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七科三十七道品法について(37)

1 :大日如来 ◆ eu6hMsrO3Q:2008/10/29(水) 21:00:25 ID:Oa/5YuxE 
よく話題に出る「道品法」ですが、その中身がA宗と批判派の方の検証とでは「内容が違う」というような状態です。

私が新参者で不勉強なせいでよくその違いも判らないことから、勉強するために立ててみました。皆様のご意見お待ちしております。

2 :大日如来 ◆ eu6hMsrO3Q:2008/10/29(水) 21:21:43 ID:Oa/5YuxE 
私にはA宗関連のものしかないので、引用は管長著書から。
(阿含仏教 超奇蹟の秘密 より)

ではまず、「四念住」(四念処観)から。

身念住 この身は不浄なり
受念住 受は苦なり
心念住 心は無常なり
法念住 法は無我なり

と観念し瞑想する、とあります。(引用著書250〜251P 文章整理してカキコ)

この身念住の 「この身は不浄なり」は、岩波文庫 ブッダのことば(スッタニパータ) 中村 元訳の
第一章 蛇の章 の11 勝利 のところにある文節でよろしいのでしょうか?

個人的に色々観想?してみましたが、文庫本のように詳しくできませんでしたが、生きていれば
如何様な不浄物を排出せねばならないと思っていましたし、精神(心)も諸々の不浄を抱えている、
というのを認識したことがあります。

皆様の意見をお待ちしております。

3 :孫 青柿(あおがき):2008/10/29(水) 21:42:35 ID:BIIV0NZY 
自分もそんなものかと思ってましたが、全然違うと知ったときビックリですよ。
ゲイカが勝手に言ってるだけじゃなく検索したら同じように出てくるのだから大乗仏教のミスなのでしょうか?
2chでも大乗経典に七科三十七道品が記載されてることが指摘されているがやり方まではきちんと伝わらないからデタラメがまかりとおったんでしょうか?

4 :大日如来 ◆ eu6hMsrO3Q:2008/10/29(水) 22:01:27 ID:Oa/5YuxE 
青柿さん、ありがとうございます。

おお、期待ですね。全然違うというのは興味がありますw

検索しても管長の述べているように出る(と、推察しました)というのはなんだかこそばゆい。
それなら多くの人がA宗に入ってなくても間違いの解釈はするでしょう、と思ったりw

5 :名無しさん@chs:2008/10/30(木) 00:02:50 ID:kl2vwqEk 
一乗道である四念住(16種の呼吸法)をまとめました。
『アーナーパーナ・サティ・スッタ』を読むと、次のような段階で修行が深まって成功すると書かれています:
アーナーパーナ・サティ→四念住→七覚支→明智と解脱

このような修行体系が示されていると、アーナーパーナ・サティを修行したあとに、
さらにあれこれ修行しなければいけないと思うでしょうが、
『アーナーパーナ・サティ・スッタ』の
16 の息の観察行の15 & 16 番で示されている、苦の止滅 と 出離は、実際には明智・解脱・涅槃にほかなりませんから、一乗道はアーナーパーナ・サティ(16 の息の観察行=四念住)において完結しているのです。


身念住@〜C
@長い入息をしている時には、“長い入息をしている”と覚知し、長い出息をしている時には、“長い出息をしている”と覚知する。
A短い入息をしている時には、“短い入息をしている”と覚知し、短い出息をしている時には、“短い出息をしている”と覚知する。
B“入息しつつ、自分の体の活動状態の全てに気づいている。出息しつつ、自分の体の活動状態の全てに気づいている。
C“入息しつつ、私の全身の活動様態の身行はここちよく静まり、出息しつつ(左記と同様)

