかのように見せかけるための
ポーズではないかと私は疑っている。
なぜなら、本当に星まつりに行ったのなら、その話が出てもいいはずなのに、
何もなく、いきなり恒例の前の話のくり返しを始めた。
仕事もないはずのあなたは日帰りでいくらでも京都まで往復できた。
本当に信仰心があるなら、そうしたはずです。
でも、あなたには実はそんな信仰心などない。
だから、今は護摩木もろくに書いていない。
そんなあなたが何を書いても、信者は読んで、迷うだけです。
- 887 :準シュダオン:2012/02/13(月)
15:35:57
- >
>>あんたらこそ、お笑いの種ですw。四双八輩の基本を理解した人達に笑われてるん
>>だよ。批判派でも四双八輩を理解した人は、恥じ入るばかりでしょうねw。
>私・・・恥じ入らなければならないのね?
当たり前でしょうが。あんた、阿含経読んだことあんのかい?「三結断得須陀オン」
という記述は沢山あるけど、得須陀オン向というんは、ほとんど見たことないよ。
見たのは帝釈の「我仏弟子得須陀オン道」の一つだけよ。預流向が聖者の第一の位
なら、頻繁に「得須陀オン向」という語が出てこないと変でしょう。なにしろ、
一番大事なとこでしょ、聖者の第一歩なのだから。なのにそれが見当たらない。
当然だよ、サンガ・教団を四双八輩に区分したのだからね。
釈尊は、「私の「サンガ=教団=四双八輩」は聖衆であり福田である」と、
述べているのです。だからといって、弟子全員が聖者であろうはずがないでしょ。
- 888 :準シュダオン:2012/02/13(月)
15:44:20
- >あなたの症状を脳外科または精神科に行って診断してもらえばちゃんと病名つけて
>くれますよ。悪いことは言わないから、早めに言ったほうがよい。
>アゴン宗の罪の深さは、あなたのような病人の症状を悪化させるような指導をしたり、
>または明らかに病的状態を呈している人を―御霊示だなどと吹聴して止まない輩―病院に
>行くように指導しないでいることです。
まぁ、あんたら落ちこぼれた批判派は、そういう↑しかないのだろうけど、
私は病人じゃないから心配いらないよw。第一、病人ならこんなにレスができる
はずもないでしょw。そういう推理も出来ないあんたの頭こそ、心配しな。
それにね、私は霊示の話とか、聖なるバイブとかレスしたが、ほんの一部しか
明かしていないのですよ。脳梗塞の心配をする人が多くなるからねw。
- 889 :準シュダオン:2012/02/13(月)
15:51:26
- >それをまた出してくることを予想してました。
>では百槍経とその大本経との矛盾を説明してください。
特に矛盾してるとは思いませんよ。槍で突かれるなんぞ、ただの1回でも
やなこってす。が、輪廻を断たないと、槍で突かれる以上の苦を受けますよ、
という教えでしょう。
- 890 :準シュダオン:2012/02/13(月)
16:10:32
- >この人ほんとにおバカな人ですね。
>アゴン宗で功徳なんか得られないという議論で始まったようなスレの趣旨がわかっていない。
>準シュダオンさんが得られた功徳って何か?アゴン宗的表現をするならば、脳障害の因縁
>垂れ流しデンパ御霊示と、脳障害の因縁垂れ流し脳梗塞の兆候でしょう。
若造のくせに失礼なレス↑してるでしょう。今まで何を修行してたのか?
大馬鹿になる修行か?どうもそうらしい。こういう我欲信仰しても功徳は得られ
ないのです。いくら護摩木を多く勧進したとしても、功徳は得られないでしょう。
というより、こういう人は勧進できない。だから自分で書くくらいでしょう。
管長の教えを自分勝手に聴いてるから、そうなるのです。
修行の第一歩は、自分が預流向であることを自覚して、我見を無くす修行を
することです。それを忘れたんでは、何しても無駄でしょうね。
我見を無くす修行が第一歩だとは、「教えを説く」本上巻にも書いてますし、
輪廻する葦・本にも書かれています。
それに私のレスを読んでいないのでしょうか。功徳の話に気づけていないね。
私は入行時は六方塞がりであった。それが今は四方塞がりか、三方塞がりに
なった、とレスしてます。ということは、2〜3方が開けた、ということです。
それを功徳というのですよ。解ったかな?現役信者なら解るでしょうね。
- 891 :準シュダオン:2012/02/13(月)
16:15:38
- >御立派なお説教をする準シュダオンさんは星まつりに行ったのでしょうね。
>読んでいる信者さんたちが迷わないように書いているのでしょう?
>星まつりの会場はどんな様子でしたか。
こういう個人情報に近いことを明かすのは、今や危険に成りつつあるから明か
せないね。ただし、管長の秘密九字は力強くて、まだまだお元気ですね。
映像で観たか、じかに観たかは明かせない。
- 892 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/13(月) 16:30:53
- >当たり前でしょうが。あんた、阿含経読んだことあんのかい?「三結断得須陀オン」
という記述は沢山あるけど、得須陀オン向というんは、ほとんど見たことないよ。
見たのは帝釈の「我仏弟子得須陀オン道」の一つだけよ。預流向が聖者の第一の位
なら、頻繁に「得須陀オン向」という語が出てこないと変でしょう。
得須陀オン向なんて表現は、意味を考えればあるわけがないです。
「大正新脩大蔵経」SATより検索すれば、
向須陀?〜得阿羅漢四雙八輩(賢聖)という経文は、
長阿含経遊行経、小縁経や雜阿含経らに(四)経みられ、
向須陀?〜得阿羅漢だけなら、中阿含未曾有法品などや雑阿含経
第二十など(六)経、増一阿含経には(九)経ほどあります。
常識では、これを「ほとんど見たことない」と言える数ではない。
今回の星まつりでも、
桐山さんは、老体にムチを打たれ、ヨボヨボと登場した。
桐山さんは、九字を切る際も、支えがなければ倒れそうでした。
これを元気と見るか、弱々しい病人のように取るかは、
現実を確認できる常識を持ち合わせているか否か、を問われます。
- 893 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/13(月) 17:38:59
今年の星まつりの参拝人数は、いつ発表されるのか。
昔、50万人発表に対し目撃談によればバス8台だったと、
古い掲示にありました。
推定4800人、うそ八百まではいかなかったようです。
今年も聖火が、不幸や不運を焼き尽くし福を招くそうです。
ヨレヨレの桐山さんが、愛人に訴えられたカルマを以って
焚くおゴマを、聖火と受け取る信者さんの神経は不気味です。
それも東日本大震災の犠牲者を人質にして、
ゴマ木勧進したものを焼いて聖火だとするのは、偽善です。
自己満足を達成するためには、震災の犠牲者もダシに使う。
仮に3000万本達成なら、30億円ですがそのお金はどこへ行く?
現実にどれほどの社会貢献がされたのか、信者さんは気にならない。
- 894 :Boo:2012/02/13(月)
19:08:18
- 納税義務のない30億円は使い応え有るだろーなー。ろくな人件費も使ってないだろうし。
現地参拝しないでろくに護摩木も勧進しない準シュダオンさんがいくらほざいても
アゴン宗の本尊と導師は所詮金額と労力の順番に応えるのが現状だのに。
- 895 :準シュダオン:2012/02/13(月)
19:49:13
- >得須陀オン向なんて表現は、意味を考えればあるわけがないです。
>「大正新脩大蔵経」SATより検索すれば、
>向須陀?〜得阿羅漢四雙八輩(賢聖)という経文は、
>長阿含経遊行経、小縁経や雜阿含経らに(四)経みられ、
>向須陀?〜得阿羅漢だけなら、中阿含未曾有法品などや雑阿含経
だから、須陀オン向が聖者だとしたら、それがおかしいことに気づきませんんか?
というのよ。向須陀オン=須陀オン向、だということが解りますか?
ならば、須陀オン向が聖者だと仮定すれば、向須陀オン向、も出て来ないと変な
のですよ。
須陀オンのオンの漢字が出ないんで、預流向という語で説明します。
預流向を第一の聖者だと仮定すれば、凡夫僧は預流向を目指すわけだから、
凡夫僧=「向預流向」であるわけでしょ。だが、そういう語は経典にない。
預流向=凡夫僧だからです。
ラシンさんは、このことを理解出来るまで、静かに瞑想していなさいw。
>第二十など(六)経、増一阿含経には(九)経ほどあります。
- 896 :akb55:2012/02/13(月)
20:42:32
- アウフヘーベンした梵行をした結果、桐山ゲイカは我々に教えてくれた
【密教占星術奥伝=パクリの九星術中伝】ではなく、握り拳の密教占星術超奥伝?
で見て無かったはずの脳障害の因縁(阿鼻惹星)が新たに発生して脳梗塞になった
という現実を見ると阿含宗の梵行とは・・・実は悪業ではないのか。
少なくとも因縁解脱は出来ていないよね。準シュダオンさんどうですか?
- 897 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/13(月) 21:13:17
- >>891:準シュダオン12/02/13(月) 16:15:38
>こういう個人情報に近いことを明かすのは、今や危険に成りつつあるから明か
>せないね。
んなわけねーだろがw
当日会場に何十万人の参拝者がいたと思うんだ?
何万人だろうが、その中から準爺など特定できるわけがない。
普段から顔を出さない超無名信者が。
お役は何だったんですか?どの辺にいらしたんですか?なんて質問ですらない。
俺は修行で参加はあり得ないに100万円賭けてもいい。
ただ賭けが成立しないだけでw
>ただし、管長の秘密九字は力強くて、まだまだお元気ですね。
後ろと脇で支えられて、それでも前のめりで危なかったけどな。
>映像で観たか、じかに観たかは明かせない。
まあこれ読んだだけでほぼ修行参加でないとわかるが、どっちでもいいんだよ。
ところで質問するが、東北では岩手放送と福島テレビが放映したようだが、
どうして宮城で放送しないのだ?
阿藤快さんがわざわざ気仙沼南町商店街を訪問レポートしたのに、届かないだろが?
- 898 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/13(月) 21:23:18
- >>881:準シュダオン12/02/13(月) 09:22:27
>放置する以前に、そもそも釈尊はそういう幽霊の話はしなかった。握り拳はない、
>といいながら、不思議な話は極力控えたのです。なぜかというと、釈尊の言うこと
>を信じないものは地獄に落ちるからです。不思議な話を訊いて、信じない弟子が
>地獄に落ちるのを哀れんで、そういうことがないように、話を控えたのです。
しかしそれだとまずいだろ?桐山さんがです。
このもがき苦しむ霊みたいなものを目連も放置して帰り、報告すると、
釈尊も「我もまたこれを見る」とだけ話して放置です。前から見ておきながら
救うこともしなかったわけで、目連から報告あっても救おうともしません。
「説かざるなり」と明言している。
つまり普段からこの不成仏霊みたいのを目撃しながら説かないでいるわけです。
それだとこの霊障は誰が解脱成仏させるのだ?
あれだけ苦しみもがいているのだから、本人が望まなくても知らないうちに
子孫縁者からはては地域社会まで暗い霊障を発して悪影響を与えて悪因縁の元に
なり、壊滅のカルマとなる。
シャカの成仏法で解脱成仏させねば周囲が迷惑なのだ。
因縁解脱できないのだ。
これを見てるだけで説かないでいるということは桐山霊障なんて嘘だと言ってる
ようなものではないか?
- 899 :名無しさん:2012/02/13(月)
21:37:16
- >>881:準シュダオン12/02/13(月) 09:22:27
>それもあるが、悪業をなして今受けている苦悩(○○の因縁)から逃れる道も教え
>ているのです。
どこに?示してみろよ。
- 900 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/13(月) 21:38:53
- おっと、すみません。
>>899はユビキタスの投稿でした。
- 901 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/13(月) 22:06:06
- >>882:準シュダオン12/02/13(月) 09:32:27
>だから前から、罪業を犯したのだからその報いを避けるべきではない、とは
>言えないとレスしてるでしょう。何が罪業なのか、簡単には解らないのです。
話をごまかそうとしても駄目です。
悪業の報いというものが厳然としてあり、それは協議裁判によって決まるものではない。
地獄に堕ちるか否かは決められてしまうのです。
決められてしまうべき悪い行いというものが定められている。問答無用です。
堕胎について微妙だと書いたのはたとえばここに何の罪もない可憐な女子中学生が
部活の帰りに夜道を歩いていたら、変質強姦魔ユビパッチンに襲われ陵辱された。
ユビパッチンはやり逃げで逃走、女子中学生は身ごもってしまった。
この女子中学生は子どもを責任を持って産むべきか?
とても産んで育てることはできないから人工中絶する。
この女は死後地獄に堕ちるか?変態ユビパッチンは地獄→肉団の運命でしょう。
しかし被害者である女子中学生は地獄には堕ちないと信じたい。
そこまではわからないけど、とにかく命を
殺めたら地獄行きという報いを受ける
というルールはあなたが決めるのではなく、あなたを超えて決まっているのだ。
- 902 :Boo:2012/02/13(月)
22:18:28
- >>890 :準シュダオン:2012/02/13(月) 16:10:32
>それに私のレスを読んでいないのでしょうか。功徳の話に気づけていないね。
>私は入行時は六方塞がりであった。それが今は四方塞がりか、三方塞がりに
>なった、とレスしてます。ということは、2〜3方が開けた、ということです。
>それを功徳というのですよ。解ったかな?現役信者なら解るでしょうね。
どうです。この身勝手な言い草。自分は深山さん、ラシンさんのレスをつまみ食い
みたいな読み方しかしない癖に、他人には自分のレスを読んで当然という言い方です。
何が功徳よ?功徳のおかげで脳障害になったンか?
- 903 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/13(月) 23:14:15
- >>883:準シュダオン12/02/13(月) 09:43:56
>ここが、見解の分かれるところですね。南伝上座仏教は、日本などより厳しく
>戒律を守っています。その割には仏陀が誕生したとは聞かない。
では質問します。
仏陀とはどういう人なんでしょうか?
仏陀が現代にいたとて何を指標に彼は仏陀だと評価認定するのでしょうか?
サイババみたいに手から砂を出す人でしょうか?
マスコミに出て宣伝する人でしょうか?
桐山さんみたいな焚き火パフォーマンスをする人でしょうか?
病気を治す人でしょうか?
釈尊在世の頃、弟子のサーリプッタが釈尊の代わりに教えを説くことが許されていた。
サーリプッタの説いた経典まである。
その頃はサーリプッタの方が目立っていたので、サーリプッタの方が教団の長だと
思われていたようです。
仏陀釈尊は極めて静かにしていらしたから。
だから悟りなんてのは内面世界のことなんだから外面にはわかりません。
死んでもう輪廻しないったって、それを確認するすべもない。
ただ明らかに仏陀でないって奴はわかりますよ。
どこかの国の愛人のいる、いたブッダとか。ブタかな?
- 904 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/13(月) 23:28:52
- >>889:準シュダオン12/02/13(月) 15:51:26
>特に矛盾してるとは思いませんよ。槍で突かれるなんぞ、ただの1回でも
>やなこってす。が、輪廻を断たないと、槍で突かれる以上の苦を受けますよ、
>という教えでしょう。
私が言う矛盾が何を指すのかわかってないようですね。
百槍経では槍に刺されてでも仏法を聴聞したいという話よりも、今こうして人間界に
人間として生まれてきて仏法を聴聞するチャンスもあるけど、人間界ではない
地獄界、餓鬼界、畜生界に生まれていたら仏法を聴聞することさえ能わじと
書いてあることです。
つまり地獄、餓鬼、畜生の三悪趣とは現世において苦しむことではなく
他生において苦しむ話だとわかるということです。
- 905 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/14(火) 00:06:40
- >>889:準シュダオン12/02/13(月) 15:51:26
>>890:準シュダオン12/02/13(月) 16:10:32
>若造のくせに失礼なレス↑してるでしょう。今まで何を修行してたのか?