受念住D〜G
D“入息しつつ、[正身端坐して全身がここちよく静まるのを見い出して]喜(ピーティ pIti)を感受し、出息しつつ(左記と同様)
E“入息しつつ、[喜を味わい続ける]楽(スか sukha)を感受し、出息しつつ(左記と同様)
F“入息しつつ、[五感の働きとそれにまつわる感情的活動様態である]心行に気づいており、出息しつつ(左記と同様)
G“入息しつつ、私の心行は[覚触されて=気づき・認め受け容れ・執着なく手放されて]平静になり、出息しつつ(左記と同様)

心念住H〜K
H“入息しつつ、心(チッタ citta)[の思考活動様態]に気づいており、出息しつつ(左記と同様)
I“入息しつつ、私の全心はここちよく静まり、出息しつつ(左記と同様)
J“入息しつつ、心[の感情思考の波動のここちよい静まり]を定め続け、出息しつつ(左記と同様)
K“入息しつつ、[このように覚触をして]自分の心を解放し、出息しつつ(左記と同様)

法念住L〜O
13“入息しつつ、全ての現象の無常を観じ、出息しつつ(左記と同様)
14“入息しつつ、全ての現象、万法に対する欲望の離貪を観じ、出息しつつ(左記と同様)
15“入息しつつ、万法に対する欲望の離貪による苦の止滅を観照し、出息しつつ(左記と同様)
16“入息しつつ、苦の止滅から来る全的自己の明け渡しである出離を観照し、出息しつつ(左記と同様)

6 :孫 青柿(あおがき):2008/10/30(木) 00:24:48 ID:kl2vwqEk 
信者だったころ七誌さんや樹意さんから何故"釈迦の成仏法"安那般那念経アーナパーナサティをゲイカのご著書じゃなく原典で読まないのか、
と言われたことがありました。そして今はもう消えたサイトを貼ってくれたことがありました。

安那般那念経アーナパーナサティと念処経サティパッターナスッタを左右に並べて解説しており、
要するに安那般那と四念処とは同じ技法だということなのです。そしてそれは気付きの瞑想ヴィッパサナーと呼ばれる最近話題になっている技法です。
私は四念処は何やら瞑想のポーズをとってフジョー!、クー!、ムジョー!、ムガー!と念ずることだと思っていた(七誌さんの表現だが)けど、
全く違うのにはビックリしました。おそらく私だけじゃなく四念処という単語を知ってる人は皆そう思っていたことでしょう。

ではどこから>>2のような不浄のイメージングが出たかというとこれも念処経でした。
そのサイトでは左右に並べ同じ技法が書かれてましたが、念処経のほうにはヴィッパサナーの他に助行というべきサマタ瞑想も説かれていました。
それが不浄の瞑想でした。

7 :名無しさん@chs:2008/10/30(木) 00:40:45 ID:kl2vwqEk 
「阿含宗という宗教118」

606 :神も仏も名無しさん :2007/04/23(月) 13:19:20 ID:vNfTX7w8
四念処@頭の中で空想すること

「身体・感受・心・そしてすべて事物(法)は不浄である、また苦である、
無常である、無我であるというように観念して瞑想していくのである。」

これが桐山さんが体得したという四念処の説明です。
「観念して瞑想していく」のだそうだ。
桐山さんは座って、瞑想のポーズを取り、頭の中で、
「身体・感受・心・事物(法)はクー、フジョウ、ムジョー、ムガであーる」
と思いめぐらし、悟ったつもりだった。
これを四念処だと思いこんだ。
これでは、桐山さんがたとえた、英語マンダラの前で、
オン・イングリッシュ・ソワカと唱えて、英語を勉強したつもりの生徒のようなものです。
座っている時は四念処や英語の達人になるが、現実世界では通用しない。
だから、桐山さんはオバサン一人に激怒した。
四念処を、クー、フジョー、ムジョー、ムガーと空想する程度の内容だと思いこんだから、
「・・四念柱、四正断、七覚支、八正道は、『教え』である。」(『仏陀の法』128頁)
などと、「教え」だと唾棄した。
ちゃんと説明がつく。

607 :神も仏も名無しさん :2007/04/23(月) 13:28:21 ID:vNfTX7w8
四念処@知性への疑問

信者さんたちは、桐山さんの知性に疑問を持ちませんか。
仏陀の智慧を持っているはずの桐山さんが四念処の中身すら理解していないのです。
>>599などに書かれた四念処の方法を、桐山さんは
クー、フジョー、ムジョー、ムガーと空想することだと思いこんだ。
普通の知性があるなら、こんな解釈はしない。
あまりの事に彼の知性に疑いを持ちませんか。
仏陀の智慧どころか、普通の知性すらないのではないか。
信者時代、本や法話で、桐山さんの知性に疑問を持ったことがいくつもあった。
経典などの解釈で、まるで仏教のド素人が空想で物を言っているような
部分があちこちにあったからです。
解脱の定義、四諦や四念処、安那般那の解釈など、首を傾げた。
まるで国語力のない子供が文章を斜め読みして、
稚拙な解釈をしているかのような印象です。
しかし、桐山ゲイカは万巻の書を読み、仏陀の智慧を持ち、
何よりも理屈だけでなく、実践と体得から解説しているのだと
信じていたから、自分の錯覚だろうと思った。
学者や素人の自分を越えた、何か高度な知識や判断があるのだろうと思った。
今の信者さんたちと同じだった。

8 :孫 青柿(あおがき):2008/10/30(木) 00:48:44 ID:kl2vwqEk 
結局ゲイカの成仏法とやらは実践なしの色々な書物からひっぱってきた知識にすぎない、
だから一般の仏教書物を超えるものではないと分りがっかりしました。
私も樹意さん七誌さんに教えてもらう以前に立ち読みでヴィパサナーに目を通したことはありましたが、
四念処=不浄の瞑想の瞑想と思い込んでたから理解不能でした。
四念処は不浄の瞑想も含むというのが実際のところでは?と考えます

9 :大日如来 ◆ eu6hMsrO3Q:2008/10/30(木) 11:00:39 ID:N1exOOIU 
青柿さん、貴重なレスありがとうございます。

拝見して、「これか・・・」と思いましたね。確かに仰せの通りですと全く違うものです。
私も「身体・感受・心・事物(法)は苦、不浄、無情、無我である」と観想・瞑想といって
もただ、「想う」のみだけで何をどのようにというのが明確でありません。

しかし、青柿さんの示したものであれば一部わからないものについてはできないとしても
その違いは前者(概存物)との違いは歴然として判るし、呼吸まで示してある。

ただ、マスターした人に教わらないと完全?にはできない気がしますが、それでも管長の
教えている(というか、本に項目だけ書いてあるだけ)とは本当に違う。

こういう納得の出るような説明ができてない導師ってあり?と感じました。
本当にありがとうございます。

10 :大日如来 ◆ eu6hMsrO3Q:2008/10/30(木) 11:49:35 ID:I/WmSApI 
次は四正断(四正勤)

断断=今現に起こっている悪を断じて無くする様に励む修行。幾度も断ずることを繰り返す。
律儀断=まだ存在していない善に対してこれを得るように努力する修行。
随後断=今すでに存在している善は、これをますます増大させるようにと努力する修行。
修断=まだ起こっていない悪に対して今後起きないように努力する修行。

とあります。

これは一見文章(項目)を見るとまるで「戒行と梵行」のように見受けられます。
(実際A宗の梵行となると語弊が出ますが、比較のため)

つまり、推測ですが悪に対しては「戒行」的であって、善に対しては「積徳」の行為や
道徳的行為の施行という気がいたします。(滅罪生善のようですね)

そういう観点とすれば別に特別”仏教”(宗教)と謳わなくてもこれらのことは普通の
常識・良識ある人間であれば当たり前のことであるし、行っている人もいる。
すると「成仏法」という崇高なほどのものでは無い気がします。