私も汚い言葉で相手に語りかけることはあるので他人のことは言えないが、
今回はBooさんの突っ込み方もたしかに感心できるものではありません。
もちろん準シュダオンだって批判側に対して昔から相当失礼なことを書いているのだが、
それはさておき今回あなたは失礼なと返す権利はあります。
しかし若造うんぬんは書かない方がいいですよ。
掲示板での交流とか匿名での議論と言うのは、年齢差とかを敢えて考慮に
入れないで遠慮容赦なくやるのがよいのです。
だから私も年長の人にも容赦しない代わりに明らかに年少の人にも敬意を払って
対等に接します。
他スレでは中学生とも交流したことあるが、基本はそれでも対等です。
逆に若者と対等に交流させていただくことは喜びでもありますね。
そのためには自分がたまたま年長であることを嵩に着ないことです。
Booさんは中年でお子さんもいるが、たしかにあなたより年少であり、私もそうです。
しかし若造を舐めない方がいいですよ。
能力も人格も単に年齢に比例しません。常にその人次第です。
つまりあなたより能力があり人格も優れ、礼儀も常識もわきまえる若造は多い。
これは私が世間を見ていても身勝手な年長者が目に付くのです。公衆道徳すら知らない。
あなたは社会人時代その若造からも邪険に扱われたのではないですか?
もちろん若造ゆえに黙って遠慮してる人もいるが、課長クラスにある程度ポジションを
持って、物事をはっきり言える人は、あなたの無能だけでなく、その無自覚な
態度等をかなりの皮肉をこめてあなたをなじったことが推察される。
だからあなたは若造に滅茶苦茶言われて真冬に頭から冷水をかぶりたいくらいに
人間関係に悩み苦しんだ。
しかしそれは若造が悪いのではない。
あなたの無自覚が問題だったのです。
- 906 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/14(火) 00:22:05
- >>890:準シュダオン12/02/13(月) 16:10:32
>それに私のレスを読んでいないのでしょうか。功徳の話に気づけていないね。
>私は入行時は六方塞がりであった。それが今は四方塞がりか、三方塞がりに
>なった、とレスしてます。ということは、2〜3方が開けた、ということです。
>それを功徳というのですよ。解ったかな?現役信者なら解るでしょうね。
もちろんわかりません。
八方塞がりでも六方塞がりでもよいが、それだけでは具体的になーーーんにも
見えてこないからです。
それでは具体的に示してみせよと言えば、あなたは必ず個人情報だとか言って
絶対に示しませんよね?
いいですよ。具体的に示さなくても。
その代わりあなたの主張に何の説得力も無いというだけです。
六方塞がりが二方塞がりにまで緩和したのだぞ?
わからん、わからん、はい、さようなら
と言うわけで、具体的に示す準備のないものは曖昧に示すだけ、それは恥ずかしい話と
学習した方がよいですね。
- 907 :準シュダオン:2012/02/14(火)
09:10:45
- もちろんわかりません。
>八方塞がりでも六方塞がりでもよいが、それだけでは具体的になーーーんにも
>見えてこないからです。
>それでは具体的に示してみせよと言えば、あなたは必ず個人情報だとか言って
>絶対に示しませんよね?
批判派お得意の推測をすればいいじゃない?無神論者の私が追い詰められて入行
するくらいだから、かなりのお先真っ暗状態だったんです。
今でさえ、かなり身元を絞られるというか、危険な気配を感じることがある。
で、具体的な例は出せないね。
- 908 :準シュダオン:2012/02/14(火)
09:26:58
- >他スレでは中学生とも交流したことあるが、基本はそれでも対等です。
>逆に若者と対等に交流させていただくことは喜びでもありますね。
>そのためには自分がたまたま年長であることを嵩に着ないことです。
>Booさんは中年でお子さんもいるが、たしかにあなたより年少であり、私もそうです。
>しかし若造を舐めない方がいいですよ。
>能力も人格も単に年齢に比例しません。常にその人次第です。
>つまりあなたより能力があり人格も優れ、礼儀も常識もわきまえる若造は多い。
基本的にはユビさんの言うとおりであり、異論はないです。だが、わたしより能力・
人格に優れ、礼儀も常識もわきまえた若者には、私が若造と呼ぶことはないね。
>これは私が世間を見ていても身勝手な年長者が目に付くのです。公衆道徳すら知らない。
>あなたは社会人時代その若造からも邪険に扱われたのではないですか?
私は、今も社会人であり、仕事も現役です、かなり自由も多くなったですが。
で、社会において、年少者から邪険にされた経験は、ほとんどありません。
で、事の善悪は解らぬが、私の年代は先輩・後輩のけじめにうるさい時代でね、
例え、愚かな先輩にでも敬意を払うように指導されてね、習慣化してたね。
だから、明らかに年齢差が解った上で、罵倒されると、いささか呆れるわけだね。
まぁ、そういうことに馴れていない年代だからね。
- 909 :準シュダオン:2012/02/14(火)
09:48:17
- >百槍経では槍に刺されてでも仏法を聴聞したいという話よりも、今こうして人間界に
>人間として生まれてきて仏法を聴聞するチャンスもあるけど、人間界ではない
>地獄界、餓鬼界、畜生界に生まれていたら仏法を聴聞することさえ能わじと
>書いてあることです。
でもね、地獄に生まれても、責め苦を受けて、業が尽きると他へ転生すると
説かれていますよ。
>つまり地獄、餓鬼、畜生の三悪趣とは現世において苦しむことではなく
>他生において苦しむ話だとわかるということです。
辞典や経では、現世において苦しむことも悪趣と呼ぶ場合があると書いてます。
例えば、管長は首を吊ろうと、縄を掛ける場所を探して、経典を見つけた。
縄を掛ける場所を探していた状況は、言わば地獄界でしょう。
で、経典を見つけて興味が湧き、首など吊ってる場合じゃない、と考えた。
経典を読んでからは、人間界に戻ったわけだと、思います。
私の入行時は、お先真っ暗の六方塞がりの地獄界でした。
それが、少しずつ改善されて、今は人間界に居ると感じています。
批判派は、それは私の努力の成果であり、阿含宗の成果ではない、と言います。
そうかも知れないし、そうでないかも知れない。
第三者がどういおうと自由ですが、私は、阿含宗の成果だと思ってるわけです。
- 910 :準シュダオン:2012/02/14(火)
09:55:55
- >まあこれ読んだだけでほぼ修行参加でないとわかるが、どっちでもいいんだよ。
>ところで質問するが、東北では岩手放送と福島テレビが放映したようだが、
>どうして宮城で放送しないのだ?
>阿藤快さんがわざわざ気仙沼南町商店街を訪問レポートしたのに、届かないだろが?
私が全国の中の誰かなら、護摩木勧進本数や星祭りに行ったか行かないか、など
明かしますよ。しかし、天照さんが以前、地域を絞るなど、余計なことをしたで
しょ。あれで相当、情報を出しにくくなってるのです。
まぁ、そういうことで個人情報は極力出しません。
- 911 :準シュダオン:2012/02/14(火)
10:06:25
- >「説かざるなり」と明言している。
>つまり普段からこの不成仏霊みたいのを目撃しながら説かないでいるわけです。
>それだとこの霊障は誰が解脱成仏させるのだ?
釈尊当時、不成仏霊も多すぎて、手が付けられなかったのじゃないのですか?
現実にも、貧困者が多かったりして、それも救えない。
でも、未来には、いずれ管長みたいな人が現われて、先祖供養など説くであろう
と見通して、ご自身は阿羅漢道を説くことに専念したのです。
- 912 :準シュダオン:2012/02/14(火)
10:15:06
- >この女は死後地獄に堕ちるか?変態ユビパッチンは地獄→肉団の運命でしょう。
>しかし被害者である女子中学生は地獄には堕ちないと信じたい。
>そこまではわからないけど、とにかく命を
殺めたら地獄行きという報いを受ける
>というルールはあなたが決めるのではなく、あなたを超えて決まっているのだ。
だから私もそうレスしてるでしょう。罪業というのは人智を超えてると。
何が善で何が悪かも簡単には解らない、と、例えば鯨肉食うとか。
だから、今、過去の業により、苦を受けていたとしても、それから逃れる道は
必要なのだ、と言うのです。それと知らずに悪業を犯してる可能性大、なのですから。
- 913 :準シュダオン:2012/02/14(火)
10:20:14
- >何が功徳よ?功徳のおかげで脳障害になったンか?
ほらね、BOOくんは、こんなレス↑連発してる。こういう明らかに人格が劣ってる
若者だけに、私は若造というのです。BOOくんは脳障害の子どもでも居るんかい?
やけに脳障害に拘るじゃないか。
- 914 :準シュダオン:2012/02/14(火)
10:21:55
- >何が功徳よ?功徳のおかげで脳障害になったンか?
ほらね、BOOくんは、こんなレス↑連発してる。こういう明らかに人格が劣ってる
若者だけに、私は若造というのです。BOOくんは脳障害の子どもでも居るんかい?
それを悩んで入行したとか。やけに脳障害に拘るじゃないか。
- 915 :Boo:2012/02/14(火)
11:26:16
- >914 :準シュダオン:2012/02/14(火) 10:21:55
>>何が功徳よ?功徳のおかげで脳障害になったンか?
>
>ほらね、BOOくんは、こんなレス↑連発してる。こういう明らかに人格が劣ってる
>若者だけに、私は若造というのです。BOOくんは脳障害の子どもでも居るんかい?
>それを悩んで入行したとか。やけに脳障害に拘るじゃないか。
ふふふ、家族のことまで言うとはこの人救いようがないね。まあいいや。
ユビキタスさんに窘められたことだし。
冷静な態度でお返ししますとね、ゲイカの様々な症状を深山さんが分析したこと
があります。それによると、白銀のバイブレーションは脳梗塞にみられる所見
と近いものがあるんだそうです。
で、準シュダオンさんの御霊示やブッダのバイブや「若造!」などとすぐにかっとなる
性情。また、自分のレスを読み飛ばしたら「過去にこう書いていたのを読んでいないのか?」
などいう割には深山さんやラシンさんのレスはちら見でレスして、長文だから悪いんだ
的な身勝手な心情などから分析したものです。
しかしながら私の分析にも欠陥はあります。そもそも「○○の因縁」などありもしない
ものを前提として、準シュダオンさんを分析していることで、誹謗中傷ではないか、
と言われても否定できないのです。
脳障害の因縁の子供がいるから拘っているわけではないが、しかしながら、私の記述は
脳障害の因縁(そもそもそんなものはないのだが)の脅迫に苦しむ方の心情を思うと
軽率であったことを素直に認め反省しているところです。
- 916 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/14(火) 11:48:24
- >釈尊当時、不成仏霊も多すぎて、手が付けられなかったのじゃないのですか?
「水子の供養だけをやればそれでいい」というのは間違いです。
罪障を消滅させない限り、水子は浮かばれても、罪障を犯した親たちは
”霊障のホトケ”になります。(阿含経講義中巻266頁)
経典には、「水子の供養」も「霊障のホトケ」も説かれていない。
またこのような脅しなどありません。
あるのは堕胎した業果だけです。
釈尊は善因善果と悪因悪果という定まってある法の業果を説いた。
釈尊が覚者とか悟りを得たといわれるのは、その法を自覚したのであり、
釈尊がその法を定めたのではない、と理解できます。
こういう仏教の当たり前を無視すると、
桐山さんのように、自説で仏教を簡単にゆがめてしまう。
- 917 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/14(火) 11:49:47
- >でも、未来には、いずれ管長みたいな人が現われて、先祖供養など説くであろう
と見通して、ご自身は阿羅漢道を説くことに専念したのです。
>>869で示すとおり漢訳四阿含経は、釈尊の思想を反映しても、
釈尊の金口の直説ではないと分かります。
伝承を文字化したのも、部派仏教によるといわれる。
その経緯で多分にアビダルマ論が経典に挿入されている。
批判の意見は、経典の形式や表現がその手法にあると自覚し、
なるべくアビダルマ論的解釈を論拠とすることを避けている。
- 918 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/14(火) 11:53:45
- >でも、未来には、いずれ管長みたいな人が現われて、先祖供養など説くであろう
と見通して、ご自身は阿羅漢道を説くことに専念したのです。
仏教は明治以前までは仏教とは言わず、各宗門を名乗っていたのは、
大乗下のそれぞれの勝手な解釈の氾濫をまねいたことで分かる。
桐山さんが、それを一応ながら釈迦の直説を前提に阿含経を掲げ、
大乗を否定したのであれば、経典の解釈をゆがめてよいことには、
ならない。
まして経典に説かれてもいないことをあるかのように偽装する。
これはもはや、経典から逸脱した別の思想と見られて当然です。
経典にない定義ならそれは、道を外れた教えです。
もともと釈尊は、教義を作って説いたのではなく、
無作者の法を悟り、その法を説いたのですから、
桐山さんの手法は、アビダンマを倣ってもさらに外れて悪辣です。
- 919 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/14(火) 12:19:19
- >>914:準シュダオン12/02/14(火) 10:21:55
>若者だけに、私は若造というのです。BOOくんは脳障害の子どもでも居るんかい?
>それを悩んで入行したとか。やけに脳障害に拘るじゃないか。
なんでこういう必要のないことまで書かないと気が済まないのでしょうかねえ?
私がBooさんのお子さんのことを書いたのは、批判側vs擁護側で対立していた頃から
長い付き合いで、彼は息子さんを連れて映画にも行く子煩悩のよいお父さんである
ことを対立している時代から認めていたわけで、それを紹介したわけなんですが、
こんなことに使われるとは・・・。
こちらが準シュダオンさんの脳のことをあれこれ言うのは、決して悪口ではなく、
たとえば霊示だのバイブレーションだのは、脳梗塞の軽い発作、前兆として
説明できるから医師に診断してもらった方がよいと書いています。
また物覚えが悪く、自分が書いたことも忘れ、同じことを何度もくどくどと
繰り返すのは脳の老化の原因もあろうと推察指摘しており、極めて真面目な話であり
こちらなりの観察根拠を基にしています。
それでもあなたにしては指摘されて不愉快であろうことは想像に難くない。
しかし悪口の応酬であってはならないが、仮に悪口の応酬であってすら
それは我々参加者のあいだだけでやるべきであり、ここに他人のお子さんを
不当に辱めるようなことは厳に慎むべきとは思わないか?
Booさんはあなたを脳障害の因縁と呼んだことに対して、本当に障害をもつ方々に
申し訳ないと、反省し、お詫びをされた。
あなたはどうなのか?
私は変質強姦魔ユビパッチンのように、悪い例を示す時には必ず相手ではなく
自分(ユビ)を仮想定するようにして、誰も辱めないように注意もしています。
- 920 :準シュダオン:2012/02/14(火)
16:13:30
- >なんでこういう必要のないことまで書かないと気が済まないのでしょうかねえ?
>私がBooさんのお子さんのことを書いたのは、批判側vs擁護側で対立していた頃から
>長い付き合いで、彼は息子さんを連れて映画にも行く子煩悩のよいお父さんである
>ことを対立している時代から認めていたわけで、それを紹介したわけなんですが、
>こんなことに使われるとは・・・。
わが子なら子煩悩なのは当たり前でしよ、犬や猫だってそうしてますよ。
問題は他人に対してです。匿名のネットだから大過なく過ぎるけど、実社会で
BOOさんみたいな口をきかれたら、何だとこの野郎!と、問題ですよ。
>こちらが準シュダオンさんの脳のことをあれこれ言うのは、決して悪口ではなく、
>たとえば霊示だのバイブレーションだのは、脳梗塞の軽い発作、前兆として
>説明できるから医師に診断してもらった方がよいと書いています。
それが余計なお世話の悪口なのです。私は定期的に健康診断を受けてます。
歯と軽い糖尿病以外は問題ありません。脳梗塞や脳障害の疑いだというのなら、
天眼や天身通を説く釈尊に言ったらどうですか?
釈尊にはそういうこと言わないのですか?