でも、宗教上必須だから入れたのでしょうか? 色々考えてしまいます。
ご意見よろしくお願いいたします。

11 :孫 青柿(あおがき):2008/10/30(木) 13:10:37 ID:kl2vwqEk 
>>10 四正勤は教えでありじゃあ何が善で何が悪かはっきりしてる場合はいいとして、はっきりしないケースのとき定められた戒律に沿っているかいないかで決めればいいくらいで、
まあ技法じゃないんだから書かれているとおりと思います。
それよりか>>9は成仏法の核なので一番重要で、むしかえしますが・・・

>「身体・感受・心・事物(法)は苦、不浄、無情、無我である」と観想・瞑想といって
もただ、「想う」のみだけで何をどのようにというのが明確でありません。

「不浄観」というのを検索すれば具体的にどんな想像イメージをするか出てきますし、大日さんのお持ちのブッダのことばにも詳しく出てるんでしょう?(私は持ってないけど)
しかしこれは四念処観じゃないのは理解してほしいです。
"何をどのように"具体的な想像の仕方を習ってもそれは四念処観じゃない。四念処観の助行のサマタ瞑想です。

今 足が痛いとかかゆいとかそういうことを感じるのが瞑想なのか?と思うかもしれないが・・とスマ師も本などで読者の気持ちを代弁してますが、
釈尊の瞑想はそういう瞑想なんだとの結論をおっしゃってます。

12 :羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶:2008/10/30(木) 20:50:23 ID:paPH5gss 
>よく話題に出る「道品法」ですが、
その中身が
A宗と批判派の方の検証とでは
「内容が違う」というような状態です。

正道は以下のA/B二つあります。
それをきちんと把握していないからという理由が
批判派の書き込みにおいて何時も目に付きます

A-現世の世俗的な

B-世間世界乗り越えている

13 :大日如来 ◆ eu6hMsrO3Q:2008/10/31(金) 11:33:23 ID:1zvre+jM 
>>11

先日、書店を行脚して「スマ師」の本を拝見しました。
定価¥1000で出されている、ビパシャナーの本でした。

何か簡単だったのはいいのですが、「これでいいの?」と逆に思うほどでしたね。
まだまだ自分も考察・研究せねばならないですが・・・。

スマ師の本は非常に読みやすく、現在お金が無いので一冊しか買っていませんが
将来購入したい本でありますね。

管長も解説の真偽云々は今後のこととしてみても、アーナパーナサティをとりあげて
いるところから、やはり重要なのだと思います。

ただ、その分難しいと思いますので今後も学んでいく所存であります。

14 :大日如来 ◆ eu6hMsrO3Q:2008/11/13(木) 20:39:55 ID:rt76cnfk 
>>11

青柿さん、ありがとうございます。私も同意です。
では、次に参りましょう。

四神足(四如意足とも訳す)

四種類の「神通力」「神変力」を身につける修行法である。

欲神足=物質界において、ムゲ自在の力を持つ
勤神足=業に対して、ムゲ自在の力を持つ
心神足=精神界において、ムゲ自在の力を持つ
観神足=究極の智慧をもって、最高度の禅定に入る力

・・・と、あります。

これは項目から推察しますと、どうも超能力系のような力を持つための修行法に
思われますが、さっぱり判りません。

どなたか解説をよろしくお願いしたく思います。

15 :孫 青柿(あおがき):2008/11/14(金) 01:09:08 ID:36mOKT4M 
2ch 阿含宗という宗教91
の4レス目から七誌さん樹意さんと池田先生が議論していました。4神足の説明の部分を引用してみましょう。


 一、 欲(chandaa):涅槃を達成したいという強力な誓願
 二、 勤(viiriya):涅槃を達成するための強力な努力
 三、 心(citta):涅槃を達成したいという強力な信念。
 四、 観(viimamsaa):涅槃を達成したいという強力な観智