私は、管長の指導を受けて、釈尊の神通の千分の一くらいを体験しただけです。
それを正直にレスしてあげたら、脳梗塞の前兆ときた、まぁ、未体験者には仕方
ないですか。でもね、定期検診は受けてますから、脳梗塞の心配はご無用。
- 921 :準シュダオン:2012/02/14(火)
16:34:20
- >で、準シュダオンさんの御霊示やブッダのバイブや「若造!」などとすぐにかっとなる
私は、かっとしてレスなんてしませんよw。努力して敢えて乱暴な言葉を
使っているのです。この人、叱ってあげないと自分の下品に気づかないのか
なぁ、やれやれ、というような感じで「若造」と書いてるのです。
>性情。また、自分のレスを読み飛ばしたら「過去にこう書いていたのを読んでいないのか?」
私も深山さんのレスをスルーすることが多いから、あんたも私のレスを読まないのか
な、と考えて、質問したのです。
>などいう割には深山さんやラシンさんのレスはちら見でレスして、長文だから悪いんだ
>的な身勝手な心情などから分析したものです。
深山さんのレス量、そう思いませんか?レス量も大まかでもいいから、相手に合わ
せるべきだと、私は思いますけどね、強要はしませんけど。
例えば、私は会議の多い仕事してましたが、二時間の会議に10人参加した
場合、私の発言時間は12分前後か、と、相手の発言機会を保障するような
考え方をしていましたよ。自分だけ多く話そうとするのは、自己中心の我見
でしょ。
- 922 :準シュダオン:2012/02/14(火)
16:46:07
- >こちらが準シュダオンさんの脳のことをあれこれ言うのは、決して悪口ではなく、
>たとえば霊示だのバイブレーションだのは、脳梗塞の軽い発作、前兆として
>説明できるから医師に診断してもらった方がよいと書いています。
例えば、テレビに出る運命鑑定士などで、明らかに透視能力があるような人が
いますね。そういう人にも、ユビさんは脳梗塞の前兆だと心配してあげるの?
それとも、病気を疑うのは阿含宗の現役信者にだけ?
そうだとすれば何でかな?自分が退会したから、現役信者に超能力があると、
困るわけかな?
退会してから、嫉むのは辞めた方がいいですよ。嫉みは煩悩です。
- 923 :準シュダオン:2012/02/14(火)
16:57:36
- >釈尊は善因善果と悪因悪果という定まってある法の業果を説いた。
>釈尊が覚者とか悟りを得たといわれるのは、その法を自覚したのであり、
>釈尊がその法を定めたのではない、と理解できます。
>こういう仏教の当たり前を無視すると、
>桐山さんのように、自説で仏教を簡単にゆがめてしまう。
釈尊は、自分は仏なので、自分の話を信じない者は地獄に落ちる、と説いてる
でしょう。だから、幽霊みたいな不思議な話はしない、と。目連が話題にした
ときは、仕方なく認めていますが。もしも、釈尊が、先祖解脱供養を説いたと
します。そうしたら、当時だって、解脱供養なんてインチキだ、非科学的だ、
と、非難する人が居るのではないでしょうか?
そういう人は地獄に落ちることになりませんか?釈尊はだから説かなかったかも。
管長は本で、自分はまだ仏陀でないから霊のことを説く、とか書いていたような
気がしますが、私の思い違いかも。
本日は目一杯頑張ってレスしてみた。が、深山さんには遠く及ばないですね。
- 924 :Boo:2012/02/14(火)
17:29:31
- >問題は他人に対してです。匿名のネットだから大過なく過ぎるけど、実社会で
>BOOさんみたいな口をきかれたら、何だとこの野郎!と、問題ですよ。
ご自分のことはよく見えていないようですね。
>それが余計なお世話の悪口なのです。私は定期的に健康診断を受けてます。
>歯と軽い糖尿病以外は問題ありません。脳梗塞や脳障害の疑いだというのなら、
>天眼や天身通を説く釈尊に言ったらどうですか?
>釈尊にはそういうこと言わないのですか?
釈尊とは話をしたくてもできません。あなたのそのような態度こそが問題なのです。
他の話にすり替えたり、はぐらかしたりする。まあ、そんなことを批判はしません。
どうぞご勝手に。ROMしている方々は黙っていますがあなたの評価しているだけです。
釈尊とあなたとは能力も状況も違います。何といっても釈尊は現在この世界に
生きていません。輪廻もしていません。あなたはそうは思っていないのでしょうがね。
>深山さんのレス量、そう思いませんか?レス量も大まかでもいいから、相手に合わ
>せるべきだと、私は思いますけどね、強要はしませんけど。
>例えば、私は会議の多い仕事してましたが、二時間の会議に10人参加した
>場合、私の発言時間は12分前後か、と、相手の発言機会を保障するような
>考え方をしていましたよ。自分だけ多く話そうとするのは、自己中心の我見
>でしょ。
それはあなたの意見が時間つぶし以外の何物でもないからでしょう。
民主党が事業仕訳をしましたが、蓮舫さんや枝野さんが自分の発言時間を
気にしましたか?どうでもよい人物のどうでもよい意見や発言は蓮舫さんや
枝野さんは意見を述べる機会を与えませんでしたよね。
ましてや時間の限られた会議をスレッド上で行っているわけではありません。
- 925 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/14(火) 19:09:35
- >>920:準シュダオン12/02/14(火)
16:13:3>わが子なら子煩悩なのは当たり前でしよ、犬や猫だってそうしてますよ。
>問題は他人に対してです。匿名のネットだから大過なく過ぎるけど、実社会で
>BOOさんみたいな口をきかれたら、何だとこの野郎!と、問題ですよ。
感想を述べさせていただくと非常に残念ですよ。
何だ、この野郎と思うのはこの際いいですよ。
お互いに未熟な人間なんだしそういつまでも紳士然としてなくてもよい。
なんなら言い返したってよい。
しかし売り言葉に買い言葉で言い返したあなたの言葉は絶対に吐いてはならない
ものだった。
それは相手の罪もないお子さんが脳機能障害なのか?と質問発言したことです。
読んでて吐き気がした。
これは事実無根であれ絶対に書いてはならないことだって・・・あなたにはわかるかな?
こういう時はまだ馬鹿とかアホとか単なる罵り言葉をあくまでもBooさんに対して
吐いた方がまだ罪がないのです。
私はBooさんの準シュダオンさんに対する精神病扱いの発言はまずいと思って
一言感心しないとだけ書いたのだが、Booさんはそれに気付いて反省の弁を述べて
訂正されたのです。
だからあなたにも気がついて欲しいと思った。
簡単なことです。その件に対して謝罪と訂正を一言述べるだけでよい。
謝罪ったって全面降伏には相当しませんよ。
あんたの発言態度も許せんが、こちらも売り言葉に買い言葉でつい出した話は
妥当でなく、あなたの息子さんを変に書いてしまい、申し訳ない、訂正する。
そこだけの詫びでよいのですよ。
その謝罪訂正があれば、私も了承し不問として、お互いに発言には気を付けましょう
とする予定でした。ロムされてる方も大同小異なのではないかと思う。
で、私は当然その謝罪だけはしてくれるものと信じていた。簡単なことだし。
しかし結局全く気が付いていないようで未だに訂正しようとしない。
これで年長者と言うのだから笑ってしまう。
私は間違ってもこんな年長者になりたくない。
模範にならないどころか、軽蔑すべき、唾をかけてやりたい年長者です。
- 926 :akb55:2012/02/14(火)
19:12:27
- 準さん896に答えてみろよ。
- 927 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/14(火) 21:23:33
- >>920:準シュダオン12/02/14(火)
16:13:3
>それが余計なお世話の悪口なのです。私は定期的に健康診断を受けてます。
>歯と軽い糖尿病以外は問題ありません。
年に一度の健康診断で全てがわかるのですか?
身長、体重、視力、聴力、採尿、採血、胸部レントゲン、検便、胃内視鏡・・・
脳ドックが検査項目にあるのですか?
頭部CTを撮ってもらったことがあるか?
軽い糖尿病ならば気を付けることです。
桐山さんがなぜか糖尿病財団に寄付した。
その頃ある愛人と別れた。桐山さんの勃起不全が原因との説がある。
糖尿病から来るEDですね。
糖尿病はいろいろな病気を併発して、桐山さんも多発性脳梗塞を起こした。
だからあなたも他人事ではないのです。
バイブレーションなどと浮かれるのもよいが、やるべきことだけはしておいた方がよい。
手遅れにならないうちに。
>私は、管長の指導を受けて、釈尊の神通の千分の一くらいを体験しただけです。
指導など守ってないではないか?
修行読本にあるように、戒行・課行は思議なく、即座に素直に実践するのです。
信徒に提示したボン行メニューとは、個別ではない必須の課行です。
指導に従いたくない奴が偉そうに管長なんか出しなさんな。
- 928 :Boo:2012/02/14(火)
21:55:31
- >926 :akb55:2012/02/14(火) 19:12:27
>準さん896に答えてみろよ。
準シュダオンさん「896にスルー」の篠山教授に1500点全部・・・古・・・
- 929 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/14(火) 22:03:30
- >>921:準シュダオン12/02/14(火) 16:34:20
>私は、かっとしてレスなんてしませんよw。努力して敢えて乱暴な言葉を
>使っているのです。この人、叱ってあげないと自分の下品に気づかないのか
>なぁ、やれやれ、というような感じで「若造」と書いてるのです。
それならば尚且つ自分の発言にも注意を払って選ぶべきでしょうね。
少し強い言葉で叱責してもよいが、だからと言って、議論相手の子どもにまで
変な言いがかりをつけるレスは明らかに行き過ぎと悟るべきです。
さらに書いてしまって、他人にそれを指摘されたら、即刻訂正して謝罪をする
柔軟性も求められますが、それもありませんよね。
>深山さんのレス量、そう思いませんか?レス量も大まかでもいいから、相手に合わ
>せるべきだと、私は思いますけどね、強要はしませんけど。
>例えば、私は会議の多い仕事してましたが、二時間の会議に10人参加した
>場合、私の発言時間は12分前後か、と、相手の発言機会を保障するような
>考え方をしていましたよ。自分だけ多く話そうとするのは、自己中心の我見
>でしょ。
比較として出す設定が間違っています。
どうして2時間でも何時間でもよいが、期間限定の対話の話と比較するのだ?
ここはチャットルームではないと述べたでしょう?
掲示板というものは誰がどれだけ書いてもかまわないのだ。
それにレスするもしないも自由だし、それこそ時間をかけて1週間経ってからレス
するも自由です。
現に私も今日あなたがレスした、釈尊の時代、不成仏霊が多くてお手上げで
後進にまかせていたというアホなレスにも私は反論するつもりでいるのだが、
後回しにしています。
時間の限られた私は今晩中にレスできるかどうかも疑問です。
先週あなたが出した等見品の五難得の物についても、レスを付けたいと思いつつ
レスをつけたのは5日ほど後でしたっけ?
こちらもマイペースで計画的にレスをつけているのです。
それで十分です。
だから長文でそんなに読むのに時間がかかるならば、あなたのペースで時間をかけて
読了後に付けたいところだけレスを付ければよいだけです。
あるいはレスを付けないのも自由です。
一番悪いのは読まずにレスを付けることなんだから。
- 930 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/14(火) 22:39:14
- >>907:準シュダオン12/02/14(火) 09:10:45
>今でさえ、かなり身元を絞られるというか、危険な気配を感じることがある。
>で、具体的な例は出せないね。
批判側はあなたを襲ったりすることはないし、そんな理由はないし、またあなたの
身元などに興味ないし、第一地域がわかったところで、あなたのことなんか探し出す
ことは不可能です。
逆に地域などが限定されることによりあなたが特定できる人がいるのだとしたら
それは教団の職員とか信者仲間しかありませんよね。
あなた、職員や信者仲間から付け狙われる悪いことしたんですか?
>>910:準シュダオン12/02/14(火) 09:55:55
>私が全国の中の誰かなら、護摩木勧進本数や星祭りに行ったか行かないか、など
>明かしますよ。しかし、天照さんが以前、地域を絞るなど、余計なことをしたで
>しょ。あれで相当、情報を出しにくくなってるのです。
>まぁ、そういうことで個人情報は極力出しません。
本数を明かすとか心にもないことは書くものではありません。
私は九州弁や関西弁も使うあなたは実は東京の所属だと思ってました。
実はこういう大都会が一番幽霊会員にとっては住みやすいところだし。
それは外れたようなんだが、その頃(地域が特定される前)からもあなたは
こちらの質問には答えてません。
そんなことより、あなたは職員や地域の信者仲間に特定されて何かまずいことがあるのか?
あなたはアゴン宗の擁護をしているつもりなんでしょ?
ならば堂々と胸を張っていればいいはずではないか?
「あなたが準シュダオンさんですか?」
「はい、日夜アゴン宗を擁護する為に批判側に立ち向かっています」
と答えれば、その労をねぎらってくれるはずではないか?
結局あなたも職員や信者仲間に身元がばれたら一大事だと思っているのでしょ?
つまり教団に対して後ろめたい気持ちがある。
教団からばれない前提で好きなことを書いているだけで、ばれたら破門だって
あることを知っている。
自分で後ろめたい気持ちがあるのなら、そんなことやめればいいではないか?
それとも教団に恨みがあって、辱めてやりたいのですか?
- 931 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/14(火) 23:06:52
- >>911:準シュダオン12/02/14(火) 10:06:25
>釈尊当時、不成仏霊も多すぎて、手が付けられなかったのじゃないのですか?
>現実にも、貧困者が多かったりして、それも救えない。
>でも、未来には、いずれ管長みたいな人が現われて、先祖供養など説くであろう
>と見通して、ご自身は阿羅漢道を説くことに専念したのです。
桐山さんは霊障がはびこったからこそ、それを解脱成仏させられずに積もり積もった
からこそ、それは破滅のカルマと化して地球壊滅の危機に瀕したという。
釈尊の時代、現代よりも不成仏霊がはびこっていたら地球の危機ではないか?
それよりも阿羅漢道
と言うが、それって解脱道でしょ?
そして解脱とは煩悩解脱では小解脱に過ぎず、求めるべくは大解脱たる因縁解脱の
はずですよね?オシャカが「そうだそうだ、ワシも桐山君の言うことを説きたかったんだ」
と言うのなら。
そして桐山さんが言うには因縁とは霊障が基になっている。
だから因縁解脱には霊障解脱が不可欠です。
我々は死者の霊と共存しており、それが我々の生活に深刻な影響を与えているから
これを始末解決、霊魂を救済するのがオシャカの説いた道だと明言している。
それに反するではないか?
たまたまこの肉段さんはオシャカが忙しかったから(?)もんどくせーと省略
したのだとする。
しかしどうして普段から「いいか?死者の霊魂を救うことが解脱の鍵なんだぞ」と
啓蒙すらしないどころか、霊魂など説かないと堂々と言うのか?
- 932 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/14(火) 23:34:57
- >>923:準シュダオン12/02/14(火) 16:57:36
>釈尊は、自分は仏なので、自分の話を信じない者は地獄に落ちる、と説いてる
>でしょう。だから、幽霊みたいな不思議な話はしない、と。目連が話題にした
>ときは、仕方なく認めていますが。もしも、釈尊が、先祖解脱供養を説いたと
>します。そうしたら、当時だって、解脱供養なんてインチキだ、非科学的だ、
>と、非難する人が居るのではないでしょうか?
>そういう人は地獄に落ちることになりませんか?釈尊はだから説かなかったかも。
これも同じくそれならば矛盾した話になります。
釈尊は自分の信念を曲げて本当のことを説かなかったことになる。
その結果、霊魂救済法はおろか、その思想すらも封じたがゆえに、世の中は
こんなにも霊障がはびこり核戦争が起きたのもオシャカの優柔不断のせいということになる。
実際には霊魂みたいな物は幽霊だろうが何だろうが、そんなものに関わっていても
解脱という修行に何にも役に立たないからです。
つまり霊障解脱、因縁解脱なんて説いていない。
自分の行動はあくまでも自分で責任を持てです。
桐山さんみたいに霊の責任にするな。
>管長は本で、自分はまだ仏陀でないから霊のことを説く、と
か書いていたような
>気がしますが、私の思い違いかも。
法話では桐山靖雄は馬鹿だから霊のことを霊と取り上げると発言してました。
これは決して自分のことを謙遜卑下して言っているのではない。
俺の方が真実を伝えることができる本物の宗教家だと言いたいのです。
- 933 :天照
◆MO30b8Jwoo:2012/02/15(水) 03:03:15
- >>911
釈尊当時、不成仏霊も多すぎて、手が付けられなかったのじゃないのですか?
管長の古い時期の発言を覚えてないから、こういうことを言うのか、と思うぐらいだが。
管長はこういう内容のことを言っていたのがある。
『私なんかは修行が足りないので一生懸命護摩を焚いて修法しているが、お釈迦様なら
瞬き1つで成仏させられるだろう』
それによれば、護摩など焚かず瞬き1つの瞬時で成仏せしめるだけの力があるのに
放置するという悪趣味な仏陀、ということにならないか。
それだけの力があったら世界中の不成仏霊など瞬く間に成仏させられるではないか。
それをやらないのはおかしいのではないか、とさえいえる。
まあ、これの反論は想像が付くがわざと待ちましょうか。
>現実にも、貧困者が多かったりして、それも救えない。
本当の仏教を知らないからこういうことが言える。さすがは阿含信者というべきか。
確かに貧困者は多かったですよ。また実際的に釈尊も困窮者をことごとく救った、などの
事項も経典には記載も無い。
だが、釈尊の説く仏教というものはそういうものではないから、貧困者救済が目的ではない。
仏陀になることが目的です。それを判れば別段貧困だろうが裕福だろうが関係ない。
要は仏陀になれるかならないか、だけです。
つまり誰でも仏陀になれることが仏教の利点であり、またインドには階層がある。
どんなに頑張っても生まれ持った境涯を変えれないというのがある。
人間社会の階層やら仕組みなど完全な民主主義か資本主義でも無い限り無理です。
特にインドなどの主義社会では無理です。かつて日本も古来は階級制度があったように、
バカな輩でも殿様の家に生まれれば殿様。極貧の農家に生まれればそのまま。
政治家や革命家でもない釈尊にそんなことをする必要も無いし、実際して無い。
やれることは仏陀になるための道を説く、これだけです。
- 934 :天照
◆MO30b8Jwoo:2012/02/15(水) 03:11:23
- だから釈尊が不成仏霊が何体いようとも、そんなのは関係ない。
本当の「成仏」という意味は成仏陀、仏陀に成るということであって死後の成仏は説かない。
せいぜいあるのは生まれ変わって人間として転生したなら、その地に釈尊の教えがあったと
したならその地で仏陀になるための修行・教えを講じれば良いだけの話であって、あの世の
成仏などとか無い。中有界に於いて、とかいうのはゲイカの話(説)であって釈尊のものではない。
まして「死者はこのように成仏させるんだよ」というレクチャーもない。
ゲイカが勝手に妄想し想像し作り上げたパフォーマンスです。
だから死者が浮かばれないとかがあったとしても、そんなのは自業自得であり、釈尊でも救済
出来ないとスッタニパータに書いていると示しても無視するのが阿含信者のする愚行です。
- 935 :天照
◆MO30b8Jwoo:2012/02/15(水) 03:24:26
- 貧困とかの問題も同様です。
貧困であえぐのは過去世に於いて自らの行いが悪いからなのでしょう。
これはある種因果応報の表れなので、どうしようもない面があります。
ましてインドのような階層がロックされているような世界では無理でしょう。
それこそこれも出来るかどうかわからないが、貧困を抜け出したかったら
階層の無い国へ移住してそこで貧困から這い上がるしかない。
インドにいて現代なら貧困から抜け出せる可能性はまだ昔よりはあるかもしれないが、
昔は無理です。かつての日本も同様で、日本にいる限り貧困が付きまとうなら
離れ小島で自活するか、それともしがらみのない他国で暮らせば良い。
今の世の中のような「チャンスさえあれば這い上がれる」なんてものは当時はありません。
それよりも釈尊は目的が違います。肝心要の物をちゃんと知っている。
それが仏教です。貧困層だろうが仏陀に成るための方法はあり、それをやれるか
やれないかだけの問題です。
確かに富裕者のほうが環境も良いし貧困層よりは仏陀に成るための下地はありそうだ。
だけど、いくら富裕でも仏陀になろうという意思や行動がなければ無理です。
ましてや恵まれている人間はそんな仏陀になろうと中々考えない。
だけど、富裕者は仏陀になれないか?ということは無い。
つまり誰でも真剣に間違いなく行えるのなら成れる。だから説いたのです。
差別などなく、また特に道具等を必要ともせず釈尊の教えがわかり実行できるのであれば
基本的に誰でも出来る示唆です。それが仏教です。
貧困を救い上げるのが仏教の目的ではない。もしもそれが目的なら世の中から貧困者が
いなくなっているでしょう? そもそもの目的が違うから「釈尊は貧困者を救わなかった」
もしくは「救えなかった」という解釈が生じるのです。貧困・富裕は関係ありません。
- 936 :天照
◆MO30b8Jwoo:2012/02/15(水) 03:40:55
- またね、我々は日本人で間違った観念が植え付けられているからどうしても死後の「肉段」のような事項を聞けば
それが「不成仏」としてしまう。正式には世界中誰もが「不成仏」であり、生きている人間もが、です。
世界中の人口の大半60億が「不成仏」なのです。
あの肉段のような死後転生するまでの間ののたうちまわる様相が「不成仏」ではない。
この世に生きていて「仏陀になっていない人」全てが「不成仏」なのです。
では、あの肉段の死者はどうみるのか?といえば、あれは因果応報の表れの様相であって、
この世ではない世界での応報様相でしかない。
生まれ変わってもあの肉段の人は何らかの報いを受けるでしょう。ただそれだけです。
それこそどこかの国の貧困層などに生まれて苦しむかもしれない。どうなるかは判らないが、
因果の報いを受けて苦しむのは自分だ、ということです。
それに対し釈尊は何もしない。当然です。管長のように「エイッ」と九字でも切ってその肉段の人を
救えばそりゃあ可哀想に思う側から見たらヒーローです。
しかし、被害を受けた側から見たら釈尊は「とんでもない正義漢」となります。
散々悪行為を行っていたやつを神通力だか成仏法だか知らないが、そんな超能力で悪者を救い、
被害にあった人間はただ泣きを見るままか、ですよね?
被害にあった被害者はそれもそれで何かの因果応報なのでしょうが、その方々が恨むか恨まないかは
別としても因果応報は働くとされています。釈尊が説く因果応報がそれです。
それを間に入って裁く自体が「おこがましい」
因果応報に対しても釈尊は「何も出来ない」わけです。それをどうこうできるとしているのが阿含宗です。
しっぽ如来に供養すればどんな過去の悪業も相殺できるという優れものです。
なんでこのようなすんばらしい法を広めなかったか?
釈尊滅後2500年後にペテン師桐山靖雄が出てきて詐欺を働くからそれを釈尊は待っていたというのか?
これなら釈尊もとんでもない輩といえるでしょう。そんな仏教なんてやらないほうがマシです。
- 937 :天照
◆MO30b8Jwoo:2012/02/15(水) 03:51:13
- というか、そのようなことが可能ならやっているだろう。
でもいくら考えても道理が続かない。やはり因果応報は事項を行った当事者の者のことです。
悪業で苦しむ肉段の人は報いを受けている有様であり、それをわかった釈尊は「ああ、やっぱり
因果の報いは正しいなあ」と見ていたことかもしれません。
逆に善行を行って幸せな報いを受けている人も同様では無いでしょうか。
ある人がいる。とても恵まれて幸せを感じている。それを見て釈尊は
「あの人は過去世に於いて何々の行いをしたからあのような報いを受けているのだ」
と肉段の人を見たように理解するのではないでしょうか。また何の手出しもせずに。
良い報いも悪い報いもその人の行い如何です。それによって現れる。
だから阿含宗が提唱する「因縁解脱」を正式に行うならば、釈尊が説いたように
因果応報の法則はあるのですから、悪いことは行わない。良い事をセよ。
悪い運命(因果)を背負いたくなかったら悪いことをするな。
そして、今ある(受けている)因果は過去世での自分の行いの結果だから忍びなさい。
来世に向かって善行を積みなさい。また現世でも慕われ愛される人間になりなさい。
これが因縁解脱の方法です、とやるのが本当の因縁解脱の方法です。
というか、阿含宗をマトモな方に変えるならばの事項ですが。
(そもそも因縁解脱という言葉自体がまがいものですからありえませんが)
- 938 :天照
◆MO30b8Jwoo:2012/02/15(水) 04:02:58
- ですから2chでもヤフーの質問箱でも「ちゃんとした阿含宗」というのを考えている人がいるが、
阿含宗をもしも本当の仏教に修正したなら、今の阿含宗では成り立ちません。
護摩も占いも教義も全て変更です。先ず収入がなくなります。NPOのようにしてやるのが出来るのか?です。
教祖の教義をことごとく変更し釈尊の正しいものを講じる。
すると今の阿含宗の姿勢・体制ではなくなります。そんなものを信者はわかっていっているのか?です。
おそらく教祖排除、少しの教義変更だけで良いと思っている。かつての私もそうでしたからわかる。
そんな甘いものではないことを信者さんは知らない。誠に甘い考えです。
これは本当の仏教を知らないからです。桐山阿含だけを知っていて、途中から教祖様だけがおかしくなった。
または老化でイカレたのでそれだけを何とかすれば良いと思っている。
仏舎利も護摩も占いも拝みも全てそのままで良いと思っている。
非常に甘く、ずさんな考えです。
阿含宗の事項の大半が「偽仏教」だと知れば私の言うことが理解できます。
というか、これを諸兄様方から教わって理解した結果なのですけどね。
ただ信者さんは「今のままで教祖や変な輩だけ排除すればOK」だと思っている。
護摩も深田さんや僧侶が焚けば良い。教祖も深田さんか誰かがやれば良い。
そのように思っている。これはまるっきり甘いにも甘い。砂糖よりも甘いです。
教祖を排除し表面的に悪いだけを取れば済むと思っている。
悪いものを取る、といったが悪いものを本当に取るなら阿含宗の大半を捨てねばならない。
それこそ総入れ替えです。教祖だけでなく教義も行いも全てに近いほどです。
それをやらないと「偽仏教」のままです。そして悪い阿含宗のままです。
本当に良い阿含宗をやろうと思ったら、総入れ替えが出来なければ無理です。
- 940 :天照
◆MO30b8Jwoo:2012/02/15(水) 04:14:53
- きちんと釈尊の教えに沿って実行する。そうなれば護摩も占いも先祖供養もナシに成る。
それらがなくなれば教団の収入は激減します。そうなったらどうやって教団を維持するのか?
それこそ今までのように先祖供養もしないのに毎度何十万も教団のために寄付するのか?です。
今までは「先祖供養」などを掲げてそれに応じたのが「教団維持のために寄付してね」とやって
「はい。判りました」と皆が何十万も見返りナシで寄付できるか?
会費も払うとしても道徳で事足りる事項にわざわざ払うのか?
また勤行もなくなるので、会費すら払うのがバカ臭くならないか?
なんで少し習えばわかるような事項で毎度道場に通って奉仕修行をするのか?
おそらくマトモな仏教の事項に阿含宗が変わったら信者は来なくなるし辞めるでしょう。
それだけ先祖供養やら功徳で煽って(釣っていた)、ということなのです。
ですから阿含宗を愛する心はわからなくも無いが、現実的に無理があります。
もしも実際的にやるなら「愛好会」か「同好会」程度でしょう。
そこから正しく発展させたら大したものです。先ず普通の人には出来ないでしょうね。
後はでっかい資本や出資をしてくれるスポンサーがバックにいるとか、です。
何万人が集まっても今の阿含宗のような活動はできないでしょう。
それだけ阿含宗は「まがいものであった」と自覚することが必要です。
- 941 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/15(水) 11:04:17
- >釈尊は、自分は仏なので、自分の話を信じない者は地獄に落ちる、と説いてる
でしょう。だから、幽霊みたいな不思議な話はしない、と。目連が話題にした
ときは、仕方なく認めていますが。もしも、釈尊が、先祖解脱供養を説いたと
します。そうしたら、当時だって、解脱供養なんてインチキだ、非科学的だ、
と、非難する人が居るのではないでしょうか?
そういう人は地獄に落ちることになりませんか?釈尊はだから説かなかったかも。
釈尊は、悪を為した行為によって受ける応報をリアルに説けば、
その恐怖ゆえに信ぜず否定し、結果、釈尊の教えから離れてしまう。
そのような者は仏道を歩むことをしない。
つまり行く末は悪趣に墜ちることになる。
そういう話しは解脱に役立たない。
釈尊の説法をする姿勢を知ればなにも不思議ではありません。
余計な屁理屈など労して考えあぐねる必要などありません。
釈尊は解脱に役立たず議論しても結論が出ないことがらには、
常に無記の姿勢を貫いた。
釈尊が語らない、語る必要がないというものを
どうしてしつこく無想するのかといえば、それが煩悩だからです。
- 942 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/15(水) 11:07:25
- >もしも、釈尊が、先祖解脱供養を説いたとします。そうしたら、
当時だって、解脱供養なんてインチキだ、非科学的だ、と、
非難する人が居るのではないでしょうか?
そういう人は地獄に落ちることになりませんか?釈尊はだから説かなかったかも。
釈尊が目的として説いたものは、煩悩を滅することだけです。
これを知るだけで、ほかに一切の理屈は必要ありません。
釈尊は解脱に必要ないものは説いていないから、
先祖解脱供養もないのです。
煩悩をなくすことが目的なのですから、煩悩を呼び起こすことは、
すべてしてはならない。
焚き火による祭祀も、煩悩を呼び起こす行いだからだめです。
焚き火はただの火であって煩悩を焼き尽くすことはできない。
煩悩は心に所有され心の中に起きるのです。
その心を取り出して焚き火の中に放り込めない。
心を統御できるのは心でしかない。
心で生じた念いが、言葉にあらわれ体にあらわれて行為となる。
身・口・意の三業をつつしむのは、心の統御です。
桐山さんは、(身)をつつしまず不倫騒動を起こした→身業です。
桐山さんは、ことば(口)をつつしまずウソの経典を示した→口業です。
桐山さんは、心(意)をつつしまず食を貪って脳梗塞を患った→意業です。
桐山さんは、いつも火を焚いていたのに三業を清めることが出来なかった。
桐山さんですら清められなかった焚き火に、信者さんは手を合わせる。
こんな簡単な矛盾にすら目を向けないことを信仰の名で騙されています。
- 943 :準シュダオン:2012/02/16(木)
10:18:31
- >きちんと釈尊の教えに沿って実行する。そうなれば護摩も占いも先祖供養もナシに成る。
>それらがなくなれば教団の収入は激減します。そうなったらどうやって教団を維持するのか?
前にもレスしてますが、管長は阿含宗を立てた時点で、「阿含密教いま」という本で、
阿含経の修行法をそのまま現代に持ち込むことはしない、と宣言しているのです。
阿含仏教と大乗仏教を綜合・止揚した阿含宗にする、と宣言しているのです。
で、「阿含密教いま」を発行した翌年の星祭りの護摩に、如来が現形したのです。
これは、管長の主張を、涅槃にお出での釈尊が認め、それを示すために大乗の仏で
ある大日如来の形で現われたのだと思われます。
つまり、釈尊時代は護摩を禁じたとしても、今は釈尊も護摩をお認めになって
いると思いますね。何より星祭り護摩は、布教・宣伝効果が大きいです。
食事を托鉢しながら阿含経を説いたとて、今の日本では微々たる効果でしょう。
- 944 :準シュダオン:2012/02/16(木)
10:53:32
- >それに対し釈尊は何もしない。当然です。管長のように「エイッ」と九字でも切ってその肉段の人を
>救えばそりゃあ可哀想に思う側から見たらヒーローです。
>しかし、被害を受けた側から見たら釈尊は「とんでもない正義漢」となります。
>散々悪行為を行っていたやつを神通力だか成仏法だか知らないが、そんな超能力で悪者を救い、
>被害にあった人間はただ泣きを見るままか、ですよね?
これはなかなか面白い問題ですが、しかし、苦しんでる肉段が自分だとしたらどうですか?