 この場合の欲というのは優れた定を得たいという欲になります。
 勤 は四正勤 心は心定 観は観察 結局これは一乗道である四念処に通じるわけです。 』

『「欲求について、意のままに集中し実践する能力を与える如意足
 精進について、意のままに集中し実践する能力を与える如意足
 思索について、意のままに集中し実践する能力を与える如意足
 また観察について、意のままに集中し実践する能力を与える如意足」 』

なんかヴィパッサナーを行うためのモチベーションにすぎず 4神足法という技法だとはとうてい思えません。
四正勤、サマタ瞑想、ヴィパサナー瞑想は上で見てきましたがそれらを修行するためのやる気を説いてるのだと思います。
戒律、止禅、観禅 つまり修行生活上のルール、止・観の技法 を達成するには熱心にやろうみたいな。

私も何年か前本屋でヴィパサナーの本を見たとき観察という意味も分らなかった。しかしゲイカの"仏陀の法"と随分違ってますから同じ阿含経の中の瞑想なのに何故?と思いました。
こう考えました。 ヴィパサナーというのは四念処観みたいなものだろう。>>7のような。公式に則りイマジネーションをするような。(私も四念処を>>7のようにするものだと当時信じてました)
ゲイカのは4神足法で身体と脳のチャクラを開発するものだから、また別の技法なのだと思いました。

しかしスレッドに参加して批判派の人に説明を受けているうちに4神足法というチャクラ開発もなさそうだし
阿含経で技法としては細部が詳しいマニュアルの安那般那念経は四念処観だったし、その他に4神足法の具体的なマニュアルとしてあるのかな?と思うとなさそうなのです。

これを見たとき、さらにそう思いました。
http://www.nurs.or.jp/~academy/butten/jinsoku5.htm
                         
ある婆羅門が、長老アーナンダに、こう尋ねた。

「友よ、欲を断ち切れる、道は存在するのか。」
「婆羅門よ、欲を断ち切る、その道は存在する。」

「婆羅門よ、欲を断つのに、四つの段がある。
それでは、この四つの段とは、如何なるものか。

第一に、欲求を以って修める、欲如意足である。
第二に、精進を以って修める、勤如意足である。
第三に、集中を以って修める、心如意足である。
第四に、思索を以って修める、観如意足である。」

「友よ、欲を断つために、欲を持とうとする。
これでは、矛盾していると、言えないだろうか。」

「婆羅門よ、遥か彼方の地に行きたい者が、
遥か彼方の地に着いたら、欲求は如何なるか。」
「友よ、行きたい、という、欲は消えるだろう。」

「婆羅門よ、遥か彼方の地に行きたい者が、
遥か彼方の地に着いたら、精進は如何なるか。」
「友よ、行きたい、という、勤は消えるだろう。」

「婆羅門よ、遥か彼方の地に行きたい者が、
遥か彼方の地に着いたら、集中は如何なるか。」
「友よ、行きたい、という、心は消えるだろう。」

「婆羅門よ、遥か彼方の地に行きたい者が、
遥か彼方の地に着いたら、思索は如何なるか。」
「友よ、行きたい、という、観は消えるだろう。」

「婆羅門よ、だからこそ、このように言える。
阿羅漢になる欲は、阿羅漢果を迎えて止滅する。
阿羅漢になる勤は、阿羅漢果を迎えて止滅する。
阿羅漢になる心は、阿羅漢果を迎えて止滅する。
阿羅漢になる観は、阿羅漢果を迎えて止滅する。」

「妙なることだ、友よ、稀なることだ、友よ。
今日から、命が尽きるまで、仏法に帰依し奉る。」

神足相応(イッディパーダ・サンユッタ)

ではここでチャクラに当てはめた解釈を仮にしてみよう。欲=ムラダーラ、スワディスターナ、勤=マニプラ、心=アナハタ、ヴィシュダ、アジナー、観=サハスララ と。

「婆羅門よ、遥か彼方の地に行きたい者が、
 遥か彼方の地に着いたら、欲求,精進,心,観は如何なるか。」

「友よ、行きたい、という、ムラダーラ、スワディスターナは消えるだろう。」
「友よ、行きたい、という、マニプラは消えるだろう。」
「友よ、行きたい、という、アナハタ、ヴィシュダ、アジナーは消えるだろう。」
「友よ、行きたい、という、サハスララは消えるだろう。」