しかも、悪行為と意識しないで、正義感で悪行為をする場合もあります。
名探偵ポワロの「オリエント急行の殺人」という物語は、善悪の難しさがテーマですね。
オリエント急行の寝台車の一車両で、一人の男が刺殺された。ポワロは、その車両にいた
12人の容疑者が、全員共犯であることを突き止めた。
12人が全員、一度ずつ男をナイフで突き刺し、殺したのです。殺された男はマフィアの
一員で、アメリカで、ある一家4人とそこのメイド1人を死に追いやった。そのマフィア
は殺人犯として裁判にかけられたが、金と組織を使って陪審員らを脅し、釈放されて、
オリエント急行で高飛びする途中であった。その男を殺した12人は、いずれも、一家4
人とそのメイドの関係者で、法で裁けなかった男をリンチにかけた訳です。
さぁ、名探偵ポワロは12人に怒った。こういうことを許しては法治社会が成りたたない。
次の駅で、12人を絶対に警察に引き渡す、と息巻いた。
しかし、次の駅に着いたら、ポワロは12人を警察に渡さず、見逃したのです。
松本清張も善悪に、ややこしいテーマを題材にするけど、オリエント急行事件も、
善悪の判定は難しいです。よって、過去の罪業の判定も難しいです。
- 945 :名無しさん:2012/02/16(木)
11:00:08
- >>942 :ラシン ◆xvojmuQ90o:2012/02/15(水) 11:07:25
>心を統御できるのは心でしかない。
>心で生じた念いが、言葉にあらわれ体にあらわれて行為となる。
ここのところは準さんにもう一度再認識してもらいたいです。
つまり、彼がいっも言ってる論理ですが
惑(煩悩)→
業(行為)→ 苦
と流れて行きます。
心の中に生じる念いは必ず煩悩を伴い邪まな行為になって現われる。
結局その行為がもとになって苦を誘発し輪廻の苦界をさまようことになる。
だからこそ煩悩を消滅させねばならないのでしょう。
- 946 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/16(木) 11:56:23
- >前にもレスしてますが、管長は阿含宗を立てた時点で、「阿含密教いま」という本で、
阿含経の修行法をそのまま現代に持ち込むことはしない、と宣言しているのです。
しかし、わたくしは、もちろん、阿合の修行をそのまま現代社会に
持ちこもうなどとは考えておりません。
ひと口に申しますならば、テーゼとしてのアーガマ仏教と、
アンチテーゼとしての大乗仏教、この二つを綜合・止揚したジンテーゼ
としての阿合仏教というものをうち出そうと考えているわけです。
もっとわかりやすくいえば、アーガマにおける修行法を、
密教的方式をもって実践していくということです。(阿含密教いま276頁)
桐山さんのこの決断は、非常に矛盾したものです。
理由は、阿含経の修業法は七課三十七道品であることを発見した。
しかしその三十七道品は、密教の曼荼羅に三十七尊として、
ただまつられるだけの存在である。
桐山さんはそれを引き戻し、「アーガマにおける修行法を、
密教的方式をもって実践していくということです。」と述べている。
- 947 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/16(木) 11:58:41
しかし、わたくしは、もちろん、阿合の修行をそのまま現代社会に
持ちこもうなどとは考えておりません。
ひと口に申しますならば、テーゼとしてのアーガマ仏教と、
アンチテーゼとしての大乗仏教、この二つを綜合・止揚したジンテーゼ
としての阿合仏教というものをうち出そうと考えているわけです。
もっとわかりやすくいえば、アーガマにおける修行法を、
密教的方式をもって実践していくということです。(阿含密教いま276頁)
この文章こそ桐山さんのトリックがあらわれている。
読んでいる読者は、桐山さんがなにか新しい修行法を作るかのように
錯覚させられる文章です。
だが現実は、ただの密教様式の繰り返し、それも亜流です。
桐山さんが、グモンジ脳で得たというジョウブツホーを
密教様式で発揮させるとの自己申告にすぎない。
なんともあやふやで怪しい主張です。
密教を様式化されたともの非難しながら、することは桐山さんの
ジョウブツリキという息吹を吹き込んだ密教様式にすぎない。
アンチだのジンテーゼだのと言葉を飾っているだけで、
それはただの「ごった煮」です。
- 948 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/16(木) 12:03:30
- アーガマにおける修行法を、密教的方式をもって実践していくということです。
(阿含密教いま276頁)
三十七道品は、密教の曼荼羅に三十七尊として祀られている。
いわゆる密教では、三十七道品は象徴化されている。
密教は様式化され形骸化されたと非難するなら、
そこから離れればよいだけで、どうして密教にこだわるのか。
桐山さんは、阿含経から三十七道品を発見したなら、
どうして阿含経でのその実践をしないのか、不思議です?
私は四念処と七覚支法を主に修業して、成仏力を身につけたわけですが、
その成仏力を最も完璧に発揮しようとすると、お護摩を焚きながら
修するのがいちばんやりやすいわけです。(阿含経講義中巻415頁)
これこそ自己申告によるもので、客観性も説得力もありません。
阿含経の道品法も煩悩を統御し最後には止滅させる教えです。
桐山さんはそれに目をふさぎ、念力などというオモチャに
こだわり意義を隠して信者さんを騙したのです。
ひとつは、三十七道品は八正道だと理解できなかった。
または、阿含経を実践するなら、八正道になってしまう。
桐山さんは、八正道を単なる道徳的位置にしか据えていない。
だから、三十七道品を密教の焚き火の中に隠し、その価値を
つり上げたのです。
- 949 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/16(木) 12:12:15
- >心の中に生じる念いは必ず煩悩を伴い邪まな行為になって現われる。
結局その行為がもとになって苦を誘発し輪廻の苦界をさまようことになる。
だからこそ煩悩を消滅させねばならないのでしょう。
もろもろの法は意を先に 意を主に意より作られる
もしも汚れた意をもって 語り、あるいは行なえば
それより苦が彼にしたがう 牛足跡の車輪のように
もろもろの法は意を先に 意を主に意より作られる
もしも清らかな意をもって 語り、あるいは行なえば
それより楽が彼にしたがう 離れることなき影のように
(ダンマパダ1「法句」第一偈)
桐山さんがその真逆を世に知らしめてくれました。
桐山さんは、(身)をつつしまず不倫騒動を起こした→身業です。
桐山さんは、ことば(口)をつつしまずウソの経典を示した→口業です。
桐山さんは、心(意)をつつしまず食を貪って脳梗塞を患った→意業です。
桐山さんは、いつも火を焚いていたのに三業を清めることが出来なかった。
桐山さんですら清められなかった焚き火に、信者さんは手を合わせる。
- 950 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/16(木) 12:22:04
- >>944:準シュダオン12/02/16(木) 10:53:32
>これはなかなか面白い問題ですが、しかし、苦しんでる肉段が自分だとしたらどうですか?
>しかも、悪行為と意識しないで、正義感で悪行為をする場合もあります。
ではこちらもそこのところをさらに突っ込みましょう。
その肉段となってしまったあなたが実は麻原彰晃だとしたらどうか?
麻原が、オウムが、サリン事件を起こした動機には彼らなりのおかしな正義感が
あったようです。
よくわからないが、これから悪業を行う可能性のある者はまだ起こさないうちに
未然に命を絶つことが慈悲につながるというのが、彼らの歪んだポアの解釈なんだそうです。
だから林郁夫などは「高いステージに転生してください」と念じて、地下鉄の中で
あのサリン袋を突き刺したのだという。
麻原であれ林であれ彼らなりの正義感があった。
それが自分であると仮定したら、オウム犯もまた地獄から救ってやるべきだと
あなたは考えるのか?
- 951 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/16(木) 12:53:09
- >>943:準シュダオン12/02/16(木) 10:18:31
>阿含仏教と大乗仏教を綜合・止揚した阿含宗にする、と宣言しているのです。
止揚をするにしても、してよいものと悪いものがあります。
阿含仏教と大事仏教は共通するものと相反するものがあります。
共通部分は統合してよい。
しかし相反部分は統合などできない。
数学で集合の概念を習いませんでしたか?
「AかつB」と「AまたはB」の違いです。
Aという丸(集合体)とBという丸(集合体)がある。
2つの丸の重なった部分が共通項です。
阿含と大乗ならば慈悲、利他心などです。
重なり合わない部分に相反する部分があった場合、これは止揚などしてはならない。
すなわち片方で護摩を否定禁止しているとなれば、統合仏教、止揚仏教に護摩など
入れてはならず、排除すべきです。
この点密教なんてのはジンテーゼの失敗ですね。
バラモン教がテーゼであるのならば仏教はアンチテーゼとして生まれたと思う。
しかしヒンズー教の復興とともにジンテーゼを図ったのが密教だと思う。
してその密教は結局Aという丸とBという丸の単なる足し算に堕した。
こんなことなら仏教はアンチテーゼのままで何の問題もなかった。
- 952 :天照
◆MO30b8Jwoo:2012/02/16(木) 13:52:02
- >>944
業罪の判定など不要です。というか人間(社会)で完全に裁ききれないという性質の事項は
準さんが例えを小説に出しているが、そういうのはあるでしょう。
実際、裁判でも審判員制度が出来たが、その裁きの点でも難航する事項があるという。
そういうものはあるのは私にもわかる。
だが、釈尊の言う「因果応報」はそういった難解で判断が下しにくいものであってもその因果に
応じて報いが現れるというものです。
仰せのようにその人が悪意があろうがなかろうが、やった行為に対して結果が出る。
だから我々人間がどうこうできるものは範囲や程度もあるだろうし、裁ききれない時だってあろう。
だが、そんなのは社会とか人間の出来る範囲でやれば良いだけであって、因果応報の法則から見たら
別段問題ではない。
私が言いたいのはそういう微妙な間に如何に如来といえども入り込んで裁けるのか。
または過去の業罪を清算できるかを説いたわけです。
さすがは読めるところや引っかかる部分だけをチョイスして意見してきた。
私はそんな業罪云々を言っているのではない。阿含宗、ゲイカの言うような功徳を積んで
悪因縁を相殺や減免できるなどの行為は最初から無い、ということであり、トンデモ論だということです。
それのために>>940を書いたのであり、そこを突いても意味はさほど無い。ご愁傷様。
- 953 :天照
◆MO30b8Jwoo:2012/02/16(木) 14:09:00
- >>943
そりゃあそうでしょう。そうやって方便を出さなければ阿含宗も運営できないしおおっぴらに
護摩や占い、それだけでなく阿含宗にあるもの、やっていることがほとんど出来なくなってくる。
やるためには準さんの述べたゲイカの主張がなければ機能しないのは重々わかっています。
ですが、それはなんですか。それがシャカ仏教ですか? 桐山密教、もしくは桐山教でしょう?
うちらは根本仏教を阿含宗が名乗るから批判している。
最初から「観音慈恵会だ」とか「桐山教」だと言えば「あそこは新興宗教で仏教ではない」で終わり。
阿含宗は根本仏教だと正統仏教教団を誇る・名乗るから批判されるのです。
仏教教団で無い新興宗教なら相手にするものか。
>>943で述べたことはゲイカの論もあるが、準さんの論も入っている。
準さんの論はゲイカの主張に沿っている面があるが、ではそれをどのように証明するか。
証明は出来ないでしょう。なにせ貴方の推測や憶測と主張だからです。
釈尊がそういう風に示唆したとか言ったなどの事項があれば認めることも出来るが、そのようなことは
無いわけだし、無いものを繕うには「こうだと思う」というしかない。
>で、「阿含密教いま」を発行した翌年の星祭りの護摩に、如来が現形したのです。
これは、管長の主張を、涅槃にお出での釈尊が認め、それを示すために大乗の仏で
ある大日如来の形で現われたのだと思われます。<
これを「釈尊が認めた」とどのように証明するのか? できるはずが無い。
また「思われます」なので、個人がどのように思うの勝手だが証明が出来ない。
推測で物を言うのなら誰でも出来ます。しかし信憑性が無い。破綻論であるといわれても仕方ないのです。
次いで「つまり、釈尊時代は護摩を禁じたとしても、今は釈尊も護摩をお認めになっていると思いますね」
とは、これは貴方の推測です。釈尊に聞いたのか?です。また実際にそう答えたのか?です。
まあ、変なバイブレーションを受けた受けたといっているのですから、釈尊が私に言った、といいそう。
でもそんなのは証明にならない。このくらいは判りますね。
>何より星祭り護摩は、布教・宣伝効果が大きいです。
食事を托鉢しながら阿含経を説いたとて、今の日本では微々たる効果でしょう。
これが判るということは護摩が必要であることを指しています。何よりも大きな利益に成るからです。
なので、護摩を廃すると成れば教団が継続できないというのがわかって、それを阻止するためには
護摩を優位、つまり焚いても別に問題が無い、とせねばならないからであって、そのためには釈尊が
実際にいないことをいいことに自分の論を展開して正当化させようとしている。
さすがは阿含宗の信者であり、擁護するのは当然であるが、通用しません。
- 954 :天照
◆MO30b8Jwoo:2012/02/16(木) 14:27:44
- 58章立てました。
お気づきかと思いますが、サブタイトルは長くても可能となりました。
なので、次回よりレスが900を超えたら随時募集します。
レスの折に書き込んでください。イイと思われるのを採用いたします。
今まで告知するのを忘れて申し訳ないです。
- 955 :天照
◆MO30b8Jwoo:2012/02/16(木) 14:46:41
- 2ch、207立ちましたね。いい展開を待っています。
- 956 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/16(木) 15:02:38
- 「しかし、わたくしは、もちろん、阿合の修行をそのまま現代社会に
持ちこもうなどとは考えておりません。」(阿含密教いま276頁)
桐山さんのこの主張の裏打ちは、現代人には阿含経の修業はムリだという。
修行法なんて概念で考えて、現代人に不向きだとしたのです。
これほど釈尊を愚弄する態度に桐山さんは恥じる心がない。
釈尊は、作者のいない真理に気づき悟った、これが解脱の果です。
大目連の見た肉段も因果応報という理りだから、釈尊は何もできない。
釈尊が注意できるのは、そのような応報を受けない道を示すことだけです。
煩悩によって輪廻する様相を釈尊は見たのだから、
その煩悩を滅する道を示した。
- 957 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/16(木) 15:03:37
- >しかも、悪行為と意識しないで、正義感で悪行為をする場合もあります。
>善悪の判定は難しいです。よって、過去の罪業の判定も難しいです。
釈尊が誰かを裁いたなどと考えるのは、無知以外のなにものでもない。
釈尊を西洋的一神教で、善悪の判断を司る立場とみる間違いです。
釈尊の手にアスティアの秤りがあると考える愚考です。
そもそも桐山さんを擁護または批判するうえで釈尊をそのように
仮定し比ゆすると、議論が定まらず別な方向に流れる。
釈尊は誰も裁かないし誰をも害さない、ただ道を教示しただけです。
釈尊の教えを守るなら、正義感などで人を害さないことです。
スッタニパータ705
「かれもわたしと同様であり、わたしもかれと
同様である」と思って、わがみに引きくらべて、(生きるものを)
殺してはならなぬ。また他人をして殺させてはならない。
- 958 :準シュダオン:2012/02/16(木)
15:23:49
- >しかし売り言葉に買い言葉で言い返したあなたの言葉は絶対に吐いてはならない
>ものだった。
>それは相手の罪もないお子さんが脳機能障害なのか?と質問発言したことです。
>読んでて吐き気がした。
>これは事実無根であれ絶対に書いてはならないことだって・・・あなたにはわかるかな?
見解の違いですね。因果応報です。何回も私に脳障害発言した、BOOさんには
当然の質問です。そんなに悪い質問でもないよ。脳障害の家族がいたとて、
別に犯罪ではないのですから、吐き気を催す必要はないでしょう。
しつこい罵声発言は止めたら良いのです。
まぁ、そういう性格だから、修行が進まなかったのでしょうけど。
相当な「修行者」と書いたレスにも、元トイレ掃除くんの説明がなければ
皮肉と気づけなかったね。皮肉が得意の方とレス交換してると、こちらの
性格まで曲がるのかな、と少し心配です。
因みに、わたしの方から悪口レスを浴びせた例は、ありませんよ。
- 959 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/16(木) 15:31:14
- >しかも、悪行為と意識しないで、正義感で悪行為をする場合もあります。
>善悪の判定は難しいです。よって、過去の罪業の判定も難しいです。
八正道を軽く考えています。
正思とは、怒りの心を起こさず他者を傷つけないよう心がける。
正業とは、殺生、盗み、不倫、などよこしまなことをしない。
パーリ長部 沙門果経44節
このようにして出家となり、かれは、パーティモッカの防護によって
守られ正しい行いと托鉢場所をそなえて住みます。
パーティモッカは、比丘が毎月二回必ず実行しなければならない
布薩での重要な儀式で暗誦される二百五十条の戒律です。
桐山さんは自己を内省し顧みず、他から矛盾を指摘されたら、
怒り心頭でその者を排斥してしまう。
比べて、
釈尊は過去世などの罪業ではなく、現世の行為を観察し、
その言行にまちがいがあるかを常に気に留めていたのです。
- 960 :準シュダオン:2012/02/16(木)
15:38:32
- >アウフヘーベンした梵行をした結果、桐山ゲイカは我々に教えてくれた
>【密教占星術奥伝=パクリの九星術中伝】ではなく、握り拳の密教占星術超奥伝?
>で見て無かったはずの脳障害の因縁(阿鼻惹星)が新たに発生して脳梗塞になった
>という現実を見ると阿含宗の梵行とは・・・実は悪業ではないのか。
>少なくとも因縁解脱は出来ていないよね。準シュダオンさんどうですか?
ご免ね、今、目にしたレスだから。AKBはどういう意味?
AKBさんのいう
とおり、脳梗塞になった時点では、管長は完全なる因縁解脱はしていない。
だが、脳梗塞が癒えた今は、解脱してるかも知れないよ。
また、阿含宗の梵行は悪業だから脳梗塞になったという見方は間違いで、
本来なら50歳未満でガンで死ぬ運命だったが、阿含宗の梵行は善業だか
ら、そのガンの運命を変えて、80歳という釈尊の寿命を超えたのですね。
- 961 :準シュダオン:2012/02/16(木)
15:39:24
- >アウフヘーベンした梵行をした結果、桐山ゲイカは我々に教えてくれた
>【密教占星術奥伝=パクリの九星術中伝】ではなく、握り拳の密教占星術超奥伝?
>で見て無かったはずの脳障害の因縁(阿鼻惹星)が新たに発生して脳梗塞になった
>という現実を見ると阿含宗の梵行とは・・・実は悪業ではないのか。
>少なくとも因縁解脱は出来ていないよね。準シュダオンさんどうですか?
ご免ね、今、目にしたレスだから。AKBはどういう意味?
AKBさんのいう
とおり、脳梗塞になった時点では、管長は完全なる因縁解脱はしていない。
だが、脳梗塞が癒えた今は、解脱してるかも知れないよ。
また、阿含宗の梵行は悪業だから脳梗塞になったという見方は間違いで、
本来なら50歳未満でガンで死ぬ運命だったが、阿含宗の梵行は善業だか
ら、そのガンの運命を変えて、80歳という釈尊の寿命を超えたのですね。
- 962 :準シュダオン:2012/02/16(木)
15:51:48
- >八正道を軽く考えています。
>正思とは、怒りの心を起こさず他者を傷つけないよう心がける。
>正業とは、殺生、盗み、不倫、などよこしまなことをしない。
だからぁ、現世に於いても同じことです。殺生するな、といっても、死刑執行人
は殺人が使命です。死刑を言い渡す裁判官も、起訴した検察官も、殺生ですが、
合法でしょう。誰かがしないといけない。それは悪業ですか?
公害を垂流す会社の会社員は、善業?悪業?
と、いうように、何が善で、何が悪か、特に在家では判断が難しいのです。
- 963 :準シュダオン:2012/02/16(木)
16:04:15
- >釈尊が誰かを裁いたなどと考えるのは、無知以外のなにものでもない。
>釈尊を西洋的一神教で、善悪の判断を司る立場とみる間違いです。
>釈尊の手にアスティアの秤りがあると考える愚考です。
ラシンさんも勝手に勘違い解釈をする人ですね。いつもはスルーするのだけど、
目に入った。誰が釈尊が裁いたと書いたの?
私がね、善悪についてのレスをしてたのはね、ユビさんと天照さんがね、
苦しむのは罪業を犯したせいなのだから、当然の報いだ、というようなレスを
してたのよ。
だから、当然の報いと言っても、善悪の判断は難しいんで、罪業を犯した者は
苦を受けよ、というのは酷である、という趣旨で、善悪のレスをしてた訳で、
釈尊が裁くこと、とは次元が違う話ですよ。
- 964 :準シュダオン:2012/02/16(木)
16:28:52
- >私はそんな業罪云々を言っているのではない。阿含宗、ゲイカの言うような功徳を積んで
>悪因縁を相殺や減免できるなどの行為は最初から無い、ということであり、
>トンデモ論だということです。
そこは見解の分かれるところですが、人間は過去の罪業によって、運命が方向つけら
れて生まれてきますね。ちょうど、舵のない船が、猛スピードで、3日後には台風に
突入する方向に進んでいるようなものです。だが、その船が台風に気づき、なんとか
舵をこしらえて、船の進行方向を変えようとしているのが、功徳を積む梵行なのだ
と、私は解釈します。進路を変えたら台風から逃げられます。
煩悩を断つ行・梵行をしなければ、因縁の相殺や減免はあり得ません。
思考パターンや行動パターンが同じなんですから、悪因縁の報いは必ず受けます。
しかし、煩悩を断つ行・梵行を続けていれば、行動パターンが変ってくるの
ですから、受ける運命・悪因縁の報いも変ってきます。
つまり、台風の進路からそれていけるのです。
だから、功徳を積む行で、悪因縁の報いは変えられる、と思います。
但し、お金や労力を提供すれば梵行なのだ、という考えでは取引信仰に
なりますので、それはダメです。お金や労力を供養する場合でも、心構えが
揃わないと梵行にはならないとは、管長が説いているところです。
- 965 :準シュダオン:2012/02/16(木)
16:51:15
- >さすがは読めるところや引っかかる部分だけをチョイスして意見してきた。
>私はそんな業罪云々を言っているのではない。阿含宗、ゲイカの言うような功徳を積んで
>悪因縁を相殺や減免できるなどの行為は最初から無い、ということであり、
>トンデモ論だということです。
阿含経に、「三結断 得須陀オン 不堕悪趣」と、ありますね。
これは、修行して、功徳を積んで、三結煩悩を無くして、悪因縁を消滅させた
という意味ですよ。釈尊は悪趣という言葉を使い、管長は○○因縁という言葉
を使うだけの違いで、内容は同じですよ。
修行して、功徳を積んで、不堕悪趣=悪因縁解脱、を得たということですね。
つまり、悪因縁を相殺というよりは、消滅させたのです、管長用語では切った、のです。
- 966 :準シュダオン:2012/02/16(木)
17:45:30
- >だから林郁夫などは「高いステージに転生してください」と念じて、地下鉄の中で
>あのサリン袋を突き刺したのだという。
横変死させたら、高いステージに転生なんて無理なのに、郁夫は阿含宗の教えを
忘却してたのですね、それとも初めから覚えていなかったのか。
>麻原であれ林であれ彼らなりの正義感があった。
>それが自分であると仮定したら、オウム犯もまた地獄から救ってやるべきだと
>あなたは考えるのか?
麻原だって誰だとて、同じことです。麻原が地獄で霊障を発して、麻原の子や
親類縁者に災難をもたらしていたとする。こりゃかなわん、と麻原の親族のB
さんが阿含宗に麻原の解脱供養を申し込んだとする。で、成仏供養の修法を
すると、阿含宗の仏様が霊界に手を回して、地獄で霊障を発している麻原霊に
冷水をぶっ掛けて、どっか、地獄界の強制労働所に収容して、Bさんのところへ
霊障が及ばないようにしてくださるわけです。
で、いずれ、麻原霊は現世に、地獄界の因縁を持って転生してくるわけです。
それでも、彼等の正義感の間違いは、我見からきてるわけですから、阿含宗
に入行して、我見を断つ修行を第一歩とすれば、地獄の因縁も切れていくわ
けです。というわけで、地獄から救うのは縁者に対する霊障の部分だけですね。
いずれ、こういう人間も救わなければ、この世は彼等の巻き添えを食って、
ともに滅亡するだけです。地獄の定員を超えさせてはいけません。
- 967 :天照
◆MO30b8Jwoo:2012/02/16(木) 19:32:20
- >>965
違います。意味を勝手に変えないでください。だから皆さんも自分教だというのです。
三結を断じ シュダオンを得れば(に成れば、という意味) 悪趣に堕ちない(落ちない)
悪趣を悪因縁とするから間違うのです。また堕ちないであって、断じているとは言って無い。
また釈尊が積徳をしてそれで断じれると書いている箇所などありません。
勝手に解釈して都合の良い論にすりかえても無駄です。
因縁解脱というのは新興宗教の概念であって仏教のものではありません。
何度言っても聞く耳を持たないので、言っても無駄でしょうが、個人的にそう思うだけで
証明にもならない。
- 968 :名無しさん:2012/02/16(木)
19:42:56
- >麻原だって誰だとて、同じことです。麻原が地獄で霊障を発して、麻原の子や
>親類縁者に災難をもたらしていたとする。こりゃかなわん、と麻原の親族のB
>さんが阿含宗に麻原の解脱供養を申し込んだとする。で、成仏供養の修法を
>すると、阿含宗の仏様が霊界に手を回して、地獄で霊障を発している麻原霊に
>冷水をぶっ掛けて、どっか、地獄界の強制労働所に収容して、Bさんのところへ
>霊障が及ばないようにしてくださるわけです。
つなりアゴン宗の解脱供養では霊障的現象を止めるだけで、霊自体は成仏させ
ることはできない、と解釈しているわけですね?準シュダオンさんは。
だとするとゲイカのホウワを全く理解していないことになりますが?
- 969 :準シュダオン:2012/02/16(木)
20:05:43
- 補足しますが、麻原の霊でも救うのか?というユビさんの問に答えるとすれば、
イエス、という回答になります。なぜなら、釈尊の説く輪廻転生、因果応報の
立場に立てば、現世の加害者は前世での被害者であり、現世での被害者は前世
に於いては加害者であった、ということが考えられるからです。
例えば、麻原の十代前の先祖が、無実の罪で、牢番の拷問にあい、獄中死した
とします。おのれ、牢番の子孫に、必ず復讐してやる、と決意して麻原の先祖
は死んだとします。そして、現代、地下鉄サリン事件が起こった。サリンで死
んだ犠牲者は、皆、昔の牢番の子孫だったら、どうしますか?
麻原の十代前の先祖の霊が、麻原を生み出して復讐したことになるのです。
こういうことを公言するのは、被害者の心情を思えば、言えないことですが、
釈尊や管長の教えを解釈すると、そういうことになるのです。
だから、ユビさんのように、現世だけでの出来事で、加害者・被害者と判断
することは出来ないのです。
- 970 :準シュダオン:2012/02/16(木)
20:26:12
- >悪趣を悪因縁とするから間違うのです。また堕ちないであって、
>断じているとは言って無い。
断じたから堕ちないのです。断じたや、堕すなどの言葉の違いを、あれこれ
考えてはダメです。言葉の違いよりも、言葉の内容が重要なのです。
>また釈尊が積徳をしてそれで断じれると書いている箇所などありません。
梵行とは、功徳を積む行なのです。戒律を守り清らかな行いをするのも、梵行な
のです。解脱に役立つ行が、梵行なのです。あなたや、深山さんや、ユビさんは、
そこを間違えて、いたと思われます。
つまり、お金の布施や労力奉仕を、無条件に梵行だと勘違いしていたのです。
それは、無条件に功徳を積むことにはなりません。
>勝手に解釈して都合の良い論にすりかえても無駄です。
勝手な解釈は、批判派が甚だしいのです。
- 971 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/16(木) 22:26:25
- >>961:準シュダオン12/02/16(木) 15:39:24
>ご免ね、今、目にしたレスだから。AKBはどういう意味?
AKBさんのいう
>とおり、脳梗塞になった時点では、管長は完全なる因縁解脱はしていない。
>だが、脳梗塞が癒えた今は、解脱してるかも知れないよ。
この件についてAKB55さんに代わり解説してあげましょう。
ここには最低3つの批判ネタが詰まっています。
まず一つは、1979年に行われた密教占星術奥伝伝法会についてです。
実はこの伝法で示された秘伝の元ネタが他人の出版した著書をそのまま盗用した
ものとわかっています。
桐山さんはあたかも自分が古い文献や口伝から集めたものを自分の秘伝として
公開するかのごとく、その内容を口頭で話し、受講者はそれを必死に筆記すると
いうものでした。この伝法会はビデオにも記録され、後に受講する者もこれを見て
書き写す形式がとられている。
ところがその桐山さんが単にそのまま読み上げただけのその秘伝とは、1976年に
出版された下記の本そのまんまでした。
『九星日盤鑑定要法 中伝』齋藤擁道、東京運命学研究会、1976年)
3年前に出版された稀少本を誰も知らないだろうと思って無断で盗用したのです。
もちろん信者にはそんなことを知らせずにです。
この伝法は10年後の1989年にも行われました。
この時は今までに教えたことのない秘伝を教えるというふれこみでしたが
10年前に伝法したものと全く同じだったので、話が違うと信者から苦情がきました。
桐山さんは10年前に伝法したことを忘れてしまったのでしょう。だって単に
書いてあることを読み上げて筆写させるだけの伝法ですから。
苦情が出たことに逆切れした桐山さんはこの秘伝の書のコピーを「他見を許さず」
として、2つに分けて受講者に配った。
それを見ると上記の斉藤氏の本そのものであることがわかりました。
ただし表紙とかは示さず、中身だけです。しかも手書きです。
手書きですからいかにも桐山さんが集めた秘伝を手書きでしたためた資料のようにも
思わせています。しかしてその手書きの書体は桐山さんの筆跡とも明らかに違う。
それはなんと斉藤氏の本の筆跡と全く一致したのです。(斉藤氏の本も手書きだった)
つまり他人の著書をパクリ、瓢窃したのです。
http://souko.digi2.jp/mede01/okuden01.htm
- 972 :Boo:2012/02/16(木)
22:39:14
- んんんんん?
何を言いたいのかわかりませんね。
>>966
名前:準シュダオン 投稿日: 2012/02/16(木) 17:45:30
で
>成仏供養の修法を
>すると、阿含宗の仏様が霊界に手を回して、地獄で霊障を発している麻原霊に
>冷水をぶっ掛けて、どっか、地獄界の強制労働所に収容して、Bさんのところへ
>霊障が及ばないようにしてくださるわけです。
つまり地獄から救うわけではない、と言いながらその舌の根も乾かないうちに
>>969 名前:準シュダオン 投稿日: 2012/02/16(木) 20:05:43
で
>補足しますが、麻原の霊でも救うのか?というユビさんの問に答えるとすれば、
>イエス、という回答になります。なぜなら、釈尊の説く輪廻転生、因果応報の
>立場に立てば、現世の加害者は前世での被害者であり、現世での被害者は前世
>に於いては加害者であった、ということが考えられるからです。
麻原の霊でも救うという・・・
その内容は前世で被害者であった麻原が現世でその恨みを晴らすために加害者となった
かもしれないからであるという。
誰でもいつでも何でも書き込める掲示板だからと言って、いい加減なことを書き込むのは
やめなさい。
- 973 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/16(木) 22:55:13
- >>961:準シュダオン12/02/16(木) 15:39:24
>ご免ね、今、目にしたレスだから。AKBはどういう意味?
AKBさんのいう
>とおり、脳梗塞になった時点では、管長は完全なる因縁解脱はしていない。
>だが、脳梗塞が癒えた今は、解脱してるかも知れないよ。
二つ目の批判ネタは脳障害の因縁についてです。
密教占星術奥伝伝法会なんて言うが、九星が桐山密教占星術の全てであるはずがあるまい。
九星術から〇〇の因縁は導き出せません。
だから九星以上の因縁の星を導き出せる密教占星術超奥伝があるはずなのは
「密教占星術1」を読んでも明らかのはずです。
で、桐山さんは既にアゴン宗を立てる前の観音慈恵会時代から自他の因縁を透視して
信者を指導してきたことになっている。
その観音慈恵会の機関誌である「大白身」に以下のような内容が書かれている。
「自分は脳障害の因縁がないから、頭が痛くなるようなことはないが、胃癌の因縁
を持っているから胃が痛くなる」
このとおり自分には脳障害の因縁は無いと明記されているのです。
つまり脳障害の因縁が切れた切れてない、昔は切れてなかったがもう切れたかも
しれないなんて論の以前に自分の脳障害の因縁すら透視できていなかった事実を
示したのです。
桐山さんは軽い脳梗塞を起こしたと公言しました。
その通りで死に至らずに済んだのだから軽い脳梗塞です。
入院を繰り返しかなり不自由な思いをし、仕事にも支障をきたしたが。
しかし軽かろうが脳梗塞で倒れたことは脳障害の因縁に他ならない。
桐山さんは因縁解脱途上だなんて言ってません。
悪い因縁は断ち切ったと書いています。1980年代の後半か1990年あたりです。
そんな桐山さんが脳梗塞の発作を発症した1996年の時点では実はまだ切れずにいた
ということになります。今現在などどうでもよい。
切れない以前に脳障害の因縁は自分に無いと書いていた。
昔は無かった因縁が生じたしまったのはどういう悪業の報いなのか?