「婆羅門よ、だからこそ、このように言える。阿羅漢になるムラダーラは、阿羅漢果を迎えて・・・あれれっ? なんか変だぞ」

「妙なることだ、友よ、稀なることだ、友よ。
 今日から、命が尽きるまで、仏法に帰依し奉る。」

「おいおい・・^_^;」

16 :大日如来 ◆ eu6hMsrO3Q:2008/11/14(金) 06:47:39 ID:k4gi+INk 
青柿さん、解説ありがとうございます。

ううむ、全然違うなあこれも・・・。管長の説明だけでは想像も付かないものだ・・・。
今起床したばかりで時間が無いので、また後で拝読いたしますね。

本当にありがとうございます。m(_ _)m

17 :大日如来 ◆ eu6hMsrO3Q:2008/11/27(木) 11:48:36 ID:yuu/fOs2 
青柿さん、いつもお世話になっております。貴殿の解説で如何にA宗での「成仏法」と全く違うというのが比較できて
助かります。

しかし、思ったのですが管長の解説は本当に箇条書きというか、不透明ですね。
まあ、確かに難解で高度なものだ、というのやら直に手ほどきが必要だ、などと言っては
誰も成仏法を会得させていないのですから、インチキといわれても仕方ないですね。

尚且つ、こうやって「ゲイカの申すものとは違うでしょう?」というのを把握・比較するには本当にわかります。

_____________________________

では、次に五根・五力を。

五根

信根、精進根、念根、定根、慧根の五つ。
根とは自由にはたらく能力をいう。仏法僧の三宝に対する信と精進・念・禅定(瞑想)
智慧が、ニルヴァーナにむかって高い能力を発揮する修行。

五力

信力、精進力、念力、定力、慧力(または智力)ニルヴァーナに至る高度な五つの力を得る修行。

五根とおなじ徳目であるが、五根が基本的なものであるのにたいし、五力はそう進んでさらに大きな
力を発揮することができるのであり、両者は程度の差と見ることができる。

・・・とあります。

これも過去同様、項目だけなのでさっぱり判りません。
青柿さん、よろしかったら解説をお願いしたく存じますm(_ _)m

18 :孫 青柿(あおがき):2008/11/27(木) 14:06:55 ID:5KjHyQTs 
五根・五力ですか〜? よく分りませんがこれはゲイカの書かれたもので良いのでは?
また項目も四神足に共通するものがありますし、じゃあ具体的にどう修行するのかとなると>>15と同じく戒律、サマタ、ヴィパサナーしかないでしょうし。
ユビキタスさんや他の批判派諸兄はどう思いますか?

さて子孫さんみたいに頑固な信者には伏せていますが(あの経典自体和訳が出てしまってるからチャクラに結びつけるのはデタラメのです)、本屋でよく出てる南伝はマハシセヤドーのメソッドのようですが、
パオセヤドーのメソッドとかはサマタの詳しい解説もあり"ニミッタ"というのも興味深いです。

19 :削除:削除 ID:削除 
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20 :削除:削除 ID:削除 
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21 :名無しさん@chs:2008/11/28(金) 03:33:38 ID:GTWUGsds 
ヴィパッサナー修行のポイント 1   五根 修行の根本となる、信、精進、念、定、智慧の五つの要素が平等に働き合うようにする。 (根とは、能力のこと。)
  ●信  心を澄ませる。信頼。 自分の自由で正しい判断によって何かを信頼したり信じたりすること。
  ●精進 勤め励むこと。
  ●念  明瞭な意識、注意力、自覚。 サティ=気づき。 不放逸=心に維持すること。
  ●定  精神集中力。 雑念に追われた心を一定の対象に集中させ統一させること。
  ●慧  真実を明らかに理解すること。 真実を見抜き疑惑を解く心の作用のこと。
  補足
  ・「信」が強く「智慧」が弱いと、つまらないことも信じて頼りにしてしまう。
  ・「智慧」が弱くて、「信」が浅いと、選択が多くかなり進歩しても満足しなくなる。
  ・「定」が強すぎると、精神状態が落ち込み卑屈の原因になる。
  ・「精進」が強すぎると、安定性がなくなり把握できない。
  ・「念」については、強ければ強いほど良い。