- 974 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/16(木) 23:12:13
- >>961:準シュダオン12/02/16(木) 15:39:24
>ご免ね、今、目にしたレスだから。AKBはどういう意味?
AKBさんのいう
>とおり、脳梗塞になった時点では、管長は完全なる因縁解脱はしていない。
>だが、脳梗塞が癒えた今は、解脱してるかも知れないよ。
三つ目は脳障害の因縁を表す阿鼻惹星という名称です。
この名称は密教占星術1の「人はどんな因縁を持つか」の欄に一つ一つの因縁に
対して、占星術上の星の名前が添えられてますね。
あたかも秘伝の密教占星術ではそのような名前の星が導き出すことができ、
それがそれぞれ特有の悪因縁であり、悪因縁が占星術によって導き出せるシステムで
あるかのように示したわけです。
ところがこの阿鼻惹星などの星の名前にもネタがあったのです。
それはなんと二十八宿の宿名(奎宿、房宿など)のサンスクリット原語の発音を
そのまま漢字に当てはめて音訳しただけのものであることがわかりました。
それがわかったのは森田龍遷著「密教占星法」という本にそのままそれが書かれてあったのです。
もちろん森田氏は脳障害の因縁の星なんて説きません。
あくまでも二十八宿に相当するサンスクリットネームを添付しただけです。
奎宿や房宿などの宿に脳障害その他の運命を示唆するものはありません。
桐山さんはこの森田氏の本を読んで、どうせこんな古い本なんか誰も読んでない
からと言って、読者を騙すためにこんな余計なことを書いた。
ところがこの密教占星法の森田本の復刻版が出版されてしまったから
このネタがばれてしまったわけです。
- 975 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/16(木) 23:22:04
- >>961:準シュダオン12/02/16(木) 15:39:24
>ご免ね、今、目にしたレスだから。AKBはどういう意味?
AKBさんのいう
>とおり、脳梗塞になった時点では、管長は完全なる因縁解脱はしていない。
>だが、脳梗塞が癒えた今は、解脱してるかも知れないよ。
さてAKB55さんはこの三つの欺瞞ネタも含めて反論してみろと準シュダオンさんに
迫ったわけです。
これに対する準シュダオンさんの反応は予想がつきます。
それがどうしたの?何か悪いの?自分はそんな話を聞いても、洗い出しも体験しているし
バイブレーションもご霊示も受けているから何とも思わないというものでしょう。
反論にもなっていない感想であり、そんな感想は要らない。
どんな感想を持つのもあなたの自由だ。
だってあなた一人がそう思ったところで他の人もそれで納得したことにはならない
のだから。
Booさんの息子さんに脳障害でもあったのかと質問したことについても、何の悪いことが
あるのか?と反省不要の態度を示した。
それならばその件はもうこれ以上非難する気もありません。
ただ信者含めたギャラリーの皆さん各位の評価におまかせすればよいだけだから。
- 976 :akb55:2012/02/16(木)
23:26:03
- ユビさん詳しい説明を感謝いたします。
- 977 :akb55:2012/02/16(木)
23:58:17
- >961準シュダオン
ご免ね、今、目にしたレスだから、AKBはどういう意味?
なぁ〜んだ準さん、屁理屈言いの因業じじいかと思っていたけど(準さんご免ね)
ちゃんと謝れるんだ。私も925のユビさんと同じ意見です。売り言葉に買い言葉
ということもあるかと思いますが、そこの所は大人として、お子さんに対しては
謝罪と訂正を私の方からもお願い致したいです。
AKBはどういう意味?
AKB48という女性アイドルグループです。妻が病気で入院し、自分がリストラ
された時、彼女たちの歌でがんばることが出来たのです。55はGOGOで自分が
55歳ということではありません。
桐山さんはまだ因縁解脱出来ていないでしょう。私の手元に密教占星術1がありま
す。最初に出した箱入りのやつです。中は同じですが、はしがきに、この術、難解
にして学ぶ者絶え、幻の運命学と呼ばれる。わたくし、浅学をかえりみず、いま、
ここに、六巻に分けてこれを説こうとする。とあり、さらに、ねがわくば、世の人
全巻完成まで数年の時をかしていただきたい。とあります。昭和48年7月20日
初版発行です。40年近く経ちますが3巻以降出ていません。中途挫折の因縁です。
- 978 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/17(金) 00:25:38
- >>962:準シュダオン12/02/16(木) 15:51:48
>と、いうように、何が善で、何が悪か、特に在家では判断が難しいのです。
>>963:準シュダオン12/02/16(木) 16:04:15
>私がね、善悪についてのレスをしてたのはね、ユビさんと天照さんがね、
>苦しむのは罪業を犯したせいなのだから、当然の報いだ、というようなレスを
>してたのよ。
>だから、当然の報いと言っても、善悪の判断は難しいんで、罪業を犯した者は
>苦を受けよ、というのは酷である、という趣旨で、善悪のレスをしてた訳で、
皆さん、準シュダオンさんがどういうゴマカシで煙に巻こうとしているのか既に
おわかりでしょう。
こちらが悪業の報いとしての地獄が厳然としてあることに対して準シュダオンさんが
どうこう言ったところで意味がないと説明するのに対して、準シュダオンさんは善悪の基準もはっきりしないものもあると返すわけです。
私も一般論として善悪の基準が社会的評価で怪しいものもあると思うし、冤罪などに
裁きを受けるのは酷だと思います。
だから私はもし本当に冤罪ならば、その人は現世で不当にも罪も無いのに刑罰を
受けても死後地獄には絶対に堕ちないと思います。
しかし、しかし・・・冤罪だの基準の曖昧なケースって、それって一部のケース
ではありませんか?
つまり多くのケースは犯罪として悪業としてはっきりしていて弁明の余地がない。
だからそういうケースは裁きを受けたり報いを受けて当然でないかと申しているのです。
それを準シュダオンさんは一部の判読困難なケースを出すことにより、あたかも
全ての問題がそれに適合できてしまうかと思わせようとごまかしているのです。
だから冤罪などは報いを受けぬが、明らかにそいつが悪い犯罪はそいつが報いを
受けて当然だと申しておるのです。
この人は全ての犯罪もやり手の弁護士の力で有罪も無罪にしてしまいたいのだろうか?
- 979 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/17(金) 00:50:09
- >>966:準シュダオン12/02/16(木) 17:45:30
>横変死させたら、高いステージに転生なんて無理なのに、郁夫は阿含宗の教えを
>忘却してたのですね、それとも初めから覚えていなかったのか。
>麻原だって誰だとて、同じことです。麻原が地獄で霊障を発して、麻原の子や
>親類縁者に災難をもたらしていたとする。こりゃかなわん、と麻原の親族のB
>さんが阿含宗に麻原の解脱供養を申し込んだとする。で、成仏供養の修法を
>すると、阿含宗の仏様が霊界に手を回して、地獄で霊障を発している麻原霊に
>冷水をぶっ掛けて、どっか、地獄界の強制労働所に収容して、Bさんのところへ
>霊障が及ばないようにしてくださるわけです。
ほらね。結局林であれ麻原であれ、霊障の影響だけ除去できるなんて都合のよい
想像だけ書いて、麻原そのものは地獄で報いを受けて当然としました。
準シュダオンさんは自分が悪業を為したと誰かに解されて地獄に堕ちたことを
考えてみてよと書いたから、じゃあその自分が麻原だったらどうよと示したのです。
自分が仮にでも麻原みたいなことをしてしまう想定はなかなかできないのはわかる。
しかし麻原を出せばこの人ですら地獄に堕ちて報いを受けるのが当然で
本当に救うのは裁きを受け終わってからだとした。
だから地獄から救うなんてことはできないのです。
まずは報いを受けるだけ受けて、その後もう二度と悪業を為さないならば
生まれ変わった時に救えると思いますよ。私は。
しかしそれは地獄から救うのではなく、地獄の刑期を務めた後の話です。
- 980 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/17(金) 01:01:50
- >>969:準シュダオン12/02/16(木) 20:05:43
>補足しますが、麻原の霊でも救うのか?というユビさんの問に答えるとすれば、
>イエス、という回答になります。なぜなら、釈尊の説く輪廻転生、因果応報の
>立場に立てば、現世の加害者は前世での被害者であり、現世での被害者は前世
>に於いては加害者であった、ということが考えられるからです。
つまりあなたは過去被害者であれば次は加害者となる復讐を認めるのですか?
なるほど、たしかにあなたはそうですね。
自分が脳障害、精神病と言われたから、復讐で相手の子どもにも脳障害疑惑の
質問を浴びせてやってもそれが因果応報だと考えている。
目には目を、歯には歯をを支持するわけですね。
- 981 :天照
◆MO30b8Jwoo:2012/02/17(金) 07:06:12
- >>970
いくらいってもわかろうとしない頑迷さ。これで三結断じて云々を説くのだから呆れてしまう。
断じたと誰が言うのか。多くは自己申告でしかないし、また多くの人に判断してもらうとかであろう。
自分では「断じた」といえばそこまでである。しかし、他人が見て「あれで断じているの?」といわれる
ような状態であれば、断じているとはいえないでしょう。
そして全然悪趣に触れませんね。言葉の内容と高説の割には悪趣が因縁解脱の意味ではないと言うのに
論じてこない。さすがは都合が悪いところになると無視したりすりかえてスライドする癖は抜けないようだ。
内容も確かに大事だがそれほど内容が大事なら説かねば成らないのではないか。
梵行の内容も間違っているといくら言っても聞かない。そんなに頑迷で三結が断じれるとお思いか。
桐山式の梵行の意味をいくら説いても無駄です。学者を良くゲイカは馬鹿にするが、その学者よりも
劣っていて内容や意味を間違えているのはゲイカではないか。
厚顔無恥で阿呆丸出しなのは、外部から見てもゲイカだというのは明らかです。恥を知れですね。
そしてゲイカの論を守って「学者の言う梵行とは違うのだよ」という阿含信者も同様です。
ただ、本当の意味を知らないでいるうちは仕方ない。知ったなら「間違っていました」と改めてしかり。
そして釈尊の説かれた「梵行」というものを理解し実行することが本当の内容を知った者の態度です。
貴方の態度は間違いを直すわけでもなく、尚且つ人を小バカにして満悦することがステータスのようだ。
こういうのを社会人としての常識が無いというのです。
勝手な解釈をしているのはどっちかは掲示板の読者はわかっています。判らないのは貴方の方です。
- 982 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/17(金) 08:28:41
- >>966:準シュダオン12/02/16(木) 17:45:30
>麻原だって誰だとて、同じことです。麻原が地獄で霊障を発して、麻原の子や
>親類縁者に災難をもたらしていたとする。こりゃかなわん、と麻原の親族のB
>さんが阿含宗に麻原の解脱供養を申し込んだとする。で、成仏供養の修法を
>すると、阿含宗の仏様が霊界に手を回して、地獄で霊障を発している麻原霊に
>冷水をぶっ掛けて、どっか、地獄界の強制労働所に収容して、Bさんのところへ
>霊障が及ばないようにしてくださるわけです。
もちろんこんなことは桐山さんも説いておらず、準シュダオン教の勝手な創作に
過ぎません。
亡者がどこにいようとその怨念や苦しみの念は亡者本人が意識して狙いなど
つけなくても、縁者がその悪影響を受けてしまうことになっているのが桐山霊障です。
だから古いCMのように「臭い匂いは元から断たなきゃダメ」というのが
桐山霊障解脱です。
亡者霊が昇天して一時安息の地に行けるから子孫縁者も影響を受けないという原理です。
その後人間界にまた転生して来る。
桐山霊障というのも桐山さんの創作ですから、こういう亡者自体が地獄に堕ちるべき
加害者であった時のことを想定しておらず、矛盾した話になってしまうわけです。
殺人犯でも獄中より救ってしまおうと。
- 983 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/17(金) 08:49:03
- ところで九星の日盤鑑定って、今年の5月の14日間にわたる太平洋クルージング
の中で、またその講義を行うとのことです。
それによると、今までに出したことがない、誰かにより出版などされたことのない
日盤鑑定の秘伝を教えるとのこと。
つまりまた同じネタの伝法を行う可能性があります。
1979年と1989年に使ったネタであることをまたしても桐山さんが忘れているわけです。
なぜ忘れるかと言うと、ただ単に他人の本をそのまま読み上げるという作業
だったので、桐山節にくだかれてないだけ彼の記憶にも残らないのです。
ただ今回の洋上伝法はさすがに職員が事前に気が付くはずですが。
1989年の伝法は伝法当日まで元ネタの本は桐山さんの手元に一冊だけあって
読み上げるだけだったから、(コピーをとったのは苦情が出た後である)
まさか職員も10年前と同じネタとは気が付かなかったが、今回は事前に準備資料の
確認管理の段階で気が付くはずなんですが。
- 984 :準シュダオン:2012/02/17(金)
09:07:34
- >亡者霊が昇天して一時安息の地に行けるから子孫縁者も影響を受けないという原理です。
>その後人間界にまた転生して来る。
>桐山霊障というのも桐山さんの創作ですから、こういう亡者自体が地獄に堕ちるべき
>加害者であった時のことを想定しておらず、矛盾した話になってしまうわけです。
>殺人犯でも獄中より救ってしまおうと。
殺人犯でも救わねばいけないのです。釈迦がアングリマーラを救ったように。
何度も言うが、加害者というのは、その前は被害者だったのです、その復讐が
加害になるわけです。釈尊の因果応報を突き詰めて考えれば、そういう結論に
なります。麻原は特殊なケースかというと、そうではありません。
中東では聖戦と称して、麻原みたいな指導者が毎日テロ・人殺しをしています。
本人は正しいと信じているのだから、どうしようもありません。
だからといって、こういう人たちは地獄で苦しんでいろ、とは言えません。
被害者の心情を考えれば、地獄に落ちた加害者を救うのは見当違いにも思われ
ましょうが、そうではない。地獄に落ちた加害者も社会の一員なので、これを
救うことは社会を救うことになるでしょう。アングリマーラが人殺しを止めたように。
- 985 :Boo:2012/02/17(金)
09:12:36
- は?「太平洋クルージング?」
桐山センセイとうとうご乱心でしょうか?
最早「修行」などと呼べるものですらないんじゃないでしょうか?
死ぬ前に信者との親睦をはかって地獄行きを免れようとしているんですかね。
準シュダオンさんはもちろん参加しないでしょうね。
- 986 :準シュダオン:2012/02/17(金)
09:16:30
- >ところがこの阿鼻惹星などの星の名前にもネタがあったのです。
>それはなんと二十八宿の宿名(奎宿、房宿など)のサンスクリット原語の発音を
>そのまま漢字に当てはめて音訳しただけのものであることがわかりました。
>それがわかったのは森田龍遷著「密教占星法」という本にそのままそれが書かれてあったのです。
>もちろん森田氏は脳障害の因縁の星なんて説きません。
>あくまでも二十八宿に相当するサンスクリットネームを添付しただけです。
>奎宿や房宿などの宿に脳障害その他の運命を示唆するものはありません。
>桐山さんはこの森田氏の本を読んで、どうせこんな古い本なんか誰も読んでない
>からと言って、読者を騙すためにこんな余計なことを書いた。
そういうネタ元なんて、どうでもいいでしょう。余計なことを書いたのではなくて、
管長はアウフヘーベンが得意なのです、何事もね。占い本もそうだと思えば良い。
改良して出したと思えば、どうということもない。森田氏側はどう考えてるのかな?
白い恋人と、面白い恋人の問題みたいに騒いでるんかね?