22 :孫 青柿(あおがき):2008/11/28(金) 03:48:02 ID:GTWUGsds 
15で別の道品を技法そのものじゃなく技法をするモチベーションか?と推測しましたが、
今回は技法を行ううえでのポイントかな?と推測しました。
結局、技法としては 戒律(技法の準備段階) サマタ瞑想、ヴィパッサナー瞑想 この3つのようです。
ちなみに7覚支はヴィパッサナー瞑想を行うことによって起きる情報処理能力のようです。
7覚支修行というのがあるんじゃなく四念処によって得られる心の働きを詳しく書いてある

23 :一修行者 ◆ zVT5E9ab8Y:2008/11/29(土) 02:31:43 ID:sMM9Mcs2 
>>19>>20
名無しさん。
求聞持法の成就、おめでとうございます。
求聞持法の成就が、煩悩解脱および、因縁解脱にどのように関係いているか、よろしければ具体的に教えてください。
また、座右宝鑑に願望のリストつくりを載せているところが何故阿含宗に成仏法がある根拠になるのでしょうか。

24 :削除:削除 ID:削除 
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25 :一修行者 ◆ zVT5E9ab8Y:2008/11/30(日) 23:49:25 ID:JvPv92mM 
>>24
名無しさん。返信ありがとうございます。
因縁解脱が宣伝文句なら、阿含宗には否定的な方なのですね。
思考を変えるのに願望リストが有効だけなら、他の潜在意識活用関連書籍にもよく載ってますので、
それでは阿含宗に成仏法のある根拠にはならないと思います。
因縁解脱が宣伝文句なら求聞持法の成就は煩悩解脱にどのように活かされましたか。

26 :削除:削除 ID:削除 
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27 :削除:削除 ID:削除 
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28 :一修行者 ◆ zVT5E9ab8Y:2008/12/02(火) 00:05:03 ID:H/Nyt1lA 
>>26>>27
名無しさん。
4神足法の謎説きや求聞持法の成就など、一般の会員には無理でしょう。
やはり才能なき者は阿含宗では解脱できないと考えますか。
地道な梵行でそのひらめきがあると私は思ってましたが、どうやら一部の人のみのようですね。
どうやら、阿含宗に肯定的の方のようですが、ここは他の板の批判側の人も当然見てます。
そこでお願いです。
今までの名無しさんの書き込み内容は想像でも書けること。
なので批判側の人も驚くような阿含宗の握拳を一部公開していただけませんか。
まあ、それを自分でつかむのが修行だと言われてしまえば、返す言葉はありませんが。

29 :削除:削除 ID:削除 
削除

30 :名無しさん@chs:2008/12/02(火) 07:22:36 ID:CfTl2aDg 
密教超能力の秘密 平河 桐山靖雄著 
380ページ台に、すべての秘密が書かれている。1行目ですね。

31 :一修行者 ◆ zVT5E9ab8Y:2008/12/02(火) 23:58:37 ID:H/Nyt1lA 
>>29>>30
名無しさん。
なるほど参考になりました。
名無しさんは、数年前から他の板に書き込んでいる人ですね。
わからない人が普通で、名無しさんが賢いんですよ。
ところで現在の阿含宗を救おうとは思われないですか。
名無しさんの存在が私には情報として伝わってきませんが。

32 :削除:削除 ID:削除 
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