- 987 :準シュダオン:2012/02/17(金)
09:36:14
- >いくらいってもわかろうとしない頑迷さ。これで三結断じて云々を説くのだから呆れてしまう。
私もあなたを同じように、あなたを頑迷な人だと思っているのです。
>断じたと誰が言うのか。多くは自己申告でしかないし、また多くの人に判断してもらうとかであろう。
それは自己申告ですよ。お腹が痛いとか、痛いのが治ったとか、自己申告しかないでしょう。
>自分では「断じた」といえばそこまでである。しかし、他人が見て「あれで断じているの?」といわれる
>ような状態であれば、断じているとはいえないでしょう。
他人がどう思おうと、本人が言うのだから、それでよいのです。
他人の言うことは大方無責任なものです。
>そして全然悪趣に触れませんね。言葉の内容と高説の割には悪趣が因縁解脱の意味ではないと言うのに
>論じてこない。さすがは都合が悪いところになると無視したりすりかえてスライドする癖は抜けないようだ。
都合が悪いのではなくて、論じない時は、私がそのレスを読んでいないのです。
これからもそれは同じです。だいたい、私は1日に数件のレスしか読まないですから。
「不堕悪趣」とは「悪趣の因縁解脱」と同じ意味です。
悪趣の因縁を消滅させたから、尽きた、解脱、断じた等、用語は何でも同じことです。
不堕悪趣=悪趣の因縁解脱、です。
そして、何で悪趣かというと、「諸々の苦」を受けるから悪趣と呼ぶのです。
悪趣=諸々の苦を受けること、で、諸々の苦=○○の因縁、なのです
- 988 :Boo:2012/02/17(金)
09:52:29
- しかし・・・よくもまあ、図々しいというか。
>他人がどう思おうと、本人が言うのだから、それでよいのです。
>他人の言うことは大方無責任なものです。
このスレッドでおそらく一番無責任なことを言うのは準シュダオンさんその人である
ことは、このスレッドを読んでいる方おそらくすべての一致した感想でしょう。
その無責任男が、「おれは煩悩(我見)が切れているんだ。本人が言うんだから確かだ」
という。
このスレで一番頑固頑迷で我見の強い無責任男が言うんだから、笑っちゃうよね。
- 989 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/17(金) 11:30:50
- >誰が釈尊が裁いたと書いたの?
桐山さんは、滅罪生善を説き、信者さんに
そのための功徳を積ませています。
オシャカに功徳というワイロを積ませて、
罪一等を減じてもらえると教えています。
それを信じているのは、信者さんです。
運命がそれで好転すると信じ込まされている。
それは、シャカのジョウブツホーで因縁を切り、
罪を消滅して成仏できる徳に変えられるというから、
オシャカにその裁断を委ねていることになる。
シャカにジョウブツリキという天秤を持たせて、
積んだ功徳というワイロのパワーで罪が消えると考える。
助かるも助からぬも、シャカの天秤への功徳の量しだい。
こうのように信じる信者さんは、オシャカに裁きを預けている。
因縁切りというオシャカのジョウブツリキにすがっているなら、
オシャカの裁断する力を認め、信じているのです。
だから世迷言から逃れられない。
- 990 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/17(金) 11:34:09
- >だから、当然の報いと言っても、善悪の判断は難しいんで、罪業を犯した者は
苦を受けよ、というのは酷である、という趣旨で、善悪のレスをしてた訳で、
釈尊が裁くこと、とは次元が違う話ですよ。
アングリマーラの例を考えれば分かります。
釈尊は、彼を捕まえに来た王達に清浄を得た修行者に
対する態度をたずねた。
王は、そのような修行者ならば恭敬すべきですと答え、
釈尊は、アングリマーラがその修行者だと教えます。
その後の王達の態度が、世迷言の議論への回答です。
それで気づけなければ、堕胎経をよく読むことです。
この経で説かれているのは、好んで戦で人を殺した罪や、
堕胎した罪だけではなく、牛や羊の屠殺者とその弟子や、
猟師と漁師などの罪を釈尊は幾重に説いている。
卜占で人々をだまして財物を得たその罪で地獄におちて、
無量の苦を受け余罪に苦しんでいる者や、他淫してすなわち
不倫した者が、地獄で無量の苦を受けさらに余罪で苦しむ。
桐山さんは、他人から盗んだ占法で金を取りさらに今度も
船上伝法をおこなう懲りない人です。
不倫騒動を起こしても一切を反省しようとしないが、
釈尊の教えでは、地獄で無量の苦を受けてまだ足りないことになる。
- 991 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/17(金) 12:03:09
- >だから、当然の報いと言っても、善悪の判断は難しいんで、罪業を犯した者は
苦を受けよ、というのは酷である、という趣旨で、善悪のレスをしてた訳で、
釈尊が裁くこと、とは次元が違う話ですよ。
批判が譬えに出す釈尊と、桐山さんのオシャカはまるで違う。
桐山さんのオシャカは、因縁解脱を説いたいうのだから、
漏尽解脱を説いた釈尊とはあきらかに違います。
現世だけでなく、過去世でも為した悪のカルマを切れるパワーです。
桐山さんのジョウブツリキは、いわばオシャカから授かったものです。
私は四念処と七覚支法を主に修業して、成仏力を身につけたわけですが、
(阿含経講義中巻415頁)
−成仏法とは成仏力を生み出す法−(中巻416頁)
成仏法とはパワーを生み出す方法です。成仏力というパワーを
生み出す技法です。自分を成仏させ、他人を成仏させるパワー。
それが成仏力であり、それを生じさせるのが成仏法です。
この桐山さんの解釈こそ、オシャカのジョウブツパワーを信じ、
ジョウブツ(カルマ解脱)させるというのですから、委ねている。
信者が迷って「善悪の判断は難しいんで」などと言うのは、
桐山さんへの不遜不敬です。
この世で罪業を犯した者は、ひたすらオシャカを飾ったアゴン宗への
功徳というワイロを積んだ量如何で、その罪過は酌量されるのです。
批判の譬える釈尊は、そんなご都合など説いていないと述べている。
- 992 :ラシン
◆xvojmuQ90o:2012/02/17(金) 12:26:26
- >「不堕悪趣」とは「悪趣の因縁解脱」と同じ意味です。
悪趣の因縁を消滅させたから、尽きた、解脱、断じた等、用語は何でも同じことです。
桐山さんがこれを述べていたのか記憶にすらない。
桐山さんの引用文がないなら、桐山説ではない。
不堕悪趣とは、悪趣に堕ちずという意味です。
悪趣に堕ちないから、それは解脱したとはなりません。
預流は悪趣に堕ちないが、解脱したわけではない。
簡単な理屈です。
これが桐山さんの説なら、さらなる噴飯ものとなる。
- 993 :深山:2012/02/17(金)
12:34:03
- >>921 :準シュダオン:2012/02/14(火) 16:34:20
>深山さんのレス量、そう思いませんか?レス量も大まかでもいいから、相手に合わ
>せるべきだと、私は思いますけどね、強要はしませんけど。
私があなたに合わせる??!!
あなたって、本当に自己中心的で、自分のことしかないのですね。
いったいあなたはナニサマなのだ?
逆に聞くが、あなたは私に合わせたことがありますか。
ありませんよね。
合わせるどころか、私が書いていないことまで捏造している。
準シュダオンさんが私に合わせないのに、なんで私があなたに合わせるのですか。
準シュダオンさんも暇だから今は大量のレスをつけている。
仕事をしているなんて言っても、自宅でできる仕事か、
一週間に一度行けばいいような仕事ですよね。
でなければ、あなたが今年になってから、朝から晩まで時間を問わず、
しかも量が何倍にも増えたことの説明がつかない。
あなたの今の状態を、小人閑居して不善を為す、と言います。
簡単に言えば、老害です。
- 994 :深山:2012/02/17(金)
12:40:18
- >>921 :準シュダオン:2012/02/14(火) 16:34:20
>自分だけ多く話そうとするのは、自己中心の我見
>でしょ。
あなたの脳では、ついに文章と会話の区別もつかなくなったようだ。
まるで私が相手の発言をさえぎって、自分ばかりが一方的に
しゃべっているかのような表現です。
ここではそんなことしたくてもできないのです。
書く量は各人が自由に決められる。
私の文章量は多いが、普通の知性があれば読めない量ではない。
ましてや、準シュダオンさんみたいに相手の反論を無視して、
同じ主張を何度も繰り返すのと違い、私は常に根拠を示している。
文章が多いから、あなたは読まないと言っているだから、
読まなければいい。
私もあなたが読んでいることを前提としていない。
「たまたま目に入った」と称してレスをつけなければいい。
たまたま目に入れるのはやめてください。
あなたは私の文章は読んでいないというから、
あなたに読んでほしいことを短く準シュダオンさんに書きます。
- 995 :深山:2012/02/17(金)
12:45:55
- >>921 :準シュダオン:2012/02/14(火) 16:34:20
準シュダオンさんへ
「私(深山)の文章を読まなくてもよい。
しかし、全体を読まないなら、レスをつけるな」
これがあなたへのメッセージで、たった2行なら読めるでしょう。
1行しか読めないというなら、
「全体を読まないなら、レスをつけるな」
これが私のあなたへの返事です。
次にそのことについて説明しましょう。
もちろん、ここから先はあなたは読んでいない。
私は準シュダオンさん個人にレスをつけるのはだいぶん前にやめているのです。
あなたみたいに脳が老化して理解力と記憶力が減った分を
慢心で補っているような人には何を説明しても無駄です。
事実、「預流向≠聖者」説も、批判側の指摘を読んでも
あなたはまったく理解できない。
批判を理解して反論しているのではなく、理解できないから、読み捨てて、
自説をひたすら繰り返す。
これは老人脳の持ち主に広く見られる現象で、「治らない」。
私は準シュダオンさんへのレスの形を使い、読んでいる信者さんたちに説明しているのです。
漫才が相方に話しているのではなく、会場の客に話しているのと同じです。
だから、あなたに合わせることはない。
あなたはどうにもならない人で、このまま一生か終わり、輪廻して、
また同じような宗教詐欺に加担するような人生を送るのでしょう。
自分で気がつくまで何度でも同じ間違いを繰り返す輪廻が続く。
だから、あなたは私に批判ネタを振ってくれる道具にすぎない。
- 996 :深山:2012/02/17(金)
12:53:21
- >>891 :準シュダオン:2012/02/13(月) 16:15:38
>こういう個人情報に近いことを明かすのは、今や危険に成りつつあるから明か
>せないね。ただし、管長の秘密九字は力強くて、まだまだお元気ですね。
>映像で観たか、じかに観たかは明かせない。
信者の皆さん、ごらんください。
あれだけ偉そうに護摩木や柴燈護摩のお説教をした準シュダオンさんは
星まつりなんか行っていない。
道場にも行かず、テレビで見ただけでしょう。
この人、暇なんだから、何日も前から手伝いに行けたはずです。
星まつりの会場の後始末だって大変な作業です。
だが、もちろん、そんな大変なボン行なんてしない。
それでいて、ボン行の素晴らしさをお説教する。
11日は自宅に居て、いくらでも書き込めたのに
星まつりに行っていないと批判されるのを恐れて、我慢した(笑)。
こういうことが他人にはわからないと思っているのです。
いかにも口先だけの準シュダオンさんらしい。
護摩木本数ももちろん出さないし、出せないような本数なのです。
推測どおり、頭を叩こうにも30本もないのです。
ろくな修行もボン行もしないのに、信者のために書いているのだそうだ。
- 997 :深山:2012/02/17(金)
12:57:03
- >>907 :準シュダオン:2012/02/14(火) 09:10:45
>今でさえ、かなり身元を絞られるというか、危険な気配を感じることがある。
>で、具体的な例は出せないね。
身元が絞られる可能性があるとは、アゴン宗から調べられるという意味ですね。
それは前からあなたのために警告して来た。
桐山さんは信者が自分の知らない所で勝手な話をするのをものすごく嫌う。
だから、昔は、愚かにもネットの書き込みを禁止した。
桐山さんはネットが何かを理解していないから、禁止しても
無意味なことがわからないのです。
ネットで勝手な書き込みをする信者には桐山さんも宗務局も不愉快な思いをしている。
彼らに不愉快さを与えているトップが準シュダオンさんです。
なにせあなたは十年近くもここに書き込んでいる。
しかも、まともなアゴン宗の擁護だけを書けばいいのに、
大半が勝手な解釈を混ぜた準シュダオン教です。
他人の文章は読まない、根拠を示されても理解できない、
自分の書いたことすら記憶しない。
下劣な罵りだけは一人前。
これがブッダの智慧を目指すアゴン宗の信者だというから、
逆宣伝も良いところです。
宗務局は間違いなく、あなたを特定しようとしている。
護摩木の本数を出しても特定などできないが、
あなたはここ一週間の間すらも個人情報を提供してくれた。
気がついていないでしょう?
宗務局は喜んでいるでしょうね。
処罰についてはアゴン宗は血も涙もない。
一罰百戒というのが桐山さんやW田さんのやり方です。
- 998 :ユビキタス
◆18iA.mwnDU:2012/02/17(金) 12:59:24
- >>984:準シュダオン12/02/17(金) 09:07:34
>殺人犯でも救わねばいけないのです。釈迦がアングリマーラを救ったように。
>何度も言うが、加害者というのは、その前は被害者だったのです、その復讐が
>加害になるわけです。釈尊の因果応報を突き詰めて考えれば、そういう結論に
>なります。麻原は特殊なケースかというと、そうではありません。
>だからといって、こういう人たちは地獄で苦しんでいろ、とは言えません。
>被害者の心情を考えれば、地獄に落ちた加害者を救うのは見当違いにも思われ
>ましょうが、そうではない。地獄に落ちた加害者も社会の一員なので、これを
>救うことは社会を救うことになるでしょう。アングリマーラが人殺しを止めたように。
アングリマーラを救うとは死んで地獄に堕ちる前、生きている間に改心させ
殺意、害意をなくさせたのです。
ただこれまで大量殺害してきた実績があるからその悪業は消えません。
ですからアングリマーラが輪廻を止めていなければやはり地獄行きになるはずです。
過去は変えられない。覆水盆に返らずです。
じゃあどうすればよいかと言うと、過去はどうにもならないのだから
今これから残りの人生を心も行いも改めるしかない。
その為には死んで地獄に堕ちてからでは遅いのです。
だから地獄に堕ちる前に改心懺悔させることが重要です。
地獄に堕ちてからではどうしょうもない。
次のチャンスは刑期を終えてまた人間に再生した時に、心と行いを改めさせるしかないのです。
- 999 :深山:2012/02/17(金)
13:04:19
- >>913 :準シュダオン:2012/02/14(火) 10:20:14
>ほらね、BOOくんは、こんなレス↑連発してる。こういう明らかに人格が劣ってる
>若者だけに、私は若造というのです。BOOくんは脳障害の子どもでも居るんかい?
>やけに脳障害に拘るじゃないか。
>>914 :準シュダオン:2012/02/14(火) 10:21:55
>ほらね、BOOくんは、こんなレス↑連発してる。こういう明らかに人格が劣ってる
>若者だけに、私は若造というのです。BOOくんは脳障害の子どもでも居るんかい?
>それを悩んで入行したとか。やけに脳障害に拘るじゃないか。
やはり準シュダオンさんて最低ですね。
時間を見ると、間違えて二重投稿したのではなく、わざと
同じような文章を二度書き込んでいる。
いくら感情的になっても、ここまで書くかというようなことを書いている。
批判側から注意され、どう反応するのかと見ていたが、
予想通り、準シュダオンさんは謝罪どころ、撤回もしない。
こんな奴が偉そうに仏教を語っても、何の説得力もない。
ちなみに、少し準シュダオンさんのために擁護すると、
彼が生まれた世代は障害者に対して露骨な差別をし、小馬鹿にした。
自分で学んでそのような態度を変えるべきなのだが、
自惚れしかない準シュダオンさんには無理です。
そういう彼の本音がこういう時にボロッと出てしまう。
元々、差別思想を持ち、あざ笑うような習慣すらあったから、
自分が何を批判され、指摘されているのか理解できないのです。
いずれにしろ、準シュダオンさんは、本当に最低です。
- 1000 :深山:2012/02/17(金)
13:08:29
- >>913 :準シュダオン:2012/02/14(火) 10:20:14
>BOOくんは脳障害の子どもでも居るんかい?
>>914
:準シュダオン:2012/02/14(火) 10:21:55
>BOOくんは脳障害の子どもでも居るんかい?
信者の皆さん、見てごらんなさい。
長年、アゴン宗の信仰をしているとこんなに人間性が壊れてしまう。
だが、気をつけなければならないのは、準シュダオンさんだけではない。
信者さんたちも死者に向かって、霊障のホトケなどと罵っている。
今回、星まつりに来た乙武さんに向かって、
「あなたは前世の業で肉体障害の因縁を持っている」と
面と向かって言えますか。
陰でこそこそささやいているだけですよね。
それって、準シュダオンさんと同じくらいに卑劣で卑怯な態度です。
悪因縁があるとか、死者たちが不成仏霊になっているなど、
根拠のないことで他人を卑しめるような行為はやめるべきです。
■掲示板に戻る■ ■過去ログ倉庫一覧■